責任の負いかた(2) [世間]
前のエントリに引き続き、と云うことになる。取り上げさせていただくのはmasaさんの科学主義?と云うエントリ。この方はもともとカイロプラクティックの治療家でいらっしゃるようなのだけど、「生体エネルギーの研究」を通じて波動の総本山であるところのIHMとも関係がおありのようだ。
この方はまず、「科学者の科学主義」について異議を唱えていらっしゃる。
水の結晶の批判を見ていて思うことがあります。
批判する科学者は、人の心をどう思っているのか?と。
彼らは科学主義なのか?と
いつものことなのだけど、この「批判する科学者」と云うのは誰のことを示しているのだろう。
ぼくがぱっと思いつく、おもてだって動いてらっしゃる自然科学者としては、菊池教授、田崎教授、天羽准教授、左巻教授、小波教授辺りが代表的なところだろうか。で、ぼくが知っている限りこのなかのだれひとりとして「科学主義者」はいない。人の心にまつわる問題は、そのすべてを自然科学で解決できるものではない、だから一見科学的な「水の結晶」なんかでひとのこころに関係する問題を解決しようとするのは間違っている、と云うのが共通する主張だと云ってもいいと思う(それぞれの方が言明しているかはともかくとして)。
ここでマスターピースを引用するのはどうかと思うのだけれど、ひとつぐらいはっきりした具体例を挙げないと。田崎教授はその「水からの伝言を信じないでください」のなかで1章を充てて、このことについて語っている。
互いを愛し合う心、芸術や文化を生み出す精神の活動などは、本当にすばらしいものだと思います。そういう人間のすばらしさが、どこから来るのか、本当のところは、わかりません。おそらくは、人間のすばらしさは、複雑で精妙(せいみょう)な人の「心」から来るのだろうと私は思っています。
この話はいつも繰り返されるのだけれど、誰の、どの批判を見て、この方は「科学主義的だ」と思われたのだろう。
しかし、科学を深く追求していくと、簡単には「科学的」とはいえない
事柄の方がどうしても多くなってきます。
世の中には分からないことだらけです。
分からないことの方が多いのです。
分かっているかのようにみえることでも
最後には分からなくなってしまいます。
「科学的」とはいえない事柄
ってなんだろう。科学で解明されていない事柄、って云う意味ならこれは当たり前。「分かること」が増えれば、「なにが分からないか」が分かるので、当然の結果として「科学的に未解明な事柄」は増える(と云うか、よりたくさん見つかる)。で、探求の対象に追加することができるわけだ。
全部分かっているわけではないから、分かることはできないのだ、分からなくてもいいのだ、なんて理屈は通らない。100のうち10分かっているひとは、5しか分かっていないひとの倍は分かっているのだ。「分からないことがあるから同じ」と云うロジックは結構使われるのだけれど、それは単純に嘘だ。ましてや「だから分からなくてもいい」と云うのはなんだかひどく傲慢なのではないかなぁ。
臨床はなかなか科学的というわけにはいきません。
最終的には担当する医師の判断と、患者の判断になります。
私は医者でも医療従事者ではありませんが
そのことを目の前で見たことはあります。
科学的であることが全てなのか?
非科学的な事は全て否定されるべきであるのか?
それは全てその人の判断に委ねられると思うのです。
では、その判断の責任は誰が負うのだろうか。ここで云う「その人」とは誰なのか。
もちろん医師であり、患者だろう。それでもその判断のもたらす結果については、つねに両者納得、とはいかないのだ。
この方は、臨床の現場において、医師と同じ立場で、同じだけの責任を負えるのだろうか。それとも「すべてあなたに委ねたので、責任は委ねられたあなたにある」とでも云うのだろうか。
カイロプラクティックをニセ科学と云うつもりはない(未科学ではあるかも知れない)。でも、それだけの責任を負うことができなければ(もしくは負うための努力を怠っていれば)その時点でニセ科学になる。
ただ、私自身のやっていることは科学か?と訊かれたら
正直に言います。「わかりません」と。
私には科学的かどうかなんてどうでもいいのです。
患者の問題点が少しでも改善すればそれでいいのです。
このスタンスで、「それでも責任は負える」と言明できるのだろうか。改善しなかった場合、悪化した場合に、この方はどのように責任を果たすのだろう。
この方がNATROMさんのサイトを引用されているのも皮肉と云うかなんというか。
(5/30追記:エントリを削除されたようです。せめて田崎さんの文章だけはお読みいただきたかったのですが)
今晩は。
私はブログで、ある武術研究家の、介護に武術の技法を応用する事についての、「科学的に効果が確かめられていなくとも、それが役立つなら良いではないか」(大意)、という発言を、批判した事があります。
それと、同じ様なロジックなのですよね。
それにしても、「科学主義」は、ある意味「便利」な言葉ですね。対象はやはり、想定した「科学者像」なのでしょうね。具体的な批判は、読んでいないと思われます。田崎さんの文章でも精読してみれば、良いのですけどね…。
>この方がNATROMさんのサイトを引用されているのも皮肉と
>云うかなんというか。
本当に、そうですね…。
by TAKESAN (2007-05-29 23:16)
> TAKESANさん
科学主義、って云うのは本来あんまりポジティブなイメージがないはずの言葉なんですよね。科学主義に陥った学者は駄目だ、みたいな。
でも、「その、科学主義を以て批判を行っている科学者ってだれ?」って問いに答えられないのだとすると、随分と失礼で馬鹿にした話で。少なくとも、ぼくやTAKESANさんが知っているひとたちには、そんなひとはいないんですから。
しかしこの引用についてNATROMさんにご注進したら、さぞやお怒りになるのではないかと。この程度の認識でこの方が代替医療と医学が方を並べられるとかお考えなんだとすれば、医学がいま置かれている状況に対して認識がナイーブすぎる。
by pooh (2007-05-29 23:26)
masaさん。このエントリ読んだみたいですね。謝罪したり、加筆したりしてます。
ところで、「進化論と創造説」の管理者の方がNATROMさんだと今はじめて気がつきました。(バカ^2)
by osakaeco (2007-05-30 01:02)
> osakaecoさん
加筆されていますね。
もう一段、お考えを深めていただけるとありがたいのですけれど。なにより田崎さんの文章を読んでもらえるといいなぁ、と思います。
by pooh (2007-05-30 07:43)
こんにちは、皆さん。たまには「変なこと」も書いてみますね。
私は、生物学やら考古学やら歴史学やら囓る訳ですよね。でもって、時々「人類の歴史」をザーと俯瞰してしまうことがあります。そして、今の社会を、そういう歴史の中の「今の姿」として捉える訳です。
まあ、皆さんが認識する「自然科学」なんてのはギリシャの頃から考えてもたった(?)数千年の歴史しか無いのですけどね。私は、それこそ「木から降り立った猿」の時代から今までを見てしまう訳です。なんていうか「合理的思考に目覚め、その合理的思考を大事にすることの価値に目覚める」事から始まったのだろうと思います。まだ、食べ物とかを蓄える事も思いつかなかった猿が、食べ物のとれない季節がある土地まで進出し、あるとき「食べ物を蓄える」事に思い至る。蓄えた食べ物が辛い季節を超えるのに足るかどうかもその時には分かりはしない。何度も途中で食べ物が尽きては苦しみ、やがて「数を数える」ということを覚え、そして計算ということも身につける。今の社会にある様々な事柄が、そういう猿の時代から今までに人類が「合理性に目覚め事」ではじまり、そして、「合理的思考を大事にすることの価値に目覚める」事でできあがってきた訳です。自然科学も又、そういう人類の合理性の一つの現れにすぎないのです。
>おそらくは、人間のすばらしさは、複雑で精妙(せいみょう)な人の「心」から来るのだろうと私は思っています。
その心が「科学」ばかりでない、多くの「合理的思考」を生み出して来たとは、たぶん思われないのでしょうね。
>ただ、私自身のやっていることは科学か?と訊かれたら
>正直に言います。「わかりません」と。
>私には科学的かどうかなんてどうでもいいのです。
なんていうか、自分の先祖が「心を持つ」ことで、その「心」が「理屈が通るように考えようよ」という事を生みだし、今、自分が過ごしている社会を築いて、自分に渡してくれているという事に思い至るなら、「どうでもいい」なんて言えないんじゃないかな。それは、「人類が大切にしてきた心」を踏みにじるのと同じになるんじゃないかな?
by 柘植 (2007-05-31 13:07)
> 柘植さん
「おそらくは〜」の一段の引用は、田崎さんの文章からでした。ちょっと分かり辛い引用だったかも。でも意味が完全に通じるあたり、流石です。
何度か書いた気がしますが、ぼくは本質的な「合理性」は科学にだけあるものだとは思っていなくて。同質のものが、宗教にも呪術にも存在しうると思っています。でも、どちらにせよ、「合理的だろうがどうだろうが別にいい」と云う発想に基づいたものだとしたら、科学としても宗教としても呪術としてもだめだよなぁ、なんて思います。おっしゃるとおり、それは心を踏みにじる発想だと思っています。
by pooh (2007-05-31 21:33)