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【仮説】実践・波動マーケティング入門 [よしなしごと]

# わけのわからんタイトルになってしまった。

今週月曜のニセ科学フォーラム2009には行けなくて(遠いよ。でも大阪遊びに行きたい)、ここにちょっと常駐リンクを置いておいただけだったんだけど、参加された方々のレポートがいくつかあがっていて読んだりしている。
で、フォーラムにおける左巻教授の担当プログラム「教育の世界にはびこるニセ科学」について、hietaroさんのニセ科学フォーラム2009の話その2および黒影さんのニセ科学フォーラム2009に行ってきましたと云うエントリで少し詳しく触れられている。

左巻さんはここで船井幸雄氏のビジネス論に触れた、とのことで、黒影さんのエントリにはもとネタとおぼしき本の抜粋が掲載されている。左巻さんご本人はまだウェブなんかには公表されてないみたいなんだけど、その際に配布されたらしい資料からの要約が、hietaroさんのエントリにある。
 当日配られた左巻さんの資料の中で、船井幸雄による人の分類について紹介されていた。
 船井によると人は4種類に分けられるという。
 第一のタイプが「先覚者」。こちらから見ればこれは「何でも信じる人」「すぐダマされる人」になる。この人たちがまず飛びつき、そして周りに積極的に広める。全体の2%ほどであり男女比は2:8。
 第二のタイプは「素直な人」(20%)。「先覚者」の言うことに素直に耳を傾ける。
 第三のタイプは「普通の人」(70%)。
 第四のタイプが「抵抗者」(10%弱)。50歳以上が多く、職業的には学者、マスコミ人。船井は「抵抗者は無視」という。
 「先覚者」の3、4割が動き出すと「素直な人」の半分くらいが同調し、さらに「普通の人」が追随するという......。
読んで気付くひとも多いと思うけれど、これは古典的マーケティング理論のひとつであるところのイノベーター理論の構造を下敷きにしたものだ、とまず確実に云えると思う(イノベーター理論についてはミツエーリンクスのサイトにある棚橋弘季さんによる解説がわかりやすい)。人口比として提示されている割合は違うけれど、用語の翻案としては「先覚者」=イノベーター、「素直な人」=アーリー・アドプター、「普通の人」=アーリー・マジョリティ+レイト・マジョリティ、「抵抗者」=ラガード、と云うことになる。あくまで構造は、と云う話になるけれど、とりあえず50年近く前のエベレット・ロジャースの理論そのまんま(焼き直し、と云う言葉も使いたくない)で、その点ではなんの新味もない。逆に50年近くもマーケティングの古典的な基礎理論として用いられ続けているものなので、説得力と云う面ではじつに効果的な剽窃である、とは云える。世間であまりポピュラーではない概念にあたらしいラベルを貼り付けて商売にしているどこぞの「脳科学者」にも手口としては似ているかも。

イノベーター理論は特定の商品が普及していく過程についての理論で、だからある商品を売る=普及させるための方法を考える(マーケティングをおこなう)ために援用される。
商品は日々開発され、発売される。販売するためのマーケティング作業も商品ごとに繰り返されている。なので、イノベーター理論の適用範囲は一回性の事象ではない(個別の商品の普及プロセスにフォーカスすれば別だけど)。それぞれの消費者のセグメントも固定的なものではなくて、個々の消費者がどの層に属するのかは厳密には適用する商品ごとに違う。ここから、特定の商品の属性を分析してそれぞれのセグメントのプロファイルを抽出し、そこを足がかりとしてアプローチ先を決め、アプローチの方法を工夫していく、と云うマーケティングとしては基本的な手法につながってくる。なんとかしてイノベーターに食いつかせ、そこからアーリー・アドプターに普及していく流れをつくり、さらにマジョリティにまで販売を広げていく、と云う手順。

ここで出てくるのがジェフリー・ムーアによるキャズムと云う概念(ミツエーリンクス・マーケティング用語集「キャズム」)。これはアーリー・アドプターとマジョリティのあいだにある「溝」のこと。ここを超えないと商品は普及せず、ヒットしないまま終わることになる。

似ているは似ているとして、じゃあ違うところはどこだろう。

まず「先覚者」「素直な人」「普通の人」「抵抗者」と云う用語。ここにはもとネタの各用語に含まれていない価値評価が含ませてある。
イノベーターはべつにえらくはない。商品に飛びついても、その商品が普及しなければただのおっちょこちょいの新しもの好きで。でも「先覚者」となるとだいぶ意味合いが違う。そこには定められた、向かうべき、正しい方向にまっさきに向かう人間、と云うニュアンスが生じる。もとの理論ではヒットするかどうかわからない商品に食いつく存在として定義されているイノベーターと云う概念に、ここでは「すでに趨勢として確定されている方向にいちはやく向かうもの」と云う意味づけがなされているわけだ。

この「定められた方向」と云うのを示すのに、例えば「アセンション」のような概念が持ち出される。アセンションを「信じて」しまえば、そこに向かって正しい行動を取っている「先覚者」の云うことをきいて「素直な人」としてそのとおりにふるまうのが「正しい」と云うことになる。
じゃあ、その正しい「アセンション」を定めたのはだれか? たぶん、「筑波大学名誉教授の村上和雄さんがおっしゃる『サムシング・グレート』」とか、そのあたりなんでしょう。だったら、「先覚者」ってだれだろう。それは「船井さんがおっしゃるところの本物のかたがた」と云うことになるのではないでしょうか。
え? その「本物」のかたがたがおっしゃっていることをニセ科学だって云ってるひとたちがいるって? そのひとたちは「抵抗者」なんですよ。既得権益にしがみつくイルミナティの手先です。そんなひとたちの云うことは聞かないようにして、あなたは百匹目の猿として、新しい時代を導くきっかけになるんです!

でまぁとりあえずここからは(構造は酷似しているとは云え)一応船井氏の理論をイノベーター理論とは別のものと捉えたうえで、イノベーター理論のほうから船井氏の理論と戦略を読み解いてみる。こんな感じかな、みたいな話で、厳密な検討をおこなったわけではないので精度は知れてるけど、まぁ仮説。じっさいに話を聞いたわけではないので、左巻さんの理解とも違うかもしれない。

じっさいの人口比についてはわからないし(船井氏の根拠もわからないし)、個別のニセ科学的事象について相違もあるんだろうと思うのだけど、いわゆるビリーバーと云うのは「素直な人」=アーリー・アドプターにあたる。組織化されたものとしてはTOSSとか。
で、マーケティングのステップとして、このアーリー・アドプターへの普及を充分におこなう。アーリー・アドプターからアーリー・マジョリティへの影響力が強まり、なんとかしてキャズムを超えれば、商売としては非常に儲かる、と云う手順になる。
血液型性格診断を典型に、キャズムを超えてビッグ・ビジネスになっているものもあるわけで、船井氏の云うところの(そして商材として扱うところの)「本物」がこぞってキャズムを超えてくれればぼろもうけ、と云うシナリオはまぁ、わりあいと理解しやすい。
「エコロジー」をキーワードに類似の手法を用いて個別のアイテムの販売に大成功した、ロハス・マーケティングって云う先行事例もあるわけだしね。

逆に、ニセ科学を提唱するほうがけっこう集合しやすい、トンデモとトンデモは惹きあう、と云うしくみの根っこにも、こう云う側面はあるのかもしれないな、と思う。
商売としての肝は「信じさせるかどうか」にあるわけなので、ひとつを信じればほかのものも信じられる、と云うような構図をつくっておけばシナジーが期待できる。「波動」が信じられればEM菌もホメオパシーも七田式も信じられる(のでそこにお金を払う)、と云う体系さえつくってしまえば、そこそこのアイテム数がそろっているぶん全体としてはけっこう大きいビジネスになるはず。
ついでに云うと、アーリー・アドプター層に直接的な先行者利益を与えて積極的に影響力を行使するためのモティベーションを供給する、と云う手法も採用は可能。手法面ではこれはマルチ商法、と呼ばれるものになるわけだけど、ビジネスモデルとして捉えるとまた違うかも。

まぁこう云う構図がじっさいに意識されているのか、戦略的に適用されているのか、と云えばもちろん確証はないわけだけれども、逆に云うと本業を経営コンサルタントとしている人間がこのへんのことを考えていない、と云うのもありえない気もするわけで。
...なんてことを書いていても、結局のところぼくなんかにできるのは、キャズム超えを後押しする言説に対して、蟷螂の斧を承知で対抗言論をほそぼそと提出することぐらいなんだけどね。
 結局、たいていの「科学」にまつわる(特に「ニセ科学」の)問題は科学的に云々という話を持ち出すずっと前の段階で「おかしい」と判断することができる問題なのだ。それをしないで一足跳びに科学に答えを求めようとするからニセ科学に引っかかったりする。というか、それこそがニセ科学蔓延の原因だと思う。
hietaroさんがお書きのこの一節に、ぼくはつよく同意する。
もちろんそこを判断することが簡単だ、とは思わないし云わない。でも(語弊を承知で云うと)そう云う判断の仕方は自然科学者から教えてもらわなきゃいけないものではないだろう、みたいに考える。
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黒猫亭

>>もちろんそこを判断することが簡単だ、とは思わないし云わない。でも(語弊を承知で云うと)そう云う判断の仕方は自然科学者から教えてもらわなきゃいけないものではないだろう、みたいに考える。

オレもこれには同感です。ニセ科学問題に首を突っ込む前から考えていることなんですが、一般人レベルで考えるなら、原理的に考えて専門家でないと見破れないようなニセ科学に騙されたとしても、それは仕方がないことなんじゃないかと思います。

専門家と非専門家の間では、持てる知識や情報にハンディがある、それは埋められないのが当たり前だろうと思いますので、すべての分野において専門家になるのが不可能である以上、そのレベルの高等な詐術に騙されるのは仕方のないことだろうと思います。

問題なのは、専門知のレベル以前の、論理的・合理的な判断で考えても破綻しているようなお粗末な言説に騙されることで、以前ウチでYJS さんが紹介してくださったダイヤモンド社のコラムでも、田中秀臣教授が「実際にそのトンデモ経済学の多くは、まっとうな経済学で批判しなくても、ただの論理的な推論だけであやしさがばれるものが大半なのですが」と指摘していて、このような事情は自然科学の領域だけに留まらない事柄なのだと思います。

ここで言われている「ただの論理的な推論」を一般人が常備すると謂うことが、現実的なニセ科学対策なんじゃないかと謂うのがオレの一貫した考えです。これは別段専門家と非専門家の間で知識や情報のハンディがあるわけではなくて、誰でもちょっと意識することで論理性や合理性を獲得することが可能だと思うんですね。

そこからの連続上でいろいろ考えていくと、おそらくここは多くの方とは意見が違っている部分だと思うんですが、ニセ科学問題に対しては必ずしも将来世代に対する科学教育が重要だとも言えないし、現在世代の一般人が科学を勉強すると謂うことも重要ではないんではないかと謂うふうに最近考えています。

児童教育において科学教育をもっと拡充する、と一口に言うのは簡単ですが、この認識は「従来は科学教育が軽視されてきたから一般人に科学的素養が根付いていないのだ」と謂う仮定に依拠しているんだと思います。つまり、科学教育にもっと力を入れれば飛躍的な伸びしろがあると謂う仮定です。しかし、これは現場の教育者に言わせれば「冗談じゃないよ」と謂うのが実態だろうと思うんですよ。

この種の問題で教育を論じる場合、「従来の教育が間違っていたから成果が出ていないのだ」と謂う出発点から考えても仕方がないんだと思うんですね。いろいろ調べてみたり詳しい方からお話を伺った限りでは、現場の教育者も児童が科学なんかわからなくても好いなんて考えていないわけで、如何にしてわからせるかに意を砕いている。

しかし、自然科学と謂うのは少なくとも高校レベルまでの理系の教科の内容を継続的に漏れなくクリアする必要があるわけで、そのような一貫した継続的な訓練についてこられない児童が大多数であると謂うのが現状だから、一般人の科学的素養のレベルが現状に留まっているわけで、これは教育の大本に関わる本質的な課題ですから、何かちょっとした工夫や方針の転換で飛躍的に改善可能なわけでは決してないでしょう。

間違っているのであれば間違いを正せば結果は出ます
が、間違っていなくても現状の限界は存在するわけで、そこを打開するのは創造的ブレークスルーの問題で、間違い探しの問題ではありませんよね。

また、大人の一般人が今更勉強するかと謂うと、これも現実的ではないでしょう。科学的素養を身に着ける為の勉強と謂うのは、直接仕事に役立つわけではないですから、趣味や教養のレベルと見做されるわけですが、大多数の一般人が趣味や教養にどの程度の時間が割けるかと謂う大枠の問題があり、さらにそれを科学的素養を身に着ける為の勉強に充てるか否かと謂うのは個人の価値観の問題になってきます。

どうしても一日は二四時間しかないのですから、自由に使える時間は限られています。それをどのように使うかと謂う場面で、科学的素養を身に着ける為の勉強に充てると謂う人は物凄い少数派になるでしょうし、限られた余暇をそれに充てるべきだと謂う主張は殆ど誰も受け容れない。そして、それを受け容れないことには非常に尤もな理由があります。

それらを考え合わせるなら、一般人レベルでニセ科学問題を考える場合に重要なのは、物事の真贋の判断基準となる合理性や論理性を如何にして獲得するのかと謂う問題なのかな、と謂うのが現時点までの一貫した考え方です。
by 黒猫亭 (2009-11-27 04:11) 

pooh

> 黒猫亭さん

> 「ただの論理的な推論」を一般人が常備すると謂うことが、現実的なニセ科学対策

これは完全に同意します。と云うか、ぼくも一貫してそのスタンスです。
ぼくの場合、その場合に必要なのは「わかりやすさに過剰に重きを置かないこと」「一歩踏み込んで考えること」だ、と云う主張になるわけですけど。

> ニセ科学問題に対しては必ずしも将来世代に対する科学教育が重要だとも言えないし、現在世代の一般人が科学を勉強すると謂うことも重要ではないんではないかと謂うふうに最近考えています。

ここは意見が違っていて。
自然科学そのものを学ぶことと、自然科学的な推論の能力を獲得することが、完全に分けて考えられることだ、とはあんまり思っていないんですね。科学教育、と云う部分についてはあんまりつめて考えているわけではないので明晰な主張はできないんですが、一定水準までの基礎体力的な自然科学の素養はやっぱりある程度合理的な考えかたの基礎になるし、それはやっぱりじっさいの自然科学による果実に準拠して学ぶほうがいい。

どうなんでしょうね。現実的になにができるか、と云う部分をちょっと離して云わせていただくと、最終的な目的をどこに置くか、と云う部分を再考して、そこから身につけておくべき素養はなんなのか、と云うのを見直してフィードバックする、と云うのが望ましい姿にも思えるんですが、さてこれが実現可能なのか、と云うとよくわからないです。
by pooh (2009-11-27 07:37) 

apj

読み替え表。

先覚者=粗忽者
素直な人=カモ
普通の人=野次馬
抵抗者=慎重な人

こう言い換えた方が本質を表しているんじゃないかと。
by apj (2009-11-27 19:08) 

pooh

> apjさん

ひどいおっしゃりようですがまぁそのとおりです。
通常の商品の場合、そこで訴求していくのが便利さとかおいしさとかかっこよさみたいな商品力になるんですが、ここで癒しとかエコロジーを訴求するとロハスになって、スピリチュアルめいたものを押し出すと波動マーケティングになる、みたいな感じですかね。
by pooh (2009-11-27 20:52) 

hietaro

御紹介ありがとうございます。m(_ _)m

私はこう考えているので、この日の Scienthrouh 代表の発表について、「ニセ科学にあまり関係なかったけど発表してた」みたいに書いていたブログをいくつか見かけて残念に思いました。

by hietaro (2009-11-28 02:42) 

pooh

> hietaroさん

サイエンスルーのかたの発表については、内容の詳細なレポートを見かけていないので、わかんないです(^^;。

ぼくももう3年くらいずっと、「ニセ科学は自然科学だけの問題じゃない」と云い続けてるような気がします。
by pooh (2009-11-28 06:14) 

黒猫亭

>poohさん

>>自然科学そのものを学ぶことと、自然科学的な推論の能力を獲得することが、完全に分けて考えられることだ、とはあんまり思っていないんですね。

ああ、少し誤解を招く書き方だったかもしれませんね。科学教育が要らないとか役に立たないと謂う意味で「重要ではない」と言ったわけではないんです。ニセ科学対策のアクションとして、科学教育を従来以上のレベルにどうにか出来るかと言えば、それは出来ないだろうし、必要なアクションの重点はそこにはないんじゃないか、と謂う意味です。

それと、これはオレのほうでもあまり具体的な論拠を示せないんですが、この場合に必要な論理性や合理性は「自然科学的な」ものでなければならないのかと謂うと、そうでもないんではないか、と謂う感触を得ているんですね。これも「自然科学的な」もの「ではない」と謂う意味ではないのでややこしい言い方になりますが。

オレは最近では、昔の人に比べて今の人の常識がなくなったとは考えないようになってきているんですが、単に昔なら実感的な論理性や合理性で考えて「そんな莫迦なことがあるわけがない」と判断可能だった事柄が、科学と謂う「魔法」がブラックボックスとして介在することで「何でもアリ」になってきて、当たり前の判断が出来なくなっている、それがニセ科学問題なんではないかな、と思うようになりました。

たとえば水伝なんて、普通に考えれば水みたいな耳も心もないものに人間の言葉がわかるはずがないなんてことは子供にだってわかりますが、そこに「実験」と謂う道具立てによって科学らしきものがニュアンスとして介在することで、こんなにアカラサマな非常識が尤もらしく聞こえるのだろう、と。

だから、論理性・合理性と謂う場合、自然科学と謂う特定領域に踏み込むことは必ずしも必要ではなくて、人間の思考やコミュニケーションを支えている普遍的な合理性・論理性が健全に機能する仕組みがあれば好いのかな、と漠然と考えているんです。

論点がズレてもアレですので曖昧な喩え話としておきますが(笑)、たとえば、或る特定の主張において、最初に言っていたことと後のほうで言っていることが違っていたら、普通はその主張は論理的に破綻していると気附きます。また、「AであるからしたがってBである」と謂う言明に何ら論理的な筋道が立っていなければ、その言明が間違っているとわかります。おそらく一般人レベルでニセ科学を見破れるのは、その程度で好いんではないかと思うんです。

で、こう謂うことを考えるのは、以前「科学リテラシークイズ」が話題になりましたけど、オレはどうも「これが科学リテラシーなの?」とピンと来なかったし、ブコメを視ても疑問を呈している人が結構いましたね。おそらく科学リテラシーと謂う場合、オレとしては考え方の枠組みのようなものを想定していたのが、「最低限識っておくべき知識」をテストするような内容だったのが違和感があったんだと思います。

そう謂う違和感と謂うのは、たとえば「ニセ科学に騙されない為に如何に科学を学ぶべきか」みたいな議論が起こったときも感じるわけで、そもそも一般人が科学を学ぶと謂う想定が不自然だな、と感じるんですね。オレはニセ科学対策と謂うのは「説明」とその「理解」の間の問題だと考えていて、「学び」の問題とは捉えていないんです。

で、それが説明や理解の問題なのだとすれば、合目的的なプレゼンテーションではない「説明」の真正性は如何にして担保すべきなのか、また、結論だけ聴きたがってプロセスに関心を持たないような半端な「理解」をどうするか、そう謂う問題なのだと考えているんですね。これは勿論、世の中の大半の人が或る程度突っ込んで科学を学べば劇的に改善する問題ではあるでしょう。

ただ、多分そうはならないだろうし、そうなることが正しいともあんまり思えないと謂うのが最近の考えなんですよ。昔は誰にでも教育機会が公平に与えられていたわけではないですから、一般的な人間の教育のキャパがどの程度あるのかはわからなかったけれど、ここ半世紀ばかりの状況で謂えば、誰でも多少の努力と向学心があればそれなりに公平に教育を受けることが可能になりました。そうなると、おおむね現状程度の教育レベルが平均的な人間の教育や学習のキャパなんだろうと思います。

それは、かなり丸めて謂えば「読み書き計算+雑学教養」くらいのところで、多分どう頑張ったところで、大昔から「読み書き算盤」と言われていたレベルを大きく超えるものでもないだろうと思うんです。

そこから教育のキャパ自体が劇的に変化すると謂うことは考えないほうが好いのではないかと思いますし、理系の教科の完遂度が低いのは長期に亘る体系的な教育と訓練に児童がついてこれるかどうかの問題なので、マジョリティ全体ではかなり低いところに限界があると視たほうが妥当でしょう。

大多数の一般人は、好きな部分、得意な部分をつまみ食いしても何とかなる教科、説話的な事実理解で対処可能な教科(国語とか歴史とか)なら何とか対応出来るけれど、嫌いな部分、苦手な部分を克服して体系的についていかねばならない教科、説話性ではなく妥当性を担保する仕組みによる事実理解で対処しなければならない教科に対応出来る人間は限られてくる、それは人間の訓練可能性の平均値に依拠する事柄なので、多分劇的に変わる部分ではないんです。

ですから、状況が変わるとすれば、教育レベルや教養の問題ではなくて、物の考え方のような部分だと思うんです。昔に比べて今の世の中のほうが不条理な蛮行が罷り通りにくくなってきたのは、教育レベルが上がったことよりも、物の考え方が変わって洗練されてきたことのほうが影響が大きいと思うのですね。

ニセ科学の問題が、大多数の人々の科学に対する無理解から発していることは事実ですから、大多数の人々が科学を学べば解決する問題であることは事実です。しかし、多分それには相当低い限界があって、何処までいってもニセ科学問題を考える場合に対峙すべきなのは「科学がわからない人々」なんだろう、と。つまり、ニセ科学問題の本質にあるのは、「科学をどう理解するのか」の問題ではなく、「わからないものとしての科学とどう対峙するか」の方法論の問題なんだろうと思うんですね。
by 黒猫亭 (2009-11-28 11:03) 

pooh

> 黒猫亭さん

> この場合に必要な論理性や合理性は「自然科学的な」ものでなければならないのかと謂うと、そうでもないんではないか、と謂う感触を得ているんですね。

たぶんぼくと黒猫亭さんの意見の(見た目上の)相違として表面化しているのはこの部分なんだろうな、と思います。
ぼくが自然科学の存在意義のひとつとしていつも主張しているのは、それがひととひとのあいだに、ひとの思いをはなれて存在しうる、と云う特性です。ある意味「科学的である」と云うのはそう云うことを意味するものでもあるし、その性質を引き継ぐことを可能とするアプローチをおこなう、と云う意味で、「人文科学」「社会科学」と云う言い回しが存在する、と認識しています。

ここのところはあまりすっきりした説明にならないと思うのですが、そうするとその手法そのものは自然科学に由来するものだし、そう云う意味では理科教育を通して学ぶのがいちばん効率がいいんだろうな、みたいな想定があるんですね。ただそれは、単純に理科的な素養を獲得することのみを目的とするとは限らない。ある意味、理解にはいたらなくても、ある対象をブラックボックスとして切断してしまうことを回避するための手法(適切な「わからなさ」を認識することができるポジションに立つための方法)も、ここで学べるとは思うんです。
そう云った意味で、充実するべき理科教育、と云った場合に、ぼくは必ずしも現行の延長上のカリキュラムを想定しているわけではなかったりもします(ではどう云うものであるべきか、と云うのを具体的に提示できる見識を欠いているのが、ちょっと申し訳ない部分ですが)。

こう、なんと云うか、把握の角度の問題みたいな認識があるんですよね。
ぼくみたいな基礎的な科学の素養を欠いた人間がここで(その立ち位置のままで)ニセ科学の問題を語ろうとするのは、ご存知の通りその演習のつもりでもあります。また、このぼくの立ち位置の土台には、やっぱり小学校レベルの算数や理科の知識がある、みたいにも感じているんです。
by pooh (2009-11-28 11:58) 

hietaro

こんにちは。
実際、Scienthroughの方の発表が解りにくかったことは事実なのですが……。(^O^)

発表によると……Scienthroughの活動は、「サイエンスを一般の人たちや他の研究者たちに伝える活動」で、具体的にはサイエンス・カフェ、アウトリサーチ活動などを行っていると。
つまり一般人、他分野専門家(=別の専門に関しては非専門家)にサイエンス(あるいはもっと大きく「自分がやっていること」)を伝える活動だそうです。

具体的な事例(商店街のフリースペースで一般の人に専門分野の解説をしてみたり、小型コンピュータを使った遊びワークショップをしてみたり)を紹介し、そういう活動から、圧倒的な知識のギャップの中で「伝える」こと、「媒介する」ことの難しさを感じている、という話でした。

by hietaro (2009-11-28 20:06) 

黒猫亭

>poohさん

基本的に意見の対立軸はないように思います。poohさんが仰ることはオレの意見とも対立しませんし、基礎教育の果たす役割についてのご意見にも異論はありません。単に表面上違って見えるのは、「教育」と「説明」と謂う言葉の認識かな、と思います。

オレは「説明」と謂う言葉を、特定の理解を促す為に情報を与えると謂う意味で遣っていますし、「理解」とは与えられた情報を妥当に読み解くことを想定しています。

そして、児童に対して必要な情報を与えることは「教育」と表現可能だし、それを児童が読み解くことを「学習」と表現し得ると思いますが、同じことを大人に行っても「教育」や「学習」にはならないだろう、そう謂うニュアンスの違いだと思います。たとえばオレは、仕事で何らかの専門領域について原稿を書くとき、いろいろなソースから情報を取得して「理解」に努めますが、それは「学習」ではないですよね。

児童と大人に共通して「教育」「学習」と謂う言葉を遣うなら、或る特定の学問領域の知識を体系的に教え身に着けさせることを謂うのだろうし、「学習」と謂うのはその知の領域を妥当に身に着けることを謂うのだと思います。

つまり、狭義の「教育」「学習」とは学問を修めることや専門知を獲得することに関連した言葉だと考えます。

で、「科学とは何か」「科学的に考えるとはどういうことか」「心の外と内はどう違うのか」と謂うのは、「説明」の領域の問題だと考えているわけですね。これを理解する為には必ずしも「学問を修める」必要はない、そう謂う意味ですから、「ただそれは、単純に理科的な素養を獲得することのみを目的とするとは限らない」と謂うpoohさんのご意見とほぼ違いはないと思うんですがどうでしょうか。

勿論、オレも「理科教育」のプラクティスが児童の合理性を涵養するのに効率的だと謂うご意見には賛成です。ですが、どうも思考のプラクティスや自然科学が依拠する妥当性担保の仕組みを教える目的としてではなく「学問を修める」と謂うニュアンスで、多くの人々に自然科学の知識を体系的に獲得させることでニセ科学に対抗すると謂う発想には違和感や不自然さを感じる、そう謂う意味です。

そして、オレがニセ科学問題において必要だと考えている論理性や合理性とは、十分な情報を与えられた場合に、それを妥当に理解する能力のことです。多分それは、自然科学的な仕組みを身に着ける以前のレベルの、もっと上位のレイヤーに属する普遍的な性質のものなのではないか、と考えているところが、もしかしたらpoohさんとは意見の違う部分かもしれません。

極論すれば、一般人は何がニセ科学で何がニセ科学でないのか、自発的な気附きで判別出来なくても構わないけれど、適切な情報が与えられた際に妥当な判断が出来ればそれで好いのだと思います。どちらが巧みに説明したか、どちらの話者が権威を持っているか、ではなく、情報としての言説を妥当に読み解く力、そう謂うものだと思いますし、それを成立させる言説のモデル、と謂うようなところにフォーカスして問題を考えていると謂うことです。で、多分それは個別の知識の有無や多寡に依拠しているのではないのではないか、そう謂うふうに考えていると謂うことなんですね。
by 黒猫亭 (2009-11-28 21:31) 

TAKA

>船井は「抵抗者は無視」という

この部分、納得です。
船井氏にしてみれば、抵抗者たちと立ち向かったりしたら、自分の主張とも真正面から向き合う事態となる。
他の人たちは、「抵抗者たちの意見と、船井氏の意見を両方見比べる」ことになる。
二つの主張を並べて見れば、論の装い方の違いが鮮明に浮かび上がるわけです。(横綱と幕下の相撲を観戦する客状態か?)
横綱級の論争相手が立つ土俵は、怖くて上がれない。
だから、自分のファンを先覚者などと持ち上げて、無理やり不戦勝をアピールするしかない。

もっとも、これは船井氏に限らないのかも。ニセ科学っぽいビジネスに心を奪われた者たちの、悲しくも必然の宿命なんですねえ(-_-;ヤレヤレ。
by TAKA (2009-11-28 23:20) 

TAKA

つい今しがた、ネット上にある動画の「VOICEニセ科学」を見ていたら、水伝を出版した会社が「科学者には理解できないので、同じ土俵では反論しない。」と言っていました。

どうやら、お水様を自在に操る「波動使い」でも、横綱級の学者たちとの相撲は避けたい模様。
そんな腰砕けな状態で、波動な弟子たちに尊敬される先導者に成れるのであろうか?
by TAKA (2009-11-28 23:39) 

pooh

> hietaroさん

あぁ、なるほど。科学コミュニケーションを試みているかたがたの活動報告だったんですね。

こう、ぼくみたいな一般人からすると、そう云う接点ってすごく大事なわけなんですけど、立ち位置によってはその部分を重視しない論者もいらっしゃるでしょうね。
たしかにそれは残念なことではありますが、その部分の追求に向かってしまうと、「ニセ科学批判批判」が迷い込みがちな隘路にはまってしまいそうにも思えるわけで、なんかちょっと難しい。
by pooh (2009-11-29 08:49) 

pooh

> 黒猫亭さん

どうもぼく、このへんの話になると、どうしても把握の枠組みが大きく(そして一面おおざっぱに)なってしまいがちなんですが。

理解する、と云うのがどう云うことか、と云う話になってしまうような気がするんです。おのれが理解している、と云うのをどう云う状態として把握するか。おおげさに云うと、これは共有されている心性にもとづいて把握されるもので、そうしたらそのへんの心性はどのあたりにあるのか、みたいな。

> 一般人は何がニセ科学で何がニセ科学でないのか、自発的な気附きで判別出来なくても構わないけれど、適切な情報が与えられた際に妥当な判断が出来ればそれで好い

まさにそう云うお話だと思うんです。そうすると、「妥当な判断」を下すだけの、理解、と云うものがどう云うものか、と云う話になる。なんかちょっと妙に遠大になってきますけど、そこをもう少し積み上げていきたい。
by pooh (2009-11-29 08:50) 

pooh

> TAKAさん

> 波動な弟子たちに尊敬される先導者に成れるのであろうか?

こう、弟子たちがそのスタンスをまねるんですよ。先導者の提示する「理解」の水準で充分だ、と考えてしまう。
そこがいちばんまずいところじゃないか、みたいに感じたりもしてます。この種のひとたちの「わたしたちはわかっているけれど世間一般のひとたちや科学者にはわかっていない部分」と云うのは、追求していくとどうも自分たちでもちゃんとわかっているわけではない場合が多い(しかもその「ちゃんとわかっていない」水準が充分な理解だと認識している)ので。
by pooh (2009-11-29 08:50) 

mohariza

最近読んだネット上の辺境起源の謎を追う研究者(科学者)長沼毅氏の言葉・・・・
<最近も、ある有名な生物学者が漱石と同じことを俺に言いましたよ。
「それでも俺はWhyを問いたいんだ」と言ったら、「そんなのは科学者じゃない」と返されて、怒ったね。
「じゃあ、おまえはWhyを問いたくないのか?」と。おれはWhyを問いたい。だから問うんだ。
なぜこの宇宙は、粛々淡々とした宇宙ではなく、ざわざわした生命を内包する宇宙を選んだのか 、と。>
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/633?page=2
との言葉が印象に残りました。

いくら科学知識を得ても、「Whyを問わない」と、事実関係(と思われる)記憶を脳に刻むだけで、(知識からの「類推」は出来るとは思いますが・・・)
本質(世の中に流布しているの嘘<疑惑>等を含め)は、見極められないように思います。

「水伝」、「マルチ商法」、「ニセ科学」等は、科学的知識を持っていても、欺される人は欺されます。

根本は、<Why>を常に問うこと、だと思います。

その為にも、poohさんのようなブログ記事が大事だと思いますが・・・。


by mohariza (2009-11-29 16:40) 

hietaro

>poohさん
 
あ、もちろんそういう視点の違いはあるとは思いますし、そういう評価をした上で、「その部分の追求に向かってしまうと、「ニセ科学批判批判」が迷い込みがちな隘路にはまってしまいそう」という危惧が出ても、それは不思議じゃないんです。

ただ、どうもそういう評価すらなかったのではないかと。
あの日のセッションは、メイン講演の藤田さん以外はそれぞれの持ち時間が15~25分というタイトなもので、みなさんかなり駆け足の発表になったように思います。
そういう事態になってでもあそこに Scienthrough の発表を滑り込ませたことに対して、「関係ないけど、発表してた」という評価では、あんまり主催者が気の毒だと思います。

by hietaro (2009-11-29 19:00) 

pooh

> moharizaさん

知識は知識で重要で、でもその用いかたも大きなポイント、と云うことは、まぁ論語の昔から云われていることではあるんですよね。これらは、切り分けられるふたつのことがら、と云うものではないわけですけど。
by pooh (2009-11-30 07:27) 

pooh

> hietaroさん

フォーラム自体が科学アカデミズム側から一般へのアウトリーチ活動である、と云うふうに把握すれば、お教えいただいたScienthroughの活動内容そのものが趣旨に照らして非常に重要な部分である、というふうにぼくなんかは思うんですけどね。
そのあたり、どんなもんなんでしょうね。
by pooh (2009-11-30 07:35) 

技術開発者

こんにちは、poohさん。

>イノベーター理論は特定の商品が普及していく過程についての理論で、だからある商品を売る=普及させるための方法を考える(マーケティングをおこなう)ために援用される。

実のところニセ科学の蔓延におけるイノベーター理論の適用を検討していると、通常の商品普及とは別な要素を感じます。

本来、新しい商品が普及していく過程で、イノベーターが「これは優れている」と発言し、ラガードが「使い物にならないよ」と抵抗する時期において、アドプター層やマジョリティ層は沈黙しているのが普通です。つまり分布の両端が正反対の意見を述べ、中央の大多数は沈黙している構図です。

ところが、ニセ科学の普及などでは、このマジョリティ層に別な形の情報発信が見受けられ、それが全体を支配しはじめる面です。それは何かというと「本当かどうかはどうでも良く、面白い話題である」という情報発信です。例えば、一部のイノベーターが「マイナスイオンというものがあり、健康に良い」と発言し、私の様なラガードが「マイナスイオンなんて存在しない」と情報発信する時、本来であればマジョリティ層は沈黙しているはずなんですね。ところが、マスコミが「面白い話題」としてイノベーターの情報を取り上げ、マジョリティ層に広げる訳です。このときマスコミは必ずしもイノベーターやアーリーアドプターである訳ではないのです。「そんなもの、実のところあろうが無かろうがかまわない」というマジョリティでありながら、「あるかのように番組を作った方が面白い番組になる」と情報発信を行うわけです。

この本来の普及理論には無かった「自分はどっちとも思わないが、情報発信そのものが面白がられる」という動きをきちんと組み込んで考えないと、普及理論で解析することができなくなっていると思っています。

by 技術開発者 (2009-11-30 11:55) 

pooh

> 技術開発者さん

いや、じっさいは構造だけ似ていて(と云うかぱくっていて)本質はあまり共通していない、と云う話ではあるんですが。

> 「本当かどうかはどうでも良く、面白い話題である」という情報発信

この要素は、いまの時代にイノベーター理論を援用しつつ実践的にマーケティングをおこなうにあたっては、組み込まれている部分だろう、と思います。バズをいかにして生むか、広げるか、と云うような部分で。
むしろ注視すべきだと思うのは(そして問題のありかだと考えているのは)そこに漠然とした価値観・倫理観みたいなものへのアプローチが組み込まれている部分なんじゃないか、と感じています。ロハスマーケティングとの手法的な類似性を感じているのも、その部分だったりするわけですね。
by pooh (2009-11-30 21:11) 

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