呪術と「人間の基本仕様」 [世間]
われながらどうにもタイトルがうまくつけられない。また叱られそうだ。
Francisさんの図説金枝篇を読んでニセ科学について考えたと云うエントリを読んだ。なんと云うかとても分かりやすくまとまっていて、ちょっと感銘を受けたので言及させていただく。
ひとつまえのエントリで地下に眠るMさんのお書きになったことに言及するかたちで、現在の社会における「呪術」の実効性、と云うことがらに触れた(エントリの論調がネガティヴに見えるかもしれないけれど、実際のところはなんと云うか期待の表明)。で、みっつまえのエントリでは技術開発者さんの用いられる概念である「人間の基本仕様」の内容を、独立したエントリとしてたてさせていただいた。
で、ぼくはこの「呪術的思考」と「人間の基本仕様」と云うのが、近接した部分のある概念だと思っていて。どちらも「単体としての人間の思考」「社会の中での人間の思考」の両方にまたがることがらで、それぞれのフィールドでどのようなひろがりを持つものなのかを特定せずに使っているので(学術的な精査は行われているのかもしれないけれど、ここではその成果に準拠した使い方はしていない)、このふたつがまったくおなじものを示す、とまでは云えないのだけれど。
ただこれらはいずれも、人間が「感じるまま」「感性の命じるまま」に思考を巡らせた際に生じる、その範囲においての「合理的」な思考の筋道、と云う点で一致する。
で、それは方法としての「科学」と本来相容れない。これは総論としては、どちらかが歩み寄れば相容れることができるとか、どちらかがより進歩すればおなじ地点にたどり着く、と云うものではなくて、本来別の方向を向いているので、この2項のみで考えれば結論が一致することはない(もちろんもっと大枠で考えればどちらも人間の、そして人間社会のなかから出てくるものなので、各論的に一致する、または必要に応じて折り合いをつける場面は多発する)。少なくとも、どちらかでどちらかを補強しようともくろめば、おおむねそこにはニセ科学が生じることになる。
この辺り、ぼくは琴子さんに示唆をいただいたり(このへんとか)三等兵さんと議論させていただいたり(このへんとかこのへん)して、だらだらと継続的に考えてきたりした。
Francisさんはフレイザー卿の金枝篇に基づき、上掲のエントリで「水からの伝言」の呪術的構造を明解かつ丁寧に解き明かしている。接触の呪術と、類似の呪術。「人間の基本仕様」に基づく思考法から生じている大原則に則っていて、その範囲では非常に合理的な構造を持っているので(まぁ背景とする文化的・社会的土壌に大きなギャップがない限りは)結果として一見「分かりやすく」、馴染みやすくなる。
そこには「わたしの感性にフィットする」寛容さがある。「基本仕様」と云う部分は人間同士多かれ少なかれ変わらないので、共感は得られやすい。それがほんとうに合理的なのか、共有できるものなのか、を、文化的・社会的背景を踏まえて突き詰めて考えない限りは。
で、その部分を突き詰めて考える、と云う方向を欠いたまま、手元の「共感」のみを重んじると、それは共感から排除されたものに対して極端に不寛容になる。「共感」が最初かつ唯一の条件であり、そのほかにはなにひとつ必要とされない、と云うことは、おなじ「感性に対するフィット感」を得られない存在には(得られない理由が「感性」の相違であれ、科学的思考みたいな別のメソッドの重視であれ)寛容になる方法も、理解しようと云う動機も生じない、と云うことなので(ちなみに言わずもがなではあるけれど、例の政治系ブロガー間の「水伝騒動」も、こう云う話だと思う。細かくは触れないけれど、要するに必然)。このあたり、
結局のところ「呪術的思考」はぼくらの日常に生きていて、でもって「科学的思考」はぼくらの日常を支える基盤となっていて。どちらが大事とかどちらを重んじる、と云う次元じゃなく、どちらも相応に注意深く、意識的に取り扱うべきものなんだろう、と思う(呪術的思考も「水からの伝言」くらいにシンプルかつ素朴に組み立てていると分かりやすく、共感を得やすく見えるけれど、内実はそれほど簡単なものじゃないはずで。それは文化的背景を共有していない社会における呪術の体系が肌触りレベルで分かりやすかったり、共感しやすいものだったりするものでは決してないことでも分かる)。
ところで前にも書いたとおりぼくは金枝篇を読んだわけではなくて、この書物についての知識は複数の情報源からの孫引きで成り立っている。そう云う部分について忸怩たる思いがないわけではもちろんないのだけれど(Francisさんの挙げている抜粋なんか凄まじく面白そうだ)、自分の人生の時間配分を考えるとたぶんあと20年くらいは読めないんだろうなぁ。
Francisさんの図説金枝篇を読んでニセ科学について考えたと云うエントリを読んだ。なんと云うかとても分かりやすくまとまっていて、ちょっと感銘を受けたので言及させていただく。
ひとつまえのエントリで地下に眠るMさんのお書きになったことに言及するかたちで、現在の社会における「呪術」の実効性、と云うことがらに触れた(エントリの論調がネガティヴに見えるかもしれないけれど、実際のところはなんと云うか期待の表明)。で、みっつまえのエントリでは技術開発者さんの用いられる概念である「人間の基本仕様」の内容を、独立したエントリとしてたてさせていただいた。
で、ぼくはこの「呪術的思考」と「人間の基本仕様」と云うのが、近接した部分のある概念だと思っていて。どちらも「単体としての人間の思考」「社会の中での人間の思考」の両方にまたがることがらで、それぞれのフィールドでどのようなひろがりを持つものなのかを特定せずに使っているので(学術的な精査は行われているのかもしれないけれど、ここではその成果に準拠した使い方はしていない)、このふたつがまったくおなじものを示す、とまでは云えないのだけれど。
ただこれらはいずれも、人間が「感じるまま」「感性の命じるまま」に思考を巡らせた際に生じる、その範囲においての「合理的」な思考の筋道、と云う点で一致する。
で、それは方法としての「科学」と本来相容れない。これは総論としては、どちらかが歩み寄れば相容れることができるとか、どちらかがより進歩すればおなじ地点にたどり着く、と云うものではなくて、本来別の方向を向いているので、この2項のみで考えれば結論が一致することはない(もちろんもっと大枠で考えればどちらも人間の、そして人間社会のなかから出てくるものなので、各論的に一致する、または必要に応じて折り合いをつける場面は多発する)。少なくとも、どちらかでどちらかを補強しようともくろめば、おおむねそこにはニセ科学が生じることになる。
この辺り、ぼくは琴子さんに示唆をいただいたり(このへんとか)三等兵さんと議論させていただいたり(このへんとかこのへん)して、だらだらと継続的に考えてきたりした。
Francisさんはフレイザー卿の金枝篇に基づき、上掲のエントリで「水からの伝言」の呪術的構造を明解かつ丁寧に解き明かしている。接触の呪術と、類似の呪術。「人間の基本仕様」に基づく思考法から生じている大原則に則っていて、その範囲では非常に合理的な構造を持っているので(まぁ背景とする文化的・社会的土壌に大きなギャップがない限りは)結果として一見「分かりやすく」、馴染みやすくなる。
そこには「わたしの感性にフィットする」寛容さがある。「基本仕様」と云う部分は人間同士多かれ少なかれ変わらないので、共感は得られやすい。それがほんとうに合理的なのか、共有できるものなのか、を、文化的・社会的背景を踏まえて突き詰めて考えない限りは。
で、その部分を突き詰めて考える、と云う方向を欠いたまま、手元の「共感」のみを重んじると、それは共感から排除されたものに対して極端に不寛容になる。「共感」が最初かつ唯一の条件であり、そのほかにはなにひとつ必要とされない、と云うことは、おなじ「感性に対するフィット感」を得られない存在には(得られない理由が「感性」の相違であれ、科学的思考みたいな別のメソッドの重視であれ)寛容になる方法も、理解しようと云う動機も生じない、と云うことなので(ちなみに言わずもがなではあるけれど、例の政治系ブロガー間の「水伝騒動」も、こう云う話だと思う。細かくは触れないけれど、要するに必然)。このあたり、
とFrancisさんがお書きの部分につながってくる、と思う。よくわからないものや恐ろしげな物に接触させて育てれば青少年はよくわからないものや恐ろしげな物になってしまう。だから遠ざけなければならない。じゃあ携帯電話は危険だ!インターネットは危険だ!ゲームも禁止だな!映画なんか見てると馬鹿になる!小説なんて読ませると馬鹿になる!野球なんてやると馬鹿になる!(野球の伝来当初、新聞でそういう投稿記事があったそうな。)新しければ、よくわからなければ、何でも駄目なわけですな。
基本的なタブーの原理を適用するだけで充分です。呪術には正しい因果なんて必要ないのです。
結局のところ「呪術的思考」はぼくらの日常に生きていて、でもって「科学的思考」はぼくらの日常を支える基盤となっていて。どちらが大事とかどちらを重んじる、と云う次元じゃなく、どちらも相応に注意深く、意識的に取り扱うべきものなんだろう、と思う(呪術的思考も「水からの伝言」くらいにシンプルかつ素朴に組み立てていると分かりやすく、共感を得やすく見えるけれど、内実はそれほど簡単なものじゃないはずで。それは文化的背景を共有していない社会における呪術の体系が肌触りレベルで分かりやすかったり、共感しやすいものだったりするものでは決してないことでも分かる)。
ところで前にも書いたとおりぼくは金枝篇を読んだわけではなくて、この書物についての知識は複数の情報源からの孫引きで成り立っている。そう云う部分について忸怩たる思いがないわけではもちろんないのだけれど(Francisさんの挙げている抜粋なんか凄まじく面白そうだ)、自分の人生の時間配分を考えるとたぶんあと20年くらいは読めないんだろうなぁ。
これが終わりだ、友よ。
君の目を見詰めることはもう二度とない。
…すいません、こんなことしか思い附きませんでした(笑)。
by 黒猫亭 (2008-05-02 05:54)
> 黒猫亭さん
7マイルの蛇に乗って西へ向かいますか。…とまぁリアクションもこうなってしまうのですが(^^;。
by pooh (2008-05-02 07:39)
>poohさん
いや、オレは青いバスに乗って行く先の知れない旅に出ます…というふうに調子こいてサイケデリコな世界に遊んでいてもキリがないですね(笑)。
金枝篇と謂えばカーツ大佐、と脊髄反射する世代があると思うんですが(笑)、西欧合理主義の呪術に対する敗北とか近代の終焉みたいなものをベタに図式化したのがあの映画で、後半では金枝篇の論がそのままなぞられていたわけですが、アタマ悪い言い方をすると、結局オチは「でもやっぱりオレは厭だ」って話で、最終的なオチが「ジャングルを焼き払い奴らを殲滅せよ」ですから、キルゴア中尉と変わんねーじゃねーかと。まあオレの洋画オールタイムベストの一本なわけですが(笑)。
ちなみに、映画の影響で岩波文庫の金枝篇を手に取ったものの、第一巻の半ばで挫折したというのはナイショです(笑)。さすがに一九世紀の文章ですからサクサク読めるもんでもないですし、根気が続きませんでした。手っ取り早く概説書なんかを読んで表面的なレベルではフレイザーの論も囓っていますし、水伝に絡めて呪術を語る場面では一応念頭にあるわけですが、リンク先の書籍は理解を深める上でなかなか面白そうですね。
しかし、尼の商品ページに飛んだら、十四年前の本とは言え、
>>11点の新品/中古商品を見る:¥9,240より
…いい値段ですねぇ、図版本ですから元々この価格帯なんでしょうけど(笑)。岩波かちくま学芸の文庫を古書で買い直して再チャレンジというのが貧乏人相応ですかね。
by 黒猫亭 (2008-05-02 09:21)
>>キルゴア中尉と変わんねーじゃねーか
キルゴア中佐でした、ちゅーいが足りんなぁ、とブリザード級のオヤジギャグ混じりで訂正します(笑)。
by 黒猫亭 (2008-05-02 09:24)
> 黒猫亭さん
あぁ、映画のほうでしたか。いや、ぼくは曲のほうが映画と独立して頭に入ってるもんで。
いや、この図版本、多少高くても欲しいです。本気で。
明日の朝元気だったら、仙台でいちばんまともな古本屋に行って探そうかと思っています。
ちなみに琴子さんのお薦めもちくま文芸文庫版みたいです。
by pooh (2008-05-02 23:14)
今晩は。
リンク先、面白いエントリーですね。
やはり、ポイントは、「論理的・合理的」であるからといって「科学的」であるとは限らない、という所なのでしょうね。
科学というものは、他の知識との整合性や、科学的に洗練された再現性の確認等が重要な部分であるから、そこを踏まえるべきだと思っています。その基盤として、物質科学の体系がある訳ですね。現象を説明する知識体系としての一般性が極めて高いのですよね。
あ、リンク先について面白い言及をしているエントリーがありました⇒http://d.hatena.ne.jp/oredoco/20080502/1209726985
面白いというのはつまり、何を言いたいのかがよく解らない、という事ですが…。
by TAKESAN (2008-05-03 00:16)
>科学的に洗練された再現性の確認
ここ、なんか変ですね。適当に読み替えて頂ければ…。
by TAKESAN (2008-05-03 00:20)
> TAKESANさん
結局、科学ってのは方法なんですよね。で、科学的ではない、と云うのが批判的な意味になるのは、科学的であるべき場合のみで。で、「科学的」と云うのより「論理的」とか「合理的」と云う言葉のほうが意味が広い。
ぼくのこのエントリ、ちょっと難しいな、とか思うのは、「合理的」と云う用語の使い方ですね。文脈が読めない方からは的外れな批判がいっぱい来そう。
ご紹介のエントリ、読みました。
書いていて自分で意味の分からないことはあんまり書かないほうがいいですよね。
by pooh (2008-05-03 00:31)
こんにちは、 pooh さん。
>結局、科学ってのは方法なんですよね。で、科学的ではない、と云うのが批判的な意味になるのは、科学的であるべき場合のみで。で、「科学的」と云うのより「論理的」とか「合理的」と云う言葉のほうが意味が広い。
論理的、合理的という言葉にはどちらも「理(ことわり)」が入っていますでしょ。理(ことわり)を論ずることか可能にしておくことが論理的、理(ことわり)に合っていることが合理的という意味とおくにしても、まずは理(ことわり)が把握できないと存在しない概念です。
私が自然科学と人文科学の違いにこだわったりするのは、この基本となる理(ことわり)の差を感じるからなんですね。自然科学における理(ことわり)は、人間と無関係にこの宇宙に存在する法則のことですが、人文科学における理(ことわり)は人間と無関係に存在し得ないものです。人間と無関係に存在し得ない人文科学的な理を人間は把握しているのかというと実のところ把握しきれていません。哲学的な意味の人間の存在理由というのは実のところ不可知のものなのかも知れません。そこに人文学的論理性・合理性のもつ曖昧さがあるのだろうと思いますよ。
by 技術開発者 (2008-05-03 04:33)
>TAKESAN 氏
「科学的」と言う言葉は、科学、自然科学と言う意味でなくて、科学的な論理思考方法論をさすと思いますが、科学的=科学、自然科学とよめてしまうところが誤解を招くのではないかということです。
科学的な論理思考は、経済、哲学・・あらゆる分野で用いられてます。
この経済学の理論は、科学的かといういうのは命題として成立しないと思います。経済学は、再現性が低い場合がありますし、科学の分野でなくて、経済学の分野ですから。哲学も同じです。
この書き方でも、伝わりませんかね。
経済学は、統計学を元に分析しても良いわけですが、それを科学的とよぶか数学的と呼ぶかは微妙だと思います。統計学は、数学の分野にあたると個人的には思うのです。科学で統計学を用いてるだけで、もともとは数学の考え方を取り入れてるだけだと。
by oredoco (2008-05-03 04:45)
> 技術開発者さん
人文科学と自然科学の相違については、基本的におっしゃるとおりかと思います。
ただ、それは「科学」と云う軸で見た場合の相違なんでしょうか?
ちょっとお書きの主旨をぼくが取り違えているのかもしれませんけど。
by pooh (2008-05-03 07:19)
> oredocoさん
いらっしゃいませ。
TAKESANさんがリンクを張ってくださったお書きのエントリについては、新しいエントリを起こしてトラックバックします。
> この経済学の理論は、科学的かといういうのは命題として成立しないと思います。経済学は、再現性が低い場合がありますし、科学の分野でなくて、経済学の分野ですから。哲学も同じです。
Francisさんが用いられている文脈での「科学的」と、お書きの「科学的」は意味合いと要件が違いますよね。
> 経済学は、統計学を元に分析しても良いわけですが、それを科学的とよぶか数学的と呼ぶかは微妙だと思います。
この書き方では、用語の定義を共有しない限りなかなか通じないですよ。で、やはりそのためには、読む側がその用語の定義を共有できるような文脈の提示が不可欠だと思います。
適切な用語があるのでそちらを使おう、と云うことがおっしゃりたいのでしたら、それは科学信仰なんて云うものとは関係のないお話ですよね。
by pooh (2008-05-03 07:29)
>Francisさんが用いられている文脈での「科学的」と、
>お書きの「科学的」は意味合いと要件が違いますよね。
科学信仰してない人からみれば同じです。
by oredoco (2008-05-03 10:14)
> oredocoさん
「科学信仰」の意味が不明です。
by pooh (2008-05-03 10:33)
こんにちは。
素朴な疑問なんですが、
oredocoさんは「科学信仰してない人」なんでしょうか?
by エディ (2008-05-05 01:50)
こんばんは。
いいえ、青少年たちを遠ざけておく方が無難ですよ、「よく分からない山、世にも恐ろしげな山」からは(^-^。
でないと、お手軽お気軽観光登山では物足りなくなって、ある日突然、「世界中の超難関な高山に、なんか超登ってみたいっす」とか言い始める、血気盛んな立派な冒険家の誕生と、相成りまするよ(^-^。
とは言うものの、程度問題でしょうな。どんな山にも、少々の危険はつき物ですから。慣れと経験、そして予備知識が備われば、人が見向きもしないような無名の寂しい山でも、楽しむ視点が新たに出てくるものです。
あるいは、「今回試しにヤブ山に登ってみたけど、とてもじゃ無いが、こんなしんどい山登り、自分には無理orz」と成るのもまた、良いものです。その後、手入れの行き届いた歩きやすい道の在り難さが、身に染みて分かりますからね(^^。
呪術的思考も、科学的思考も使い分けが自在に出来ればより、己の思考世界を広げる事に成ると、在野の私はサン・ベネゼ橋の末端で、一人歩きながら考えている次第であります。
もちろん、この私は「合理的な知性」とやらを、いまだ手にしてはおりません。したがいまして、ここに時折お越しに成られる賢明な御方たちからすれば、「ププ、分かった風な事を、よくもまあ(^^」といった趣で、受け止められる事でせう…って、この意見表明はもう、止めに致しませう(^^。
要はその深みを少し覗いて見る、という事だと思います。いきなり、「そんなの不合理ですわ、低俗ですわ!」あるいは、「隙の無い高尚なご賢察、お見事です。いや実にご立派、到底我輩には理解不能だぴょん」とか言わずにまずは、「何か得るものは有るのかも無いのかも、そのどちらでも無いのかも」という態度で未知の道に臨む姿勢が要るのかも、なのであります。
…この様な書き方では、言いたい事の半分も伝わりませんでしたなorz。やはり、読んでもらう人に伝える努力を怠っては、コメントする意味が半減してしまいますなorz。
______
>科学信仰とは
おそらく、「自宅で雅楽を聴きながら齧る例の沖縄の伝統的なお菓子」、なのかも。
by TAKA (2008-05-05 05:06)
> エディさん
どうでしょう。違うんじゃないでしょうか。
あんまり「科学信仰」してるひとっていないんじゃないでしょうかね。
by pooh (2008-05-05 06:27)
> TAKAさん
…ちんすこう?
違うかも。
by pooh (2008-05-05 06:27)
>ちんすこう
「その通り」(某児玉さん)
正解なのです。さすがはpoohさん、食通であらせられる(^^。
私もこう、ズバット見抜きたいものです。そこに有る、論考を。
by TAKA (2008-05-05 06:53)
> TAKAさん
いや、必ずしも「ズバッと」が大事なわけじゃないかも、ですが。
ちんすこうはこどものころから好きです。昔はいまと違ってどこでも買えたわけじゃないので、めったに食べられるものでもなかったですけど。
by pooh (2008-05-07 07:52)
こんにちは、pooh さん。
>ただ、それは「科学」と云う軸で見た場合の相違なんでしょうか?
「科学」と呼ぼうが呼ぶまいが、人間は「理」を求める事で変化してきた生き物であるという事です。原始人が、「この曲がった矢は何度飛ばしても曲がる」という事に気が付き、「矢柄が曲がっていたら真っ直ぐに飛ばない」と気が付くのが「理」に目覚めるという事なんです。そういう人間の生きてきた道を「否定」して生きるのが好きな人も中には居るのかもしれません。
経済にも「理」はあります。例えば競争相手が居なければ高い利潤でも売れるけど、競争相手が居れば利潤は押し下げられます。「そう言うのは科学信仰でにすぎない、自分は自分の好む利潤で売る」としたところで構いはしません、ただ、競争に敗れて消え去るだけですからね。
科学という名前で否定するのは自由ですが現実に「理」に沿わなければ消えるだけのことです。
by 技術開発者 (2008-05-07 08:43)
> 技術開発者さん
あぁ、分かります。それなら同意できます。
ここで云う「呪術」も、文科系の学問からすれば「理」の追求の対象です。少し前に生齧りで引き合いに出した行動経済学なんて云うのも、そう云う部分を定量化して追求する学問だったりもしますよね。
いずれそこにあるのが「現時点で妥当な正解」であり、そこをデバッグしながらさらなる正解を追求する駆動力がビルトインされている、と云う点では、人文科学・社会科学も本質的には「科学」なんだろうと思います。どうもそう云う用語の運用はされない傾向にあるようですけど。
by pooh (2008-05-07 22:34)