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空疎 [世間]

exciteブログのシステムはよく分からない。論宅さんのニセ科学批判の前提と云うエントリに言及するためには、ソースをみて当該エントリに打たれた非表示のアンカーを掘り出して、そこにリンクすると云うやたらに面倒な手順を踏むことになる。いや、そう云う議論の仕方をしたくない、と云うことなのかもしれないけれど(議論じゃなくて放言だけしたい、と云うことなのかも)。

例の「室井」氏からトラックバックを受けてのエントリのようなんだけれど、どうもこの方のブログ、議論の流れを追うことが読者にできるように配慮されている部分があまりなくてひどく面倒な作業になる。ので、単体のエントリとして読む。

もしそれを本当に(社会)科学的に実証するのなら、社会学の知見を要することになる。まずは、測定可能なように「ニセ科学」という概念を定義し、聞き取りで質的調査を行い、それに基づき、項目を設定し、精緻な質問用紙をつくることになる。

いちおうは社会科学畑の人間として、この社会学の知見と云う言葉の意味が分からない。そこから続く説明は、どう考えても「知見」ではなくて「手法」についてに見える。ひょっとすると「手法を知っていると云う知見」と云う意味なのかな。

 「○○は科学的事実であると社会的に誤解されている。」という個々の命題が意識調査によって社会科学的に実証されないと、ニセ科学批判は、ニセ社会学に立脚していることになる。現在のところ、そのようなデータはないので、ニセ科学批判は全てニセ社会科学の域をでない。そのことについて、盲目である。

非常にこの方らしい冗語に満ちた見解ではある。

まず、調査は通常ある問題の認識から発した仮説に基づいて行われる。この仮説を設定するために必要なのが、通常の意味での「知見」なのだ、と云う話は抜きにしても、仮説に基づかない調査なんて効率の悪いことは通常あまり行われない。まず自らの知見に基づいて仮説を立て、それを実証するために調査を行うのが手順で、さらにそれに先立つのが問題の認識だ。
問題を認識している以上、そしてそれが実社会に及ぼしている影響を意識している以上、それに対して批判を行うと云う行動になんの齟齬もない。

まぁ社会学と云う言葉をブログタイトルにも掲げられていらっしゃる以上そんなことは百も承知で、おそらく単に「室井」氏に同意したいがために「知見の乏しさ」を装っていらっしゃると推定するのだけれど、この辺り以前から変わらない極めつけの不誠実さがほの見えて趣きぶかい。

「○○は科学的事実であると社会的に誤解されている。」という実証的データを見せてほしい。でないと、悪いが、やはり目くそ鼻くそを笑うになるのではないかと思う次第である。

見せてほしい、とはなかなかご立派な言い草ではある。自分で論客のつもりなのだったら、自分が反駁するための材料を他人に求めるのではなくて、まず自分自身の「問題」の把握を明らかにして、自分自身の「知見」に基づいた「仮説」を提示すべきだろう。そこまですれば、社会学の手法に基づいた実証を行ってくれなくても、議論のステージには乗ることができる。それが最初の一歩目だ。手法についてごちゃごちゃと御託を並べるのはそのあとで、議論の必要に応じた部分だけでいい。

いつもながら思うのだけど、このひとが社会学の徒を自らもって任ずることの厚顔さは、そのまま「社会学」と云う学問分野を泥で塗り込めようとする行為に見える。


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TAKA

poohさん、明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
さて論宅さんですが、コメントしてみました。話相手が欲しそうだったので。まだお返事は無いです。私ぐらいの者ならば、と思ったんですが。「社会的に誤解されていない。というデータを見せてね論宅さん♪」と行きたかったです。
その変わり、別の名が出てきた。まあ反応があれば、取り合えずうれしいです。でも論宅さんの名前でないと。F氏はapjさんとpoohさんのお得意様だから、遠慮しておきます。(今はね♪)
by TAKA (2008-01-05 23:18) 

pooh

> TAKAさん

あけましておめでとうございます。

どうなんでしょうね。なんか、論者ごっこをしたいだけの方のような気がします。と云うか、分かってはいたんですけど。言説の空疎さでは、F氏と相性がよさそうではありますよね。

> F氏はapjさんとpoohさんのお得意様だから、遠慮しておきます。

いや、apjさんのところでは出入り禁止だし、うちでも門前払いです(^^;。2ちゃんねるでも相手にしてくれるひとがいないようですけど、彼的には本望なんでしょうね。
by pooh (2008-01-05 23:56) 

apj

 社会学を持ち出したければご自由にどうぞ、としか言いようがない。

 この間、私のblogで、「科学を装う」の判定について「通常人の常識で見ると科学(あるいは科学的根拠がある)と誤認することがある、という程度で足りる。」という基準を立てることを提案しました。この場合の「通常人」は法律の解釈でよく出てくるもので、特定の誰それさんではなく、判断のために(裁判官の頭の中で)便宜上仮想されているものです。「通常人」に当てはまらない人が存在したとしても、通常人はこのように受け取る、という判断が覆ることはありません。

 ぶっちゃけ裁判所に直結している定義なんですが、批判している側としては、やれ名誉毀損だ営業妨害だとイチャモンをつけられるリスクを常に背負っているわけですから、現実問題として「通常人の常識」のあたりで折り合いをつけるしかないわけですよ。

 ということで、社会科学的に調査して云々、などという話は最初から問題にすらならないんですよ。
by apj (2008-01-06 01:47) 

技術開発者

新年おめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

>この間、私のblogで、「科学を装う」の判定について「通常人の常識で見ると科学(あるいは科学的根拠がある)と誤認することがある、という程度で足りる。」という基準を立てることを提案しました。

私は「社会通念に照らして」みたいな言い方を良くします。一番多用するたとえ話は「消防署の方から来た消火器販売業者」なんてものですが、これにしても、いろんなバリエーションが考えられるわけですね。

「消防署から来ました」「消防署に言われて地域を回っている者です」なんてダイレクトな言い方もあれば、消火器設置の重要性について消防署が言いそうな言い方で説明するだけの「消防署の制服に似た服をきている人」という場合もあるでしょう。実のところ実際には一人の販売員が回ったところでも、それぞの説明が全く同一という事はなくてバリエーションがあるのは当然なんです。ある意味、販売員の行為の方で「センを引こう」とする考え方は無意味なんですね。

こういう問題のときの社会通念の判断の仕方というのは、受け取り側を想像するしかないんです。自分が「消防署の人と誤解するか」ではなくて、自分の知る限りの病的ではない程度の「もっとも誤解しやすそうな人」を頭の中に思い浮かべて、「あの人なら、こういう話し方をされたら、消防署の人と誤解するかもしれないね」となるなら、それは「販売者は消防署員あるいは消防署の関係者を装った」と判断するわけです。
by 技術開発者 (2008-01-06 05:01) 

pooh

> apjさん

いや、だからもちろん、通常人が常識に基づいて批判を行うことが「ニセ」だったりする理屈はないんですよ。で、社会学的知見に基づいて批判を行うことが、すべからく社会調査に基づく必要はない。「社会学として」論じる場合には必要になってくる場合もあるでしょうけど、それは問題と方法の議論の前後が逆なんです。
こう云うすっぽ抜けの議論しかできないのが社会学的な立場だ、とか主張しているんだとすれば、むしろそれは社会学と云うものに対する侮蔑だよなぁ、なんて思うんですけどね。
by pooh (2008-01-06 07:04) 

pooh

> 技術開発者さん

あけましておめでとうございます。

> こういう問題のときの社会通念の判断の仕方というのは、受け取り側を想像するしかないんです。

おそらくそれが「仮説を立てる」と云う部分に相当します。で、この仮説が実は一番大事で、「知見」を要する部分になります。この部分がおろそかだと、その後に調査を行うにしても適切な調査のデザインが行えなくて、非常に実効性の低い結果しか出てこない。

いや、このひと、社会学と云うのが「考える」と云うことなしに成立する学問だと思っているのかなぁ。たまたまご自分がベタに「考える」能力を欠いているだけなのに、学問分野のせいにするなよ、なんて思いますけれど。
by pooh (2008-01-06 07:10) 

黒猫亭

あけましておめでとうございます。

この方の難癖なんか典型的ですが、ニセ科学批判批判というのが徹底的に不毛だと思うのは、ニセ科学批判が現実社会の事象の総体に関する言及である一方、ニセ科学批判批判というのはネットの個別の言説に関する局部的言及であるというところですね。つまり、現実問題に関する批判という論の総体と、その個々のテクストを自分がどう読んだかに基づくトリビアルな批判という対比になる。リンク先を辿ってみましたが、ニセ科学批判批判というのは、いつまで経っても論の総体としての全体的ロジックが見えてこないですね。

「○○は科学的事実であると社会的に誤解されている。」という一言に「ではそれを社会学的調査で実証してみせろ」と批判するということは、そもそも科学を装うニセ科学の与える社会的影響について論じるつもりなんかないという話になりますね。poohさんの仰るような次第でまずそういう無意味な調査は行われませんから、この理屈に則るなら、「科学を装う」というのは「装う」以上印象操作ですし、印象に関する問題は実証されていないから言及し得ない、論じ得ないという話になる。

ニセ科学の詐術的な側面を論ずる場合に「装う」という印象操作に触れないわけにはいかないですから、この方の理屈によれば、ニセ科学の詐術的側面は、大がかりで無意味な調査の手続抜きでは論じ得ないということになる。たとえば新手のニセ科学が出現する度に「○○は科学的事実であると思うか否か」という大規模な社会学的調査を行って然る後にそれを前提として論じよという話をしているわけで、何か根本的なところで誤解しているとしか言い様がないですねぇ。

さらに言えば、この方の仰るように社会的調査を行ったとしても、それによって得られる知見とは「○○は科学的事実であると社会的に誤解されている。」ことの実証とかそういう問題ではなくて、「その問題性の拡がりの幅」でしかないのではないですか? 社会学的調査でそれが「実証」可能だとお考えになる辺り、大変結構な見識の持ち主だと思います。
by 黒猫亭 (2008-01-06 11:53) 

黒猫亭

たとえばどんなニセ科学を対象として調査を行ったとしても、程度の差こそあれ「○○を科学的事実だと誤解していた」人が必ず一定数存在することが「確実に予想」出来ますよね。つまり、個別のニセ科学を対象とする調査結果というのは、「誤解していた人と誤解していなかった人の統計的な割合」しか提示し得ないわけですよね。

敢えて「実証せよ」式の「社会学」とやらの土俵に乗って言うなら、一定数「誤解していた人」が存在することが「確実に予想」される以上、「○○は科学的事実であると社会的に誤解されている。」という前提に基づく議論は、その予想の確実性の範囲内において無証明で有効であり、その問題性の拡がりの幅によって「社会的な」重要性が規定されるというだけの話であると思います。つまり、この論難が意味しているのは飽くまで「『社会的に』ってのはどんだけの話だ」というだけなんですね。それが「実証」というタームに結び附く辺りが実に素晴らしい。

この有効性が否定されるとすれば、実際に調査を行ったら誤解していた人が「一人も存在しない」場合であり、その調査を行う意味があるかないかを判断する場合において重要な基準は、「一定数誤解していた人が存在する」という予想と「一人も存在しない」という予想の確からしさの対比で決定されるんではないですかね。

「○○は科学的事実であると社会的に誤解されている。」という前提というのは、それを「問題」として扱う言説の場で、一定範囲の論者の「合意」があれば成立する類のものだと思いますよ。重要なのは問題の切り取り方なのであって、そういう問題性の存在を認識するのであれば実証云々の問題ではない。

その意味で客観的な条件として「科学を装う」ことを明確に定義することには困難が伴いますが、それは「実証されていないから論じ得ない」という意味ではまったくない。単に「実証された客観的事実」という厳密性において扱い得ないというだけのことですから、その範囲で前提視する分には何ら問題はない。こういう問題性を詰めていく場面において、直観で扱い得る幅を残しておくことは重要なんではないかと思います。
by 黒猫亭 (2008-01-06 11:54) 

pooh

> 黒猫亭さん

あけましておめでとうございます。
今日付のエントリ、読ませていただきました。わが意を得たり、と感じました。

> そもそも科学を装うニセ科学の与える社会的影響について論じるつもりなんかないという話になりますね。

そのとおりです。で実際、多分論じるおつもりなんかないんですよ。根本的に言説として不誠実なんです。

> 重要なのは問題の切り取り方なのであって、そういう問題性の存在を認識するのであれば実証云々の問題ではない。

おっしゃるとおりです。
で、本来調査による実証と云うのは、その後工程に位置するんですよね。なんでも数字を揃えて並べて、その生数字を眺めながら推論するのなんて、通常は不経済すぎて採用されない手法で。で、事前にちゃんと問題性の認識を仮説にまで持ってくるのが「知見」なんです。

これ、この方が「社会学」と云うタームに独特の意味付けを行っているからミスティフィカシオンが生じている部分があるんですが、例えば商用のマーケティング・リサーチを想定すればとても話は簡単なんです。
あるテーマについて調べて、ある一定の結論をそこから得て、収益に結びつけようとする場合に、当然ながらそこには当初段階での問題意識と、そこから絞り込まれた仮説が存在します。そうでないと調査の規模がむやみに大きくなって、コストばかりかかって得るものの少ないリサーチになってしまう。ROIが極めて低い行為になってしまうわけですね(この手で馬鹿なクライアントを騙すリサーチ会社もありますけど)。で、リソースが有限である以上、これは学問でも同じなんです。
調査とそれに基づく実証的なデータは多くのことを明らかにするように見えますが、重要なのはそこに至るまでのステップです。本文にも書きましたが、このことを分かっていないのならそれは度し難い知見の貧しさですし、分かっていて分からないふりをしているのならお話にならないレベルの不誠実さです。

> 単に「実証された客観的事実」という厳密性において扱い得ないというだけのことですから、その範囲で前提視する分には何ら問題はない。

もちろんそうです。
その次元でできるだけ精度の高い議論を行うことを可能にするのが、コモンセンスと云うものだと思っています。
by pooh (2008-01-06 12:19) 

黒猫亭

>poohさん

なるほど、そもそも虱潰しに無駄な調査をして、その調査結果に基づいて仮説を立てるべきだと考えているのがすでに学の手順としておかしいということですね、長々と書いておきながらそこはスルーしてしまいました(笑)。そもそも調査や実証を求めること自体がナンセンスだというところにまず目が行っていたもので。

たしかに、社会学的調査も科学的実験も仮説に即した効果的デザインが重要ですよね。まず調査をして実証せよ式の考え方に則れば、ではその調査のデザインは何に基づいて考えるべきなのか、という部分が後先になっているわけですから、何だか真に受けて批判するのが気の毒になってきました(笑)。

>>これ、この方が「社会学」と云うタームに独特の意味付けを行っているからミスティフィカシオンが生じている部分があるんですが

まさに「オレ学問」というのはかなり危険だという話ですね。そういう恣意的解釈に基づく「オレ学問」の在り方も、一種ニセ科学問題と通底するような気がします。科学に恣意的な意味附けを施すのもニセ科学一般に共通する特徴ですしね。
by 黒猫亭 (2008-01-06 14:18) 

pooh

> 黒猫亭さん

まぁ、いただいたコメントにお書きの部分の方が本質的には手順の議論よりよほど重要なんですけど、ただこの方の言説を真に受けて「社会学ってのはなんかへんな学問なんだなぁ」なんて思う方がいらっしゃるようだったら、なんと社会学が不憫なんだ、と云う感情が先に立っております(^^;。

> 真に受けて批判するのが気の毒になってきました(笑)。

と云うかですね。自分で実際に調査する、と云う可能性をまず捨象してから、諸々の具体的な議論に対して批判めいた言説をしようとするスタンスが、まずこう云う決定的な誤認識を生んでるんだと思うんです。仮にでも自分で調査するとして、どんな手順で調査するのがより有効か、ってのを頭の中だけでも想像してみればこんな珍妙な言説をなすような羽目には陥らずにすむのに、と考えると気の毒ではありますが、この方の認識ではそれが社会学の本道のようです。

> そういう恣意的解釈に基づく「オレ学問」の在り方も、一種ニセ科学問題と通底するような気がします。科学に恣意的な意味附けを施すのもニセ科学一般に共通する特徴ですしね。

まさにそこに、一連の議論の本質のひとつが顕現していると思います。最近よく感じるのですが、「ニセ科学批判」批判の言説は面白いくらいにニセ科学のロジックに近づくんですよね。
by pooh (2008-01-06 16:33) 

TAKA

こんばんは♪
結局ニセ批判批判は、わがままな客ですね。焼き肉屋の。
自分は何もしない。口だけ。しかも偉そう。しつこい。周りの人に煙たがられる。
いい加減飽きましたがな。何べん同じ事言うねん。「焼き方が変!もっと上手く焼いてよ!俺様の気に入る様に!肉持ってきて!新しいの!全く素人はこれだからブツブツ・・・。」
ところで以前、黒猫亭さんの考察を読もうとした事が。UFOや妖怪という文字にわくわく♪でも数行で断念。(短気なのです)
今回は纏めた、というので見てみた。おお、短め。クリック♪・・・orz
by TAKA (2008-01-07 00:02) 

pooh

> TAKAさん

いやまぁ、自分が何を批判したいのか、それはなぜなのかを把握しようとする「努力」だけでも見せてもらえればいくらか理解もしやすくなるんですけど。

ぼくは黒猫亭さんの文章、読みやすいと感じますけどねぇ。
ある文体によってはじめて可能になる論考の角度、と云うのがあるんですよ。
by pooh (2008-01-07 07:47) 

TAKA

poohさん
>ある文体によってはじめて可能になる論考

成る程。また読みます。知りたいので。

>黒猫亭さんの文章、読みやすいと

もちろんです。驚いたのは長さ。プロフィールは見ました。三回目で何とか理解。本文はこれから読みます。どうしてもUFOが気に成るのですよ♪
by TAKA (2008-01-07 20:05) 

pooh

> TAKAさん

例えばぼくの書くことは、厳密な論考や丁寧なロジックと云うものを多分欠いています。でも多分ぼくの文章がいちばん力を持っている部分はそこではない、と思っています。
不得意な部分で勝負しようとすると、多分誰かに読んでいただくに値しないようなものしか提供できない。複数の方がニセ科学の問題について言及されていますが、どの方もぼくには到底なし得ないような言説を提供されています。黒猫亭さんも然り。
って、云いたかったのは要するにその程度のことです。
by pooh (2008-01-07 22:39) 

PseuDoctor

こんばんは。

論宅さんは相変わらずのようですね。全然進歩が見られない(って、殆ど予想通りではありますけれども)。既に皆さんがコメントされているので、ちょっと彼の事は置いといて。

>例えばぼくの書くことは、厳密な論考や丁寧なロジックと云うものを多分欠いています。
確かに黒猫亭さんの文章は極めて論理的であり、そしてそれは彼自身の明晰な思考に裏打ちされていることが容易に推察できます。
一方でPoohさんの文章は論理性という点では一歩譲るかもしれないけれど、しかしそれは決して背後の思索が少ないという意味ではないと思っています。Poohさんの書かれるものは一見平易に見えるけれど、非常に注意深く「言葉」を使っておられる、と感じます。おそらくそうした「言葉」に対するセンシティビティの高さがPoohさんの強みなのではないかと、勝手に想像しているのです。
by PseuDoctor (2008-01-08 00:16) 

pooh

> PseuDoctorさん

ありがとうございます。
と云うかまぁ、そのあたりぼくが自分で「文芸寄り」だと認識している部分なんですけれど。

それぞれの論者が、それぞれの特性を持っていて。「一派」じゃない強みから受益できれば一番かな、なんて。
by pooh (2008-01-08 07:43) 

TAKA

こんばんは。以前poohさんに注意されたのに、またやってしまいました。今度はTAKESANさんの所と、apjさんの所で。
昨年十二月に、PseuDoctorさんに褒められてから調子に乗り、いつの間にか自分が揚げ足どりになっていました。
黒猫亭さんの記事を受け付けなかったのも、そんな自分を直視するのを、避けるためだったのかもしれません。
気がつかないうちに、私はニセ批判批判者になっていたようです。もう少しで元の、トンデモの世界に戻る所でした。
なぜここで告白するのかといえば、poohさんのサンプルになるのではと考えたからです。
世の中にはこのような者もいると。これからは焦らず地道にやっていきます。
by TAKA (2008-01-08 20:23) 

pooh

> TAKAさん

ぼくが云うことではありませんが、ネット上の発言はやっぱりそれなりの留意が必要な場合もあるのでしょうね。

ぼくはここで相当肚を据えた発言をすることがありますが、それはやっぱり「自分の場所」だからと云うこともあります。
by pooh (2008-01-08 21:31) 

PseuDoctor

こんばんは。

>それぞれの論者が、それぞれの特性を持っていて。「一派」じゃない強みから受益できれば一番かな、なんて。
不均一である強み、というのはありますね。均質であるというのは一見良いようにも思えますが、同じ弱点を持つ事につながりますから、多くの人が色々な角度からアプローチするのは良い事だと思います。


Poohさんには申し訳ありませんが、ここから後はTAKAさん向け、かつ非常に偉そうなコメントにさせてください。

失敗は、誰でもします。私も沢山しています。
それはもう必然と言っても良いくらいです。
大切なのは失敗を自らの糧とする事が出来るかどうかでしょう。
失敗は、自己の欠点を認識し成長するチャンスでもあります。
TAKAさんがこの機会を活用される事を願っています。
by PseuDoctor (2008-01-08 23:38) 

TAKA

PseuDoctorさん、励ましのお言葉ありがとうございます。
>失敗は、自己の欠点を認識し成長するチャンスでもあります。
>TAKAさんがこの機会を活用される事を願っています。

そう言って頂くと、元気がでます。今はかなり落ち着きました。

poohさん
>ネット上の発言はやっぱりそれなりの留意が必要な場合もあるのでしょうね。

TAKESANに、私の意見は「焦点がぼやけている」という趣旨の指摘をされました。実際読み直すと、その通りです。
遠回しな言い方や、卑下した言い方が目に付きます。もう止めます。これからはもっと分かりやすい文章を書くようにします。

今回は、自分は何を言いたくて何をしたいのかを、もう一度見直す機会となりました。
poohさんとPseuDoctorさんの言葉を胸に刻んでおきます。
by TAKA (2008-01-08 23:59) 

黒猫亭

皆さん、こんばんわ。どうもオレの書き込みがTAKAさんを追い込むきっかけを作ったようで恐縮です。一〇年この方「長い」と言われ続けていますし、実際長いんですから、やはり読む方にそれなりの労力を強いている自覚はあります。PC環境によってはモニタで長い文章を読むこと自体がストレスとなる場合もありますし、或る識り合いなんかいつも一旦紙に出力してから読んでいるそうです(笑)。

オレがネットで文章を書き込むようになってから考えていることに、先日のエントリーに書いた「わかりやすさと正確さの相補性」というジレンマがありまして、「わかりやすくて正確な書き方はないだろうか」と試行錯誤するうちに、こういう書き方になってしまったんですね。たしかに当社比で(笑)その両要素の間のバランスはとれてきたと思うんですが、その替わり段々文章が長くなってきたという次第でして。

わかりやすく且つ正確に書こうとすると、どちらかが突出した場合よりも説明が長くなるということだと思いますが、そういう文体になると考え方も相応に息の長いものになっていくんですね。そうするとそれをわかりやすく正確に表現するには、という次第でまた長くなるわけで、現段階で書くほうも読むほうも一定の労力を要するような分量になってしまって、この辺は考えどころですね。

たとえば今回のようにpoohさんにご紹介を戴いて一時的にアクセスが増えても読み手が定着しないですから、言説の波及力という意味では期待出来ないですね。加えてオレのブログは特定のテーマに特化したものじゃありませんから、特定の関心対象という訴求要素もないわけで、常連読者のパイも限られてきます。なるべく個々のテーマを深耕するという方向で書くしかないわけで、それがたまたま今回のように心ある人の目に停まれば嬉しいかな、という気持ちで細々と続けております。

TAKAさんも、無理にとは申しませんが一度読んで戴けると有り難いです(笑)。根がふざけた人間なんで、そんな堅苦しいことばかり書いていませんし。
by 黒猫亭 (2008-01-09 02:02) 

pooh

> PseuDoctorさん

場所がネットである以上いかにして集合知を機能させるか、なので、多様性は強みのはずです。学べますし。
by pooh (2008-01-09 07:39) 

pooh

> TAKAさん

感じたことを書くことも、異論を唱えることも、できれば読むひとたちへの利益としたいですよね。その意味でTAKAさんの視点は重要だと思いますし、だとすればできればご自分の発言を議論の中で活きたものとするようお考えになってみるのも異議のあることだと思います。
とか云うのは上から目線のつもりはまったくなくて。ぼくもまったく同じですし、しょっちゅう失敗もしていますもの。
by pooh (2008-01-09 07:43) 

pooh

> 黒猫亭さん

おもちのジレンマ、身にしみてよく分かります(^^;。端的な事実の記載に留まるのではなく思考の経路を文章に残そうとすればどうしても長くなるし、手みぢかにするとどうしてもそこには意図しない論述の詐術のようなものが入り込んでしまう。

ただ、あの長さの文章をよどみなく読ませる筆力と、お持ちの思考の緻密さには密接な関係があると感じています。
by pooh (2008-01-09 07:47) 

PseuDoctor

こんばんは。

どうしても我が身につまされてしまうので「文章の長さ」については意図的に言及を避けてきたのですが、黒猫亭さんもお悩みのようですね。
>「わかりやすくて正確な書き方はないだろうか」と試行錯誤するうちに、こういう書き方になってしまったんですね。
とても深い共感を覚えます。そうすると、もう、長くなるのは必然なのです。何とか抑えようと思ってもどんどん文章が伸びていってしまいます。

>ただ、あの長さの文章をよどみなく読ませる筆力と、お持ちの思考の緻密さには密接な関係があると感じています。
Poohさんに同意です。黒猫亭さんの文章が読み易いのは表現もさる事ながら構成が非常にしっかりしている点も大きく寄与しており、それは論理的に考え抜く力と強い相関を持つものと考えています。

そのうえで、参考になるかどうか解りませんが、私が最近ある方から言われた話を書いておきます。「見た目に長文というだけで読まない人もいるので、小見出しを入れてみたらどうか」というものです。非常に単純な事ですが、私にとっては盲点でした。
私が文章を書く場合、思考の流れをなるべく正確に文章に写し取るという感覚ですので、うまく書けた場合ほど見出しを入れる必要性を感じません。何故ならそれは一連の流れであり、文章そのものを見れば構成は明らかだと思うからです。
しかし読み手にとっては必ずしもそうではなく、いわば異物である他人の思考を頭の中で再構成する作業が必要ですので、人によっては流れるように認識するのが難しい場合もあります。そうした際に小見出しを使えば、強制的に流れを断ち切り読み手が思考を整理する機会を作ると共に、次に続く部分の予告をする事によって思考の当該部分のフォーマットというか地ならしを行っておく、という二つの効果が期待できます。

確かに文章の流麗さは損なわれます。何というか、黒猫亭さんの文章に小見出しを付けるのは、素肌だけで充分に美しい少女に厚化粧を施しているような気がしないでもないです。しかし、正確さを落とさずに解り易さを増す為には有効な方法だと思っています。
by PseuDoctor (2008-01-09 21:55) 

pooh

> PseuDoctorさん

> 「見た目に長文というだけで読まない人もいるので、小見出しを入れてみたらどうか」というものです。

これ、モニタで長文を読ませる技術としてはけっこう重要なんですよね。って、分かっててやらないやつがここにいますが。
by pooh (2008-01-09 22:04) 

黒猫亭

> PseuDoctorさん、poohさん

>>「見た目に長文というだけで読まない人もいるので、小見出しを入れてみたらどうか」というものです。

実はですね、一部のエントリーですでにそれをやっているんです(爆)。幾らなんでもこれは長いよな、というテクストに関しては小見出しで切るようにしているんですが、文章の絶対量が多い場合には小見出しの数も増えるんですね。それと小見出し単位の文章量をどう調整してバランスするのかというのも考えどころです。

いっそエントリ単位で切り分けるということも考えてみたんですが、トップからの並びの見え方も考えると悩ましいところです。みなさんも同じようにお悩みなんだと考えると、少しは気が楽になりました。
by 黒猫亭 (2008-01-09 22:34) 

pooh

> 黒猫亭さん

文体の要求する長さって、どうしてもありますもんねぇ。

ぼくは長かったり短かったりしますが、改行の入れやすい文体なのが自分的には救いです。
by pooh (2008-01-09 23:37) 

たかぎF

あー、ごめんなさい。某WikiでPseuDoctorのきちんとした文章に小見出しを挟み込んだのは私です orz
でもあれは「まとめサイト」であることを意識してのことでして…なんというか、 まとめサイト的なものは、文章(論説文?)というよりむしろプレゼン資料に近いという認識なのです。
ブログ等の記事としては、構成がちゃんとしているなら長くてもいいんだと思いますが…うーん、どういう読者を想定するかに依るのでしょうね。
by たかぎF (2008-01-10 00:32) 

pooh

> たかぎFさん

商売柄ぼくが把握している範疇では、hタグによる見出しの設置を含めたストリクトなマークアップって云うのは単なる標準準拠と云う以上に重要な意味合いがあったりします。読みやすさとか、サーチエンジン対応とか、アクセシビリティみたいな問題のすべての基礎になるものなので。

とは云えおっしゃるとおりに、どう云う読者を想定するか、と云うお話でもあって。ぼくにとってはそれ以前に、どんな文体で書きたいか、と云う部分のほうが優先だったり(なのでいろいろ云いながらもここは全然ちゃんとしてません。システムの自由度が低いのもありますが)。
by pooh (2008-01-10 07:47) 

PseuDoctor

こんばんは。

Wikiは見出し付きの方が良いと思っています>たかぎFさん
読み易くなったのは確かですし、有難かったです、本当に。

ただ、たかぎFさんとPoohさんが仰っている事にも関連しますが、ブログでは少し事情が違うようにも思います。ブログの特徴は臨場感というか疾走感(英語で言うとliveとdriveですね)にあると感じていますので、あまり構成にこだわるとその持ち味が薄まってしまいかねない。
勿論仰るように、どのような読者を想定するかによっても変わってくる事ですが。

やはりこれは悩ましい問題なのですね。
by PseuDoctor (2008-01-10 23:29) 

pooh

> PseuDoctorさん

これは、メディアの性格から来るポジションの問題、と云う気もします。

公的なものか私的なものか、と云う2軸上で、ブログは相対的にWikiよりも「私的」よりのポジションに位置する、と云うことかと。それは読者層のターゲティングにも関わってきますし、当然、文体も規定します。
by pooh (2008-01-11 07:45) 

pooh

失礼しました。「2軸」じゃないですね。
by pooh (2008-01-11 08:52) 

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