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ものを見る角度 [世間]

プロレスが好きだった。
別段好きじゃなくなった訳ではないのだけど、なんとなくあまり見なくなって結構な時間が経つ。だから、いまのプロレスがどうなっているのかはよく分からない。でも、昔頻繁にプロレスを見ていた頃のことを、深町秋生さんの信頼できる情報について。と云うエントリを読んで少し思い出した。

以下、昔好きだった人間が思うところを書くだけなので、あまり一般化できる話じゃないかもしれないけど。
あるプロレスの試合を見る角度にはおおざっぱに2つある。ひとつはそこで戦っている選手の強さや技術を見る(キャラクターや個性もここに入る)角度、もうひとつはもっと大枠の視点を持って、その試合の成立から結果に至るまでを規定する背景や物語を見る角度。2つと書いたけれどこれは対立するものではなくて、実際のプロレスファンはこの2つの視点のいずれを重視するかのグラデーションの間のどこかに位置している、のだと思う。ぼくはどちらかと云うと前者よりだけど、後者が分からないと「ほんとにプロレスはガチンコなのか」の議論に固執するナイーブな少年のようになってしまう。

なんと云うか、プロレス・リテラシと云うか。これはプロレスファンの間では前提として完全に共有されているので、こうして改めて文書化するのがためらわれるようなことではあるんだけど。

じゃあ、試合で見る選手の強さ、すごさが嘘っぱちなのかと云うと、もちろんそう云うことではない。強い選手はもちろん超人的に強い。と云うか、その「強さ」を見せるために試合と云うものはあるのだ(この、強さ、と云う言葉も一面的だけど。本当はもっと含意がある)。試合の展開を通じて、ファンはその選手の強さ、弱さ、個性を読み取るのだ。その意味で勝敗はそれほど重要ではない。見せ物としての品質を維持した上で、選手は選手としての総合的な強さを見せるのだし、観客はそれを読み取るのだ。

要するに、選手が強くないとプロレスは茶番だし、ちゃんと鍛えた選手が全力でパフォーマンスをしている限り筋書きが決まっていようが結末が決まっていようがプロレスは茶番ではないわけで。

と云う訳で、昨今のマスメディアがやっていることは、「練習していない選手による質の悪いプロレス」に見える。で、それに対して騙されただのどうこう云うオーディエンスは、「試合をちゃんと見る能力のない頭の悪い観客」に見える、のだ。

もちろんマスメディアは昨今の大晦日の特番の如くガチンコを建前にしている。だったら鍛えろと云いたい。練習していない選手と鑑賞眼を養っていない観客だらけのプロレス興行なんて、傍から見ているとひどく寒々しい。

「信頼できる情報をよこせ」というのは間違いではないし、まっとうと言えばまっとうなのかもしれないが、なんだか「一番信じられる神様は一体どれなの!」と確固たる「自分」を確立できない人間の弱弱しい悲鳴にも聞こえる。(偏見だけどそういう人に限って「私は私のままでいたい」とか「自分スタイル」とか臆面もなく言ってないか?)信頼できるかどうかはあなたが決めることで、メディアが決めることではない。そもそもメディアは自信満々な態度で「自分のところが一番信頼できます」としか言わない。

自分で自分のことを「弱くて試合がつまらない」なんて云うレスラーなんているもんか(いるかもしれないが、それは逆説的な意味での「強さ」の表明だ)。レスラーの強さは観客が決めるんだ。鍛えた観客と鍛えた選手がいるからこそ、プロレスは本物の感動を作り出すことができるんだ。


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コメント 4

柘植

こんにちは、pooh さん。

kikulogの方で、歌舞伎とか古典落語の例を出して説明しているのだけど、あまり反応がないですね。私はプロレスみたいな例がうまく使えないのですよ。なんていうか、ショーを楽しむのには、或る程度の「慣れ」というか「基本の心構え」みたいなものが必要なんだと思うわけです。

八百屋お七の付け火事件というのは実際にあるけど、実際の話はあんな話じゃあない訳ね。でも、「面白い」。その面白さは「本当らしい」から面白いんじゃあなくて、戯作者も真剣に「面白い台本を書こう」とし、役者も「面白い芝居にしよう」とするところから出てくる訳です。このあたり、プロレスの面白さとも共通なのだろうと思います。

そしてなにより大事なのが、観客が「芝居として面白く」を求めているということね。お七にお奉行様が「まだ16には成らないのだろ」となんとか罪を減じようとするシーンなんてのは、見せ場なんだけど、観客はそんなのが現実にあつたと思っているわけじゃあなくて、その芝居のできで「お七よ嘘でも良いから『はい』と言え」と思う訳で、お七が「いいえ16になりっております」なんてセリフで、「ああ、言ってしまった」なんてね(笑)。

結局は、TVを見る人に「ショーや物語を楽しむ基本」がうまくできていないし、作る方も「本当らしくすれば受ける」だけで作っているという、この「素人同士のキャッチボール」をなんとかしないと、なんともならない気がするんです。
by 柘植 (2007-02-20 12:19) 

pooh

> 柘植さん

ショーは本来、見る側の洗練を要求するもので。格闘技やプロレスにしても、見る側に基本的な技術の理解が本来必要なんです。古典落語や歌舞伎も大衆娯楽なので楽しめるようにつくってあるけど、見る側が見方を知らないとほんとうの意味では楽しめない。
で、楽しめなくて文句を云うやつは、「野暮」って云われたんです。野暮は野暮でもともと独立した生活規範と云うか美意識として成立していたものなので馬鹿にしたものではないのですが、少なくともその規範の中には、今度は「ショーを見て楽しむ」なんて習慣は入ってこない。

ショーをちゃんとショーとして見る力のない人間が分かり辛いだの騙されただの発言すること自体本来滑稽なことだし、そう云う人間に媚びるのは作り手側としては矜持のかけらもない堕落なんです。原則的には。

でもなんでそうなっていないのか、は、ぼくのフィールドでは考えるに値することだったりします(^^;。
by pooh (2007-02-20 22:28) 

柘植

こんにちは、poohさん。

あくまで愚痴みたいなものなんだけどね。そんなに「粋」な生き方はしていないけど、良くできた物語とかショーとかを楽しむくらいの事はできる程度の生き方はしているのね。でもって「野暮受け」ねらいの「本当っぽさ」を売り物にするTVとかに、「おいおい、本当っぽくしたいからといって『やらせ』『捏造』はやめろよ」と言うと「野暮な事を言うな」と言われる。時には「お前らには物語やショーの楽しさが分からないのか」と言われる。「てやんでぃ、お前らなんかよりは、見る目があるから言ってんだぃ」と啖呵の一つも切りたくなる事はあるよね(笑)。
by 柘植 (2007-02-21 13:09) 

pooh

> 柘植さん

受け手は見る目を養わないといけないし、また養わないと受け取れるものも受け取れなくなるんですよねぇ。作り手も受け手の理解力をある程度信じられないと、一定水準以上のものは作れなくなるし。ちょっと余談ですが、小説でもマンガでもテレビ番組でも、「受け手の理解力をみくびった」ものに触れるとぼくはとても不愉快になります。

ぼくは子供の頃から菊池誠その他にいろいろと鍛えられたので、多少はその辺が養えた気がしています(^^;。で、その辺の話は分からない人間に理解して貰おうと云う努力をする気がもはやさっぱりないので、全力で野暮天を貫いています。
by pooh (2007-02-21 22:26) 

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