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The Girl (Just) Doesn't Wanna Lie. [音楽あれこれ]

NHK「かぶん」ブログのシンディー・ローパー記者会見 at日本外国特派員協会:全文掲載ですと云う記事を読んだ。

もし私が帰ったとしたら、True Colorsで歌っていることと矛盾してしまうとも思った。True Colorsが癒しの歌だったといっても、もし、私がちょっとでも「コワイ」と感じた段階で、すぐにしっぽを巻いて逃げるようであったら、そんなのはウソだと思ったの。
これは、True Colorsがこんな歌詞を持ったうた、だから。
世界があなたをどうにかしちゃって
あなたを支えるものがみんな奪われちゃったんだったら
電話をちょうだい
あたしがいっしょにいる
True Colors(Steinberg/Kelly/Lauper)
特段ややこしいことじゃない。彼女は彼女自身が平時にいつも自分の表現を介して伝えようとしていることにしたがって、有事の自分の行動を決めただけ。「いっしょにいる」ことを選んだ、だけ。
もちろん、そのようにありうることは、それだけで敬服にあたいすること。それをロックンロールと呼ぼうが、呼ぶまいが(そして個人的には、そう呼ぶことに対する抵抗感は薄れつつある。山口隆的な意味で)。

こちらのコメント欄で触れた菊地成孔の日記が、サイトのリニューアルにともなって新サイトの日記の過去分に移設されている。2011年4月10日の日記。
「普段通りの音楽を続けるのが一番のメッセージである」「平時から、芸術というものは、有事の備えになっているべき」
すぐれた表現はかならずしも表現者の姿勢によって生み出されるものではないけれど、表現者の真摯さがそのなす表現にまったく反映されない、と云うこともないだろう。そしてすぐれた表現は、その表現者(およびなされた表現に触れるものたち)のふるまいに影響をおよぼすもの、だと思う。これもまた、当然のこと、ではあるけれど。
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nobunobu

こんにちは
久しぶりにコメントを入れさせて頂きます。

「普段通りの音楽を続けるのが一番のメッセージである」
”普段のあり方”を問う重い言葉であると思います。

さまざまなかたちで行われている「チャリティコンサート」について、考え続けています。

阪神大震災では被災者の一人でもありました。昨年は、東日本大震災の被災者のためのチャリティコンサートに演奏者としても、聴衆としても参加しました。

義捐金がたくさん集まって、少しでも被災者の助けになる、皆で「頑張ろう」という気持ちや、「応援しているよ」という気持ちを共有することができる、それは確かに「善いこと」であるはずなのです。けれども、チャリティを受け取る被災者、コンサートの主催者、演奏で参加する者、聴衆として参加する者、どの立場で参加するときにも、なにかうまく説明できないほんの少しの「違和感」があるのです。

その「違和感」は、罪悪感に似ているかもしれません。
「出来ることをしよう」と言いながら、「出来ることのベストはこれなのか?」という疑問、支援したい人が受け取るものと、自分が得る満足と、どちらが大きいのか、と問われたときに圧倒的に後者ではないのか?という疑問。

もっと嫌な言い方をすれば、「他人の不幸をネタにして、自慰にふけって、チャリティという言葉をエクスキューズにしているのではないか」という罪悪感。それを、あろうことか、自分が大切にしているはずの「音楽」で?という自己嫌悪。

演奏での参加に関して言えば、自分自身がプロの演奏家でない(他に定職をもちつつ演奏している)という劣等感も自覚しているだけに、その違和感の正体について、なかなか答えを出すことが出来ずにいます。そのような罪悪感を持ってしまうということが、そもそも演奏でチャリティを行う資格はないという証左でありましょう。

それでも、有名な演奏家のチャリティコンサートを伝えるニュースを見るときにも、その違和感はついてまわります。それが単なる僻みではないのか、と自問することもありますし、嬉々としてインタビューに答える姿などを見ると「やっぱり何かが違う」・・・と感じたり。とにかく何かしよう、という気持ちで取り組んでおられるのだから、そのような「違和感」はなかったことにするべきなのだろうか?と考えたり。

ずっと揺れ続けています。

それは「普段のあり方」にどれだけの矜持があるか、ということを問われている、ということなのかもしれません。

シンディ・ローパーさんが、体育館のような場所で、手拍子を伴奏に唄う姿は、私にとっては、「全く違和感のない音楽でのチャリティの姿」を見せてくれるものであり、同時に考え続けている「違和感」の正体について、一つのヒントをくれるものでした。

まとまりのないコメント、失礼いたしました。
by nobunobu (2012-03-18 11:45) 

pooh

> nobunobuさん

いろいろと、細かく考えていくとシンプルな答えのない種類のお話だとは思いますけど。

「できること」をしようと思ったときに、「できること」のベストをすべきだ、と云うことはないのだと思います。
またすべての善意は、原則としてそのひと自身のために発露されるものです。チャリティ的な行為がそもそも他人の不幸をねたにするようなものである、と云うのは前提で、そこを咎めるような行為は単なる勘違いです。
で、自分のためにおこなうことだからと云って、チャリティ的な行為の意義が薄れたりするようなことがあるかと云うと、そう云うこともないはずだ、とか思います。

なんと云うか、感じていらっしゃるような違和感は(たぶん多くのひとに共有されているようなものだと思いますが)そう云う意味ではとても大事なものなのかも、とか思ったりします。その違和感を抱いていらっしゃるうちは、たぶん善意の、チャリティの名のもとになにかしらを免責する、と云うような発想にはつながっていかないでしょうから。

そしてこの1年、ぼくにとって音楽はとても大事なものでありつづけました。いや、ずっとそうだったつもりだったのですが、それまでとは違う意味で。

シンディが彼女自身であろうとするためには、うたうしか方法がないのだと思います。その意味でピュアではありますが、感服すべきなのはその自覚と行動の軸の一致、なのだと思います。
by pooh (2012-03-18 13:30) 

nobunobu

poohさん

お返事ありがとうございました。

もちろん誰かを「咎める」ような気持ちは毛頭ありません。あくまでも自分の内面の違和感、葛藤です。

コメントしてからまた考えていたのですが、参加者の気持ちが「あまりにも」ひつとになりすぎて、感極まってしまうような雰囲気(実際に何度か体感した)に対する恐れ、のようなものもあるのかもしれないな・・・と。なにかしらネガティブな側面を無理やりにでも見ようとしてしまう、ということがあるかもしれません。

けれど、ぐるぐると考えあぐねるあまりに動きが止まってしまうのでは、結局何も出来ませんね。皆さんきっと様々な思いを抱きつつ、それをまるごと引き受けて「何かできること」をしていらっしゃるのでしょうから。

コメントを入れさせていただいて、お返事もいただいて、なんだか少し心が軽くなりました。

どんな形であれ、音楽を演奏したり、聴いたりすることが喜びであるならば、それを他人と共有することは素晴らしい体験であるし、それが何らかのチャリティに結びつくのなら、くよくよと罪悪感に駆られる必要はないのかもしれません。

次に、チャリティコンサートに参加する機会があったら、もう少し気楽に(気楽に・・・というところに罪悪感を持ってしまうのがどうもいけません。)参加できそうな気がしています。

お悩み相談のようになってしまって申し訳ありません。
ありがとうございました。


by nobunobu (2012-03-19 19:33) 

pooh

> nobunobuさん

> 参加者の気持ちが「あまりにも」ひつとになりすぎて、感極まってしまうような雰囲気

これは音楽と云う表現形態のすぐれた点でもあるし、またある種警戒すべき特質でもある、と思います。

で、ジャズ(nobunobuさんはジャズプレイヤーだったと記憶しています)には、ちょっとその部分と相反する要素がつよく内包されていたりするじゃないですか。プレイヤー同士のせめぎあい、みたいな。ぼくはジャズプレイヤーじゃないのであまり偉そうなことは云えませんが、協調と競いあいの両方の要素が昇華されてたどり着いたある一点、と云うのが、良質なジャズの居場所なんじゃないか、みたいに思ったりします。
そうすると、たぶんですね、nobunobuさんの違和感とか、過剰な一体感に対する疑問みたいなものは、演奏を通じて問うこともできたりするし、ジャズの場合はそれが最終的に全体として素敵な演奏に結びつく、と云うこともありえなくはない、って理屈になると思うんですよ。
そんなふうに、迷いや違和感さえも演奏でぶつけることができるのがジャズだったりするかもしれない、とか考えると、わくわくできませんかね?

# いや、こう云うのってジャズへの入り口がモンクだった、へんなリスナーの勘違いなのかもしれないんですけどね。
by pooh (2012-03-19 21:00) 

pooh

ひょっとするとnobunobuさんにとって参考になるのは、本文中でリンクした菊地成孔の4月の日記の別の部分のほうかもしれない、なんて思ったり。軽くだけど、コンサートの受付で募金を集めることについて菊地さんがどんなふうに考えているかとか、ぼくらが「音楽を必要とする」生き物であると云うのがどう云うことか、とかが書かれているので。
by pooh (2012-03-20 08:12) 

nobunobu

poohさん

わたしは「うたうたい」ですので、実のところ自分の中では、音楽のジャンルは「うた」と「それ以外」の2種類しかないのですが、ジャズの演奏家とご一緒させていたくときには、たしかに「バトル」という言葉がよく思い浮かぶのです。競争とか喧嘩というのではなくて、そうですね、恋愛がどうしてもバトルの要素を含んでしまうことと似ているかな、と考えてます。(自分の体験に根ざすものなので、他の人に伝わる比喩なのかどうかは自信がありませんが)

poohさんのご指摘で「だから自分はジャズが好きなのかなあ」と思い当たるところがありました。


菊地成孔さんの、日記、読みました。

>とにかく我々は、いつもの通りの楽曲を、いつもの通りに演奏する事を心がけました。


「参加者の気持ちが”あまりにも”ひつとになりすぎて、感極まってしまうような雰囲気」

というのが、たとえば、被災者へのシンパシーとか、歌詞の内容とか、演者の語りとか、哀愁を感じさせるメロディとか、そのようなものに負っているとき、おそらく自分は恐怖に近い居心地の悪さを感じてしまうのでしょう。(それに引き込まれてしまう恐怖、逆に、実はものすごく心地いいと感じている、ということも言えます。)そしてチャリティの場合には、その状況で浄財が集まることへ違和感が生じてしまうのかもしれません。


>ヒモの集金ならばまだよし、他ならぬお客様から、料金以上の集金するという事の意味が、ワタシには実際の所、まだよく解りません。

こういいながらも、募金をした菊地成孔さんが感じておられる悲しみが、

>こうした、ともすれば楽しくさえあることが、二度と必要ない世の中になりますよう。

という言葉に凝縮されているように感じました。それは、チャリティに対する思いがどうであったか、実際にどのような形にしたか、とは全く別次元の、被災者の悲しみに寄り添う「悲しみ」だと思います。

>我々は王侯の身ではない。誇り高き市民なのです。生活を、個々人が可能な限り豊かに、変わりなく繰り返して行く、こうした状況下での市民としての最大の努めは、そこにあります。いつか来るこの日の為に、日々の暮らしが、精神的に、美的に、宗教的に、科学的に、もうとっくに備えてある。あらゆる事が、実は最初から備えになっている。このことの豊かさが総ての市民に問われています。

心に刻みたい言葉でした。
by nobunobu (2012-03-20 12:10) 

pooh

> nobunobuさん

あぁ、nobunobuさんはヴォーカリストでいらっしゃいましたか。そうすると、ことばを持っているぶん、ちょっと意味合いの違う部分が出てしまいますね。
どうなんだろうなぁ。たとえばぼくは、それがどのような状況でだれによるものであれ、ジョン以外の人間によってうたわれる"Imagine"に(そしてそこに付与される意味づけに)つねに違和感を感じます。それと同じようなことなんでしょうかね。的外れだったらごめんなさい。

> 被災者へのシンパシーとか、歌詞の内容とか、演者の語りとか、哀愁を感じさせるメロディとか、そのようなものに負っているとき、おそらく自分は恐怖に近い居心地の悪さを感じてしまう

この感じ、わかるように思います。音楽がそう云う力を持っていればこその、なにがなしの嫌悪感、みたいな。

ぼくがここのところいれこんでいる某ガールズバンドがありまして。世間ではなかば以上アイドル扱いを受けているような、そう云うタイプのバンドなんですけど。
で、彼女たちが去年の5月にツアーでやってきたときに、セットリストに一曲もバラードを入れない、と云う選択をしたんですね。これは、涙を誘うこと、悲しみにそのまま寄り添うことは自分たちの任ではない、と云う、表現者としてのそれなりに強靭な自覚にもとづく選択だったのだろう、と感じたりしました。

引用された菊地さんのことばは、大衆芸術家として、「芸人」としての、つよい矜持の発露、のように読めます。ぼく個人としては、それは音楽によって醸成される一体感よりも、信を置くにふさわしいもののように感じられたりします。
by pooh (2012-03-20 16:27) 

nobunobu

>poohさん

「菊池さん」でなくて「菊地さん」でしたね。失礼しました。

ご存知だろうと思いますが、ビリー・ホリデイが自作して唄った曲に、 "Strange Fluit(奇妙な果実)" があります。黒人差別が特に激しかった南部で、白人たちにリンチされ、殺されて木に吊るされている黒人のことをうたっています。とても有名な曲ですが、レコーディングする歌手も、ライブでうたう歌手も(皆無ではないものの)めったにいません。あまりにも歌詞が暗く、生々しく、実際に目にしてもいない者、すさまじい差別を体験していない者が、軽々にうたうことができないのだ、と理解しています。

たとえば、「差別はやめよう」という広く一般化したスローガンの下に、この曲を皆で口ずさむ、なんていうことはちょっと考えにくいですね。躊躇させる何かがあるはずです。それは、歌詞の生々しさ、というだけではなくて、「奇妙な果実」で描写された人間や、その光景を見て唄を作ったビリー・ホリディへの配慮というか、それが「尊重する」、ということだと思うのです。あまりにその躊躇が大きすぎる、という点で「うた」としてどうなのか、という問題はあると思いますし、わかりやすい言葉で、普遍的な歌詞でを持つ "Imagine" に対して"Strange Fluit"はちょっと極端な例で、曲の扱われ方についての比較にはならないかもしれませんが、どうも、「頑張ろう」というような前向きで、かつ個人の顔が見えないスローガンになると、「尊重する」ということが少々おろそかになってしまう、ということはあるのかなあ、と思います。


>ジョン以外の人間によってうたわれる"Imagine"につねに違和感を感じます。

というのはそういうことをおっしゃっているのでしょうか?

わたしにとってはとても耳が痛い言葉です。

昨年、内輪の催しでしたが、「復興祈念ライブ」があり、断れない状況下で "Imagine" をうたったのでした。うたうことを求めた主催者も、共演者も、そして聴いてくれた人たちも、心から復興を祈念している、ということには疑いはないのですが、まさに

”音楽によって醸成される一体感”

を目的としてうたう、というのがとても嫌で、うたったことのない曲でしたから時間をかけて練習もし、大切にうたったつもりですが、結局やり場のない「罪悪感」が残りました。本当に被災者の方がその場にいたら、恥ずかしさの余りとうてい唄うことはできなかったであろうことを、平気でやってしまった、ということです。

という”誇り高き市民”とは対極の話は、それとして・・・。


一方では

音源を後に残すことが出来るようになってもう久しいとはいえ、音楽はやっぱりそのときだけで消え逝くもの。素晴らしい「うた」があるけれどそれが口ずさまれないのは不幸なことであると思います。
poohさんが、聴いても違和感のない、"Imagine" (ジョン以外のうたう)がずっとうたい継がれていくといいな、と思っています。


by nobunobu (2012-03-21 20:47) 

pooh

> nobunobuさん

たとえばいまの日本の歌手で、"Strange Fruit" をうたう意義を持っているひと、リアリティを持ってうたいうるひと、はたぶんいないですよね。これはしかたがない。

微妙な話なんですが、"Imagine"については、どちんぴらロックンローラーであるジョンがうたうゆえの意義、と云う部分が、だれがうたってもおおむね脱臭されてしまう。
だから、ぼくが唯一同質の価値をいくらかでも感じるのは、同じくらいどちんぴらであるニール・ヤングによるカヴァーだけです。
http://www.youtube.com/watch?v=Z3T8xr274q8
もっとも、これは個人的な遠近、と云うような話に過ぎないかもしれませんね。

ここは微妙にガムランをテーマとするブログでもあるのですが、バリガムランと云う音楽は"音楽による一体感"の素晴らしさと空恐ろしさを同時に、強烈に感じさせてくれるジャンルだったりもします。
いずれそれは音楽の持つひとつの顔ではあるのですが、そこには意識的でいたいな、と思っています。まぁぼくは、いまはプレイヤーではないんですけどね。
by pooh (2012-03-21 21:56) 

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