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「科学リテラシー」と云うことば [よしなしごと]

filinionさんの本当に一般人に科学常識は必要なのか。と云うエントリが最近のこの種の話題の嚆矢、と云うことになるのかなとか思っているのだけれど、科学リテラシー、と云うことに関して書かれたいくつかのエントリを読んだ。
で、思ったこと。

科学リテラシー。直訳すると「科学に関することがらについての読み書き能力」。
正直、このことばがどんなものを示しているのかはぼくにはよくわからない。「ある」「ない」と云うような軸を立てた評価が可能なものなのかどうか、と云う1点においてさえ。
科学的なことがらに触れたときにその内容を理解する能力、と云うことだとすれば、それは単純に科学的な素養とかそう云うものを示す、と云うように受け取れてしまう。で、素養、と云い換えられうるものだとすれば、それは日常的に「ある」「ない」で語られるものでもあり、逆に実際には「ある」「ない」で(正確には)語りえない、と云うようなものでは、たしかにある。

そう云うわけでじっさいのところ科学リテラシー、と云うことばは一部で科学的素養と云う意味で用いられているのではないか、と云うようにも思う。誤用かどうかと云うとそれはたぶん誤用で、それが(「ある」「ない」を論じる程度の重みしか与えられない)日常の会話において問題にならないとしても、ではどうすべきか、みたいな部分をある程度の具体性をもって議論しようとすれば、きっとこのあたりの峻別は必要になってくるのではないかなぁ、みたいに思ったりはする。議論の場所をSeinに置くのか、Sollenに踏み出すのか、みたいなあたり(ごめんなさい。これはちょっと適当なことを云っています)。

さてこのへんで急に手元に引き戻すけど、科学リテラシーと云うことばがどんなものを指すにせよ、たぶんぼくはそれを持ち合わせていない。この場所で3年もニセ科学がどうとかくっちゃべってるくせになにを云いだすのやら、とか思われそうだけれど、どうもあやしいぞ、と感じたものをじっさいに専門性のある科学的な知見に照らし合わせて明確に判断する能力はない(そのへんはこっちで書いたとおり)。
ぼくに科学リテラシーがないのは根本的にはまずぼくの頭のできのせいだと思っているけれど、それを学ばなかった、と云うのもあるんだと思う(学ぶ機会はあったけど、ぼけっとしていて気付かなかった可能性も高い)。でも、科学リテラシーがないとニセ科学は絶対に判別できないんだろうか、その被害(被害と云ってもまぁいろんな水準があるにせよ)を回避することはできないのだろうか、と云うのが結局ぼくの問題意識で。

で、ぼくは「できるはずだ」と云う認識のもとにいろんなケーススタディを積み重ねているつもり。自分の身の回りを見回して、そのうえで「科学」と云うものがどう云うものか、と云うことを認識しておくことで、ニセ科学の被害から身をかわすことはできるはず。じゃあどんなことを知っておくべきか。
  1. 科学は、ひとがものごとを考えるにあたっての、科学と云うひとつのメソッドでしかないこと。それは万能ではなく、唯一でもない。すべての問題を解決してくれるわけではない。
    • 「万能ではない」≠「有用ではない」。万能をうたうものは、その時点で疑うべき。
    • 「唯一ではない」≠「ある『唯一』を標榜するものより劣っている」。メソッドは複数あっていいし、用途を判断して適切なメソッドを用いるのはひとえに矛盾ではない。
  2. 科学と云うメソッドは、その結論が共有可能である、と云う1点において重要であること。「科学的に正しい」ことは単に「科学的に」正しいだけだけれども(例えば道徳的にどうか、と云うことはわからないけれども)、その範囲においてはだれにとっても同様に「科学的に正しい」。
    • 逆に云うとこの意味での「共有可能」を志向するのが科学と云うメソッドなので、例えば「意識次元が高い目覚めたひと限定」みたいな言説はその時点で少なくとも「科学的に正しい」ものではない。
    • 「科学的に正しい」かどうかが、「正しい」かどうかを判断する唯一の方法ではない。そしてそのことは、科学の瑕疵ではない。

極論すると、この2点を認識するだけで、最低限は事足りるのではないかなぁ、と考えている(もちろん、認識したうえでまず自分の頭で考えてみる、と云うのは前提)。たぶんこの程度のことは「科学リテラシー」とは呼ばれないんじゃないかな、と思うけれど、どうかな。

もちろん実際にこれらの認識をどう運用するか、個々の事例に対してどう適用するか、と云うと話はそう単純なものにはならなくて。でもまぁ、そのへんについてはそれなりの量のケーススタディを提供しているつもりではあるのだった。
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黒猫亭

>poohさん

>>極論すると、この2点を認識するだけで、最低限は事足りるのではないかなぁ、と考えている(もちろん、認識したうえでまず自分の頭で考えてみる、と云うのは前提)。たぶんこの程度のことは「科学リテラシー」とは呼ばれないんじゃないかな、と思うけれど、どうかな。

科学リテラシーが「あるべきだ」と謂う観点で語られるものであるなら、それで十分なんではないかな、と思ったりしますけどね。時々この界隈で或る程度専門領域に踏み込んで如何に学ぶべきか、みたいな話題が出ますけれど、少なくとも現時点のニセ科学問題においては、あまり関係がない話なのかな、と思うのが正直なところです。

つまり、マッスとしての一般人に幾ら「学ぶべきだ」と主張しても、実際に学ぶ人は極少ないだろうし、これは極少数の人が学ぶだけでは意味がないので、一種教育の問題になってくるんだろうと思います。その教育の観点においても、現場の教師の方は革命的に科学教育を変えられるとは思っておられないだろうし、それは長期的にレベルの底上げを図っていく問題なんだろうと思います。

だとすると、現時点において「あるべきだ」と謂う観点の科学リテラシーと謂うのは現実的なものでなければならないので、学びとは別のアプローチになるだろうと思いますし、poohさんが揚げられた二点の要件は、おそらく非専門家が専門的な情報を判断する際に十分有効なんではないかと思うんですね。

勿論これは、将来的に一般人の科学知識のレベルが底上げされれば変わっていく問題だと思うんですが、今現在大人である人々に対処する場面においては、学ぶべきだと言っても始まらないように思います。まず、現実的に言ってそんな時間はありませんし、時間があればやりたいと思っている具体的な事柄はかなり多いんだと思いますから、そこを押して時間を作ってでも科学知識を学ぶべきだと言ってもあまり意味はないと思います。

ですから、オレとしては「科学リテラシー」と謂うのは、現時点では具体的な科学知識のことではなく、科学的な情報に接する際の基本認識とか方法論みたいなことなのかな、と理解しています。
by 黒猫亭 (2009-09-29 07:37) 

技術開発者

こんにちは、poohさん。

最近、つらつらと「一般教養」という事について考えてきたのね。なんていうか、私の周りには一般教養試験だけで9割くらいの人が落ちると言われた試験を通ってきた奴らがゴロゴロいる訳ですよ。でもって、彼らと話すと色んな意味で「楽」ではあるのね、基礎知識はある訳だからね。でもって、その少し下の世代には専門能力だけで入ってきた奴も居る訳ね。こちらと話しているとときどきズッコケるんですね、「なにそれ?」なんて言われてね。

ただね、なんていうか教養って「知識」そのものでは無いわけです。変な話だけど落ち葉で堆肥を作るような面があってね。落ち葉は沢山必要なんだけど、それを少し湿らせて踏み固めておくと、中で発酵して堆肥ができるみたいな感じかな。材料としての落ち葉が無いと堆肥はできないし、少ないと真ん中にできる堆肥も少なくなる。沢山あると良い堆肥に成りやすいけど、うまく湿らせてきちんと踏み固めて、たまに「切り返し」なんてやってやるかどうかでやはりできる堆肥も違う。そんな感じを受けるわけですよ。

バラバラに詰め込まれていた知識がだんだんとつながりあって、社会観とか歴史観とか科学観みたいなものができる過程があってね。詰め込まれていた知識が少ないと、そういう「観」も貧弱になる。沢山詰め込んでおくとそれなりの「観」はできるけど、湿らせ方とか踏み固めが悪いと良い「観」にもならない。ときどきはその古い知識も引っ張り出して混ぜ合わせてやった方がどうやら「良い観」ができそうだなんてね。

とまあ、「教養」という事に関する雑感です。

by 技術開発者 (2009-09-29 09:17) 

pooh

> 黒猫亭さん

> 現時点において「あるべきだ」と謂う観点の科学リテラシーと謂うのは現実的なものでなければならないので、学びとは別のアプローチになるだろう

と云うか、本文でも書きましたけど、「あるべきだ」と云われる場合における科学リテラシーと云うものがなんなのか、いまひとつぼく自身よくわかっていない、と云うだけの話でもあるのかもしれないんですよね。

ただ、ニセ科学にまつわる問題と云うのは、なんと云うかかなり世間知に近い部分で対処していくべきものでもあると思うんです(もちろんこれは学術的水準での議論が不要、と云う話ではないんですが)。

> 「科学リテラシー」と謂うのは、現時点では具体的な科学知識のことではなく、科学的な情報に接する際の基本認識とか方法論みたいなこと

そう云う認識でいいのだとすれば、ことニセ科学の問題においては必須のものとなるし、よく指摘されるような敷居の高いものではない(はずだ)、と云うぼくの日頃の主張もあながち的外れではない、と云うことになるかとは思います。思うんですが、それでいいのかな。
by pooh (2009-09-29 21:37) 

pooh

> 技術開発者さん

教養、と云う話になると、なんかぼくあたりだともの申すのにためらいが生じてきますけど(^^;。

> 落ち葉で堆肥を作る

この比喩についてはとても納得できます。
なんか少しでもこのへんで語れそうなことを書くと、ぼくはここでときおり音楽関係のエントリをあげます。でもぼくはほぼ義務教育の範囲内でしか音楽を学んではいないし(だから楽譜も読めないし)、聴く、と云う面でも特に求道的に追及したことはなくて。でも、あちこちつまみぐい的に聴いてきたものについて(もっと味わいたい、みたいな動機で)考えていくと、ひょんなところでひょんなものがつながるし、構図が見えてきたりする。流行りの音楽と特定の民族の伝承音楽のあいだの紐帯が、はっきり見通せたりする。そう云うことって起きるんだな、みたいなのはなんとなく実感としてあります。
こう、多少は訓練だったりするのかも。
by pooh (2009-09-29 21:37) 

技術開発者

こんにちは、pooh さん。無駄話です。

朱子学と陽明学の論争の一つに「致知在格物」を巡る論争があるのね。これは、「大學」の中にある言葉で、要は儒教の修行の最終段階の「知」を身につける部分を言ってる訳です。

 朱子はこれを「いろんな物事を沢山学んでいくと自から知に目覚める」みたいに解釈したのね。そして、沢山の物事を学ぶことを基本とした訳です。王陽明は「物事の法則を考えていくと知に目覚める」みたいに解釈して、物事を学ぶ多さよりも物事に含まれる法則を深く考えることを勧めた訳です。

私は、この2つの解釈はどちらも正しいと思っています。

>あちこちつまみぐい的に聴いてきたものについて(もっと味わいたい、みたいな動機で)考えていくと、ひょんなところでひょんなものがつながるし、構図が見えてきたりする。

この話で言うと「あちこちつまみぐい的に聴いてきた」というのが朱子学的なのね。でもって「もっと味わいたい、みたいな動機で」が陽明学的なんです。そしてその両者があいまったときに「ひょんなところでひょんなものがつながる」訳です。

王陽明というのは朱子より後代の人で、朱子学全盛の時代に異論を唱えたのね。それは、なんていうか数をこなすことを誇って「知」に到らない事例を沢山みてしまったからだろうと思っています。

そういう意味で「教養」というのを「知識」と思うのが問題ではあるけど、「知識」なしには「教養」もまた育たない訳です。

by 技術開発者 (2009-09-30 08:33) 

黒猫亭

>poohさん

この問題は、教育者であるfilinionさんが仰っていると謂うところがミソなんだと思います。科学リテラシーなんて一口に謂うけど、これはすでに教育を終えている大人の世代に対して科学知識の有無を問題視してもしょうがないわけで、科学知識それ自体を蓄えるにも勉強が必要ですが、そんな時間が今の大人にあるか、また、自由な時間が捻出出来たとして、それを科学知識の勉強に充てられるかと謂えば、そんなことをする大人は極少数派だろうと思うんです。

そうすると、科学知識の向上と謂うのは、教育を通じて将来世代に期待するしかないんですが、じゃあ何かしら画期的なアイディアで科学教育が拡充出来るかと謂えば実はそんな余地もあまりないだろうと謂う話なんじゃないかな、と思うんですよ。政策として科学教育を重視して何らかの手を掛ければ好いかと謂えばそんなこともなくて、単に理系教科が苦手な人を篩い落とすだけに終わる危惧もあるわけです。

理系教科が苦手な人と謂うのは、おそらく総体的に視れば圧倒的に多いだろうと思いますし、それは何故かと謂えば、理系教科って、たとえば基礎教育なんかでは与えられた情報をそのまま理解して受け容れ、単純に蓄積していくだけで好いけれど、徐々に継続的な「訓練」が必要になってきますよね。

専門的なレベルで科学を学ぶには、必ず記憶して使いこなせるようにならなければならない原理原則や計算式や個別の知識なんかが大量にあるわけで、それは動かせない訓練のプロセスであるわけですね。或る程度個人の適性に応じて選択肢はあるのかもしれませんが、それでも継続的な学習と訓練を経て一定レベルの知的技術を習得する必要があり、この基準は客観的に決定されています。これは、一般的なレベルで謂えば決して面白いものではなく、訓練ですから寧ろ辛かったり不快だったりと謂う感じ方のほうが多いのが当たり前なんだと思います。

この訓練についてこれる児童とそうでない児童は必ず一定数存在して、それをどうするか、どうやってなるべく多くの児童がついてこれるようにするか、と謂うことは、誰に言われるまでもなく、現場の教師の方々が大昔から教育技術の向上を懸命に考えてきているわけで、「科学教育を重視せよ」と大号令が掛かったからと謂って、その状況が何か変わるわけでもないんだと思います。

悲観的に謂えば、現時点の総体的なレベルが科学教育の成し得る限界だろうし、これ以上となると、何らかの画期的な(SF的ですらある)ブレイクスルーがないと全体的レベルの底上げにはならないだろうと思うんですね。で、多分そんなに目を見張るほどの変化と謂うのは、まあ現場レベルでは「ないだろう」と謂う観測が一般的なんではないかと思うんです。過去の例で視ても、ゆとり教育なんかで一度後退していますし。

ゆとり教育以前の、児童の教育を最重視する風潮で育った大人ですら現在のレベルなのですから、児童が勉強に一意専心すると謂う方向性で得られる成果と謂うのは、まあ現状が限界なわけです。だとすれば後は教育技術が画期的に向上するしかないんですが、今まで現場がサボっていたんなら伸びしろはあるでしょうけれど、今までだって現場の教師たちは懸命にそれを追求していたわけですから、そんなに劇的に変わるものではないでしょう。

なので、今以上に劇的に人々の科学知識のレベルが向上しないと謂う前提で考えるのであれば、その前提における「科学リテラシー」とは、「自然科学とは如何なる方法論であるのか」「如何なる論理において妥当性が担保されているのか」と謂う枠組みを周知させる、と謂う程度なのではないのかな、と思うわけです。それだけでも、ニセ科学を巡る状況は劇的に変わるはずなんですよ。

それはもう、一般人レベルで専門的な科学知識が理解出来て、それを知的技術として駆使出来るわけがないんですから、一般人がニセ科学に騙されないようになる、と謂うゴールを想定してもあまり現実的な意味はないんだと思います。そうではなくて、科学がどんなものであるのかを或る程度理解していれば騙されないはずのニセ科学に騙されなくなる、と謂うのが現時点における現実的な目標なのかな、と思います。

大半のニセ科学は、自然科学の枠組みに則っていないと謂う部分が問題なのですから、その枠組みがどのようなものかを理解していれば、少なくともそれがニセ科学であると謂う指摘が理解出来ます。専門家同士の議論のどちらが正しいかが自力で判断出来る必要なんかないわけで、「これは自然科学の知見だと言っているけど、自然科学の枠組みに則っていませんよ」と言う指摘が理解出来ればそれで好い。大半のニセ科学言説は、その指摘に反論出来ませんから、それで好いんだと思います。

それ以上の素養が必要となるようなら、もう一般人が判別出来る必要がないし、一般人レベルで要求される科学リテラシーの範囲を超えるだろうと思います。
by 黒猫亭 (2009-09-30 12:33) 

Jem

あ。思い出した。左巻先生の本、まだ買ってなかった。
http://d.hatena.ne.jp/samakita/20090307/1236391869
by Jem (2009-09-30 14:03) 

pooh

> 技術開発者さん

なんとなく「学而不思則罔…」みたいな話に見えるんですが、ニュアンスとしてはちょっと違いますね。

前のコメントで書いたようなぼくのエントリ事例、と云うとこのあたりになるわけなんですが。
http://schutsengel.blog.so-net.ne.jp/2008-07-18
http://schutsengel.blog.so-net.ne.jp/2008-09-01
これまで聴いてきた範囲の音楽の話を、ほぼ自分の耳で受け取ったものだけをベースにして書いているのに、どうもそこからはみだすんですね(コメント欄でなおさらはみだすのがまさにうちならではなんですが)。はみだしかたと云うかはみだす方向がどうも蛮勇くさいんですが、そこに届いてしまう。

これって、あると思うんですよ。エントリ本文のロジックとは流れが違いますが、まず原理を最小限踏まえて、個別の事象にあたって考える、と云うことを繰り返していけば、個別の事象の内包している数多くの要素ひとつひとつについて深い造詣を持っていなくてもそこそこ実用的な判断は可能だと思うし、そのスタンスを保持し続けることで自分のなかにある判断基準の実用性を向上させることはできるんじゃないか、と云うことです。
by pooh (2009-09-30 22:03) 

pooh

> 黒猫亭さん

ごめんなさい。話がすっきり進まないのは、もとのエントリの中にぼく自身が抱いている「科学リテラシー」と云うことばに対する違和感や、その使われかたに対する疑問みたいなものが混在していて、結果趣旨がやや混濁しているせいなんですよね。

で、そこの部分を措くと、おっしゃることにはほぼ同意できます。

> 継続的な学習と訓練を経て一定レベルの知的技術を習得する必要があり

技術開発者さんのおっしゃる、朱子学的な部分ですね。

> この訓練についてこれる児童とそうでない児童は必ず一定数存在

ぼくなんかも高校辺りでふるい落とされたたぐいですし、社会人になってからまわりを見回すとぼくより手前でふるい落とされたらしきひともずいぶんいて驚いたりもしたんですが、そのへんから考えるとおっしゃる現状認識には納得します。

> 、科学がどんなものであるのかを或る程度理解していれば騙されないはずのニセ科学に騙されなくなる、と謂うのが現時点における現実的な目標なのかな

この部分に同意します。で、これはひとえに自然科学がどうの、と云うだけの話でもないよなぁ、と思います。

> 「これは自然科学の知見だと言っているけど、自然科学の枠組みに則っていませんよ」と言う指摘が理解出来ればそれで好い。

ここですよね。場合によっては、指摘できる、と云うもっと手前でも、「鵜呑みにしない」と云うだけで最悪の事態は回避できるケースも多いんだろうな、と思っています。
by pooh (2009-09-30 22:04) 

pooh

> Jemさん

おいらも買ってないや、と云うか目先は買えないです(9月は遊び過ぎた(^^;)。
Jemさんの場合職業上の必要性もあるのでしょうかね。
by pooh (2009-09-30 22:05) 

Jem

いや、完全に趣味です。
アマゾンに買いに行ったらつい一緒に左巻先生の「高校物理・化学・地学・生物」もポチしてしまい。
大人のやりなおしシリーズは、買ってたのを忘れて中古をオーダーするし・・・   あうう。

by Jem (2009-10-01 07:12) 

pooh

> Jemさん

なるほど。
ぼくは最近読書向けの体力がやや減退していて、そう云う状況で菊地成孔さんのエッセイ集なんて云う(嚥下しやすいけど毒気の強い)ものを読んでます。
by pooh (2009-10-01 07:29) 

TAKA

今週の悟り:【科学について一般人が学ぶ意味など、趣味以上のものは無いのです!】

こんばんは。
なるほど、確かに私の身の周りでも、「正しい科学の知識など無くても立派に社会に適合して生きる人々」の存在を、確認できます。
その人たちにとってみれば、今更ながら面倒くさい科学のお勉強を始めるのも、かえって不合理なものに感じるかも知れませんね。

filinionさんのおかげで、私は目が覚めました。
科学が発達した世知辛い現代社会を生き抜くためには、客観的な理屈など「非モテ」と考えて、ひたすら己の経験を頼りにして物事を判断する姿勢こそが「モテ」なのだと、改めて思い知った次第です。
・・・・・・・・・
(以下、ネタ文章です)
ふむ。どうやら、正しい科学の知識を追い求めることは、趣味以上の意義は無かったのかも知れない。怠惰思考の私でさえ、こうして安穏と暮らせているのだから。

これまでの私は漠然と、「少しでも、多くの人たちが正しい科学の知識を身につけている社会。きっとそれは、住みやすい社会のはずだ。」などとと、妄想していた。

しかし、filinionさんの記事を読み終えた今は、その考えが間違っていたことに気がついた。そう。今までの私は、時間を無駄にして生きてきたのだ。

「厚生省の偉い役人さんだろうと、世界に名だたる功績を持つ学者さんの意見だろうと、時には間違った意見を述べることもあるよね?疑問を感じた時は、安易に信じ込まないで、慎重に裏を取る必要があるかもね?」という私の認識こそ、誤りだったのだ。

もうこれからは、「より信頼できる情報を求めよう。より正しそうな科学の知識を追い求めよう。少しでも、怪しい説に振り回されない無難な人生を、私は送りたいのだから。」などという堅実路線の思考など、ブラックホールに向かって「ポイッ!」と投げ捨ててあげるのだ。

万が一、どこかの「インチキ科学、インチキ医療が蔓延る荒廃した惑星」に移住する事になっても、filinionさんの記事で目覚めた今の私ならば、その星のがっかりな社会にも普通に溶け込んで、「ニコニコ笑顔(^-^?」で暮らせる自信がある。

その星に適合した思考を持ってしまった私:
「この星は、ずっと長い間こういう社会で成り立ってきました。これからも、現状維持で全く問題ないです。」
「はあ?『より良い社会生活を多くの人が送るためには、やはり正しい科学知識を追求する姿勢が欲しいよね』ですって?…いいえ、今の荒廃した社会こそ正常な姿ですが、なにか?」
「あーっ、はっはっは!つまらないニセ科学問題などに拘り続けてきたアナタたちこそ、蒙昧な姿を晒しているのがお解かりか?」
「…ふう~、やれやれ(-_-;。不器用な人生しか送れない懐疑主義者たちこそ、実に哀れですねえ。」(完)

…地球上に存在する日本においても、国民全員がこんな感じの思考に切り替えたならば、その瞬間に我々の前からニセ科学が消滅し、いつまでもノンビリお気楽に暮らせる社会が誕生します。
皆さんが待ち望んだ、「死を迎えるその日まで永遠の安泰人生」の実現ですね。
(もちろん、黄泉に赴く際は、「ああ、趣味でもいいから、もっと科学を学んでおくべきだった。怪しい説に振り回された私の人生、あまりにも無駄が多すぎた。もう、取り返しは出来ない…。」などという、現実を直視した後悔など、子孫に伝えないまま旅立ちましょう。)
by TAKA (2009-10-03 20:12) 

pooh

> TAKAさん

こう、「べきだ」みたいな云いかたができるのは、現実的にはどの範囲までなんだろう、みたいな話なんですよね。それがほんとうに、個々人のニセ科学への対応策としてじっさい有効なのか、みたいな。
by pooh (2009-10-04 05:22) 

pooh

これはなかなか。

http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835549&tid=a1va5dea5a4a5ja59a5a4a5aaa5sa1w4fbbkbcbc&sid=1835549&mid=2715

まぁなにか読み取ってもらえる、とは期待してないけど。
by pooh (2009-10-04 20:14) 

Jem

へ~。「番頭格」だったんだ~♪ 
(どうしてああいう人たちってそういうくくりにしたがるんでしょうね?考えるのが楽だからかな?)
by Jem (2009-10-05 07:21) 

pooh

> Jemさん

ひとたち、と括るとなんか同種の誤謬に陥ってしまいそうではありますけどね。
by pooh (2009-10-05 07:29) 

梨

やれやれ。件の人は謙遜という言葉を知らないのか。いい加減まとめサイトでも作って自分のニセ科学批判批判をまとめればいいのになんて思ってしまいます。
by (2009-10-07 16:09) 

pooh

> 梨さん

> 自分のニセ科学批判批判をまとめればいいのに

2年も前からいろんなひとに同様のことを奨められているんですけど、どうしてもいやな様子です。

なんと云うか、ちょっとしみじみしてしまうんですけど、固定した視点から自省のない言葉を連発していると、言説のインフレーションみたいなものが生じるようです。言葉ひとつひとつの意味が恐ろしく軽くなってしまっていて、ひとに何かを伝える道具としての機能を失っている。
by pooh (2009-10-07 21:14) 

梨

>言説のインフレーションみたいなものが生じるようです

ああなるほど。言葉がその場しのぎの薄っぺらいものになるということでしょうか?でもそれは発言する論者として慎むべきものの一つでは・・・・・・(まあそんな慎みがあったらあんなにフルボッコになりませんか)。
by (2009-10-07 22:40) 

pooh

> 梨さん

そんな感じです。辛さに麻痺してしまって安易に唐辛子を大量投入したみたいな、平面的な言説になってしまう。おなじ隘路に陥らないためにも、反面教師とすべきではあります。
by pooh (2009-10-07 22:54) 

黒猫亭

この人は、識らない人にはエビデンスがないと実在を信じて貰えないくらい戯画的な人物ですからねぇ。名前を伏せて「こう謂う人がいるんだが」とか言っても藁人形扱いされるのがオチですね。

>>2年も前からいろんなひとに同様のことを奨められているんですけど、どうしてもいやな様子です。

自分の力で人を呼ぶ自信のない人は、最初から人がたくさんいる場所で話したがるものですね。自分のブログを持たずにアクセスの多い他人のブログに書き込むだけのコメンターも似たような動機なのかもしれませんが、この人はもうそれさえもやる覇気がなくなったわけで(笑)。
by 黒猫亭 (2009-10-08 05:01) 

pooh

> 黒猫亭さん

と云うかまぁ、たぶん現状(掲示板のスクワッティング)で充足している、と云うことなんでしょうけど。それを最良の手段として選択している、と云うことはつまり現状が最良であると認識している、と云うことなんでしょうけど、そう云う認識であの種の言説を発しつづけるような心的状況でいつづけることは、ぼくなんかだとたぶん耐えられないだろうな、とか感じます。
by pooh (2009-10-08 07:30) 

黒猫亭

>poohさん

言いたいことを言いたいように言える場所があればそれで満足なのであって、その満足を維持する為には、都合の悪いツッコミや批判は見ないし聞かないと謂うことなんでしょうね。

しかし、無視することでツッコミや批判が存在しなくなるのは当人の脳内世界だけのことなので、結果として「毎日空港に行ってキエーッと叫んでいる人」と同じことになってしまうんですが。
by 黒猫亭 (2009-10-08 08:16) 

pooh

> 黒猫亭さん

まぁ、云いたいことを云うのはどこでもできる、と云えばできるんですけど。なんらかの、守りたいもの、があるんでしょうね。
by pooh (2009-10-08 21:31) 

TAKA

ニセ科学問題言及者の批判活動を眺めていて、思わず飯を吹いてしまう自称ニセ科学批判者ウオッチャーさんが、少なくとも世の中に一人はいらっしゃる御様子。

ちなみに私の場合、反骨精神溢れる文章を見かけると好感を覚えます。
しかし、なぜか某ニセ科学批判者ウオッチャーさんの意見に対しては、膝を打つ手も空振りなのです。

「おそらく私だけでは無いはず」と、想像します。
「事情はよく知らないが、某ニセ科学批判者ウオッチャー氏の言う事にも、一理は有るのかも?」と興味を持った人々も、
『でも、科学の議論において、新規な説を唱える者に立証責任があるとは、言えないもん。』などと真顔で言われてしまったら、
「ええと、このガイドさんについていって、大丈夫だろうか?崖に突き当たって、僕たちが難儀するのでは?」という疑問を抱いてしまい、支持表明をためらってしまうことでしょう。

数年に渡る粘り強い批判精神は見事なだけに、なんとも残念な話です。

by TAKA (2009-10-09 22:21) 

pooh

> TAKAさん

批判、なんですかねあれって。
by pooh (2009-10-09 22:29) 

TAKA

間違えました。「反骨精神は見事」と、言いたかったのでした。

しかしながら、「マイナスでイオンな監視室」における某氏のコメントも、そろそろ新ネタが尽きてきている模様。(以前のネタの焼き直しが多い印象かも)
やはりここは、「ニセ科学批判者ウオッチャーブログ」の開設を、望みたい。
腰を据える新たな陣地を築いたならば、違う展開を我々はきっと目撃できるはず…。

by TAKA (2009-10-09 23:38) 

pooh

> TAKAさん

いや、ご本人のためにも「違う展開」を模索するほうがいいんじゃないかな、とか思います。
by pooh (2009-10-10 05:27) 

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