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観客席はない(「科学は誰のものか」平川秀行) [ひと/本]

やっぱり読まなきゃいけないのかな、みたいに感じたので読んだ。

科学は誰のものか―社会の側から問い直す (生活人新書 328)

科学は誰のものか―社会の側から問い直す (生活人新書 328)

  • 作者: 平川 秀幸
  • 出版社/メーカー: 日本放送出版協会
  • 発売日: 2010/09/08
  • メディア: 新書

読んだけど、書評的なものを書くのは難しい。

なんで難しいか、と云うと、ぼく自身にひきつけて読む限り、正直おのれの言動を若干でも支持してくれる書物として読むか、あるいは書かれている内容におのれの行動をひき較べて反省するか、しかできないので(前者について述べるのは見苦しいし、後者について書くのは恥ずかしい)。だからここから書くことはちょっと嫌な意味で、自分語り的な色合いを帯びる、かも。

ここでぼくは、ニセ科学の問題に関してそれなりの期間、それなりの分量の考察を提示してきた。ここは所詮議論の全体のなかではほんとうの片隅でしかないけれど、それでもあたまの血のめぐりのあまりよくない、さして勉強もしなければ科学そのものに対する知識もとぼしい中年男の言説にしては、本来望み得ないぐらいには読まれていたりもする。
科学者と云う専門職ではない場所から語る以上、社会(に住むぼくたち)と科学の関わり合いについてことばにすることも複数回あって。このへんはぼくなんかよりもっと優れた人文系の論者がより精緻な議論を展開されているけれど、いずれにせよ根底にあるのは、ぼくたちの誰ひとりとして「社会と科学の関わりあい」と云う問題について観客席にはいない、と云う意識。
だれひとりとして。科学者も、そうではないぼくたちも。

科学は、社会を変えていく。そのことにフォーカスしたのが、こちらで書いた長神風二氏の予定不調和だったりもするのだけど、本書では「社会が科学を変えていく」具体的な事例も示されている。科学・技術も社会のなかにあるものなので、その本来の原理はともかくとして、独立したものではあり得ない。と云うか、その「独立したものでありうる原理的な可能性」をいかに効果的に活用するか、と云う部分が、ある意味社会のなかでの科学と云うものの意義でもあって。その意義は、当然ながら社会から科学を切断するような発想においては発揮することができない(余談だけど、昨今さまざまな発言でちょっと話題の群馬大学早川由紀夫教授の言動の根底には、科学を科学として社会から切り離してその原理的な独立性を守りたい、そのためには科学が社会となまなましく接するような状況においてはとりあえず矢面のジャンルを切断して、全面的に社会の側にその選択の下駄を預けて他人事としていたい、と云うような発想があるのではないか、と云う疑念を持っている。ニセ科学の議論においてぜったいに観客席からでてこないような論者の主張を援用したがるのは、スタンスが類似しているからではないのかな)。

いまはだれもぼくのことをkikulogのコメント欄の常連だ、なんて認識していないと思うけれども(年に数回しか書き込まないしね)、ここを始めるのと前後するあたりの数年前にはそれなりにコメント欄でも発言したりしていて。それは多くの場合、社会とのコミットメントが薄いようにみられる科学者を批判するような言辞だったのだけれど、あきらかにそれは観客席からの発言だった、と思う。いまみたいに、ぼくのようなうすらぼけとは違う、優れた「科学の専門家ではないけどニセ科学の問題について発言する論者」が何人も登場する前の話。でもそれなりにあれこれ考えてきて、そしてコメント欄でいろいろな示唆をいただいて、牛歩のごときペースではあっても視野はいくらか広がったし、そしてたぶん意識のうえでは観客席からアリーナに身を乗り出す、くらいの場所にはでてきているんだと思う。幻想の観客席、からね。

この本の書評は藤井由紀子さんが書評:「科学は誰のものか~社会の側から問い直す」と云うエントリでお書きになっている。科学者による非常に丁寧な書評で同意できる部分も多いのだけれど、後半部分でおっしゃっていることには異論がある。
 しかし、本書に描かれている「科学技術像(と科学者像)」からは、それらがあまりに問題に満ち、信用ならず、危険なものであるかのような印象のみを受ける。
 これがほんとうだとしたら、なんのために、非専門家は科学技術の専門家と対話する必要があるのだろう、非専門家だけで決めていけばいいではないか、とすら思えた。
社会とのあいだに適切な関わり合いを持てていない状況におかれている場合、科学技術は問題に満ち、信用ならず、危険なものでありうる、と思う。著者が本書のなかで挙げている事例にあるとおりに。個々の科学技術の専門家がイノセンスであっても、その研究の果実はいかようにも利用しうる。そして、その結果において、社会の成員としての科学技術の専門家が観客席にいてもいい、と云うことにはならないと思うし、だからこそコミュニケーションが重要なのだ、と云うのが著者の主張だと思う。
科学は科学技術の専門家のものでも、非専門家のものでもない。だから非専門家は専門家から知識を得ることが重要だし、逆に専門家は非専門家に利用可能なものとしての知識を伝えることが重要になる(ここでぼくは瀬名秀明さんの科学者がパトロンになればいいと云うエントリを少し思い出す)。
 本書を素直に読む限り、私は平川氏のいう「善い科学」から得られる果実を思い浮かべることができなかった。
 これでは、非専門家は、「科学技術の暴走」に歯止めをかけるだけの単なるお目付役にすぎない。しかし、そんな仕事が楽しいだろうか?
 また、それは科学技術嫌いと過度な自然信仰に拍車をかけることにならないだろうか?
 そして、心ある科学技術の専門家にとっても、浮世離れしたマッドサイエンティストに対するようなまなざしを向けられることは、対話する意欲を著しく削ぐことになるだろう。専門家もまた、市民の一人なのに。
いじわるが云いたいわけではないのだけれど、この読み方はどうも「科学は科学技術の専門家のもの」と云う考え方がベースになっているように見えてしまう。
ぼくは、「科学は誰のものか」と云う問いに対する平川氏の回答を「それを共用すべき社会のすべての成員のもの」である、と読んだ。だからこそ、専門家と非専門家が知識を共有し、その使い方について考えることに意義がある、と云う主張をぼくは読み取った。そこに対立構造を見てしまうのは、むしろ藤井さんの側にどこか「科学は本来科学技術の専門家のものである」と云うような意識があるからではないのかなぁ。だとすれば世代が云々と云う話でなくとも、違和感を感じられることはあるだろうけど。

いずれにせよ、社会と科学の関わりあいについて関心のある向きには(ニセ科学の問題に興味のあるひとも含め)本書は読む価値がある、と思う。ぼく個人としては、やっぱりハーバーマスとかもちょっとでも勉強しておかなきゃいけないのかなぁ、みたいに思ったりもした。
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pollyanna

トラックバックありがとうございました!

>藤井さんの側にどこか「科学は本来科学技術の専門家のものである」と云うような意識があるからではないのかなぁ

これはまったくそうは思っていないのですが、内心を証明するのは難しいですね。

>ぼくは、「科学は誰のものか」と云う問いに対する平川氏の回答を「それを共用すべき社会のすべての成員のもの」である、と読んだ。だからこそ、専門家と非専門家が知識を共有し、その使い方について考えることに意義がある、と云う主張をぼくは読み取った。

まったく同意します。
それにもかかわらず、上記のように取られてしまうとすれば、よほど私の書き方が悪かったのだと思います。
かなり反省中。
by pollyanna (2010-09-23 12:34) 

pooh

> pollyannaさん

いらっしゃいませ。

いや、ちょっとお書きのエントリを読んで悩んだんですよ。後半部分にお書きのことが感覚的にまったく共有できなくて。なんでだろ、みたいな。だから単純にぼくの読解力の問題なのかもしれません。

> これはまったくそうは思っていないのですが、内心を証明するのは難しいですね。

いや、pollyannaさんが自覚的にそうお考えになっているとも、そう主張されているとも、ぼくはまったく思っていなくて。

ある科学的成果、技術的成果は、その分野の専門家によるものであっても、でもその専門家に属するものではないですよね。で、その成果は成果単体としてすぐれたものであっても、いちがいに社会にとって有益に用いられるとは限らないわけです。
で、そのことに専門家は「その成果が属する主体」として責任を負うわけじゃなくて。やはり「その成果が応用される社会の成員」として責任を負うわけです。そう云う視点で見た場合にすべき仕事はなんだろう、みたいなお話で。

このエントリの最初に書いたように、ぼくはこの本を読むにあたってどうしても自分自身の立ち位置から自由になれない、みたいな感覚から逃れられませんでした。結果としてこんな妙なエントリになってしまった。
で、ひょっとしてpollyannaさんもおなじような感じがあったのかな、みたいに勝手に考えていた部分があります。的外れでしたらごめんなさい。
by pooh (2010-09-23 12:52) 

かも ひろやす

こんにちは。

自分のところに書きましたが、
http://d.hatena.ne.jp/wd0/20100923/a
私は後半の世代論に違和感を感じました。

by かも ひろやす (2010-09-23 13:45) 

pooh

> かも ひろやすさん

ぼくは世代としてはかも ひろやすさんに近いですけど、科学技術、と云うものに対する感覚はpollyannaさんに近かったり。
なので、時代背景からはいずれ自由になれないにしろ、世代、と云うものに一概に帰することのできる話でもないのかな、みたいに感じます。
by pooh (2010-09-23 14:19) 

技術開発者

こんにちは、poohさん。

ピンボケの話をすると、悪徳商法批判者の時代に「法律や裁判は誰のためのものか」みたいな話をしたことを思い出すんですね。

悪徳商法に騙されてお金を取られ、そして裁判に持っていっても芳しくない結果になってしまう場合というのはあるんですね。でもって言われる訳ですよ、「所詮、法律も裁判も強く悪賢いものの味方だ」みたいにね。でもって、こういう意識の蔓延は、被害者を励まして訴訟事にしてでもなんとかしたい私みたいな者にはとても困る訳ですね。だから、「たとえ不完全でも、法や裁判は弱者のためのものなんですよ」ってね。法が無く裁判もない社会を考えたら、それこそ強くて悪賢い者はなんでもできてしまう訳ですよ。あくまで、法や裁判制度が整備されるのは、強く悪賢い者と弱者のギャップを埋めたくてできているんだと説明して来たわけです。

なんていうかな、今、kikulogkの方で糖尿病の子が死んだ責任を、なかなか健康食品を売っているカルト宗教の指導者におよぼせない事の説明をしたりしていますけどね。別に自然科学に限らず皆さんの社会を支えている法や裁判にだって、長い試行錯誤の歴史を経る事で、「直感的にはおかしく感じる部分」ってどうしてもできてしまうんですね。それを理解するためには、辛くても法学からきちんと勉強するしかない部分がね。

或る意味で、学問全てが発展の中で「直感的に理解出来ない」むしろ「直観に反する」部分をもってしまうのだろうと思うんですね。経済学の説明では「日本の先端産業の国際競争力が上がって、それらの輸出が増えると労働集約型産業製品の輸入が増大して、国内の雇用状況は悪化する」なんて説明(ストルパー・サミエルソンの定理ね。先進国と発展途上国が紡機をすると貿易量が増えるほど先進国の労働者の賃金は低下し雇用機会は失われていくのは避けられません。)をすると多くの人が「嘘だろ~」と言いますけどね。

「学ぶ事によってしか乗り越えられないバリアー」が専門家と非専門家の間に生じてしまう面は否定できないのですが、それをまがりなりにも乗り越えてきたのは、「専門家も非専門家も同じ社会の一員であり、社会が成り立たなくなったら皆困る」という意識の様な気がしています。そして現代において、この「同じ社会に生きている」という概念の方が危なくなっている気がするんです。

by 技術開発者 (2010-09-24 17:54) 

pooh

> 技術開発者さん

> 或る意味で、学問全てが発展の中で「直感的に理解出来ない」むしろ「直観に反する」部分をもってしまうのだろうと思うんですね。

この部分、ここでときおり(細々とながら継続的に)続けられている「科学:呪術」の議論につながっていく部分があるようにも思います。ある意味、そこを乗り越えられるのは知識と、その知識を踏まえた仕組み的な理解、のように感じています。
だから、専門家には同じ地平に立ってほしい。社会の構成人員として。

> それをまがりなりにも乗り越えてきたのは、「専門家も非専門家も同じ社会の一員であり、社会が成り立たなくなったら皆困る」という意識

あらためて「誰のものか」を問わなければいけないような状況と云うのが、まずは問題ではあるんだろう、とは思います。ただ、その状況は眼前にある。
誰のせいか、なんてことを問うている場合ではなくて、まずは科学技術と云うものの有効性を踏まえたうえで(同時に現状での限界や問題点をも踏まえたうえで)、みんなで「どんなふうに使うべきか」を考えるべきところだと思うんですよね。
by pooh (2010-09-24 22:19) 

zorori

技術開発者さん、

>でもって言われる訳ですよ、「所詮、法律も裁判も強く悪賢いものの味方だ」みたいにね。

理不尽を感じるとますます理不尽に走るところが人間にはありますね。
役人が不祥事を起こすと、不祥事をなくせではなくて、なぜか役人は要らないとなったりします。今、役人はどんどん減らされていて、それは財政事情などの別の理由があるのですが、役人に対する不満を利用している面があって、これは拙いなあと思うことが有ります。そのうち、警察も、裁判所も要らない、必殺仕事人に頼もうとなったりしたら大変だけど、そんな国もないではないし。
by zorori (2010-09-25 09:10) 

pooh

> zororiさん

いずれ振り子の振れみたいな側面はあるわけですよね。なかなか適切なあたりには収束しない。
でまぁそれはそれと認識したうえで「適切なあたり」をどう見定めるか、と云う話にまずなるだろうなぁ、と云うことでもあります。
by pooh (2010-09-26 08:50) 

技術開発者

こんにちは、poohさん、zororiさん。

>理不尽を感じるとますます理不尽に走るところが人間にはありますね。

理屈には歯止めがあるけど、感情にはなかなか歯止めがかかりませんからね。

>だから、専門家には同じ地平に立ってほしい。社会の構成人員として。

私はまたまた労組の役員を引き受けてしまって、今頭の中が労組の問題でいっぱいになっているので、ついそういう考え方をしてしまうんですけどね。その昔、労組の力を弱めるために経営側がとった戦術の一つに「分断・分裂」なんてテクニックがあったんですね。労働者を複数の労働組合に分裂させて、互いに反目しあうようにさせるようなテクニックです。日本航空の客室乗務員が複数の労組に分かれていて、けっこう厳しい反目があったなんてのは有名ですね。なんていうか、今、そういう「分断・分裂」が社会の中で起きはじめているようにも見えるんですね。

by 技術開発者 (2010-09-28 03:58) 

pooh

> 技術開発者さん

ぼくはかつて労組のある会社に勤めていたことはあるんですが、そこの労組は最初から分断されていたんですよね。
こう、組織の中では微視的には利益相反は当然のようにあって、広げれば社会のなかでもあるわけで。そう云う意味で、なんと云うか同じ社会に暮らす、的な一体感は(社会全体としても、もっとちいさなコミュニティのレベルでも)あまり日常的なものではなくなっている、みたいには感じます。
by pooh (2010-09-28 07:30) 

技術開発者

こんにちは、pooh さん。

>そう云う意味で、なんと云うか同じ社会に暮らす、的な一体感は(社会全体としても、もっとちいさなコミュニティのレベルでも)あまり日常的なものではなくなっている、みたいには感じます。

労組の分裂って最終的には誰も得しないんですよ。なんていうか、私は労組の人だから「経営側の悪辣な手法により分裂が図られた」なんて言い方はするけど、実際の所、分裂した各労組の幹部も経営側も目先の部分で反応してしまっているだけでね。結局日航なんかも会社全体で経営を良くする意識を持てないまま、ズルズルと破綻までいってしまうんですね。

ちなみに私が公務員の時からはいっている労組は、珍しく分裂していないんです(ご存じかどうか分からないけど公務員の省庁別労組には分裂しているところが結構あるんですね)。その頃言われたのが「割れるには柔らかすぎる」なんてね。省庁の中でもいろんな業務の職種が多い省庁だったから、もともと固い一枚板になることなんて諦めた様なところがあってね。そのために割ろうに割れない柔らかい労組だったんですね。

なんていうかな、社会も同じで、一体感みたいのを失って得をすることなんて無いんだろうと思ったりします。でもって、なんていうかな社会が「固く」成ろうとするときに割れやすいのかなと思ったりします。

なんていうか、悪徳商法批判の時に古い時代を引き合いに出して、「物を買わずに店を買う」なんて話をしていたんですね。不良品が沢山ある時代に、買う物の一つずつの品質確認をするなんてできないから、「不良品を(できるだけ)仕入れない目を持った店」を選んで買い物をする訳ですね。そういう店は、いわゆる個人商店だったんですね。地域の中でともに暮らしていることで、ベースとなる一体感があり、不良品が有ったときに気楽に文句も言え、そのことが店主に「不良品を仕入れない」という動機付けもおこさせる関係ね。

なんかね、そういう作法が忘れられるときに、「あいつは仲間か敵か」みたいな分裂が起こるきがするんですね。

by 技術開発者 (2010-09-29 17:11) 

pooh

> 技術開発者さん

こう、「ほどよい一体感」みたいなのがやっぱり望ましくて。息苦しいほど一体になっているわけでもなく、みたいな。都合のいいことを云ってますけれど、要するにぼく自身が「固い一体感」に窒息しやすい人間だ、って部分もあって。
そう云うゆるさ、みたいな部分って、うまく落としどころを見つけられないもんなんでしょうかねぇ。
by pooh (2010-09-29 21:58) 

技術開発者

こんにちは、 pooh さん。

>そう云うゆるさ、みたいな部分って、うまく落としどころを見つけられないもんなんでしょうかねぇ。

う~ん。なんていうか、私は「ほど良さ」っていうのは、結局押しくらまんじゅうでできる気がするんですね。なんていうかな、平均値が「ほど良い」状態にあっても、皆が皆「ほど良さ」だけ感じるわけではないよね。中には「かた苦しさ」によった部分の経験を多くしてしまって、「この世界はなんか窮屈だぞ、もっと自由にしようよ」と言う人も出て来るし、逆に「ゆるい」経験を沢山してしまって「もう少しきちんとしても良いんじゃないか」と言う人も出てくる。この両者が同じくらいの力で押し合っていると、中央は動かない。実際に中央が動いたときには、動いた方の経験をする人が多くなるから、押しくらまんじゅうで勝って中央は元にも止め働きをするみたいなイメージですね。

by 技術開発者 (2010-09-30 08:12) 

pooh

> 技術開発者さん

> 私は「ほど良さ」っていうのは、結局押しくらまんじゅうでできる気がする

うむむ、難しいなぁ。
なんか、その中心を成員がみんな意識できていて、そこからの距離と全体像がちゃんとイメージできたうえでそれぞれの場所にいる、みたいな状態がいいなぁ、みたいに感じるんですけど、抽象的すぎてよくわからないですよね。
by pooh (2010-09-30 21:34) 

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