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(個人的)真実 [世間]

触れよう、触れようと思っていたのだけれど、躊躇するものがあってosakaecoさんのカルトな私というエントリに対して言及するのが遅れてしまった。
躊躇したのは多分、ぼくがここで描かれているosakaecoさんの姿ととても近い資質を持っていて、なおかつ類似した経験を持たないから。おそらく非常に浅い議論しかできないと思うけれど、ご勘弁いただくとして。

結局のところ、ぼくには所謂神秘体験と云うものを、誰かの著作を通じてしか知らない。それは人生観をまるきり変えてしまうほど強烈なものであり、そうして体験した本人については「事実である」ということ、多くの場合それは宗教的な意味合いを持ち、なんらかの(うちから来るものであれ、外部に存在するものとして認識されるものであれ)超越的な感覚を生じさせるものである、と「聞いた」ことがあるに過ぎない。そして、その強烈さは、実際のところ想像が及ばない。

宗教には若い頃から興味があるし、自分のことをコリン・ウィルソン云うところの「宗教的人間」であると認識していた頃もある。それでも、自分で認識する限りぼくは現在のところ(比喩的な意味を除けば)無宗教だ。無宗教の人間が宗教について言及することの危うさについては以前Marco11さんに指摘されているし、注意深くあろうとも思っている。

ただ、osakaecoさんのお書きになっているグループの姿勢、およびグループ内での神秘体験の捉え方については、(おそらく中沢新一辺りを経由したいい加減な知識だとは思うけれど)昔読んだチベット密教におけるそれと共通している、と思う。

むしろ、指導者はその体験がその人にとっての意味を問題にするように感じる。その神秘体験が単なるいわゆるオカルト的事実を体験したものに納得させるような意味しかなければ、そのような神秘体験は糞だというように思う。また、そのような神秘体験は有害だというと思う。

神秘体験はそれを体験する人間にとっては「事実」であり「真実」でもありうるもので、でもそれは一定条件の揃った状態に人間を置けば発動させることのできる(場合によってはLSDなんかでも代用できる)ものなのではないか、と思う。それはある種前記のような意味合いを持ちうるし、その意味では無価値ではないけれど、同時になんらかの絶対的な宗教的意義を持ちうるものではないのではないか(あるいは、それを持たせることは危険なのではないか)。

確かチベット密教では修行の過程でそのような神秘体験を経由し、それを否定することで次の段階へ向かう、と云うカリキュラム(と云うのかなんというのか)だったと記憶している。ひどく単純化した議論だけど、この強烈なメカニズムの発動をどう扱うか、がカルトと宗教を分けるはざかいとなるのではないだろうか(実はこの辺り、アブラハム系の宗教ではどう取り扱っているのかがよく分からない。一部のキリスト教系教会の持つ列聖・列福の手続の厳密さから、同様の視点はあるのではないかと想像するけれど。この辺り、もし読んでいたらMarco11さんに教えていただきたいところだ)。

いずれにせよ超越者を感じ、そうしてそれを感じるところで留まる(留まらせる)ものは、おそらく宗教としては機能不全なのではないか、と云う気がする。

そうして、osakaecoさんは、必ずしもその集団がカルトでなくても、個人が「カルト的」になりうることを指摘している。

実際、今になって思うのだが、私の場合、ワークショップでの強烈な体験は、一定期間の実りをもたらしたのちは、少なくとも数年のスパンではあきらかに有害な側面があった。結論だけいえば、そうした神秘体験につながるものが人生の課題なりなんなりを解決するオールマイティであると受け取ってしまった。もっと、いえば実生活で何をしていようが、そういう精神世界的な部分でまっとうならば、意味のある人生が得られるような幻想を抱いてしまった。要は、私はまるっきりカルトと関係ない集団の中でカルトに陥ったのだ。

この記載をもとに考えを押し広げると、カルト的心性は場合によってはぼくたちの日常のなかにも、個人的なものとして、非宗教的なものとして存在しうる、と云うことになる。

私はカルトの本質は宗教組織の側にあるのではなくて、現実への対応を避けて万能な解決策を求める一種の怠惰さと考えている。この意味ではその解決策とみなされるのは科学であってもよく、きくちさんが指摘する二元論的な疑似科学というのは万能の解決策を科学に求める人々が引っかかるカルトである。

すこし安易かもしれないが、ぼくはこの背景に関係するものとして、このブログでずっと論じてきた「わかりやすさ志向」が関連していると感じている。

理解を必要としない、疑うことを否定する「信じる心」は、やはり単純に危険な部分を含んでいると思うのだ。

で、それとは別に、これほどの深みにまで踏み込んで論述し、示唆を与えてくれたosakaecoさんに、敬意と感謝を示させていただきます。


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コメント 2

osakaeco

あれが書けたのはpoohさんのおかげで疑似科学批判がらみのことに首をつっこんだおかげだと思っています。この数週間で気がついたことがたくさんあるのです。こちらのほうこそありがとうございました。

ああいう風にえらそうに書きましたが、私も疑似科学についてことを書いたことへのコメントのいくつかは、自分も科学に対してカルト的なつきあい方をしている部分があることを感じさせます。
by osakaeco (2007-03-24 01:14) 

pooh

> osakaecoさん

かくいうぼくも、改めて自分を振り返ると、意外と自分がものごとを考える基盤が危ういものであることに気付きます。

こう、結構ぼくは意識して自分を追い詰めながらニセ科学批判をしている部分があって。そう云う意味では結構各エントリは裏返しの自分語りだったりする部分もあるんです。いろいろ考えさせていただいたことを、自分なりに消化させていただこうと思っています。
by pooh (2007-03-24 07:29) 

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