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マネジメントと支配 [世間]

モチベーション・マネジメント・コーチと云う職業に就いていらっしゃるらしい浅川智仁さんの言葉が持つ魔力と云うエントリを読んだ。

マネジメント、と云うのは端的に云うと、特定の目的を果たすために行動をコントロールすることで。マネジメントの対象は組織全体だったり特定の他人だったり自分だったりするけれど。
で、なぜマネジメントが必要になるかと云うと、要するにあるがままに任せておくと目的を果たす効率が下がる、あるいは果たせない、と云うことが生じるから。そのままでは受験勉強ができない、とか、支店の営業目標が達成できない、とか。
当然ながらマネジメントの手法はいろいろあって。そのひとの個性を奪わず、その性向を上手に生かしてより大きな成果に結びつけるのもマネジメントだし、精神的に追い込んで思考力を奪ってしまって、云うとおりのことをやらせるのもマネジメント。ドラッカーが語るのもマネジメント、少年兵を集めて信念とモチベーションを植えつけて戦わせるのもマネジメント。そう云えば3年ほど前、IT教育コンサルタントの芦屋広太氏が日経IT Proに寄稿した記事反響を呼んだことがあったけれど、こう云う手管を使って部下をコントロールするのもマネジメント。
特定の道徳や規範、価値観を押し付けて、それに従って行動するようコントロールするのもまぁありふれたマネジメント手法。すべてを捨てて支店の業績のために行動させる、とか。

非常に有名な話なのですが、みなさんは次のような実験例をお聞きになられたことはありますか?






グラスに入っている水にマイナスの言葉を投げかけると水の結晶が壊れ、


逆にプラスの言葉を投げかけると水の結晶が非常に美しくなる






これは、私たち人間のマインド(心)が、意識の向かうところに介入していくということを意味しています。






なかなか信じがたいことかもしれません。




正直なところ、私も最初は信じられませんでした。




ただ、こうして成功法則や能力開発のプロとして働くようになってからは、紛れもない科学的事実だと言いきれるまで私は経験的にも確信しています。

(フォントタグをはずしました)

こうやって、例えばある都合のいい道徳的な規範を科学的事実だと言いきったりすることで信頼させるのも(なにをもってして科学的と形容しているのかはまったくわからないけど。科学、と云う言葉に一般に使われているのとべつの意味を持たせるんなら、なにかべつの言葉を使ったほうがいいと思う)、マネジメント。そう云うロジックで都合よくひとの能力開発をしようとするのも、マネジメント。すべては目標の、得るべき結果のため。

何故なら、ご存じのとおり、私たち人間は70%以上が水からできています






つまり、マイナスの言葉が飛び交っている場所というのは、私たちの細胞レベルに対して、非常に恐ろしい環境なんです!




ですから私が経営者やマネージャーの方にコーチングをする時には、まず組織内で飛び交う言葉を変えましょうとアドバイスしています。






組織のメンバーが一人一人夢を語り、仲間の夢を応援し、顧客の夢を応援し、会社の夢を語る。






イメージしてみてください。そんな会社でやりがいを感じない方が少し難しい気がしませんか?

(フォントタグをはずしました)

こうやって組織のために働くこと、経営者のために働くことが個々人の夢の実現に直結するように感じさせるのもマネジメント。そのためにニセ科学を持ち出して、ネガティヴな思考を封じ込める(そしてそれが経営者やマネージャーに向かわないようにする)のもマネジメント。うそをついても、すべては結果のため、目的のため。
だれにとっての結果? 目的? そんな疑問はネガティヴ。身体のなかの水が崩れた結晶になって自らツキを手放すようなもの。それが科学的事実

ニセ科学にもいろいろあるけれど、例えば「水からの伝言」に代表されるような、道徳観を科学を装うことで裏付けようとする種類のニセ科学の危うさは、ぼくはこう云った部分につよく感じる。
もしだれかがあなたに「いい話を伝えたい」と云って江本勝氏の言説を口にするようなことがあれば、それはなにかしらあなたをマネジメントしたいと思っているのかもしれない。それはかならずしも悪意に基づいているわけではないと思うけれど、そこの部分はちょっと考えてみてもいいのかもしれませんよ。
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zorori

マネジメントを和訳すると「管理」かと思うのですが、「管理社会」などはマイナスイメージがありました。

横文字にしてイメージアップを図るというのは、昔からありますが、ある意味「言葉」の力はすごいですね。いい意味でも悪い意味でも。
by zorori (2009-09-18 23:44) 

きくち

「水からの伝言」を使う道徳は「不寛容の道徳」だから、「管理社会」とは「水が合う」のでしょう。
僕はいやですけど

by きくち (2009-09-19 00:48) 

TAKESAN

今晩は。

Narrさんのブクマ経由でよく、「実験」をそのまま紹介しているのを見かけますが、端的に言って、「”実験”をなめている」と思います。
少し考えれば、現象には様々な要因が関わっている事が認識出来るはずですが、そこら辺をすっとばしてあんな素朴なものを実験と看做して疑いすらしないのは、「言葉」や「意識」に対する思い入れがあるのやも知れません。

実験計画法の本を一冊紐解けば、絡み合う多数の要因(その中で特に着目して変数として採り上げたたものが「因子」)を解きほぐし、その影響の程度を明かしていく作業がいかに難しく、そして先人がそれについてどれくらい知恵を絞ってきたか、というのが解るでしょうね。

そういう部分に思いを馳せるならば、水伝のごときものを「実験」と看做すのがいかに馬鹿馬鹿しいか、痛感出来るだろうと思います。
by TAKESAN (2009-09-19 01:38) 

pooh

> zororiさん

いやまぁ、管理、ってのは必要な時は必要なんですけどね。本来それはよいものでもわるいものでもない、と云うか、どちらでもありうるわけです。
マネジメント、と云うのはビジネス周辺ではちょっとバズワード的な使い方がされている部分もありますね。
by pooh (2009-09-19 05:27) 

pooh

> きくちさん

世の中こんな感じになってきて、管理自体の善し悪しと云うより「管理する側に回れば勝ち」みたいな空気もあるような気がします。なんか非常に下司な感じがしていやなんですけどねぇ。
by pooh (2009-09-19 05:30) 

pooh

> TAKESANさん

ぼくは逆に、言葉や意識に対する軽視、と云うか安易な捉え方のようなものを感じます。おなじことの裏表なんだと思いますが。
要するに結局、結果に対するショートカットが手軽に欲しい、と云うのが根底にあるのが透けて見える気がするんですよ。

最近何か所かで指摘があったような気がするんですが、実験、と云うものをどう云うものとして認識しているか、と云うのもちょっとあるような気がします。
ぼくなんか高校の途中から文系だったので、科学の実験と云うのは基本的に中学ぐらいまでしかやってなかった気がするんですよ。で、これは「決まった手順でおこなうと既知の現象が生じるのを確かめられる」と云うようなもので。なので、実験と云うのがそもそもそう云うものだ、と云う思い込みを持つ層と云うのがそこそこいる、と云うのは考えられることだと思います。
by pooh (2009-09-19 05:37) 

zorori

poohさん、

ええ、そうなんです。「管理」という言葉には良いも悪いもありません。
具体的な管理例に、過剰なものが増えると「管理社会」というマイナスイメージが付着した言葉が生まれます。
そして、具体的な管理の中身を見ずに、管理というだけで「管理社会を目指すのか」という批判が行われたりします。
逆にプラスイメージの言葉を使うこともあります。

ステレオタイプの抽象的な言説というか、気分でものを言っているに過ぎないのに、ある言葉を使うことによって煙に巻いているようなものが多いと感じます。

よくあるのは「科学も宗教に過ぎない」という批判です。この場合は「宗教」という言葉を悪いイメージで使っています。ところが、その批判者が擁護しているものも実は「宗教」だったりするのですね。もし、「宗教」が良い面、悪い面に分離できるのなら、それを具体的、定量的(程度)に示すことよって、このような言説は精緻化して有意義なものになる可能性はあると思います。でも、それは大変な労力を要するので、抽象的で気分的な言説で終わっている場合がほとんどですね。
by zorori (2009-09-19 07:37) 

黒猫亭

いつものパターンの語義的なロジックですが、managementと謂うのはmanageすることで、manageと謂うのはYahoo辞書のプログレッシブ英和中辞典によりますと、

>>…をなんとかなし遂げる;[III to do] 首尾よく[うまく]〈…〉し遂げる, どうにかして〈…〉する;不覚にも〈…〉する;((主に話・しばしば皮肉))まんまと〈…〉する

…と謂う語義が第一に挙げられています。つまり「なんとかして〜する」と謂う意味ですね。そもそもの最初から目的的な概念の言葉で、手段の是非は問わないニュアンスがあります。ですから、マネジメントと謂うのは「管理」と謂う意味ではありますが、より直接的には「或る目的を達成する為にあらゆる手段を尽くすこと」ですね。

よく「マネジメント」と謂う語が使われるのは、たとえば経営マネジメントとかリスクマネジメント、環境マネジメントなんかがありますね。この場合、まず「目的」と「手段」が合理的に決定される必要がありますから、まず「目的」を考えます。

たとえば、漠然と「経営を合理化して利益性を高めたい」と謂うようなことを考えている場合、その企業の置かれている現状や問題点、市場の動向などの外部環境、そう謂うものを総合的に分析して、目的を具体的な数値に落とし込んで、その為には何を為し得るのかを考えると謂う手順になると思います。

それを継続的なサイクルとして廻していく為に、PDCAサイクル(plan-do-check-act cycle)で継続的な見直しを行っていく、と謂うのがマネジメントの一般的なモデルでしょう。ですから、狭義のマネジメントと謂うのは、現状分析から出発して具体的な達成目標を設定し、それを達成する為の具体的な施策を階層的に考えていくやり方そのものを指すわけで、具体的な施策それ自体はマネジメントの「一環」ではあっても「マネジメントそのもの」ではないわけですね。

なので、よく耳にする言い回しに「マネジメントの一環として○○を実施している」と謂う言い方で、施策それ自体はマネジメントによってもたらされた一要素でしかないわけです。

大分昔に、たしか蓮實重彦が言っていたんだと思いますが「『問題と解決』と謂う概念はツールとしての虚構だ」と謂う言葉を聞いて随分影響を受けているんですが、「問題」も「解決」も人間の価値判断があって初めて存在の余地のある概念で、マネジメントと謂うのはそれをシステマチックに実行する手順と謂うことになりますかね。

ですから、マネジメント自体は中立的な概念なんです。目的性それ自体は所与の条件としてあるわけですから、その是非は問わないわけですね。その目的を達成する為にどんな手段が在り得るのかをエビデンスに基づいて客観的・合理的に考えていく方法論ですから、一種科学的な概念でもあります。

その意味で、本文で言及されているような、

>>そう云うロジックで都合よくひとの"能力開発"をしようとするのも、マネジメント。すべては目標の、得るべき結果のため。

>>こうやって組織のために働くこと、経営者のために働くことが個々人の夢の実現に直結するように感じさせるのもマネジメント。

…と謂う切り口は果たして妥当かどうかには少し疑問を感じる部分があります。水伝授業なんかで言い尽くされている論点ですが、これって水伝の欺瞞性が暴かれたらロジックそのものが破綻してしまうじゃないですか。本来、理想的なマネジメントにおいては、この種の詐術の入り込む余地はないはずなんですよ。

たしかに広義の意味ではマネジメントと謂うのは「目的の為には手段を選ばない」と謂うニュアンスがありますが、狭義の意味では「合理的に妥当な目的を達成する為に最適な手段を講じる」と謂う意味ですから、口先だけで胡麻化すと謂うのはリスキーな手段ではあるわけです。

ただ、poohさんがバズワードとして「マネジメント」と謂うタームを認識しておられるのであれば、「目的の為に手段を選ばないこと」それ自体が「マネジメント」なのだと謂うムードが無視出来ない強度で存在するのかな、と謂うふうにも思いますが。
by 黒猫亭 (2009-09-19 08:07) 

黒猫亭

少し補足致しますと、上記のような「マネジメント」と対置的な関係における「支配」と謂うことなら、おそらく「ガヴァナンス」がそれに相当するのかな、と謂うふうに思います。

これは「統制」と謂うふうに訳されていると思いますが、意志決定と意志統一に関するシステム整備の問題で、これも直接的な支配・被支配的なニュアンスの概念ではなかったと思いますが、結局マネジメントにせよガヴァナンスにせよ、実践として俗化するプロセスで「目的の為に手段を選ばないこと」「他人を支配して言うことを聞かせること」と謂うレベルに落とし込まれてしまいがちなのかな、とちょっと思いました。
by 黒猫亭 (2009-09-19 08:17) 

pooh

> zororiさん

> ある言葉を使うことによって煙に巻いているようなものが多い

これなんですけどね。
ある種の職業には一般的な手法である、と云ってもいいんじゃないか、と云うような気がします。コンサルタント、と云う商業的営為がどのような内容も示しうるように。
なので、精緻化したり有為にしたりすることに、ビジネス的に意義がある状況とそうじゃない状況があるのでは、みたいにも思ったり。
by pooh (2009-09-19 10:04) 

pooh

> 黒猫亭さん

それは"manage to〜"と云う語法で使われるようなニュアンスですよね。"manage"単体では、やっぱり管理する、と云う意味がつよくあるのでは。

> 目的を達成する為にどんな手段が在り得るのかをエビデンスに基づいて客観的・合理的に考えていく方法論

これは確かなんです。ただ、マネジメントの前段階に「目的設定」があって、それがだれのための目的か、と云うのがある。で、マネジメント手法にある「合理性」はその目的に対しての合理性なので、それが必ずしもマネジメントを受ける側にとって合理的とは限らないわけです。とりわけ、その設定された目的を内面化していない場合には。
そこで道徳めいたものを持ち出してくるのは、たぶんこのへんを内面化させるための手法なんだと思うんですよね。

> 理想的なマネジメントにおいては、この種の詐術の入り込む余地はない

例えばそれはドラッカーなんかの土俵にあるマネジメント論だと思うんですよ。ただ、目的によってはかならずしもそれが最適、として選択されるわけではないし、その面でマネジメントの成功も失敗も生じるわけですよね。

> 実践として俗化するプロセスで「目的の為に手段を選ばないこと」「他人を支配して言うことを聞かせること」と謂うレベルに落とし込まれてしまいがちなのかな

これはマネジメントをおこなう側(目的を設定する側)の視点がどこに置かれているか、と云うところで変わってくる部分かも、みたいに思ったりします。
by pooh (2009-09-19 10:19) 

黒猫亭

>poohさん

>>それは"manage to〜"と云う語法で使われるようなニュアンスですよね。"manage"単体では、やっぱり管理する、と云う意味がつよくあるのでは。

いや、これは飽くまで関係が逆で、magageの本来的な意味はmanage to〜と謂う語法のほうに強く顕れていて、「なんとかする」「やりくりする」ことの一つとして、管理や世話と謂う具体的な意味が派生するわけです。ただ、managementと謂うタームに現在「管理」と謂う意味性が強く附随することは事実だと思いますが、飽くまで一般的な語義があってそこから「管理」と謂う意味合いが派生していると謂う関係ですね。

>>で、マネジメント手法にある「合理性」はその目的に対しての合理性なので、それが必ずしもマネジメントを受ける側にとって合理的とは限らないわけです。

仰る通り、マネジメントと謂うのは所与の目的性の是非自体は問わない概念ですから、設定された目的が管理される側にとって不公平なものである可能性はあります。

>>例えばそれはドラッカーなんかの土俵にあるマネジメント論だと思うんですよ。ただ、目的によってはかならずしもそれが最適、として選択されるわけではないし、その面でマネジメントの成功も失敗も生じるわけですよね。

ドラッカー辺りの文脈のマネジメント論で謂うと、ステークホルダー全員の公平な満足の追求が企業の持続的成長に繋がると謂う理路で、フェアネスは担保されていると思うんですが、これも新自由主義経済理論と何処か似ていて、組織体の活動が進歩するとその在り方が合理的な方向性に向かい、それが社会正義にも適う結果になる、と謂うような理性への信頼があるように思います。

ただ、ここ一〇年くらいの社会の流れを視てみると、必ずしもそう謂う合理的な方向には向かっていないと謂う印象を覚えます。この辺、残念ながら人間の理性はそんなに信頼出来るものではなくて、たとえば労使関係のような利害対立的な関係を調停する公平で合理的な選択肢が考え得るとしても、人間は必ずしも合理的な選択肢を選ぶとは限らないと謂うことなんじゃないかと思います。

このような人間の野蛮な本性と謂うか、それこそ技術開発者さんの所謂「基本仕様」のようなものとどう附き合っていくのか、そう謂う種類の問題なのかな、とも思います。
by 黒猫亭 (2009-09-19 21:03) 

pooh

> 黒猫亭さん

> 飽くまで一般的な語義があってそこから「管理」と謂う意味合いが派生している

ああぁ、そうなのか。「目的実現」が先なんですね。で、そこで把握される目的と云うのが、必ずしも選択可能なものではない、と云うことですね。
そうすると、ちょっと議論が複雑になるかな。

> 人間は必ずしも合理的な選択肢を選ぶとは限らない

これ、時間的なものとか、影響範囲みたいな部分とかで、どれくらいのスコープを選択するのか、と云うようなことだと思ってたりしたんですね。

こう、たとえば会社の経営でイメージすると、短期的な(または狭い)視野に立って出る解と、より広く長いスコープで見た場合に出る解は違うじゃないですか。で、どうも前者に偏った水準の解に飛びつく傾向が高まってるよなぁ、とは感じていて。で、そう云う性向が、いろいろな事柄の背景にあるように思っている部分はあるんですよね。
by pooh (2009-09-20 06:40) 

Jem

ひええええ・・・  お疲れさまです。
何というか、私の感想。「こいつ、バカ?」

マネジメント云々の書籍類は、もっともらしい理屈を並べた単なる「人繰り法ハウツー」もかなりまぎれ込んでいるので、分別が難しいです。
でもまぁ、書物として出版される段階で、こういうトンデモはかなり省かれていると思うんですが、ブログなんてのはただ人目をひけばいいってなとこもあるからなぁ。

by Jem (2009-09-22 21:10) 

pooh

> Jemさん

数日間ネット環境がなくて、お返事が遅れました。

いや、ひとの心に効率よくアプローチする方法を伝授するわけなので、メカニズムそのものはオカルトだったりはするわけですよね。ただ、ちゃんとしたオカルトはそのあたりのしかけが見えたからと云って効力がなくなったりはしないし、逆にこうやってオカルトであることをなにかしらごまかそうとする部分があるのは、そもそもオカルトとして質が低い、と云うことでもあるんだろうな、と思います。
by pooh (2009-09-23 18:31) 

技術開発者

こんにちは、皆さん。

>このような人間の野蛮な本性と謂うか、それこそ技術開発者さんの所謂「基本仕様」のようなものとどう附き合っていくのか、そう謂う種類の問題なのかな、とも思います。

まさに人間はもともと「非合理性」を持つ生き物だし、そしてその非合理性を「利用」することで社会を築いて来たわけです。私がたまに書く「原始の村の狩りの勇者」なんてね。狩りで最も危険な役割を引き受ける仕留め役の若者は本質的に「非合理的経済人」なんですね。なぜなら、原始共産制の狩猟民族では獲った獲物は村全体で食べる訳で、危険な役割を引き受けて狩りをしても人より沢山食べるという事ではありませんからね。もしも、原始時代の村の勇者が「リスクと分配を考えるとこの分配ではリスクの高い仕留め役はできない」という「合理的経済人」だったら、人類はまだアフリカの一部でくすぶっているかも知れませんね。
 古典経済の仮定する「合理的経済人」を「合理的愚か者」と批判したのはアマルティア・センですけどね。
http://web.sfc.keio.ac.jp/~uchisaka/books5.html
 なんていうかな、私は、原始の村の狩りの勇者にも実は合理的収支というのはあると思っています。村人から「あんたは村の勇者だ」と褒めそやされ、食えもしない猪の牙かなんかを胸元にジャラジャラ飾ることで、村の子供たちに「大きくなったら勇者みたいになりたい」と尊敬のまなざしで見られる様な部分を単に古典経済学が「利得」として取り入れ損なっただけのようにも見えたりするんですね。

なんていうかな、悪徳商法批判をしていた頃には、自己啓発セミナーみたいなものも批判していました。カウンセリングそのものを否定する気は無いけども、心理学者の碓井先生などが言われる「個人を大切にしない」セミナーみたいなものを批判していた訳です。

http://www.n-seiryo.ac.jp/~usui/mc/04keihatu.html

そういう意味では、このモチベーション・マネジメント・コーチという人の書いたものを読む限り、同じ様な「個人を大切にしない」モチベーション・マネジメントを感じますね。

by 技術開発者 (2009-09-28 17:18) 

pooh

> 技術開発者さん

ぼくがここで「合理性」と云うことばを使うときって、いつもその語義が混乱していて、お読みいただくかたに申し訳ないなぁ、と感じている部分はあるのですが。

いずれにせよ人間社会を「経済的合理性」や「自然科学的合理性」の角度からだけ見るのは誤りですよね。と云うか、すくなくともそれはおそらくサステイナブルではない。おっしゃるような(視座を人間個々人に置いた場合の)セン的な意味合いでも、それは最終的には不合理なスタンスだ、と思います。

> 「個人を大切にしない」モチベーション・マネジメント

短期的かつ部分最適的には、そう云うものが説得力を持ちうることもあるんでしょうし、そう云う商売のやりかたもまぁあるんでしょう。そのあたり、やっぱりお金を払う側が見抜くしかないんだろうなぁ、みたいに思ったりもします。
by pooh (2009-09-28 21:45) 

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