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専門職 [よしなしごと]

京都大学の伊勢田哲治准教授が、2/18に北海道大学で実施された第12回応用倫理研究会で「疑似科学をめぐる科学者の倫理」と云う題目の発表をおこなった、とのこと。当日の発表資料は伊勢田さんの準備の続きと云うエントリからPDFが入手可能。また当日の質疑応答の様子は疑似科学と専門職倫理と云うエントリでお書きになっている。

内容は疑似科学について科学者にどういう義務が発生するか、専門職倫理という観点から考えようという話なので、直接ぼくたち科学者以外の人間がなにかしらの示唆を受け取るような内容ではない。基本的に科学者を生業とするひとがニセ科学(伊勢田さんは一貫して疑似科学、と云うことばを以前よりお使いだけれど、これはぼくなんかの使うニセ科学、と云う用語にニュアンスが近い)にどう向きあうべきか、と云う話なので、どちらかと云えばapjさんなんかが考察してきた内容に近い。スライドでも引用されているし。

ただ、ぼくたち非科学者も、専門家としての科学者に頼らざるをえない場合はあって(クレクレ君、と云われようと、必要に応じて専門家に頼ることはそんなに怠惰なことだとは思わない。じつはこの部分については、うちのコメント欄にいらっしゃる方々のなかでも例えば技術開発者さんやちがやまるさんとは見解に相違があるかも)。プロの科学者になにを望むのか、と云うことを考えたときに、これらの内容からひょっとするとなにかしら手がかりを得られるかもしれない。
タグ:自然科学
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TAKA

今週の悩み:「クレクレ君は如何にして専門家の機嫌を損なわずに得たい情報を引き出すことが出来るか?」

気になりましたので、私も考えました。

「甘えてはいけません!専門家の中には、国民の税金を使って仕事をしている人だって居るんですよっ!」
「そもそも、『専門家の存在意義って、一体なんじゃろな?』などと考えるのは、素人の知的怠慢なのデース。」

「日々の仕事に忙しい専門家にとって、いちいち素人の素朴な質問に答える義務なんか、ある訳がないぞなもし。」
「というか、知識の豊富な専門家を、素人が利用しちゃ駄目でしょ。分からないことがあっても、自力で解決するべきでしょ。素人にも、社会的責任ってものがあるでしょ。これが世間で言うところの、『自己決定』という意味なんです。」

…こんな感じになりました。
ちなみに私自身は、「ネットで見かけた都合の良い情報」だけを、頼りにしています。
科学的に難しいサイトは避け、単純明快な記事を読んでいます。(環境関係だと、最近は武田邦彦さんとか♪)
というわけで、次のような事態が起きる可能性はあります。

あくまで可能性:「科学素人の私は、ネットで見たガセネタを迂闊にも信じました。」
「そのガセネタを、家族に『これはニセじゃない、本物の科学だ!』と言って、教えてしまいました。」
「すると次の日は、ご近所や会社、町内へとガセネタ情報が広まっていました。」
「なぜか、国の偉い人にまでガセネタが伝わっていました。」「とうとう、ガセネタに税金が使われることが決まりました。」
「かわりに、まともな予算は減りました…。」

「でも、大丈夫!この国は、永遠に安泰です!だって今までが、そうでしたから!」
「国中がガセネタに踊らされたところで、専門家には関係ないですよね!」
「むしろ、全国民がガセネタを信じたおかげで、専門家の仕事環境が抜群に良くなります!」
「ああ、私は一市民としての責任を、立派に果たすことができた。いや、いい仕事しましたねえ。」(完)

…しかしながら、専門家の仕事を直接には邪魔していないので、私は偉いのである(^-^?
by TAKA (2010-03-07 21:24) 

pooh

> TAKAさん

おっしゃるような部分で「科学者の仕事はだれのものか」と云う議論がたぶん生じるんですよ。で、これは科学者本人たちにも、非科学者の側にも、ある種の明白な認識の共有が必要な状況にあるのかもしれない、とか思ったりもするんですね。
by pooh (2010-03-08 07:40) 

技術開発者

こんにちは、皆さん。

>プロの科学者になにを望むのか、と云うことを考えたときに、これらの内容からひょっとするとなにかしら手がかりを得られるかもしれない。

なんていうか、私はずっと「逆じゃないか」という話をしてきた訳です。なんていうか、「専門家から一般へ」という情報の流れは、もともと順調で無いのが普通でなんじゃないか?みたいな考え方なんですね。社会の健常な保守性論なんて言っていますけどね。

もともと、社会は保守的で専門家なんてのが、少々「こうなっているんだよ、こうやると良いよ」なんて事を言ってもおいそれと受け入れたりしないガンコさがあったと考えている訳です。そのガンコさの中で、専門家に生じたのが、専門家の集団化と徹底した検証という文化なんだと思うんですね。バラバラの専門家が自分の見つけた「新しい知見」を社会に出そうとしても、社会は容易に受け入れようとしないから、まずは専門家の中で知見を受け入れてくれる仲間を募る動きですね。そのために専門家の中では社会とは別な判断基準が発生する訳です。「とりあえず、検証結果を見ない限りは否定しない」という判断基準ですね。そうやって専門家の中でなら、まず新しい知見は検証結果を添えれば「見るだけは見て貰える」という文化が生まれる訳です。でもって、専門家は検証に文句が付けられないくらいに確かな話になった段階で社会に対して「これはどうやら真実らしいから受け入れてください」と集団で後押しして世に出してきた訳です。

なんていうかな、まず「ガンコで保守的な社会」というのがあり、そこに新規なものを出すためのシステムとして専門家の集団化とその集団の中の独自な文化が生まれていると考えてみる訳です。

そういう考えの中で、もし社会のガンコさが失われたとすると、専門家が築き上げていた文化は、何の意味も持たないだけでなく、むしろ社会にいい加減な話を広めるのを後押しする様にしか働かないのではないか、なんて考える訳です。

by 技術開発者 (2010-03-08 08:21) 

pooh

> 技術開発者さん

ここのところは、いつもながら見解に相違の出る部分ですね。たぶん、しくみの本質に着目するか、しくみの(そとから見た、つまりは社会から見た)機能に着目するか、なんじゃないかと思うんですが。

おっしゃるような部分では、日本のアカデミズムは、現在の制度としても歴史的経緯としても、ちょっと性格の違う部分があるんじゃないかな、とか思うんですね。知っている限り、たとえばギルドとして自立していた時期と云うのはないんじゃないと思うので、元来欧米のアカデミズムとは社会的機能が違うのかも、とか思ったりします。
by pooh (2010-03-09 07:31) 

かも ひろやす

こんにちは

欧米といっても欧と米では事情が違うので主に欧のほうで考えますが、アカデミアがギルドとして自立していた時期なんてないように見えます。大学が研究の拠点になったのは19世紀のことですが、そのときには大学は国家制度にがっちりと組み込まれています。17世紀から18世紀ぐらいは、大学はたしかにギルドとして自立していましたが(といっても、大学ごとの状況の違いがあって一概にはいえないのですが)、研究拠点としての機能はあまりなくて、むしろ、教育産業のギルドの性格が強いものでした。その時期の研究拠点は各地にあった大小のアカデミーです。それらは領主に完全に従属した存在で、領主のきまぐれでどうなるかわからない、不安定な存在でした。



by かも ひろやす (2010-03-09 11:52) 

pooh

> かも ひろやすさん

> 主に欧のほうで考えますが

あぁ、そうですね。そちらのほうが適切です。ありがとうございます。
ぼくはアカデミア外部の人間なので、どうも書き方が雑になっていけない。

ここの部分で技術開発者さんと見方が違うのは、そもそも変わり者の宿にしても運営にはパトロンの存在が必要なんじゃないか、それを(パトロンの認識として)有益なものとして運営し続けるには、パトロンとの接点でなんらかの調整機能は必要なんじゃないか、と云う部分でした。いや、厳密には見解の相違と云うほどのものではないんでしょうけど、その意味で自然発生的、と云うほどの自立性は根源的にはないように思うし、少なくともそこはもっと軋轢のほうがそもそも表面に近い部分にあらわれているのではないか、みたいな感じがします。

うむむ。うまく書けない。
by pooh (2010-03-11 07:42) 

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