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伝える、受け取る [よしなしごと]

広告βさんのエコと広告と云うエントリを読んだ。
どうもここしばらく(このあたりから始まってこことかこことか)「商売と情報流通と価値観とニセ科学」みたいな話を延々と散漫に、主題の絞込みもせずにだらだらと続けていたのだけれど、さて広告と云う側面からはどうか、と云う部分でこちらのエントリに大きな示唆があるような気がした。

エコ関連である程度かたちになったという意味では、数年前の「ロハス」が思い出される。エコをファッションの道具の一つと設定することで、富裕層の自己表現としてのエコスタイルを売るというような方法だったと記憶している。個人的な好みは置いておいて、エコをエゴと絡めるのは一つの処方箋ではあると思う。
自己表現としてのエコスタイルと云う言い方をしてもらうと非常にいろいろと明確になっていいなぁ。しかもこの「スタイル」を「消費」と云うものを通じて実践できるかたちで提示しているところに、まぁ妙味があるのだろう(おとしどころが「だから○○はできるだけ買わないようにしましょう、消費量を抑えましょう」では自分の首を絞めてしまうし、その「スタイル」を実践する側としてもなんか貧乏臭くなってしまって、どうもかっこいい自己表現に結びつきづらい)。

でも、これってちょっと考えるとけっこうアクロバティックなロジックなのがすぐわかる。それがなんとなく通用してしまうのは実際のところ受け手側がちょっとでも考えたりしないから(そして発し手側がその辺りを見切っているから)、と云うことにはなるんだろうけど。で、その辺を「わかる」ためにどれくらい考えなければいけないのか、と云う程度問題を別にすれば、これはニセ科学商品を囲む問題とよく似てくる。いやもちろん、よくできたニセ科学商品は、例えばぼく程度の頭の持ち主がちょっと考えたくらいではそのニセ加減を見抜くのが難しかったりはするのだけど。ただまぁやっぱり、「既存の科学の最先端の向こう側」にも関わらず「わかりやすい」気がするものはまずはご用心、と云うくらいは云えるのかな。
もっと根本的なところで広告行為はエコとどう付き合うか、というのも一つの論点としてはあるだろう。広告行為におけるエコとは何か、みたいな。普通に考えれば上述したとおり「広告が煽る消費が悪い。広告はやめろ」というような結論になると思う。本当にそれで終わりなのだろうか。
ここ最近のうちのコメント欄での議論でも、ともすればそもそも広告が悪い、商魂が問題だ、みたいな着地点になりがちだったのだけれど、ぼくとしてはそこもおとしどころとしてはどうにも居心地が悪く感じられていて。と云うのは、情報の流通も物流も本来だれかをしあわせにするための仕組みだし、それがまっとうに機能すればより多くのひとをしあわせにすることができるはずのものなので(この辺りもっと精度の高い議論が可能なのはもちろんだけど、その辺りまるきりちゃんと考えていないのでまた機会があれば)。そうなるとどこが問題なのか、と云う話になってくる。
で、広告βさんのお話はここからタイトルどおり「広告がエコと取り組むべき角度」と云うような方向に展開していく。で、ここでの最近の議論とは乖離していくわけだけれど、そのなかで一点。
島国根性とでもいうか、日本は狭いところに多くの人がいて、しかも比較的、単一性の高い文化のなかにいるので、かえって個々人の差異に目が向けやすいと思う。「自分と他人は違うことが前提で共通点を探る」のではなくて「同じことが前提で差異をあらう」ような環境になりがちである。そんな環境に向けて、「○○に乗り遅れるな!」のように反脅迫的なメッセージングを繰り返すのは戦術としてはありうるけれども、やたら短期的に企画→販促→消費を繰り返す割には満足の効率が悪いと思う。この生産/消費量と満足のアンバランスさが反エコ的だ。
価値観や道徳観、なんて云うのは、本来は誰かから提示されたものに乗っかったりして帽子のように取り替えることのできるものではないだろう。「正義商品」の「正義」も、今年度の最新モデルに乗り換えることができるようなものではないだろう。「現代科学が追いついていない最先端」だって、そんなに都合のいいものがぼこぼこと見つかるわけがない。
広告においてエコ的発想というのは、ひとりひとりに対して、各々のビジョン(の選択肢)を提示してみせるということではないだろうか。
そして、その次のステップとして、受け手側には「選択肢を自分で考えて選ぶ」と云う段階が必須となるわけで。だったらその場合に、どんなことが必要となるのか。どうあるべきか。

とまぁこの辺りの話は、あちこちにタコの足のように拡散しつつまとめもないままずるずると続くのですが(あんまりまとめようともしてないかも)。
タグ:社会科学
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コメント 2

技術開発者

こんにちは、pooh さん。

なんていうか、メディアから広告だけを取り出してみるからややこしいのかも知れないと思うんです。スティグレールの「象徴的貧困」にかなり影響を受けた議論になってしまうのだけど、映画でありラジオでありTVであるようなマスメディアそのものが、産業革命以降の「大量消費」を方向付ける為の者として機能してきているというのはかなり現実的な合理性があると思うんですね。例えばハリウッド映画がストーリーとは別に車のある生活を描くことで車を持たない人たちに「車を持ちたい」という欲求を喚起する働きをしてきたとかですね。日本でも「奥様は魔女」とかのアメリカの番組に描かれる便利な家電製品に囲まれた生活が、家電製品を持たない庶民に与えた影響とかね(このあたり、田舎育ちでかまどで飯炊きながら白黒TVで「奥様は魔女」を見ていた私などは結構リアルに納得出来たりするんです)。

スティグレールはそういうのを「欲望の商業化」という言い方をするんだけど、我々は「自分が生きると言うことを真剣に考えた欲求(生の欲求)を持つ前に、『こういうのが良いんですよ』と商業化され与えられる欲求に従って生きる様に馴らされてしまっている」面があるのかも知れない訳です。

by 技術開発者 (2008-07-30 17:36) 

pooh

> 技術開発者さん

うむむ。
実はですね。その辺りを広告技法としてテクニック化したものが、プロダクト・プレースメントってやつなんじゃないでしょうか。

突き詰めて云ってしまうと、広告の理想型は視聴者に望ましい消費行動を起こさせることです。で、その望ましい消費行動を、消費者に「自らの価値観に従って選んだ行為だ」と認識させることができれば不快感を与えずに消費させることができるわけで、例えばロハスなんて云うのはその価値観(しかも「地球にやさしい」とかそう云う一種道徳的、倫理的にポジティブな評価もくっついてくる)も抱き合わせで消費させようと云う試みだった訳ですよね。

ただ、ぼくみたいな貧乏人に限らず、そう云う手法に嫌悪感を感じる人間はいるわけです。たぶんこれって、操作されること(あるいは「操作可能だと認識されている」のを意識すること)に対する不快感みたいなものもあるんじゃないかな、なんて思ったりもします。
by pooh (2008-07-30 22:36) 

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