無防備な「考え方」 [世間]
最近よそさまのブログの個別のエントリを参照して同意したり、批判したりと云ったエントリが多い。ぼくは多分、自分以外の方がそれぞれの角度で切り出した切り口を見て、そこから(個人的にはいろいろと不快だったり割り切れなかったりする)時代の背景、と云うか支配的な原理のようなものを探しているんだと思う。
今回はMr.Mondayさんの非科学的なことは存在しないのだろうかと云うエントリに言及します。
なんと云うか、「○○は●●である」と云うステレオタイプな認識があったとして、そのことを疑いもせずに前提としてものを語る、と云うのが一般化している気がする。そこを疑わないで、完全に「信じること」からはじめると云うか。でも、いつも云っているが「疑うこと」なしに「信じること」は空疎だ。だから、そこから派生する議論も必然的に空疎なものになる。
それほど頭が回る訳ではないのでこのブログの上でもよく自分の議論が空回りしているのを自覚するけれど、でも、少なくともそう云う「怠惰ゆえの空疎さ」のようなものはできるだけ回避したいと思っている。
紋切型だのステレオタイプだのと云う話を持ち出すたびにしつこくフロベールの紋切型辞典へのリンクを貼っているけれど、これを読んで楽しめないようなら、もうやばい、と考えてもいいんじゃないか、とか思う。
Mr.Monday氏のこのエントリは理系白書’07:第1部 科学と非科学/3 根拠ない血液型性格判断に触れたもの。
ここに書いてあることは科学で解明できないものは信じちゃダメだということなんだと思うのだ。
「ある」証明ように「ない」も証明できないのではないだろうか?
そして「科学」はそんなに偉いのか?
いろいろ思ったり問うたりしていらっしゃるけれども、そんなことはもとのテクストのどこにも書いていないのだ。要するに、「そう書いてあるに違いない」と云う紋切型の思い込みからすべてが生じている訳で。
地球が丸いことや、宇宙の存在を立証することなど未知なるものを解き明かしていくポジティブな学問だと私は思っている。手品を否定することよりも手品を生み出すことがメインであってほしいというのが私の考えだ。
手品にはタネがある。それもがちがちに理詰めの。「信じた」からと云って手品が出来る訳ではない。「私の考え」とおっしゃっているが、少し考えたのなら分かるはず。
科学が生まれてからオカルトといわれてきたことは非科学的だと否定されがちであります。でもすべてを否定するなら心霊といわれる分野も科学的ではない。となると墓参りも否定されるのか?宗教も否定されるのか?
「科学的に否定される」=「すべてが否定される」と考えている時点で、この方は一般の科学者よりもよほど科学を信仰している「科学万能主義者」であるということになる訳なのだけれど。そう云う訳で、
とまあこれは揚げ足を取るような形になるので嫌なのだが科学万能、科学絶対社会にむしろ警鐘をならしたい。
ぼくとしてはこの方自身の「科学万能主義」に警鐘を鳴らしたい。誠実な科学者はだれひとりとして「科学万能主義者」などではないのだから。
日本は古来より自然と仲良く生きてきた民族だと思う。その背景には森羅万象全てのものに魂があると教え育てられたからだ。
どんなものにも感謝し、どんな食べ物も粗末にしなかった。どんなものにも神がいると信じ感謝してきた。
しかし科学が発達し、他国の影響を受け使い捨て文化が浸透し非科学的なことを排除して日本は豊かになったのだろうか?
これ、それこそ紋切型的によく使われる言い回しなんだけど、実際はそんな簡単なものではないのではないかなぁ。なんか単純に脳内で作った「美しい祖国」像について語ってるだけのような気がする。それって特に何かの根拠にできることじゃないと思う。どこかの国の最高権力者が口にする「美しい国」が、恣意的な運用が可能になるようわざと抽象的で根拠薄弱な意味しか持たされていないのと同じで。
騙されないことが大事なのか、騙さないことが大事なのかということじゃないのかな。
いちばん大事なのは、「騙さず、騙されないこと」だと思う。で、一番の悲劇は「騙された上で、騙していることに気付かないまま騙す」ことじゃないのかな。ニセ科学の問題点のひとつは「科学」に対する信頼性を悪用してこう云うひとを生んでしまうことだと思う。
本当に科学で証明できていないだけの問題を闇に葬る可能性があることはやめてほしいと思いました。
だから、証明すればいいだけの話で。証明する責任はある仮説を主張する側にあって、否定する側に「証明してみろ」と迫ること自体がすでに詭弁なのだから。
と云うか、この方は騙されたまま騙す側になってしまっているひとつの典型かもしれない。
本人に自覚がないままひとを騙してしまうのは、やっぱり本人にとっても周りにとっても悲劇だと思う。
お早うございます。
私はよく書くのですが、「自分が考えた程度の事は、他の人も考え済みに違い無い」という、「想像力」が大事なのではないかと、思っています。そうすると、「じゃあ、他の人はどう考えているだろう」というのを調べる行動に繋がりますし、自分が考え付いた事の位置づけが出来ますし。
Mr.Mondayさんが出された、「無い事を証明」出来ない、というのは、言わば、当たり前の話である訳ですしね。
やっぱり、理系白書の「科学と非科学」というタイトルに、反応しているんでしょうね。
「科学で解明できないものは信じちゃダメ」という誤解は、典型的なものですね…。そんな事は、誰も言っていないのに(中にはいるかも知れませんが)。
by TAKESAN (2007-02-17 09:55)
>「騙された上で、騙していることに気付かないまま騙す」
これ、一番重要なポイントだと思います。
企業しかり、学校しかり、いわんや○○商法…。
気がつかぬ間に周りに溢れ帰っている状況、これに誰も気がついていない、こういうところに危機感を感じてしまいます。
by OSATO (2007-02-17 11:37)
> TAKESANさん
いや、と云うか、多分「考える」と云うことに対する認識の違いがあるんじゃないでしょうかね。
何となく、このひと自分で云っていることの意味が自分で分かってるのかな、と云うような方を結構お見受けしますので。
by pooh (2007-02-17 12:57)
> OSATOさん
「騙すより、騙される方がいいじゃない? 人間として」式の論法って結構使う人間がいますが、これってまずいですよね。そのひとにその論法を吹き込んだのが詐欺師だったらどうするんだろう、みたいな。
「善意」とか「愛」とか「感謝」とかを安直に口にする人間の危うさって、この辺にもあるかと。その言葉で自分を騙してない? ってところを感じるので。一般にそう云うひとって自分の使う言葉の意味さえまじめに考えない傾向が見て取れるし。
by pooh (2007-02-17 13:01)
なんというかな、ブログやってるなら、ちょっと検索してくれれば、「科学者はそんなこと言ってない」ということがわかるのにね。
確かにこれは「想像力」でしょうね
by きくち (2007-02-17 21:57)
> まこっちゃん
いや、だんだん「知らないこと」や「考えないこと」が免責になると思っていて、それを前提に好き放題書いてるひとが多いんじゃないか、って気がしてきた。
「相手のことを考えると負け」みたいなちょっと妙な、正直言って許容しがたい感覚を持っている人間が結構いるのかも。
この間のもとさんみたいに、ちょっと指摘すると気付いてもらえるひともいるみたいだけど。
by pooh (2007-02-17 22:10)
これは酷い。
http://www.daiwashobo.co.jp/mazzarino/
by 第15回 科学にもお笑いを (2007-02-18 23:16)
反社会学は面白かったのにねえ
惜しいなあ
by きくち (2007-02-19 01:47)
パオロさんは週末に新刊の新書を読んだので近くレビュー書くかも。
by pooh (2007-02-19 07:39)
こんにちは、poohさん。
以前に「テーラーイズム過適用」の話なんかも書いたけど、私自身、世の中に、「不合理なのに合理的と押し付けられる事」というのが或る程度蔓延しているのでは無いかという気がするわけです。私の仕事場なんかもそうだけど「成果主義を導入する方が理屈に合うんだ」で、成果主義を導入するとかね。でもって、私みたいに、「そういう外発的動機付けは経営心理学的にみても不合理じゃないか」なんて理屈を立てて喧嘩するなんてことは、普通の人にはなかなかできなくて、「なんかおかしいよね」と思いながら、偉い人たちの言う「この方が合理的」に押し切られてシブシブ言うことに従わされている現状があるように見える訳ね。
そういう「ニセ合理性」みたいなものが世の中に或る程度蔓延していると、そのニセ合理性の不合理を理屈で指摘出来ない人の中には「合理性に対する不信感」みたいなものばかりが溜まっている感じをうけるわけです。それが、ニセ科学批判などに対して「世の中合理的な者ばかりじゃないだろ」という脳内仮想敵を生み出す土壌として働いている気もするわけですね。
by 柘植 (2007-02-19 10:23)
>近くレビュー書くかも。
>「世の中合理的な者ばかりじゃないだろ」という脳内仮想敵
う~ん、脳内仮想的を前提にした反論がついたりして。こんな感じ(↓)
>>あの本は専門知で世間の迷妄を斬るなんて啓蒙書ではなく、ギャグそのものとして受け取るべきだったのだ。私は当初からそう受け取っていたから、今頃になってそう受け取っていない人が多いことに軽く驚く。
>>「怖いですね、すごいですね、ではさよならさよなら…」とパオロが立ち去った後に、「あー面白かった、でもあいつの話ホントかよ」と読者が半信半疑で残されるという結果にならなければいけなかった。
>>エンターテインメントに過剰な意味を読み込んで作者を煙たがらせるのは研究者や批評家がよくやる迷惑行為である。それが仕事や趣味ならば別に自由だけれども、それは野暮や無粋と言うより単に見苦しいし、きつい言葉を使えば醜い。
http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-321.html
by teranori (2007-02-19 11:05)
> 柘植さん
しかも、実はそれって押し付ける側にある「合理性」がひどく恣意的で手前勝手なものだったりするケースがあるのかも(某経団連会長とその企業とか)。
by pooh (2007-02-19 12:52)
> teranoriさん
はじめまして。
どちらにせよレビューを書く際にはぼくはぼくの視点から書きますので。
レビューに反論もないでしょうし。
by pooh (2007-02-19 12:54)
私は、柘植さんの言われている人達と同じか、それ以上の数の「不合理なんだけど何となく正しそうだし、なんだか日常が不安だから信じよう」というような人達がニセ科学を蔓延させている中核に存在しているのでは、と考えています。
私は最近ブログへのコメントで「一般層」という言い方をしてこのような人々をカテゴライズしているんですが、彼らの暴走をなんとか食い止めない限りニセ科学の蔓延を止められないと思っています。
この層を構成している人達の中で、主婦層とサラリーマン層の2つが最も大きな存在で、彼らのリテラシーの向上と、その向上を達成させるまでに、彼らが社会にニセ科学を広めていくのを食い止めるのが私は重要だと考えます。
by 内海 (2007-02-19 15:34)
> 内海さん
ぼくは特定のカテゴリのひとたちの動向と云うより、背景の社会的事象の方に目が向いています。きっと何かしらの原因はあるんだろうし、それは何によってもたらされているんだろう、と云うような。
by pooh (2007-02-19 22:01)
うーん、、、
poohさんに社会背景に関する考察が抜けているという印象をもたれたとすると、私のコメントの内容が曖昧すぎるという事なんだろうなと反省しますf^_^;
私もニセ科学を好意的に捉える人達の背景にあるものには興味があります。
でも、恐らくこういった社会的な背景は本当に複雑に相互に絡み合い過ぎて、どれが原因なのかを捉えようにも捉えられない気がするんです。
私なりに考えてみるならば、ニセ科学が蔓延するのはやはり「得体の知れない不安感」を持つ一般人の誤った判断の積み重ねがあると思っているんです。
長くなりそうなので後から別のコメントとして書きますね。
by 内海 (2007-02-20 00:11)
> 内海さん
> poohさんに社会背景に関する考察が抜けているという印象をもたれたとすると、私のコメントの内容が曖昧すぎるという事なんだろうなと反省しますf^_^;
あ、いや、そんなことはないです。ぼくのコメントレスはいつも言葉が足りない(単純に時間が足りないんですが)。
なによりぼく自身が「一般人」ですので、カテゴリとして外から認識するのは難しいんです。どちらかと云うと、いろんな事象の要因を「いま、自分が囲まれている部分」に求めようとしています。
> でも、恐らくこういった社会的な背景は本当に複雑に相互に絡み合い過ぎて、どれが原因なのかを捉えようにも捉えられない気がするんです。
難しいでしょうね。
でも、難しいものに対して過度に単純化せずに向き合って、そこから原因なりロジックを抽出する、と云うことはできないものかな、とも思っています。できるかどうかは別にして。で、出発点は生活実感に置きたいんですよね。
by pooh (2007-02-20 07:46)
こんにちは、みなさん。
>難しいでしょうね。
>でも、難しいものに対して過度に単純化せずに向き合って、そこから原因なりロジックを抽出する、と云うことはできないものかな、とも思っています。
私は社会を見るときに、同時に自分自身を見るようにしているつもりです。社会の良くない面を見るときに、自分の中にそれを推進しているのと同じ欲求が無いかと探すと、たいていはあります。では、自分はその欲求をどう出しているかとかを考えることで、「こういう出し方をしてはいけないのだな」と考えたりします。悪い面ばかりでなく「良い面」に対しても、自分の中に、それを推進する部分はありますし、それを抑制している要素もあります。その要素について思いを巡らせて回避する事を考えたりもします。
by 柘植 (2007-02-20 09:04)
> 柘植さん
なんと云うか、「正しい生活実感の活用方法」と云うものについて考えたりもします。なんでも自分に引きつけて考えるのが必ずしも正しいと云う訳ではないにせよ、在野の人間が何かしらの批判活動なりを行う際には、準拠すべきは「生活人としての自分」ですから。
by pooh (2007-02-20 22:09)