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自由な表現と責任 [よしなしごと]

タイトルがなんだか「でかい主語」系になってしまって、なんか自分でも嫌ったらしいなぁ、とか思うけど。
とまれビッグコミックスピリッツに掲載されている「美味しんぼ『福島の真実』編」の、最初の2回掲載分を読んだ。

この件については、OSATOさんが『鼻血「美味しんぼ」批判』に対する編集部コメントを見て思う事(追記あり)と云うエントリで触れている。OSATOさんはまず編集部の見識を問うスタンスで、ぼくはかならずしもそこに同調するものではないのだけれど、その話は措く。

最初にまとめ。
いま「美味しんぼ」に向けられている批判は、表現の自由とも、表現としての評価とも関係ない。
この件について、連載の中止や雑誌の廃刊を訴えるのは筋が悪い、と思う。逆に云うと、帰結をそこに求めることは、「表現の自由」の角度から「美味しんぼ」を擁護できるのではないかと考える連中の論点すり替えに資することになる。

ここで何度か書いているけれど、ぼくの個人的なスタンス。基本的に、表現は自由。そして、届く表現こそが、すぐれた表現だ。なので、その表現が誰かを傷つけようと、社会的な損失を生じさせようと、それだけの影響力を持った表現は、すぐれた表現だと思う(これはその表現そのものだけではなくて、表現がなされた場の力や、表現者自信の影響力などにも左右されるものだと思うけれど、そこまで含めて)。
このマンガは、大きな反響を得た(ここに双葉町福島県大阪市大阪府、そして環境庁の出した表明にリンクしておく)。ぼく個人の評価軸に照らせば、この時点で、このマンガのこのチャプターは表現として(ある角度からみれば)成功を収めた、と云ってもいいんだと思う。そして、そう云う種類の成功を目指すことも、「表現の自由」は含んでいる、と考える。
なので、今回の件で「『美味しんぼ』は打ち切られるべき」「ビッグコミックスピリッツは廃刊されるべき」的な言説には、ぼくは与しない(炎上商法は愉快ではないけれど、まずは乗せられる側の責任だろう)。

ただもちろん、表現の自由は、その表現された内容に対する批判からの免責、までを含むものではない。
内心でなにを考えようと、なにを信じようと、それは他者から干渉されるべきものではないだろう。ただ、それが「表現」されてしまえば、その表出されたものはもちろん個人のものとして自由にできる範疇にあるものではない(と云うか、「個人のもの」と云う範囲の外に出す行為を「表現する」と呼ぶのだけれど)。それは外部に、社会に向けて放たれたものであり、当然ながらそこに対してはさまざまな評価が向けられる。このことは、表現の自由とは関係がない
表現することは、自由。ただしそれは、その表現されたものが(さまざまな観点から見て)許容されるべきものである、と云うことを意味しない。表現の自由は、表現された内容そのものを聖別するわけではない。そして、その背景となる個人的な思想についても。

いろいろなことが、「真実」でありうる。それが非科学的であろうが、不合理であろうが、そのことを取り沙汰するのには限界がある(繰り返し書くけれど、ぼくたちは世界を呪術的に認識している)。そのひとの「真実」はあり、そのことそのものは(それがどれほど事実に反するものであるにしても)前提として尊重されるべきものだろう。
ただ、このエクスキューズは、なされた表現に対して適用されるべきものではない。

個人の「真実」は、個人の範疇を出ない。それを自分以外の他者にも「真実」として感じさせることがまた、多くの場合表現と云うものの目的でもあろう。そしてまた、表現の自由は、その目的や結果をも聖別するものではない。表現者は、おのれの「真実」の表現が及ぼす社会的影響に対して責任を負う。表現のもたらす影響は、表現の自由とも、その表現そのものの優劣とも独立して評価され、批判されるべきは批判される。
表現者たるもの、そのことには自覚的であるべきだろう。また周囲が(たとえば「表現の自由」を盾に)その批判から特定の表現者を免責しようとするのは、その表現者をむしろ貶める行為だと思う。そしてすくなくともこのチャプターは、書いたものの意図を読み手に不明瞭にしか伝えられないほど表現として失敗しているわけではない。地方自治体が抗議の声をあげるくらいには、成功した表現である、とは云えると思う。

早い話が、「反論は、最後の回まで,お待ち下さい」なんて甘えたことを吐かしてんじゃねぇぞ、いい年こいてたいがいキャリアも積むだけ積んで、表現者としての矜持と覚悟さえねぇのかよ恥を知れ雁屋哲、って話。
最終回が出たら、批判にちゃんと向き合うんだろうな。あんたに向けられている批判は、「表現の自由」を主張しようと、「内面の自由」を訴えようと、回避できる筋合いのものではないんだよ。
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nrt

そして平川センセイは今日も平常運転。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140512/k10014394061000.html

Twitter を見ても相変わらずレトリックを駆使して、アレゲな人たちに「寄り添って」いらっしゃるようですが、NHKもなんだってこんな人にコメントを求めたんでしょうね。他に幾らでも適切な人はいるはずなのに。


by nrt (2014-05-13 20:49) 

pooh

> nrtさん

まぁ優先順位が明確と云うか、あからさまと云うか、ですね。

> なんだってこんな人にコメントを求めたんでしょうね。

アカデミアに場所を持つ、と云うのは、そう云うことなんでしょう。
by pooh (2014-05-13 21:59) 

nrt

このコメントで平川氏がやっているのは、テロリズムの正当化に他ならないと思っています。

「政府や東電に不信感や不満や不安を感じている人たちがいる。そうした人たちのフラストレーションの捌け口となるデマを咎めてはならない。それは大衆への抑圧だ。それが現地の住民に与える苦痛や経済に与える損害は<しかたがない>。」ってんですから、雁屋哲のような扇動家 (アジテータあるいはデマゴーグ) には都合の良い援護者であることでしょう。

こういう人間が、コミュニケーションをその専門性として掲げてアカデミアに棲息しているというのは、ジョークにしても出来が悪いと思うのですが、現実というのはそう云うもの、なんですよね。
by nrt (2014-05-13 22:38) 

nrt

記事を読み返して気が付きました。上記の <しかたがない> は曲解が過ぎますね。取り消します。

ただ、それでも、『美味しんぼ』の「表現」がもたらす被害については、政府や東電への不信・不満と比較して <取るに足りないもの> と考えているであろう、という見解は変わりませんが。
by nrt (2014-05-13 22:43) 

pooh

> nrtさん

テロリズムの肯定、とまで云うと云いすぎ、と云うか、術中、と云う気がします。デマゴーグに一定の存在意義を認める言説、ではあると思いますが。

> <しかたがない>

このことばを直截には口にせず、それでもそれを主張する言説をなす、と云うのが平川氏の基本的な言説上のテクニックですよね。
by pooh (2014-05-14 05:06) 

nrt

今回の『美味しんぼ』の件に限らず、これまでの原発事故関連の類似のデマは、正義感や恐慌、陶酔、妄想などの発露・暴走の結果であり、思想的な背景はあれど、政府や東電に対して、「こういう情報を流されたくなかったら○○をせよ」といった要求を伴うものは、(少なくとも私の観測した範囲には) 見当たりませんでした。ところが、平川氏はそうしたデマを大衆のフラストレーションの発露であると「解釈」し、それを抑えるためには、彼らの要望に沿う形で対応することが重要だと「提言」することによって、発信者の意図なり目論見とは無関係に、それらの活動を「テロリズム」へと変質させてしまった、というのが彼のコメントに対する私の評価です。しかし、そうした状況の形成が確信的に為されていることを考ると、「術中」と云われれば、確かにその通りかも知れません。

彼の言論のスタイルは、震災直後に流布した「エア御用」という、匿名の悪意に満ちた、しかしそれ以上の意味はないレッテルを、「市民運動の中から澎湃と湧き起こった市民の異議申し立て」(黒猫亭さんの表現を拝借) と「解釈」してみせた「コミュニケーションに長じた」学者たちのそれとまったく同質のもの。彼らはこの三年余りの時間を経てもなお、自らの知見を世の中を良くする方向に役立てる方策も、またその動機も見出すことなく、自ら断絶を作り出し (あるいはその亀裂を広げ) ては、それに対する警鐘を鳴らすことで、一部の人達からの支持や共感を得るという手法を採り続けています。

そうした姿勢に対する個人的な憤りや嫌悪感が「テロリズム」という表現に表れてしまったかも知れません。感情に過分に流されることなく、精度の高い考察を行いたいとは常々思っているのですが、なかなかに難しいものですね。

by nrt (2014-05-15 23:00) 

pooh

> nrtさん

ちょっと本題とはずれる話になるかもしれませんが。

「テロリズム」と云う用語を使ったニュアンスはわかりますが、でもこのことばはたいへん意味が強いので要注意です。意味の強いことばは、不要で不適切なイメージまでを喚起してしまう。
おそれるべきは、そのイメージ喚起がその言葉を読むものだけではなく、使うもの自身にも影響することです。ぼくは過去のこの場での(多くは敵対的な)議論のなかで、強いことばを使おうとするあまり自分で自分のことばに酔ってしまって、発話者としてひどく悲惨なことになってしまった論者を複数見ています。

> 「市民運動の中から澎湃と湧き起こった市民の異議申し立て」(黒猫亭さんの表現を拝借) と「解釈」してみせた

ある種の「市民」を焚きつけて、主語を自分自身より大きくしてみせる、と云う技法は数多く見ましたね。しかも最終的にその正当性をアカデミアに依拠し、「これがわからないのは勉強が足りないせいだ」的なロジックを使うという。

> 自らの知見を世の中を良くする方向に役立てる方策も、またその動機も見出すことなく

見ている「よい世の中」が違うんですよね。で、それを自分が支持する「市民」にも、対立する「エア御用」にも隠している。
こう云う人物類型は多くの物語に登場していたようにも思います。
by pooh (2014-05-16 06:20) 

TAKA

 poohさん、こんにちは。
 ちなみに私の場合、ネット上で行われているニセ科学批判の活動のシーンにおいて、次のようなパターンは結構あるような気がしています。
 ・まずは、Aさんがニセ科学的な主張を披露する
 ・それを見たニセ科学批判者のBさんが、間違いを指摘する
 ・すると、第三者で傍観者の立場を名乗るCさんが現れて、Bさんを批判する
 ・Cさん曰く、「そのようなニセ科学批判をしてはいけない。たしかに、Aさんの主張は科学的に間違っている。しかし、それでもAさんの気持ちに寄り添って、寛容の心で受け止めるべきである」

 この場合、「ならば、CさんもBさんのニセ科学批判を寛容の心で受け止めるべきである」という反論を貰ってCさんの主張の説得力が低下するわけですが、実のところ、この世の中はCさんのスタンスを好評する人々が大半だと私は考えています。

 というわけで、poohさんにもCさんのスタンスをお勧めします。大衆の支持を得て、たちまちアルファブロガーに成れるはずです(^-^?
・・・・・
「私が発表した漫画の内容に対する批判は、最後の回までお待ちください」という問題について

 これについては、私もpoohさんの考えに近いです。
 読者からの批判に対して、「今は批判をしないでくれ」と述べるプロの表現者の姿を見るのは、今回が初めてです。
 プロの表現者の場合、読者からの批判の声を今後の表現活動の糧にするくらいの気持ちが必要だと私は考えています。
by TAKA (2014-05-17 22:33) 

pooh

> TAKAさん

ブログ開設後初のお越しですね。

Cさんのスタンスもまぁ、有用たりうるとは思うんですよ。ただ、もともとメタなスタンスなので、具体性のある言説につながりづらい(つなげる努力をする論者が少ない)ってのもあるんですかね。

> 「今は批判をしないでくれ」と述べるプロの表現者

威勢がいいようで腰抜け、って云うちょっと愉快な立ち位置ですよね。
by pooh (2014-05-18 06:08) 

技術開発者

こんにちは、poohさん。お久しぶりです。

最近は仕事場の労組の中で法律の勉強会を開いたりしています。恐ろしいことに、メンバーの中には特定社労士がいたり、法科大学院を出た人間までいる勉強会で主として私が法律説明をしているという、なんともはや、自分でも無茶をやっていると思います。

その経験でいうと、私なんかは時々怪しい説明をしてしまうことがあるんですね。なにせ、法学や法律論は独学だからね。でもって、ありがたいのはやはり法科大学院出のメンバーね。「おかしい」って批判してくれる。「ありがとう」と修正するんだけどね(笑)。

なんていうかな、結果を考えたときには、正しい批判ってものくらいありがたいものはないと思うんですよ、その時は多少面白くなくてもね。10年くらい前かな、九州の方で「##銀行がつぶれる」という情報を入手した人が自分の携帯に登録してあった24人にその情報を発信したことから、情報が広がって取り付け騒ぎになり、「風説業務妨害罪」で発信者が逮捕された事件を良く紹介するんだけどね。その24人の中に「デマかも知れないから、出した人たちに広げるなとメールしておけ」なんてアドバイスする人が含まれていたら、ひょっとすると、広がらずに逮捕もなかったかも知れないなんて考えたりするのね。つまり正しい批判が有効に働くことで本人も守られるのね。

最近、歳のせいか「禍福あざなえる縄の如し」なんてことを思いながら自分の人生を振り返ったりするんです(老け込み始めている)。その時はラッキーと思ったことが後で困りごとの原因となったり、その時は「まずい事になった」と思ったことが後で良い結果をもたらしたり、私のような平板な人生ですら思い出してみると結構あるものです。

by 技術開発者 (2014-05-21 15:23) 

pooh

> 技術開発者さん

ごぶさたしてます。

> 正しい批判が有効に働くことで本人も守られるのね。

これはほんとうにそう思うんですよ。取り返さなければいけない失地はできるだけ早く取り返すに越したことはなくて、適切な批判はその際になによりも有効な示唆をくれるものなんですよね。

今回、作者についてはおそらく正義への確信が、編集・出版サイドについては小手先で糊塗できると云う発想が、失地回復の機会を遺失させる結果になりました。一時的な話題性で伸びた販売と、(確実に一定人数いる)失望した読者を天秤にかけて、どちらが商売としておいしかったのか、そのへんはわかりませんが。
by pooh (2014-05-21 21:53) 

技術開発者

こんにちは、pooh さん。

>今回、作者についてはおそらく正義への確信が、編集・出版サイドについては小手先で糊塗できると云う発想が、失地回復の機会を遺失させる結果になりました。

編集部の見解(このPDFの最後のページ)
http://spi-net.jp/spi20140519/spi20140519.pdf

を読んでいて、なんか腹が立つというか、やりきれない思いが大きくなっちゃったので、少し書かせてください。私は労組の関係では労働安全衛生も担当するし、その中では「メンタルヘルス」も学ばなきゃならない、それも結構真剣に。時にはそういう問題の相談に乗らなきゃならない時もあるからね。本当はきちんと教えてくれるところに入学して勉強したいくらいだけど、そんな時間がとれないから、ひたすら本を買っての独学になるんだけどね。それでも、人間の心が不安にさいなまれる状態がどれほど辛いものかは分かるし、それはきちんと解決されなきゃならないものだという意識もできてくる。

私に言わせると、編集部は何がしたかったのか、何ができると思ったのか、ということね。その不安にさいなまれる状態を「解決」できるとでも思ったのかという視点で読んだ時に、「こいつら悪魔だ」としか言いようがなくて腹が立って仕方ないのね。その不安の増大に寄与することししなくせに、それがさも良いことをしたかのように思い上がっている姿に腹が立つのね。

なんかね、最近、学ぶことが辛くなることが多いのね。別にいろんな知識を蓄えて内容を理解することが辛いわけでは無いのね。それを人のために活かす道があまりないまま学び続けることが辛くなるのです。
by 技術開発者 (2014-06-03 16:38) 

pooh

> 技術開発者さん

> 編集部は何がしたかったのか、何ができると思ったのか

その部分、あいまいなんです。で、それも「業務上の都合」であいまいなんですよね。

> さも良いことをしたかのように思い上がっている

思い上がっているわけではないんじゃないでしょうかね。「良いことをした」と考えていることにしないといろいろとコレクトネスに問題が生じる、ってだけで。

> 人のために活かす道があまりない

できることはわずかで、って云うのには慣れてるつもりでも、まぁ辛いですよね。でもまぁこれは(いつものように)そう云うものだ、と思うしか。
by pooh (2014-06-04 06:04) 

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