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権威の取り扱い [よしなしごと]

waveriderさんのニセ科学批判 vs ニセ科学批判批判についてと云うエントリを読んだ。
いやまぁ、もうこんな話題不毛な気もするし(apjさんの「ニセ科学批判」はワイルドカード入りだし、「ニセ科学(蔓延防止)対策」の1つの手段であると云うエントリでいちおうの整理がなされているようにも思うし)、waveriderさんも私の中では、「批判 vs 批判」問題はこれでカタがついた。とおっしゃっているのであらためて対話の余地なんかがあるとは期待できないんだけど、いちおう周縁部の泡沫ブログとは云え若干なりともどなたかの参考にしていただけるようなことが書けるかもしれない、と云う気がするのですこし言及。

「正しいこと」は、権威を帯びる。
これは文化や規範を超えて働く、人類共通の法則だと私は考えている。
この「正しいこと」は種類を問わない。神や科学や真理や道(タオ)やダルマ、何でもよい。
例えば、ある人が「正しいこと」を発言し、聞き手もそれを「正しいこと」だと認識した場合、その発言や発言者は権威を帯びる。
権威とは、大辞泉によると「他者を服従させる力」のことで、その強力さゆえ取扱には細心の注意を払わねばならない。
じゃあ、権威はなんのためにあるのか。その「他者を服従させる力」の源泉は、どこにあるんだろう。

そもそも権威がなぜ存在するのか、と考えると、それは便利で経済的だから、と云うことになると思う。権威に従えばいい、となれば、あることがらを判断するにおいてのリソースを相当倹約できる。
ただ、ここで留意すべき点がふたつ。
  1. 間違った権威に従うことは、意図しない結果に結びつく可能性が高い。だから、権威に従うにあたっては、その権威が従うに値するかどうかを見抜く必要がある。たぶん、多くの場合それは「その権威を支えているものはなにか、どのようなしくみでその権威は成立しているのか」と云う部分から考えることになるのかと思う(科学の権威の源泉、と云うあたりについては、TAKESANさんが折に触れて考察されている)。
  2. ある権威が影響を及ぼしうる範囲、と云うのがある。特定の権威が無制限にどんなことがらにも適用できる、と云うことはない。科学的な権威は科学的なことがらに、宗教的な権威は宗教的なことがらに。もちろんそれらは(実在論的な見方からすれば)単一の世界に対して影響を及ぼしているわけなので、隣接する部分はあるだろうし、問題によってはひとつのことがらに対して権威同士相反したり相乗したり、と云うことはありうるけれども。ただ、それは「広がり」の部分のお話であって、コアとなる部分は別の方向を向いている。
で、ニセ科学と云うものは上記2つのことがらをあいまいにして(あるいはうそをついて)科学を詐称することでその権威の利用をはかるものだ。なのである意味、受け取り手側の「科学の権威への盲信」を利用する、と云う部分をその根本のメカニズムに持つ。科学の権威を否定すると、ニセ科学のロジックは破綻する。
まぁ多くの「信じることが大事」なひとにとっては、あまりその破綻を気にかけてはもらえないのだけれど。破綻していようがどうだろうが、大事なのは「信じること」であって、「どうして信じたか」「信じるに値するのか」ではなかったりするようなので。
批判批判者が述べる「科学は絶対不変じゃない」「科学は完全じゃない」という反論は、権威を行使される側が発するなけなしの反論と捉えるべきだろう。
そんな反論を述べたとしても、上記の構造が維持されている限りニセ科学批判者の上位性は崩れない。なにより権威が消えてくれない。
いや、徹底して科学の権威を否定すれば、その上位性とやらは、すくなくともその対話の場では崩れると思いますけど(単純に対話が成立しなくなるケースもあるだろうけど)。ただ、「科学は絶対不変じゃない」「科学は完全じゃない」と云うのはニセ科学に対して批判的な論を張る人間のあいだではおおむね共有されている認識なので、端的に云ってそのことにもとづいて論を構築しても結果的に反論の態をなさない、と云うだけで。

そもそもそれ以前に上位性だの優位だの、なんの話だ。waveriderさんのおっしゃることに準拠すれば、その権威は自分自身に対して自ら選んで行使していることにならないか。権威を自ら受け入れつつそれに反するスタンスで発せられた言説は、単に不誠実な言説ではないのか。それも受け手に対してだけではなく、発し手である自分自身に対しても。
批判批判を気取る多くの言説が自家中毒におちいって、「ともかくおまえら(って誰?)の態度が気に喰わない」の謂にしか帰結しないのは、自ら語る内容が自分自身(と、権威を受け入れると云う自ら選んだスタンス)に対してさえ誠実でない、自分自身にとってさえ意義を持たない言説だからじゃないのか。

そう云う自家中毒におちいっている論者に対して、ぼくはつねづね痛ましい、と感じている。で、議論においても言及においても、どちらかと云えばそのような事態に陥らないようにふるまってきたつもりはある。でもそのことは、根本的に不誠実な言説を撒き散らすことが許容されるべきだと考えている、と云うことではまったくない。
それに(ここの過去エントリでサンプルがいくつかあるけれど)「批判批判者」が自らの言動を通じてあらわにしてしまった不誠実さについては、こちらとしては回収のしようがない。

ついでに。
逆に言うと、日本では「科学に背を向ける奴は怠け者でアホで自己責任」という考えを裏でしてしまいがち、というか。
いやまぁ自己責任だとは思いますが、それ単体でとくにアホだとは思いません(科学に背を向けて暮らせるのなら、それはそれで尊敬するかも。具体的にはこちらで書いたような話になるかと)。でもまぁなんと云うか、自分でちゃんと科学に背を向けると云うことがどう云うことなのかを考えない、都合のいいところだけつまみ喰いして自分の発話の整合性なんかは気にもとめない怠け者なのだろうなぁ、みたいには思ったりするかも。
それは例えば、権威と云うものにいちがいにネガティヴな意味合いだけを読み取ってしまうのとおなじくらいには、怠けたふるまいだと考えるので。
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TAKA

ちなみに私の場合、「自分の間違いを素直に認める人」を信頼します。そう、poohさんの事です(^^。耳に痛い意見にも、スネたりせずに真正面から立ち向かう姿勢が、潔い。

近頃は、Judgementさんにも注目しておりました。今のところ、私が期待するほどのクールは、無い御様子。
希望を失った私:「ぜつぼうした…。絶望したっ!停滞するニセ科学批判に喝を入れてくれる賢者さまだと勝手に思い込んでいたので、余計に絶望したっ!」

私は今も、星に願っています。余裕で信頼できるニセ科学批判批判者の、ご登場を。
・・・・・・・・・
今週の素朴:【世の正義のニセ科学批判者たちは、科学の権威に溺れています。自覚してね♪】

waveriderさんの仰ることも、ある意味分かるような気がします。
この私も、ややこしいものに対しては権威のレッテルを貼り付けます。それ以降は深く考える必要が無いので、のんびりまったり寛げますね。
暇なときには、『賢い僕が送る独自の理論』を、ネット上で披露できるので、お手軽です(^-^♪

あいや、しばらく。ニセ科学批判者たちって、意外とワイルド路線ではないかしら?
いや、poohさんのブログを常に見守っている読者たちこそ、クールかも。
『見よ、裸の論者よ。ここの読者はワイルドだ!』
Aさん:「権威がナンボのもんじゃい。四の五の『僕理論♪(^-^』を述べずに、現場に下りて来いっ!」
Bさん:「下りて来いっ!」
Cさん:「本気でニセ科学批判の革新を目指すニセ科学批判批判者たちよ。このブログに、出て来いやー!」
Dさん:「出て来いやー!」
Eさん:「安楽椅子からの遠吠えは、もう聞き飽きたぞー!」
Fさん:「聞き飽きたぞー!」
Gさん:「ちなみに、『わさお』は秋田犬だぞー!」
全員:「秋田犬だぞー!」
「トリビアの泉」風にダンボールを叩く猫:「そうだったんだ。へえ、へえ、へえ。」
ブログ主:「結果が出ました。今回の言及先の信頼度は、『48へえ』です。」
・・・・・・・・・・・
怠惰な私は、ニセ科学批判を自ら行うことは無理っぽいです。とことん、自分に甘いので。(相互批判を怖がらない先輩方を見て学習中です^^)
by TAKA (2009-04-30 01:50) 

pooh

> TAKAさん

いや、ぼくの場合単に頻繁に間違ってるだけ、と云う可能性も濃厚ですが。

> 見よ、裸の論者よ。ここの読者はワイルドだ!

そうなのかも。どうだろう(^^;。
by pooh (2009-04-30 07:28) 

技術開発者

こんにちは、pooh さん。

>「正しいこと」は、権威を帯びる。

昔に比べてずいぶん権威を帯びなくなっている気もするんですね。別なところで、「嘘をつくのは良くない、騙すのは良くない」という基本的な社会規範のことを書いていて、ふと、労働組合の新規勧誘のことを思い出したのね。

「組合に入ったらどういうメリットがあるんですか?」
の質問に「直接のメリットといえるほどのものはないです。組合費は取られるし、分会の役員みたいなものが回ってくることもあるからディメリットならありますよ。」なんてね。実際に最近は開き直ってこう言っている(笑)。組合が労働条件を守ったり、新たに勝ち取ったりしても、それは組合員ではない職員にも適用されるのだからね。

ただ、皆が直接のディメリットを嫌がり直接のメリットが無いからと労働組合が無くなったら、そのときは大きなディメリットが全員にふりかかる。だから、やっているだけ、なんてね。

私の先輩たちは、この「無くなれば大きなディメリット」ということの「正しさ」に権威を感じてしたがってきたけど、今はもう権威なんてどこにもないのだと思ったりするんですね。




by 技術開発者 (2009-05-01 06:45) 

pooh

> 技術開発者さん

権威にはメリットもデメリットもあると思うんです。背景が変われば、メリットだった部分もデメリットに変わりうる。で、権威を(その存在理由も含めて)なにかしら漠然と捉えていれば、それは正体不明の抑圧的なものにも見える。
単純な話で、もうすこし視野を広げて、そのなかで個々の権威とその機能(および主体としての自分との関係)を位置づけて考えれば、waveriderさんのおっしゃるような話にはならないと思うんです。
たぶん、おっしゃる組合の話も同じだと思います。なぜ組合があるのか、そこから生じる権威はなんのために使われているのか、それと自分の関係はどこにあるのか、と云うことを理解するかどうか、かと。
by pooh (2009-05-01 07:31) 

pooh

waveriderさんが「回答? のようなもの」と云うのをお書きのようなので、こちらにちょっと追記。

「不誠実」と云うのは、権威と云うのを自分との関係のあいだで理解しようとせずに単に「抑圧的なもの」として受け入れ、それを勝手に「権威の側にいるもの」と認識した相手に投射して、その相手に「抑圧されている」と云う認識のもとに論を張るスタンスの謂です。
相手が権威を背負って抑圧しているわけではなくて、(仮に批判的にでも)自ら受け入れた権威に自ら抑圧を受け取っているのに、それをあたかも相手が押し付けている、と云う状況として受け止めるのは、要するに(自分自身に対する)ごまかしですよね。
by pooh (2009-05-01 08:25) 

apj

 ちょっとまとめを書いてトラックバックしたんですが。

 「科学が権威を利用して自分を抑圧するのはけしからん」という立場ををとるのは自由なんですが、それなら権威を利用して欺すニセ科学に対して無頓着な時点で自己矛盾でしかないですよね。
 本気でその立場を取るなら、「内容が正しかったって抑圧することがそもそもけしからんの言ってるのに、その上人を欺すとは一体何たることだっ!」となるはずなので、より一層激しい非難がニセ科学に向かうのが筋ですが。

 抑圧のために権威が使われるのは嫌だけど欺すためになら権威が使われても良い、という立場は、私には理解しがたいです。他人を欺すことを是としているならそれも有りですが、それなら黙ってないではっきりそのように言うのが誠実な態度でしょうね。

by apj (2009-05-01 12:52) 

pooh

> apjさん

たぶんですね。そのへん、権威と云うものに対する認識が混濁しているから生じることだと思うんですよ。で、その混濁は、ちゃんと考えないで空気で判断している辺りから生じていると思うんです。

ぼくは自然科学アカデミズムの外部の人間ですが、ずっと「ちゃんと考えること」を訴えています。そう云う立ち位置からすると、そう云う漠然とした角度から気分だけで権威を云々されるのはちょっと許容しがたい、と云う話でした。
by pooh (2009-05-01 22:07) 

apj

 それでは、ということで、ストレートに訊いてみることにしました。
 新しいエントリーを書いたのですが、よく似た質問を2つ書いてみました。

「科学に権威が伴うとして、そのことによって一体どんな被害が発生しているのか?」
「科学の権威で抑圧された結果、あなたに(あるいはあなたの友人知人に)どんな具体的な被害が発生したの?」

 被害発生の具体例が出てきて、それが本当に科学の権威のせいなら、対策可能かどうかとか、対策可能なら何をどうすればいいか、という話が始まるんじゃないかと思いまして。
by apj (2009-05-02 13:37) 

pooh

> apjさん

このぼくのエントリ、どうしてもあいまいな書き方になっている部分があって。それはなぜか、と云うと、言及先のエントリを書かれたwaveriderさんが「観客」で、その言説が「観客席」からのもの云いになっているから、と云うのがあります。ご本人の立ち位置が奈辺にあるのかは想像するしかないし、想像で云々するのはあまり愉快なことではないのでどうしても割けたくなってしまう。ひょっとすると自分が「観客席」にいることさえ認識されていないかもしれない。

権威は抑圧的に働きます。抑圧をつねに悪、であるとすれば、いかなる権威も単純に悪、です。自分の自由を抑圧する、悪。
でも、権威の抑圧なんて、認めなければ発生しませんよね。権威による抑圧は、その権威を認めるところから生じているんです。要するに、それをネガティヴなものとして捉えたところで、その権威に対しいちがいに単純に悪、として反発するのは、すでに権威に対する盲信の一形態です。で、そのことにもとづいて反発に理あり、とするのは、権威を盲信して「それが権威であるから」として他者に向けて抑圧的にふるまうのと本質的には変わりません。
権威から自由になるにはその権威を理解するしかない。なのに、あえてそれをしないことを批判めいた言説のうらづけとする。こう云うスタンスを日本語で一般的にどう評するか、と云うことでもあります。

本質的に変わらないにもかかわらず、自らそのことを標榜しない、または理解していないことを奇貨として、「権威に反発するもの」と云うセルフイメージに従った行動を取る。これは不誠実以外のなにものでもない、と思います。実社会では「おれは馬鹿だからわからない、馬鹿のおれにもわかるように説明できないのはおまえの無能だ」みたいなロジックを平気で使う卑怯者に往々にして出会いますが、それとまぁ変わりません。

で、これまでのお話はwaveriderさんご本人にはあてはまりません。なにしろ「観客」でいらっしゃるので。おそらく「被害発生の具体例」に対しても、「観客」でいらっしゃる以上、ご本人の意識のうえでは「とくに関係ない」のだと思います。
多くの「『ニセ科学批判』を批判する」論者に見られるスタンスに酷似してはいますけど。
by pooh (2009-05-02 16:32) 

apj

waveriderさんが観客席だということはわかって書いてます。
waveriderさんが見たものと、私が見たものが共通しているのなら、その共通している人達に向けて確認しなきゃいけないかな、と思ったもので。
ですので、waveriderさんへの質問じゃなくて、実際に、科学に権威が云々、と主張する人にこれから訊いてみる質問、のつもりで書きました。わかりにくくて済みません。

by apj (2009-05-03 00:22) 

pooh

> apjさん

いや、承知しています。上のコメント、自分の書いていることについて、でした。こちらこそすいません。
で、ほんとは「ほんとにそこって観客席?」とも訊いてみたいんですけどね。
by pooh (2009-05-03 04:43) 

技術開発者

こんにちは、poohさん。

>権威は抑圧的に働きます。抑圧をつねに悪、であるとすれば、いかなる権威も単純に悪、です。自分の自由を抑圧する、悪。

権威の前段階のルールというものが「悪」であるという事を、私はよく説明しています。「悪」だけど「必要悪」なんてね(笑)。

たとえ話にするのは、ロビンソン・クルーソーね。彼が一人で無人島に暮らしている時「やれることでやってはならない事は何一つ無い」訳です。そのことによって、後で困ったとしても、それもまた自分に降りかかるだけですからね。あの小説の中でクルーソー自身がそう独白している場面もあつたと思います。ところが、フライデーを助け「私はお前を殺さないし傷つけもしないから、お前も私を殺さないし傷つけないと約束してくれ」と言って、その約束が成立した時に、クルーソーには「やれることでも、やってはならないこと」ができることになる訳ですね。この約束は彼の自由を抑圧する悪ではあるわけです。ただ、彼は「人と共に生きたい」という強い欲求を持っていたので、「必要悪」として受け入れているだけの話なんですね。

実は、このルール、つまり規範が広範囲の人間の間で成立し、さらに世代を降っていく中で、「権威」となる訳です。もともとは、社会で共同生活を送るために互いに認め合うしかなかった「必要悪」の部分なんですが、認め合ったという成立過程が過去のものとなってしまうために「権威」の部分だけで成り立つみたいに思われてしまいやすいのかも知れません。

by 技術開発者 (2009-05-07 11:26) 

zorori

「伝統」と似ているのかもしれませんね。ロビンソン・クルーソーは自分で作ったのでルールに従うわけですが、大抵の場合昔の人が作ったものだから、なんで自分が従ったり尊重しなければならないのだと考えるのもありがちです。じゃあ、自分で作る場合と先人の知恵の蓄積を利用するのとではどちらが効率的で間違いが少ないかということかと。
by zorori (2009-05-07 20:59) 

pooh

> 技術開発者さん

たぶんこの部分、もうひとつつっこんで考えると、権威と権力の関係性、みたいなものについての考察が必要になるんだろうな、みたいに思うんですよ。でもそれ以前に、それらを同一視してそのことを前提とすると批判もなにも成立しなくなるよ、と云う話です。ありうる理もなくなっちゃうよ、みたいな。
by pooh (2009-05-07 22:00) 

pooh

> zororiさん

> 自分で作る場合と先人の知恵の蓄積を利用するのとではどちらが効率的で間違いが少ないか

そこで、判断を差し挟むことも可能、かと。
ちゃんと考えようよ、と云うのはそう云うことでもあります。
by pooh (2009-05-07 22:03) 

TAKA

若い感性の主張:「科学者の言うことなんか聞いてられっか!僕は自分流を貫く!その結果、躓いたとしても悔いはない!」

こんな感じで宣言してくれれば、かえって清清しいかも。この私も、「そうだ若者よ!あたって砕けろだ!自分で作った壁は自分で壊せ!」などと、声援を送りたくなります(^^。

しかしまあ、長い間生き残ってきた伝統に打ち勝つのは、容易ではありませんわねえ。

というわけで私自身は、科学がなぜ権威と思われるぐらい輝いているのか、その謎に迫りるべく探索を実行している次第です(^^。
とにかく学習です。まずは義務教育レベルの科学知識からorz。

「権威ったら権威なの!偉そうに語りかけない!この科学至上主義者めらが!」などと口に出して叫んでみても、虚しさが私の心に広がって行くばかりなんですよねえ(-_-;。
by TAKA (2009-05-08 06:13) 

pooh

> TAKAさん

> こんな感じで宣言してくれれば、かえって清清しいかも。

じっさいのところ、その方向はあり、だと思っています。ただ、そうとう膨大な量の思考を積み重ねる必要がありますよねぇ。
by pooh (2009-05-08 07:33) 

技術開発者

こんにちは、poohさん。

>たぶんこの部分、もうひとつつっこんで考えると、権威と権力の関係性、みたいなものについての考察が必要になるんだろうな、みたいに思うんですよ。

「必要悪」という概念を入れて考えると、国家権力みたいなものも「必要悪」ですからね。「必要悪の範囲に収まっているかどうか」という検証は常に必要ではあるのです。

>でもそれ以前に、それらを同一視してそのことを前提とすると批判もなにも成立しなくなるよ、と云う話です。

そう「完全な自由を持つ人間(一人暮らしのクルーソー)」からみれば、あらゆる規範は「悪」であり、あらゆる権力が「悪」であるのはまず大前提として存在する訳です。そこに、「自分たち人間は社会生活を営む」という条件を入れて、そのために完全な自由を失う部分を「必要悪」として許容するということができて、はじめてそこに、「この規範や、権力は必要悪の範囲に収まっているかどうか」という検証に入れる訳です。その前段階で「悪だから嫌だ」と拒否するのであれば、話にならないわけですね。

by 技術開発者 (2009-05-08 08:01) 

pooh

> 技術開発者さん

> その前段階で「悪だから嫌だ」と拒否するのであれば、話にならない

話にならない、と云うか、有益な議論ができない。省略すべきでない、肝要なところについて思考を節約している、と云うことになると思うんですよ。
by pooh (2009-05-08 22:21) 

TAKA

『poohさんが言いたかったことを考えてみました』

こんにちは。poohさんの「齟齬」という記事のコメント欄で、次のような意見を読みました。
~「poohさんの主張には、ガッカリな部分があります。というのも、『批判批判者』というものが科学的事実を否定している訳では、ないのです。」~

この意見に興味を抱いた私は、ここの記事を改めて読んでみました。
その結果、poohさん御本人が、「あえて言おう!『批判批判者』というものは、科学的事実を否定しているのだ!」という感じの主張をしている様には、見えませんでした。

私自身は、poohさんの言いたかったことを、以下のような感じに捉えています。
「科学に過大な権威を勝手に感じた挙句、抑圧されている自分をネット上でアピールするって、何?」
「それって、自分だけに見える亡霊に向かって乗りツッコミしている状態では?ネット上における、一人デレツン漫才か?」

この私の読みは、poohさんが言いたかった事と、ずれているのでしょうか?
そして、「『批判批判者』というものは、科学的事実を否定している」という主張をした人は、どこに存在するのでしょうか?気になるので、また探します。
by TAKA (2009-05-22 22:17) 

pooh

> TAKAさん

> 主張をしている様には、見えませんでした。

主張してないですもん。

> どこに存在するのでしょうか?

どこでしょうね。
存在する、と主張しているひとの心のなか、なんじゃないですかね。
by pooh (2009-05-22 22:32) 

TAKA

>存在する、と主張しているひとの心のなか、なんじゃないですかね

なるほどです。納得ですので、私の探す旅も終了です。poohさん、お疲れさまでした。(他のお客様とは、まだ遣り取りが続きそうな気配ですね。)

・・・・・以下、余談です・・・・・
ゴールの見えない対話でも、「もしかしたら良い道筋を発見して辿るのかも?」と思いながら、私は時々コメントを送っていました。現在は、「もう、反面教師的に学ぶべき時期かも?」という感じです。

次のお客様が来た時は、poohさんとの有意義な遣り取りが見られるものと、期待しています。今の世の中、議論を知らない若者ばかりでは無いと、私は信じています。

また、今のところ議論の共有に関心が無くても、年を取った未来には「共通理解に辿り着く楽しさ」に目覚める御方も居るはず、と気楽に考えている次第です。(私自身が、そんな感じ。まだ修行中です)

こうやって、poohさんと会話が出来る事を、私は幸せに思います。(私の放言も許して下さっているし(^^;)
by TAKA (2009-05-22 23:45) 

うさぎ林檎

poohさん、こんにちは。

「見えない怪物」は、やっぱりいませんでした。もしかしているの?と少し期待がありましたが、私の力不足のためか見つけられませんでした。
いつか本当に「見えない怪物」を見つける人が現れるのでしょうか?
by うさぎ林檎 (2009-05-23 12:16) 

pooh

> TAKAさん

ぼくは基本的に、そのひとの発言にはそのひとなりの理路がある、と考えて接するようにしたい、と思っています。まとはずれに見えても、相応の理路があればそこから学ぶこともあるはずですし。
ただ、自分の持っている理路は基本的に自分にしか説明できない。相手の揚げ足なんかにはないんですよね。

> 私の放言も許して下さっているし(^^;

ぼくは、TAKAさんは受け止められかたについてのリスクを考慮されたうえで発言されていると思ってますよ。ときどきすれすれですが。
by pooh (2009-05-23 12:44) 

pooh

> うさぎ林檎さん

こう、自分にぜんぶ見えている、と云う前提には立ち得ないわけじゃないですか。「見えてないけどあるよ」と云われたら、「え、どこに?」と訊くしかない。
そこで「自分で探せよ」みたいに云われても、見えないものは見えないんですよね。そこで「見えてないのはおまえだけだよ」みたいに云われてもなぁ、みたいに思ったり。と云うか、ここのコメント欄の方々って、基本ぼくに見えていないものが見えているようなら、ちゃんと教えてくださるし。
by pooh (2009-05-23 12:48) 

うさぎ林檎

poohさん、こんばんは。

足りない頭でもう少しだけ考えてみました。
とにかくノイズが多すぎるのでよく分からないし、そこまで斟酌する必要があるのかとどうしても思ってしまうし。でもこう完全に無視できないのは、やっぱり相手じゃなくて自分の中の「見えない怪物」を探してしまうからなのかな、とも思ってしまいます。そこに映っているのが自分でないと確認しないと怖いのかな、なんて愚にもつかぬ大人気ない事を考えてみたりして・・・(恥)。
でも「狼が来た!!」って騒ぎ続けると、そのうち本当に狼が来ると思うんだけどな、それとももう来てるから騒いでるのかな、誰にも見えてないんだけど。
by うさぎ林檎 (2009-05-23 22:39) 

pooh

> うさぎ林檎さん

お考えのことと直接リンクするかどうか、微妙な部分があるんですけど。

誰かを批判するひとが、まさにその批判の内容どおりの言動をおこなっていることって、けっこうありますよね。それって、はた目にはすごく奇妙に見える。自分のことを棚に上げて、どうしてそんなことを云えるんだろう、って。

でも、じっさいのところ、自分のことを棚上げしているってことに、ほんとうに気付けないのかもしれない。そうして、自分が批判しているものがなんなのか、と云うことがほんとうに見えなくなっているのかもしれない。
そう云う状態にあるときに、そのことを指摘された場合に、それを受け入れられるのかどうか。

はたから見ていると、そう云うことが起きるのって不思議に見えます。でもじっさいには自分にもおなじことが起こっているかもしれない。そのときに、どうすればそのことに気付けるんだろうか。

ともかくも、自分でそのことに気付けないことには結局ははじまらないし、気付けるようでいたい、みたいには強烈に思います。
by pooh (2009-05-24 09:14) 

技術開発者

こんにちは、poohさん。

>そう云う状態にあるときに、そのことを指摘された場合に、それを受け入れられるのかどうか。

結局の所、リアリズムに立ち戻ろうとすることしか無いんじゃないかな。なんていうか、法学論とか読んでいても法の核心にせまる論を学ぶほど論が宙に浮いた様な形になって、どうにでも転ばせそうに思えてくるのね。だから必死になって、実際の判例とかがその法学とどう結びついているかに思いを巡らせながらでないと怖くて勉強出来なく成ったりするわけです。

私は、良くたとえ話をします(そのやり方に批判があるのも事実です)。本来、宙に浮きやすくなる論を現実とつなぎ止めようとする時にたとえ話に頼っている面が有るんですね。上の話でも「全く制約の無い個人」なんてのは宙に浮きやすいから、「例えば、無人島のロビンソン」みたいに具体化してつなぎ止める訳ですね。

最近思ったんだけど、規範性なんてどこにでも生じて、勝手に権威を帯びてしまう物じゃないかななんてね。社会で多くの人が「こうした方が良い」と思うと規範性は生じてしまう。「人混みに出るときはマスクをした方が良い」と多くの人が思うと人混みはマスクした人がほとんどになり、そのなかでマスクをしていないと「公衆衛生意識の低い人」みたいに見る風潮が生じて、マスクの効果をそれほど重んじていなくても、なんとなく掛けてしまう。つまり権威・権力性がそこには生じている訳です。
なんていうかな、「規範の存在論」と「規範の是非論」というのは分けて考えないといけないんだろうと思うんですね。人混みのマスクという規範は私に言わせると「そう正しい規範ではないし、権威権力を帯びて欲しいものでもない」のだけと、「そういう規範性が生じている」という事を否定する気は無いわけです。むしろ、そういう規範性が生じているから「マスクの効果は限定的なんだから、規範的になって権威を帯びるのはいかがなものか」と批判する訳ですね。規範性を帯びていないなら当然権威性も生じていないのだから、批判対象では無い分けです。この「存在論」と「是非論」の混在があちこちに見られる気がします。


by 技術開発者 (2009-05-26 08:13) 

pooh

> 技術開発者さん

例え話って、有効だけどむずかしい技法ではあると思うんですよ。
そもそも、ある意味想像力の届かない範囲を補う手法だったりするわけですよね。なまのロジックが呑み込めないことってけっこうあって、それを前提を変えて整理しなおしたかたちにして提示しなおす、みたいな。そうすると(読むひとによって、ではあるにせよ)なまの状態より呑み込みやすくなって、届かなかった想像力(これはものごとを適切な枠組みから捉えるためには絶対に必要なものです)が届くようになったり、そう云う効果を期待するわけです。
ただ、それはもとのケースとは絶対に別物でもあるわけで、そのへんでミスディレクションにつながるリスクはつねにある。読み手のリテラシ、と云って切り捨てられないあたりに、まぁ限界はある、と云うことですよね。その部分は、もちろんおわかりだと思っています。

最近ちょっと考えながら、でもまとまらないので書けてないんですけど。
「社会規範に悖るからいけない」と云うロジックは、受け手とのあいだに「社会規範に悖ることがいけないことだ」と云う共通認識がないといけないんですよね。で、社会規範と云うのは一定の合理性のもとに醸成されているものであって、なので基本的にコミュニティ内ではそれに従う必要がある。これを原則として、さらに成立している社会規範自体を疑う視座が、これはこれで必要になる。
で、社会規範は従う必要のあるものだ、と云う共通認識を成立させているのは、実際にはそこに付帯する権威性です。で、ここで云う「社会規範」と「権威性」をなんらかの、自分がリアルに所属するコミュニティ(およびそのなりたち・機能)と分離させた把握の仕方をして、そのうえでなにか語ろうとすると、その過程でなにかしら大きく欠ける部分が生じる、と云うように思います。
なので、社会規範や権威性と云うものが自分のコミュニティに直接つよく関連するものだ、と云う部分にまで想像力が届いていない、リアリティを感じていない受け手には、「それは社会規範だからだ」「社会規範の持つ権威性と云う部分は必要な機能だ」と云ういいまわしだけでは訴求力を持たない(その社会規範と自分自身を結びつけるのに必要なだけの想像力が働かないわけなので)。このあたりたぶんなんらかの補遺をしていく必要があるんだろうな(そしてそれは自然科学的アプローチではむずかしいんだろうな)、と云うふうには考えています。
by pooh (2009-05-26 20:55) 

技術開発者

こんにちは、poohさん。

>社会規範や権威性と云うものが自分のコミュニティに直接つよく関連するものだ、と云う部分にまで想像力が届いていない、リアリティを感じていない受け手には、「それは社会規範だからだ」「社会規範の持つ権威性と云う部分は必要な機能だ」と云ういいまわしだけでは訴求力を持たない(その社会規範と自分自身を結びつけるのに必要なだけの想像力が働かないわけなので)。

このあたり、学問的探究という事と相関するんですよね。真の意味での学問的探究というのは社会のリアリズムとは相容れないものがある気もするんですね。社会の皆さんが出してくれた税金で大きな望遠鏡を作ったり、人工衛星を飛ばしたりして天文学的知見を手に入れる。社会の皆さんが出してクレタ税金に対する見返りとしては、基本的にはその「知見」でしかない訳です。早い話が皆さんの物質的な生活には直接バックは無いわけです。それでも、天文学のための人工衛星が上がるのは、皆さんが物質的なものではない知識にも価値を認めてくれているからなんですね。

でもね、それはやはり皆さんの社会が充実していてくれての話だと思うんですね。変な例えになるけど「天文学を進めるための衛星に生活保護費に回していた税金を使おう」では、やはり皆さんに反対して貰いたいし、天文学者も「そうしよう」というべきでは無い訳です。

なんていうかな、リアルな世界から離れた「知識探究」というものの価値を否定する気は無いんですね。でも、それをリアルな世界に悪影響を及ぼしてまでやってはならないと思うわけです。「嘘をついてはいけないという規範は正しいかどうか」というのは或る意味で知識探究的分野では興味のある所ではあります。でも、その議論を行う場合にはと「これは知識探究的分野で限定して行うべき議論であり、少なくとも結論が出るまでは、リアルな社会に影響を及ぼさないようにするべきだ」という配慮は議論をするものに自ずと求められなくてはならないと考えています。

by 技術開発者 (2009-05-28 09:33) 

pooh

> 技術開発者さん

地に足をつける、と云うことがどうして要請されるのか、と云う話でもあると思うんです。
なので結局はやっぱりレイヤーの切り分けについての、なんと云うか、自覚みたいな話ですよね。
by pooh (2009-05-28 21:56) 

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