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なりわいと矜持 [よしなしごと]

カラーセラピストでいらっしゃる小紫さんの、スピリチュアルな世界を大切にするのならと云うエントリを読んだ。
あぁ、なんてまっとうなんだ。以前にスピリチュアリストの阿部敏郎さんのエントリを読んだとき以来の、なんて云うか、ほっとする感じ。

ヒーリングとかセラピーとかヨーガとか音楽療法とか癒しとかロハスとか自然食品とか、あとなぜか整体とかコーチングとかにかかわる職業に就いてるひとは、どうも俗流スピリチュアリズムとかニセ科学とか「波動」に自分の職業のうらづけを求める傾向が強いみたいで、わからないでもないけどそれって結果的に自分の職業をトンデモに貶めてるよなぁ、みたいに感じたりすることが多いのだけれど。
ですが、あなたが存在する現実世界も、大切です
それには
スピリチュアルな目と科学的な目
両方をバランスよく持ち、中道を歩むことが大事かと思います
ちょっと失礼かもしれないけど、ともすれば安易なスピリチュアリズムもどきに近接しがちな仕事についていて、こう云うことを云えるひとは(ネットで見るかぎり)残念ながら少ない。もちろんそこには営業面でのスタンス、と云うのもあるのだろうけれど、矜持を持って仕事をする、と云うのはこう云うことだろうと思う。

スピリチュアリズム、と云うか呪術がいまもぼくたちのこころのなかに生きていて、それはそれでいろんなことがらの源泉として重要だ、と云うのはここで何度も書いていて。でもそれと、人間のこころの外に立つがゆえに共有できるものとしての科学を混同するのはまずい、と云うことも黒猫亭さんのエントリに言及して書いたりもしていて。そこを混同するかぎり、基本的にその職業は、いっぱんにひとの役に立ちうるものにはならない、と思う。

みずからの携わる職業をほんとうに意義のあるもの、社会に対して価値のあるものとしようとするには、小紫さんのような認識は必須のもの、じゃないかな。
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TAKA

>小紫さんのような認識は必須のもの、じゃないかな

私の場合は必須ですね。
「科学的な思考」というものは、迷路の出口を開く鍵みたいなものです。
好奇心の赴くまま妄想の世界に飛び込み遊び呆けた私でも、確実に現実の世界に戻ることが出来ます。
実に、頼りになる鍵です。インチキビジネスの亡霊に騙された挙句、七人ミサキの一員にさせられてしまう心配も、全くありません。
というわけで、明日もまた摩訶不思議な世界に飛び込んできます。
by TAKA (2009-10-30 23:43) 

pooh

> TAKAさん

おっしゃる「鍵」の感じ、すごくよくわかります。ぼくも迷路で迷うの大好きだし(七人ミサキ、ぐぐっちゃいました。怖いなぁこれ)。

ぼくら、日常から意外と不思議な世界に住んでるんだと思うんですよね。それがぼくら人間の思考のしくみなので。
by pooh (2009-10-31 05:40) 

黒猫亭

懐かしいなぁ、とか言ってみたり(笑)。

先日郷里の妹と長電話をしていて、そのときにニセ科学や環境問題なんかも話題に上ったんですが、まあ郷里が真宗王国の石川県と謂う事情もあるのか、割合妹にも宗教心と謂うのはあるみたいですし、転生や霊魂の存在なんかも、気持ちの何処かでは信じたい動機があるとのことでした。

これ自体は問題ないんですが、やはりスピリチュアルな領域と科学が扱うべき領域が分離されていないと謂う傾向はどうしようもなくありまして。水伝なんかも朧気に識っていましたが、やっぱり事実だと思っていたようです。その意味で、ニセ科学批判はスピリチュアルな領域を侵犯するもの、と謂う感覚があるようなので、その二つは別々の事柄なのだと謂うことをかなり力を入れて説明しました。

科学で証明されないとスピリチュアルな事柄を信じられないと謂うのはおかしいだろう、と謂うことなんですが、もっと謂えばスピリチュアルな事柄が科学的に証明されると謂うのもおかしな話で、じゃあそれは精神性や霊性の問題じゃなくて、科学的な事実に過ぎないじゃないの、と謂うふうに説明してようやく得心が入ったみたいです。

日頃の言動では割合筋道立てて考えるほうだと思っていたので、宗教心や霊性への関心と謂う動機があると、途端に「何でもアリ」になってしまうんだなぁ、と実感しましたね。本来、人間に宗教心や霊性への関心があるのは当たり前の事柄なんですが、やはりどうも科学との接続が上手く行っていないと謂う印象です。
by 黒猫亭 (2009-10-31 21:05) 

pooh

> 黒猫亭さん

いまの仏教って(過去何度か話題に出たことがありますが)だいぶなんか微妙な場所にあるのかなぁ、みたいな部分もあります。そもそもの教義のつくりが微妙に科学に親和性が高い部分があるせいなのか、それともその日本的展開の過程で脇の甘い性格が生まれてきたのか、どうもなんかあやしい。
そのへんアブラハム由来の宗教は峻厳に対立するなり高い精度での調整を図るなり、比較するとなんと云うかごまかしの少ない立ち位置を設定しようとする。

> ニセ科学批判はスピリチュアルな領域を侵犯するもの

これはぜったい逆なんですよね。…みたいなことを3年も云い続けているわけなんですよねぼく(^^;。われながら変な場所にいるなぁ。
by pooh (2009-10-31 22:27) 

黒猫亭

>poohさん

>>そもそもの教義のつくりが微妙に科学に親和性が高い部分があるせいなのか、それともその日本的展開の過程で脇の甘い性格が生まれてきたのか、どうもなんかあやしい。

まあ、普通に考えると後者なんでしょうね。多分、仏教本来の性格から考えるとそんなに融通無碍なものでもないはずなんですが、どんな宗教もその地域の土着宗教と対立的な教義の圧し附けだけで成立するものではないですから、日本の場合は割合土着宗教にテキトーな性格が強かったのが問題なのかな、と思わないでもないです。

また、仏教伝来のプロセスを考えても、インドから一旦中華文化圏を経て半島経由で伝来しているわけですから、そのプロセスで複数の文化由来の土着宗教の要素が混ざっていますよね。その辺で、どうも現状の仏教と謂うのは複数の文化の宗教的要素のキメラみたいな性格があるんじゃないかと思います。

それと、坊さん同士の宗論のレベルでは各宗派の教義の間に原理的な対立軸があるんでしょうけれど、庶民レベルの感覚では地域コミュニティ機能の違いみたいな下世話なところに集約されているんじゃないかと思います。

以前、どこぞの坊さんが余所様の家に塩を撒いた件でちょっと触れたんですが、いやしくも坊さんのほうから「霊が憑いているから塩を撒いた」なんて言い出すのはおかしいわけで、普通は「霊が憑いているから何とかしてくれ」と相談を持ち掛けられて、霊的な事柄に対応する地域コミュニティ機能の一環として寺なり坊さんなりが対応すると謂う順序ですよね。

そう謂う意味で、寺と謂うのは世俗の原理では対処出来ない不可解な事象の捨て所みたいな性格があったわけで、今でも不幸の手紙や心霊写真の供養とか、仏教の教義と関係あろうがなかろうが精神世界の事柄一般の相談に広く応じる機能がありますよね。

狐が憑いたとか何かの祟りだとか、土着宗教由来の事柄にも坊さんが対処すると謂うのが近代以前からの仏教の地域コミュニティ機能で、教義に反する事象が存在するはずがない、と謂う対応にはならないですよね。そう謂う地域コミュニティ機能みたいな伝統も関係しているのかな、とも思います。

>>これはぜったい逆なんですよね。…みたいなことを3年も云い続けているわけなんですよねぼく(^^;。われながら変な場所にいるなぁ。

これ、京極夏彦も同じような考え方なんですよねぇ。だから彼の妖怪小説には妖怪そのものが出て来ない(豆腐小僧はメタ小説なので出てきますが(笑))わけで。オレのニセ科学問題に対するスタンスは、割合京極夏彦の小説に影響を受けているところがあります。

余談ですが、京極夏彦と謂えば、巷説百物語にTAKAさんが触れておられる「七人みさき」と謂うのが出てきますね(無理矢理だなぁ(笑))。「ミサキ」と謂うのは「岬」ではなく「御先」と書いて、先鋒、つまり神霊の先触れを務める眷属の謂いですね。「オサキギツネ」なんかも「尾裂き狐」とも書きますが元々は「御先狐」と書くみたいで、神霊の眷属であることを示しているそうです。

で、この神霊の眷属である「ミサキ」と謂うのは、神霊に先駆けて顕れて行き逢うものを殺して排除したり祟りを為したりするわけで、そこから「ミサキ」には行き逢い神と謂う意味が派生してきます。七人ミサキなんてのは説話上では神霊の眷属でも何でもないですが、行き逢い神ではあるわけで、通りモノの一種ですね。神霊の眷属ではなくても行き逢い神としての性格は満たすから「ミサキ」と呼ばれているわけです。

これは、何だか目に見えない霊威が道を通っていて、人間がそれを識らずに行き当たると悪いことが起こる、そう謂う土着的な信仰の産物です。霊道とか鬼門みたいな考え方に通じているわけですね。どちらかと謂うと風水とか儒教と相性の好い考えです。

これって仏教の教義とはほぼ相容れない日本の土着宗教の派生物なんですが、やっぱりこれをどうにか出来るのは坊さんくらいしかいないわけで(笑)、そう謂うふうに考えていくと、日本のコミュニティにおける坊さんの役割は大変だったわけで、教義がどうとか言っていられない、とにかく霊的な事柄には何でも対応すると謂う柔軟性が求められたのだろうと思います。
by 黒猫亭 (2009-10-31 23:24) 

pooh

> 黒猫亭さん

あぁ、地域コミュニティにおけるお寺とかお坊さんの役回りとか、説得力があるなぁ。確かに江戸時代より前の説話とか読むと、お寺と云う施設やお坊さんと云う存在がコミュニティにおいてすごく大事な機能を果たしているのがわかりますもんね。
このへんが変化したのは廃仏毀釈以降なのか、それとももっと社会学的な変化が関係しているのか、はっきりはわかりませんが。いろんなスピリチュアル系のお仕事がこのへんを肩代わりしている、と云うのもありそうです。

> 京極夏彦も同じような考え方なんですよねぇ。

これ、なんとなく自分でも気になってました。影響を受ける、と云うような熱心な読者ではないはずなんですけどね。
巷説百物語も2つめくらいまでは読んでるはずなんですけど、覚えてなかったもんなぁ七人ミサキ。
by pooh (2009-11-01 06:15) 

かも ひろやす

本当は、浄土真宗の教義は俗流スピリチュアリズムとは厳しく対立しているはずなんです。西本願寺では、お札もお守りも売っていません。そのかわりに、浄土真宗はお札もお守りも否定していますと書いたパンフレットを売っています。そのパンフレットには、自家用車に交通安全のお守りをぶらさげるのもダメと厳しいことが書いてあります。

ただ、末端の門徒がそれを理解し実践しているかというと、どうかなあ。

by かも ひろやす (2009-11-05 11:24) 

黒猫亭

>かも ひろやすさん

>>そのかわりに、浄土真宗はお札もお守りも否定していますと書いたパンフレットを売っています。そのパンフレットには、自家用車に交通安全のお守りをぶらさげるのもダメと厳しいことが書いてあります。

これですかね。

http://www.tomo-net.or.jp/sermon/leaflet/index.html

仰る通り、真宗は現実的且つ合理的な考え方ですから、寺方から民間に対してアヤシゲなスピリチュアリズムが流れると謂うことはなかったと思いますし、門徒物識らずと揶揄されるような形式に囚われないところがありましたから、それ故に逆に宗教心の浸透が割合根強いところがあります。

或る意味では、伝統宗教が強いところはそれと競合関係になる新宗教がそれほど浸透しないでしょうし、寧ろ伝統宗教の弱い都市部で人間が当たり前に持つ宗教心のニーズに附け込む形で新宗教やスピリチュアリズムが跳梁していると謂う図式が描けるのかもしれません。

一方、すでにわれわれの世代だと、真宗の門徒だと謂う意識はなくて、都市部の人間同様、寺方との附き合いは葬祭に限ったものですから、葬礼のしきたりが厳格ではない真宗だと教義を意識する機会はあまりないと思います。

父親の世代だと、一家の戸主が朝晩仏壇に向かって念仏するのは当たり前と謂う感覚がまだ活きていますし、仏事の際には寺で講話を聞いたりするみたいですから、真宗の教義について時々聞いたふうな講釈は語りますね。

俗流スピリチュアリズムに対しては、門徒物識らずであんまり正面から反論するようなことはないですが、「そう謂うこともあるかもしれないねぇ」くらいの感じ方じゃないかと思います。

ただ、寺方とのコミュニケーションが現在の世代では途切れていますから、ちょっと危険な状況にあるのかもしれないですね。真宗が強いと謂う事情からあんまり新宗教が強くないと申しましたが、先日ウチの田舎のほうでも宗教絡みでアヤシゲな壺だか何だかを売り附けたと謂う訴訟が起こったりしていますので、寺の影響力が衰えてはいるんじゃないかと思います。
by 黒猫亭 (2009-11-05 21:46) 

pooh

> かも ひろやすさん

うえで黒猫亭さんとお話ししてきたことを踏まえての個人的見解ですけど、じっさいのところ(仏教が、ではなく)お寺がその共同体内での役割を果たすにあたっては、あんまり原理主義的なスタンスを採用するのは適切じゃなかった、と云うのもあるのかなぁ、と思います。
もちろん、だからと云って宗教において教義が軽視されるべきもの、とはなりません。なんでその教えが存在するのか、にかかわってくる部分だし、すべてのその教えの有用性の源泉がそこにあるはずなので(そしてそれは、長い時間を経て洗練されてきているはずなので)。
だから、衆生に求められる機能を提供することとのバランスを提供する側がどう捉えているか、が肝なんでしょうね(昔とは役割が変わってしまってきているいまでも)。ちょっとこのへん、ぼくは以前とはスタンスが変わってしまっているかもしれません。
by pooh (2009-11-05 22:16) 

pooh

> 黒猫亭さん

宗教、あるいは宗教的なものに一定のニーズはあると思うんですよ。いいとか悪いとか、そう云う単純な議論を超えるものとして。
旧来の伝統的宗教は多くの場合時間に丸められ、生活の積み重ねのなかで磨かれて穏健なものになっているので、そこで満たせればあまり大きな問題は生じないケースが多いんだろうと思います。
ただ、いずれにせよ宗教、あるいは宗教的なものには原理主義的先鋭化のリスクはつねにあって。比較的摩耗していない新興宗教のほうが、そう云うリスクは高いのかな、みたいに思ったりもします。
by pooh (2009-11-05 22:21) 

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