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コミュニケーション [世間]

トニオさん(尚絅学院大学在学中らしい例の御仁とは多分別の方)の言葉と云うエントリを読んだ。

とりあえずのっけから日本語の乱れを憂えていらっしゃる。人類文明始まって以来、一定年齢に達した人間が一度はこれをやってみたくなる欲望に駆られるみたいだ。でもひとくさり定型文のような嘆きを並べた後で、

もはや日本では無いような、聞き直してしまう程だ。

いきなり何を云ってるんだか意味が分かんないんですが。それどこの国の日本語? なんか我が国の中高年層の日本語能力の衰えを嘆きたくなってしまう。

ここからこの方は、「コミュニケーションは人間の基本」→「綺麗な言葉でないと伝わらない」から、いきなり「汚い言葉は自分を汚す、気をつけたい」にジャンプする。中高年層の論理能力も疑わしく思える。

で、お水の結晶の話が登場する訳だ。

他のエントリを読んでみると、どうもこの方のメンタリティはネット右翼の餓鬼どもに近いように見える。なるほど、そうなると「近頃の若い者」とそう変わらなくても不思議はないのか。


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TAKESAN

今晩は。

私は、10代後半までは、ギッチギチに、「正しい言葉」に拘っていて、20歳頃に、ソシュールの考えにノックアウトされたクチです(笑)
で、10代の頃の、自分の思考を思い返してみると、リンク先のブログ主さんの心情は、よく解るのですよねえ。でも、ああいう認識って、言葉に雁字搦めにされているんですよね、ある意味で。

「ヤバイ」とか「感じ」とかを、しょっちゅう使う私は、言葉遣いがなってないんでしょうねえ…。
by TAKESAN (2007-05-17 23:29) 

pooh

> TAKESANさん

ぼくは結構若い頃からなんだかんだと文章を書いて来たほうで、だから言葉については「その場所、その文脈、その読み手」に対して有効かどうか、って使い方を考えることが多くて。そう云う見方で行くと、言葉は「オレルール」と想定される「読み手ルール」の間で使い方を都度決めて行く、って云う発想になるんですね。正しかろうが間違っていようが、その場で一番効果的に伝わる用法を使うのが重要、みたいな。
だから、「言葉の乱れ」議論を安易にしたがる手合いを見ると、「あぁ、分かってねぇんだなぁ」と云うふうにまず思いがちです。それもそれでどうか、と云うところがあるのは認めますが(^^;。
by pooh (2007-05-18 06:31) 

Blatanda

昔、黛敏郎が、ドリカムの唄の中で日本語としておかしい部分があり、ドリカムも知れたもの的な発言をしていたのを思い出しました。確か、「橋」の部分のイントネーションが「箸」と同じになるのが怪しからんという内容だったと思います。私は黛敏郎の権威主義的なところ(音楽に関してはあまりそういう部分はなかったと思います)が大っ嫌いだったので、何とかケチをつけたいと思っていたところ、金田一春彦さんの「元々関西で『橋』も『箸』も同じイントネーションだったのが、関東に伝わる過程で区別されるようになった」という話を聞いて、「ザマアミロ!」と思ってしまったものです^^;

今は二人とも故人ですが、金田一春彦さんは、「言葉は時代によって移ろいゆくもの」というお考えのようで、私が信をおく学者先生の一人でした。

「日本語の乱れ」とか「美しい日本語」とかの言説は、権威主義的な香りがどうしても鼻につきます。決して「美しい言葉」というのを否定するわけではないのですが。
by Blatanda (2007-05-18 09:09) 

pooh

> Blatandaさん

いらっしゃいませ。

日本語の乱れを嘆いてみせる輩からどうしても胡散臭さが抜けないのは、それが基本的に「虎の威を借りて」いるからだと思います。そう云うあんたは美しい日本語が使えるのか? とか、そもそも美しい日本語って何なのかちゃんとまじめに考えたことあるの? みたいなことが訊きたくなりますよね。

美しい日本語が必要なときには美しい日本語を使うし、そうじゃないほうが適切な場合には汚い言葉を使うんです。そこには絶対なんかなくて。美しい日本語の達人も汚い日本語の達人もいて、技量の高低があるだけだ、なんて考えたりします。
by pooh (2007-05-18 21:50) 

かも ひろやす

「日本語の乱れ」を憂う方々の中には、方言の存在が視野に入っていない方が多数いますね。
by かも ひろやす (2007-05-19 16:47) 

pooh

> かも ひろやすさん

あぁ、そうかもしれませんね。
言葉の「生まれ育ち」みたいなものに無神経と云うか。
あ、逆か。言葉が「生まれ育つもの」と云う感覚が薄いから、平気で「日本語の乱れ」みたいな云い方を恥ずかしくもなくできるのか。たかだか140年の歴史しかない言語に正当性を見いだして依拠するなんて、どうにも安いメンタリティですよね。
by pooh (2007-05-19 20:22) 

pooh

ちょっと関連は薄いですが。

この種の安易な世代論については、山口浩さんのエントリの説明が明解でした。

http://www.h-yamaguchi.net/2007/05/post_61db.html
by pooh (2007-05-20 07:02) 

TAKESAN

今日は。

山口さんのエントリーは、納得出来ますね。

残念な事に、マスメディアに出てくる「識者」と称される人は、無闇に声が大きく、物事を断定してしまいますね。あまっさえ、それを、自分のよく知らない事柄にまで敷衍してしまうので、益々タチが悪いです。

で、そういう事を嘆いてばかりでも詮無いので、冷静に見る認識力を鍛えるのが、重要でしょうね。でも、テレビを観ていて、「勘弁してよ…」と思っちゃうんですよねえ。

------------

「正しい日本語」云々と言う人は、大概、「自分が正しいと思っている」ものを正しい日本語としている、という印象があったりします。
by TAKESAN (2007-05-20 13:07) 

かも ひろやす

とりあえず、この方が問題視している「〜じゃん」については、言葉の乱れではなく、方言の勢力分布の変化にすぎません。「〜じゃん」は昔からある方言です。それが、分布範囲を広げて、今では、東日本で広く使われるようになった。それだけのことです。「〜じゃん」がなかった地域の住人がそれを言葉の乱れだと感じるのは、単なる無知による誤解です。「〜じゃん」地域の住人にとっては、昔から使っている表現にすぎません。
by かも ひろやす (2007-05-20 14:51) 

pooh

>TAKESANさん

でもまぁ、声の大きい「識者」だけを非難するのも多少気の毒なんですけどね。なにしろ彼らに対するニーズが「ずばり言って」くれることだったりするので。

> 「正しい日本語」云々と言う人は、大概、「自分が正しいと思っている」ものを正しい日本語としている、という印象があったりします。

と云うかですね。だいたいその辺を云々する方々は、「正しい日本語」「美しい日本語」ってのがなんなのかをあんまり真剣に考えてみたことがなかったりするように思えます。
by pooh (2007-05-20 18:41) 

pooh

> かも ひろやすさん

何も検証していないので断言もできないのですが、特定の方言にある言葉や言い回しが他地域に(短期的な過程で)流行語的に流通し始める、と云うケースは結構あるのではないでしょうか。
ある言葉や言い回しの流通範囲は(ひとの行き来がある限り)もちろんいつでも変化しうるもので。特定の地域で使われる言葉は、その地域内での変化がなくとも変わって行く、と云うことですよね。
で、それを醜くなった、と感じるためには特定の地域の特定のタイミングを特権的に「美しいもの」と決めつけているわけで。そう云うことを無意識にやってしまう辺り、やはり日本の中高年層は昔と較べて思考力が衰えていると云うか(^^;。おいらも中高年ですが。

「〜じゃん」を槍玉に挙げたがるのは単なるクリシェでしょうね。
by pooh (2007-05-20 18:50) 

柘植

こんにちは、皆さん。

私は「言葉の乱れ」論とかの話になると、良く「折檻(せっかん)」という言葉の故事を示して、「皆さんが普通に正しく使っているつもりの言葉もすでに時代の変遷を経ている」なんてことを説明します。

「上司がおかしいことを言うので、せっかんしました。」なんて事をいうと、おそらく現代人の大半は、「おいおい、上司に暴力でもふるったのか」と思われるでしょうが、本来の故事は、皇帝を強く諫めた家臣が、宮廷から連れ出されるのを拒んで諫言を続け、そのためにしがみついていた「手すり(檻)が折れた」という事から来ていますから、上司を言葉で強く諫めるなら折檻という言葉としては正しい訳です。本来、「(目上を)強く諫める」という意味の言葉が「強く諫める」の意のみが強くなり、目下に対して「暴力を伴う戒め」といった意味に転じたのがこの言葉ですね。

故事成語などに通じていると、このように「意味が転じた言葉」などは良くあります。意味が転じないまでもニアンスが失われる事などは普通です。例えば「杞憂」などという言葉がありますが、杞の国というのは夏の国の事ですから、「天が落ちることを心配する」という荒唐無稽さが「没落した国の国民が」というニアンスと相まって意味を深めていた面があります。「杞憂」という言葉を使うときに、「あの没落した夏の国の人のように」というニアンスを持って使われる人は現代人にはまず居ないでしょう(笑)。
by 柘植 (2007-05-21 08:56) 

pooh

> 柘植さん

古い言葉を「美しい」と感じることはもちろんぼくにもあって。でもその古い言葉が「いつ頃からある」言葉なのかってのはばらばらだったりもするんですよね。だからそこにはそもそも幾分かの「乱れ」はあるわけで。

ってえか平安期の日本語ってのは基本的に京ことばで、そう云う意味では関西弁で。関西人から云わせてもらえば、標準語なんて云う訛った東ことばを使ってる時点で「言葉が乱れて」るんです。極論すれば。
by pooh (2007-05-21 23:14) 

かも ひろやす

気づきました。「言葉の乱れ」を憂う人って、過去に正しい使われ方をされていたのが廃れてきたと感じているんですね。それに対して、「言葉の誤用」を問題にする人は、守られるべきルールがいまだ普及していないと見ています。似た主張に見えますが、実は正反対のものなんだ。
by かも ひろやす (2007-05-22 23:16) 

pooh

> かも ひろやすさん

なるほど。でも「過去の正しい使われ方」も「守られるべきルール」も、今ではないある時点に正しい言葉の使い方が存在した、と云うのを前提に置いている点では発想は似ているのかも。

後者については、その言葉がどう使われて来たか、の変遷を踏まえることができるので、思い込みだけではない問題にし方もできる訳ですが。その分、ちょっと言葉と云うものについて深い考察にも繋がりやすいかも。
by pooh (2007-05-22 23:30) 

かも ひろやす

ルールというのは、適用範囲というものがあるというのが、ミソです。そこが、「正しい言葉」とか言っている人に見えていないところです。

実例をあげます。

たとえば、もう二十年近く前、NHKの「アインシュタインロマン」で「放射線」というべきところを「放射能」と言ったことを叩きました。でも、「ゴジラ」に対して同じ批判はしません。物理学者の業績を紹介する番組で、物理学として間違った言葉を使うのはけしからんが、怪獣映画でそんなことに目くじらをたてることはないということです。

「放射線」と「放射能」を混同してはならないことは、物理学の世界のルールです。研究の現場でそのような混同をすると確実に混乱しますので、これは、実利の裏付けのあるルールです。物理学の世界にくちばしをつっこむつもりなら、物理学の世界のルールにはしたがう必要があります。怪獣映画は、そのルールの対象外です。

蛇足だけど、ハードSFだと微妙。
by かも ひろやす (2007-05-23 01:09) 

pooh

> かも ひろやすさん

あぁ、たしかに。適用範囲については、言葉を使うにあたってつねに意識しておかなければいけませんね。正確に伝える必要がある場合と、ある言葉によってイメージを喚起してある印象を与えようとする場合では、「正しい言葉遣い」と云うのは違ってくる(で、前者が後者よりもより誠実と云うわけでもなく、後者が前者よりも認識が緩くてもいい、と云うわけでも多分ない)。そこを一元的にある基準に従って語ろうとするとおかしなことになりますね。

> ハードSFだと微妙。

SFの場合は「本来文芸の適用範囲にない言語の使い方を文芸に持ち込んで、そこで生まれる効果を狙う」と云う側面のあるものなので。まぁ匙加減、と云った話なんでしょうけど。

余談ですが、ぼくはこの場所で主に文芸のメソッドに沿った言葉の使い方をしています(まずは効果優先)。でも扱う題材の多くが本来そのことを語るために学術用語的な「定義済み」の言葉を用いる必要があるものが多くて、ときどき匙加減を間違うのはそのためです。とまぁ、これは言い訳ですが。
by pooh (2007-05-23 08:03) 

dlit

はじめまして。
先日は記事を紹介していただいてありがとうございました。
ここでも言葉に関して気になる議論が進行していたのでちょっとだけ。

上の方でpoohさんがおっしゃっていた「方言からの逆輸入」ですが、「乱れ」として話題になるものがどこかの方言ではすでに存在していたということは結構あるようです。ただ、その相関をきちんと明らかにするのは難しいのですが…
ひところ騒がれていた「ら抜き」なんかも、言語の体系という観点から見るとむしろより合理的な活用体系への変化として捉えられるのですが、いくつかの方言では共通語で話題になる前から確立されていたようです。

「乱れ」と言われるような表現も「(ある世代にとっての)規範的なルール」には逸脱していても、「言葉そのものが持つ体系としてのルール」には綺麗に、しかも時には興味深い形で従っていることが多く、日ごろからよく分析対象にしています。
まあ、現象自体が安定していないということもあって論文や学会発表のテーマにはなかなかしにくいのですが(^^;
by dlit (2007-05-25 01:54) 

pooh

> dlitさん

いらっしゃいませ。
うちでもそうだったのですが、さすがにご本業だけあってとても整然としたエントリだったので、どこも「まず全文を読んでください」と云う取り上げ方になってましたね。

かも ひろやすさんが持ち込んでくださった地勢的な文化圏の拡縮による言語の変化と云うのは、実は個人的にも実感できる種類のものだったりもするんですよね(ぼくが、というより、誰もが可能)。これは日本語と云うより、ヨーロッパ系の言語を考えるともっと分かりやすそうな気がしました(ヴァイキングからすると、「ブリテン島の連中の言語の乱れは許しがたい」ってことになる、とか。でもスカンディナヴィアにも英語の語彙は入ってきているので、「ここ1000年くらいの若い者は」とかなっちゃうとか)。

あまり話を拡大するのもなんですが、この「文化圏」というのは必ずしも地勢的なものとは多分限らないのでしょうね。学際的な文化圏の勢力範囲の変化とかでも生じえたり、いろんなダイナミズムが考えられるかも。
by pooh (2007-05-25 07:59) 

かも ひろやす

ちなみに、教師としての私は、不正確な表現には不寛容です。学生の論文の添削では、「ソフト」は「ソフトウェア」に直させますし、「JISコード」は「JIS X 0208」なり「iso-2022-jp」なりに直させます。でも、これって、間違っているから直させているのではありません。曖昧さを問題視しているのです。「『ソフト』が『ソフトウェア』の略だとは限らんだろ。『ソフトコンタクトレンズ』のことだったどうする?」とか「『JISコード』を文字コードのことだとなぜ決め付ける? JIS都道府県コードとかJIS性別コードとかもあるぞ」とかです。

そのため、間違っているけど曖昧ではない表現には寛容になってしまうこともあります。「URL」を「ホームページのアドレス」と呼ぶのは、大間違いだが曖昧さは生じないので、つい、通しちゃいます。「インターネットのアドレス」と呼ぶのは、間違っていはいないが「メールアドレス」や「IPアドレス」と紛らわしいので、直させます。

これも、文化圏で説明できますね。文書は文化圏を越えて渡されることもあります。文化圏を越えることは、誤解の原因によくなります。曖昧な言葉を避けるのは、その種の誤解を減らすために必要な技術です。ということです。
by かも ひろやす (2007-05-29 11:39) 

pooh

> かも ひろやすさん

あぁ、それはなんかよく分かります。
でもこれ、このことだけで随分広がりのある話ですねぇ、考えてみると。
ニセ科学言説にもこの「曖昧さ」みたいなものを利用しているケースが多々見られるし。「伝えるべき本質的な事柄」をどう捉えるか、と云う話でもあるのか。これ、言葉の恣意性とも繋がってくる話なのかも。

全然関係ないかもしれませんが、酒の席ではぼくの英語は途端に通じやすくなります。こっちもあっちも酔っぱらっていると、伝えるべき本質がシンプルになるからかも。
by pooh (2007-05-29 22:23) 

dlit

亀レスで失礼します。

研究者の皆さんは結構そうだと思いますが、僕は自分の専門についての話をする時に、相手によってかなり意識的に語彙を使い分けています。で、ここからは個人的な話なのですが、意外と?同じ言語学を専門にしてる人と話す時もかなり気を使います。
むしろ同じ分野で使用する語彙自体は重なっているのに、理論的な立場などの違うとその用語が意味する概念には齟齬が生じてしまって、結果的に大きな誤解を生むってこともままあるのですよね。まあ大体途中で気づいて修正しますが(言語学者が恣意性にやられてたら恥ずかしいですしね(笑))。

そういう「文化圏のずれ」って色々なレベルで起こりうるのだと思います。poohさんがおっしゃっているように、ニセ科学も、全く聞きなれないお話をするのではなくて、一般的に知られているような科学に関する語彙をちりばめるからこそ厄介だ、というところもありますよね。

そういった「ずれ」は実は日常茶飯事で、普段私達はそれを無視したり微調整したりしながらうまくやっているわけですが、その「ずれが生じうる」ってことにあまりにも無意識的、あるいは不寛容過ぎると「あいつらの言葉は…」っていう風になったりするのかな、と思います。
そういう事態に対応するために「コミュニケーションの目的をはっきりと意識したコミュニケーションの練習」っていうのが国語教育でも必要だ!って主張されてる先生を知っていますが、まだあまり一般的な考え方ではないのですかねえ…
by dlit (2007-05-30 15:32) 

pooh

> dlitさん

使われる状況によって、要求される言葉の精度の幅、と云うのはあるんだと思います。例えばぼくはこのブログででも、どちらかと云うと文芸寄りの語彙の選び方をする(誤解を避けうると判断できる範囲でイメージの喚起力を重視して言葉を選ぶ)傾向がありますけど、これは文章の質としてそれを選んでいる訳で。だから逆に、おっしゃる「文化圏のずれ」みたいなものにはかえって敏感なつもりです。文化圏のずれが生み出す効果もあるし。

ただ、これは成立させたいコミュニケーションの質で、求められるものが変わってくるんですよね。その部分を意識しないと、結果として排他的になる。でもこの辺りの自由度って、言葉を発する側も受け取る側も相応の意識、と云うか訓練が要求されるものなんじゃないかな、と云う気もします。
by pooh (2007-05-30 23:10) 

柘植

こんにちは、dlitさん。

>ニセ科学も、全く聞きなれないお話をするのではなくて、一般的に知られているような科学に関する語彙をちりばめるからこそ厄介だ、というところもありますよね。

私は「マイナスイオン」というニセ科学の説明をするのに「製造業に勤める佐藤さんの顔写真を示して田中さんだと言い、田中さんの仕事の説明にサービス業に勤める鈴木さんの仕事を言い、その上で田中さんは『とても良い行いをしている』と佐藤さんも鈴木さんもしていない架空の事を言う」という話をこさえたりしました。顔写真からたぐって、「あれ、この人は田中さんではなく佐藤さんだ」と気が付いても、仕事の事なんかを考えて、「顔写真を間違えたのかも」と思われて、「田中さんなんて存在しない」と言いにくいし、仕事から手繰って顔の違う鈴木さんにたどり着いても、「仕事の部分を間違えたのかも」と思われて「田中さんなんて存在しない」となりやすい事につけ込まれた面があります。そうやって「田中さんなんて存在しない」と言うのが遅れているうちに、「とても良い行いをしている田中さん」像が広がってしまつたのが「マイナスイオンブーム」だと言っている訳です。大気中のイオンは「大気イオン」という名前で気象学の方では研究されています。そのうち負の電荷のものは「マイナスイオン」などとは呼ばれず、「大気負イオン」と呼ばれます。もとも、イオンは溶液などの安定媒体中では「陽イオン、陰イオン」と呼ばれ、大気中や真空中などでは「正イオン、負イオン」と呼ぶのが化学の正式な呼び名です。つまりここに佐藤さんの顔を田中さんと紹介するが起こる訳です。また、「微粒子が帯電する」という現象もいろいろな分野で研究されていまして、「帯電微粒子」と呼ばれます。この微粒子の帯電現象の研究なども「マイナスイオンの研究」として紹介される訳です。ここに、「田中さんの仕事を紹介するのに鈴木さんの仕事を使う」という事が起こっている訳です。

実のところ我々は「素人」と話をするときに「言葉の使い方の誤り」には寛容な面があります。専門家同士で話すときは「それは負イオンと呼びなさい」とたしなめる人も、素人が「そのマイナスのイオン」と言っても「負の電荷を持つイオンの意味で分かるから良いか」とたしなめたりしない面があるわけです。まさに、その部分を突かれて、「大気負イオンに健康影響は認められていない」というべき所を、素人が「マイナスイオン」と呼んだのに呼応して「大気中のマイナスイオンには」とやってしまう人も多く、そうなると、本来なんら定義されない「マイナスイオン」が「専門家も使うから健康影響は分からないけど存在はするのだろう」となつてしまったりするわけです。ある意味、「素人なんだからいい加減な用語を使っても仕方ない、相手に分かるように相手の使っている言葉で説明しよう」という寛容さが、「マイナスイオンを否定する」話しさえ「マイナスイオンなるものは存在する」と思わせる形になってしまう訳です。
by 柘植 (2007-05-31 14:05) 

pooh

> 柘植さん

どの業界にもテクニカルタームがあって、それはより厳密な定義をもっているんですけれど、でも所詮業界内の言葉で。だから、特に文化圏同士の接点に置いて用いる場合には慎重じゃなきゃいけない。

ただ逆に、これもどの業界でもあることですが、テクニカルタームはその言葉をちゃんと理解しない相手に対してミスティフィカシオンとして使うこともできる。これは本来忌避されるべきことなんですが、ニセ科学においては一般的な手法でもありますよね。
by pooh (2007-05-31 21:38) 

dlit

>柘植さん
なるほど。
僕は例えばマイナスイオンに関してはあまり問題意識が無かった(というか興味が無かった)ので、いまだに皆さんのサイトを巡りながら勉強中ですが、そういった問題のどこが問題なのかっていうのが上の説明で一つつかめました。ありがとうございます。
一般の人を相手にどこまで詳しく解説して、どこまでを端折って話すのかっていうバランスのとり方は相手にもよりますし、やっぱり難しいですよね…

>poohさん
テクニカルタームによるミスティフィカシオンというのは言葉に関する一般向けの書籍でも結構見受けられるような気がします。
by dlit (2007-06-06 17:02) 

pooh

> dlitさん

ミスティフィカシオンが問題になるのは、それが許されない場(学術とか議論とか)ですよね。例えば文芸の場では、シニフィアンのイメージ喚起力を利用して文脈内で意味を押し広げるのは技巧の範疇に入るもので。

と云う辺りが、「一般人に対する語り口」と云う問題にも多分直結しますよね。

ちなみにここではマイナスイオンについてはほとんど扱って来ていません。水伝と違って、受け側に「単に知識がない」ことに問題が集約される(と云う訳で人文科学的にはたいして議論されるべき代物ではない)ような気がするから、ですが。
by pooh (2007-06-06 22:23) 

柘植

こんにちは、poohさん。

>ちなみにここではマイナスイオンについてはほとんど扱って来ていません。水伝と違って、受け側に「単に知識がない」ことに問題が集約される(と云う訳で人文科学的にはたいして議論されるべき代物ではない)ような気がするから、ですが。

別に「扱ってくれ」とかは言いません。ただ、ニセ科学問題というのは、「知識の不足」だけでかたづけられる問題ではないんですね。なんていうか、文学者ぽい人が、文学的な用語で語るのを聞くと「文学に詳しいのだろう」と思ったり、芸術家ぽい人が芸術関係の用語で語ると「芸術に詳しいのだろう」と思うのと同じく、科学者ぽい人が科学で語れば、「科学に詳しいのだろう」と思ってしまう。そして、ニセ文学者に金を貸したり、ニセの美術品を売りつけられたり、ニセ科学商品を掴まされたりはあるわけです。

こんなのは昔からある事だけど、それでも昔はどこかで歯止めが利いて、まともな企業を巻き込むような「ニセ物の蔓延」はあまりおこらなかったのが、現代では「マイナスイオンブーム」が起こってしまったという事に、「いったい現代のどの部分で歯止め機構が壊れているのだろう」と考察する必要はある訳ですね。
by 柘植 (2007-06-07 09:05) 

dlit

>poohさん
>ミスティフィカシオンが問題になるのは、それが許されない場(学術とか議論とか)ですよね。

全くその通りですね。
問題は、例えば僕の専門である言葉に関して言うと、「言葉に関する思いのたけを書き綴ったエッセイ」なのか、「学術的な研究の成果をわかりやすく広く周知するための啓蒙書」なのか区別が曖昧だったり、あるいは書いてる本人も混同しているような書籍が結構見受けられるというようなことだと思います。
どちらが良いとかいう話ではないんですよね。例えば表現活動に携わる方々の言葉に関するするどさや素朴な直感には敬服させられることが多いです。

ちょっと落ち着いたと思いますが、昨今の(美しい)日本語ブームで、大分怪しい本やテレビ番組が増えたなあ、と個人的にちょっと心配なのですよね。もちろん、そういうことによって言葉に関する話題が注目されたり、色々議論が盛り上がること自体は大歓迎なのですが。
やっぱり上で柘植さんがお書きになっているように、専門用語や肩書きによる「権威付け」が問題かなあ、という感じです。
by dlit (2007-06-07 17:41) 

pooh

> 柘植さん

あぁ、云い方が悪かったです。って云うか主語が抜けてた。

実際のところ、ここであまりマイナスイオンに触れないのは、なんとなくぼくがそれについて(ぼくの持つ角度として)有効な発言ができない気がする、って云うのが正直なところです。人文科学的には大きな問題ではない、と云う云い方は書き過ぎでした。

実際のところ、ぼくは例えばある言説に対して、ぼくの持つ関心や思考の角度からの批判が有効である(きくちさんやapjさんやTAKESANさんなんかの言説がすでにあっても、ぼくが取り上げることがユニークな意味を持ちうる)と思える場合にエントリを上げています。マイナスイオンについては、その有効性が自分で確信できない場合が多いので、これまで取り扱ってこなかった、と云うのが実際のところで。問題として小さい、と考えている訳ではないし、今後も取り上げないつもりだ、ということもありません。
by pooh (2007-06-07 22:34) 

pooh

> 柘植さん

追加になりますが、マイナスイオンと云う言葉独り歩き現象については、言語学的なアプローチは可能かもですね。
by pooh (2007-06-07 22:35) 

pooh

> dlitさん

権威付け、と云うことについては多少痛し痒しの部分もあって。権威と云うのはある意味効率を向上させる仕組みでもあるので。このことについては、ちょっと前のエントリで書きました。

http://blog.so-net.ne.jp/schutsengel/2007-02-10

ただ、権威を(持たない側として)活用するためには、それを見極める眼も要求されるので、難しいですよね。
by pooh (2007-06-07 22:41) 

dlit

>poohさん

確かにそうですね。
僕も普段の研究の上では雑誌や大学の情報を大きな基準にして読む論文を決めたりもしますし…裏切られることもしばしばですけど(^^;
実際には領域内や、あるいは大学内でも色々個別の事情があると思うので、現在こういう風にブログなどの形で専門家の方々の「内部からの」情報が得られるというのは非常に有益なんだろうな、と思います。
まあそうすると今度は情報の取捨選択が難しくなってくるのかもしれませんが、判断の(あるいは疑問を持つ)材料が得られるというのは良い…のかな。
by dlit (2007-06-09 20:43) 

pooh

> dlitさん

大昔に大学生だった頃は、学部も専攻もばらばらの集団のなかにいたので、なにか知りたいときに身の回りにプチ専門家がいてとても便利だったのを思い出しました。不真面目な学生でも、自分のやっていることについては常識以上の知識は持っている訳で。
でも、社会に出てからはそう云う機会はなかなかない訳です。って云うか社会ってのはそもそも会話から通じない人間のほうが多いところだし(^^;。

例えばこのブログにしたところで、コメント欄にはそうそうたるみなさんが出入りしてくれる訳です。きくちさんや柘植さんのように実名で、こちらもどの分野の専門家なのか分かっているひともいるし(あ、dlitさんもそうですね)、ハンドルで書き込まれる方でも尊敬すべき知識や思考力を示されるかたもいらっしゃる。
そうすると、こんなちっぽけな場所でも流通する情報量、知識量はすごいものがあったりして。

で、日常それに触れていられるインフラがある時代ってのも凄いし、触れていることによってぼくたちの情報取捨選択のコストのほうも(スキルの向上もあって)向上していくのかなぁ、とかも思ってます。
by pooh (2007-06-09 22:05) 

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