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コミュニケーション・マネジメント [よしなしごと]

コミュニケーション、と云うことばの意味はまぁ、相互に情報を提供しあい、受け取りあうこと、と云うことでそうは外れてはいないのだと思う。ただまぁ、そこにはそのコミュニケーションの目的、と云うのもたぶんあって。

なんとなく素朴に、コミュニケーションは相互理解、あるいは認識の共有のための営為である、みたいに考えてしまう。
おなじように考えているひとも多いと思うんだけど、でも例えば営利企業の人間が自社社員に向けてコミュニケーション能力と云うことばを口にする時に、そのことばは相互理解や認識の共有のための能力、なんて云うものを意味しない。それは対話の外形を取りながら、自社の事業に優位な結論を、相手に反論の余地を与えない(望ましくは反論すべき必要を感じさせない)かたちで導き出す能力のことだ。そんなところに、素朴なWin-Win的な発想が入り込む余地はない。概念的には、たぶん芦屋広太が書いているような「ヒューマン・マネジメント」の能力に近いもの、になるのだろう。まぁポルノを「アダルト向け」と称するような話なんだけどね。
そのへんを考えると、なんとなく不思議だった「科学コミュニケーション」の近辺にいる一部のひとたちのスタンスが、理解できる気がする。

少し前に「エア御用」と云う用語についていくつかエントリを書いた。それらはそこそこ読まれたようなんだけれど、じっさいにこのことばが使われることの意義を主張するひとたちからの反応はおおむね冷笑と罵倒、黙殺に分類できるようなものばかりだった。大枠でコミュニケーション、と云うものに関する話をしているはずなのに、だれもかれも「馬鹿は黙れ」。
このあたり例によって自分の愚鈍さと素朴さを認めることになるんだけど(毎度の話、恥知らずでごめんなさい)、要は彼らにとってコミュニケーションと云うのは、目的に向けてマネジメントすべきものなんだ、と考えると理解できる。ある種の当事者たちにとっての「科学コミュニケーション」の目的は、例えば科学の持ちうる意義や適切な用い方をおおやけに共有するところなんかにはないわけだ。「エア御用」と云うことばの用いられかたに対する異論なんて云うものは、その目的に照らすと嘲笑を浴びせて「馬鹿のたわごと」として無効化するのが適切であって、そこにコミュニケーションのリソースを費やすよりは、現在ネット上でそのことばを使いたがっているひとたち(たぶん彼ら定義の「市民」)をエンパワメントするほうが、その目的にはかなっている、と云うわけ。おそらく、少なくとも一部のSTS研究者やその周辺にとっては。
たしかにまぁそのへんは、自然科学のディシプリンにはないだろうなぁ。あったら、自然科学なんて信を置くに値しない、って話になるもんなぁ。

じゃあその目的はなにか、と云うのはあまりはっきりわからないのだけれど(ここで憶測を述べる気もないけれどね)。目的を(馬鹿にでもわかる水準で)あきらかにしないのも、彼らの「コミュニケーション」マネジメントの技法の一部なんだろうな、とも思う。……みたいなことを、こちらのはてなブックマークを読んで思ったりしたのだった。
ただまぁ彼らがことあるごとに寄ってたかってほのめかしていた「人文系の教養」とか云うのが、どうやらそう云う他者操作的な手法に用いるための代物のことを指していたらしい、と云うのはちょっとびっくりしたけどね(とか書くとまた馬鹿って云われるんだろうなぁ。几帳面に教えてくれなくても自覚してます)。
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北風Mk-2

 別のところにも書きましたが、何かの目的があってその手段として適切な「コミュニケーション」が用いられる、とする方がモデルとして単純かとも思います。
 ある人と友達になりたいという目的に対して用いられる適切な「コミュニケーション」は、素朴なイメージ通りになるのでしょう。
 表現は悪いですが、言葉も通じない「野蛮人」と交易する場合に用いられる「コミュニケーション」は銃などの暴力を背景になされるものかもしれない(歴史からみて)
 歴史的にみれば、身分差や差別などがある場合の「コミュニケーション」もあったわけですし。
 手法がスマートでないということは「コミュニケーション」のなんというか良し悪しとは関係がなく、例として適切かどうかはありますが三重苦のヘレンケラーとサリバンとの「コミュニケーション」はなんというかスマートではありえなかったわけですが、良し悪しや意義でいえば・・・。

>「科学コミュニケーション」の目的は、例えば科学の持ちうる意義や適切な用い方をおおやけに共有するところなんかにはないわけだ。

 目的がそういうところにないから、そういう対応をしている、ということなんでしょうね。

>おなじように考えているひとも多いと思うんだけど、でも例えば営利企業の人間が自社社員に向けてコミュニケーション能力と云うことばを口にする時に、そのことばは相互理解や認識の共有のための能力、なんて云うものを意味しない。それは対話の外形を取りながら、自社の事業に優位な結論を、相手に反論の余地を与えない(望ましくは反論すべき必要を感じさせない)かたちで導き出す能力のことだ。そんなところに、素朴なWin-Win的な発想が入り込む余地はない。

相互理解や認識の共有のための能力も意味しますよ。
社内向けの例えば「上司」への報告なんかに必要な「コミュニケーション能力」をイメージ頂ければ。
「それは対話の外形を取りながら、自社の事業に優位な結論を、相手に反論の余地を与えない(望ましくは反論すべき必要を感じさせない)かたちで導き出す能力のこと」も難しいところです。
「それは対話の外形を取りながら、自社の事業に優位な結論を、【相手に導き出させる】能力のこと」になるのかなあ。
見解の一致や納得は必ずしもなしえない。せいぜいお互いの合意(両者あるいは一方の譲歩による)が求めえることですから、相手にもその結論(合意)に至ってもらう必要があります。
極端な話、脅迫などしても、相手が首を縦にふらなかったら「目的は達成されない」わけです。「これでしょうがない」であれ、相手が結論を導きだせるようにする、ということになるのかと。
蛇足ですが、Win-Winは両者に共有される必要はないです。極端な話、両者が「この条件は俺にとって得だ、馬鹿な奴め」と考えて合意に至っても、Win-Winです。(だから、素朴な、と書いておられるのかもしれませんが)
by 北風Mk-2 (2011-11-28 21:23) 

pooh

> 北風Mk-2さん

> 目的がそういうところにないから、そういう対応をしている

そう考えると、いろいろとなんか腑に落ちるんですよね。

> 相互理解や認識の共有のための能力も意味しますよ。

いやそりゃもちろん、そう云う場合もありますよ。ただそう云うのが達者な人材を「コミュニケーション能力がある」と評することはまれでしょう。

> 極端な話、脅迫などしても、相手が首を縦にふらなかったら「目的は達成されない」わけです。

この場合、考え方がたぶんふたつあるんです。なんとかして相手の首を縦に振らせるよう工夫するか、あるいは首を縦に振る相手を選ぶか。
コミュニケーションのエキスパート、と云った場合に、ぼくみたいな素朴な人間は前者の努力を期待したりするわけです。でもまぁ、後者の選択肢もある。

> 両者が「この条件は俺にとって得だ、馬鹿な奴め」と考えて合意に至っても、Win-Winです。

アカデミアにおけるコミュニケーション、と云うものがその程度か、みたいに考えるとちょいと暗澹たる気分になりますけどね。
by pooh (2011-11-28 21:50) 

北風Mk-2

>>相互理解や認識の共有のための能力も意味しますよ。
>いやそりゃもちろん、そう云う場合もありますよ。ただそう云うのが達者な人材を「コミュニケーション能力がある」と評することはまれでしょう。

まあ、それをいうと人材を「コミュニケーション能力がある」と評することが稀です。
何かの目的があってその手段として適切な「コミュニケーション」が用いられ、目的に対して成果を上げている場合、そちらで評価される。

営業のために「適切なコミュニケーション」を使って成果をあげている人材は、営業の達人としての評価で、「コミュニケーション能力がある」とは言わないですね。
企業でいう「コミュ二ケーション」として交渉で成果をあげているのであれば、「交渉が上手い」ですし。
あるいは、「人当たりがいい」「気さくだ」とか「コミュニケーションの結果」で評される。
異文化というか例えば、外国人と親しく出来たりする場合、「コミュニケーション能力がある」と言われるかもしれませんが、その場合、「そのことばは相互理解や認識の共有のための能力」、なんて云うものに近い意味合いのような気がします。

>> 極端な話、脅迫などしても、相手が首を縦にふらなかったら「目的は達成されない」わけです。
>この場合、考え方がたぶんふたつあるんです。なんとかして相手の首を縦に振らせるよう工夫するか、あるいは首を縦に振る相手を選ぶか。
コミュニケーションのエキスパート、と云った場合に、ぼくみたいな素朴な人間は前者の努力を期待したりするわけです。でもまぁ、後者の選択肢もある。

これは、何かの目的があってその手段として「コミュニケーション」が用いられ、【目的に対して成果を上げている場合】がいろいろあるということではないかと、2つじゃなくていろいろと。
成果を上げているということは、必ずしもコミュ二ケーションのエキスパートを意味しないのですね、目的達成のエキスパートであっても。
なんかこの2つが混同されているような気もします。

「適切なコミュニケーションを用いて」いわゆるいい意味での工夫を意味しますが、それで成果をあげた場合は、まあ、コミュ二ケーションのエキスパートといってもいいのかもしれませんが、例えば、売上をのばした場合は、いいセールスマン(目的達成のエキスパート)とかの評価になるでしょうね。
「適切な」といっても、ある意味、フェアじゃない工夫(エントリに書かれた営利企業のような)で成果をあげた場合であっても、コミュ二ケーションのエキスパートといえなくもないのかもしれませんが、これも達成した目的で評価されるでしょうね。
成果を上げるのには「適切」でも、社会的に不適切な詐欺とか脅迫とかを用いた場合、ある意味でエキスパートなんですが、犯罪的ですね。

人を選んで成果を上げた場合、方法が真っ当であれば、例えば、売上げであれば、これもいいセールスマンとかの評価になるでしょうね。
「カモを選んで」不適切な方法であれば、犯罪的ですね。

人を選ぶのも「目的達成の」エキスパートではあるのですが・・・。

>> 両者が「この条件は俺にとって得だ、馬鹿な奴め」と考えて合意に至っても、Win-Winです。
>アカデミアにおけるコミュニケーション、と云うものがその程度か、みたいに考えるとちょいと暗澹たる気分になりますけどね。

別にそれはそれでいいんではないかと。相手が何をもってWinとするのかは必ずしも分かり得ないですね。日露戦争の講和条約交渉なんかドラマティックですが、交渉ごとなんかは大なり小なりそうでしょう。

また、合意に至った際の両者が見解の一致ができるか相互理解できるか、なんていうのは、戦争の当事者同士なんか想像するだけで、停戦に合意して調印できても、憎しみは消えないし、相互理解なんてほど遠いことをイメージすればわかる。

なんというか、そういう憎しみや相互理解できない中で、目的(例えば「停戦」)に向けて、真摯に合意に向けての努力ができるか、あるいは努力の結果としての合意、というようなところに「コミュニケーション」の凄みがあるようにも思えなくもないわけで。

アカデミアにおけるコミュニケーション、と云うものに求めるとしたら、少なくとも、目的の健全さと、合意に向けての努力のあり方でしょうか。
by 北風Mk-2 (2011-11-28 22:56) 

pooh

> 北風Mk-2さん

> アカデミアにおけるコミュニケーション、と云うものに求めるとしたら、少なくとも、目的の健全さと、合意に向けての努力のあり方でしょうか。

ぼくもそう思っていて、とくに深く考えもせずにそれを前提としていたわけです。
どうやらそれが素朴な理解だったらしい、と云う部分に、ちょっと衝撃を受けている、と云うことなんですよ。
by pooh (2011-11-28 23:17) 

北風Mk-2

 「コミュニケーション」は方法であって、双方の善意などは保証しないというか無関係(対立したり憎しみあっている間でも存在しうる)である。
 それ故に、「コミュニケーションが行われている」ことは善意などの保証にも全くならない、ということでもあるのですけど。
 ただ、相手の善意などを期待してしまうのも理解できますし、善意などを前提としても、敵対する(利害が対立する)相手でなければまず問題はあまりないですよね。
 
>アカデミアにおけるコミュニケーション、と云うものに求めるとしたら、少なくとも、目的の健全さと、合意に向けての努力のあり方でしょうか。

 これは利害が対立していようが前提としていいでしょう。 
そうなっていなければ何かが間違っている。
by 北風Mk-2 (2011-11-28 23:52) 

pooh

> 北風Mk-2さん

> 善意などを前提としても、敵対する(利害が対立する)相手でなければまず問題はあまりないですよね。

そう思うんですよ。
そしてこれは本来「敵対」の可能性が想定されるべき状況であるのか。

> そうなっていなければ何かが間違っている。

そう感じます。
ただ、そうは考えない向きが現に存在する、と云うことのようです。
by pooh (2011-11-29 05:56) 

技術開発者

こんにちは、 pooh さん。

>なんとなく素朴に、コミュニケーションは相互理解、あるいは認識の共有のための営為である、みたいに考えてしまう。

異論という事では無いのだけど、そういう目的論的なもののもっと根底のところに「群を作る動物」としての「本能的欲求としてのコミニケーション」がある訳ね。ロビンソン・クルーソーはおそらく「会話の目的なんて関係なく会話したかっただろう」なんてね。人間の場合はコミニケーションの多くが会話だけど、例えば猿のロビンソン・クルーソーがいたら「誰でも何でも良いからグルーミングし合う相手が欲しい」とか・・・(笑)。

たぶん、だけどね。皆、ロビンソン・クルーソー状態ではないからその根底の欲求の上に、或る意味贅沢とも言える「目的のあるコミニケーション」というのを構築しているのじゃないか、と思うのね。でもって、単純な目的論からは出てこない「人格の認め合いを欲するようなコミニケーションを求める」という部分には、この根底の欲求が関係している気がするのね。

by 技術開発者 (2011-11-30 12:55) 

pooh

> 技術開発者さん

> 「本能的欲求としてのコミニケーション」

あぁ、これは根っこにあるかも。と云うかこれって解体すれば「愛」とか呼ばれたりするのかも。

> その根底の欲求の上に、或る意味贅沢とも言える「目的のあるコミニケーション」というのを構築しているのじゃないか

と云うか、このエントリの主旨は、その根底の欲求を操作して「特定の目的に使役するためのコミュニケーションの場を成立させる技法」と云うのがあるんじゃないか、と云う話、だったりします。
かつての国家社会主義ドイツ労働者党の宣伝相は、画期的なコミュニケーション・スキルを持っていた、みたいな云い方は可能だと思うんですよね。それが学術的な研究の成果だったかどうかはともかくとして。
by pooh (2011-11-30 13:25) 

技術開発者

こんにちは、 pooh さん。

>このエントリの主旨は、その根底の欲求を操作して「特定の目的に使役するためのコミュニケーションの場を成立させる技法」と云うのがあるんじゃないか、と云う話、だったりします。

う~ん。なんというか、水爆から核融合炉までの遠さみたいな感じを受けますね。エネルギーの発生する原理は同じだけど要は「制御する」と言う事の難しさかな。うかつに「ここにエネルギーがある」と手を出しては良くない様な怖さを感じます。

>国家社会主義ドイツ労働者党の宣伝相は、画期的なコミュニケーション・スキルを持っていた、みたいな云い方は可能だと思うんですよね。それが学術的な研究の成果だったかどうかはともかくとして。

悪徳商法批判者の頃にカルト問題を扱っていて、いわゆるマインドコントロールについて説明していたのね。でもって良く言っていたのが「自然発生」という事ね。倫理的抑制の無い状態で「こうやったら勧誘の成功率が上がった」という結果のみを追いかけて勧誘技術を磨くと自然に「良くできたマインドコントロール技術」になるなんて話をしていたんです。そして良く言われたのが「そこまでマインドコントロール技術を知っているなら簡単に解く方も分かるだろ」なんて言われて、「無理です」なんてね。なんていうか或る意味で心の制御システムの破壊なので、破壊する方法は簡単にできあがるけど、再構築する方法は簡単ではないのです。

私自身がいわゆる「心理操作技術」を或る程度知識として持っていたり技能としても或る程度は持っていることは否定できないのだけど、それが破壊的に機能した時の怖さというのもまた持っていると思うのね。その怖さだけが、たぶん私の暴走を止めているという事が一番怖かったりするんですね。

なんていうか、人類がもう一皮むけるまでは「手を出すべきでない」領域というのもある気がしています。

by 技術開発者 (2011-11-30 14:29) 

pooh

> 技術開発者さん

> 水爆から核融合炉までの遠さ

いや、そう云うむずかしいお話じゃないんですよ。
「コミュニケーションの学」を研究している、あるいはそこに関心のあるアカデミシャンが、じっさいのコミュニケーションを実践するにあたって、例えばそこにアカデミズム的なフェアネスが存在するかと云うと、前提とできるほどには期待できないのかもなぁ、みたいな話です。
で、ぼくはいま、一部のSTS周辺の学者について、その実例を目にしていると思っています。

> それが破壊的に機能した時の怖さ

ある大義を持っているひとにとっては、意識の在り処によってはそれはたぶん感じることのない種類の「怖さ」なんだと思います。
by pooh (2011-11-30 14:36) 

技術開発者

こんにちは、 pooh さん。

なんていうかな、核融合の話が例え話として相応しくないのは、核融合反応は地球上で自然発生しないということなのね。でも人の心の制御システムを破壊する技術みたいなのは、自然発生し得るし、また実際自然発生もしてきた訳です。

そして、社会学とか社会心理学という学問は現実に人間社会に起きた現象やら起きている現象を対象として研究するから、当然、「どうしたらどうなる」という知見も或る程度は溜まるよね。そして知見が溜まれば応用してみたくなるかも知れない。

>「コミュニケーションの学」を研究している、あるいはそこに関心のあるアカデミシャンが、じっさいのコミュニケーションを実践するにあたって、例えばそこにアカデミズム的なフェアネスが存在するかと云うと、前提とできるほどには期待できないのかもなぁ、みたいな話です。

アカデミズム的なフェアネスと言っていいのかどうか・・・。
昨日「輸出入規制」みたいなことの研修を受けさせられて、「指定のある国の研究者に技術的情報を伝えるのも技術の輸出規制に違反するぞ」なんて脅かされたんだけど、この場合に論文にして世界中に公表するのはかまわないのね。その論文に書かれた技術を指定国の研究者が軍事に応用したって私が技術を輸出した訳じゃない事になっている。アカデミズム的なフェアネスというのは、そういう面があるという訳ね。

なんていうか、昔、原水爆禁止運動とかに関わっていた頃に考えた「ノーベルの教訓」みたいな事を思い出すんですよ。ノーベルは「この取り扱いの難しい爆薬の取り扱いが容易になれば、土木工事や鉱山にどれほど役に立つだろう」とダイナマイトを発明する訳だけど、結局はそれが戦争の様相を一変させるだけのものに成ってしまう訳ね。結果に戦慄したノーベルはその資産をノーベル賞にすることを遺言する訳だけどね。その「結果への戦慄」みたいな教訓を我々研究者は受け継がなくてはならないんじゃないか、みたいな議論を昔は良くしていたのね、結論は出ない話だけどね。

>ある大義を持っているひとにとっては、意識の在り処によってはそれはたぶん感じることのない種類の「怖さ」なんだと思います。

だからこそ、上野輸出入規制に示されるようなアカデミズムの持つ、「人類全体に知見を供給するなら、その知見の利用者までは責任持たないぞ」みたいな部分が気になってくるのね。

by 技術開発者 (2011-11-30 15:22) 

pooh

> 技術開発者さん

難しいのは、STSと云うものの分野としての主題が、アカデミアからのアウトリーチにある、と云う部分なんですよね。
このへんにも誤解、と云うかわかりづらい部分があって、と云うのが、はためには「アカデミアからアウトリーチするもの」なのか、「『アカデミアからアウトリーチ』を論文にするもの」なのか、と云うあたりで。前者を期待してたのに、どうにも後者のような動きをするひとしか見えない、みたいな部分ですね。
で、その部分をずっと不審に思ってたんですが、どうやらそのへんは一筋縄ではいかないらしい、と云うのが現時点でのぼくの認識です。内情はよくわからないのですけど、ともかくアウトリーチの主体としては少なくとも「人類全体に」的な視点はなさそうだ、みたいに見えてはいます。
by pooh (2011-11-30 20:25) 

技術開発者

こんにちは、 pooh さん。

>難しいのは、STSと云うものの分野としての主題が、アカデミアからのアウトリーチにある、と云う部分なんですよね。

このあたり、前に書いた「社会の毒味役としての研究者」の話とか「ガンコ村のオッチョコチョイ宿」みたいなおとぎ話とも関係して来るんだけど、なんていうか「象牙の塔の解体は果たして正しいのか」みたいな意識が私にはあるのね。なんていうか、保守的な社会で「試してみたい」みたいな或る意味ドロップアウト因子を持った「外れ者」としての研究者やその外れ者が集まる場所としてアカデミアがある様なちょっとズッコケた視点で見ている訳だけどね。

そういう状態でアカデミアがあるときなら、その外れ者たちがみんなで「これは社会で使っても問題のない良い事ですよ」という事を社会に持っていくアウトリーチは価値の有る事なんだけど、なんていうか今は「とにかく新しくて良い事を持つけ出すのがお前たちの仕事だ、何が何でも見つけ出せ」みたいなプレッシャーを社会がアカデミズムに架けていて、そこで、まだに詰まっても居ない、多面的に問題点が無いか検証も済んでいない事をアウトリーチしたら社会ははたして大丈夫なんだろうか?なんて思っている訳です。




by 技術開発者 (2011-12-01 13:43) 

pooh

> 技術開発者さん

それでも、なまの科学技術のほうが、「STS的なお眼鏡にかなった市民のための、STS的科学技術」よりもだいぶましだと思います。
by pooh (2011-12-01 21:37) 

pooh

みごとに言を左右にするなぁ。
http://twitter.com/#!/flurry/status/142445448337170432

科学者がどこまで責任を負うべきか、と云う議論を迂回して、外部(=自分たち)がコントロールしたい、と云う以上の表明じゃないよね、これ。
by pooh (2011-12-02 18:31) 

北風Mk-2

>科学者がどこまで責任を負うべきか、と云う議論を迂回して、外部(=自分たち)がコントロールしたい、と云う以上の表明じゃないよね、これ。

「コントロール」ということをどう考えているんだ、というか、「コントロールの目的は何だ」、とも感じますけどね。
「悪者」を設定して何らかの方向に誘導することは、ある種の技術ではあると思うのですが、目的達成の方法として考えると、「問題解決」には役立たないし、「問題を整理する」ことにも役立たない。

「問題解決のための状況のコントロール」なんて困難なことなんだから、あえてやりたいのであればやって頂ければそれにこしたことはないので、
「目的は何か」をクリアにしてやってくれれば。(「責任」については他者の責任を言う以上、己が担うことになる役割についてのそれはあえて言わなくてもいいのでしょうけど)
by 北風Mk-2 (2011-12-03 14:04) 

pooh

> 北風Mk-2さん

> 「コントロールの目的は何だ」、とも感じますけどね。

そうですね。むしろそちらですよね。

> あえてやりたいのであればやって頂ければそれにこしたことはないので、

率先してやってくれそうな様子はまるっきりないんですけどね。
「いいからやらせてみろ」なのかも知れないですけど、どんな責任を負うつもりなのか考えてる風情もあまりないですし。
by pooh (2011-12-03 16:16) 

北風Mk-2

少し上のコメントですが、ちょっと分からないところがあったので。

>このエントリの主旨は、その根底の欲求を操作して「特定の目的に使役するためのコミュニケーションの場を成立させる技法」と云うのがあるんじゃないか、と云う話、だったりします

「コミュニケーション」というのは「その場に参加する」相手が必要ですし、「市民」とか対象が広くなるとここの部分が問題になりますが。

以前のコメントに対して、「あるいは首を縦に振る相手を選ぶか」とコメント頂いたことがありましたが、それに先だって、「話を聞いてくれそうな相手を選ぶ」「コミュニケーションしてくれる相手を選ぶ」というのが本来必然的に入る。
駅前での選挙演説なんか分かりやすいですが、伝える側が何かメッセージや目的を有していても、「コミュニケーションが成立するか」というかそもそも「聞いてもらえるかどうか」は相手次第。
で、「どういう相手を想定している」 のかとした場合、「興味を持っている人に答える」「興味を持っていない人に興味をもたせる」の2種の方針が本来入るはず。(選挙演説はどっちを重視しているのかよく分からないものが多いけど)

例えば、大学の先生が講師の「市民講座」は、参加資格はなくて理屈の上では誰でも参加できたりするけど、それをチェックして参加申し込みをするほど興味・関心を持っている人は多分少数。
例えば、バスケや囲碁・将棋なんか、普及に「プロとの対談」「プロからの指導」は意味はあるけど、実際にその体験を持つものはプレイヤーとかフアンのごく一部のみ。生であるいはTVで試合とか対局をみるのも一部のフアンかもしれない。
ただ、これらはもともと「相手の目的・興味」と「発信側の目的」の方向が同じです。
ここで、例えば、「スラムダンク」「ヒカルの碁」(ともに少年ジャンプで連載された漫画です)で、実際にプレイしたことの無い層や無関心に近かった層への普及ないし宣伝効果を上げたケースがあります。
この場合、「相手の目的・興味」はそもそもそれらに無関心だった層については、「面白い漫画を読みたい」とか「そもそも暇つぶしに読んだだけ」だったりする。その層のいくらかを「バスケや碁に興味を持ってもらい、実際にプレイしてもらう」というこちらの目的にそった形に動かした。

「特定の目的に使役するためのコミュニケーションの場を成立させる技法」
といった場合、行う側の目的というのはあらかじめ決まっていて、実際にも、高価商品を売りつける販売会場であれば「物を買ってもらう」コミュニケーションの場ですし、選挙演説(あるいは政党の応援会)なら「票をいれてもらう」ためのコミュニケーションの場ですね。

で、どこが鍵かとしてみると、上に書いたような「コミュニケーションの場を成立させる技法」というか、一言でいえば「(目的・興味が必ずしも一致していない)相手を確保すること」の工夫、なんです。(相手=通行人だったり、メールなどで集まられた相手(集める基準が問題になるけど)


どこかで元のコメントへのイメージがずれている気もしていますが・・・。
by 北風Mk-2 (2011-12-04 09:51) 

pooh

> 北風Mk-2さん

うむむ。どう書けばいいのか。すれちがいがありそうですね。

> 上に書いたような「コミュニケーションの場を成立させる技法」というか、一言でいえば「(目的・興味が必ずしも一致していない)相手を確保すること」の工夫、なんです。

こう、最終的には一定数以上の人数による「空気の醸成」をなし得ればいい、と云う場合を想定しています。ある程度以上声の大きい、一定人数、ですね。
そのへんをコントロールして、最終的に「(目的・興味が必ずしも一致していない)相手を確保する」みたいな感じですかね。
by pooh (2011-12-04 12:06) 

北風Mk-2

>こう、最終的には一定数以上の人数による「空気の醸成」をなし得ればいい、と云う場合を想定しています。

大衆煽動の技術、としてしまうと物騒なんですが、現在では、マーケティング理論として、商業・選挙などでもみられる技術だと感じます。
「マス・コミュニケーション」というか「マスコミ」は「世論」を形成しうるものですし、販売戦略としてのCMや選挙戦略など。
悪い例は、ニセ科学・ホメとかでもみられますが、高価商品の口コミによる販売戦略など、消費者から宣伝や販売員を兼ねるキーマンを形成していく、という形です。

マーケティング理論については、それらしい本なりで調べて頂いた方がいいのでしょうが、
イノベーター理論http://www.jmrlsi.co.jp/mdb/yougo/my02/my0219.html
ある程度以上声の大きい、一定人数による「空気の醸成」、としては、アーリーアダプターまでを確保することすることが普及の成否につながる、とか、「溝(キャズム)」を超えるために方策をうたないと広がりにくいんだ、とかの話が近いかも。
by 北風Mk-2 (2011-12-04 14:07) 

pooh

> 北風Mk-2さん

> 現在では、マーケティング理論として、商業・選挙などでもみられる技術だと感じます。

問題はその技術を、コミュニケーションの専門家と云う立場のアカデミシャンが種明かしなしに用いることの是非、なんです。

イノベーター理論がニセ科学に応用される、あからさまな例については、こちらで書いています。
http://schutsengel.blog.so-net.ne.jp/2009-11-26

科学・学問とマーケティング、と云うのは、ニセ科学問題の文脈でもそれなりに長い議論の積み重ねがあります。ただ現時点で、ニセ科学の問題に一定期間以上コミットしてきている人間は、手の内を隠すような、一種evilな手法は基本的に取りません。見透かされたときに、それはすべての信頼の喪失につながるからです。
つまるところまぁ、このへんが表で発言しているSTS周辺の学者への、とりあえずのぼくの評価、と云うことにもなりますけれど。
by pooh (2011-12-04 16:32) 

北風Mk-2

>イノベーター理論がニセ科学に応用される、あからさまな例については、こちらで書いています。

すいませんでした。
記事の紹介ありがとうございます。

>問題はその技術を、コミュニケーションの専門家と云う立場のアカデミシャンが種明かしなしに用いることの是非、なんです。

分かりません・・・。
「人文系の教養」とかがまさかそんなマーティングの話でもないでしょうし、「技術」ととりたてていうような技術とも思えないですし、「技法については」種明かしなしでも構わないでしょうし、上に引用した「問題はその技術を~」の文からは「是非」が問われる不適切な点がわかりません。
「釣り」とか「結局、○○したかっただけか」とか、目的や手段が不適当ならわかりますし、是非の問題ですが、それは「マーケティングの技法を用いる」とかいう以前の問題ですし。
by 北風Mk-2 (2011-12-04 18:51) 

pooh

> 北風Mk-2さん

ちょっと放漫な議論をしていたかもしれません。ただ、これから書くことは、ほぼ印象に拠っています。前置きとして。

まず、役に立つイノベーターをセグメンテーションします。たとえばこれは、「エア御用」と云うことばを好んで使うひと、と云う枠取りとか。
で、そこにアカデミックなオーソライズを与えて、エンパワメントする。そうすると、例えばtwitterなんかを媒介に、狙ったアーリーアダプター層への拡大が起こるわけです。もちろん最初に選んだセグメントは守らないといけないので、そこに入らない(でも声の大きそうな)層は「人文系の教養」なんかの壁をつくって分断する。アカデミシャンに「あいつらは低能なせいで洗脳されたエア御用学者とエア御用市民だから惑わされるな」と云ってもらえれば、それは心づよいですよね。

まぁマーケティング手法としてもひどいほうだと思いますが、学者が自分の学問領域の看板を掲げてやることがそれかよ、みたいな話でした。
by pooh (2011-12-04 19:40) 

北風Mk-2

単に、傀儡(子分)を使っての勢力争いというか、嫌がらせというか。いずれにしろ、学者がネット状でやることじゃないですね。
by 北風Mk-2 (2011-12-04 20:51) 

pooh

> 北風Mk-2さん

いやまぁ、そこまでの云い方になるのか。
ただ、とりあえずぼくにはこう云う動きに見えた、と云う話でした。
by pooh (2011-12-05 05:52) 

pooh

いまこの時点で「エア御用」と云うことばを頻用するひとは、ある程度固定してきている印象があるのだけれど。そのなかのひとりで「インド人を殺害するもの」と云うtwitterアカウントをお持ちの方が、こちらで言及したかたの「慧眼」を讃えているtweetを見かけた。
http://schutsengel.blog.so-net.ne.jp/2009-03-29

なんかあまり品のよろしくない形容詞が頭に浮かんだけど自粛。
by pooh (2011-12-05 10:23) 

技術開発者

こんにちは、poohさん。

実は未だに「本能的欲求としてのコミニケーション」の部分を考えています(自分でもしつこいと思うけど、これが自分の性分なので仕方がない)。

例えばスポーツの観戦には「競技場に行って観る」と「TVで中継を観る」があり、単に試合の推移を見るだけなら中継を観たってまあ目的は果たせる訳です。ただ競技場に行って観るとなんていうか単に試合を観るのと違ってその競技場を支配する観客の雰囲気の一部となるという興奮を味わう事ができる訳ですね。今、話題にしているコミニケーションの推進力というのは、この競技場に行って贔屓のチームなどを応援する集団の一部となる事によって興奮や満足を得る形のコミニケーションと類似すると思います。最近は、上の2つの観戦の中間形としてのパブリックビューイングなども盛んになっていますが、まさにこの形のコミニケーションによって得られる興奮や満足なのだろうと思います。

>いまこの時点で「エア御用」と云うことばを頻用するひとは、ある程度固定してきている

カルト問題などを扱っていると、カルト集団の中に非常に沢山の「集団の中でしか通用しない用語」が存在する事に気が付きます。そしてカルト内部の者はその用語を意図的に多用することで「自分がこの集団の一員である」という確認をしているように見えます。もちろん、カルトに限るわけではなく人間が或る程度の親しい仲間を作るとその仲間内で通用する専用の用語を作り多用する事で仲間確認をするというのは良くある事ではあります。猿がおこなうところのグルーミングに近いイメージが私にはありますね。

問題はこのコミニケーションは意図的に利用出来るかという事ですが、意図的利用は可能だけど計画的制御は難しいのではないかというのが私の考え方です。どちらかというと放っておいても或る程度自然発生しては参加者に興奮や満足を与えるしろものですから、発生は自然にまかせ、むしろ暴走を抑え気味にする方策をとる(サッカーの集団的な応援などはかまわないが、暴動にはさせないように気を配るみたいな感じですかね)というべきものではないかと思います。

by 技術開発者 (2011-12-06 08:24) 

pooh

> 技術開発者さん

> 人間が或る程度の親しい仲間を作るとその仲間内で通用する専用の用語を作り多用する事で仲間確認をするというのは良くある事

だからこそ、用語、と云うものには慎重になるべきだ、と云う部分があると思うんです。

たとえばここでぼくが音楽についてのエントリを書く場合には、ある程度そこに関心があるひとにしか通じない用語をけっこう頻用します。それは「その用語が通じる層」に向けて書いている部分があるからで、そう云う内容を書いている、と云うことを示す目的もあります。

でも、ニセ科学について書いたりとか、そう云う場合については、読みやすさに影響のない範囲で、できるだけ略語やテクニカルタームを使わない。それは、そこに書かれている内容に関心のないひとに向けて書いているからです。おのずと書き方からスマートさは失われますが、それはしょうがない。
「『うまいこと云う』合戦」になって、言説がその目的から外れてしまう光景はよく目にします。それでは意味がない。文芸的な意味で高い強度を持った用語はひとに感銘を与えますが(「エア御用」はそう云う種類の用語だと思っています。「死ぬ死ぬ詐欺」みたいなのと同様ですね)、だからと云ってその用語に使われるべき意義がある、と云うことには、じつはならない。

> 意図的利用は可能だけど計画的制御は難しいのではないか

「コミュニケーションのプロフェッショナル」とか「コミュニケーションの研究者」にとっては、そのあたりはどうなんですかね。
by pooh (2011-12-06 08:36) 

技術開発者

こんにちは、 pooh さん。

>だからこそ、用語、と云うものには慎重になるべきだ、と云う部分があると思うんです。

用語を意図的に作ったり使ったりする場合はそうですね。カルト内の特殊用語や「エア御用」なんてのはそういう感じです。ただ、社会にはかなり自然発生的なものがあって、顕著に表れるのは「あだ名」とかだったりします。その昔、労働組合の交渉で、ある使用者側の幹部に「あなたの首の上に乗っているのはカボチャか?」なんて発言をしたら、そのあと仕事場のあちこちでその幹部の悪口を言うときには「あのカボチャが」なんてあだ名で呼ばれはじめて、言いだした私が面食らったことがあるのだけどね。なんていうか、その時もそのあだ名を意図的に使う者の間で「私はあの幹部は嫌いだ」というのをコミニケーションしていた感じですね(笑)。私はその交渉のあとそのあだ名で呼んだ事は一度も無いのだけど、そこは言い出しっぺの特権でその仲間には入れて貰えていた(笑)。

>「コミュニケーションのプロフェッショナル」とか「コミュニケーションの研究者」にとっては、そのあたりはどうなんですかね。

う~ん。そこにはやはり「怖れ」を感じる面があります。「カボチャ」の話を続けると、そうやってあだ名が流行ってみると「あの幹部さん、ずいぶんな人に嫌われているなぁ」というのは良く分かったんだけど、名付け親である私としては、なんていうか「煽って追い落とす」みたいな動きにはしなかった経緯はあるのね。なんていうか、上でも書いているみたいに「本能的なコミニケーション欲求に働きかける」というのは、確かにパワーには成るのだけど、パワーを得るためにそれを積極的に利用するとコントロールできなくなる気がするんですね。

by 技術開発者 (2011-12-06 11:43) 

pooh

> 技術開発者さん

> 用語を意図的に作ったり使ったりする場合はそうですね。

いや、基本的には同じだと思うんですけどねぇ。ことばはやっぱり「使われ方」なので。

菊池誠は昔からきくまこだし、自分でkikumacoと名乗ったりします。でも例えばこれをカタカナで書くと、ある傾向を持ったひとたちによる、そのひとたちのあいだで通用する含意を持った用語になる。
http://t-proj.com/twitter/?q=%E3%82%AD%E3%82%AF%E3%83%9E%E3%82%B3

カタカナで書くだけで、ある評価を含んだ意味で通用するんです。でも、それはカタカナで書いた、と云うだけなので、そこに含まれた意味はじつは明確にはならない。ならなくても(むしろならないからこそ)ある雰囲気を醸成できる、と云うのはあるんです。
この、カタカナ書き、みたいな手口はどうも政治的な内容を扱うブログなんかでよく見かけるんですよね。つまるところ党派性に依拠した対立、みたいな場で用いられるテクニック、と云うわけなんですが、ポイントはやっぱり「じつはなにも云っていないのに、なにか利いたことを云っている」と云うふうに見せられる、と云うところにあるんだと思います。
で、そう云う手法を、コミュニケーションをテーマにしたアカデミシャンがオーソライズした、と云う現実があったわけですね。要は自分たちのテーマはその程度の精度のものなんだ、と云うのを認めたも同然に見えるんですけど、まぁそのへんはいいや。

> パワーを得るためにそれを積極的に利用するとコントロールできなくなる

現況コントロールできているようには見えないので(ほんとうに「エア御用は犯罪者で原子炉に入って死ぬべき」みたいな議論を誘導したかったのだとはさすがに思えないので)、失敗した、と云うことなのかもしれないんですけど。と云うか、コントロールできなくなったので、コントロールしようとしたこと自体をなかったことにしようとしている、と云う様子にも見えますけれど。
by pooh (2011-12-06 12:08) 

pooh

上の自分のコメントなんだけど、どう読んでも邪推がひどいな。
前にも書いたけど「そう云う印象がある」と云う一文を加えて読んでいただけるとありがたいです。
by pooh (2011-12-06 12:58) 

北風Mk-2

集団や組織について、横軸に特性、縦軸に数の分布のグラフをイメージして、コントロールすべき事項とか例として

1.集団の大きさ
  所属人数とか参加者

2.集団の中央値(立ち位置、レベル)
  政治的な立ち位置とか、技能・品質レベルとか
例えば、「品質改善」で組織の品質レベルを向上(分布を高い方にずらす)させようとしたり、集団の方向性をトップがコントロールしようとする場合に対応するイメージです。

3.集団のバラツキ
  社員の能力とか、性質とか
例えば、能力や意識など部署差や個人差があり、ルール違反をしたり犯罪行為をする社員がいたりするわけです。サッカーの応援でいえば、マナーを守るフアンが多数ですが、フーリガンみたいな存在もあるわけです。バラツキを、トップが「コントロール」することは難しく、極端な分布の端を規制する(暴動対策とか)とか、あるいは「意識の徹底」とか地道な活動をしていくしかない。

ここで、バラツキを決めるのは、トップの方針でなく、なんというか「所属する人」の側になる。
また、バラツキが大きくなったときの「コントロール」の一種として、「内ゲバ」「内部分裂」「独立」が起きたりすることもある。(これもトップダウンというよりも集団内部の動きとして)

> パワーを得るためにそれを積極的に利用するとコントロールできなくなる

 ここ、集団の方向性を動かそうとした(上の2)のか、集団の内部での「バラツキ」の動きなのか(上の3)、という点もあると思うのです。
 「組織の活性化」とかの2.らともかく、3、で集団の一部がそういう動きをとれば、必然的にまず「バラツキは増す」方向になるわけで。

>現況コントロールできているようには見えないので(ほんとうに「エア御用は犯罪者で原子炉に入って死ぬべき」みたいな議論を誘導したかったのだとはさすがに思えないので)、失敗した、と云うことなのかもしれないんですけど。

なんというか、バラツキの端で不適当な事態が発生することは、会社内で犯罪者がでたりとか上のサッカーの応援とかどんな組織でもバラツキはあるので、コントロールの失敗ともいいにくかったりもするのかと。(2.の舵取りを誤って、組織事態が暴走する(旧日本軍とか)は、明確なコントロールの失敗ですが)
また、そういう集団が「集団内でのコントロールの結果」、それは違うとして、独立したり切り捨てられたりすることもよくあります。(外部からみると、切り捨ててなかったことにしているようにみえる)

集団の「バラツキ」をトップなど一部の人間が上手くコントロールする方法はどういうものになるんだろう?
このあたりは、「コミュニケーションのプロフェッショナル」とか「コミュニケーションの研究者」に聞いてみたい。

by 北風Mk-2 (2011-12-06 22:17) 

北風Mk-2

上のコメントの部分について、リンク先の記事が、「偏差」として集団内のバラツキに焦点をあてていて、参考にさせて頂いた点が多いので、紹介しておきます。http://medt00lz.s59.xrea.com/wp/archives/1204
by 北風Mk-2 (2011-12-06 22:25) 

pooh

> 北風Mk-2さん

> なんというか、バラツキの端で不適当な事態が発生することは、会社内で犯罪者がでたりとか上のサッカーの応援とかどんな組織でもバラツキはあるので、コントロールの失敗ともいいにくかったりもするのかと。

だって、ちょっと見るかぎりそんなかたばっかり残ってますよ。
そこを意図したのでなければ、やっぱり失敗だったんじゃないかと。意図がそこにあった、と云うのなら別ですけどね。
by pooh (2011-12-07 05:57) 

北風Mk-2

>だって、ちょっと見るかぎりそんなかたばっかり残ってますよ。

ここは同意ですし、もともとの意図がそこにあったわけでもないと思うけど、下の解釈の差かなあ。

>そこを意図したのでなければ、やっぱり失敗だったんじゃないかと。意図がそこにあった、と云うのなら別ですけどね。

ある意味、辛辣になるかもしれないけど、そもそも「バラツキ」に注意したり、「バラツキ」のコントロールをしていなかったのじゃないかと。
誘導してもいないけど、歯止めもかけていないというような。
「そもそもコントロールしていない」のだから、なりゆきなんだから、やっていないコントロールの「失敗」とはいえないなあ、というのが私のコメントになっています。

あと、前コメントはリアルの集団を意識しているのですが、ネットはまたさらにコントロールが難しいと思うのですよ。
福島県の調査や白血病の割合とか、デマみたいなのがいろいろとんだりしているけど、それらは、「誰か特定の集団がコントロールした」わけでもないでしょう。
ブログであっても著者の意図とは違う形で(バラツキを生じながら)受け止められて拡散していくこともあるでしょうが、コメント欄などですり合わせしたり、それらも読んで修正したり、ということが入る余地がまだしもある。
Twitterでは、たかだか140字で、テーマによっては短時間ですりあわせなどがないまま意図とは違う形で(バラツキを生じながら)、1.2.3.どれもコントロールできないまま爆発的に拡散する場合がある。

特に、Twitterが絡むと、なんというか「コントロール」というのは何をどううすることなのかイメージできないのですよ。


by 北風Mk-2 (2011-12-07 06:45) 

pooh

> 北風Mk-2さん

> 「そもそもコントロールしていない」のだから、なりゆきなんだから、やっていないコントロールの「失敗」とはいえないなあ

たぶんコントロール、と云うぼくの語調が強すぎる、と云うのはあるんだろうな、と思うんですよ。もうすこし緩く、誘導、ぐらいが適切なのかなぁ。でも、それほどナイーヴな発想で手法を選ぶかなぁ、みたいにも思いますけど。

> ネットはまたさらにコントロールが難しい

それでもブログなんかだと、なんて云うか注意深くやればある程度は、見透かす、みたいな接し方も可能になるわけですが。

> Twitterでは、たかだか140字で、テーマによっては短時間ですりあわせなどがないまま意図とは違う形で(バラツキを生じながら)、1.2.3.どれもコントロールできないまま爆発的に拡散する場合がある。

このへんの話は、なんかわりと最近にも別枠でお話していたような気もしますけれど(^^;。
ちょっと過剰な悪意を読み取られそうな書き方をあえてしますが、上手にやればわりとテロル的な意味での結果を手にすることは可能なのではないかなぁ。
by pooh (2011-12-07 07:02) 

北風Mk-2

>もうすこし緩く、誘導、ぐらいが適切なのかなぁ。でも、それほどナイーヴな発想で手法を選ぶかなぁ、みたいにも思いますけど。

う~ん、なんというか「集団の方向性を動かす(私の誘導のイメージ)」のと「集団の末端までを意識して動かす」のは違って、前者は後者の対応にはならないんですよね。
また、「手法の選択」は「目的達成」についてどうか、ということで、そこに「バラツキ」がどこまで影響するかによっては、そこにあまり力をいれられないころもありますから。
 ちょっとズレますが、幕末の維新なんかをイメージして、「とにかく幕府を打倒して新政府樹立」を目的とした場合、バラツキはあっても、とにかく数集めて「目的を達成」するのが優先であって、「乱暴狼藉」は規制はするけど、なくならないし、それは放置すると民衆からのマイナスイメージになるんだけど、そこにエネルギーは十分さけず、「目的達成」の方にエネルギーがさかれる。目的に対しての「成功」「失敗」こそが優先だから。

>ちょっと過剰な悪意を読み取られそうな書き方をあえてしますが、上手にやればわりとテロル的な意味での結果を手にすることは可能なのではないかなぁ。

「わりとテロル的な意味での結果」は可能でしょう。
「テロル的」を「この範囲内で」という制限なしの、「この方向で」というどこまで広がるかは分からないけどもという意味としてとっていますが。
ただ、そこでの上手さは、とにかく火つけて燃え広がらせるというものであって、誘導ではあるんだけどコントロールは意味しない。
燃え広がって一面火の海になってもそれはそれでいい、と

警告のために、「小規模の火災をおこして小規模でちゃんと止める」とかやると、コントロールが必要になるけどそれが難しくて、それを意図して止められなかったら「失敗」なんですけどね。
by 北風Mk-2 (2011-12-07 07:40) 

北風Mk-2

とにかく火つけて燃え広がらせるというものであって、誘導ではあるんだけどコントロールは意味しない。

とにかく火つけて燃え広がらせるというものであって、誘導ではあるんだけど歯止めとしてのコントロールは意味しない
by 北風Mk-2 (2011-12-07 07:44) 

pooh

> 北風Mk-2さん

> 目的に対しての「成功」「失敗」こそが優先だから。

ここで、やっぱりじゃあその目的ってのはなんじゃいな、みたいな話になるのかとも思いますが。ここはちょっと論じづらい、と云うか憶測になってしまう。

> 燃え広がって一面火の海になってもそれはそれでいい、と

と云うか「あんたの云うこともわからなくはないんだけどねぇ、いまどき尊王な言動なんかしちゃってると、うちの以蔵や半次郎あたりはなにするかわかんないよ?」的な示威だけでも、達成できる目的はあったりするのかも、みたいな話です。
by pooh (2011-12-07 08:22) 

技術開発者

こんにちは、北風Mk-2さん、 pooh さん。

なんていうか、ホーガンの「未来の2つの顔」の出だしのエピソードを思い出すんですね。月面で土木工事をしていて丘をひとつ無くさなきゃ成らなくて、中央コンピュータに「可及的速やかにこの丘を撤去せよ」「付帯事項はありますか」「特になし」で土木機械の到着を待っていたらミサイルが飛んでくる。ここから、「コンピュータに常識をわきまえさせなきゃ」なんて話が始まるのだけどね。

実は私は観ないのだけど、かみさんが観ているTVドラマの「家政婦のミタ」とかいう番組にも似たような構図があるみたいですね。腹立ち紛れに言ったことに対して「承知しました」と常識に関係なく実行に移されたら・・・これは怖い(笑)。

或る意味で、集団を操るような技術というのは、この常識をわきまえない実行機械を手に入れて、それに指示を下すような怖さが伴うような気がするんですね。なんていうか、人類は狭いコミニティーの中で「自分たちがおこなってしまった結果に慄然とする」みたいな経験を積んできていて、人間の文化の中には、そういう慄然とする結果を避けるためにコミニティー全体が感情的に盛り上がる事にブレーキを架けている面があるように感じています。それが、コミニティーが大きく成ることによって、個々が実行した小さな事と結果との関係が把握されなくなることで、ブレーキそのものの意味を理解できなくなっているのかも知れないと思ったりします。

by 技術開発者 (2011-12-07 11:19) 

pooh

> 技術開発者さん

> ブレーキそのものの意味を理解できなくなっている

このあたり、ちょっと取りざたされた「業界化」と云うキーワードとの関連性もあるのかもしれない、みたいにちょっと思ったり。業界内のモラルは外とは違う、みたいな現象もありうるわけですので。
by pooh (2011-12-07 12:05) 

北風Mk-2

 どこかおかしいという印象は共通しているのですが、「どこ」と明確にするのが難しくて周囲を回っているような。

>と云うか「あんたの云うこともわからなくはないんだけどねぇ、いまどき尊王な言動なんかしちゃってると、うちの以蔵や半次郎あたりはなにするかわかんないよ?」的な示威だけでも、達成できる目的はあったりするのかも、みたいな話です

商人から当座の資金をまきあげるとかは、達成できる事項かなあ。
「自称」(本当かもしれないけど)の目的は、「維新」「倒幕」だったりするのかもしれないけど。

ここの、以蔵やら半次郎とか、藩なり党派が「暗殺者」として育成したわけでも、「暗殺者」をでるように誘導したわけでもないんですよね。
小説の「人斬り以蔵」では、武市は、以蔵の行為が「何かの失敗」のように感じるのですが、じゃあ「何が」「失敗」だったのか、というとこれがまた難しい。

こうした存在を意図したわけではないけど、発生した以上「上手く使おう」じゃないか、という動きはあるし、「目的」としての大義名分もあるのかもしれないけど、動きとしてはなんというか酷いものになる。
「過激派」が敵対する相手を殺していくのを黙認しておいて、頃合いをみて「あれは尊王のなんたるかを理解していない者で」とか別物・ニセ物として「切り捨てる」。
「るろ剣」解釈の赤報隊も「ニセ官軍」として「切り捨てられた」例になるのかなあ。
by 北風Mk-2 (2011-12-08 08:05) 

pooh

> 北風Mk-2さん

> 商人から当座の資金をまきあげるとかは、達成できる事項かなあ。

いや、「黙らせる」で充分な場合もあるでしょ。

> 動きとしてはなんというか酷いものになる。

酷いことになったんだと思いますよ。
by pooh (2011-12-08 08:22) 

pooh

とりあえず、早川由紀夫教授の差別発言の行き過ぎ、みたいなものに対する(例によって、一部の)STS関係の研究者の意識は、こんな感じですか。
http://twitter.com/#!/hirakawah/status/145441640855773184

早川発言によって傷つけられる福島のひとたちも、このひとたちにとっては「庇護される必要のない御用市民」って認定なのかな。
by pooh (2011-12-11 05:42) 

pooh

どう云う意味なのか、てめえのお仲間以外にも通じる言葉で説明してみろこの野郎。
https://twitter.com/hindu_kush420/status/232672025641095169
by pooh (2012-08-07 13:15) 

TAKA

今週の御言葉:『私のニセ科学批判批判は魔法のスリプル状態である』

今週の、昔の詩人風の御言葉:『恐ろしい夢を見た。駄目なニセ科学批判批判者たちの論陣に、僕が参加していたんだ』
・・・・・・・・
こんにちは。私は、「what is the big idea?」という言葉について調べている者です。

そのツイートの意図を、私が説明します。「高度な自虐ギャグぞなもし。他人の失敗を説明しようとしている自分が説明に失敗しているさまを、大向こうの皆様に笑ってもらいたいぞなもし。」
poohさん、いかがでしょうか?この読み解きは、正解や思います。
by TAKA (2012-08-08 20:42) 

pooh

> TAKAさん

どうですやろ。
基本的に天丼云うのんは呼吸の合った相方がいて、はじめてはためにちゃんと笑うてもらえるようなギャグになるんやと思うんです。
このかたの相方云うたら、こちらのかたでっせ?
http://schutsengel.blog.so-net.ne.jp/2009-03-29

目先の目的が一緒やったらどんなんとでも組む、みたいな野合は、さすがに笑えませんわ。
by pooh (2012-08-08 20:54) 

pooh

> TAKAさん

あ、ことばが足りてませんでした。
なんで天丼云うたかと云うと、結局のところだれになにを云われてもおんなじところをぐるぐる廻る展開しかできへん芸風のことを云うとるわけです。

…自ネタを解説してしもうたがな。
by pooh (2012-08-08 20:58) 

pooh

ところで↑で書いた、

http://blog.goo.ne.jp/syokunin-2008

のひとだけど。

「キュリオシティは火星に行ってない論」とかは展開しないのかな。「あの映像はサハラ砂漠だ」「ゴビだ」「バハだ」みたいな感じで。
陰謀論者のみなさんは、それとも直近のできごとは相手にしないんだろうか。
by pooh (2012-08-09 21:36) 

pooh

だからさあ。だれが「エセ科学批判の人」で、なにが「巨悪」なのかはっきり書きなよ。
http://twitter.com/yasunobu_kino/status/248250837154004994

あいまいにしてれば、そりゃ安全になにか云ったつもりになれるんだろうけどさ。学者がそれをやるのってどうよ。
by pooh (2012-09-19 19:11) 

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