SSブログ

「感性」 [あげあしとり]

つい使ってしまいそうになるけど、なんか根本的にこの言葉が嫌いだ。
言葉の意味するところが嫌いと云うより、使う人間や使われるシチュエーションが嫌だ。

大体この言葉は、薄弱な根拠に基づいて自分の云いたいことを正当化するために使われる。そう云う意味においては使われる場においては本来の意味を失って、何かしら「自分の中にある、よく分からないけど他人に尊重されるべき部分」と云うことを意味するようだ。
これは多分、これまでの人生で何度か「感性に欠ける」だの「感性が鈍い」だのとののしられた経験によるのだろう。ぼく自身の言葉に関する感性に準拠すれば、他人にそんな云い方をする人間こそが、言語に関して牛以下の感性しか持ち合わせてないのじゃないか、と素直に疑問に思うのだが。

とりあえず他人の前で十分な説明もせず(ということは言語を使う際の最低限の合意もとりつけず)「感性」と云う言葉を使う人間は、なにか感性と云うものをプラスかマイナスに振れるようなものだと考えているような気がする。「豊か」か「貧しい」かのどちらかで測れるような。

筋道を立てて説得しているのに、「理屈じゃないんだよ。もっと感性で話せよ!」と言い放った昔の上司とか。
「なんと云うのかなぁ。ぼくの感性にフィットしなくてねぇ」とか口にした某クライアントのえらいさんとか。
頭に来る前に呆れてしまったのは、きっとぼくが貧困な感性しか持ち合わせていないからなんだろうけど。たぶんどちらの時にもぼくはなにかしら反省を求められていたのだろうけれど、それが何なのかは未だに分からない。感性の劣った人間の悲しみと云えよう。

大体の芸術作品は、僕の乏しい感性で捉える限り、「表現したいこと」に対してとても論理的にアプローチしている。表現したい対象こそどこから生み出されるのか説明しがたいものだったりもするけれど、そこに至るまでにどんな手法を選び、どんなふうに構築するかについてはおおむねロジカルに行われていると思うし、そうでなければ受け手であるぼくの愚鈍な感性では多分まったく楽しむことはできないだろう。

「感性」という言葉を使うかわりに、ぼくはできるだけ「感受性」という言葉を使いたい、と思っている。どうやら単純にボルテージの高い、低いを比較するための言葉らしい(そう云う使われ方しかほとんど聞かない)一面的で含意の薄い「感性」と違って、さまざまな方向性を保有しうる言葉のように思えるからだ。

そう云えば多くの場合、科学を信頼したり、水が言葉を理解しないとか考えたりする人間は、「感性が鈍っている」とか云われるようだ。感性、という言葉を使えば、それ以上他人に理解できるように説明しなくてもいい、と云う仕組みがあるのだろう。


nice!(0)  コメント(3)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 0

コメント 3

corvo

初めまして、corvoともうします。kikulogから辿ってまいりました。絵を描く仕事をしています。
今回のエントリー、まさに同意を得たりです。「感性」という言葉の危うさを、常々感じていました。まったく意味不明に使われることも多く、僕のような職業であると「感性が豊かなんでしょ」なんて言われ方をよくされます。しかし、実際の制作の現場では全くといって良いほど使いません。
ご指摘の通り、何かを表現するためには、論理的に構築していくことが不可欠です。それはどんな芸術表現にも共通しています。
一方「感受性」という言葉はよく使います。「感受性」は自分の中にある器のようなもので、そこからこぼれだしてしまうようなものに触れると、「ああ自分の感受性に問題があるのだな」と考えることが出来ます。うまく説明できないところも多々あるのですが、「感性」よりもずっと他者と共有することができる言葉だと思います。
「感性」の乱用は何も生み出さず、弊害のほうが大きいと思います。
by corvo (2006-12-15 17:07) 

pooh

corvoさま、はじめまして。以前よりブログは拝読しています(一度トラックバックを送ったのですが、届かなかったようです)。
現職のアーティストの方に同意していただくことができて、これほど心強いこともありませんね。

あるテーマを得て、手法を選択して、メソッドを選択して、作品に仕上げていく。この一連のブレイクダウン作業はロジカルなものなのだと思いますが、ロジックはアーティストごとに独自のものです。この独自のロジックが「感性」と呼ばれるものの正体なんだろうと思いますし、その独自性がブラックボックスに(言い換えれば、余人に真似られないだけに魔法のように)見えるのが、結果的に現在の一般的な「感性」という言葉の使い方に結びついているんだろうと思います。
もちろんアーティストにはその方独自の才能が必要でしょうが、同じくらいに(自ら課した)訓練も必要なはずです。自分の中にある鍛え上げられていないなんだか説明不能なものを自ら「感性」と呼び、なぜだか尊重すべきものと思い込むのは、単なる知的・感受性的怠慢を美名のもとに押し付ける行為に思えます。
どうもぼくのなかではこの種の怠慢が、いろいろなものを紋切型に押し込め、ひたすら自分で考える必要のない「わかりやすさ」ばかりを求める風潮と重なって、気持ち悪くてしょうがないわけです。

いま"kikurog"で「ステレオタイプな科学者像」についてトピックが立っています。「水からの伝言」信奉者の方々には、「科学者と云うのはこうだから」と云う類型を設定して、その類型に基づいて議論する、という方法が必要なのでしょう。これも、上記の風潮と重なる気がします。
実際の菊池教授がどんな人間なのか知ったら、科学者のステレオタイプはほとんど崩壊すると思うんですけどね:-)
by pooh (2006-12-15 20:04) 

corvo

トラックバックの件、どうもすみません。スパムトラックバックは盛大に届くのですが、きちんと送っていただいた方のものがはじかれてしまうことがあり、頭を悩ませています。
以前から拙ブログもご覧いただいているということ、ありがとうございます。以前のエントリーでご紹介いただき、重ねてありがとうございました。

アーティストのものの見方、感じ方は、それぞれに独自性があり、それこそが作品を作る大きなモチベーションにつながっていると思います。ご指摘のとおり、その部分を100%説明することは困難で、ブラックボックスのような存在であることも否定出来ません。
ただ、ここで「感性」という言葉をつかってしまうことはとてもまずく、「美意識」という言葉に置き換えた方が、うまく説明出来るように思います。
「僕の感性に合わない」と言われるよりは、「僕の美意識に合わない」と言ったほうが納得できるのではと思います。また「美意識」という言葉を使うと、その責任の所在が言葉を発した本人になるので、立場が明確になると思います。
「感性」は説明できなくても、「美意識」は説明しやすいのではと考えています。
「わかりやすさ」を押し付ける最右翼はテレビの存在ですね。テレビのなかでは、「わかりやすく」することを至上命題のようにしている感があります。

"kikurog"の「ステレオタイプな科学者像」に便乗して、うちのブログでも「ステレオタイプな芸術家像」というのを書いてみました。
僕自身も、ステレオタイプな芸術家からは、おそらく大きくずれていると、本人は思っています。
by corvo (2006-12-18 01:19) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

トラックバックの受付は締め切りました

関連記事ほか

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。