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主語のサイズと陰謀論 [よしなしごと]

tonmanaanglerさんの漢方は疑似科学なのかと云うエントリを読んだ。なんか釣られてネタにマジレス、みたいな感じにもなっちゃいそうだけど、ちょっと書いてみる。

漢方については、kikulogでも漢方薬と云うすこし古いエントリで議論があったりもしたのだけれど。まじめに考えると、医学としての漢方の原理と、漢方薬、と云うものをまず切り分けなければいけなくなる。

医療技術・診断技術としての漢方の説明原理にはかならずしも科学的な裏付けがあるわけじゃなくて、でも未整理の膨大なエビデンスが数千年分あるとも云えて。もちろん未整理なエビデンスはエビデンスとしては使えないのだけれど、でもそのなかに使えるノウハウが埋まっている可能性もある、みたいな状態。で、そこのところを解明していこう、と云う動きもある。解明されたら、それは通常医療に包含されることになる。

で、漢方薬にはじっさいに薬効があることが科学的にわかっているものもある(この「科学的にわかっている」と云う意味が「メカニズムが解明されている」と云う意味でないことに留意)。漢方薬、と云うかそのもとになる生薬には薬理効果のあるものが当然あって、それは通常医療で用いる薬品の原料になったりもする。ただ、生薬の組み合わせて処方する漢方薬そのものに関しては薬効が認められても原理のわからない部分があって、なので一定水準の医療を提供する必要のある通常医療にそのまま持ち込むには不確かな部分があるので、そこについても継続的に研究は行われている。通常の医学(つまりは科学)の範疇として。
そもそも漢方は疑似科学なのかという疑問。ホメオパシーについてなら疑似科学だと主張しているものは一杯あるけれど、漢方については、これがどうもはっきりしない。はっきりしないのはどうしてかと考えるに、それは科学者の態度がはっきりしていないからであろう。
上記のような事情があるので、「漢方」とひとくちで云った場合に、それを科学の側からどう見るか、と云うあたりには複数の回答がありうるわけで(どこを見るか、でもあるし)。当然ながらわかっていない部分に対しては、わかっていない以上科学者の態度ははっきりしない。
ホメオパシーに使用するレメディーは「極度に希釈」しているので元となる物質は1分子も含まれていない。よって科学的にはただの砂糖玉である。もし、その砂糖玉に効果があるのだとしたら現代の科学全体が見直しを迫られるであろう。つまり、単にホメオパシーという医療の問題に留まらない大問題なわけだ。
ここでおっしゃっていること、自体は正しい、と思う。たしかにホメオパシーに(レメディ自体がもたらす薬理効果としての)効果があったら、現代の科学全体が見直しを迫られる。ありとあらゆる水についての研究、その研究の成果が(小学校の理科で習うレベルから)否定される。その成果にもとづいた、成果を応用した技術も否定される。そこに基礎をおく、ぼくらの生活そのものの(一定程度の)安全も否定される。上水道の水もミネラルウォーターもいっさい飲めない。風呂に入ったりシャワーを浴びたりプールに入ったり、もできなくなる。そこにどんな波動が記憶されていて、それが健康にどんな影響をおよぼすかわからないから。下手にヒットして好転反応が出たりした場合、それがどんな症状となって顕れるのかわからないわけだし(ホメオパスの云う「毒出し」や「好転反応」は、じっさいにそれでひとが死んだりもしているわけなので)。
一方、漢方の場合は、効能があってもなくても、科学界全体が揺らぐことはないだろう。(プラセボ以外の)効能が無いことがはっきりすればそう言えばいいだけだし、効能があるのならば、そのメカニズムが研究対象になるであろう。
これもまぁ、そのとおり。で、先にも書いたけれどその研究の結果有用なことがらが見つかったら、それは通常医療に組み込まれる。なにもへんじゃない、けど。
すなわち優先順位で言えば科学としてはホメオパシーの方が遥かに重大な問題だということになり、その理由は現代科学の体系が揺るがされるということであり、そのことが被害の有る無しなどよりも深刻だってことではないだろうか。
なんでそこでそうなるかな。科学としてはってなんだ。その主語は誰のことだ。たんなるメソッドに人格を見て取るのか。言霊どころの騒ぎじゃないな。
単純に医療として効果が期待できるかどうか、って話でしょう。それが一定水準の効果を保証できる医療に導入できるのか、ってことでしょう。そこでわざわざ正体不明のへんにでかい主語を持ち込んで陰謀論めいた結論に持っていかなきゃいけないような複雑なことがらじゃないでしょうに。

代替医療にもいろいろあるし、そのなかには効能が見込めるものもある。効能がコスト(費用だけじゃなくて、リスクとベネフィットの差し引きね)に充分引き合えば、それは非難も受けないだろうし、べつに通常医療に取り込まれなくても問題はない。逆に害があったり、必要な通常医療を受ける機会を受ける機会を奪ったりしたら、それは問題だし、非難されることもあるだろう。で、それを各人の主観をできるだけカットした状態で判断するために用いられている共有可能な基準を「科学的な基準」と呼んでいるわけで。科学として都合がいいとか悪いとか、そもそもそんな理路じゃない(て云うかそれはじっさい、誰にとっての「都合」なんだ。「科学主義者」? 「科学教徒」?)。

こうやってわざわざ主語を拡大して、議論のロジックをアクロバティックなものに持っていくのは、どうしてなんだろうなぁ。ホメオパシー各団体が自分たちのメソッドに対する疑念や非難を、なぜか代替医療全体に対するものとしてすり替えて論じたがるのと同じように、やっぱりそのへんって意図的なものなのかなぁ。ちょっとわからないけど。
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