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一般大衆の認識 [よしなしごと]

vikingさんの「似非脳科学者」を見分ける基準を考える(追記3件あり)と云うエントリが反響を呼んでいて(昨日付けの占いと霊能力と脳科学は同列?:「似非脳科学」が神経科学不信のトリガーを引いていると云うエントリもこの種の問題に関心のあるひとにとっては必読だと思う)。vikingさんは似非脳科学者の問題を神経科学者コミュニティが引き受けるべき問題である、と認識するスタンスにお立ちのようで、以前よりすばらしいことだ、とか感じていた(同じように、正統的な宗教家やオカルティストや呪術師のみなさんも、俗流スピリチュアルの問題に対してなんらかの行動を示してくれるようなことがあればうれしいなぁ、とか思う)。
で、そちらのエントリに言及したmayumetoさんのギリシアの神「プロメテウス」と似非科学者と云うエントリを読んだ。

昔、宗教が持っていた「権力」(+権威)と「暴力」(+威圧的態度)によって、科学は「似非宗教」だと弾圧され非難されてきた。
そんな事実があったんですか。ほんとかな。どこの国の話だろう。
西洋の話、と考えるとして。科学の探求による知見が教義と矛盾する、と云う理由による弾圧はあったろう。でもそれは「似非宗教」だと云う理由による弾圧とは違うのではないか。だいたい中世西洋の教会に異端や異教の概念はあっても、「似非宗教」なんて云う概念があったとは考えがたい(いまだってないだろう)。なので、
そして、今や科学が、かつて宗教が陣取っていた位置に着いた。今や科学の方が、自分たちがかつてされたのと同じように、「似非科学」を弾圧し非難する立場に立つことができた。
と云う節の意味がわからない。そもそも前提からわからない。
しかし、かつての科学と同じように、「似非科学」は、不死であるため、その肝臓は夜中に再生するという「プロメーテウス」である。
かんたんに同じようにとおっしゃっているけれど、どのへんが同じようなのかはわからない。ぼくとか、一定の人数のニセ科学問題にコミットしている論者は、たしかにニセ科学をなくすことは難しい(不可能かもしれない)とは考えているけれど、そこにはそれなりの考察に基づくいちおうの論拠はある。
肝臓が貯蔵し解毒する対象を、「知識」と置き換えると面白い比喩となる。しかも、肝臓の再生が夜中であるというのも暗示的だ。
おもしろいかもしれないけど、どのへんがなにを暗示してるんだかがさっぱりわからない。類似や符合があればそこに関連を見出して、そこになんらかの意味付けをしてしまう、と云うのはまぁわりと典型的な、人間の自然な呪術的思考だとは思うけれど、mayumetoさんのこの文章は呪術の文脈で紡がれたものではないはず。
科学の役目は、その思考実験(仮説)に対して、具体的実験から事実を紡ぎ出すことによって、真否を実証することである。思考実験(仮説)そのものが悪ではないはず。
もちろん。科学的に実証される前の仮説は未科学であって、ニセ科学ではない。まだ実証されていないものを「実証された」と主張するのが、ニセ科学だ。そして、自ら実証を試みる姿勢を示さない限り、それはニセ科学にとどまる。
しかし、一般大衆は、思考実験(仮説)が事実によって真否を実証されるまで待てない。あやふやでも良い、今すぐほしいのである。
一般大衆のひとりとして、その気持はよくわかる。そして、あやふやでも良いと云う自己認識にきっちりともとづいている限り、このことは誰からも非難されるべきことではない(多くのニセ科学は科学を詐称することによって認識の過ちを生み出す、と云う側面が非難されている)。
末期ガン患者は、未承認、未認可のガン治療薬や治療方法であっても、それがほしいのである。もちろん、承認済み、認可済みであるに越したことはない。そうでなくとも一か八か試してみたいのである。
一か八か試してみたいと云う気持ちを否定する論者は、ニセ科学にまつわる議論に継続的にコミットしているなかにはまずいない。ニセ科学として非難されているのは、そのような水準にあるものを「効果があると科学的に実証された」としてひろめるようなスタンスだ。
「今なぜ脳科学なのか」といえば、「認知症」があげられる。
そうなの? ほんとにそう?
真性(新生)の脳科学は、それを忘れないでほしい。また、残念なからまだまだそのような切実な思いには応えてくれそうもない。そういう無意識的な焦り、苛立ちが一般大衆側にあるという事実もお忘れなく。
まぁとくに忘れているわけではないと思うけれど、本質的に応用した際の効果を目的に研究がなされているか、と云うとそんなこともないだろうからなぁ(切実な思いに応えようとした場合に神経科学者が留意すべきことがらについては、vikingさんが神経科学(脳科学)を産業に応用する際には何に気をつけるべきかと云うエントリで考察している内容に示唆があるとおもう)。
いや、無意識的な焦り苛立ちにかられた一般大衆がニセ科学に期待してしまうこと自体は、とくに責めを負うべきことでもないと思いますよ。それはいんちきで効果がないものなので、望ましいことだとまでは思えないですが。
私は、「似非科学」は「混沌」と「事実」とか混ざり合うフロンティア(開拓において最前線となった辺境地帯、広い可能性を秘めた開拓の対象となる領域)だと思う。
思うのは勝手ですが、必ずしもそうとは限らないですよ。
新しい分野が興るのは、「フロンティア」からであると感じる。玉石混淆の中から「玉」を選り分けるのが、科学の一つの仕事ではないか。霧がかかった場所から霧を吹き飛ばして事実をありのままに見せるのが科学ではないか。
多くのニセ科学とか似非科学とか呼ばれるものは、その結果すでに石だと判明しているものです。また、vikingさんが「似非脳科学者」と呼んでいるのは、いまだ霧がかかったままの場所にある石だか玉だかわからないものを、適切に霧を払うこともせずに「玉」として提示する行為をおこなう輩のことです。
科学による「似非科学」のレッテル張りは、最初から、権威のお墨付きがついたものだけを一般大衆は有り難く受けとれと感じてしまう。
天羽准教授が喝破したように、ニセ科学・似非科学を批判する行為はレッテル貼りではなく、科学でないものがみずからに貼り付けたレッテルを剥がす行為です。権威のお墨付きがついたもの以外のものを受け取るのは自由ですが、権威と云うものがなんのために成立し、存在しているものか、と云う部分の考察についても併せてお忘れなく。
真性科学者の皆さん、「似非科学」は、一般大衆者からは、「フロンティア」にたむろする玉石混淆の「プロメーテウス」だと感じていることだけはお忘れなく。
どこの一般大衆者の話をしてるんだか知らないけど、大事なのはその一般大衆者がそんな妙な感じを抱かないようにするにはどうすればいいのか、じゃないかと思うけどね。
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真夢人

私のブログを読んでいただきありがとうございます。
また、丁寧に内容を引用しながら、話を展開しておられ、大変参考になりました。重ねて、お礼申し上げます。

ただ、気になるのは、脳科学の本を読んでいると、事実だけを紡いで、論を展開されている本にお目にかかることが滅多にありません。

事実の隙間を論理でつないで、いるのがごく普通です。論理もダメなのでしょうか。
まだ、脳科学分野では、実証されている事実からではほとんど社会に向けて話を展開できるほどのレベルにまでは進んでいないようなのですが。
たぶん、それでは本を出版してもらえないから、編集者の期待に添うような内容にするために、ほとんどの本が実証された事実以上の事柄を述べておられます。この辺についてはどう思われますか。
一般大衆に読んでもらうためには、事実以上の事柄がかなり混じっている内容を書かざるを得ないと思うのですが。そうでなければ、出版には至らないのでは。
by 真夢人 (2010-02-11 00:52) 

pooh

> 真夢人さん

いらっしゃいませ。

> 事実の隙間を論理でつないで、いるのがごく普通です。論理もダメなのでしょうか。

そんなことを書いた覚えはないのですが。どの部分を読んで、そのように思われたのでしょうか。

> 実証されている事実からではほとんど社会に向けて話を展開できるほどのレベルにまでは進んでいないようなのですが。

それは「社会に向けて話を展開できるほどのレベル」と云うのをどう想定するか、でもあるのではないでしょうか。

> 一般大衆に読んでもらうためには、事実以上の事柄がかなり混じっている内容を書かざるを得ないと思うのですが。

そう云うものは誤解を生まないよう、科学者の看板を下ろしてから書くべきだと思います。
by pooh (2010-02-11 06:09) 

Seagul-X

こんにちは。
pooh さんも書かれているように、この blog にも、viking さんのところにも、事実の隙間をつなぐのが駄目だと読める箇所は私には見当たりませんでした。

それに、「事実の隙間を論理でつなぐ」というのは私には違和感があります。隙間のつなぎかたは一通りではない場合も多く、そのなかからひとつのつなぎかたを選択しているわけですから、「論理」というより「仮説」と表現したほうがよいのではないでしょうか。つまり「事実の隙間を仮説でつなぐ」わけです。

でも仮説の部分はあくまで仮説で、後になって正しいとわかるかもしれないし、否定されるかもしれません。その部分を仮説であることを示さずに事実であるかのように書くのは誠実ではないと私は思いますし、仮説であることを示したからといって出版に至らないとも思いません。
脳科学の本はあまり読んでいないので状況は真夢人さんの書かれたとおりなのかもしれませんが、自然科学一般でみると一般向けの解説書でも良質の本はちゃんと事実としてわかっていることと、まだ仮説であることとを区別して書かれています(ちゃんと書いてあるのに読むひとがそれを区別できないのは、また別問題ですが)。脳科学の分野だけ例外で区別して書いたら出版できない、というのは私にはあまり考えにくいですね。

詐欺師がもっともらしい嘘をつくために嘘の中に事実を織り交ぜる、という話を聞きますよね。真夢人さんがそう主張しているつもりではないだろうことは重々わかっていますが、なんというか「あのひとは正しいこと“も”云ってる、だから詐欺師なんかじゃない」と強弁しているような、そんな印象を私は受けます。

by Seagul-X (2010-02-11 11:52) 

pooh

> Seagul-Xさん

> 事実の隙間をつなぐのが駄目だと読める箇所は私には見当たりませんでした。

たぶん真夢人さんは「そう云うことを云っているだれか」に異論を唱えたいんだろうな、と思います。その「だれか」が実在していようとしていまいと。

> 一般向けの解説書でも良質の本はちゃんと事実としてわかっていることと、まだ仮説であることとを区別して書かれています

文芸である、とはっきり示していない限り、これは書き手の側に求められるべき最低限の矜持なんじゃないかな、と思います。

> 「あのひとは正しいこと“も”云ってる、だから詐欺師なんかじゃない」と強弁しているような、そんな印象

ぼくの印象はまた違っていて。
上にいただいたコメントにあるように、真夢人さんはご本人の主張の根拠についてぼくが疑問を差し挟んだ部分についてはほとんどなにも触れないまま、その主張の結論だけを繰り返されています。つまるところ「大衆が求めているものを提供するのは、それがどんな帰結になる場合でも許容されるべきだ。だって大衆が求めてるんだから」と云うことを述べたいだけなんだろうな、と思います。
by pooh (2010-02-11 19:06) 

かも ひろやす

そもそも、「一般大衆」と「真性科学者」の二分法が、ダメダメですね。知識を独占する少数と無知蒙昧なその他大勢という、世間知らずのボンボンの社会観ではないですか。ばかばかしい。

by かも ひろやす (2010-02-13 11:22) 

pooh

> かも ひろやすさん

> 「一般大衆」と「真性科学者」の二分法が、ダメダメですね。

ここのところはやや微妙な問題をはらんでいて。
と云うのは、「専門家」と「非専門家」のあいだの線はあるんですよね。で、そこに係わる「権威」と云うものもあって。権威、と云うのはそのしくみを理解して適切に用いれば有益なものなんですが、そこのところに混乱があるのかな、とかも思います。

まぁでもそれはそれとして。自分が「一般大衆」である、と云う認識は、なにかしらの免責にはつながらないんですよね。
by pooh (2010-02-13 21:07) 

かも ひろやす

どうも、ああいうのには不快感が先走っちゃってごめんなさい。

で、二分法の件ですが、「専門家」と「非専門家」の違いは歴然とありますが、その間には「半専門家」が連続的に存在しているんですよ。自然科学だと、当該分野の研究者が「専門家」として、隣接分野の研究者とかメーカーの関連応用分野の開発担当者とか中学高校の理科教員とか新聞社の科学部所属の記者とか、様々な職種の「半専門家」がいて、「専門家」への近さも様々で、それで社会が成り立っているんです。

元記事は、何も知らない「一般大衆」と何でも知っている「真性科学者」って発想で書かれているでしょう。世の中がどのように動いているか、全然わかっていません。そこが、世間知らずのボンボンの社会観なんです。

by かも ひろやす (2010-02-14 11:35) 

かも ひろやす

失礼。元記事が複数あるので、どれへの批判なのかを書かないと紛らわしいですね。いうまでもないでしょうが、「ギリシアの神「プロメテウス」と似非科学者」です。

by かも ひろやす (2010-02-14 11:39) 

TAKESAN

今日は。

慎重で誠実な書き手というものは、「飛躍を明示」していますね。ここは厳密さを欠くので注意して読んで欲しい、詳しくは専門書を当たって欲しい、と丁寧に示しつつも解りやすい説明を行い「橋渡し」をするのが、良質な啓蒙書・普及書 というものです。プロは「ウソに敏感」だし、またそうであるべきなのだと思います。

そこら辺に、悪い意味で妥協した産物は、なるだけ早く消え去って欲しい、というのが「専門家で無い」者の一人としての率直な意見です。
by TAKESAN (2010-02-14 15:09) 

pooh

> かも ひろやすさん

> その間には「半専門家」が連続的に存在しているんですよ。

これはまちがいないですね。同意します。
専門家の役割があって、半専門家の役割があって。だれしもそれぞれの専門性があるので、そこを協調しながら社会は成り立っているわけで。

> 何も知らない「一般大衆」と何でも知っている「真性科学者」って発想

こう云う発想はよく見受けられますよねぇ。でもたとえば、ほかの分野では自分のほうが専門家、と云うのはよくあることで。こう云う二分法で考えるようなかたが、ご自分の専門分野で他者に対して抑圧的にふるまったりはしていないのか、と云うあたりがときおり気になります。
by pooh (2010-02-14 15:39) 

pooh

> TAKESANさん

> 「飛躍を明示」

これは確かですね。その部分をあいまいにして、誤解を招くようなことがないように留意している。ぼくが竹内薫に対して微妙な感じを抱きながらも否定しないのは、そこを押さえている、と感じるからです。

> 悪い意味で妥協した産物は、なるだけ早く消え去って欲しい

すくなくとも「ニーズがあるから」なんて理由で許容することはできないです。
by pooh (2010-02-14 15:42) 

技術開発者

こんにちは、poohさん。

以前に「ガンコ村のオッチョコチョイ宿」というおとぎ話を書いたのを覚えていますか?その時に、「象牙の塔とは社会を乱すおそれのあるオッチョコチョイを閉じこめておくところ」なんてロンドン塔みたいな話になっていった事とか・・・。

なんていうか、物事には常に両面があると思って居るんですね。新しいことを見極めないと気が済まない研究者という生き物には、「社会を変える可能性のある新たな学説を提示する」という正の側面と、「普通の人が考え付かないことを考えて言い出すことで世の中の秩序を乱してしまう」という負の側面があるんということなんです。おとぎ話の方では、「このキノコは食えるかも知れない、おいしいかも知れない」と食ってしまうという事を書いたのですが、その「食えるかも知れない」を村のあちこちで言いふらされるととても危険なので、オッチョコチョイ宿の中でのみ言わせて、そして食ってみさせてきた訳です。その結果として、本当に食えて美味しいと言うことがはっきりしてから、村の中で言うことを許す様な感じかな。

なんていうか、「象牙の塔に籠もる」事を社会が排除するということは、オッチョコチョイをガンコ村の中に解き放つことと同じだろうと思います。ガンコ村の村人が「自分たちはオッチョコチョイのまだ思いついたにすぎない程度の事には惑わされない」というのでなければ、オッチョコチョイ宿に閉じこめる方が村としては平和なのですけどね。

by 技術開発者 (2010-02-15 08:08) 

pooh

> 技術開発者さん

以前からちょっと考えていたりしたんですが、この例え話の場合、使う場所によっては「宿をつくったのはだれか」と云う部分を踏まえないとちょっと難しいかな、みたいに思ったりすることがあるんです。村が宿をつくってオッチョコチョイを押し込めたのか、宿をつくってオッチョコチョイがそこにこもったのを村がこれさいわいと容認したのか、の部分ですね。結果としては同じなんですが、歴史的経緯を踏まえてそこのところがわからないままだと、応用がちょっと難しい。ミクロに見れば宿それぞれ、と云う部分がたぶんどうしてもあるので、普遍性が要請される議論の場合は留意が必要かも。

この例え話の射程からはでてしまうのかもしれないんですけど、例えば「科学の方法」みたいなのは、宿の住人が自らを律してより効率良くオッチョコチョイを行うために(実を結ばないオッチョコチョイ行動を減らすために)採用した方法だったりしますよね。
by pooh (2010-02-15 21:45) 

技術開発者

こんにちは、poohさん。

>「宿をつくったのはだれか」と云う部分を踏まえないとちょっと難しいかな、みたいに思ったりすることがあるんです。村が宿をつくってオッチョコチョイを押し込めたのか、宿をつくってオッチョコチョイがそこにこもったのを村がこれさいわいと容認したのか、

う~ん。結構難しいですね。いろんな学会みたいなものの発展史からから考えると、その両者がありそうな気がするんですね。なんていうか、このおとぎ話でも村の名前を「ガンコ村」としている様に、もともと社会は現代ほど「新しい物好き」ではなくて、結構保守的、事無かれ主義的であったと思うんですね。「社会の健常な保守性」なんて議論もしているけど、そういう社会では、「何かにのめり込むもの」というのは、それなりに嫌われるのが普通なんですね。なんていうかな、例えば忘年会で幹事が「幹事の独断ですが魚料理の店にします」というと大抵のメンバーは「まあ、魚は好きでも嫌いでもないがそれでよいか」と言うのだけど、「肉好きな奴も魚好きな奴もいるから、両方満たす店はないものか」なんてい言い出す奴がいると、「たかが忘年会でそんなにこだわるなよ」とみなが思う様なね。でもって、そういうこだわり人間は自然に寄り集まる方が気分が良かったりする感じかな(笑)。周りがそれとなく嫌うから集まるとも言えるし、仲間を求めて自分で集まるとも言えるしね。

>例えば「科学の方法」みたいなのは、宿の住人が自らを律してより効率良くオッチョコチョイを行うために(実を結ばないオッチョコチョイ行動を減らすために)採用した方法だったりしますよね。

なんていうか、仕事場の忘年会なんてそう料理にこだわるものでも無いんだけど、実際、「みなが満足出来る店でする」ことにこだわりを持つ奴に幹事をやらせるなり、幹事が店を決めるときに相談すると、いろんな店の事を良く知っていたりする奴もいて、それなりに重宝されたりする訳です。そいつが詳しいのは、やはり自腹切って飲み歩いているからなんですね(笑)。
そういう奴だと出張で初めての街でも「たぶん、この店は良さそうだ」と勘が良かったりする。なんていうかな、そういうのが「格好良いから」と、自腹で飲み歩いて居ない奴が格好だけで、「この店が良さそうだ」に付き合ったりすると「入るんじゃなかったな」になる訳ですよ(のんべえは一日にして成らず:笑)。

by 技術開発者 (2010-02-16 08:36) 

かも ひろやす

日本数学会と日本物理学会の共通の前身である東京数学会社の歴史をたどると、研究者の会として純化していく過程が見えてきます。初期には数学愛好家のような人も参加していたのが、活動が専門的になっていくにつれてぽろぽろと脱落しています。

技術開発者さんの言葉を借りれば、オッチョコチョイ宿に入ってみたものの、オッチョコチョイさが足りなくて結局は疎遠になってしまった人たちがいたということで。

by かも ひろやす (2010-02-16 16:22) 

pooh

> 技術開発者さん

まぁ、この例え話のキモが、「そのことが好きで、しかも適切な資質を持っていて、でもそのまま社会に放流していくと保守性に抵触する可能性の高い人間の扱いかた」みたいな部分にあるのはわかっているんですよ。ただ、その成り立ちによって、社会から見て「必要」なのか「容認」なのか、みたいな部分がちょっと変わってくるよなぁ、みたいな感じもあったりして。こう云う世情ですしね。

> (のんべえは一日にして成らず:笑)

まさに。胸を張って同意します。
by pooh (2010-02-16 21:24) 

pooh

> かも ひろやすさん

> 研究者の会として純化していく

あぁ、やっぱりそうなのですね。
技術開発者さんの例え話の強力な論拠となりますなぁ。

時節柄、この種のお話は受け止める側にバイアスが生じがちなのですよ。オッチョコチョイにオッチョコチョイをさせておく意義、みたいなのが余人に見えづらくなってしまったり。
by pooh (2010-02-16 21:26) 

技術開発者

こんにちは poohさん。

>時節柄、この種のお話は受け止める側にバイアスが生じがちなのですよ。オッチョコチョイにオッチョコチョイをさせておく意義、みたいなのが余人に見えづらくなってしまったり。

前にも書いたかも知れないけど、私はそのオッチョコチョイ集団とまともな社会の隙間に居たことのある人間なんですね。研究所の移転で新しい建物を建てて引っ越す実務担当者という立場ね。つくづく、「扱いにくい奴らだ」と思わざるを得なかった訳だし、同時に「こいつらから扱い難さを取り上げたら、研究はできないんだろうな」とも思ったんですね。私の仕事の大半は、その身勝手なこだわりで「こういう実験室にしてくれ」という要求を「それは、お前のワガママ」と踏みつぶす事だったんだけどね(笑)。実は、4年間かかったその仕事の間に3回くらいだけ言ったんですね、「あなたの部屋を作るのではありません、あなたが使うかも知れない研究所の部屋をつくるだけです」なんてね。本当は言いたく無かったんです。「俺の研究」「俺の実験」「俺の実験室」という強いこだわりこそが、彼らが研究に没頭する動機だからね。だから「はいはい、あなたの大事な研究をするあなたの実験室ですよ」といろんな要望をかなえながら作ってあげたかったけど、それを聞いたら建物がまともに建たない(笑)。

なんていうかな、人のことは言えないんだけどね、そうやって研究者の相手をしながら、いろんな専門の連係プレーでできあがっていく建物を建てていて、ふと思ったのね。「こいつらを連係プレーが求められる社会の中においたら、たぶんトラブルメーカーだろうなぁ」なんてね。まあ矯正されるとは思うけどね。

その時から頭から離れないんですよ、「トラブルメーカー収容施設としての研究機関」みたいな概念がね。いや、人の事だけじゃなくて自分も収容すべき場所としてだけどね。

なんていうかな、それは同時に「新規な事を生み出す有用な機関」でもあるのね。ただ、その別な側面として「トラブルメーカー収容施設」でもあるというか、人間の文化のとても上手い部分として「マイナスをプラスに変える手品」みたいな形で研究者とか研究機関が成り立っている様な考え方ね。

なんていうか、それを「有用な機関」の面だけ見て、それを正面に出させようとすると、文化の手品が破れてマイナス面がモロに社会に出てしまう幹事を受けている訳です。

by 技術開発者 (2010-02-17 12:47) 

pooh

> 技術開発者さん

ぼくもぼくで「まともな人間」にはオッチョコチョイと見られ、真性のオッチョコチョイからはつまらないふつうの人間と見られる、みたいな場所にいる人間ですけれど(この間もグラデーションですからね)。

> 人間の文化のとても上手い部分として「マイナスをプラスに変える手品」みたいな形で研究者とか研究機関が成り立っている

ここ、結果論ですけど、うまくできてるよなぁ、みたいに思ったりはします。まぁ社会的なコントロールがいっさい効かない、と云う部分でもないですけど、結果的にこれまで「角を矯める」みたいなことは生じていない。ただまぁ「時節」とか繰り返しているのは、現状(あるいは近い将来には)どうなんだろう、みたいなところがあるからですけどね。
by pooh (2010-02-17 22:32) 

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