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紋切型による(一種の)自己存在否定について [よしなしごと]

九州大学の古賀徹准教授の非科学的な非科学狩りと云うエントリを読んだ。
先に言い訳しておくと、ちょっと感情的になりそうなのであまり親切に、丁寧に書けないと思う。

科学的に効果が証明されていない物質を摂取することで、より適切な手段がとられないなど、別の害が生じる可能性は存在する。しかしそれは、二つの手段のうちどれが可能性としてより適切かという比較の問題である。前者より効果的だと予測される手段があるのにそれが採用されていないという批判なら分かるが、前者が「非科学的」だからその手段をとるべきでないという批判は、多くの場合それ自体非科学的だといえよう。
このひとは、ではどうすれば二つの手段のうちどれが可能性としてより適切かという比較の基準を共有可能にすることができる、と考えているのだろう。「非科学的」だからその手段をとるべきでないと云う基準を置くことは、まさに個人的な経験の範囲を超えて共有することのできる判断基準に従おう、と云うことなのに。
と云うか、このひとの使う科学的・非科学的ってことばは、どんな意味を持っているのかな。なにかしらパーソナルな意味合いなんだろうか。
効果の科学的な証明とは、数多くの被験者に物質を投与して、偽薬の投与群に比べて有意な効果が得られることを「統計的」に判断するだけである。
だけであると気軽に書ける以上、その意義をそれほどは認めていない、と云うことなんだろう。と云うか、その意味するところについてそれほど真剣に考えていないから、こう云うことが書けるのだろうけど。
とすれば、科学的に効果が証明されていないものを摂取する人を「非科学的」だと批判することはできないことになる。科学的に効果が証明されていない物質を摂取して、それでぴんぴんになってしまう個別の可能性を、科学的証明は排除できない。
まさかアカデミシャンに「悪魔の証明」と云う概念を理解していない人間がいるとは思わなかった。と云うかこのひとは科学的に効果が証明されていないものを摂取する人を「非科学的」だと批判する行為がどのような意味合いを持つのか、と云うことについてまじめに考えてから書いているとは思えない。
そこでさまざまな民間療法に当たることにした。刺さない針、気功、体操、キムチ納豆、イメージトレーニング、ハーブ、ドイツの謎の鉱物、ありとあらゆるものを試した。そうすること数年、左耳はすっかり健康になった。どれが利いたか分からない。
時間と余裕のあるひとはそうやって人体実験をすればいいと思う。自分自身について云えば、それは愚行権の範囲だ(他者に勧めるようなことがあれば、その範疇を超える。自分のこどもなんかも含めて)。ついでに丹砂なんかも試せばよかったんじゃないかな。不老不死になったかもよ。
でも、たとえばいま子供たちに米のとぎ汁乳酸菌だのEMだのを飲ませようとしているひとたちの置かれた状況と、(それが「個人的に」どんなに切実であったとしても)その時点で古賀さん自身が置かれた状況をごっちゃにするのは、いくらなんでも想像力不足なんじゃないかな。

わからない。このひとは自分の研究していること、教えていることに一定水準以上の普遍性があることを、どのような視点が担保しうると考えているのだろう。それとも、そのことについて意識的な視点を持たないまま、あるいはそのような視点が不要だと考えたまま(要するにそこを考えるのは自分の仕事じゃないみたいに思いながら)アカデミシャンの場所にいるのだろうか。
そのような学究のありかたがあることを、それを自らに許容するアカデミシャンが実在する可能性を、どうしても理解できない。

まぁこの准教授がここを読むことはないだろうけど(twitterでもそうとう呑気なことをおっしゃっているしね)、とりあえず科学的に効果が証明されていないものを摂取する人を「非科学的」だと批判することがどのような切実さのなかで行われているのか、と云うことを、月田陽三さんの母親の特権意識と父親の不在と云うエントリ、およびどらねこさんのとどけたいことばと云うエントリに類例としてリンクを張ることで示しておく。このおふたりとも、例えばいまのぼくでは担いきれないような切実なことばを、苦しみながらも届けようと努力されている。この営為を、科学の観点から一刀両断、みたいな紋切り型で切り捨てることができるのだとすれば、それはそれで一貫していてあっぱれ、とも云えるのだろうけどね。アカデミシャンではなく、アーティストとして。
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TAKESAN

お早うございます。

古賀氏は、臨床試験による評価や結果の医療における適用、いやそれ以前に、それらを理論的に支える統計学についてもほとんどご存知無いと推察出来ますね(母数や有意など用語の用い方からして)。
後、「科学」や「非科学」などに独自の意味合いが付与されていたり、ひとつのエントリーの中でも多義的に使われているようにも見えて、とにかく何を言いたいのかはっきり解らない所がありますね。

全体的には、これまでの議論を全く押さえていないのだろうな、という事で、出来ればきちんと把握して論じて頂きたかったと思います。
by TAKESAN (2011-09-04 08:18) 

TAKESAN

付け加えですが。
▼ 引  用 ▼
効果の科学的な証明とは、数多くの被験者に物質を投与して、偽薬の投与群に比べて有意な効果が得られることを「統計的」に判断するだけである。
▲ 引用終了 ▲
(古賀氏のエントリーより引用)

たとえばここで、古賀氏に「有意とは何ですか?」と訊いても、おそらくまともに答えは返ってこないと思われます。
統計学的に有意、という概念が数学的にどのようなものであるか、とか、有意であるのみでは特に何も言えないとか(それ以前の実験や評価のデザインを考えないといけない)、その辺りの細かい事を知らずに「聞いた事のある重要そうな言葉」を使っているだけだと思います。
「素人向け」に色々端折って表現している可能性は、母数の使い方などから見てまず考えられないでしょうね。それに、真摯で親切な解説ならば、わざわざ有意などの概念を、定性的に効く効かないを判断出来るものかのごとく扱いはしないものです。

哲学は、用語の厳密な定義と論理的整合性について特に敏感な分野だと思っていますが、それを分野外では疎かにしてしまう一例を垣間見た気がします。
by TAKESAN (2011-09-04 08:30) 

pooh

> TAKESANさん

> 出来ればきちんと把握して論じて頂きたかったと思います。

ここのところは以前からTAKESANさんとぼくでスタンスが違うところで、まぁちゃんと把握して論じていない場合には都度その部分を伝えるしかないなぁ、みたいにぼくは思っていたりはするのですが。
ただ、既存の議論を押さえないで論じることができる、みたいに思うこと自体、他者の議論を尊重する、最低限の敬意を示す、と云うことができていない論者だ、と云うことなので、その主張もそう云う質のものだ、と云う前提で読み取ることになりますが。

> 、「科学」や「非科学」などに独自の意味合いが付与されていたり、ひとつのエントリーの中でも多義的に使われているようにも見えて

ぼくがいちばん許容しがたく感じるのは、この部分です。
そう云う言説をものす人間が平然とアカデミアのなかにいる、そのことを理解することが、ちょっとぼくには難しい。
このひと、「あなたの研究成果とか授業なんかで教えていることが、所詮は受け手次第で、そこには共有しうる価値なんかない」みたいに評されたときに、そのことを当然のこととして受け入れるんでしょうかね。だとすればそれは最低限の職業倫理さえ欠いたスタンスだと思うんですが。
by pooh (2011-09-04 08:37) 

pooh

> TAKESANさん

コメントが前後しちゃった(^^;。

> 「素人向け」に色々端折って表現している可能性は、母数の使い方などから見てまず考えられないでしょうね。それに、真摯で親切な解説ならば、わざわざ有意などの概念を、定性的に効く効かないを判断出来るものかのごとく扱いはしないものです。

素人に直感的にわかりやすく書くのと、素人だったらわからないような部分を適当に書くのとはそうとう違うと思うんですよね。このへん、科学コミュニケータの方々の言説に絡めて書いたこともあるように思います。

> 哲学は、用語の厳密な定義と論理的整合性について特に敏感な分野だと思っていますが、それを分野外では疎かにしてしまう一例を垣間見た気がします。

哲学に分野外なんて存在しないはずだと思うんですけどね。
言語の定義や論理的整合性をおろそかにした瞬間に哲学は死ぬ、と云うか、それって自らの手で「哲学を殺す」行為にも見えます。
by pooh (2011-09-04 08:49) 

うさぎ林檎

こんにちは。

>前者が「非科学的」だからその手段をとるべきでないという批判

ここが既に藁人形なので、もういいっかなと思います。
「非科学的」なのは結果であって、目的じゃ無いですよね。某教授みたいな批判をしている人なんて、私の視界ではあまりいません。

"効果がある"という主張に対し、疫学調査(これ科学じゃ無いんですかね?)の結果、"効果が無い"ことが重要なのだと思ってましたけど、違うんでしょうか?

Twiter上で、またぞろ「正しいニセ科学批判」の議論が起きてますけど、私はもう距離を取っています。それが被災地に暮らしている人達の眼にどう見えるのかなぁと考えると…ちょっとぞっとするので。
by うさぎ林檎 (2011-09-04 11:05) 

pooh

> うさぎ林檎さん

> ここが既に藁人形なので、もういいっかなと思います。

よくないです。
そう云うところで藁人形論法を使ってしまう哲学者、と云う存在が、ぼくにはぜったいに許容できません。いやまぁ在野と云うか、山中で閑居して清談のなかで竹藪でも相手に語っていただくのはかまわないんですけど、国立大学の准教授ですよ。ひとに教えたりしてるんですよ。

> 疫学調査(これ科学じゃ無いんですかね?)

ない、と云う主張のようです。
これはかなり相手の大きい主張で、国際的にもアカデミシャンとしてそうとうユニークな立場をとっていないと口にできない種類のものだと思います。まぁ九州大学芸術工学研究院と云うところが教えているのが人文科学以外のなにごとかであるらしい、と云うことなんだと思いますけど。

> Twiter上で、またぞろ「正しいニセ科学批判」の議論が起きてますけど、私はもう距離を取っています。それが被災地に暮らしている人達の眼にどう見えるのかなぁと考えると…ちょっとぞっとするので。

ぼくの場合なにかことばにすると、それが「被災地に暮らしているひとのことば」として受け止められる可能性があるので、ものを云うのがとても不自由になっています(^^;。仙台はもうほとんど日常に不自由はない、とは云っても、身の回りのありとあらゆる事柄が隣接する深刻な状況の被災地と関連している、と云う事実は変えられないので。
by pooh (2011-09-04 11:14) 

うさぎ林檎

こんばんは。

>よくないです。

仰る通りです、反省しました。
"国立大学の准教授ですよ"的な方々の劣化バージョンを震災以後これでもかとばかりに見せつけられているので、ちょっと感覚が麻痺してしまったのかもしれません。
個々の事例で判断することを忘れてはいけないですね、反省します。

>ぼくの場合なにかことばにすると、それが「被災地に暮らしているひとのことば」として受け止められる可能性があるので、ものを云うのがとても不自由になっています(^^;。

父の知り合いでチェルノブイリの医療支援活動に関わった経験のある方(放射線関係)も、今は迂闊に何も言えないと仰っていたそうです。
慎重に発言しないと何をどう曲解されたり利用されたりするか分からないので、公の場ではチェルノブイリに関する話題は避けていらっしゃるそうです。
by うさぎ林檎 (2011-09-04 18:04) 

pooh

> うさぎ林檎さん

いや、反省していただこうとは(^^;。
ただですねぇ。せめてこう云う、立場を離れて自由な放言、的な言説は立場を隠してやっていただければまだましかなぁ、みたいに思うんです。

> 今は迂闊に何も言えない

なんか、ことばの重みが意図と違ってくる可能性があると、ちょっと臆病になってしまうんですよね。いやまぁ別にぼくの言葉なんて重くはないんですけど、重心が違ってしまう可能性があると云うか。
by pooh (2011-09-04 20:11) 

技術開発者

こんにちは、皆さん。

>前者が「非科学的」だからその手段をとるべきでないという批判は、多くの場合それ自体非科学的だといえよう。

私が良く言う昔話の中に「アスキー将棋大会のプログラム」というのがあります。まだパソコンがマイコンと呼ばれていた頃に、アスキーが将棋のプログラムを募集して、マイコン同士の対戦をしたんですね。もちろん思考時間制限付きです。

その頃に一番問題になったのは、「最善手」を指す事じゃなくて、「どうやって悪手にかける先読み時間を減らすか」であった訳です。その頃いろいろ検討された話として「人間の指し手というのは、悪手を『なんか味が良くない形だ』とほんの1手2手程度で先読みを行わなくなるのだけど、マイコンはなかなかその読みを捨てられない」なんて話ですね。

実は自分が研究開発をしてきて、この考え方はとても役にたって来た気がします。開発の考え方は幾通りもあるのだけど、「筋の悪い開発方向」を捨てていくと、自然にやるべき方向が見えてくる様な経験ですね。だから、若い人たちが「色々考えられるんだけど、どうしよう」と悩んでいると、「まず、良くないと思う考え方を捨てる方から始めてごらん」なんてね。

たぶん、これは研究開発だけじゃなくて、人生にもあるんだろうなんて思ったりします。



by 技術開発者 (2011-09-05 13:48) 

pooh

> 技術開発者さん

まぁでも古賀さんの発想だと、捨てようがないんですよね。打ってみてからじゃないと。
で、特定の行動が悪手である、と云う知の集積も不可能になる。

なんだろうなぁ。本当にこのひと、なにをどうやって研究して、どんなことを教えているのかなぁ。
by pooh (2011-09-05 17:58) 

技術開発者

こんにちは、poohさん。

>「非科学的」だからその手段をとるべきでないと云う基準を置くことは、まさに個人的な経験の範囲を超えて共有することのできる判断基準に従おう、と云うことなのに。

ちょっと面白いたとえ話を思いついたんですね。近所に引っ越して来た人が「あそこのヘッポコ神社でお守りを買って持っているの」「あのヘッポコ神社は、近所の金持ちのおじさんが年取ってからおかしくなって勝手に作ったしろもので由来もなにもないよ」「えっ、じゃあ霊験もないかなぁ~」なんてね。「心の平安」のためのお守りだって「由緒正しい神社」の方が良く感じるのだって、まあ社会的な一つの判断基準なんですね。

古賀徹氏は、はたしてこの話に対して「『由緒が正しくない』からそのお守りを霊験が無いという批判は、多くの場合それ自体非宗教的だといえよう。」と言うのだろうか?なんて考えてしまいます。

なんていうか、信頼の根拠みたいなものがどこにあるかね。例えば健康食品を食べている人に「お守りの方が気が休まるよ」と言ってあげたときに、「どっちも気休めだから、どちらでも良いんだ」という人にその健康食品の非科学性を言っても仕方ないけど、そう言ったときに「お守りなんて非科学的なものよりこの健康食品が良い」という様なら、その人には「その健康食品の能書きも非科学的ですよ」と言ってあげるべきでしょう。その人は「気休め」の根拠としてその健康食品が科学的だと間違いを信じている訳だからね。

同じように「お守りの形さえしていれば気が休まるの」という人に神社が由緒正しいかどうかを言っても仕方ないけど、「何か由緒正しそうな神社だ」という事でそのお守りに「気休め」を求めている人には「由緒正しく無い」という情報は伝えてあげる意味がある。

なんていうかな、「九大に芸術工学部なんてあったっけ」と思って調べたら、九州芸術工科大学と統合してできた学部でした。別に学部の由緒をウンヌンする気は無いのだけど、その学部の理念が「技術の人間化」だそうでして、それなら、もう少し人間とか社会というものについて深く思考を巡らして欲しいと思ったりします。

by 技術開発者 (2011-09-06 12:41) 

cosi

poohさん、はじめまして。

私は、今回のエントリーにあげられている古賀氏の意見には、同意できるところが多いです。
とはいえ、poohさんの憤りも、一応理解したつもりです。

古賀氏の考えは、(ものすごく簡略化すると)『個人差を考えたら、非科学的方法でも、試したって良いではないか?それを批判するのは逆に非科学的だ』と理解しました。

それに対し、poohさんの憤りは、膨大なエビデンスの積み重ねの成果や努力を評価しないで、個人的体験や感覚の方を重んじることへの反感、と理解しましたが、合ってますでしょうか?

確かに膨大なエビデンスの積み重ねは貴重なものであります。でも、一方で「世界でたった一つだけの人生」でありますから、個人的体験や感覚や事情も、その本人にとっては、それ以上に重要だと私は考えます。

個人差には、身体的な差はもちろんのこと、精神的な差および価値観の差にいたっては、相当なものがあります。
だから、誰かが非科学的な方法を試すのを、あれこれ批判したり、茶化したりするのは、その人の価値観に踏み込むことであり、やり方によっては失礼にあたると思います。
科学的に事実であっても、それをそのまま言うことが、時と場合によっては妥当とはいえないことが多々あります。

「その人一人なら批判しないよ。周囲に勧めたりするから、勧めなくても広まって、結果的に社会に悪影響を及ぼすから、批判しているんだ」と反論されるでしょう。
でも、周囲に勧めたところで、勧められた人は、また、その人自身で情報を集め判断するわけですから、その人自身の価値観ということになります。
そして、そのような個々の価値観を持った人が集まり、結果的に出来上がるのが社会です。

ニセ科学批判の人達の考えを読むと、社会構成員の価値観をなんとか自分達に近いものに修正して、自分達の考える良い社会に導きたい、という願望が見受けられます。
私には、そのような発想は自己中心的に思え、幼稚さや傲慢さを感じます。

poohさんの文からの引用
>「非科学的」だからその手段をとるべきでないと云う基準を置くことは、まさに個人的な経験の範囲を超えて共有することのできる判断基準に従おう、と云うことなのに。

「共有できる判断基準に従え」と言われているようで、同意できない部分です。
そのような判断基準を参考にはするが、最終的には、自分自身の判断基準(価値観)を最優先させたいです。
もちろん、そのような共有の判断基準を軽んじたり、無視するわけではないのです。
参考にし、尊重もした上でのことです。

>とりあえず科学的に効果が証明されていないものを摂取する人を「非科学的」だと批判することがどのような切実さのなかで行われているのか、

逆に想像力を働かせてみると、非科学的とされている物を試すしかない人たちもまた、切実な状況にいるのではないでしょうか?
だから、「批判」するのでは届かないと思います。
「批判」されたら、不快に思って心を閉ざす人がほとんどでしょうから。

私が思うに、非科学的方法に対応する際に、いわゆるニセ科学批判を行う際に、反感を買わない範囲は、「客観的な情報を提供し続けること」のみではないかと。
情報提供を淡々と行うことが、急がば回れで、一番効果的ではないでしょうか?

EM菌なら効果ないよ、という情報を出し続けるだけでよいのです。
例えば、kikulogでの菊池さんのように、「EM菌に言及している野呂美加さんについていくな」とまで発言すると、一歩踏み込みすぎになり、純粋に科学的な情報提供ではなくなっています。
人物批判となっているので、科学とは別の方面からの反感反論がくるわけです。
反感買ってもかまわないという姿勢でいると、通じるものも通じなくなると思います。

いきなりの長文で、失礼いたしました。
by cosi (2011-09-06 16:43) 

pooh

> 技術開発者さん

> その人は「気休め」の根拠としてその健康食品が科学的だと間違いを信じている訳だからね。

まぁ、このあたり難しくはあるんですよ。それが「科学的」だと信じている、と思っているひとが、ほんとうにそうなのか。それとも、きっかけが「科学的」と云う評価だったってだけで、じっさいには違うのか。
ここのところを見抜くのはそんなに難しくないんですが、語りかけかたが難しい。

> 学部の理念が「技術の人間化」

人間化、って、それこそ科学的なアプローチが重要なんじゃないかと思うんですけどね。
by pooh (2011-09-06 18:51) 

pooh

> cosiさん

いらっしゃいませ。

さて、ぼくはcosiさんがひごろどのような主張をされているのか、いくらか存じています。ぼく自身が可能な範囲で誠実にお答えしても、まずそれをそのまま真面目に読み取ってはもらえないだろうな、と云う予断がぼくにはあります。ここできっちりとお返事することにも、あまり意味がないだろう、とも感じています。
ただまぁそう云う予断に囚われて適当にご納得いただけるようなお返事をするのも、あまりいいことではありませんよね。とりあえず、cosiさんの誠実さを信頼して、始めてみますね。

> 古賀氏の考えは、(ものすごく簡略化すると)『個人差を考えたら、非科学的方法でも、試したって良いではないか?それを批判するのは逆に非科学的だ』と理解しました。

おっしゃっていることはそのような内容だと思います。ただ、なぜそれを批判するのが非科学的なのか、と云うあたりがわからないので、cosiさんと違って「理解した」とは云えませんが。と云うか、どうしてcosiさんには理解できるのか、どんなふうに理解したのか、そこがわかりません。

> poohさんの憤りは、膨大なエビデンスの積み重ねの成果や努力を評価しないで、個人的体験や感覚の方を重んじることへの反感、と理解しましたが、合ってますでしょうか?

合ってません。本文にちゃんと書いているので、どうぞ読み返してください。

と云うわけで、ほんとうはここで話を打ち切るのが正しいのはわかっているんですけど、もうすこし続けてみますね。

> 一方で「世界でたった一つだけの人生」でありますから、個人的体験や感覚や事情も、その本人にとっては、それ以上に重要だと私は考えます。

同感です。「それ以上」かどうかは、そのひとがなにに重きを置くか、によるでしょうけど。

> 科学的に事実であっても、それをそのまま言うことが、時と場合によっては妥当とはいえないことが多々あります。

同感です。
で、このエントリで、ぼくはそう云う振る舞いをしている、とおっしゃっているのでしょうか(それともどれか、別のエントリで)。ぼくとしては心外ですが。

> 「その人一人なら批判しないよ。周囲に勧めたりするから、勧めなくても広まって、結果的に社会に悪影響を及ぼすから、批判しているんだ」と反論されるでしょう。

ちょっと考えたんですが、このエントリはそう云う内容ではないような。どのへんを読んで、ぼくがそう主張していると読み取ったんでしょうか。
まぁでも、そのように考えています。ここが同意できないのは、たぶんおっしゃるとおり社会に対する価値観の相違でしょうね。

> でも、周囲に勧めたところで、勧められた人は、また、その人自身で情報を集め判断するわけですから、その人自身の価値観ということになります。
> そして、そのような個々の価値観を持った人が集まり、結果的に出来上がるのが社会です。

cosiさんのお考えになる社会では、法律も民主主義も不要ですね。
ぼくはそう云う社会に住みたくはありません。個人的な意見なので、cosiさんとは違うかもしれませんが。あと社会は結果的にできあがるのではなく、そのプロセスも重要だと考えています。「先人の努力」ですね。

> ニセ科学批判の人達の考えを読むと、社会構成員の価値観をなんとか自分達に近いものに修正して、自分達の考える良い社会に導きたい、という願望が見受けられます。

具体的に例示してもらえると、どうしてそんなふうにcosiさんが感じたのか、と云うことについて考えを巡らせることもできるのですが。例えば、ぼくの書いたものの中では、どのような部分でしょうか。

とは云え、まぁ、cosiさんのおっしゃることが理解できないわけではありません。例えばcosiさんがお寄せくださったコメントが、ぼく(あるいはここをお読みのだれか)の価値観をなんとかご自身の近いものに修正したい、と云う意図に基づいている、と云うことと同様の意味合いでは、おっしゃるとおり、とも云えます。なにかを主張する、というのは、根本的にそう云う側面を持っています。なので、

> 私には、そのような発想は自己中心的に思え、幼稚さや傲慢さを感じます。

これはどうでしょうか。ご自身についてはいかがですか?
直接書いていないことを「合ってますでしょうか」「感じます」みたいな云い回しで決めつけて批判するのは、「幼稚」だったり「傲慢」だったりはしないのでしょうか。

> 「共有できる判断基準に従え」と言われているようで、同意できない部分です。

cosiさんは社会のなかで共有しうる価値基準、と云うことについてあまり意義を認めない価値観をお持ちのようなので、同意されても困ります。

> そのような判断基準を参考にはするが、最終的には、自分自身の判断基準(価値観)を最優先させたいです。

愚行権については本文で触れてます。cosiさんがご自身について、病気やけがに対して丹砂で対処しようが瀉血で対処しようが、それはご自由です。
まぁ、ぼくがcosiさんと面識があれば、なんとかやめさせようとするでしょうが、まぁ価値観に踏み込まれるのもおいやでしょうし。

> もちろん、そのような共有の判断基準を軽んじたり、無視するわけではないのです。

どっちなんですか。
と云う問いはすこしずるくて、じっさいにはひとは社会的に共有された価値観と自分自身の価値観の折り合いをつけながら暮らしています。それがふつうの姿です。で、その折り合いをどこでつけるのか、と云うのが重要な論点となるので、特に(区別することにそれほど意味はないですけど)文科系的な角度からのニセ科学問題へのアプローチではそこについての議論が重視されてきた経緯があるのですが、この部分についてはどのようにお考えなのでしょうか。「価値観」ですか?

> 非科学的とされている物を試すしかない人たちもまた、切実な状況にいるのではないでしょうか?
> だから、「批判」するのでは届かないと思います。

ぼくのどの、誰に対する言動についておっしゃっているのでしょうか。
もしくは誰の、誰に対する言動についておっしゃっているのでしょう。

> 情報提供を淡々と行うことが、急がば回れで、一番効果的ではないでしょうか?

それでは届かないと思うので、こうやってエントリを起こしたりしています。ぼくは科学者じゃないし、ニセ科学の問題がひとえに科学に関するだけの問題だ、とも思っていないので。

> kikulogでの菊池さんのように、「EM菌に言及している野呂美加さんについていくな」とまで発言すると、一歩踏み込みすぎ

菊池誠がどのような角度で野呂さんを批判しているのか、もういちどkikulogを読んでくるのをお勧めします。

> 反感買ってもかまわないという姿勢でいると、通じるものも通じなくなると思います。

ぼくがこのエントリでmoon-3さんやどらねこさんのエントリにリンクしたのは、どのような意図があって、だとお考えですか?
よろしければそれぞれのエントリをお読みになってください。

> いきなりの長文で、失礼いたしました。

ここでは、長文のコメントは失礼とは判断しません。ご安心ください。
ただ、エントリの本文やそれに続く議論をちゃんと読まないコメントは、最低限の敬意を欠いた態度だと感じます。この部分、ぼくとcosiさんでは価値観が違うかもしれませんが、ぼくはそう感じる、と云うことですので、今後留意していただければありがたいです。
by pooh (2011-09-06 19:03) 

pooh

続きをお書きになっている。
http://kogatoru.sakura.ne.jp/kblog/2011/09/06/280

このひとが、例えば自分の学生に質問された時も、こうやって議論のすり替えと藁人形論法で言い逃れしてるのかもしれない、とか思うと脱力する。
by pooh (2011-09-06 21:11) 

zorori

古賀徹准教授の記事は、「あれは効くよ」という体験談披露以上のものはなく、井戸端会議では良く聞く話にすぎませんね。poohさんがお怒りなのは、肩書きの元に書いており、何らかのアカデミックな言説を装っていることかと思いました。健康商品に効果があったと思い込んでいる一消費者(被害者)のありふれた話だなと私は感じ、そこまで怒りは感じなかったのですが、cosiさんのコメントを読んで、poohさんの危惧が良く分かりました。ただの人が書いた記事なら共感を「感じる」だけでわざわざその「共感」を表明するコメントを書く人はいないと思うのですが、准教授の記事ともなると、違うんですね。何か有意義なことを言っている「理解」したと思う人は出てくるんですね。何らかの学術的な言説があるように思ってしまうのでしょうか。
by zorori (2011-09-07 07:03) 

pooh

> zororiさん

自分の職業を明かして放つ言説は、当然ながらその職業倫理に照らしての角度からも評価されるわけです。
で、ぼくはアカデミア内部の人間は、つねに「あるアスペクトにおける『普遍』」を探求する存在だ、と考えます。その普遍を担保するのが、あるときにはアカデミア内での権威システムでもあるでしょうし、場合によっては「科学」でもある。
そう云う話だと思うんですよ。
by pooh (2011-09-07 07:34) 

cosi

poohさん、普段の私の発言を知っていながらも、誠実な応対をしてくださり、どうもありがとうございます。
私なりにはエントリーもちゃんと読んで、リンク先も読んでの発言なのですが、poohさんが仰るにはまだまだ理解が足りない、と。

zororiさんのコメントから、poohさんのメインに言いたかったことはそっちだったのかと理解できました。
そんなに古賀氏の社会的な立場が重要ですかね?ネット上では軽い意味しかないと思っていました。
古賀氏の続きも読みましたが、特に異論はなく、なるほどねとしか思いませんでした。
でも、それはもともとの私の考えに近いからであって、古賀氏がどこぞやの准教授だからと、影響を受けてのことじゃありません。

でもまあ、ツイッターなどで散見される(そして私の)菊池さんへの批判には、必ず「学者としては」とか「阪大教授の肩書きで物言っているのに」などがついてるので、そこは重要ポイントなんですよね。わかりました。

菊池さんの野呂さんへ発言に関しては、もうなんども読み返しています。
菊池さんは、野呂さんのことをしっかり理解してから批判しているのかな、EM菌の部分に引っかかって批判しているのでは?というのが、感想です。
というのは、野呂さんの講演をユーチューブで見てみましたが、EM菌を大々的に宣伝しているようには見受けられなかったからです。
メインは自分達の活動報告や、チェルノブイリの被害報告などであって、EM菌は質疑応答の部分でのおまけのような印象でした。
聴衆に積極的に勧めているようにも見えませんでした。
どちらかというと自信無さげに、「私は使ってますが・・」くらいでした。

だから、「野呂さんが使っていると公言しているEM菌は、効果がありません」「酵素なんちゃらは効果ありません」という言い方だけであれば、私も納得なのです。
でも、きくちさんの書き方は、「こんなトンデモを言っている野呂美加さんについていくな」という書き方だったのです。
だから、「えっ?チェルノブイリの子供達への功績の部分やその他の体験談や知識は評価しないの?」と違和感を感じたのです。
たった一行だけ『もちろん、チェルノブイリの状況を伝えてくれるのは重要だとは思います。』とは書かれてはいますが。
いや、もっとそのチェルノブイリの状況報告の部分を評価しようよ、と私は思ったのでした。

以下、他の質問にも答えてさせてもらいます。

>ただ、なぜそれを批判するのが非科学的なのか、と云うあたりがわからないので、
>どうしてcosiさんには理解できるのか、どんなふうに理解したのか、そこがわかりません。

私も、非科学を選択するのを批判することが「非科学的」とは考えません。ただ私は、非科学的方法を選択することの多い人間として、批判されるのが「不快」とは感じています。
だから、古賀氏の意見に一字一句同意しているのではなく、全体的な主旨に賛成しているというふうにご理解ください。

>で、このエントリで、ぼくはそう云う振る舞いをしている、とおっしゃっているのでしょうか
>ちょっと考えたんですが、このエントリはそう云う内容ではないような。どのへんを読んで、ぼくがそう主張していると読み取ったんでしょうか。

不快にさせたのなら、すみません。読んで連想したことまで書いてます。

>cosiさんのお考えになる社会では、法律も民主主義も不要ですね。

どうしてそういう結論になるのかわかりません。
法律や民主主義となると、話が大きくなりすぎます。

>ぼくはそう云う社会に住みたくはありません。個人的な意見なので、cosiさんとは違うかもしれませんが

確かに私とは違いますね。

>あと社会は結果的にできあがるのではなく、そのプロセスも重要だと考えています。「先人の努力」ですね。

こういうのを読むと、同意はできませんが、poohさんのまじめさというかパッションに感心します。

>具体的に例示してもらえると、どうしてそんなふうにcosiさんが感じたのか、と云うことについて考えを巡らせることもできるのですが

上の「ぼくはそう云う社会に住みたくはありません。」からも感じます。あとは、リンク先のどらねこさんの文章からも感じました。例えば、
「相互の信頼が喪われた社会は高コスト社会なんだよ、と謂う理解がみんなに共有されていれば、人の信頼につけこもうと思う人も少なくなるかもしれない。」
などから、ニセ科学批判によって世の中を良くしようと考えている、と受け取ったのです。
もちろん、その気持ちは純粋で素晴らしいと思います。ただ、世の中や人間がそんなに単純なものとは、私は思えません。代替医療を悪徳業者と同じレベルで考えることにも同意できません。

>これはどうでしょうか。ご自身についてはいかがですか?
>直接書いていないことを「合ってますでしょうか」「感じます」みたいな云い回しで決めつけて批判するのは、「幼稚」だったり「傲慢」だったりはしないのでしょうか。

私自身が幼稚で傲慢かと聞かれれば、「はいそうです」と答えます。
ただ、決め付けて批判しているつもりはなく、理解しようとしています。
その上での意見と受け取ってもらいたいです。

>この部分についてはどのようにお考えなのでしょうか。「価値観」ですか?

そうです。最終的には、社会的に共有された価値観よりも、自分自身の価値観が一番重要です。
病気の治療法でいえば、あらゆる信用に足りる最新のエビデンスを検討した上で、社会的経済的な様々な事情も考慮してから、自分自身の価値観、死生観を最終的には一番重要視して、結論を出すということです。そういうことを考えていられる状況にあれば、のことですけどね。

>ぼくのどの、誰に対する言動についておっしゃっているのでしょうか。
>もしくは誰の、誰に対する言動についておっしゃっているのでしょう。
(これは、私の
『非科学的とされている物を試すしかない人たちもまた、切実な状況にいるのではないでしょうか?だから、「批判」するのでは届かないと思います。』に対してのご質問です。)

これは誰かの具体的言動の話がしたいのではないのです。
非科学的とされている物を試すしかない人達は、切実な状況にいるからこそ、ニセ科学「批判」というように、いきなり批判から入る活動は、拒絶反応を起こしやすく、届きにくいのではと言いたいのです。
例えば、「ニセ科学批判」でなく、「ニセ科学問題を考える会」の方が、穏やかな印象を受けます。(インパクトは減りますが)
「批判」スタンスではなく、「一緒に考えよう」スタンスが良いのではということなんです。
by cosi (2011-09-07 11:52) 

pooh

> cosiさん

まぁ、ある程度予想通りの反応ですね。
ちょっと労力を傾けるのに気が進まなくなっています。

> poohさんが仰るにはまだまだ理解が足りない、と。

理解が足りない、と云うか、ご自分の云いたいことにぼく(なり誰か)の書いたことをあてはめて読解しようとされていますよね。そもそも理解するつもりがないんだろうな、と思っています。

> そこは重要ポイントなんですよね。わかりました。

わかってないと思います。
と云うかこちらには、cosiさんはそう云うあたりを自分の都合で使い分けるのがふつうだと考えているんだ、と云うのがわかりました。そう云うひとのおっしゃることを真剣に捉えようとするのはむずかしいです。

> いや、もっとそのチェルノブイリの状況報告の部分を評価しようよ、と私は思ったのでした。

いま、どんな言動をしているのか、と云うのが問題なのです。
そしてそれは必ずしもEM菌にまつわる部分の話だけではありません。

> ただ私は、非科学的方法を選択することの多い人間として、批判されるのが「不快」とは感じています。

要は、ご自分が不快だから黙れ、ですか?
重ねて云いますが、cosiさんがご自分の体調不良に丹砂で対応しようが、瀉血で対応しようが、それはご自由です。もちろん、他者にそれを勧めるようなことがあれば別です。

> 不快にさせたのなら、すみません。読んで連想したことまで書いてます。

連想の筋道は軽視したまま、他人にそれを投げつけている、と云うことですね。そう云う態度はたぶん誰にとっても不快です。
もちろんぼくには、ぼくにとって不快なことをcosiさんがお書きになるのを、不快だからと云う理由で咎めるつもりはさらさらありませんが。

> 法律や民主主義となると、話が大きくなりすぎます。

ご自分の都合で議論を矮小化しないでください。真面目に議論しているひとたちに対して例を失した態度です。
この部分は、公的な判断が下される場合になぜそこに科学的な根拠が必要なのか、と云う重要な議論が前提とされています(実例はご自分でお探しください)。その部分には関心がないから無視する、では対話になりません。

> poohさんのまじめさというかパッションに感心します。

ぼくはcosiさんの適当さに一種の感銘を受けています。

> 私自身が幼稚で傲慢かと聞かれれば、「はいそうです」と答えます。

開き直るのは勘弁して下さい。ぼくは「幼稚で傲慢」な態度をとることを自分に許すようなひとをまじめに相手にする理由を持ちません。

> 最終的には、社会的に共有された価値観よりも、自分自身の価値観が一番重要です。

なので、そこについてどんな議論が積み重ねられているのか、と云うことについて理解しようとする態度は不要である、と。
とことん議論の全容をご自分の関心範囲にだけ縮小しようとされる方ですね。

> そういうことを考えていられる状況にあれば、のことですけどね。

またご自分のご都合で条件を増やしてらっしゃいますね。

> これは誰かの具体的言動の話がしたいのではないのです。

実在しない誰かの話をしたいのでしょうか。そう云うひともまぁ、珍しくはないですが。

> 「ニセ科学批判」でなく、「ニセ科学問題を考える会」の方が、穏やかな印象を受けます。

「ニセ科学批判」と云う用語自体、レッテルとして使われたり、cosiさんのように実在するかどうか怪しい存在に向けて(表面上は誠実さを装って)異論を述べるような言説に使用されることが多くなったため、じっさいにはかつて「ニセ科学批判者」に分類されたひとたちの多くはあまり使用しなくなっています。
つまりこのことばは、誰ともなく虚空に向かって放たれたことば、と云うふうにぼくは受け止めてしまいます。それでいいんでしょうか。

> 「批判」スタンスではなく、「一緒に考えよう」スタンスが良いのではということなんです。

誰を相手にしたスタンス、と云うお話でしょうか。野呂美加さん、とかですか?
いい加減、話の補助線を相手に引かせるような卑怯な技巧を使うのはおやめなさい。

こう云う文脈でぼくに引用されるのは地下猫さんにとっても心外でしょうけど、こちらをご一読されてはいかがでしょうか。べつだんここからcosiさんがなにか感じ取ってくれるとは期待しないので、気楽なお気持ちで。
http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20090302/1235924264
by pooh (2011-09-07 19:11) 

pooh

typo.
「例を失した」→「礼を失した」
by pooh (2011-09-07 20:26) 

cosi

poohさん、お忙しい中、労力を傾けていただき、ありがとうございます。
もし、あまり気が進まなくなってきたのなら、一言「書き込まないでくれ」と書いてください。
遠まわしなサインではわからないので。
それではまず、poohさんのコメントへの返答から始めます。

>いま、どんな言動をしているのか、と云うのが問題なのです。
>そしてそれは必ずしもEM菌にまつわる部分の話だけではありません。
→放射線対策が非科学的であること以外に、「チェルノブイリのかけはし」の活動に、なにか問題があるのですか?私が見る限り、今も「状況報告」がメインなので、放射線対策の非科学性に問題があるにしろ、メインまで切り捨ててはまずいと思うのですが。そのメインの部分でも何か問題があるのですか?

>要は、ご自分が不快だから黙れ、ですか?
→不快だと言っているだけで、黙れとは言ってません。また、「不快」だけだと言葉が足りなかったので、後からこの点は補足します。

>重ねて云いますが、cosiさんがご自分の体調不良に丹砂で対応しようが、瀉血で対応しようが、それはご自由です。もちろん、他者にそれを勧めるようなことがあれば別です。
→他者に勧めることの是非ですが、やはり何の手立てのない場合、例えば古賀氏の医者から見離された症状などの場合だったら、勧めてみるかもしれません。通常医療で手立てがないのだから、何もせずに我慢できる人はすればいいけれど、我慢できない人もいます。そういう場合、駄目元であれこれ周囲が勧めるのは、なんら問題があるとは思えません。最終的にやるかどうか決めるのも本人ですし。もちろん悪化させる可能性のあるような危険なものはいけないと思います。たいていの代替療法や民間療法や健康食品情報は、副作用や危険性が低いものが多いので、多くの場合、問題ないでしょう。例えば、古賀氏の例で言うと、刺さない針治療とかキムチ納豆とか。こういったものを、「私も同じような症状で手立てがなかったが、これこれのことをやって、どれが効いたかわからないけど、良くなった」と困っている知人に言うのは、そんなに問題のあることとは思えません。「絶対やれ」と引きずって行ったり、無理やり買わせたりしたらいけませんが、その場合はまた別問題、人間関係自体の問題です。

>ご自分の都合で議論を矮小化しないでください。真面目に議論しているひとたちに対して礼を失した態度です。この部分は、公的な判断が下される場合になぜそこに科学的な根拠が必要なのか、と云う重要な議論が前提とされています(実例はご自分でお探しください)。その部分には関心がないから無視する、では対話になりません。

→この部分の流れを最初から振り返ってみます。

(私)『でも、周囲に勧めたところで、勧められた人は、また、その人自身で情報を集め判断するわけですから、その人自身の価値観ということになります。 そして、そのような個々の価値観を持った人が集まり、結果的に出来上がるのが社会です。』
(poohさん)『cosiさんのお考えになる社会では、法律も民主主義も不要ですね。』
(私)『 法律や民主主義となると、話が大きくなりすぎます。』

私は、「公的な判断が下される場合に、なぜそこに科学的な根拠が必要なのか」という議論は、前提として含めていません。
だから、そういう議論が前提とされていると、いきなり言われても、正直どういう意味かわかりません。
そういう話に関心が無いわけではないのですが、この文脈でその議論を勝手に始められても困ります。
私がこの文脈で話しているのは、個々人の病気の治療法の判断についてであって、公的な判断の話はしていないのです。
個人がどう病気に対処していくかまで全部法律で決めるのですか?民主主義で?そういうのは公的な判断には含めないのでは?
公的な判断というのは、例えば医療福祉政策に関することですよね?
保険診療として認めるかどうかとか。病院の建物の大きさとか人員の配置とか。介護保険とか。在宅医療を推進するとか。
そういう医療福祉政策の話は、この文脈ではしていません。
単に、個人的な治療法の選択に関しての話です。
まさか、そういう大きな政策的な話と、個人的な治療選択の話を一緒くたに議論されるおつもりですか?

>なので、そこについてどんな議論が積み重ねられているのか、と云うことについて理解しようとする態度は不要である、と。
→そんなこと一言も書いてませんし、考えてもいません。

>またご自分のご都合で条件を増やしてらっしゃいますね。
→これは、私の『そういうことを考えていられる状況にあれば、のことですけど。』に対するものですが、これは、例えば意識障害を起こすような状態に陥った場合を想定しています。増やしても良い条件、いや、どちらかというと極めて重要な条件であり、「私の都合で」という軽い条件設定ではないです。誰だってそういう事態に陥ることはあり得ます。

>「ニセ科学批判」と云う用語自体、レッテルとして使われたり、cosiさんのように実在するかどうか怪しい存在に向けて(表面上は誠実さを装って)異論を述べるような言説に使用されることが多くなったため、じっさいにはかつて「ニセ科学批判者」に分類されたひとたちの多くはあまり使用しなくなっています。
→そうなんですか。それは初めて知りました。

>誰を相手にしたスタンス、と云うお話でしょうか。野呂美加さん、とかですか?いい加減、話の補助線を相手に引かせるような卑怯な技巧を使うのはおやめなさい。
→これは、前の方に、『非科学的とされている物を試すしかない人達は、切実な状況にいるからこそ、ニセ科学「批判」というように、いきなり批判から入る活動は、拒絶反応を起こしやすく、届きにくいのではと言いたいのです。』と書いています。
だから、「切実な状況にいる非科学的とされている物を試すしかない人達」に対してのスタンス、という話です。そういうふうに読み取って欲しかったのです。私の文章力の問題なのか、poohさんの読解力の問題なのか、その両方なのかわかりませんが。とにかく卑怯な技巧とやらは、使っておりません。


ここまでで一通り、poohさんのコメントの議論に応じました。
ここからは、「不快だけでは言葉が足りないので補足します」と言っていたことや、それに関係することを書きます。

私は、「通常医療での手立ての無い場合に非科学的な方法を試すこと」ばかりを、科学的でないからと批判するのは、「不快」なだけでなく「アンフェア」だとも思っています。

周知のとおり、「科学的」とされている通常医療さえも、科学的に完全な存在ではありえません。例えば、科学的証明のある薬剤と言っても、治験の段階で科学的有効性や安全性が確認されたというだけであり、それぞれの個人が服用する際は、有効であるか安全であるかは、毎回「一事例のRCT」を行なっているようなものです。

つまり、科学的証明のある薬剤は、(個体差を考慮しないでよい物理の世界と違って)、証明されていると言っても、個人にとっては、効能も安全性も、証明されきっているわけではないのです。
だから犠牲者が出るのです。その数は代替医療の犠牲者とは比較にならないほど多いものです。実例を挙げよと言われれば、「薬の副作用」とでも打って、ネットを検索すれば、怨嗟の声に出会うことは簡単です。(特定のブログをあげることは迷惑になるので出来ません。)

また、金銭的損失の点からいうと、例えば、効能がないということで認可が取り消された脳代謝改善薬は、日本で8000億円の医療費を消費したそうです。

もちろん、それらの莫大な金銭的損失と、貴重な犠牲者の方達の命を無にしないよう、エビデンスに基づく医療(EBM)を築いていかなければならないわけです。それには私も大いに同意します。

ただ、ここでEBMに関して、「エビデンスになにがなんでも従わなければならない」という誤解をされている人もいます。ちなみに私も以前はそうでした。
前回のコメントでも書きましたが、最新のエビデンスを踏まえた上でも、社会的経済的、そして地域的事情にも左右されるし、最終的には個人の死生観、価値観が最優先されると考えています。つまり、患者本人の価値観を重要視して最終的に判断をくだすのであって、エビデンスにがんじがらめにされないということです。これは、Wikiで、根拠に基づいた医療(EBM)の項を読んでもらうとわかります。Step4として解説してあります。

そういうわけで、古賀氏がブログの続きで「統計的な証明(としての科学的な証明)は個別事例(この状況にある私)を絶対的に拘束しない」と主張されているのに、私も賛同するのです。
そして、古賀氏はこうも書かれています。
『「生活者が、代替的療法を「一つの手段」として適宜利用し、結果的に状況がよくなったからと言って、それは科学を、そして科学を信頼する人々を否定するものではないのである。』
これにもまた同意なのです。
古賀氏と私の意見は、EBMと矛盾することではないのです。

引用された地下猫さんやどらねこさんの文章から類推して、poohさんが主張したいのは、非科学的な方法を試すのを批判するのは、人が死ぬことがあるから、そして金銭的損失があるからこそなのだ、と推察しました。
「人が死ぬ」という点ならば、上に書いたように、通常医療の方が、桁違いに多いです。もちろん人数だけの問題ではないですが。「金銭的損失」もそうです。

だから、きくちさんが絶賛されているサイモン・シンの「代替医療のトリック」を読んでも、代替医療をまな板にあげるのもいいけど、もっと人命も、お金もかかっている方向にも、目を向けて欲しいものだと思うのです。
デーヴィッド・ヒーリーの「抗うつ薬の功罪」などの方が、よほど多くの人命と、多額のお金にかかわる科学的な著作であると思います。だから、きくちさんがサイモン・シンの本を絶賛するだけでなく、ヒーリーの「抗うつ薬の功罪」のような、通常医療の非科学性を追及する類の本も取り上げてくれて、絶賛してくれれば、ニセ科学批判はフェアだと賛同できるのです。

「抗うつ薬の功罪」のコメント欄を読むだけでも、医療(この場合は精神医療)が科学的なのかどうか、非常に難しい状況にあることがわかります。
そのような状況なのに、普通はあまり害の無い(もちろん例外はありますが)、代替医療だけをあげつらっているように見えるので、アンフェアに感じるのです。
これはあくまで、私の考えであって、poohさんに強制するつもりはさらさらありません。
ただpoohさんに、このような考えもあると知ってもらいたいだけです。
by cosi (2011-09-08 19:36) 

pooh

> cosiさん

あなたを大人の論者として扱ったのが間違いでした。
いや、それが間違いなのは最初からわかってましたけど。あなたの議論と云うのは、ふっかけた相手が自分の考えていないことについては全部教えてくれるものだ、と云うのが前提なんですね。そこがはっきりしました。

> 労力を傾けていただき、ありがとうございます。

国語辞典を引いて、慇懃無礼、と云うことばにマーカーで線を引いておいてください。

> もし、あまり気が進まなくなってきたのなら、一言「書き込まないでくれ」と書いてください。

そう云うことを書いておいて、もしこちらがそうしたら「追い詰めたら追い出された」みたいにどっかで喧伝するんですか。
そう云う「黙らせれば勝ち」的なやりくちは、議論とは云いません。

> この文脈でその議論を勝手に始められても困ります。

要するにcosiさんは、「自分で考えた『ニセ科学批判』」の話をしてるから、現実に行われて来たものの話なんかは知らないし、教えてもらえなければちゃんと知ろうとするつもりもない、と云うことですね。

> 周知のとおり、「科学的」とされている通常医療さえも、科学的に完全な存在ではありえません。

まずcosiさんは「科学的」と云うのがどう云う意味なのかを調べてください。
日本語で使われている意味とは違うみたいなので、議論以前に対話がなりたっていません。「科学的に完全」とはどう云う謂なんですかね。

> 科学的証明のある薬剤と言っても、治験の段階で科学的有効性や安全性が確認されたというだけであり、それぞれの個人が服用する際は、有効であるか安全であるかは、毎回「一事例のRCT」を行なっているようなものです。

疫学の否定ですね。古賀志同様、非常におおきな議論です。

> だから犠牲者が出るのです。その数は代替医療の犠牲者とは比較にならないほど多いものです。

だいたいの効果のない代替医療で稼いでいるひとたちのロジックとおなじですね。どうしてぼくが丹砂や瀉血を例に上げたのか、考えてみてください。

> 引用された地下猫さんやどらねこさんの文章から類推して、poohさんが主張したいのは、非科学的な方法を試すのを批判するのは、人が死ぬことがあるから、そして金銭的損失があるからこそなのだ、と推察しました。

省略のしすぎです。ほんとうにリンク先を読んだんですか?
どんな補助線を引いてあげても、自分の主張に都合の悪いものは読まない、と云う姿勢で、対話をしているつもりになってるんだとすれば、それはおおきな誤解なので、覚えておいてください。

> 普通はあまり害の無い(もちろん例外はありますが)、代替医療だけをあげつらっているように見えるので、アンフェアに感じるのです。

実例を挙げてください、と何度書けばおわかりになるのか。

もうひとつだけ、参考になるかもしれないURLをお教えします。誰かと対話をしようとするときは、毎回かならずこれを読み返してから始めるようにしてくださいね。
http://www.hi-ho.ne.jp/inverse/kibennogaidorain.htm
by pooh (2011-09-08 23:56) 

pooh

あ、ちゃんと書いておかないと、誤解されるかもしれない。

> cosiさん

最後に挙げたURLは、ここにあるようなテクニックを使えば相手を追い詰められる、と云う意味じゃないですからね。そう云うことをするとふつうは相手にされなくなる、と云う意味ですからね。
(意図を説明しないと、リンク先を読んで意図を察する、なんてことは期待できないですもんね)

ひとつだけ付け加えておきます。
意味不明のフェアネスを論じるまえに、なぜEBMが重視されるのか、なぜ共有できる判断基準が重要とされているのか、と云うことについて、まじめに考えてみてください。
by pooh (2011-09-09 00:38) 

TAKESAN

お早うございます。

当たり前の事ですが、科学は一事例(ごく小サイズ)の研究も射程に入れています。
「シングルケースデザイン」や「一事例実験」などで検索する事をお勧めします。心理臨床や理学療法、行動分析学等で用いられているデザインだと思います。
http://www.naruto-u.ac.jp/~rcse/s_singlesub.html

もちろん、「効く」という事を一般的に言うには、RCTやメタ解析などによる検討が必須であるでしょう。

EBM概念についてはこちらが参考になりそうですが、いかがでしょうか
http://www.igaku-shoin.co.jp/nwsppr/n2002dir/n2476dir/n2476_02.htm
by TAKESAN (2011-09-09 08:52) 

TAKESAN

シングルケースデザインについて、心理学の長谷川氏の論考もありますので、こちらも(PDF)。
http://www.okayama-u.ac.jp/user/hasep/articles/2007/_712Hasegawa/_712Hasegawa.pdf
by TAKESAN (2011-09-09 08:59) 

技術開発者

こんにちは、 pooh さん。こいう話をみているとやりきれなくなるんで、馬鹿話を書かせて下さい。

私の知人にセルダンという奴がいまして、最近「サイコヒストリー」なんてのを作り上げましてね。これは、個々の人間の将来は予想できないけど、或る程度の人数(50万とか100万とかね)より上の集団の将来は予想できるなんて言うのですよ。でね、彼が言うのには「これから日本の1億2千万人は、文明の衰退ぶち当たる」のだそうです。製造される電化製品とかは「**イオン」とかのヨタ機能ばかり重視されて本来の機能とか堅牢性はどんどんと低下し、医療はどんどんとおまじないに取って代わられ、教育は非合理な話がどんどん取り入れられて子供たちは、おまじないと学問的成果間の区別もがつかないように育てられるようになっていく。数十年後には、日本は混沌が支配する国なっていくという予想なんですね。
 でもって、「予想出来るなら、対策もできるだろう」って聞いたら「もう手遅れ」なんだそうです。なんていうか何十年後におきる予想を覆すためには何十年か前から手を打たなくてはならないらしいのね。でもって、彼が言うには、「今から手を打つと、混沌は避けられないけど混沌を短くする事はできる」なんて言うのね。彼が言うにはその混沌は数百年にわたって続くのだけど、今から対策すると100年後に効果が現れるから短くはできるという訳ね。
でもって「何をするんだ」って聞いたら、「混沌の中にもう一度文明のタネを仕込む」んだそうで、要は今居る文明のエッセンスみたいな人間と知識を日本の辺境に集めて図書館をつくりそれを守るんだそうです。その辺境につくる図書館の名前は「ファウンデーション」というらしいのです。

実は、私もセルダンさんから「ファウンデーション」に行くように言われているのだけど、pooh さん、一緒に来ませんか?

なんていうか、そんな夢でもみたくなるんですね(涙)。

by 技術開発者 (2011-09-09 17:25) 

pooh

> TAKESANさん

おお、なるほど。ありがとうございます。
まずは因果関係を推察することに焦点を当ててデザインされた検証、と云うことですね。こう云う手法もあるのか。

> EBM概念についてはこちらが参考になりそうですが、いかがでしょうか

これについてはぼくもちょっと理解が浅かったかも。確かに多くの場合EBMと云うことばは、批判的文脈では「料理本医療」と同義で捉えられていますね。
by pooh (2011-09-09 18:15) 

pooh

> 技術開発者さん

これまたえらいひとと面識をお持ちですねぇ。

> 数十年後には、日本は混沌が支配する国なっていくという予想なんですね。

なんか、ずいぶんと頽廃の速度が速いなぁ、みたいに感じたりはするんですけどね。世界が加速しているから、仕方がないのかもしれませんけど。
とりあえず、例えばひとびとが築き上げてきて、自分がその上に乗っかって暮らしている「社会」とか「文明」とか云うものに対して、所与のものとして棚上げするスタンスでなにごとかを語ろうとするひとがいたりするわけです。まぁそれは一定の割合で社会のなかにそう云うひとは混ざってるわけですけど、そう云うひとたちは自分たちをその「社会」や「文明」(そしてそれを維持しているひとたち)が支えきれなくなる可能性については考えない。考えないから適当なことを口にできるわけですが。
ただ、アカデミアにいるひとがそれをしちゃいけない。巨人の肩の上から、その巨人の顔に唾する行為です。やるならそこから降りてからやれ、と。

> 「ファウンデーション」に行くように言われているのだけど、pooh さん、一緒に来ませんか?

そこに旨い酒と素敵な音楽も集められているといいなぁ。
by pooh (2011-09-09 18:24) 

cosi

poohさん、こんばんは。
前回の出だしを慇懃無礼と言われたので、初めの挨拶をフランクにしてみました。

>国語辞典を引いて、慇懃無礼、と云うことばにマーカーで線を引いておいてください。
→「お忙しい中、労力を傾けていただき、ありがとうございます」に対して、poohさんは慇懃無礼と感じてしまったのですね。ネット辞書でみたところ、「言葉や態度などが丁寧すぎて、かえって無礼であるさま。あまりに丁寧すぎると、かえって嫌味で誠意が感じられなくなるさま。また、表面の態度はきわめて礼儀正しく丁寧だが、実は尊大で相手を見下げているさま」と書かれてました。
でも私は、poohさんがその前のコメントで「ちょっと労力を傾けるのに気が進まなくなっています」と書かれていたし、おそらく仕事やその他の雑用もあるでしょうし、忙しいだろうと想像して、そのままの気持ちで書いただけです。
だいたい、同じような意見の持ち主と和やかに交流していたいのが普通だと思うのに、かなり対立する意見の持ち主とわかっていても、書き込むことを拒否しないので、その点においてpoohさんを評価していて、なかなか「あり難い」ことだと思っているのです。
そういう気持ちを込めて書いた一文です。「実は相手を見下げている」ということはありません。
どちらかというと、緻密な思考様式については、尊敬すらしています。

>そう云うことを書いておいて、もしこちらがそうしたら「追い詰めたら追い出された」みたいにどっかで喧伝するんですか。
→私には、そういう趣味はありません。

>「科学的に完全」とはどう云う謂なんですかね。
→次の文章で、『科学的証明のある薬剤と言っても、治験の段階で科学的有効性や安全性が確認されたというだけであり、それぞれの個人が服用する際は、有効であるか安全であるかは、毎回「一事例のRCT」を行なっているようなものです。』と書いています。
つまり、科学的手続きで認証された薬剤であっても、個人においては何が起こるかわからないという意味で、「科学的に完全ではない」と書いています。
なので「科学的に完全ではない」ではなく「科学的に完全に安全と証明され得ない」と書くべきでした。訂正します。
実は私は、さらに次の文で、
『つまり、科学的証明のある薬剤は、(個体差を考慮しないでよい物理の世界と違って)、証明されていると言っても、個人にとっては、効能も安全性も、証明されきっているわけではないのです。』
と書いているので、これで、「科学的に完全」でないことの意味を説明をしているつもりだったのです。でも、わかりにくかったですね。

認証された薬剤を、患者さんに医師が処方し、その後の経過を評価し対応する行為は、一事例の実験デザインの手法であり、科学的手法です。何か起こった際の対処もできるので、医師の資質にもよりますが、安全性が高いです。
しかし、薬局での売薬の服用となると、一事例RCTを個人が自分自身で行うことになるので、はなはだ危険な行為となります。
そういう危険なことが、製薬企業の「稼ぎ」のために野放しになり、TVでCMまで流されて購買欲を煽っていることもまた、批判されるべきでしょう。地下猫さんの表現を借りると「金と権力」の問題がそこにあります。
私は代替医療の批判よりも、重要なことと考えています。個人に副作用が起きた時の対処が遅れたり、誰にフォローされるわけでもないので依存症になることもあります。例えば鎮痛剤依存などが問題になっています。
もちろん薬の箱や説明書に注意事項が書いてありますが、それを自己責任で全部読んで理解し注意を守るのは、万人にできることではないでしょう。
そうしたことの危険性に気付いた人達が増えてきたため、「病院に行くほどのことでない軽い症状には安全性の高いものを」という流れになり、代替療法が流行していると、私はみています。もちろん、代替療法の方がかえって危険なことも、ごく稀にあることには、同意します。

>疫学の否定ですね。
>だいたいの効果のない代替医療で稼いでいるひとたちのロジックとおなじですね
→違います。わかりにくい文章でしょうが、もう一度読んでみてください。そういうことは言っていないです。

>実例を挙げてください、と何度書けばおわかりになるのか。
→菊池さんの例を、書いています。

EBMの部分がうまく伝わっていない気がするので、WikiのEBMのstep4の部分だけ、コピーしておきます。

<引用開始>
Step 4 批判的吟味した情報の患者への適用
問題の解決に向けて、得られた医学情報のほかに、一般常識や患者の希望を含めて、最良の選択肢を相談する。 治療法Aがもっとも長生きするとしても、患者は副作用の少ない治療法Bを希望しているかもしれない。このように、上で評価した研究の目的と、患者の望む目的が同一かどうかを検討しなければならない。 Step 4で考慮すべきことは、以下の4種が挙げられている。このいずれが欠けてもいけないし、互いにバランスが取られていなければならない。

リサーチエビデンス
臨床状況と環境
患者の嗜好と行動
臨床経験

実際には最も重要でありかつ労力を要するのはStep 4である。手法の優れた臨床研究が見つかっても、そこでの推奨が目の前の患者にとって最善であるかどうかの判断には、個々の患者の特性を見極め、医療環境や医療チームの技術水準を評価し、さらに患者の価値観を適切に把握する必要がある。Step 1〜3までの方法論はほぼ確立し、人によってその結果が大きく異なることがないのに対して、このStep 4には患者や他の医療者との対話・状況判断・統合力など引き続き人間である治療者として高度な経験と技術が求められる。
<引用終了>

つまりEBMにおいては、治療者側は、患者の価値観を適切に把握して、治療方針の決定に反映させなければならないのであり、「手法の優れた臨床研究」を一方的に推奨すればいいのではないのです。
これは、患者側からの意見としては、古賀氏の主張の「統計的な証明(としての科学的な証明)は個別事例(この状況にある私)を絶対的に拘束しない」と矛盾しません。

あと、お暇な時でいいので、「抗うつ薬の功罪」、コメント欄だけでも読んでみてください。こういう本を読まずして、医療問題を議論するのはどうかなと思います。広い目で医療というものを知った上で、代替医療の批判をして欲しいと思います。
by cosi (2011-09-09 20:51) 

pooh

> cosiさん

> 忙しいだろうと想像して、そのままの気持ちで書いただけです。

忙しいのが面倒なのではなくて、不誠実な相手と対話もどきをするのが虚しいだけです。

> かなり対立する意見の持ち主とわかっていても、書き込むことを拒否しないので、その点においてpoohさんを評価していて、なかなか「あり難い」ことだと思っているのです。

ずいぶんぼくも見下げられたもんですね。
自分のものさしで他人を推し測るのが無礼な振る舞いになり得る、と云う可能性について考えてみてください(いや、期待はしていないです)。

> 「科学的に完全ではない」ではなく「科学的に完全に安全と証明され得ない」と書くべきでした。訂正します。

ぼくは前回のコメントで、cosiさんにとって「科学的」と云うのがどう云う意味か訊ねました。そこに合意がない以上、今回の文章も理解不能です。
他人に自分の云いたいことだけまくしたてる前に、他人のことばを読もうとする姿勢を養ったらいかがでしょう。対話以前ですよ。
ぼくの訊ねたことを、どれだけ平然と無視してますか? こんなものは対話とは呼びません。

あと、cosiさんの思考に見られる「100%でなければなんでも同じ」と云うパターンは、ニセ科学の信奉者に見られがちな思考法ですよね。
書くのは3度目ですが、通常医療と丹砂や瀉血は同程度のものですか? そうでないとすれば、それはどう云う判断に基づくものですか?

> 菊池さんの例を、書いています。

菊池誠のどの言動か、引用してちゃんと示せばよろしかろうに。察するに、その菊池誠は、cosiさんの脳内にしかいないんじゃないですか?

> つまりEBMにおいては、治療者側は、患者の価値観を適切に把握して、治療方針の決定に反映させなければならないのであり、「手法の優れた臨床研究」を一方的に推奨すればいいのではないのです。

「患者の」価値観です。ぼくは愚行権は認められるべきだと考えています。このことを書くのも(ここのコメント欄だけでも)初めてではないはずです。
あと、WikipediaをWikiと略するのはおやめになったほうが、恥をかかずにすみます。

ぼくが労力を割きたくない、と感じるのは、なにを書いてもcosiさんが真剣に読まないからです。

ニセ科学の問題を継続的に論じている論者として、ぼくはたぶん異端と云っていいほど人間の非科学的な部分、呪術的な部分を擁護してきました。ホメオパシーに関しても消極的容認のスタンスをとっていて、ここについては多くの論者と論を異にし、議論もしてきました(消極的容認、と云っても、限度がある、と云う話ですが。限度を超える事例が多すぎます)。それらの経緯はすべて当時のまま、ここに公開されています。
一例を挙げましょう。3年も前のエントリです。
http://schutsengel.blog.so-net.ne.jp/2008-09-22
どうせ読みやしないでしょうが。

cosiさんがだれかに致命的にまずい選択肢を示唆したとしましょう(あるいは、だれかがその選択肢を選ぶのを容認したとしましょう)。それが最悪の結果を招いたときには、たぶんそのだれかの「自己責任」だ、と云って自分を納得させて、後悔のひとつもできないのでしょうね。
ぼくの価値観では、それはひどく無残なことです。

さて、そろそろ気が済んだのではないですか。cosiさんが誰の話をしたいのか、結局わかりませんでしたが。
ここに書きたいことを書いてもいいですし、べつに削除したりはしませんが、ぼくはもうお相手をしないかもしれません。ばかばかしいので。
べつのかたがお相手をしてくれるかもしれませんが(誰か代わってください)、たぶんそう云う奇特なひとは、あなたのようなひとを相手にするのにぼくみたいに甘やかしたりはしないですよ。
by pooh (2011-09-09 22:35) 

pooh

> cosiさん

そう云うわけでcosiさんが次に書き込むときには、ぼくがこれまで書いた質問についてまず回答をすることから始めてください。そうすれば、対話が始まるかもしれません。
by pooh (2011-09-09 22:46) 

cosi

poohさん、こんにちは。言われたとおり、まずpoohさんの質問に答えることから始めます。

>ぼくは前回のコメントで、cosiさんにとって「科学的」と云うのがどう云う意味か訊ねました。

→poohさんの前回のコメントはどういうものかというと、
『まずcosiさんは「科学的」と云うのがどう云う意味なのかを調べてください。日本語で使われている意味とは違うみたいなので、議論以前に対話がなりたっていません。「科学的に完全」とはどう云う謂なんですかね』です。

だから、私は「科学的に完全」とはどういう意味かを返答し、補足説明したのです。
poohさんは「科学的」というのはどういう意味かとは訊ねてないですよ。調べろとは書いてますが。

それにしても、科学的とはどういう意味かなんて、ものすごい質問をするものですね。
ネットで見てみましたが、最近「科学的とはどういう意味か」という本が出版されてます。本一冊書けるような質問ってことです。
まあ、そういうのじゃなくて、簡単な定義ということで、広辞苑を引いてみます。

『事実そのものに裏付けられ、論理的認識によって媒介されているさま。原理的に体系づけられているさま。学問的』

だそうです。私の考える「科学的」も、特にこれに相違ありません。つまり、私の云う「科学的」は辞書にのっている「科学的」と同じであって、オリジナルなことは意味していないということです。

>あと、cosiさんの思考に見られる「100%でなければなんでも同じ」と云うパターンは、ニセ科学の信奉者に見られがちな思考法ですよね。
→そんなこと書いているつもりはありません。どこからそう読み取れたのか具体的に指摘してください。

>書くのは3度目ですが、通常医療と丹砂や瀉血は同程度のものですか? そうでないとすれば、それはどう云う判断に基づくものですか?

→確かに、丹砂や瀉血について、前の二回で言及されてはいます。

(一回目)『重ねて云いますが、cosiさんがご自分の体調不良に丹砂で対応しようが、瀉血で対応しようが、それはご自由です。もちろん、他者にそれを勧めるようなことがあれば別です。』
(二回目)『だいたいの効果のない代替医療で稼いでいるひとたちのロジックとおなじですね。どうしてぼくが丹砂や瀉血を例に上げたのか、考えてみてください。』

これらの文から「通常医療と丹砂や瀉血は同程度のものですか?」という質問は読み取れません。
だから、この質問が出てくるのが三度目で、私がその質問を無視してきたような印象操作は、おやめください。(poohさんの口癖が写ってきました。話がそれますが、poohさんだけでなくニセ科学批判の人たちって、実名はあげられませんが、よく「おやめください」と言いますね)

もちろん、通常医療と丹砂や瀉血は同程度のものではありません。
丹砂は私は知らなかったのですが、硫化水銀で、古代中国で使われていたものですね。瀉血はハーネマン時代の「通常医療」として知っています。
その当時は、今のような科学的知識が無かったので、それらの危険性が知られていませんでした。丹砂や瀉血は、その当時の科学的知識の反映といえます。
現在の通常医療は、現在の科学的知識を反映している。その点から通常医療と丹砂や瀉血は同程度のものでは無いと判断します。

ところで、古賀氏の話には、丹砂も瀉血も出てきてませんよね?
古賀氏の試した民間療法は「刺さない針、気功、体操、キムチ納豆、イメージトレーニング、ハーブ、ドイツの謎の鉱物」ですよね。
ドイツの謎の鉱物はなんなのかわからないですが、他のものは安全性が高いですね。効果については、無さそうな物不明な物もあるし、体操やイメージトレーニング、ハーブなど、少しは変化を起こしそうな物まで含まれています。

古賀氏の場合、通常医療にちゃんとかかり、それでも残ってしまった症状に対してであって、医者からも「もう通常医療では手立てがないので御自分でいろいろやってください」と言われている状況です。
つまり、古賀氏の話は、「通常医療で手立ての無い場合において、危険性の少ない民間療法を試すことについて」の話です。

だから、なぜ、「通常医療と丹砂や瀉血が同程度かどうか」という話が出てくるのか、わかりません。
古賀氏は本編でも続きでも、「通常医療と丹砂や瀉血を同程度とみなす」という主旨の話はしていないからです。そう読み取れないとしたら、poohさんの読解力に問題があります。
それとも、もしかして、わかっていての詭弁ですか?
前回ご紹介してくださった「詭弁のガイドライン」の6番目に、「一見、関係がありそうで関係のない話を始める」がありましたが。

>菊池誠のどの言動か、引用してちゃんと示せばよろしかろうに。
→これは『代替医療だけをあげつらっているように見えるので、アンフェアに感じる』例についてですが、自分が前に書いたコメントから引用します。

『だから、きくちさんが絶賛されているサイモン・シンの「代替医療のトリック」を読んでも、代替医療をまな板にあげるのもいいけど、もっと人命も、お金もかかっている方向にも、目を向けて欲しいものだと思うのです。デーヴィッド・ヒーリーの「抗うつ薬の功罪」などの方が、よほど多くの人命と、多額のお金にかかわる科学的な著作であると思います。だから、きくちさんがサイモン・シンの本を絶賛するだけでなく、ヒーリーの「抗うつ薬の功罪」のような、通常医療の非科学性を追及する類の本も取り上げてくれて、絶賛してくれれば、ニセ科学批判はフェアだと賛同できるのです。』
これはアンフェアと感じる実例として書いてます。

サイモン・シンのように代替医療に科学的な眼差しを向けているエントリーはkikulogに数多くあります。一方で、菊池さんがkikulogにおいて、例えば抗うつ薬の非科学性や、CMで購買欲を煽りドラッグストアで気軽に手に入るように売られている薬の問題や、鎮痛剤依存の健康被害問題など、いわゆる代替医療には属しない通常医療側の問題(主に薬害)については、批判的に書いているのをみたことがありません。私の知る限りの話なので、菊池さんもどこかで、薬害批判をしてるかもしれません。あるのなら、教えていただれば幸いです。

そんなこと(薬害等)には言及する必要がないという御意見なのかもしれませんが、そちらの方が、桁違いに多くの人命と金銭的損失に関わっている問題です。「ニセ科学批判」がpoohさんの言うように、「ひとえに科学に関するだけの問題でない」のだし、また純粋に科学的な問題としても、当然目を向けるべきだと、私は思います。

>「患者の」価値観です。ぼくは愚行権は認められるべきだと考えています
→他人がその人自身の価値観において決定する事に関して、「愚行権」という言葉を使うのをやめませんか?
それはpoohさんのような人からしたら、「愚行」かもしれませんが、そういう見下した表現をするから、「ニセ科学批判」は反感を買うのですよ。
せっかく頭のいい人たちが、社会を良い方向に導こうとして、科学的知識に基づいた批判を繰り広げているのに、正当に評価されないでいるのは、そういうところにもあると思います。

>あと、WikipediaをWikiと略するのはおやめになったほうが、恥をかかずにすみます。
→ご忠告ありがとう。

>ニセ科学の問題を継続的に論じている論者として、ぼくはたぶん異端と云っていいほど人間の非科学的な部分、呪術的な部分を擁護してきました。

→そうなんですか。私もニセ科学批判に批判的な者としては、たぶん異端と云っていいほど、ニセ科学批判の人達の純粋な動機や、高い科学的知識や知能を評価してきました。だからこそ、反感を買い始めている原因を示唆したくて、書き込んでいるのです。素直に読むかどうかは、そちらの自由です。
挙げられたエントリーも読ませてもらいました。「どうせ読みやしないでしょうが」と決め付けないでください。今までもリンク先も全て読んでます。
もしかしてそれって、決めるつけることによって、「ファイティングスピリットに火を付けて、結果的に読ませる」という高度な手法ですか?確かに、私のように『お暇な時でいいので、「抗うつ薬の功罪」、コメント欄だけでも読んでみてください』じゃインパクトが足らず、素通りされるでしょうからね。

>cosiさんがだれかに致命的にまずい選択肢を示唆したとしましょう(あるいは、だれかがその選択肢を選ぶのを容認したとしましょう)。それが最悪の結果を招いたときには、たぶんそのだれかの「自己責任」だ、と云って自分を納得させて、後悔のひとつもできないのでしょうね。ぼくの価値観では、それはひどく無残なことです。

→これはまた、漠然とした話を持ってきますね。「致命的にまずい選択肢を示唆した状況」を、もっと具体的に詳細に設定しないと始まりませんね。それに、「最悪の結果」とはどのようなものですか?誰がどのように評価するのですか?誰にとっての「最悪」で、どのような判断基準に基づく「最悪」なのですか?
そういうことを曖昧にしたまま、話を勝手に進めていって、「後悔のひとつもできない」と決め付けたうえに、「ひどく無残なこと」と感覚的で感情的な評価をするのは、科学的態度といえるのですか?
広辞苑によると科学的とは「事実そのものに裏付けられ、論理的認識によって媒介されているさま」ですが、どうもあてはまりませんね。
そんなことだから、「非科学的な非科学狩り」なんて言われるのですよ。

>ここに書きたいことを書いてもいいですし、べつに削除したりはしませんが、ぼくはもうお相手をしないかもしれません。ばかばかしいので。
→そうですか。それでは、これで今回は終わりにします。私の方は、おかげでいろいろと勉強になりました。付き合ってくれて、どうもありがとう。
by cosi (2011-09-10 18:03) 

pooh

> cosiさん

> 私の考える「科学的」も、特にこれに相違ありません。

そのような意味で「科学的」と云うことばをお使いになっていません。そう読み取ると、意味の通らない言説が多々用いられています。

> そんなこと書いているつもりはありません。

つもりはないのかもしれませんね。でも書かれていることは違います。

> 「通常医療と丹砂や瀉血が同程度かどうか」という話が出てくるのか、わかりません。

cosiさんは、それらと通常医療を分別する基準を否定しているからです。古賀氏の言説でぼくが問題視している(おそらくはcosiさんが共感している)のもその部分です。

> これはアンフェアと感じる実例として書いてます。

「それよりこっちを優先しろ」ですか。
原則、それは独立した言説として、ご自分でなさればよろしいことでしょう。だれかに指示するようなことではないのでは。

> そういう見下した表現をするから、「ニセ科学批判」は反感を買うのですよ。

「愚行権」と云う概念は、なにかを見下すような含意を持つものではありません。意味をご存じないわけではないですよね。
あと、批判は反感を買うのを覚悟しておこなわれるものです。もちろん、そこには反感を買ってでも行われる動機があるわけですが。

> 私もニセ科学批判に批判的な者としては、たぶん異端と云っていいほど、ニセ科学批判の人達の純粋な動機や、高い科学的知識や知能を評価してきました。

混ぜっ返しは程度を考えたほうがいいですよ。意図がよけいに信じてもらえなくなります。あと「ニセ科学批判の人達」みたいに勝手に括るのは勘弁して下さい。
ぼくは実際に、人間の内包する非科学性を重要視する言説を数年にわたって継続的におこなってきています。前も書きましたが、それらはそのままここで読めます。

> もしかしてそれって、決めるつけることによって、「ファイティングスピリットに火を付けて、結果的に読ませる」という高度な手法ですか?

いや、読んでくださってるとは思えないほど、それらに書かれていることを踏まえて発言してくださらないので。実際に読んでくださってるとしても、まぁあまり意味はないようですね。
まぁ読み取らないのが「ファイティングスピリット」とやらの結果なのかもしれませんが。そう云うひとに向けて語りうることばを、ぼくはどうやら持たないようです。

> そんなことだから、「非科学的な非科学狩り」なんて言われるのですよ。

云われているのは、ぼくなんですか?
抽象的には書きましたが、漠然としているとは思いませんよ。

とりあえずですね。
誰かに対する批判めいたことを書きたいのなら、その誰かがこれまでどんな議論をしてきているのかぐらいは最低限把握をする努力をすべきです。cosiさんご自身は気持ちいいのかもしれませんが、つきあうほうはたまったもんじゃありませんよ(じゃあつきあうな、みたいなことをおっしゃるかもしれませんが、庭先で延々と演説めいたことをされている身にもなってくださいな)。
by pooh (2011-09-10 20:53) 

cosi

終わりにすると言っといて、しつこく書き込むのもなんですが、追伸です。もちろん返答は期待していません。自分のコメントが、的外れなままで終わっているところがあるので、補足しておきたいのです。poohさんに翻弄されて、必死に対応しているうちに、私も言いたいことがそれてしまったようです。翻弄じゃ表現が良くないですね。緻密な思考様式を持つpoohさんから、正確な言葉の定義や表現を要求された為、エネルギーがそちらに費やされて、少し自分の主旨からずれてしまったのです。

私が、菊池さんに関するアンフェアと思える実例を挙げたところ、

>「それよりこっちを優先しろ」ですか。

とpoohさんに言われています。そういう理解をされても仕方が無い書き方をしてきたので、加筆しておきます。

私が言いたかったことは、「代替医療批判より、通常医療の中の非科学性の批判を優先しろ」ではなく、「医療に関する発言をするなら、科学的な発言を心がけて欲しい」ということです。大阪大学の教授として発言する時には、特に注意を払って科学的な(事実そのものに基づく論理的な)発言をして欲しい。

poohさんが、zororiさんへのコメントで、以下のように書いています。
『自分の職業を明かして放つ言説は、当然ながらその職業倫理に照らしての角度からも評価されるわけです。
で、ぼくはアカデミア内部の人間は、つねに「あるアスペクトにおける『普遍』」を探求する存在だ、と考えます。その普遍を担保するのが、あるときにはアカデミア内での権威システムでもあるでしょうし、場合によっては「科学」でもある。
そう云う話だと思うんですよ。 』

私には難しく感じる表現ですが、おおよそ「学問の世界にいる人は、その立場から世の中に向かって発言する時は、十分に学問的(=科学的by広辞苑)な発言を心がけて欲しい」「その立場の持つ社会的影響力を考えて欲しい」ということと、理解しました(また「違う」って言われるでしょうが)。これには、私も同意します。

poohさんは古賀氏に対してそう思って、このエントリーを書いたのでしょう。一方で私のほうは、同じ思いを菊池さんに対して抱いている、ということが言いたかったのです。

菊池さんは、医療に関する問題、そしておそらく原発や放射能被害関連においても、十分に科学的な(事実そのものに基づく論理的な)発言をしているようには見受けられないからです。私が見るところ、少なくとも医療に関しては、十分に科学的な発言ではないです。ベースになる事実の認識の範囲が狭すぎて、素人レベルです。

もちろん、誰だって、万能な存在ではないです。物理学者の菊池さんが、専門外においての事実認識が乏しくても仕方ありません。でも、それならなおさら、その社会的立場から物を言うなら、科学的であることを心掛け、表現は慎重かつ抑制的であるべきだと思います。そうでない発言を、大学の教授の肩書きでしているから、しかも「ニセ科学批判」の提唱者であるから、ブログやツイッターなどで、批判され始めていると思います。

話が変わりますが、肝心なことが誤解されたままなのも、もどかしいので、一応確認しておきます。

私の『「通常医療と丹砂や瀉血が同程度かどうか」という話が出てくるのか、わかりません。』に対し、poohさんの返事は、

>cosiさんは、それらと通常医療を分別する基準を否定しているからです。古賀氏の言説でぼくが問題視している(おそらくはcosiさんが共感している)のもその部分です。

私は前回のコメントで、通常医療と丹砂や瀉血を同程度のものではないと判断すると書いてます。そしてそれらは、それらの時代の科学知識の反映であるから、当然、両者は同程度でのものではないと判断する、と書きました。ちゃんと読んでますか?そしてその判断基準に関わる、「科学」を、「事実そのものに裏付けられ、論理的認識によって媒介されている体系」を、否定するなんてどこにも書いてません。ちゃんと読まないまま話を進めるのは、おやめください(おやめください二度目の使用)。

>そのような意味で「科学的」と云うことばをお使いになっていません。そう読み取ると、意味の通らない言説が多々用いられています。

>あと、cosiさんの思考に見られる「100%でなければなんでも同じ」と云うパターンは、ニセ科学の信奉者に見られがちな思考法ですよね。

どちらも、poohさんはそのように考えた理由を、根拠を示して説明する必要があります。「そう読み取ると意味が通らない言説」「100パーセントでなければなんでも同じという思考パターン」と判断した部分を、例を挙げて説明しないと、こちらは勝手に決め付けられたままなので、話になりません。

poohさんはさんざん、私には例を挙げよと要求し、私はその要求に答えてきました。前回のコメントで私は、「どこからそう読み取れたのか具体的に指摘してください」とも書きました。poohさんは、これを無視した上で、「つもりはないのかもしれませんね。でも書かれていることは違います」とだけ返答しています。これは、『詭弁のガイドライン』の4の「主観で決め付ける」にあてはまります。また、私の思考のパターンを、「ニセ科学の信奉者に見られがちな思考法」と、根拠も説明もなく断定しているのは、11の「レッテル張りをする」ですね。

こういうふうに詭弁を使う意図は、前にpoohさんが『詭弁のガイドライン』の紹介の際に書いておられたように、私を追い詰めたいからではなく、私から相手にされないようにするためなんでしょう?わかってます。

「愚行権」についても、一言、解説が必要なようですね。

>「愚行権」と云う概念は、なにかを見下すような含意を持つものではありません。意味をご存じないわけではないですよね。
あと、批判は反感を買うのを覚悟しておこなわれるものです。もちろん、そこには反感を買ってでも行われる動機があるわけですが。

私が言いたいのは、「愚行権」という専門用語の概念や意味のことじゃありません。そうではなく、「愚行権」という専門用語を知っている人は、そう多くなく、「愚行」(愚かしい行為、馬鹿げた行為)という一般用語の意味で受け取られる可能性が高いことを言っています。

もちろん、科学の世界、学問の世界の中で使っている分には構わないのです。でも、ニセ科学批判は、広い社会(理解力や知識の量が多岐にわたる人々)に向けたものですよね。とすれば、科学や学問に詳しくない人達に、どういうふうに受け取られるかを配慮するのは、「届けたい」のなら当然のことでしょう。「届けたい」と言っているわりに、そのための工夫が見られません。

批判は反感を買うのを覚悟してするものではありますが、無意味な反感を買うことを避けるように工夫するのが、大人のやり方でしょう。そういうことに鈍感すぎるのは、幼稚な印象を与えます。(私も幼稚なので、つい反感を買う書き方をしてしまいます。でも、poohさんのところでは、かなりこれでも工夫しています。)

庭先に入れてくれたpoohさんには感謝しています。普通は門前払いが多いです。poohさんには、どうやら御迷惑だったようですが、私の方は、poohさんのお庭を見せてもらって、いろいろと刺激を受けました。特にTAKESANさんへのコメントの中で、「言語の定義や論理的整合性をおろそかにした瞬間に哲学は死ぬ」と書かれているように、言葉の定義や論理的表現を大切にする姿勢に、適当な言葉の使い方や表現をしてきた私は、非常に感銘を受けました。どうもありがとう。
by cosi (2011-09-13 13:42) 

pooh

> cosiさん

不在にしてました。

> 終わりにすると言っといて、しつこく書き込むのもなんですが

「『ニセ科学批判者』を批判」したいと思っている方々は、どうもこう云う行動をとって自ら自分の言動を軽くしてしまうひとが多いようです。発言の動機が疑われるので、あまり軽々しいことは云わないほうがいいと思います。

> 「医療に関する発言をするなら、科学的な発言を心がけて欲しい」ということです。

この部分は重要なので、すこし書きましょう。

専門家としての科学者がその職能に誠実であることと、社会の成員としての科学者が社会的な発言をすることは、論じるにあたってその議論のレイヤーが違います。後者について議論するにあたっては前者に対する充分な顧慮が必要になりますが、かならずしも前者が後者の内容までを拘束するわけではない。
まず、ここを切り分ける必要があります。古賀氏について、ぼくは前者の部分について批判的なことを書いています。cosiさんは菊池誠について書くときに、ここを混同しています。たぶん、2011-09-06 16:43の発言にあるように、社会と云うのが成員の努力によって構築されているものではなく、結果的に出来上がっているものだ、と云う認識がおありなので、「社会的責任」と云うことばの意味をご自分の都合のいいようにお使いだからなんだろうな、と思いますが。
ちなみにこの部分、このコメント欄で技術開発者さんも触れていらっしゃいます。おそらく、ご自分の発言について書かれている、とは認識されなかったんでしょうね。

で、この部分についても、数年に渡る議論があります。
すくなくともcosiさんがここでぼくに対する批判的な言説を行なっている以上、それらをすべて踏まえてから発言する責任が、本来cosiさんにはあります。いくら示唆してもそれをしない不誠実さは、いくら小手先でことばを弄しても、糊塗できるものではありません。

> 私は前回のコメントで、通常医療と丹砂や瀉血を同程度のものではないと判断すると書いてます。そしてそれらは、それらの時代の科学知識の反映であるから、 当然、両者は同程度でのものではないと判断する、と書きました。ちゃんと読んでますか?そしてその判断基準に関わる、「科学」を、「事実そのものに裏付け られ、論理的認識によって媒介されている体系」を、否定するなんてどこにも書いてません。

要するにダブルスタンダードですよね。
基準を運用においてどう援用するのか、と云うのはその状況によります。でも、基準そのものをゆるがしてはいけません(基準の意味がなくなる)。

> poohさんはさんざん、私には例を挙げよと要求し、私はその要求に答えてきました。

URLを示して該当箇所を引用する、と云う簡単なことが、どうしてできないんですか?
その意味で、cosiさんはいちどもぼくの要求に応えていません。こちらとしては、要求に応えられないなんらかの理由があるんだろうな、と判断せざるを得ないわけです。それって脳内菊池誠の発言なんじゃない? みたいに。

> 科学の世界、学問の世界の中で使っている分には構わないのです。

もちろん、ここが議論の場だから、ぼくはこの用語を用いたわけです。
それくらいのことはおわかりですよね。

> 「届けたい」と言っているわりに、そのための工夫が見られません。

当該事例をURLを示して引用してください。
もちろん、その部分への配慮が充分じゃないケースが存在するのも知っています。でも、ここがうちのコメント欄である以上、これはぼくに向かってお書きなんですよね。そうすれば、ぼくのそう云う言動を挙げることができるはずです。

> 庭先に入れてくれたpoohさんには感謝しています。

庭先に街宣車が来て大騒ぎをしている状況で、意見の違いを調整するために一生懸命話しても、通常はあまり意味はないわけです。街宣車の目的は通常、別のところにあるわけなので。
最初からうすうすわかっていて、ぼくはそれをやったわけですが。
by pooh (2011-09-18 07:17) 

cosi

律儀に御返答いただいて、ありがとう。

>この部分は重要なので、すこし書きましょう。・・(中略)・・cosiさんは菊池誠について書くときに、ここを混同しています。

→poohさんが仰りたいことは、要するにダブルスタンダードってことですね。尊敬する(信奉する?)菊池さんに対する時と、古賀氏のような「非科学的な非科学狩り」なんてことを書く人に対する時とで、適用する基準を変える、と。

>基準を運用においてどう援用するのか、と云うのはその状況によります。でも、基準そのものをゆるがしてはいけません(基準の意味がなくなる)。

→そうですよね。基準そのものをゆるがすのはいけないです。同意します。

>URLを示して該当箇所を引用する、と云う簡単なことが、どうしてできないんですか?その意味で、cosiさんはいちどもぼくの要求に応えていません。

→菊池さんの例は、菊池さんが「薬害批判をしていない」ということなので、していないことの該当箇所は引用できないからです。菊池さんの例は、kikulogでの発言に加え、その他本などの活字媒体、マスコミでの発言などで、私が見る限り、薬害批判を「していない」という例です。だからURLを示して該当箇所を示すということは不可能なタイプの例だということは、おわかりでしょうか?

私の「科学の世界、学問の世界の中で使っている分には構わないのです。」に対し、

>もちろん、ここが議論の場だから、ぼくはこの用語を用いたわけです。それくらいのことはおわかりですよね。

→わかりません。私は学者じゃないし、poohさんのブログのコメント欄が、学者のみが閲覧してコメントする、科学や学問の世界であったとは、全く知りませんでした。
by cosi (2011-09-18 16:35) 

pooh

> cosiさん

いいですね。主張が明確になりました。
これを機会に、相手を気遣っているようなポーズは避けたほうがいいと思います。無駄に長くなってポイントが不明瞭になりますし、取り繕っても人間の地は見透かされるものですから。

> 律儀に御返答いただいて、ありがとう。

書いたとおり、ここはぼくの庭先ですから。
そして、ここのコメント欄を読んでいるのは、ぼくとcosiさんだけではありませんので。ぼくは半ば以上、cosiさん以外のひとに向けて書いています。
(話がどこにも進まないのが明確になったら、適当にどこかでコメントを締め切ったりはしますけどね。いちおう事例を挙げましょう。ご参照ください。
http://schutsengel.blog.so-net.ne.jp/2007-10-01-1
http://schutsengel.blog.so-net.ne.jp/2009-03-29

> poohさんが仰りたいことは、要するにダブルスタンダードってことですね。

問題のレイヤーが違う、と書いているのです。
それがダブルスタンダードに読める、と云うのは、要はやっぱりぼくの書いたことをまじめに読んでいないか、対話が成立するだけの最低限の読解力が期待できないか、と云うことですよね。

科学者の社会的責任、と云う部分については、もう5年近く前に菊池誠と小飼弾氏のあいだで議論が生じていて、以降重要なテーマとして認識されています。これについてぼくが書いたエントリはこちらになります。
http://schutsengel.blog.so-net.ne.jp/2006-12-24-1
こっちには菊池誠のコメントもありますね。

で、この件は科学哲学者の伊勢田哲治さんも、ご本人のテーマとして考察されています。下にリンクするエントリで触れていますので、伊勢田さんご本人の考察もここからジャンプして読むことができます。
http://schutsengel.blog.so-net.ne.jp/2010-02-23

これはこれで大きなテーマであり、この問題を念頭において多くの議論がなされています。cosiさんの都合で、既存の議論がなくなったり無効化されたりはしません。新たに議論を起こす場合には、既存の議論を踏まえることが要求されます。

> 尊敬する(信奉する?)菊池さんに対する時と、古賀氏のような「非科学的な非科学狩り」なんてことを書く人に対する時とで、適用する基準を変える、と。

これは見事な投影ですね。ご自分のことをお書きになっている。自分の行動基準で他人を推し測るのはときにとても失礼なおこないになる、と云うことを、もう一度書いておきます。ぼくは菊池誠に対して尊敬している部分はありますが、それは全的な人格に対して、ではありません(平気で議論も、喧嘩もします)。

科学者が自らの職能に誠実であるべきことと(これはこのエントリでぼくが古賀氏に対して批判している内容です)、それに基づいてどのような言動をなすべきか(これが、「菊池誠についてひとことも書いていない」このエントリのコメント欄で、cosiさんが延々と問題にしたがってることですよね)と云うのは、もちろん無関係な事柄ではないにせよ、それぞれに独立した問題だ、と云っているわけです。問題が違うので、判断すべき基準も当然違ってきます。それをダブルスタンダードと呼ぶのなら、cosiさんと日本語で対話するのは困難、と云う話になります。

> 菊池さんの例は、菊池さんが「薬害批判をしていない」ということなので、していないことの該当箇所は引用できないからです。

やっぱり結局「それよりこっちを優先しろ」じゃないですか。科学的云々は全然関係なくて。
舌先三寸で枝葉の言辞を弄するのは、相手に通じづらくなるだけじゃなくて、自分の主張も自分で把握しづらくなってしまいます。こうやって簡潔に書けば、「cosiさんは菊池誠がやっていないことを『やれ』と云って非難している」と云うのが明解になるわけです。まるで科学に関する問題を論じているようなポーズをとるから、このへんがわかりづらくなってしまうわけですよね。

で、なにを優先して論じるか、と云う部分については、それこそすべての論点をひとりで抱えることができない以上、個々の判断になるわけです。それが不満なら、自分の優先順位を他人に押し付けるような不躾なことをするまえに、自分で論を張ればいい、と云うことになります。
「ニセ科学批判まとめ」では、この節に該当しますね。
http://www39.atwiki.jp/cactus2/pages/13.html#id_346a758f

> 私は学者じゃないし、poohさんのブログのコメント欄が、学者のみが閲覧してコメントする、科学や学問の世界であったとは、全く知りませんでした。

学問も科学も、学者だけのものではないわけです。その成果は、ぼくら一般市民が活用するためにあります。議論の場で、自分が学者ではない(そして、その場の議論において必要なことがらを学ぶつもりもない)と云うことは、なんら免責にはなりません。議論の相手には、相手の程度に合わせる義務はないのですから。

たぶんcosiさんは、こんなところでぼくに向けて語るんじゃなくて、ご自分のブログかなにかを開設して、その思いを存分に開陳する方がいいのじゃないかな、みたいに思います(いつまでもぼくのコメント欄をチラシの裏扱いされるのも、まぁ愉快ではないですし)。Jさんのブログのコメント欄にもお越しになるSSFSさんみたいな、cosiさんと類似した種類の問題意識をお持ちのかたなんかが、支持してくれるかもしれませんよ。
by pooh (2011-09-18 18:29) 

pooh

> cosiさん

追加、と云うか、なにゆえに自然科学が社会において事物を判断するための基準として重視されなければならないか、と云うことについて書いたエントリを思い出しました。追記しておきます。
http://schutsengel.blog.so-net.ne.jp/2008-09-26
by pooh (2011-09-18 18:45) 

pooh

まだがんばってらっしゃる。

http://kogatoru.sakura.ne.jp/kblog/2011/09/27/286

最低限、笑えればまだましだって気がするのだけど、たぶんご本人シリアスなんだろうな。
by pooh (2011-09-30 05:40) 

技術開発者

こんにちは、poohさん。

>最低限、笑えればまだましだって気がするのだけど、たぶんご本人シリアスなんだろうな。

なんていうか、嘘の問題提起がどれほど真の問題提起を妨げるかという事が分かって貰えないのですよ。既に対策してある事項があって、その対策が効力を発揮しない場合について考えたいと思っている時に、「そんな対策はされていない」という嘘を言いふらされると、話をそのたびに「対策はされている」に話を戻さなくてはならなくて、その対策が有効に成らない場合を考えるのが邪魔される訳です。

例えば、3発機の航空機は1発でもエンジンが生きていればとりあえず着陸は可能です(実際、トライスターが2発停止した事例が日本でも2回ある)。でも3発とも駄目になったら無事に着陸は難しい。じゃあ、3発とも駄目になるような場合が起きる可能性はないかと考えたい訳です。3発航空機の3つのエンジンが共有して使っている部分があれば、それが壊れれば3発アウトもある訳で、それを考えたいとしているとします。そこに「一発でも死ねば落ちる」と言いふらす人が入ってくれば、「一発アウトじゃ落ちないよ」に話を戻さなくてはならなくて、3発アウトの可能性を考えるのが邪魔される訳です。

原子力に関しても、多重防御の共通アウト要因を探そうという人たちは常に居たんですね。ただ、そう言う人たちの検討は常に邪魔されてきたんです。そういう検討をしようとすると必ずそこに「防御がされていない」みたいな嘘話が紛れ込んできて、「それに対して多重防御はされている」に話を戻されてしまってきた訳です。そして、そういう嘘話にこだわる人たちは「多重防御の共通アウト要因の探索」みたいなことは、決して話が進む事を許しはしないのです。彼らは複雑な話で問題を探す者たちを常に敵視してきましたからね。

by 技術開発者 (2011-09-30 08:40) 

pooh

> 技術開発者さん

ある有効な対策を実現しようと思えば、当然議論を積み重ねていく必要があるわけです。で、「積み上げる」以上、議論には階層があるわけで。じっさいにその階層のどこから議論を始める必要があるか、と云うのはケースバイケースにしても。
で、上層における議論の精度は下層に敷かれた議論のそれを超えることはないわけです。なので、ある実効性のある対策をひねりだそうとする議論を行うためには、すくなくともそこまでの議論の精度がどの水準なのか、と云うことを共有する必要がある。それを共有する手法にどんなものが選ばれうるか、と云う話で。

じゃあ人文科学において、哲学においてその精度を示すためにどんなツールを用いることができるか、と云うことを考えると、「エア科学」みたいな中途半端な造語をつくって喜んでるようじゃ話にならないわけです。ジョークのつもりだとしても笑えやしない、と云うことは、そのジョークを成立させうるだけの自分の言説に対する客観的な視点さえ確保できていない、と云うことで、要はたいして考えずに言説を発していることを露呈する結果になっている。

ただ、この種の言説にも特定の層にはニーズがある、と云うことが、ここのコメント欄でのcosiさんとの対話でもあきらかになったので、ちょっと悩ましい部分ではあります。
早い話、適当なことを自信たっぷりに口にする種類の言説に勇気づけられて、自分もそれでいいんだ、みたいに思ってしまう種類のひとがいる、と云うことです。九州大学の准教授だって根拠不明の適当な言説で他者を楽しく揶揄している、なら自分たちだってそれをやってもいいんだ、と云う一種の「共感」に基づくエクスキューズの供給ですよね。こう云うのをどうやって考えたらいいんだろうな、みたいな。
by pooh (2011-09-30 10:36) 

技術開発者

こんにちは、 pooh さん。

>自分たちだってそれをやってもいいんだ、と云う一種の「共感」に基づくエクスキューズの供給ですよね。こう云うのをどうやって考えたらいいんだろうな、みたいな。

基本的に、「社会のつながり」の問題だと思うのね。私は消費者問題を扱って来たわけだけど、「正しいクレーム」と「いわゆるモンスタークレーム」の区分なんて、区分は有るけど汎用線は引きにくいのね。その頃に言ったのが、「専業主婦のお母ちゃんが文句を言いたくなった事が、給料稼いでいるお父ちゃんが仕事場で言われて対処する気になるクレームなら正しいし、お父ちゃんが『そんなの言われても』というようならモンスター」なんて話ね。別にお父ちゃんを基準にしろじゃなくて、消費者が支払う金は労働して稼いだ金で、その労働というのは最終的に消費者に何かを提供している訳ね。そういう「つながり合い」の問題を考えて欲しかったのね。「金を払っているから王様、何を言っても良い」なら、その金を稼ぐ時に「金払っているのに対応できないとはなにごとだ」と言われてクビにされるカモ知れないからね。

なんていうか、「いい加減な事でも言って良いじゃないか」という人は自分はそういうのに惑わされない自信があるかも知れないけど、社会全体がそうなれば、比較的世間知らずの愛しい配偶者とかボケはじめた親とか社会にでたばかりの子供や孫とかが、いつヨタ話に惑わされて悲しい思いをするか分からない社会になるということね。例えば宗教を信じて滝に打たれたって構わないし、それによって病気が改善する事だって有るかも知れないわけだけど、自分の子供が「その病気は悪霊のせいです、滝業で追い払いましょう」を信じて可愛い孫が死んだら悲しいんじゃないかな。「宗教を信じるのは自由だし、宗教の修行でなにやったって良いじゃないか」と言う時に、やがて、子供が大きくなり孫が生まれ、その孫がそんなヨタ話で窒息死するかもしれない社会をつくることに貢献する発言だと思えるかどうかという事ね。

by 技術開発者 (2011-09-30 13:00) 

pooh

> 技術開発者さん

> 基本的に、「社会のつながり」の問題だと思うのね。

ちょっと理解の角度は違うかもしれませんが、基本的に同意します。つながり、と云うか、関わり合いと云うか。

基本的に、上のコメント欄でも伊勢田さんを引いて挙げたように、社会の中の専門職としてのアカデミシャン、と云う立場があるわけです。その役割を果すために、どんなスタンスを取るべきか、どんな言動をなすべきか、求められるのはどのような事柄か、と云う意味で。社会の中で言説をなすにあたって、哲学者、と云う位置にいる人間が求められるのは、「エア科学」なんて云う安っぽくて笑えもしない造語をつくってなにかを揶揄した気分に浸ることではなくて。それは学者として、と云うか、専門職として不誠実な態度なわけです。

で、たとえばそこに共感を感じて、「そのような個々の価値観を持った人が集まり、結果的に出来上がるのが社会」みたいなことを平然と口に出せるような人間が、自分のスタンスになんらかの正当性を得たように思って放言をはじめるわけですよね。こう云うスタンスは(自分自身と社会の関わりについて日常的に意識しないでも暮らしていけるような)ある種の強者の驕りみたいな部分でもあるわけですが。

> 社会をつくることに貢献する発言だと思えるかどうかという事ね。

あまりこのへんは話したくないですが、社会の恩恵、コミュニティの重要性、みたいなものをぼくなんかは直近にわりとダイレクトに実感する機会があったわけです。でも(かつて存在した)「日常」のなかではそれを感じることはできない、と云うのもわかります。
結局この先は、想像力の問題なんでしょうかね。自分の足元が意外に脆い、と云うことを感じ取れるかどうか、みたいな。
by pooh (2011-09-30 16:59) 

技術開発者

こんにちは、pooh さん。

>結局この先は、想像力の問題なんでしょうかね。自分の足元が意外に脆い、と云うことを感じ取れるかどうか、みたいな。

なんていうか、私の話の角度というのは「自分たちの足元の固さ脆さを自分たちが決めている」という事に思いが行くかどうかにどうしても視点がいってしまうのです。確かにひとりひとりが果たす役割としては小さいんだけど、結局はそのひとりひとりが固めることもできれば脆くすることもできる。

私自身が悪徳商法の解約アドバイザーみたいなことをやってきたからなんだけど、人間のひとりひとりの弱さみたいなものをすごく強く感じてきたのね。ちょっとした騙しのテクニックで簡単に人は騙されてしまう。ただ幸いだと思ったのは「人を騙すなんて良くないよね」だけは、まだ悪徳商法に関してはしっかり社会に有る。それが社会に有る限り被害者には救いの手がさしのべられるし、悪徳商法がメジャーになることは防がれる。その「良くないよね」が崩れたら、社会そのものがどうなっていくのか想像すらしたくない。

私が最近行っているのは、「庶民ひとりひとりは小さいかも知れないけど、ひとりひとりが雰囲気をつくるのに協力はできる」なんてことね。

by 技術開発者 (2011-10-03 18:05) 

pooh

> 技術開発者さん

> 「自分たちの足元の固さ脆さを自分たちが決めている」

この認識って、大事だと思います。
ただまぁ、古賀氏のような人文系のアカデミシャンでさえそう云うことについて充分に認識していない、と云う現状は笑えない。自分の商売に直結する問題のはずなのに、あまりに言動が安い。

> 人間のひとりひとりの弱さ

ひとりひとりが弱いからこそ社会があるのであり、ひとりひとりをその枠を超えて結びつけうるツールとして、例えば科学があるのだ、と思います。
by pooh (2011-10-03 22:02) 

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