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この地で [よしなしごと]

ぼくは血脈のひとつを長崎に持っている。小学生のころ広島にも2年住んでいた。
べつに自分でそうすべき、と思っているわけではないけれど、毎年この時期には、これらの土地にどうしても思いを馳せてしまう(そんでもってなにか書いてしまう)。まぁこれはどうでもいい、個人的な事情。

広島市と、長崎市。だれもが知っているとおり、このふたつの都市は70年近く前に、壊滅的な打撃を受けた。でも、どちらの街も復興を遂げて、多くのひとが住む地域の中核都市として蘇り、現在も機能している。
少しだけ、不思議に感じる。壊滅した都市のそのおなじ場所に、かつての姿を取り戻させさらに発展させていこうとそこに住むひとびとを駆り立てたものは、なんだったのだろう。

復興、と云うことば。かつてなんらかの打撃を受け、多くのものが失われたその土地に、以前の姿を取り戻させようとすること。まさにこの地に、かつて持っていた力を取り戻させようとすること。

三陸の復興の狼煙ポスタープロジェクトで示されたことば。前よりいい町にしてやる。

この地を。

ぼくはどちらかと云うと、地域に結び付けられることが少ない育ち方をしてきた。いくつかの街で、その街とそこに暮らすひとびとの持つある側面を愛し、ある側面を憎みながら育ってきた。仙台と云う都市との紐帯はみずから結んだもので、仙台がぼくを縛りつけるような状況があったわけじゃない。だから、ほんとうの意味では、そこになにがあるのかをわかっているわけではないのかもしれない。

それでも、都市と、地域とひとは結びつけられる。その地でひとはかたちづくられ、その地をひとはかたちづくる。なんと呼ぶべきものなのかはわからないけれど、ある重要な理由によって、ひとびとはその地を復興することを選び、動く。

繰り返すけれど、ぼくは地域との結びつきが本来薄い、どこでも生きていける人間だ。だから逆に、地域と結びついたひとたちを、その結びつきのありようを、外側から多く見てきた。
日頃は当人は意識していなくても、ある土地で生きることは、そのひとのありように、大きな要素として含まれる。かんたんに捨て去ることができないようなものとして。

復興、と云うことばについて考える機会があって。そこではじめて意識したのが、ある地を捨てるべき、と云うことを余人が口にする場合には、すくなからず注意が必要だ、と云うこと。そのことばを口にのぼらせることを可能にするものが(ぼく自身も抱えているような、そして自分ではその大きさが把握できないような)なんらかの欠落である、と云う可能性が高いのだから。
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技術開発者

こんにちは、poohさん。

>日頃は当人は意識していなくても、ある土地で生きることは、そのひとのありように、大きな要素として含まれる。かんたんに捨て去ることができないようなものとして。

まさに、その部分も人間の基本仕様なんだと思います。別なところでコミニケーションについてpoohさんが書かれて居たときに、コメントしようかと思ってしなかった事の一つが「コミナス」というラテン語です。意味は「共有」です。ここから知識・経験を共有するコミニケーションや、一定の土地や空間を共有した集団としてのコミニティなんて言葉ができるわけです。人はその基本仕様として「コミナス」を求める様にできている。それが基本仕様だから何か共有した後、それを捨て去ることには苦痛が伴う様にできてしまっている訳です。

私なんかも田舎で育ち、そこを出て都市部に生活拠点を築いて生きてきた人間です。気が付けば田舎で育った期間よりも都市部で生きてきた期間の方がながくなってしまいました。笑い話の様な話をすると自分が今の土地の人間となったことを感じたのは、甲子園で自分の育った県の高校と、今の県の高校の対戦を見ているときに、今居る県の方を応援していることに気が付いた時でしたね(笑)。

>そこではじめて意識したのが、ある地を捨てるべき、と云うことを余人が口にする場合には、すくなからず注意が必要だ、と云うこと

この自分が今居る土地に何らかの「コミナス」を持っているというのは、或る意味基本仕様であるが故に「意識されない(されにくい)」ものだろうと思います。「この地域から出て行くべきかどうか」を現実問題として認識したときに初めて直面する苦痛というのが、おそらくそこにはあるのだと思います。そして、その苦痛に直面してもいない者は無頓着に「ある地を捨てるべき」と口にすることができる。

by 技術開発者 (2012-08-15 10:09) 

pooh

> 技術開発者さん

ぼくは都市の人間で、さらに基本的には港町の人間です。なのでぼくの根本にあるコミュニティについての感覚は、ある程度明示的に「ひとの築いたもの」なんです。そこに属すること、離れることがどんなことを意味するのか、が、成員によってそれなりに意識化されている。コミュニティに入ること、そこから離れることが生む感情の正体を、みんなそれなりに知っている。

そう云う育ちの人間がほかの土地に行くと、その土地とそこに住むひとたちの、なんて云うか当然の前提としての結びつき、みたいなものを目にして驚いたりするんです。そこにまつわる愛憎みたいなものを、ぼくは自分のなかの不可欠な要素としては持ち合わせていない。

逆にだから、安直に云うのは難しいんです。
すでにそのひとの要素になっている、土地に関連して共有しているものを、外部の人間がどんなふうに評価できるのか。その評価はなにに照らして正当性を確認することができるのか。そのことを考えずに口にのぼらせる恐ろしさ、みたいなものはあるはずなんだけどな、みたいに思ったりします。
by pooh (2012-08-15 10:25) 

技術開発者

こんにちは、poohさん。

前にコミニケーションの話をしたときに「贅沢なコミニケーション」みたいな事を書いたのを覚えていますか?。ロビンソン・クルーソーは「この情報をうまく相手に伝えたい」なんて贅沢な望みは持たずに、「なんでも良いから話相手が欲しかったんだろう」なんてね。

似たような面があると思うんですよ、人は必ず集団に帰属したがり孤立無縁であることを喜ばない。この部分の欲求は基本仕様としてとてもファンダメンタルに共通性があるから、人が一つの土地に集まると比較的速やかに充足される。つまり土地と結びついたコミニティ形成の欲求の基本部分は比較的努力なしに形成されるから、逆に意識されない訳です。でもって、この根元の部分が充足されると「贅沢なコミニティ欲求」の部分が始まる。ロビンソン・クルーソーで言うと話相手が居るのが当然に成ったときから、「良いコミニケーション」を求める動きが始まるみたいに、根底にある意識されないコミニティが自然成立したときから「良いコミニティ」あるいは「強く結びついたコミニティ」を模索し始める訳ね。そしてその動きは意識される。我々の様な「根無し草」は、その意識されるコミニティ欲求の部分では入り込みきれなかったりするんだけど、根元にある意識されないコミニティの部分ではたいていすっと入り込んでいる。

そしてその土地を捨てるとか復興させるみたいな話になったときに、初めてこの意識されなかった根元欲求としての土地に結びついたコミニティ欲求を意識するようになるのかも知れないと思ったりします。

by 技術開発者 (2012-08-15 17:56) 

pooh

> 技術開発者さん

なんか、アノニムなコンテキスト、ってのがあったりするんだろうな、と思ったりするんですよ。自分のなかにはないので、ちょっと想像が入ってくるんですが。
で、それはその外にいる人間は相応に尊重しなきゃいけないんじゃないかな、みたいに思うわけです。外にいて理解できないからとりあえず無視、みたいなスタンスではなくて。外にいる人間からすると、なんだか重ったるいようなものに見えたりもするんですけど、それが重要な場合も(意外と多々)あるんですよね。
by pooh (2012-08-15 21:30) 

技術開発者

こんにちは、poohさん。

>なんか、アノニムなコンテキスト、ってのがあったりするんだろうな、と思ったりするんですよ。

考えを深める役に立つかどうかはわからないけど、少し陽明学の話でもしますね。陽明学では「天然自然な情」みたいなものをけっこう重視するんですね。そして、そこになんていうか人工的な「この情はなんだ」みたいなものが入ると心の正しい動きが妨げられると考えたりもするんですね。

「頭目をかばうに手をもってする。頭目を愛し手を悪むに非ず」なんてね(笑)。頭や目になにか落ちてくれば自然と手でかばうけど、それは「頭や目の方が手より大事だ」とか考えた結果じゃない訳です。この話は、食べ物を持って家に帰る途中で物乞いに逢っても家でその食べ物を待つ家人がいるなら分けてあげることはできないよ、なんて話になっていくんだけどね。なんて言うか、人間の情に天然自然な濃淡というのは考えることなく存在している訳です。その部分については素直に従えば良くて、そこで変に理屈をこね始めると、おかしくなるんですね。この情の濃淡は長く暮らした土地と、そうじゃあない土地の間にも自然に生じるものだろうと思います。陽明学というのは、こういう天然自然な情に関しては素直に受け入れ、そこに変な理屈をこねないことを勧める面があるのね。

そしてね、こういう天然自然の情の濃淡に関して素直になると、逆に相互理解がしやすくなるんですね。なぜなら、それは人間に共通して備わっている天然自然なものだからね。私が「人間の基本仕様」ということを考えるときも、実はこの考え方がベースにあるんです。人間に共通する仕様を互いに素直に理解するなら「思いを馳せる」やり易いかもしれない、なんてね。

by 技術開発者 (2012-08-16 10:07) 

pooh

> 技術開発者さん

難しいところで、このへんの話で理屈をこねるのは、共有化して共通認識を得ようとするための試みでもあって。情に対する素直な理解、と云うのは、往々にして個々人で内実が相違していたりもするので、そこに掉さしてなにかを論じるのにはどうしてもあやしい部分が残るわけなので。
基本仕様、と云っても、そこを暗黙のままに残して当然の前提としてなにかを論じるのって、危ういじゃないですか。そう云う話でもまたあるかな、と。
by pooh (2012-08-16 12:13) 

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