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正義と場所 [よしなしごと]

パリにおけるテロ事件の影響で、当然ながらフィギュアスケートグランプリシリーズのフランス大会は中止になった。もうこれは当然のこと。

――なんて書き出しにしてしまったけれど、どうにももやもやしてなんだか自分のなかで収まらないのでちょっと吐き出す。たぶんうまく書けないし、ちゃんとしたロジックも提示できないけれど、それはもうしかたがない。

あることがらについて、意見をもつ。意見に沿って主張をおこなう。主張されることは、主張するものにとっては(それが意図的な逆張りであったり、韜晦であったりしないかぎりは)正義だ。主張の誠実さと云うのは、そう云うものだ。

主張には、それを裏付けるための論理がある。主張の内容や質によって精度はさまざまだけれども(必要とされる精度もまちまちだけれども)、ひとすじの論理が。この論理は、その主張を取り囲むさまざまな要素のうち特定のものを選択(し、その他のものを捨象)するか、あるいは要素それぞれに異なった重みづけをすることで構成される。結局のところその主張の正当性が評価されるにあたっては、そこに採用されている要素が適切な重みづけをなされているかどうか、と云う部分が試されることになる(それ以前に論理そのものが適切に構築されているかどうか、と云うことももちろんあるけれど、適切に構築されていない論理にもとづく主張はそもそも正当性の評価以前の問題なので、ここでは措く)。

どの要素を論理構築の基盤として採用するか、は、結局のところ主張をおこなうものの価値観に準拠することになる。準拠する価値観は単純に個人の保有するものであることも、ある一定規模の集団に共有されているものであることもある(「その主張はあなた個人の価値観にもとづくものにすぎない」と云う、一見万能に見える反論方法が、じつはそれ単体では多くの場合有効ではないのは、このへんに関する認識の水準による)。この(特定の論者の主張の基盤となる)価値観は、相応の思索によって鍛え上げられている場合もあれば、その論者の所属する集団に共有されているものを単純に内面化している場合もある。もちろんこれは、いずれかだ、と云うわけではなくて、ぼくたちの価値観はおおむねこの2つのハイブリッドとして、論点ごとにこのふたつのあいだをうろうろする。

そう云うわけで、結局のところ、価値観ごとに異なった正義がある。異なった価値観にもとづいた正義は、互いに衝突する。
誠実な主張をなそうとすれば、それはすくなくともおのれの価値観における正義に反しないものでなければならない。だとすれば、鍛えるべきは価値観であり、正義だ、と云うことになる。
それがまずはおのれの固有のものであることを自覚し、異なる正義や価値観を理解し、それらとの距離を把握する。――これはまぁ、自分自身を疑い続けることなので、相応にしんどい。

逆に、特定の規範を価値観として内面化してしまえば、このしんどさからは開放される。自分の価値観、自分の正義の正当性をアウトソーシングできれば、すくなくとも効率は向上する。宗教の機能というもののすくなくともひとつは、こう云う部分にあるのだろう、と思う。
多くの場合、歴史のある宗教はやはり鍛えられているので、そのまま内面化しても大きな問題にはならない場合が多い(社会規範としておおきな欠陥のある宗教は、それを規範とする社会集団を生き永らえさせることはできない)。

異なる宗教は異なる規範を持つ(それはその宗教が支持されている地域の地理的条件にも由来するだろうし、そのほかの要因にも由来するだろう)。それぞれの価値観と正義は、当然ながらやはりぶつかる。伝統ある宗教はそうやってぶつかったときにどうするか、と云う部分についても相応に鍛えられているだろう、と云う信頼感をぼくは持っているけれど、そのあたりには差異がある。仏教だのキリスト教だのと分けた場合でもそれぞれはかならずしも一枚岩ではないし、厳密にはその宗教を信仰する個々人間でも当然違いはある。

こう云うところまで考えると、せっかく信仰を得たことで自分の正義や価値観を疑い続けなければいけない状況から開放されたはずなのに、もといた宙ぶらりんな場所に差し戻しを喰らってしまう、みたいな状況に陥る。で、この状況からの絶対的な開放をもたらすのが、(あらゆる意味合いでの)原理主義、なのだと思う。
要は、自分を(あるいは、自分たちを)救うために、あえて選ばれた狭隘な価値観と一面的な正義感。

ぼく個人は、あらゆる原理主義を許容したくない。けれど、原理主義を選択する心理は理解できる(ここで、重ねて、理解ができても肯定はしない、と云っておかないと、これを揚げ足とみなす向きも登場するんだろうな)。グローバリゼーションの背景にある資本主義もまたひとつの価値観であるとしてそこに正義があるとすれば、それは経済活動をおこなう個別の各主体がサイコパスであることを許容する(そして法人が自然人をすりつぶすことを許容する)種類の正義であり、その正義感が単に圧倒的な力で他の価値観を蹂躙することによって覇権を達成していることを知っているから。

シリアでの空爆でひとを殺すこと。パリでのテロでひとを殺すこと。いずれか一方が、正義でありうるのか。
――ぼく自身は後者を非難する社会集団に属しているけれど、前者を肯定する価値観も持ってはいない。その宙ぶらりんの場所に立つことが、ぼくのせいぜいの誠実さなのかな、みたいに思う。
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技術開発者

こんにちは、poohさん。私も心の吐き出しに少しおつきあいさせてください。

 ここのところ、伝習録の「頭目を守るに手をもってする。頭目を愛し手をにくむに非ず。」という言葉ばかり考えています。頭や目に何か落ちかかってきたら、人は手で払いのけます。頭や目は大事だけど手はどうなっても良いと思ってするわけではありません。天然自然な反応として人はそうするだけのことです。
 伝習録のこの話は「禽獣を飼うに草木をもってする。禽獣を愛し草木をにくむにあらず。」と続き、「家に飢えた家族が居て食べ物をもって家路を急ぐときに路傍で食べ物を乞う人にあったら恵むことはできない。それは食べ物を乞う人をにくむからではない。」という話になります。
 
 分かりにくい話ですが、陽明学は別名が「心学」でして、人の心の働きをひたすらに考えます。我々の心には「近しいものを遠きものより大事と思う」働きがあります。家族は他人より愛おしいし、同じような言語・文化を持つ他人は違う言語・文化を持つ他人よりも大事に思う面があります。天然自然にあるわけです。と同時に天然自然にあるのだから、「人に共通してある」とも言える訳です。おそらく大事なのは、こういう「大事さの心の傾斜が万人に共通してある」という認識なのだろうと思う訳です。

ここに無理をかけてはならないのだろうと思います。「何人も等しく愛せ」は人の心に無理をかけるのかも知れません。家族への愛から路傍の人の乞いに応えられなかったら、「私はあなたより家族が大事なのです」で良いのです。そこに無理が生じて「等しく愛せない」ことに悩むなら「にくむ働き」が生じるのかもしれませんね。「あの路傍の人はきっと怠け者なのだろう」なんてね。立場が逆で自分が路傍で乞い、その路傍の人が家路を急ぐときに、その人の「家族への愛」が自分の乞いに叶えられないだろうとわかるなら、そこに「にくむ働き」は生まれてこない様にも思えるのです。

私もまとまらない話なのだけど、人はすべからく「大事さの心の傾斜」を持つという共通認識が失われる時に諍いは拡大していくのかもしれないと思ったりする訳です。
by 技術開発者 (2015-11-17 08:57) 

pooh

> 技術開発者さん

おひさしぶりです。

> おそらく大事なのは、こういう「大事さの心の傾斜が万人に共通してある」という認識なのだろうと思う訳です。

ここにつよく同感します。そうすると、あぁ、これも「基本仕様」論となるのかなぁ。

どうしてもエルネスト・ゲバラのことばが締め付けてくるのです。「世界のどこかでだれかがこうむっている不公正」について、ですね。
by pooh (2015-11-17 09:14) 

pooh

https://twitter.com/A_laragi/status/665528866535038976

このツイートに込められた思いはわかるし、同意しなくもないんだけど。

「付与される」と書いて、「誰が付与しているのか」については述べない。述べないまま、おのれ自身、もしくは自陣営のだれかでないことだけを示唆する(「付与する」ではなく「される」の用語を選ぶことで)。そうすると、「非倫理的」なのはおのれ自身(もしくは自陣営)ではない、と云うことになる。そうすると、自分自身は倫理の側に立てる、と云う構造になる。

もちろんこれは文字数の制限によってそうならざるを得なかった、と云うわけではなくて、そのような技巧を用いている、と云うことで(文系の研究者がそこまでうかつなわけがない)。ただ、こう云うレトリックを「非対称性への非難」が主題にあるはずの文章に用いるのは、極端な矛盾ではないのか。

結局のところ、こう云う技巧をおのれに許すスタンスが、このひとの行動全般に云える問題点なんだよなぁ。
by pooh (2015-11-17 19:39) 

技術開発者

こんにちは、poohさん。

>どうしてもエルネスト・ゲバラのことばが締め付けてくるのです。「世界のどこかでだれかがこうむっている不公正」について、ですね。

なんていうかな、私は「中庸を失いたくない」みたいな意識が染みついているのね。だから「不公正をにくむ」までは自分の心に許すけど、「不公正を行う者をにくむ」に成りたくないのです。

とんでもなくピントのハズれた話をすると、最近「とても杜撰な投資詐欺(およそ社会常識があれば引っかからない様な投資詐欺)」を巡って人と掲示板でやりとりをしたのね。そんな杜撰な詐欺の被害者と言うのは、レスすることさえ苦痛になるほど無知でもあるのね。でもって私は悪徳商法系では、すでに隠居の身だから「やってられないよ」と身を引いて見守っていた訳ね。

でね、熱心に被害者救済しようとしている人が「自分も被害者に同情する気にはなれない(あまりに社会人として幼稚なのでね)けど、そんな被害者にも心配する家族や友人がいるから」なんて言われて、私も「そうだね、馬鹿な詐欺犯にも心配する親がいるかもしれないね。刑事事件にして早く止めてあげる方が良いね」なんてね。

自爆テロなんかで思うのね、自爆した人にも「君、死に給うことなかれ」と祈る人がいるんだろうなんて思いね。おそらく報復の拡大みたいなことを止める最後の部分に、この「君、死に給うことなかれ」という想いがあると信じたいのです。

by 技術開発者 (2015-11-18 11:53) 

pooh

> 技術開発者さん

> 「不公正をにくむ」までは自分の心に許すけど、「不公正を行う者をにくむ」に成りたくない

これはだいじなことだと思います。思いますが、難しい。
状況としての不公正は、ある特定の個人が生み出すものではありません。ありませんが、その個人が集合した結果としてのある集団、が生み出すものではあるのですよね。
そしてまぁ、そこに相対する自分自身も、また個人で。

> 「君、死に給うことなかれ」という想い

もう、最後はそこに依拠するしかないような、それをそれこそ「信仰」するしかないような。
by pooh (2015-11-18 12:08) 

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