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呪術とニセ科学 [世間]

琴子さん(tot-mainさんと表記すべき?)の「水からの伝言:リターンズ 〜似非科学は何故消えないのか:文化人類学編〜」を読んだら、ぼくの中でずっともやもやしていたことがすっきりと書かれていた。

「水からの伝言」がこれだけ人口に膾炙するのは、そこに科学的なるものへの漠然とした(不合理な)信頼の他に、なにかしら心理的なメカニズムが仕込んであるからだ、と考えていた。宗教にもあるような、でもそれよりももっと根源的なところに根ざした何か。「類似の呪術」とか「接触の呪術」とか云う言葉も漠然と頭をよぎってはいた。

「良い言葉」という主観的要因が、共感呪術によって「綺麗な結晶」を作ると言う。良い=綺麗というのが類感呪術、音声だか音波によって水に与える影響というのが「感染呪術」だと言うこと。

これだ。

フレイザー卿については学校の授業に少し出てきただけで(しかも英語の授業だった)、興味はありつつもちゃんと勉強したことはない(サラリーマンをやっている今となっては金枝篇なんぞどうやっても読めやしない。あぁ学生のときに以下略)。でも、まさにこういうことなのだ。

少しヒントが見えてきたかも知れない。琴子さんの続きのエントリに期待(って他力本願かい)。


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きくち

呪術ですよ
ていうか、言霊だからね
あからさまに言霊として信じている人もいるし、「科学」という衣をまとっているから信じている人もいるんだけどね
by きくち (2007-01-17 00:15) 

柘植

こちらでは、はじめまして。
 
私は、「ニセ科学が存在すること」と「ニセ科学が蔓延すること」を分けて考えています。人類が火を使い始めてからずっと「火事」というのがつきまとっているし、また、完全に無くする事ができるとしてもずっと将来の事になると思っています。ただ、江戸の最初の「大火」は江戸の町の6割を焼け野原にしたけど、その後の「大火」は時代が降るにつれて被害が小さくなっています。そのために、江戸の住民がなにをしたのかを考える事が大事に思える訳です。そこにあるのは「失火の原因」を探り無くそうという努力だけではなく「類焼の原因」を探って無くそうという努力があるわけです(「防火空き地」の整備とか「屋根の瓦葺き義務づけ」とかですね)。原因の追求と対策と言うとき、このように「発生原因」と「拡大原因」を分けると考えるのがいくぶん楽になると思いますよ。
by 柘植 (2007-01-17 10:25) 

pooh

> きくちさん

ただ、それを「呪術だ」と切り捨てて、その云い方に価値判断を含ませるのでは、文系としての知見が問われてしまう(^^;。呪術と云うのは柘植さんの言葉を借りると(いや、言葉の使い方としては違うかも知れないけど)人間の基本仕様的な部分に根付いたものなので、メカニズムとして単純に不合理として片付けるようなら文系の学問はいらなくなっちゃう。

だからといってもちろん、科学と云う衣を纏わせて信憑性を上げようとするのは論外で。それはぼく側から見ると言霊のことも馬鹿にしている。
by pooh (2007-01-17 22:15) 

pooh

> 柘植さま

はじめまして。ようこそいらっしゃいました。

サジェスチョンありがとうございます。少し時間をかけて考えを深めてみます。

いや、ぼくはどうもあまり「出火原因」について問題意識を持っている訳ではないようです。やはり容認できないのは「類焼要因」の方のようです。

(前のハンドルネームの頃によくお名前をお見かけしていました。東芝ストーカー事件の頃にコールセンターを管理していた身としては、ご発言に示唆を頂いたことも幾度もあります。ご来訪をちょっとだけ光栄に思わせて下さい)
by pooh (2007-01-17 22:24) 

きくち

「呪術」という言葉に普遍的な価値判断を含ませているわけでもないのです。それは社会が何を要請しているかによる。
呪術を基盤として成立する社会では、呪術のほうが大事だと思う。そこには、それなりの体系があって、それなりにきちんと成立しているはずなのね
 
一方で、我々の社会はすでに呪術よりも科学を「基盤」として選択したわけです
実のところ、「説明力」なら科学以外の体系にもあるのだけど、予言力(つまりは再現性)の面を追求すれば、科学に行き着くしかない。科学を選択した社会では、その「再現性」を前提とした意志決定がなされるので、呪術が役立つ余地はあまり多くない。
 
グローバリゼーションは「呪術を基盤として成立する社会」の存在を難しくするので、早晩そういう社会は変わってしまうのだろうと思います。それは特にいいことでも悪いことでもない

なんてことは考えている
by きくち (2007-01-18 10:56) 

柘植

こんにちは、きくちさん。尻馬説明ですが
 
>一方で、我々の社会はすでに呪術よりも科学を「基盤」として選択したわけです
>実のところ、「説明力」なら科学以外の体系にもあるのだけど、予言力(つまりは再現性)の面を追求すれば、科学に行き着くしかない。

実はこの部分に、現代人が科学に寄せる「信頼と不安」の両面があると思うわけです。呪術には現象説明と善悪判断というものの混在があって、人は現象説明を素直に善悪判断と混在出来る訳です。雨が降らないのを「水神様の怒り」として「今後は大事にしますから」と祈り、たまたま雨が降るなら、「怒りは解けた」訳で、何十年か前にも「大事にします」と言いながら、最近はいい加減にしていたという、自分たちの約束違反は許された訳です。つまり呪術における水神様は人間のいい加減さを許してくれる訳ですね。
 
科学は「予言力」において呪術をしのぎ、多くの利益を人にもたらしたから人は「信頼」をよせる訳ですが、同時に「不寛容」にも見える訳です。別に科学そのものは「善悪」ということは言わない訳ですが、「起こるべき事は必ず起こる」とするなら、人間の持つ不合理性に対しても「不寛容」と見える訳です。ニセ科学批判に対して一部の人が示す「自分の基本仕様から合理的に成らなければならないと言われている」という反応の元にはこういう「不寛容さ」のイメージがあると思うわけです。
by 柘植 (2007-01-18 14:31) 

pooh

おお、なんてゴージャスなコメント欄だろう。
これでははてブで「こんなところに」みたいな云い方をされても文句は云えないかも(まだ根に持ってる)。

> きくちさん

実はぼくはこのことについては、この記事にトラックバックを寄せて下さった琴子さんの感覚に近いのです。
人間の心からすると、呪術は科学的ではあり得ないけれど、合理的ではあり得る、と思っていて。科学の方が高性能でいろんなことを上手く説明できる領域が広がったので、支配的にはなっているけれども、社会が全体の合意として科学を選択した訳ではないのかな、と。
科学を用いる方が適切なケースはさまざまな領域で広がっていると思うけれども、そうでない領域では宗教や呪術を用いる方が「合理的」であり得る場合もある、と考えています。
誠実な科学と同様、誠実な宗教も誠実な呪術も、その把握できる領域を広げ、精度を上げる努力を続けているはずです。でも科学同様、宗教も呪術も万能ではない、と。
相違点があるとすれば、宗教や呪術には科学ほどの「誠実さ」がビルトインされていないと思われることかな。あと、有効とされるコミュニティが科学ほど広くない(科学の場合なにしろ全世界がひとつのコミュニティだから)と云うことから生じる問題もあると思う。

> 柘植さま

> ニセ科学批判に対して一部の人が示す「自分の基本仕様から合理的に成らなければならないと言われている」という反応の元にはこういう「不寛容さ」のイメージがあると思うわけです。
このことは納得します。そうすると、その「不寛容に対する拒絶」が生じる社会と云うのはどんな状況なんだろう、原因は何だろう、と考えるのがきっと文系の仕事なんだろう、などと思う訳です。
by pooh (2007-01-18 22:31) 

pooh

どうでもいいけどコメント欄でこれだけの有意義な意見が発せられるんだから、このブログもっと読まれるようにしないとなぁ。
エントリの質を上げないと。反省。
by pooh (2007-01-18 23:07) 

柘植

こんにちは、poohさん。
 
>そうすると、その「不寛容に対する拒絶」が生じる社会と云うのはどんな状況なんだろう、原因は何だろう、と考えるのがきっと文系の仕事なんだろう、などと思う訳です。
 
物理学会のシンポジウムでも池内先生が「不合理」について述べておられますが、もともと人間というのは「不合理」な面を持ちます。私の子供が小学校に入り立ての頃に、書き取りの宿題を溜めてしまい4時間ほど付き合ってやらせまましたが、何度も「もう嫌だ」と泣きながらノートを投げ捨てる訳です。私は「癇癪を起こすこと」そのものには寛容でして「怒りたいだけ怒りなさい、でも怒っても書き取りはできないからやりなさい」とやらせました。

そんな癇癪は大人だって困難にぶち当たると起こすわけです(私はボヤキますけどね:笑)。ただ癇癪を起こしても解決はしないから結局はやる訳ですね。この癇癪を起こす、あるいはボヤくとかいうのは人間の持つ基本的な不合理です。でもって「怒っても、ボヤいても仕方ないからやるか」とやるというのがその不合理な人間が合理的に行動するという部分なんです。
 
その二段階の行動概念が認識として薄れている気がする訳です。例えば「殺した死体を切断する」なんてニュースを聞くと「なんて冷酷な」と思ってしまう訳ですが、私に言わせると「真に冷酷な人」は、切断して隠さなくても済むところを犯行場所に選びますから「冷酷と思えない」となってしまう訳です。
by 柘植 (2007-01-19 09:42) 

pooh

> 柘植さま

> その二段階の行動概念が認識として薄れている気がする訳です。

その点について考察し、批判するのが文系的な知性に求められる部分なのかな、と思います。基本仕様としても、その仕様が社会現象の中で目立ってくる要因はどこにあるのか、と。
ぼくについては基本スペックの低さもあり牛歩になってしまいますが、少しずつ進んでいければな、と思っています。
by pooh (2007-01-19 12:09) 

柘植

こんにちは、poohさん。お考えの助けになるかも知れないことを少し書きます。我々は「科学的」というと、ついつい自然科学とか技術の分野の事を思い浮かべてしまいますが、実は20世紀に「科学的」を標榜して大きな発展を遂げた分野があります。それは経営学です。

テーラーという経営学者がいまして、「科学的生産管理」という事を言いました。それまで、ドンブリ勘定であつた生産をきちんと分類し、位置づけた訳です。あまりに当たり前過ぎて理解出来ないかも知れませんが「経営者は労働者の単位時間あたりの作業量を標準化しなくてはならない」なんて話です。実はこれができないと、ベルトコンベアーは動きません。そして、この「科学的生産管理」はフォードなどによって採用され瞬く間に20世紀の生産管理の基本となっていった訳です。ここで、ちょつと注目して欲しいのは「作業量の標準化」です。ベルトコンベアーでなければ、この1時間は20個で次の1時間は10個の職人でも8時間後に120個できていればかまわないけど、コンベアーなら1時間15個を守ってくれないとこまる訳です。つまり、科学的生産管理は、単に産業内部のやり方にすぎないのに、人間の不合理性のひとつである「むら」を排除する働きをしています。

そして20世紀の後半は、この科学的生産管理がベルトコンベアーのような単純作業だけでなく、いろんな頭脳労働や対人業務にも適用が試みられ、そして幾つかの失敗を犯した時代です。私は1980年代の米国不況を「テーラーイズム過適用による不況」などと位置づけたりしています。

テーラーイズムとまとめてはいけないのかも知れませんが、「組織を合理的に構築する」という時に、どうしても「構成する労働者の標準化」は必要と成ります。単純作業であれば「労働のむら」程度の不合理性の矯正で済むわけですが、頭脳労働や対人業務では、矯正しなくてはならない「人間の基本的不合理」は膨大な種類のものとなります。そのために、米国の多くの企業が「合理的に組まれたハズの組織が人間の不合理により動かない」状態に追い込まれた訳です。

そして現代の日本は、その1980年代の米国に類似しています。
by 柘植 (2007-01-19 14:44) 

pooh

> 柘植さん

なるほど。当時の米国ときっちり比較すると、何か示唆が得られそうな気もしますね。
人間の「むら」は一面的にネガティブなものではなく、バッファと云うか遊びと云うか、そう云う意味合いも持っているような気がします。個々人にバッファを認めない社会運営(あるいは企業運営)が善しとされているような日本の昨今の傾向も、背景にあるのかも。
by pooh (2007-01-19 21:32) 

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