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進行中の事例(「呪われたナターシャ―現代ロシアにおける呪術の民族誌」藤原 潤子) [ひと/本]

読みやすく、具体的で、興味深く、あえて云ってしまえば「面白く」読める。

呪われたナターシャ―現代ロシアにおける呪術の民族誌

呪われたナターシャ―現代ロシアにおける呪術の民族誌

  • 作者: 藤原 潤子
  • 出版社/メーカー: 人文書院
  • 発売日: 2010/06
  • メディア: 単行本

この「面白く」読めてしまうと云うあたりに、たぶん議論の射程、と云うのが関わってくるのだろう。

ニセ科学を「科学を装った呪術」と把握するのが、基本的なぼくのスタンスだ、と云ってみる。こう云いきってみると逆に、この把握のしかたからどんなものが(とりわけ個別のニセ科学問題の議論対象にもとづいて考えてみれば)こぼれおちるのか、と云うことも見えてくるのだけれど、すくなくともニセ科学的事象が「信じられる」対象である(そうでないものはニセ科学である以前にフィクションだ)以上、この側面はすべてのニセ科学的事象に多かれ少なかれ存在するもの、とは云えると思う。
で、この本は社会主義体制崩壊後のロシアの呪術について、フィールドワークをもとに書かれたもの。その復古、浸透、発展と社会的位置づけ、そして社会への影響について。

科学リテラシーとか、科学的啓蒙とか。そう云う用語に、ぼくはどうしてもひっかかってしまうし、疑問を感じてしまう。その言葉の持つニュアンスのなかにある「身につけるべきもの」と云うのは、いったいなんなのだろう。まさかそれは、科学的な価値観を内面化すること、ではないだろうし(その時点で、その「科学」は個人のなかで窒息死する)。
科学がどれだけ発展しようと、ひとは変わらない。どれだけ科学知識を身につけようと、それがひとの思考するうえでのメカニズムを根本的に変容させるわけではない。逆に云うと、だから科学の方法を知り、その使い方を学ぶことには意味があるわけなのだけれど。本質的には変われなくても、よりよい運用を目指すことはできるし、そのことによってぼくたちが暮らす今の社会が現出されている、わけなので。

ただ、そのことによって、ひとにとっての呪術の価値(と云うべきか、魅力、と云ったほうが適切なのか)が減じたわけでは、じっさいはなくて。
本書に描かれたロシアにおける呪術の復権と流布、継続的な新しい展開については、旧ソビエトの社会主義体制の「科学性」に対する反発であるかのように本書においては語られる。これはニセ科学の問題を論じるにあたって(そして多くの「ニセ科学批判批判」の文脈において)、その流布や蔓延が、科学の万能性を自明のものとして価値観の源泉を画一的にそこに求めようとする社会への反発である、と云うような言説がしばしばなされるのと類似している。
直接的に述べたことがあったかどうかはわからないけど、ぼくはそもそもこの把握自体に疑問を持っていて。呪術がなんらかのかたちをとって表面化してくるのはむしろ社会の、共同体のありかたの変容を背景にするものであって、それが状況次第で例えば本書にあるようなポピュラー化した呪術や、場合によってはニセ科学のかたちをとるのではないか、みたいに考えたりしている(じっさいにこの理解に基づくエントリも複数書いていると思う)。

いずれにせよ本書で描かれるロシアは、呪術の実在論的な社会に対する実効性が一定以上に信じられ、その実用的な展開が進行している社会で。それが社会的にどのように認知されていてその認知がどのように(メディアなどに乗って)展開していくのか、そのなかで呪術にリアリティを感じてしまった個人がどのように考えふるまうのか(ここでぼくはすこし心臓を貫かれてを連想しながら読んだ)、そしてその社会のなかで同種のリアリティにアカデミズムがどんなふうに絡めとられていくのか、が本書のなかでは豊富な事例とともに述べられる。とりわけ最後の部分は衝撃的でもあって、科学的なるものへの理解の歪みに対してアカデミシャン自身が抵抗し得ない状況が実例を挙げて語られる(江本勝をはじめとする船井幸雄系のオカルト言説を発するひとたちが、みずからの言説に科学的な裏付けを与えるものとしてロシアのアカデミズムをひんぱんに引き合いに出すのも、このあたり共通した背景があるのかもしれない)。忌憚なく云って、それらを読んでいくのは「面白い」。

で、たぶんこの「面白さ」は、本書に書かれている内容をぼくたちが受け止めるにあたって、そこにぼくたちの持つリアリティとのへだたりを感じているから生じているものだと思う。結局のところ例えばぼくは、ここに描かれている現代ロシアを、どこか遠いものとして感じてしまうぐらいには鈍っている、と云うことなのであって。
ただそれは、ほんとうにへだたりの彼方で起きているいまのぼくたちの社会とは無縁の風潮なのか、あるいはそこにいくばくかのスケールとスタイルの違いがあるだけなのか。ぼくは後者だと考えているし、だからこそニセ科学の問題は(根絶云々ではなく)考えられ続けるべきものなのだ、と思っている。
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mohariza

拙宅に古本屋で買ったロシアの伝説、伝承、民話等を扱った本があります。
ちらっと、読んだだけで、ロシアの民衆の心の核となるものは、まだ、理解していません。(読んだ範囲では、出てこなかったような・・・、読みきって無いような・・・。)

共産主義体制化でも、崩壊後、また、共産体制になる前も、核としてのロシア人は、基本的には変わって無いと思っています。

共産体制化でのタルコフスキーの映画などを観ていると、ロシアと云う風土から来るロシア人が持つ何らかのものが、醸されていると思います。

よって、<現代ロシアにおける呪術の民族(誌)>と云うものも、その本は、もちろん読んではいませんが、ロシアの風土等から来るものに、関わっていると思います。
by mohariza (2011-01-12 12:44) 

pooh

> moharizaさん

ぼくも「ロシア的なるもの」について漠然としたイメージは持っていて、それは呪術が横行する風土と一致しています。まぁその個人的なイメージがいかなるものか、については(ちょっと幼稚すぎるので)開陳しないことにしますけど。

> 核としてのロシア人は、基本的には変わって無い

このあたり、どうなんでしょうね。
変わりうる部分ではあるけれど、ある種の慣性めいたものがそこには存在していて、簡単に変わるものではない、みたいな感じでしょうかね。

ちなみに、風土と社会とその構成員の心性、みたいな部分で、ぼくは「心臓を貫かれて」を連想したのかもしれないな、みたいに、いまになって思えてきました。
by pooh (2011-01-12 21:50) 

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