SSブログ

コントロール [世間]

OSATOさんによる「水からの伝言」の丁寧な再読み解き、「『水』を読む」シリーズが「水」を読む(9)最終回〜これから〜で完結した(一連のシリーズエントリは「水読」カテゴリに現在のところまとめられている)。

ニセ科学に関しては、ぼくはとりわけその「蔓延」の部分、受容される側の問題について視点を置いてきた。これは、まずはぼくがアカデミシャンではない、と云う立ち位置から選択しえた視点でもあって、ぼく固有の問題意識のありかからとってきたスタンスでもある。なので、読み解き、と云う部分についてはスタンスを異にするかたがたによる果実を利用させていただく、と云う方法をとってきた。
今般のOSATOさんの一連のエントリは、(おそらくは)ぼくに近いスタンスから、実際の読み解き、と云う方法をとっている。まずはそこに、敬意を表させていただくとして。
あの結晶写真は、オウムの「空中浮揚」の写真と同じなのだと私は思います。

それを見た人は、その美しさのインパクトにより、それに付される説明をそのまま信じ込まされてしまいます。そして、彼の述べる「実例」に我が身を投影し、そこにたまたま当てはまる部分のみで彼の言葉を信じてしまうようになってしまいます。 そしてやがて、見る物聞く物すべてに対し、彼の言った言葉通りという関連付けをしていくようになります。
つまり、一方向からの思考しか出来なくなっていくのです。
美しさと云うものはそれを感じるひとのなかにあるものでもあるし、同時にひととひとのあいだで共有されるものでもある。だから、個人的なものでもあるし、同時にポリティカルなものでもあって。
ニセ科学に直接言及するエントリでも、そうでないエントリでも、このあたりについてはつたないながらも考えてきた(端的にはこのエントリとか。今回、まとめて「表現」と云うタグをつけてみた)。いずれにせよ、たぶんそれはひとの思考をある方向に向けさせるための武器として、かなり強力なものになりうるのだ、と思う。
こう、非常に雑駁な云いかたしかできないのだけれど、ある大掴みな文化の文脈に属する層に対しては、その文脈で共有されているとおぼしき質の美しさを提示することによって、思考の向かう方向をある程度コントロールする、と云う手法が利用可能なのだと思う。
不勉強なので、この種の手法を使用した大規模な例としてすぐに思いつくのは国家社会主義ドイツ労働者党くらいしかない(江本勝による「美しさ」に関する言説とNDAが芸術に対してとったスタンスの類似についてはこちらで書いた)。ただ、じっさいにそれは有効なのだ。
おそらく、人間はある属性を持った事象について、共通して美しさを感じるメカニズムを持つのだろう(所属する文化圏の持つ文脈、個人の持つ文脈によって、そうとう広い幅でのぶれと云うか相違と云うか、は存在するにしても)。そのなかで特定の属性を美しさとして定義し、それになにかしら(美、以外のものをオーソライズすべく)意味づけしていくことができれば、それは思考をコントロールする方法としてかなりの力を発揮できるのだろう、と思う。
幾何学的にととのったかたちの水の結晶と道徳的なことばを結びつける、とか。
あるいは一定の方向に向かう表現のみをを健康的なものとし、それ以外のものに退廃芸術と云う名称を与えて病的なものと決める、とか。
この本を読むと、当の江本自身が強い思い込みの中にあるように思えてなりません。
その思い込みをそうとは認めたくないがため、彼はその「証拠」を捜し求め、そして「結晶写真」と出会いました。
たちまちその美しさに魅了され、ついに彼自身がその虜にされてしまった、そういう風に私には見えます。
なので、この部分にはぼくはあまり同意できない。あくまで個人的な意見なのだけれど、それは例えば、パウル・ヨーゼフ・ゲッベルスが、おのれの芸術観にナイーブに従って行動した、とはぼくにはみなせないのと同じような意味で(とは云え、江本勝本人としてはほんとうはどうなのか、についてはぼくにはもちろんわからない)。
p.145からp.176まで、また美しい結晶写真が紹介されますが、そこには様々な「自然水」の結晶写真もあります。この写真が意味する所を、彼は決して知る事はないでしょう。

「ありがとう」や「愛・感謝」の文字を見せなくても、きれいな結晶は出来るのです。
この部分を江本氏に好意的に解釈すると、「自然のままのものは道徳的だが、人為的な努力によって安全に処理された水道水は、それが人為的であるがゆえに不道徳だ」と云うロジックになるのだと思う(そうでないとOSATOさんの読み解きのとおり、見事に主張が空中分解する)。
そんなばかな、てな感じでこう云うロジックを笑いとばせればいいのだけれど、こう云うタイプの自然信仰(と形容するのにも抵抗感はあるのだけど)はどうやら広がりつつあるように見える。そう云うロジックによる(当事者ではないものとしての傍目には)悲劇(に見える事件)も生じている。NATROM先生のエントリ、信仰と狂気〜吉村医院での幸せなお産ホメオパシーと医療ネグレクトで扱われているような(ちなみにこのあたりのことをどう捉えるか、については、じつはぼくはかりそめのスタンスしか持っていない。ただ、直接接続する趣旨ではないにしろ、このあたりについてはtikani_nemuru_Mさんのニセ科学でヒトは死ぬをはじめとする一連の考察に重要な示唆があるように思う)。
私達の身の周りに目を向ければ、「見た目」やら「キャッチフレーズ」のインパクトだけで宣伝している怪しいものがたくさんあります。
これから私達には、そういう物に対しても客観的な判断を下せる柔軟な思考が要求されているという事を誰もが意識する、そんな時代が今やって来たのです。
この客観的な判断を下せる柔軟な思考と云うのは、lets_skepticさんが批判的思考(クリティカル・シンキング)とは何かと云うエントリで述べられているようなものだと思う。そしてそれは(ここはいまのところ感覚で云っているだけなので詳述はしないけれども)まさにいま、そして今後にわたって個人レヴェルで強く必要とされることになるもののように感じる。
nice!(0)  コメント(22)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 0

コメント 22

OSATO

早速のトラックバック、ありがとうございます。
今回のエントリーは僕自身、これまでの様々な議論をROMしてきた中で、やはり専門家ではなく、僕のような普通の人間の立場からの批判もいつかはやらなければならないかなと思っていたものです。
そしてそれを行うにあたっては、自ら自分に対して制限を設けました。
ご存知の通り、僕は一応ニセ科学に関してはそれなりの情報は持っています。
しかし今回は、そのような情報はすべてシャットアウトして、じかにこの本と対峙しようと思ったのです。
客観的な視点、それを僕は目指しました(それでもかなり偏った視点であるとは思いますが)。そのおかげで結晶写真のおかしさにも気づきました。一度そのおかしさに気づいてしまうと、様々な疑問が次々と湧き上がってきました。それがあのエントリーとなった訳です。

今回そのようにやってみた事で気がついた事があります。
それは、批判者側の方(特にROMの方達)でも、他の人がやっている批判に対して、ただ無条件に同意しているばかりではないのか、という思いです。
確かにネットで積極的に批判している人達は、皆自分の立場から様々な批判を行い、それはまた非常に説得力のあるものばかりでした。
しかしその説得力のおかげで、自分の視点がそちらに引っ張られたものになり、逆に視点が限られたものになってしまうのではないのか、その事により、何か見落とされている事があるのではないのか、そんな不安も感じていました。
ニセ科学批判vsニセ科学批判批判の議論も追っていましたが、その中で漠然と感じていた思いもそれでした。

今回僕はこのような形でやってみた訳ですが、これもあくまで僕個人からの視点です。ですから見解の相違はあって当然で、それについてまた様々な角度から議論が湧き挙がる事が僕の理想とするところでもあります。
そういう意味で、ここは新たな視点を提供してくれる貴重な場だと僕は思っています。

実はpoohさんが同意しないと指摘した点、僕自身もその部分についてはまだ分からない所でもあるのです。ですから、いくつかの考えは持っていたのですが、その中の一つの可能性を指摘してみただけと捉えていただければと思います。


ただ、今回は非常に疲れましたので今日はこの辺で…(^^;)。(←禁断の顔文字!)
by OSATO (2009-07-01 23:52) 

pooh

> OSATOさん

> そのような情報はすべてシャットアウトして、じかにこの本と対峙

それができる場所にいらっしゃるわけなので、意義のある試みだと思いました。

> 他の人がやっている批判に対して、ただ無条件に同意

個々のリソースを考えると、ある角度からのアプローチはだれかに預けたり、そこからの果実を援用したり、と云うのに問題があるとは思わないんですが(ROMのかたがたについてはとりわけ)、発信する、と云う部分を考えた場合にはそれだけではたしかにまずい部分もあるかと思います。発信者の主体性、当事者性にもかかわる部分で。

> 同意しないと指摘した点

いや、ここのところ、まだちゃんと語れるだけの考えはまとまってないんですが。
どこかのエントリのコメント欄で、たしか黒猫亭さんとのやりとりででてきた話かと思うんですが。こう云う、一見ナイーブで支離滅裂寸前の言説には、ある程度計算された効果のようなものもあるのかもしれない、とか思ったりするんですよ。ちゃんと考えるとばかげていても、その「ちゃんと考える」以前の段階で思考を停止させることができれば、必要なだけの訴求をおこなうことができる、みたいな一定の技法があって、それに基づいている、みたいな。

以前、五日市某の、魔法のことばがどうした、みたいなパンフレットを読んだことがあります。
書いてあることはとくになにか筋がとおっているわけでもなくて、多少でも批判的に読めばそこにある主張はとうてい肯定できるものではない。でもそれはセミナー商売を成立させているし、経営者が従業員をコントロールする道具としてそこそこ普及しているわけです。おそらく、そう云うテクニック、みたいなものもあるんだろうな、とか思ったりします。

江本氏本人がどうなのか、はわからないし、ある意味それはどちらでもいいことかもしれない。ただ、チーム江本とも云うべき水伝系言説を発信する主体が、そのあたりについてイノセントだとは考えづらい、みたいに思ったりします。
by pooh (2009-07-02 07:43) 

TAKESAN

お早うございます。

ちょっと話がずれるかも知れませんけれど。

ニセ科学に批判的に言及する人と、別のニセ科学批判者とが議論になる場合がありますよね。その批判は妥当では無いとか何とか。
その時に、明らかに片方は、原典を参照もしていないな、と思われる事があります。○○という言説を批判していて、同じくそれを批判する他者の批判の内容に異議を唱えているはずなのに、実は独自の解釈で○○を捉えているだけなので、全然話がかみ合っていかない、という。

まあ、結局何が言いたいかというと、即座に科学的命題に翻訳出来ないような、ある主唱者が存在するような説は、まず原典を当たってみようぜ、と。
水伝の場合だと、「水伝とは」、「水は情報を記憶する」や「水は良い言葉に応じて綺麗な結晶を作る」”だけ”では無いんですよね。それだけじゃ捉え切れないからややこしく、だからこそ、江本氏が何を言っているかを見てみなくちゃならん訳で。
これは、ゲーム脳などにも通ずる部分と思います。

という事で、OSATOさんの一連のエントリーは大変有意義なものであったと思います。もちろん、解釈全部に賛同する、という意味ではありませんけれども。
by TAKESAN (2009-07-02 10:48) 

黒猫亭

>>ちゃんと考えるとばかげていても、その「ちゃんと考える」以前の段階で思考を停止させることができれば、必要なだけの訴求をおこなうことができる、みたいな一定の技法があって、それに基づいている、みたいな。

これは記憶にありますが、江本氏は天然なのか計算尽くの詐欺師なのか、みたいな話の流れがあって、天然であることと計算尽くの詐欺師であることはもしかしたら江本氏の中では矛盾しないのかもしれない、と謂うようなことや、近年の江本氏の発言内容が以前よりも戦略的になってきたこと、そのバックに波動ビジネスのような存在があって、もしかしてブレーンのような存在が助言乃至監視しているのかもしれない、と謂うような話の流れだったように思います。

他人の心の中のことなので、結局結論は出なかったように思いますが、個人的な感触では、poohさんが仰っているような思考停止が江本氏自身のものでもあると考えても矛盾はないように思います。どうも江本氏自身のものの考え方が、呪術的思考の外にある(つまり分析的に呪術的思考にアプローチしている)とは思えない部分があるので、或る種呪術的思考の内側から呪術的思考を詐術として利用しているような部分があるのではないかと謂うのが、オレの考えです。

なので、多分虚心に水伝を読むとOSATOさんのような印象を覚えるのかな、と思わないでもないです。水伝執筆当時のほうが、今よりもっとストレートにそう謂う部分が出ているのかな、と謂う気がするので。
by 黒猫亭 (2009-07-02 12:02) 

技術開発者

こんにちは、OSATOさん。

>今回そのようにやってみた事で気がついた事があります。
>それは、批判者側の方(特にROMの方達)でも、他の人がやっている批判に対して、ただ無条件に同意しているばかりではないのか、という思いです。
>確かにネットで積極的に批判している人達は、皆自分の立場から様々な批判を行い、それはまた非常に説得力のあるものばかりでした。
>しかしその説得力のおかげで、自分の視点がそちらに引っ張られたものになり、逆に視点が限られたものになってしまうのではないのか、その事により、何か見落とされている事があるのではないのか、そんな不安も感じていました。

この感覚というのは私が「人間の基本仕様論」として言っている事と同じなんですね。新しいヨタ話に飛びつくにしろ、それに対する的確に批判に飛びつくにしろ、人間には判断するよりも飛びついてしまったものに引きずられる基本的な仕様があると置くわけです。良いも悪いも無いですよ、そういう風にできているんだから(笑)。

でもって、出てくるのが「社会の健常な保守性論」なんです。つまり「飛びつくな」という文化を持つことなんです。なんていうか、もともと「水は言葉を介さない」という常識があったなら「言葉を解する」なんて話を「正しいか正しくないか」で判断しようとせずに「新しい概念」だから「飛びつくな」なんです。変に思われるかも知れないけど、少なくとも、もともと「水は言葉を介さない」という常識でやってきて、世の中はそれなりになんとか成ってきた訳だから急いで飛びつく必要はないんですね。

なんていうか、或る意味では私みたいな「新しいこと」を作り出す商売の人間が言うのは自分の首を絞めている見たいですが、逆に言うと社会がそうやって「新しいから」と飛びつかないで居てくれるほど、徹底的に検証して、学会でも認められるようにして、少しずつ世の中に普及させるという私のような「新しいことを世に出す」人間の力量が発揮出来る面がある訳です。誰もが新しい事に飛びつくなら、検証の上手い下手なんて価値が減ってしまうでしょ(笑)。

by 技術開発者 (2009-07-02 16:03) 

pooh

> TAKESANさん

ごぶさたです。

> 即座に科学的命題に翻訳出来ないような、ある主唱者が存在するような説は、まず原典を当たってみようぜ、と。

同感です。
と云うか、ぼくもできていない場合が多々ありそうなので、自戒します。
by pooh (2009-07-02 22:00) 

pooh

> 黒猫亭さん

こう、そのまま同意はできない、と云うだけで、OSATOさんの読み方に異論がある、と云うほどではないんですけどね。と云うか、「蔓延」と云う角度からするとある意味瑣事ではあるんですけど。

> 或る種呪術的思考の内側から呪術的思考を詐術として利用しているような部分がある

そうかもしれないな、と思います。なんと云うか、外部にあるロジックからあえてその手法を選択しているのではない(つまり、手法の選択において、自らのロジックから直接導き出されない技法を用いているわけではない)と云うようなことですよね。
それはそれでありうることだと思います。で、そのままその技法が洗練・確立されていく、と云うこともあるだろうな、と思います。結局どうしてもこのあたりはわからない。

でも、ひとつ云えるのは、どちらにしても表出されたものに対してイノセンスによる免責が生じる余地があるわけではない、と云うことだと思います。
by pooh (2009-07-02 22:01) 

pooh

> 技術開発者さん

こう、微妙な部分ではあるんですけど。
ぼくなんかがこことかでなにか書くときには、伝えたいことがあって、それについてそれなりに一生懸命考えて書いているわけです。信用してもらえる、と思えるようなことを、信用してもらえるように書こうとする。
でも、書いたことをそのまま信じてもらっても、それはそれで困るんですよね(いや、まるっと信じ込む対象にされるような書き方は、基本的にはしていないつもりですが)。ちょっと矛盾したスタンスにはなってしまいます。
by pooh (2009-07-02 22:02) 

OSATO

>TAKESANさん
お久しぶりです。あちらが休止中のため巡回先が一つ減って、何とも寂しい限りです。

> 即座に科学的命題に翻訳出来ないような、ある主唱者が存在するような説は、まず原典を当たってみようぜ、と。

その通りですね。今回じっくり取り組んでつくづくそう思いました。
僕は江本の昔の本は結構読んでいたのですが、これはまだ未読でした(読む気がなかったというのが本音ですが)。
今回新たな発見というのが、実は写真を撮っていたのは彼ではなかったという事でした。
それまでの彼の著作を読むと、いかにも彼自身がすべて撮影したかのような文脈で語られており、撮影風景などにも彼が写っていたのですっかりそう思い込んでいました。しかし、撮影していたのが彼ではなく研究員という事になると、また話は変わってきます。
原典にあたる重要性がつくづく感じられた次第です。

>「水伝とは」、「水は情報を記憶する」や「水は良い言葉に応じて綺麗な結晶を作る」”だけ”では無いんですよね。

仰る通りです。
批判している方々は、実は皆そちらの方の問題こそが重要であるというスタンスで語っておられるのですが、なぜか批判批判議論になるとテーマが矮小化してしまうのですね。
だから今回は、まずどのような内容なのかという事を知らしめるという意味合いからも、敢えてこのような手法をとってみた次第です。
by OSATO (2009-07-02 23:14) 

OSATO

>黒猫亭さん

> 或る種呪術的思考の内側から呪術的思考を詐術として利用しているような部分がある

僕にはとてもこういう表現手法は出来ないので、あちらの方ではただ単純に【思い込み】としましたが、仰っている事は僕も分かるような気がします。有体に言えば「オカルト思考」という言葉が近いですかね?
そして彼の言葉には、それプラス「宗教」という印象を持ってしまいます。彼の話す事は「教義」として、それなりの説得力もあるかのように見えてしまうのです。

>水伝執筆当時のほうが、今よりもっとストレートにそう謂う部分が出ているのかな、と謂う気がするので。

確かにそんな感じがしました。現在の彼を見てると、今や「教祖様の暴走」としか僕には映らないんですけどね。
だから自分でもそういうバイアスをはずすためにも、外部情報をシャットアウトして取り組んでみた訳です。
「水答②」になると、彼の呪術的思考がより鮮明になります。ここにはEMも登場しますし、いずれこれにも言及しなければと思っています。
そう言えば、比嘉さんの行動パターンも見事に彼とシンクロしていますね。
by OSATO (2009-07-02 23:46) 

OSATO

>技術開発者さん

こんにちは。
技術開発者さんの仰っている「人間の基本仕様」というものを僕もいつも考えています。
今回敢えて「オウム」を出したのも、人はなにかしら「答え」を求めているものであり、その最悪の結果が「オウム」であった訳ですが、でもそれが決して特異なものではないという思いがあったからです。

僕は工学系の出身でして、実験などでは理論値との「誤差」が出るのが当たり前でした。その「誤差」をどこまで修正出来るかという所に様々な方法論が生み出され、その試行錯誤の過程こそが重要であるという認識を持っています。
初めから完璧な結果が出たりすると逆に「おかしい」と思ったりするのですが、漠然とした不安を抱える人達は、そういう完璧な「答え」を求めているんでしょうね。
そして江本はもっとも安直な答えを提示した、それを求めていた人は思わず飛びついた、そんな感じですね。
by OSATO (2009-07-03 00:05) 

pooh

> OSATOさん

結局のところ、どれだけ安直であろうが破綻していようが、ある主張が一定の訴求力を持って流布している以上は、そこにはなんらかの実効性のある(こう云う云い方は適切ではないですが)力学、のようなものがあるのはまぁ、確かだと思うんです。
で、たぶんそこには発し手側、受け手側双方に(微視的なものも含め)その実効性を支える複数の要素があって。「蔓延」と云うことを問題にする場合、それらひとつひとつを考えていく、と云うのには意味があると思っています。

呪術性、と云うのはぼく個人はひとつのキーワードだと思っていて。「人間の基本仕様論」を含めこの角度からも有意義な考察がだいぶ出てきているので、以前より整理されたアプローチがしやすくなっているのかな、みたいにも感じます。
by pooh (2009-07-03 07:33) 

技術開発者

こんにちは、OSATOさん、pooh さん。

>結局のところ、どれだけ安直であろうが破綻していようが、ある主張が一定の訴求力を持って流布している以上は、そこにはなんらかの実効性のある(こう云う云い方は適切ではないですが)力学、のようなものがあるのはまぁ、確かだと思うんです。

おそらく、私の「社会の健常な保守性」論というものの特異性というのは駆動力ではなく抑止力を問題にしている点だろうと思っています。

なんていうか、平地に止めておいた車が動き出して事故したなのなら、「駆動力はなんだ」なんですが、坂道に止めておいた車が下に動き出して事故したのなら「ブレーキはなぜ利かない」になるような感じですね。

私自身も初期には駆動力をかなり気にして居たわけですが、どうも駆動力というのはもともと人間にありそうに思えてきた訳です。実際、人間の歴史の中でニセ科学が流行ることも無かったわけではないですからね(ナチスのゲルマン優勢主義とか)。そういう「もともと駆動力はあるんだ」という見方をしたときに、人間の歴史がニセ科学というかニセ言説のオンパレードでまともなものなんて見あたらないほど酷くならなかった訳、つまり抑止力の存在の方が気になる訳です。そして、現代の日本において、その抑止力のタガが外れているのではないかという仮説になっている訳です。

by 技術開発者 (2009-07-03 09:00) 

黒猫亭

>poohさん、OSATOさん

>>でも、ひとつ云えるのは、どちらにしても表出されたものに対してイノセンスによる免責が生じる余地があるわけではない、と云うことだと思います。

これは、江本氏の心性と謂う、決して明確な結論の出ない種類の事柄を考える場合に、まず大前提として踏まえなければならないことであり、手続として確認しておくべきことであると思います。

その上でオレがこう謂うことを考えるのは、たとえば水伝のみならずオウムなどでも謂えることですが、「教祖であることと卑劣な詐欺師であることは、世間の視る目としては別の事柄に見えるが、当人の内部ではそれほど懸け離れたことではないのではないか」と謂う考えがあるからです。

つまり、「世界の真理を発見する」と謂う形而上的な事柄と、「銭儲けのタネを見附ける」と謂う形而下的な下世話な事柄と謂うのは、教祖的な資質を持つ人物の中ではそれほど違わないことではないかと思うのですね。この場合、教祖的な資質とか、教祖内部の心的現実の在り方と謂うものを読み解く鍵が、ここで話題になっている呪術的思考と謂うことなんではないかと思います。

以前自分のブログでも語ったことがありますし、呪術的思考について考察されている方々の間でも共有されている認識だと思うのですが、呪術と謂うのは「心の外側にある現実の在り方に合わせて心の内側の現実を操作することで、心が現実を動かしているように擬装する」と謂うふうに要約出来ると思います。

この例としてたとえば雨乞いの巫覡の例や江本氏の琵琶湖の祈りの例を挙げたりするわけですが、自然科学的な合理性で考えると、祈祷が一〇〇%確実に機能する性格のものではない(つまり、祈祷してもしなくても所期の結果が起こる確率に変動がない)以上、合理的な結論としては、祈ることと雨が降ることや琵琶湖の浄化とは因果関係がないと視るのが当たり前なわけです。

ただ、「祈祷によって雨が降る」「祈祷によって琵琶湖が浄化される」と謂う観念に有効性がある限り、自然科学的な合理は思考停止されると謂うのが呪術的合理性の在り方だと思うんですね。これは言い方を換えると「合目的的な思考停止の技術」だと謂う言い方も出来るわけで、だとすれば、呪術的思考の持ち主にとって、「世界の真理を発見する」と謂うことと「銭儲けのタネを発見する」と謂う一見別の事柄は、矛盾なく並立し得るのではないかと思うのです。

客観的な観点においてはこの二つは別の事柄なんですが、教祖の主観においては同じことであっても構わないわけです。われわれのような凡夫にしてみれば「自分の教義を信じる」と謂う一種崇高な宗教的心性と「他人を騙して喰い物にする」と謂う下世話で卑劣な心性が同時に並立し得るとはとても思えないわけで、どうしても「救世主か詐欺師か」みたいにどちらかに分けて考えてしまいますが、多分、教祖的な人物にとってその二つは矛盾しないのではないかと思うのですね。

こう謂うイメージは、オウムをはじめとする反社会的な新宗教が話題になって教祖的な人物がマスコミに露出する度にぼんやり考えていたのですが、多分そう謂う特殊な心性の在り方を或る程度合理的に読み解く鍵が呪術的思考と謂うことなんではないかと思います。

呪術的思考の特徴の一つとして「合目的的な思考停止の技術」と謂うことを仮定すれば、「救世主と詐欺師」と謂う世間的な観点では相反するように見える事柄も、当人視点では矛盾なく並立し得るのではないかと思うんですね。つまり、イノセンスと謂う観点で謂えば、合目的的にイノセンスを確信する心的な技術として思考停止が用いられているわけで、これは世間の視点では祈ることと琵琶湖の浄化が無関係であるのと同様に、教祖が自身のイノセンスを確信していようが何だろうが客観的にはイノセンスでは在り得ないし、寧ろ無知よりももっと悪質だとすら謂えるでしょう。

で、先般の議論で個人的に参考になったのが、たとえば江本氏の背後にある波動ビジネスの存在で、ブレーンのような存在が附いて助言乃至監視しているのではないかと謂う示唆だったわけです。

>>なんと云うか、外部にあるロジックからあえてその手法を選択しているのではない(つまり、手法の選択において、自らのロジックから直接導き出されない技法を用いているわけではない)と云うようなことですよね。

江本氏自身はそうなんだと思います。つまり、商売のタネが水伝であることには江本氏内部で心的な必然性がある。その上で、水伝を信じることと詐術的な商売をすることは江本氏内部ではまったく矛盾しないわけです。

ただ、このような資質の持ち主を担ぐ人間と謂うのも必然的に出てくるのだろうな、と謂うことを先日の議論で考えたわけで、多分そう謂う人間は外部にあるロジックから分析的にアプローチしているのだと思います。つまり、水伝を商売のタネと「しか」視ない「凡夫」ですね(笑)。この両者が結び附くことによって、水伝と謂う「ビジネス」は経済合理性を獲得するのではないか、と謂う考えですね。

多分、江本氏自身も最初から水伝で商売する気満々だったとは思うんですが、初期の江本氏の言動と謂うのは呪術性のほうが勝っていて何となく商売人としては危なっかしいところがあったと思うんです。そこに外部の思考を持ち合わせたバックが附くことで、教祖の言動が戦略的に洗練されてきたのではないか、こう謂うふうに考えているわけです。

その点、オウムの麻原などは麻原当人も卓越した経済合理性を持ち合わせていたわけですから、教祖としての機能性は麻原のほうが優れていたんではないかと思います。勿論、「教祖として優れている」と謂うことが何らポジティブな意味性を表すわけではないことは確認しておきますし、寧ろ教祖的な資質と謂うのは本質的に反社会的な性格を帯びるものだろうと謂うふうに考えているんですが。

by 黒猫亭 (2009-07-03 13:42) 

zorori

黒猫亭 さん、

「合目的的な思考停止の技術」で、脳に障害を負った人の疾病失認という症状を思い浮かべました。

半身不随になっても病意が無く、びっくりするような作話をすることがあるそうです。動かない方の手を動かしてくださいと頼むと「関節炎で痛むので動かしたくない」などと合理化した弁解をするらしいです。非常にまれな例では、動いていないはずの手が動いていると主張することもあるとのこと。

誰しも、そういう要素を持っているのが人間で、不幸にして脳の障碍のために健常者から見れば滑稽な(こういう言い方は失礼で気の毒にも悲しいというべきかもしれません)合理化をせざるを得なくなるのかと。そして、障碍がなくても、人格的な要因で反社会的な作話の世界に入り込んでしまうこともあるのかなと思ったりします。
by zorori (2009-07-03 22:19) 

pooh

> 黒猫亭さん

> 「教祖であることと卑劣な詐欺師であることは、世間の視る目としては別の事柄に見えるが、当人の内部ではそれほど懸け離れたことではないのではないか」と謂う考え

ぼくも、そう云うことはあるのではないか、と思っています。と云うか、もっとちいさなスケールでは、おなじ性質を持った「矛盾に見えること」はぼくたちのなかにもこまごまと存在しているわけで、それがちょっと信じがたいスケールの大きさ(と云うか落差の大きさ)で展開されているだけ、と云う話なのかも。

> 「祈祷によって雨が降る」「祈祷によって琵琶湖が浄化される」と謂う観念に有効性がある限り、自然科学的な合理は思考停止されると謂うのが呪術的合理性の在り方だと思うんですね。

ここ、誤解のない部分かとは思うのですが。現象として、呪術的合理性はそのように働きます。ただ、そこに本質があるわけではない、と云う断り書きだけは振らせていただきますね。
どうも地下猫さんの論考ばかり引き合いに出すようですが、内的な意味では呪術的な合理性はまさに筋の通った理路として働きますし、有用でもあります。科学が充分に外的な基準として機能していない段階で、類感呪術が合理的なロジックとして機能した(そして科学に結びついた)例を、地下猫さんがこちらのエントリで挙げておられます。
http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20090525/1243196897
結果論ではあれ、そう云う現象の源泉ではある、と。
でまぁ、それはそれとして。

> 合目的的にイノセンスを確信する心的な技術として思考停止が用いられている

これはあると思います。教祖側だけでなく、受け手側にも。そしてそのツールとして呪術が機能している。意識的にでも、そうでなくても。

> 外部の思考を持ち合わせたバックが附くことで、教祖の言動が戦略的に洗練されてきたのではないか

これですね。なんら確証はないんですけれど、ぼくもおなじような推測をしています。なにしろ江本氏ひとりですべてをなしているわけではないでしょうし、周囲にはそれくらいの下世話な怜悧さを持ち合わせた人間もいる、と考えるほうが自然に思えます。

ここで「それはどちらでもおなじことだ」みたいに捨象してしまえるのは、先にも書きましたがぼくがニセ科学の「受け手側」の問題にフォーカスする論者だから、と云うのもあって。例えばapjさんのようにニセ科学の「発し手側」にフォーカスしていれば、この部分は絶対「おなじ」にはならない、と云う話でもあるのですけどね。

> 寧ろ教祖的な資質と謂うのは本質的に反社会的な性格を帯びる

これはそうですね。基本的に「社会の保守性」に抗う資質、と云うことですから。
まぁ、これは同時に科学者にも云える部分かもしれません。
by pooh (2009-07-03 23:01) 

pooh

> zororiさん

人間の生、意識と云うのは、一面ではケミカルな現象でもあるわけですよね。それを、我々はそう云う把握のしかたが(内側からは)できない。
なにしろ、内的にはそう云う環境で生きている訳です。でも、ひととひとのあいだにあること、ひとと世界の間にあることは、そう云った内的な環境とはまた別のロジックのもとにある、と云う話かとも思います。
by pooh (2009-07-03 23:06) 

黒猫亭

>zororiさん

>>「合目的的な思考停止の技術」で、脳に障害を負った人の疾病失認という症状を思い浮かべました。

われわれが極普通に行っている「心の内側と外側を区別する」と謂う認知の働きは、実はかなり高度な認識機能だと謂うことかもしれませんね。殊に自身のボディイメージと謂うのは言語的な論理以前のかなり強力な肉体的感覚だと思いますので、自身の肉体の半分の感覚が喪われると謂う事態は相当強い違和感をもたらすのでしょうし、その受け止めきれない違和感を整合化する為に心の内側で強力な辻褄合わせが行われると謂うことかもしれません。

脳の障害で肉体機能が麻痺すると謂うのとは逆に、肉体のほうの障害で四肢の一部が欠損した場合、幻肢と謂うのがよく識られていますね。これは頭では「ない」と謂うことが疑問の余地なく認識出来ているのに、肉体の感覚が強固に「ある」と主張している例で、当人の認識としては心の内側と外側を区別する機能が維持されている為に、その両者の間のギャップが強く感じられるわけですね。

>>そして、障碍がなくても、人格的な要因で反社会的な作話の世界に入り込んでしまうこともあるのかなと思ったりします。

心の内側と外側を峻別する能力が弱い人と謂うのは、一定の割合で存在するのだと思います。オレ個人の経験においても、かなりの頻度でそう謂う人を見たことがあります。

客観的に視れば並立不能な事柄でも、人間はそのどちらも棄てられない場合がありますよね。たとえば弱者救済の崇高な世直しの動機と、弱者を踏みつけにして私欲を満たすと謂う行為は、傍目に視ると決して並立しませんが、それが一人の人間にとってどちらも必要だと謂う場合、どちらかを選択すると謂う選択肢と、その矛盾を思考停止によって辻褄合わせすると謂う選択肢が在り得ます。

そのどちらも欲しいと謂うのが割と普通にある人情ですから、多かれ少なかれ人間は互いに相矛盾する事柄を思考停止によって辻褄を合わせて並立させているものだと思います。そして、これはこれで「辻褄を合わせる」と謂う意味では一つのロジックではあるのでしょうね。

ただ、大部分の人間はあまりに甚だしい矛盾を抱える複数の事柄に対してそうそう器用に思考停止を出来ないわけで、弱者救済と詐欺なんて強力な矛盾を摺り合わせることは出来ないですよね。それが出来てしまうのが教祖的心性の特殊性だったり、呪術的な心的技術と謂うことなのかもしれません。

by 黒猫亭 (2009-07-04 16:08) 

黒猫亭

>poohさん

>>と云うか、もっとちいさなスケールでは、おなじ性質を持った「矛盾に見えること」はぼくたちのなかにもこまごまと存在しているわけで、それがちょっと信じがたいスケールの大きさ(と云うか落差の大きさ)で展開されているだけ、と云う話なのかも。

zororiさんへのレスに書いた通り、この部分について異論はありません。筋論的な観点では矛盾していても、合目的的な観点では矛盾なく並立し得ることと謂うのは幾らもありますし、多分その種の合目的性と謂うのは、人間が生きていく上で必要な観点なのだと思います。

と謂うか、われわれを取り巻く現実と謂うのは、あっちもこっちも矛盾なく摺り合わせが可能なほど単純なものではありませんから、人間が生きていく以上合目的的ではあっても矛盾した行動に出るのは割合自然なことですよね。その場合、一番フラットな対応と謂うのは、矛盾は矛盾のままに受け止めて悩むと謂う対応です。

一方で、普遍的な人の生のレベルで考えると、矛盾せる事柄の矛盾を矛盾と感じることなく並立出来る心性と謂うのは、生きる上で相当強いスキルと謂えますよね。人間はどうしても矛盾を矛盾と感じてしまうものですし、その矛盾とどうしても折り合いを附けることが出来ないから常に悩んで生きています。小さな矛盾なら目を逸らすことで無視出来ても、大きな矛盾は否応なく目に入ってしまいます。

この矛盾を内的に整合させる心的技術と謂うのは、相当強いスキルなんではないかと思いますが、われわれのような「凡人」がなんでそんな便利なスキルを身に着けることが出来ないかと謂うと、社会と謂うものが存在するからでしょう。自分の心の内側だけでロジックを整合させても、それは外部の現実や他者の存在によって裏切られてしまうものです。社会の内部で他者と共に生きている限り、心の内側の世界だけを生きるわけにはいきません。

心の外側の現実を無視して内側の世界を強固に生きる姿勢と謂うのは、だから不可避的に反社会的なのだと思うんですね。心の外側には他者と謂う存在がいるわけで、そこで通用するロジックは他者と共有可能なものでなくてはいけません。「俺が納得しているからいいんだ」では通用しないわけですね。

たとえば弱者救済と詐欺を並立可能な心性と謂うのは、物凄く機能的に思考停止を駆使し得ているのだと思いますが、それではそもそも他者と共有可能な論理を構築することは出来ないわけですね。「それでいいんだ」と考えるのであれば、そのような心性は不可避的に反社会的なものとなる、そう謂うことなんだと思います。

われわれは、衆生済度と卑劣な詐欺は別の事柄であり並立不能なのだと謂う共通認識に基づいて生きていますし、個人の行動の規範もまたそのような共通認識に準拠することを期待して社会が成立しています。これを峻別せずに生きることは、そのような約束事を逸脱することであって、そのような「俺ルール」が許されるなら社会が成立しないわけですね。

それ故に、教祖的な心性において衆生救済と詐欺が矛盾なく並立可能なのだと指摘することと、それをイノセンスとして免罪することはまったく別のことだと謂うことになるわけで、「俺ルール」によって獲得されたイノセンスには社会的な意味でのイノセンスとしての意味なんかないと謂うことですね。それは結局、「俺は悪くないんだから悪くない」と謂う無意味な循環論法と変わりがないわけです。

>>ここで「それはどちらでもおなじことだ」みたいに捨象してしまえるのは、先にも書きましたがぼくがニセ科学の「受け手側」の問題にフォーカスする論者だから、と云うのもあって。

オレの立場も受け手側にフォーカスしているとは思うのですが、教祖的な特殊な心性を考える動機としては、「救世主か詐欺師か」と謂う常識的な二分法は、おそらく教祖的な心性には通用しないのではないか、と謂うことを明らかにすると謂うものです。

たとえば世間では、詐欺師であれば自身の教義を信じているはずがない、逆もまた然りみたいな曖昧な判断基準があると思うんですが、多分それには実質的な意味がないんだと思うんです。江本氏が水伝で書いたようなことを自分で信じているかどうかと謂うのは、江本氏が詐欺師であるかないかとは無関係なんだと思うんですね。だから江本氏の心的現実を捨象して「どちらでもおなじことだ」とも謂えますが、それが一種の判断基準として曖昧に機能している以上、信じていて尚かつ詐欺師でも在り得る心性とはどんなものかを考えることにも受け手側に対する意味があるかな、と。

>>どうも地下猫さんの論考ばかり引き合いに出すようですが、内的な意味では呪術的な合理性はまさに筋の通った理路として働きますし、有用でもあります。

これは勿論、地下猫さんであれ誰であれ、呪術的合理性にフォーカスして考えておられる方々には共有されている認識ではないかと思います。それは「人と人の間においては呪術は効く」と謂うことでもありますし、自然科学的合理が呪術的合理の連続上に発生したものであると謂うことも当然だろうと思います。

人間は何もないところから何かを生み出すわけではないですから、自然科学的合理の出現以前は呪術的合理が世界を合理的に読み解く規範だったのだろうと思いますし、その両者の間には共通する論理性があるのだと思います。「辻褄を合わせる」と謂う感覚は他者と世界認識を共有する上で必須の要素であろうかと思いますので、そのような論理はごく古い社会の段階から存在しているのだと思います。

そして、自然科学的合理と呪術的合理を隔てるのは手法の問題だと謂う言い方も出来るわけで、心の外部の現実に直接アプローチする有効な手法が確立される以前は、心の内部にある世界の影に内的な条理の感覚でアプローチするしかなかったわけで、その積み重ねにおいて或る有効な手法が形作られることで、ようやく心の外側に現実にアプローチすることが可能になってきた、このように考えています。
by 黒猫亭 (2009-07-04 17:34) 

pooh

> 黒猫亭さん

> われわれのような「凡人」がなんでそんな便利なスキルを身に着けることが出来ないかと謂うと、社会と謂うものが存在するからでしょう。

そうなんだろう、と思います。
多分そうなると、そう云うスキルを強烈に発揮する存在、と云うのは、一種強力なロールモデルになりうる、と云う話のようにも思います。そこに魅了される、その思考法にみずからのそれを寄り添わせる、と云うのも生じうる。
たぶん、ニセ科学の周辺には、大小は別としてそう云うことも発生しているんだろうな、みたいに思います。

> 心の外側の現実を無視して内側の世界を強固に生きる姿勢と謂うのは、だから不可避的に反社会的

これはもう、そうなんだろうな、と思うんですよね。

個人的には、ニセ科学の問題を論じるのに「社会規範」と云う用語を用いることには、あまり賛同できないでいるんですけど(そこから必要以上に教条的なニュアンスを汲み取ろうとする手合いもあるようなので)。ただ、ニセ科学に対峙するにあたっての「社会」と云うのは、そう云う根源的な水準の意味合いだと思うんですね。他者同士で構成された、自分の外部と向かい合わなければいけない(そして可能なかぎり、各構成員の都合を少なめにしながら営まれなければいけない)共同体。

> 信じていて尚かつ詐欺師でも在り得る心性

結局確かに、ここには通常の想像力ではリアリティをもった理解は難しい、と云うことはある、と思います。

> 心の外側に現実にアプローチすることが可能になってきた

これこそがまさに、科学の意義、なんですよね。
この部分が、ニセ科学の問題とたんなる詐欺や悪徳商法の問題とのあいだにある、へだたり、なんだと思います。
by pooh (2009-07-05 05:48) 

黒猫亭

>poohさん

>>結局確かに、ここには通常の想像力ではリアリティをもった理解は難しい、と云うことはある、と思います。

その通常の想像力を超える部分に、ニセ科学の詐欺性を広く訴える場合の障害があるのかな、と思うんですね。たとえばわれわれが「本人が教義を信じていようがいまいが関係ありません。やっていることだけを客観的に視れば詐欺以外の何ものでもないでしょう」と訴える、これも一つの選択肢です。

それに対して「本人が教義を信じているんだから、詐欺じゃないだろう」と応じるのは物凄く噛み合わない論理ですし、筋の通った反論でもないですよね。ただ、噛み合わなくても反論の体を成していなくても「本人が教義を信じているんだから、詐欺じゃないはずだ」と謂う予断には、或る一定の広汎な説得力があるんだと思うんですね。

それは、教義を信じていながら確信的な詐欺師でも在り得ると謂う心性が、通常の想像力を超える理解しがたいものだからだと思います。そこを捨象すると謂う思考の手続は普通の人には難しいですから、「やってることは事実上詐欺でしょう」と謂う主張の説得力に関わってきます。

ニセ科学を容易に受け容れるような人々の判断基準と謂うのは、多分そう謂う自らの経験則上の想像力に負うところが多分にあるんだと思うんですね。人を視る目と謂うか、他者を量る場面で人間性に対する自身の想像力を基準に採る部分ですね。

>>これこそがまさに、科学の意義、なんですよね。
>>この部分が、ニセ科学の問題とたんなる詐欺や悪徳商法の問題とのあいだにある、へだたり、なんだと思います

仰る通りだと思います。前回拾い損ねましたが、poohさんが、

>>これはそうですね。基本的に「社会の保守性」に抗う資質、と云うことですから。
>>まぁ、これは同時に科学者にも云える部分かもしれません。

と仰ったことについて、たしかに教祖も科学者も既存の価値観や概念体系にイノベーションを迫ると謂う社会的役割については共通していますよね。ただ、教祖は経験則から得られた自然発生的な内的条理の感覚に訴えるが、科学者はその内的条理の感覚から発展して確立された外的条理の手続に訴えると謂う決定的な違いがあります。

その決定的な違いが、心の外側の世界に対するアプローチを可能にしているわけで、呪術的合理性が抱えていた「心の内側に対してしか働かない」と謂う限界を超える要件であるわけです。

ニセ科学問題やその呪術性を考える場合、この決定的な違いを有耶無耶にして、本来は呪術であるものを、あたかも心の外側の世界に対しても機能するものであるかの如くに擬装する、と謂う問題があるわけですね。

そして、受け手の側の問題として、自然科学と謂う「外的な条理の手続」によってたしからしさが支持されている概念体系を、人間が自然に培ってきた「内的条理の感覚」で読み解こうと謂うニーズがあると謂うことが考えられるのではないかと思います。
by 黒猫亭 (2009-07-05 07:47) 

pooh

> 黒猫亭さん

> 本人が教義を信じているんだから、詐欺じゃないはずだ」と謂う予断

これなんですが。
議論を、主張する人間の「善意」「悪意」と云う要素でドライヴさせよう、と云う発想があるじゃないですか。それは非常に危険なんですけど、そう云う部分に近接する発想があるように思います。

> その決定的な違いが、心の外側の世界に対するアプローチを可能にしている

これ、たぶんものすごく大きな要素です。うまく整理できれば、それだけでいくつもエントリが書けるぐらい、ニセ科学と社会の問題の基軸になるものかと思います。

科学って、この「思考を外に出して、共有化する」手法なんですよ。
心の内部におけるロジックは、いまもむかしも呪術性が支配的な状態のまま、大きく変わっていない。ひとのこころのしくみがおおまかには同じものである、と考えた場合に、そのロジックは共感と云うかたちで、呪術的なまま一定水準での共有が可能です。ただ、それはどこまでもアナロジカルなものでしかない。もちろんそれで充分な場合も多い、と云うか日常的なコミュニケーションはほぼそれでまかなえるんですが、そこを超えるものが必要となる場合には、それでは不足となるわけです。
正直、ちょっと本格的に論じるにはぼくのほうの準備が足りない部分があるんですが、そう云うものが必要とされる場合と云うのがどんな状況か、と考えると、ひとつの典型として、「特定のことがらに対して個人の自由を制限する規範を設ける」ような場合が挙げられる、と思うんです。「ひととひとのあいだにあること」のために、「ひとのなかにあること」に規範を設ける、と云うような。

おそらく、なんですが。
あるロジックの起点は、たぶん多くの場合、個人の内部の呪術的なロジックにあって。そして、そのロジックを「ひととひとのあいだにあること」に適用する場合に、あいまいな心的構造の類似を拠点にするか、それとも個々人から等距離にある外部に出すか、と云う両方の方法がある。そして、前者ではなく後者を選ぶとき、そこには相応の理由があるわけで、それがまさにおっしゃる「心の外側の世界に対するアプローチ」だと思うんです。
構造的には、ニセ科学、と云うのは後者を擬態した前者の手法であるわけですよね。当然ながらその蔓延には、発し手側には前者と後者を混同させるような(意識されているにしてもされていないにしても)技法があるし、後者には理解のすじみちで前者と後者を分別しない、と云う思考法がある。
ニセ科学に対して批判的な言説を発する人間が「科学信者」とか「科学教徒」とか云われたりしますよね。なんのことか、と思うわけですけど、要するにこの「そとに出す」営みのことを理解していない(あるいは能動的に「理解しない」)からなんだ、と思ったりもします。
by pooh (2009-07-05 09:17) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

トラックバックの受付は締め切りました

関連記事ほか

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。