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自然な感覚と、できること [よしなしごと]

KoshianXさんの日本人は自らの宗教性にいいかげん気付くべきと云うエントリを読んだ。

こうした信仰は民間でなんとなく親から子へ、地域から地域へと伝播してるもので、特定の宗教団体がまとめあげてるものではない。それがゆえになんとも言えぬカオス状態になり、まったく秩序立たない宗教性がそこかしこに見られるようになっている。
ここで秩序立たない宗教性と云うものはたぶんこのブログ(および議論を共有してきたひとたちが管理するいくつかの場所)では「呪術性」と呼ばれたり、「人間の基本仕様」と呼ばれたりしてきたものなのだろう、と思う。ぜんぜん厳密に用語を使ってきたわけじゃないけれど、ここではぼくはそれらのなまの要素が一定の秩序によって整理され、ある程度整備された有用性を備えた状態になったものを「宗教」と呼んできたと思うので、その意味で秩序立たない宗教性と云ういいまわしにはちょっと違和感があるのだけど、まぁそれはそれとして。以下、自分のところで使ってきた用語を用いる。

でまぁ、ぼくなんかは人間の中にある呪術性、みたいなものはなくならない、って考えていて(なので、「基本仕様」と呼んだりもしてきているわけで。いや、この用語はぼく起源ではなくて、ここのコメント欄その他で技術開発者さんが用いているものなんだけれど)。このこと自体をストレートに論じたエントリがあったかどうかは思い出せないけれど、これが例えばニセ科学とどんな関わり方をするものなのか、みたいなのを書いたのがこっちのエントリ。ここのあたりは当時議論が多少広がって、亀@渋研Xさんのわかる呪術ってエントリとか、filinionさんのデバッグ不能な遺伝子コード。「それは基本仕様です」ってエントリが書かれたりした。

主にぼく自身の知識の蓄積のなさもあって、だいたいはコメント欄の議論のなかで主張してきたのだけれど、ぼくはこの、人間の呪術性、みたいなものは、人間の内的な部分では一定の合理性を持っている、と云うことを主張してきていて。それは例えば科学の合理性、と云うものとは違っているけれどやはり重要で、なくなるべきものでも、なくすべきものでもない、みたいなことを書いてきた(ちょっと関わりがあるのがこっちとかこっちのエントリになるのかな)。
このへんはニセ科学の問題を論じるひとたちのあいだで一般的に共有できている認識、と云うわけではなくて、まぁ議論の全体像からするとだいぶすみっこのあたりでほそぼそと論じられてきた、って感じなのだけれど、それでもそう云う議論が継続してきた、みたいなことを認識するのは、自分の主張の都合上「ニセ科学批判」をいっしょくたにして一般論的に論じたがる向きにとっては都合の悪いことなんだろうとか思う、と云うのはまぁ余談。

結局のところ科学技術が進歩しても、人間の考え方の構造が変化したり進歩したりしたわけではない(このへんについては、未読なのだけれどそのへんを調査した呪術意識と現代社会―東京都二十三区民調査の社会学的分析と云う面白そうな書籍があるらしい。この本に触れた雨崎良未さんの呪術意識と現代社会:東京都民らの分厚い信者層をご覧あれと云うエントリにリンクしておく)。まぁ別段進歩できるものでも、進歩すべきものでもないだろう、適切なつきあいかたさえわきまえていれば、と云うのがぼくの(わりと一貫した)スタンス。
古くは「水からの伝言」を信じないでくださいというページにあるようないわゆる似非科学の類も、こうしたカオスな宗教性から来るものではないだろうか。
「水からの伝言」が教育現場に入り込んでいる、と云う状況の認識が、例えば菊池誠がニセ科学の問題を論じる大きなきっかけのひとつになった、と云うのは覚えているひともいるかもしれない。あと、教育の現場にニセ科学が入り込むことについては、TAKESANさんが「ゲーム脳」に関連する一連のエントリで根気よく論じてきた部分でもありますね。

以下の記事が大変気になった。

リンク先を読んだとき、これは非常に宗教的だと感じた。なにせすでに「発達障害は先天性」という知見が得られてるというのに「発達障害は予防、防止できるもの」としてしまっているのだから。そのやり方がまた「わが国の伝統的子育てによって」という誰も実体を把握できないような代物を持ち出して来るあたり、明らかに知性によるものではない。宗教的な臭いを強く感じる。

どうも脳科学うんたらとか言いだしてるようなので、これも似非科学のようだ。水からの伝言ネタもそうであったが、どうもこのような似非科学は教育と相性が良いようである。これを日本の教育学の堕落と捉えるか否かは難しいところであるが、日本の教育者にロクな学的知識のないものが揃ってることは間違いないようである。

似非科学は科学風の説明があるが、その論拠がないという意味で宗教的教義に非常によく似ている。納得感や腑に落ちる感覚だけでその教条を信じてしまうのは信仰そのものであろう。

前振り的にここまで延々書いてきたのは、この納得感や腑に落ちる感覚と云うのが非常に強烈な代物である、と云うこと。この部分については、菊池誠がasahi.comに書いたニセ科学:2(菊池教授)と云う文章が残っていて、そこでも触れられている。
あたりまえの話なんだけど、誰かになにかを伝える、納得させる、理解させると云った局面において、相手の自然な感覚に訴えかけるのは有効な方法で。意識して排除しないかぎり、そう云う手法はかならず伝達の工夫の過程で入り込んでくる。

なので、ここで必要とされるのは、個人の自然な納得感や腑に落ちる感覚を超えて理解を共有できるメソッドで。で、それは当面(その実績も勘案して)科学的な思考法、と云うことになるんだろうな、と云うようなことは、地下に眠るMさんの論考を踏まえるかたちでこっちで書いた。
昨年からネットスラングとして定着した「放射脳」も、非常に宗教的である。日本のそれこそ本当に伝統的な信仰であるケガレの概念に非常に良く似た反応をする。放射性物質がごくわずかでも含まれていれば、その他の成分を無視してでも避けるといった態度はなんら知性的ではなく、宗教的であるとしか言いようがない。
まぁここをぼく(と議論を共有する何人かの論者のかたがた)は宗教的とは呼ばず、「呪術的」と呼ぶのだろうけど(ちなみに宗教的であることをぼくは知性的ではないことだと思わない。まぁこれは単なる語法の相違、でもあるんだろうけど)。

「放射脳」と云う語彙が用いられる文脈は現時点でどうやらふたつあるようで。揶揄的な文脈で用いられる場合と、こちらでKoshianXさんがリンクを張っているような、ある精神状態を自ら形容する場合。前者についてはこちらのエントリでも、くだらない、とはっきり書いたけれど、後者についてはおなじように切り捨てられる話ではもちろんなくて。
ないのだけど、すぐ上手になんとかできる方法がないのは、結局のところこれまでのニセ科学にまつわる議論と同じ状況であって(自分の感覚にフィットする言説を信じてしまうことを、単純に「科学リテラシーの不足」みたいに喝破しても、なにか状況を改善できるわけではない、と云う理由はここまでで再話した)。当面はまず、地道に伝えていく方法を考える、と云う(これまでニセ科学の問題を論じる論者がとってきたような)やりかたしかないのだろう、なんて思う。

# まぁそう云う部分についての実践を、どう云う角度から見てなのかアイデンティティの保持とか既得権の維持を目的にしたものとしか見られないような、とっても上品な向きも存在するようではあるけれどね。
# 鏡にはだれが映ってるんだろう。
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burbou

はじめまして。

行き成りですがそんなに深く分析してもしょうがないと思います。

論理立が朝鮮人の思考で組み立てられてます、よって事は単純です。

by burbou (2012-05-04 21:48) 

pooh

> burbouさん

いらっしゃいませ。

お書きの意味がわかりません。
差別的な意図のある言説については、削除等の対処を取らせていただきます。
by pooh (2012-05-05 03:32) 

技術開発者

こんにちは、poohさん。

>結局のところ科学技術が進歩しても、人間の考え方の構造が変化したり進歩したりしたわけではない

私なんかがずっと言い続けているのは、「仕様を前提とした取り扱いマニアルとしての文化」ということなんですね。走っている自動車が急に止まることができなくて或る程度の制動距離を必要とするのは仕様、その仕様をきちんと踏まえて「見通しの悪い状態ではスピードを落として走る、見通せない交差点では一時停止をしてからソロソロと出る」なんてのが取り扱いマニアルです。仕様は時代と共に変化したりしないけど、取り扱いマニアルの方は進歩してきたんじゃないかと思ったりするんですね。

そして、この文化的進化にもおそらく競争淘汰による進化圧というのが働くんじゃないかと考えたりします。私のたとえ話で言うと、「矢が真っ直ぐに飛ばないのは狩りの神様への祈りが足りないからだ」と部族全体で工夫もせずに祈る文化もあっただろうし、「試し撃ちを繰り返して、真っ直ぐ飛ぶ矢を工夫しよう」という文化を持った部族もあったんじゃないかなんてね。でもって、どちらの子孫が「生きのびて優勢になったか」により、ある文化は衰退し、ある文化は発展した。それだけのことかも知れないんです。

別に東洋の島国のたかだか1億人程度の文化ですから、呪術性の罠に捉えられて滅んだところで、人類全体の文化が崩壊する訳でもないという考え方もできるのかも知れません。

by 技術開発者 (2012-05-07 08:54) 

技術開発者

こんにちは、poohさん。

発達障害のことなんかについて色々考える事があったのでここに書いてしまいます。仕事で製造業の不具合製品問題なんかを扱っていると、「それって問題無いんじゃない」という不具合問題なんかの相談もあります。詳しく書けないんだけど、要はお客さんが「良くない」と交換を希望して確かにその製品にある汚れみたいなものはあるんだけど、それがあっても使用には安全性も含めて全く差し支えないなんてものね。お客さんが気にする以上交換しなくてはならなくて、それを余所に回すのも差し控えられるから、結局不良品という扱いになり、不良品を減らすために私のところに相談がくるなんて話ね。まあ、私も商売だから、原因探索して対策は一緒に考えるけど、なんていうか気合いが今ひとつ入りにくい相談だよね。

何が言いたいかというと、出荷の基準をそういった「使用には問題ないけど気分が悪いから交換希望」なんてものを排除するように定めると、当然だけど不良品率は上がるということね。工業製品ではそういう考え方があっても構わないし、場合によっては「ワケあり商品」として廉価販売されたりもして、そういう気分に惑わされない消費者は安く買える面もあるのね。

問題は、人間に対しても同じ事が成り立つだろうという事ね。なんていうか、社会が「健常人」の基準を厳しくすると、「障害がある者」の比率は増えるということね。メンタル疾病とかの話をしていて、「障害と個性の区分はどこですか」と言われ、「社会生活に問題が生じれば障害、たいして問題が生じなければ個性の範囲」なんて言うけど、社会がわずかな違いでも厳しく排除するなら、当然だけど、障害をもつ者の数は増えるのね。なんとなく、今の日本が「規格に合った人」を求めている事が発達障害を増やしている気がする事もあるというのが1つです。

もう一つは「発達遅滞」と「発達障害」が混同されている気がするということね。私は「死刑判決の基準に永山基準ってのありますが、どういう事件のどういう被告人か知っていますか?」なんて人に質問したりするのね。単純に言うとネグレクトされて育った永山則夫が拳銃強盗で連続殺人をしたという事件ね。この事件の特殊さは逮捕されたときには字も満足に書けずに反省も見られなかった被告人が拘置所の中で成長しちゃった事にあります。地裁、高裁、最高裁と時間が経つに連れて、本も読み、被害者の遺族にきちんとした謝罪もできるようになっていったのね。最高裁の裁判官は悩んだと思います、ストリートチルドレンみたいな生い立ち、その後の成長、それらの情状を酌量しても罪の重さから見て死刑にするという決定をするのにね。光市の母子殺人事件の方がまだ拘置所での成長が芳しくないだけ判決は楽だっただろうと思ったりします。

 こんな風にあまりに酷い生い立ちの元では「発達の遅滞」は起こりえる訳ですが、いわゆる普通の範囲の生い立ちでも、何らかの未発達状態が生じるのが「発達障害」なんですね。酷い生い立ちで「発達の遅滞」が起きるのだから、発達障害にも全て生い立ち(教育)が関係するだろうという短絡的な考え方があるような気がしてしょうがありません。


by 技術開発者 (2012-05-07 15:44) 

pooh

> 技術開発者さん

> 文化的進化にもおそらく競争淘汰による進化圧というのが働くんじゃないか

こう、環境の変化によって、最適解は違ってくるわけです。マニュアルも変化しないといけない。そこで旧来の文化が足かせになることもあるし、文化から逸脱したものが前適応的な意味で特定の時点での最適解になる、と云うことも生じうる、みたいには思うんです。

ただ、仕様そのものに変化がない以上、その仕様に反するものが最適な選択肢になる、と云うことも、たぶんないんですよね。

> 東洋の島国のたかだか1億人程度の文化ですから、呪術性の罠に捉えられて滅んだところで、人類全体の文化が崩壊する訳でもない

単純に、特定の文化的な枠組みが衰退して終わり、と云うだけですよね。まぁぼくはあんまり衰退したくないほうですが、そうでもない向きもあるのかも。

> 今の日本が「規格に合った人」を求めている事が発達障害を増やしている気がする

このへん、どうなんでしょうね。そう云った側面はあるようにも感じますけど、じゃあ昔はどうだったか、と云う話になると、ちょっと簡単には云えないような。

> いわゆる普通の範囲の生い立ちでも、何らかの未発達状態が生じるのが「発達障害」

発達障害の要因がすべて先天的なものにあるのか、と云うと、不勉強ゆえきっちりとはわかりません。
ただ、それが親の心がけなんかで「予防」できるようなものではないものであること、そのためのメソッドが「伝統的子育て」みたいな括りで語れるようなものではないこと、ははっきりと云えると思います。
by pooh (2012-05-07 21:33) 

技術開発者

こんにちは、poohさん。

>ただ、仕様そのものに変化がない以上、その仕様に反するものが最適な選択肢になる、と云うことも、たぶんないんですよね。

そう、仕様に制動距離が有る限り「見通し悪くても速度を落とさなくて良い」というマニアルにはならない。ただ、高速道路だと「歩行者が道を歩いている」を想定する所までは速度を落とさなくて良い訳です(ただカーブの先の走行車線上に車が止まっている可能性は意識した方が良いです、一度肝を冷やした事があります:笑)。

ただ、環境が先祖返りしていないのにマニアルを先祖返りさせる必要性は無いだろうと思います。私が最初に覚えたベーシックのマニアルにはすさまじい記述があったんですね、「できるだけ説明文は入れるな、変数は短く、1行にできるだけ沢山命令を詰め込め」なんてね。分かりやすい構造化ブログロムの全く逆です。理由は使えるメモリが32キロバイトくらいしかなくて、わかりにくくてもこうした方が少しでも大きなプログラムが動かせたんです(笑)。今のメモリたっぷりのパソコンでもこれに近いメモリ節約型プログラム作法は考えろと言われれば考えられるけど、そんなわかりにくいプログラムを必要とするほどの巨大ソフトならメモリを増設した方が良いです(笑)。

>じゃあ昔はどうだったか、と云う話になると、ちょっと簡単には云えないような。

そうね、簡単には言えない。ただ私なんかは今の基準だと多動性障害に入っちゃうかもしれない子供でしたね(今でもその部分は完全ではありませんが、そういう部分を個性として生かせる仕事に就いちゃったので個性というより特長になったかな:笑)。

by 技術開発者 (2012-05-08 11:25) 

pooh

> 技術開発者さん

> ただ、環境が先祖返りしていないのにマニアルを先祖返りさせる必要性は無いだろう

ここのところの見極めはまぁ、そう簡単ではないんだと思うんですが、ただ基本仕様が変わらなくとも、基本仕様そのものに対する知見は深まっている、と考えるのが自然だと思うんですよ。
そう云う知見をどう扱えば、有用なのか。

> 私なんかは今の基準だと多動性障害に入っちゃうかもしれない子供でしたね

ぼくもたぶん(程度はともかく)なんらかの発達障害を抱えてるんじゃないか、みたいに自分で思います。
by pooh (2012-05-08 21:50) 

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