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「自然」はさいなむ [よしなしごと]

火曜日のエントリとおんなじような感じで、Yahoo! ブログ検索に「ホメオパシー インフル」と放り込むと時節柄直近1週間で139件(エントリ投稿現在)。細かく見てはいないけれど、記事の種類としてはだいたい、インフルエンザを機会に売り込みをつよめているらしいホメオパシー・ジャパンのセミナー体験記とか、ビジネスチャンスに販売強化を図る(まぁ動機は「善意」なのかもしれないけど)業者のみなさんとか、そこにまぎれこむ矢吹さんのエントリとか、まぁいろいろ。
でもそのなかでやっぱり気になるのは子供、とりわけ学童期のお子さんを持つおかあさんたちのエントリ。もちろんそう云う方々にもいろいろ温度差があって、「うちの子はホメオパシーでだれより元気」みたいな方から「子供が高熱でしのびないんだけどホメオパシーが効いてないのかなぁ」みたいな方までいらっしゃって、とりわけ後者のエントリを読むとなんだかちょっと胸がしくしくする。ぼくは子供はいないのだけど。

ワクチンやタミフルがゼロリスクではないことはここに明記しておくとして、こう云うおかあさんたちには、ここのサイドバーからもリンクのあるlets_skepticさんのホメオパシーFAQをご一読いただけると解消する悩みもあるのではないかなぁ、読んでくれないかなぁ、とか思うのだけれど、それはそれとして。

ホメオパシーが人気を得る理由のひとつには、それが「自然」をうたっていること、があると思う。人間の自然な治癒力、みたいに。それが好転反応、なんてロジックと結びついている、と云うのはあるかと。

まぁ、人間がインフルエンザにかかるのは自然なこと。古来から繰り返されている。で、インフルエンザで高熱が出るのも自然なこと。

ただし。
同様に人間がインフルエンザで死んだり、インフルエンザ脳症で後遺症が残ったりするのも、また自然なことだ、と云うことも考えてほしい、と思う。そして、それは医療の発達していない時代には今よりずっとありふれたことだった、と云うことも。

自然にしたがって生きることを選択するのは、もちろんかまわないと思う。それはそのひとの生き方だから。でも、それを他人にあてはめたり、自分の子供に適用したりするのは、どうだろう。

そのまえに、そもそも自然は苛烈なものだ、と云うことを少し考えてみてもいいのではないか(このあたりはkikulogのコメント欄なんかでもけっこう議論が出てくる部分で、最近ではさらにインフルエンザとホメオパシーなんてエントリもある。って、見てみたら5月のエントリか。最近でもないな)。

もちろん、それでも自然はすばらしい、と云う考え方もある、と思う。でも例えば、「自然なお産」を選択し、その結果わが子を死なせる結果になっても、それでもその自分の選択を賛美することができるようなひとはそれほど多くないんじゃないかな。

こちらにも書いたけれどホメオパシーは原理的には呪術で、効果がないとは云わないけれど、期待できる効果はおまじないやお守り、雨乞いとおなじ程度のものだ。もちろんみずからの身を呪術にゆだねる権利はある。でも、そこに子供をゆだねる権利は、だれにあるのか。
現代医療は万能じゃない。でも、お子さんがインフルエンザにかからないか心配しているおかあさんたち、インフルエンザに苦しむお子さんを前に心を痛めるおかあさんたちには、そんな選択をしてほしくない、とこころから思う。余計なお世話は承知してるけど。

蛇足だけど。
ホメオパシーのレメディにひんぱんに使われる甜菜糖は、18世紀にドイツの化学者が精製に成功したもので、19世紀になってはじめて生産が開始されたもの。その意味ではそもそもぜんぜん「自然」なものじゃない(と云うよりむしろ科学技術の進歩の産物と云うほうがふさわしい)と思うんだけど、どうかな。
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うさぎ林檎

おはようございます。

生きものは自然の恩恵を受けなければ生存できませんよね。でも自然は、ただそこに在るもので何も慮りはしない。
だからトムソンガゼルは、生まれ落ちて直ぐに走ることの出来ない個体は生き残れない。年若い雌ライオンは子供を一頭しか産まなければ育てるコストの方が高いから、健康な子供であってもその子供を捨ててしまう。

poohさんが仰有るように「自然は苛烈なもの」ですよね?私には「自然」というと荒れ野や砂漠、もしくはどれ程表面上は静に見えても命の混み合ったイメージしか湧きません。「自然」は良いものだと仰有っている方は、その時自分の頭に浮かんでいるイメージが何なのかもう一度確認して欲しいと思います。その穏やかな光景は、本当に自然のものですか?それは人間の努力の上に作り上げられた景色ではありませんか?と。
by うさぎ林檎 (2009-11-01 10:30) 

pooh

> うさぎ林檎さん

> でも自然は、ただそこに在るもので何も慮りはしない。

そう思うんですよね。

自然に抗って弱い個体が生き延びるのは、文字通り不自然なことです。
自分自身を淘汰にまかせる、と云う決断はありえますし、そのことは非難されるべきことでも批判されるべきことでもないと思います。でも、自分のこどもなら淘汰に差し出してもいい、と云う選択をする権利があるのか。表面的な美辞麗句に乗せられて、そう云う選択をしている自覚はあるのか。
ぼくとしては、そう云う自覚さえできない親のこどもでも、甘んじて淘汰に晒されるべき、とは思いません。だから、悩ましい。
by pooh (2009-11-01 14:08) 

mohariza

人間(類人猿以上とも云えますが…、)は、動物社会において、一人(自然のまま)子を産むことも、産まれた子が、一人で世界(野生)に出て行くことも出来ないような、過保護で、社会共同体で子を育てないと、子作りが出来ない生物(社会)になっています。

もはや、人間は、存在自身が、<自然に抗って弱い個体が生き延びるのは、文字通り不自然なこと>とは、程遠い生物となり、
<自分自身を淘汰にまかせる>ことも叶わない存在になっている、と考えるようになりました。

この頃、自然のまま生きるのは、私には、人間にとって、「理想(論)」でしか無い、と思うのです。
by mohariza (2009-11-01 17:33) 

mohariza

投稿しておかしいと気づき、訂正します。

『存在自身が、<自然に抗って弱い個体が生き延びるのは、文字通り不自然なこと>とは、程遠い生物となり、』は、
『存在自身が、<自然に抗って弱い個体が生き延びるのは、文字通り不自然なこと>のような「自然のまま」生きることとは、程遠い生物となり、』
と、訂正します。
by mohariza (2009-11-01 17:41) 

pooh

> moharizaさん

と云うか、ですね。

弱い個体は生き延びられない、のが、自然なんです。
みずから淘汰されたいなら淘汰される道を選べばいい。そのひとよりも厳しい状況に生きていて、必死で淘汰に抗おうとしているひとはたくさんいます。自分がどんな状況で生かしておいてもらえているのかろくに考えもせず自然のなんのと賛美するなら、早めにそう云うひとたちと交代してくれればいい。自然にまかせて満足とともに淘汰されるのは、たぶん幸せなことでしょう。

でも、自分のこどももそうあっていい、みたいな考え方が、ぼくにはどうも許容できないんですね。
by pooh (2009-11-01 23:21) 

zorori

私は、自然と人工は対立概念ではないと思います。
自然に人工は含まれる、なぜなら人間は自然だから。
ただし、世間一般では自然から人間のかかわる部分を差し引いたものを「自然」と称することが多いわけです。
だとすると、人工の否定は人間の存在そのものを否定することになり都合が悪くなります。
そこで、人間の営為のなかから極めて恣意的に選択したものを「人工」として、それ以外を「自然」としているだけじゃないかと。その選択にはなんら基準や思想があるようには見えません。気分で選択しているだけだと思います。
by zorori (2009-11-02 06:48) 

pooh

> zororiさん

こう云う文脈で語られる「自然」と云うのは、じつは「人工」に対置するために持ってこられた概念、なんですよね。

> 気分で選択しているだけだと思います。

その「気分」の内奥には、なにがあるんだろうなぁ。
by pooh (2009-11-02 07:36) 

うさぎ林檎

おはようございます。

私は特に子供好きな訳ではありませんし、守るべき者の少ない人間です。
それでも、躾と称して(餓死するまで)食事を与えられなかった子供がコンビニで思わずパンの袋を破って食べてしまったり、親がホメオパスであったばかりに適切な医療を受けることもなく衰弱死する、そんな世の中が当たり前になるのは容認できません。
子供は一定の期間はどうしても全面的に親に従属するしかない、だからこそ”愛情”を担保に、子供を支配することに慎重になって欲しいと願います。それは虐待のとば口です。

余談ですけど「ホメオパシーの日焼け止めクリーム」なんてあって、日焼けは「自然」じゃないのはよく分かりました。
by うさぎ林檎 (2009-11-02 09:50) 

pooh

> うさぎ林檎さん

> それは虐待のとば口です。

この種の善意と愛情にもとづく虐待、みたいなものが世界中にあると思うんですよ。話はちょっと変わるようですが、少し前にkumicitさんのエントリに触れて書いたナイジェリアのウィッチハンティングも、正直そう云うものの変奏だと思います。
そのなかでなにを選ぶのか、なにを施すのか。簡単な話ではないですけど、親御さんたちには後悔のないよう、知識の獲得と理解につとめてほしい(とか願うしかない)。

> 「ホメオパシーの日焼け止めクリーム」

想像で云いますけど、たぶん「ホメオパシーでアンチエイジング」みたいなきわめつけに不自然な話も存在するんでしょうね。
by pooh (2009-11-02 21:28) 

zorori

pooh さん、

>こう云う文脈で語られる「自然」と云うのは、じつは「人工」に対置するために持ってこられた概念、なんですよね。

その場合の「人工」とは、産業革命以降の新しい人工であったりしますね。江戸時代の人工は自然に分類されたり、さまざまですね。

by zorori (2009-11-03 09:55) 

pooh

> zororiさん

> その場合の「人工」とは、産業革命以降の新しい人工であったりしますね。

まぁそのへん、たいてい語る側の都合ですね。
なんかそう云う「自分の善意につじつまを合わせる」みたいなロジックが転がり出すとまずい方向に向かうよなぁ、と云う感じがあります。
by pooh (2009-11-03 10:07) 

うさぎ林檎

こんにちは。

酔った勢いで由井寅子氏の著作を購入しました(あぁ勿体ない)。

>その「気分」の内奥には、なにがあるんだろうなぁ。

文中に”自分に自然治癒力があると信じられる人”という言葉が出て来ます。
治癒力なんて在るに決まっていますが、病が自然に治るかどうかは別の問題の筈です。でもホメオパシーにはまっていく人は”信じられない”と言えないんでしょうね。
これって「裸の王様」の別パターンでしょうか?
by うさぎ林檎 (2009-11-03 15:03) 

pooh

> うさぎ林檎さん

あぁ、やっぱり「信じられるかどうか」を問題にするんですね。このロジックって、トラップですよねぇ。

> これって「裸の王様」の別パターンでしょうか?

もっと切実でしょう。
「足らん足らんは信心が足らん」ってしくみですから。こうしておけば結果がどうあれ責任は負わなくてすむ。
by pooh (2009-11-03 18:19) 

TAKA

科学文明社会の忙しさに疲れ果てた人達が、大自然の生活に過大な希望を持つのは必然でしょうか?

確かに今の日本の場合、都市から少し離れた田舎なら、「やはり、大自然に囲まれた暮らしは癒されますわねえ(^^」という気分に、浸れるかもしれません。
しかし、さらなる自然の生活を追い求めると、縄文時代よりも過去に遡る事態に成りそうな気が?

ああ、そうか。インフルエンザワクチンを嫌悪するホメオパシーな人達は、「電気や水道や、テレビやラジオやギターも無い社会」の実現を、待ち望んでいるわけですね。(ポルポト政権時のカンボジア、あるいは人民寺院のジョーンズタウンのような状況を理想としているか?)

…などと考えを巡らせましたが、結局は次のような所に落ち着きました。「自然に回帰するのも程ほどに。用法、要領を確かめて。」「日曜には山や海に出かけて擬似サバイバルを楽しみ、月曜には普段の仕事に戻って、上司の小言にニコニコ笑顔(^-^。そういうライフサイクルに、私は嵌りたい。」

間違っても、「インフルエンザで荒廃した日本を強い人間たちが支配し、息も絶え絶えの私は、体に七つの傷を持つ救世主を臥して待つ」事態など、お断りなのです。
by TAKA (2009-11-06 19:32) 

pooh

> TAKAさん

なんかこう云う「自然」の捉えかたって、なまの自然に接しているTAKAさんみたいなかたから見ると相当笑止なものに見えるんでしょうねぇ。
by pooh (2009-11-06 20:44) 

zorori

私事ですが、スキーが大好きです。
「大自然」にふれられて「癒され」ます。
なんていいながら、管理されたゲレンデスキーしかしません。
山スキーは怖いですね。立木にぶつかったこともあるので。
ゲレンデでも吹雪いたりすると、とたんに屋内に避難します。

また、以前は海でも遊んでいましたが、海はゲレンデのように管理された区画がないことが多くて、大自然に地続きならぬ、水続きです。
なので、結構危ないです。レスキューされた経験もあります。(さすがに海保の出動ということではなくて、ビーチにあるウインドサーフィンショップのスタッフにですけど。)

まあ、ヒータレ(ヘタレ)は擬似自然ぐらいがちょうどいいです。
by zorori (2009-11-07 08:51) 

satomi

はじめまして。いつも拝読しています。

一昨年、アマゾン先住民族の長老であり呪術師でもある人が来日した際に、通訳者兼お世話係として密着する機会を得ました。
2週間共に行動しながら確信したのは、呪術というのは「その時」「その場」「呪術者とその人との関係性」において成り立つ一期一会のオーダーメイドのものなのだな、ということです。

ラボラトリーの中で機器類によって規格生産された既製品であるレメディなど、えせ呪術にしかなり得ない、と感じます。というか逆に、200年前の呪術的なものが色濃い社会に生きていたヨーロッパの人びとにとってホメオパシーの登場は、実験室で誕生した科学的な装いの治療法として、従来の呪術を否定する近代文明の香りあるものとして受け止められたのではなかったでしょうか。

そして、いま。
科学を装いつつ、実証を求められる場面では「自然」や「呪術」をほのめかす。消費者は、自分が見たい部分だけを見て勝手に納得してくれる。
科学の詐称であると同時に呪術の詐称ではないのかと、アマゾンの呪術師と出会ってみて、そう思えてなりません。「自然」と「呪術」の世界に生きる彼らの社会において、ホメオパシーがありがたがられる場面はないだろうなと思います。

by satomi (2009-11-07 10:49) 

pooh

> zororiさん

人間個々人は自然にまっすぐ向き合うにはあまりに脆弱なので、自然と共存できるデッドライン、って云うのがたぶんあって。
ぼくはアスファルトの敷かれているところまでしか、自然のそばには出向けません(^^;。
by pooh (2009-11-07 11:45) 

pooh

> satomiさん

いらっしゃいませ。

代替医療の意義を主張する言説の典型に、現在の通常の医療が不充分である(とりわけそのケアする範囲、と云う点において)と云う部分を論拠にするものがあります。これはあながちまとはずれ、と云うわけではない。
ただ、そこにはコストの問題があるんですよね。ご一緒されていた呪術師の方のような、経験深く有効な呪術をほどこせるような呪術師はそうはいないし、充分な呪術をほどこしてもらおうと思った場合に、それに要するコストを担うのはだれにでもできることではない。
その呪術師の方には、自然な方法のみでインフルエンザからひとのいのちを守ることができるかもしれません。でもだれしもアマゾンまで行くわけにはいかないですし、行っても充分な呪術をほどこしてもらえるかどうかはわからない。

> ホメオパシーの登場は、実験室で誕生した科学的な装いの治療法として、従来の呪術を否定する近代文明の香りあるものとして受け止められたのではなかったでしょうか。

ここで引用したことのある論考に、ホメオパシーの発想が以降の医療の発展に寄与した可能性を示唆するものがありました。そう云うこともあるだろうな、と思っています。
ただそれは、いま、の話ではない。

> 科学の詐称であると同時に呪術の詐称ではないのか

この部分に、ぼくはほんとうに同感します。ほとんどのニセ科学は、呪術としても粗末なものです。
そのようなものはいかなる意味でも、智恵、たりえない。
by pooh (2009-11-07 11:59) 

satomi

poohさん、こんばんは。

インフルエンザにも結核にもハシカにも呪術は効きません。長老は「白人がもたらした病気は呪術では治らない」と何度も言っていました。

彼らの社会では、厳しい自然の中で弱い者は淘汰され続け、生き抜くことのできた者だけが強い遺伝子を残して行ったのだと思うのですよね。そして自力で治癒に至れる者たちの癒しを手助けするものとして、心理への働きかけ(=呪術)や薬草があるのではないか。そういう意味で、呪術とは合理的なものだと私は受け止めました。

しかしその「合理性」は、あの場で、あの環境に生きて、連綿と続いてきた文化を共有する者たちのあいだにこそ有効なものであって、たとえば長老を日本に呼んで呪術の施術イベントを開いたり、逆にアマゾンに彼の呪術を受けに行くツアーを組んだりすることは、全く意味をなさない行為だと思うのです。

彼らは人権の保障や生活改善支援を求めて常に政府に働きかけを行っています。医療の充実も要求のひとつです。「呪術では治らない病気」のために、彼ら自身の要望によって、村には抗生物質など種々の医薬品を備えた政府の保健ポストが設けられ、看護師が常駐しているそうです。

私は、森の精霊の声を聞く呪術的世界観というのは、過酷な自然に生きる人間が、本来人間には無関心である(だからこそ厳しい)自然をなんとか人間の側に引き寄せて折り合いつけて生き抜くための智恵なのだと理解しました。そのベースには人間の幸福の希求がある。彼らにとって現代医療とは、「呪術が現代医療に屈した」とかそういうことではなくて、生き抜く智恵や幸福の希求のあらわれのひとつとして、呪術と地続きにつらなるものだと思うのです。

そう考えると、「現代文明社会」に生きる人間が、現代医療をまるで外部からの侵略者か何かであるかのように捉えて、自然か現代医療かの二項対立に仕立てた末に否定に走るというのは、とても奇妙なことに思えてなりません。(キミたちは奇妙だね、と長老に笑われそう・・・)

by satomi (2009-11-08 01:00) 

pooh

> satomiさん

> 自力で治癒に至れる者たちの癒しを手助けするものとして、心理への働きかけ(=呪術)や薬草があるのではないか。そういう意味で、呪術とは合理的なものだと私は受け止めました。

呪術の社会的な役割については、それをはぐくんだ文化や環境によって相違があるのだろう、と思います。その意味で、おっしゃるような意味合いを呪術が持つ社会があることもあるんだろうな、と感じます。

> 長老を日本に呼んで呪術の施術イベントを開いたり、逆にアマゾンに彼の呪術を受けに行くツアーを組んだりすることは、全く意味をなさない

ここは、ぼくにはわかりません。そこになんらかの普遍性、と云うものがあるかもしれないので。ただ、そこにあるかもしれない、他の社会環境においても特定の呪術を有効としうるような普遍性、みたいなものは、そうそう安易に見つけられるものでもないだろう、みたいには思ったりします。

おっしゃるような視座からは、多くの考慮すべきポイントが見いだせると思うんですよ。特定の文化が孤立して存在するのはもう不可能なのでどう折り合いをつけるのがいいか、とか、文化や社会環境や個人の志向の相違を超えて一定水準の「人間の安全保障」的なものを確保するにはどうすればいいか、とか。それぞれ、そうそうかんたんに明解な答えにたどりつけるようなものではないですけど(とりわけぼくは)、切り口を見つけて考えていくべきことだよなぁ、みたいに感じています。
by pooh (2009-11-08 06:50) 

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