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オカルトと商品価値 [よしなしごと]

バイオダイナミクス(ビオディナミ)農法については以前もちょっとだけ触れたことがある(こっちとかこっちとか)。でも、ビオディナミワインは呑んだことはない。
みたいなぼくではあるのだけれど、産経新聞エナック(どうでもいいけどインドネシア語だと末尾のKは発音せずに「えなっ」にならないか)のワインはこれから“ビオディナミ” と云う記事を読んだ。

最近はそもそもワイン自体をそんなに呑まないのだけど、いちばん呑んでいた30代前半の頃も、それこそ蘊蓄の垂れようもないような安いワインばかり呑んでいた。新大陸のシラーズやシャルドネ、スペインのテンプラニーリョだの。そもそもワインの味の見当を葡萄の品種でつけようとすること自体が貧乏人の証で、せいぜい張り込んでロス・ヴァスコスとか。
当時の仙台ではバロン・フィリップ・ロートシルトのスタンダードが1本980円、ムートン・カデが1500円程度で安定して買えたのだった。ひとりものが手製のがさつな料理やスーパーの惣菜をあてて呑むワインにそれ以上のものが必要なもんか。

だからと云って、グラン・ヴァンを追求する酒のみを、べつに馬鹿にはしない。たぶん呑めば旨いんだろう。投資したぶん舌も肥えるだろうから、ぼくなんかが知らない世界をたくさん知ってるんだろう(とは云え、そう云う手合いの酒のみで、自分よりよく味がわかってそうな向きにはあまり会ったことがない。なんか、高級車を運転する人間にあまり品のある奴を見かけたことがない、みたいなあたりにちょっと似ている)。

でもまぁ名前を呑む、蘊蓄を呑む、値段を呑む、みたいなのは(そこについて語らなければ)べつだんかわいらしい趣味の域を超えない。付加価値を呑むのも、オカルトを呑むのも、まぁ同じ。
健康志向の広がりに伴い、自然派ワインが人気だ。中でも、化学合成された農薬や肥料などを使わない有機農法ワインの1つである「ビオディナミワイン」は土壌造りや栽培、醸造に宇宙の力を借りるという神秘的な取り組みから、愛好家以外の関心も高まっている。
有機農法であることは、それだけで特に味のよさや安全性を意味しない。オカルトであることも同様。でも、そこを見抜けるような舌は(ぼくを含め)多くのワイン呑みはもっちゃいない。金があまっている人間はぼくみたいにそこそこ呑める程度においしくて安いワインを血眼になって探したりする必要はなくて、有機だろうとオカルトだろうとおいしく感じられるワインを買ってきて呑めばいいのだ。
その意味で、まぁこのシュタイナー農法も、そのあたりのニーズに応えたものなんだろう、と思う。実行するのはそうとうたいへんみたいだけど、その部分は価格に転嫁すればいいし、よろこんで払う層がいるんなら、充分商売としては成り立つわけで。

ただまぁ、そのへんを好むワイン呑みは、あんまり語らないほうがいい、とは思うけどね。底が知れるから。
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OSATO

こんばんは。
僕もワインに限らず飲んでうまけりゃそれで良いという人種ですから、こういう講釈のものはシャレで試してみるぐらいしか思わないですね。
ただ気になったのは、
>>土壌造りや栽培、醸造に宇宙の力を借りるという神秘的な取り組みから、【愛好家以外】の関心も高まっている。
の部分。
これがあちら方面の方々なのかそれとも純朴な生産者を指すのか気になる所です。
研究熱心な生産者が手を出してあちら側に行ってしまわないかと不安にもなります。
実例としてこんな所がありますし、↓
http://www.givegive.co.jp/em-beer.html
挙句の果て、ここの人はこんなのまで出す始末ですから。↓
http://www.hado.com/shopping/new/0707/beer.htm
いやここの普通の製品は普通に美味しいんですから、何もここまでする事はないだろうといつも思っているんですがね。
by OSATO (2010-08-15 22:59) 

pooh

> OSATOさん

確かに、「愛好家以外」ってだれのことを指すんでしょうね。

嗜好品については、ぼくはそのへんけっこうゆるく認識しています。
個人的な好みはともかく、商売上の選択としてあっちに行っちゃうのはまぁありかと。買うか、と云えば買いませんけどね。
by pooh (2010-08-16 06:08) 

satomi

おはようございます。
 
先月だったかの朝日新聞土曜版Beの青い方で紹介されていた南アでワイン作りに取り組んでいるという日本人女性も、たしかバイオダイナミクスでやっていると書かれたあった記憶が。
 
バイオダイナミクスと聞くと、どうも箒にまたがった魔女のイメージが浮かんでしまうのですが、一般メディアで「いいもの」として取り上げられるようになっていくのは、どうだかなあと思います。牛の角の中に水晶の粉などを入れて畑の隅に埋める等々、まさに魔術ですものね。(産経の記事読んで、「牛の角を肥料化するのか、エコだなあ」などと勘違いする人がいそう)
 
産経の記事のサブタイトルに「自然界の力で本来の味を」とありますが、「自然素材を使用した」が「自然界の力を利用した」とイコールであるとは限らないですよねぇ。自然素材を使おうが何を使おうが、魔術とは人間が作り上げた「物語」(=人工)なわけで。そこらへんをごっちゃにして語られてしまうのは、ホメオパシーにも通ずる問題だと思います。
 
西洋由来の魔術じゃなくて日本古来のものに注目していただいて、「雨乞い太鼓を田んぼの横で打ち鳴らして育てました。その素晴らしい波動が入った米です」とかなんとか言って売り出したら、高くても買ってくれるかしらん、などと妄想してしまいました。(笑)
 
by satomi (2010-08-16 09:59) 

mimon

ビオディナミワインですか。
あれは、伝統的な製法と違って、酸化防止剤の二酸化硫黄すら「添加剤」だから使わないそうですね。
その代わり、酸素を追い出すのに窒素を使うそうです。
いやあ、私の場合、身近に空気を窒素と酸素に分離するプラントがありますので、どうしても、窒素のほうが「工業的」だと感じてしまいます。
by mimon (2010-08-16 15:37) 

pooh

> satomiさん

うわぁ。こんな話題にsatomiさんがお越しになると構えてしまう(^^;。

> 牛の角の中に水晶の粉などを入れて畑の隅に埋める等々、まさに魔術ですものね。

いやこれシュタイナーが源流なので、まごうことなき魔術、と云うかオカルトです。「じつは科学的根拠があって魔術じゃない」扱いとかしたらむしろ失礼に当たる。

> 自然素材を使おうが何を使おうが、魔術とは人間が作り上げた「物語」(=人工)なわけで。

それほど詳しいわけじゃないんですが、ぼくの認識では、シュタイナーのオカルトは「人間による実践」と云う意味合いをつよく持っています。アプローチ先は自然でもその主体は人間、となると要するに通常の農業と同じわけで、ただそこにオカルト風味が加わる、ってところですかね。

> 西洋由来の魔術じゃなくて日本古来のものに注目していただいて

じっさいはご近所の神社でお祭りとかするのも、おなじことなんですけどね。
いや、思うんですけど、ワインの味って実際は醸造の過程で加える各種の人工的な処置に支配される部分がそうとう影響するわけで(だからそう云う処理に左右されない、テロワール、みたいな部分が尊重される部分はありますけど)。それをいっさいしないでそこそこ呑める味のワインをつくる、と云うだけでもそうとうなコストがかかるはずなので、そこを「味わい」として楽しもうと思えば、やっぱりけっこうな出費は必要なんだろうな、と思います。
で、お金のあるひとはそう云う楽しみ方をしてくれてもいいんじゃないか、と思います。個人的には、ぼくに向かってワインの味を語ることさえ控えてくれれば。
by pooh (2010-08-16 20:36) 

pooh

> mimonさん

いや、なので伝統農法ではなくて、オカルトなんですよね。だからほんとうはこの文脈で語られている「自然」と云うのはじっさいの自然じゃなくて、あくまでシュタイナーの思想から捉えた「自然」なわけで。
だからじつは「現在の慣行農法以前に戻る」と云う発想はないはずなんですね。

ただこう、シュタイナー本人は酒類をたしなまなかったみたいなので、ビオディナミワイン、と云うものそのものの、なんと云うか正当性、みたいなのはけっこうあやふやなようです。だいたい正統ビオディナミの実践はとても大変だし安定して実践するのは難しいようなので、けっこう「なんちゃってビオディナミ」も多いようです。とは云え、生産者がこだわりを持って、プレミアムを乗せて販売するためにつくっているワインですから、まぁたぶんおいしいんでしょうね。
by pooh (2010-08-16 20:45) 

うさぎ林檎

こんばんは。

私は菊の品評会(でいいのかな)で賞を取るオジサンが、菊を育てるビニールハウスにカラオケを置いて(自分が)演歌を熱唱することで良い菊を咲かせることができると誇らしげだったのをBSで見た時、オジサンが楽しそうで嬉しかったデス。
なんでそれだけじゃいけないのかな?と思います。他人に裏付けや評価を求めた瞬間に全ては残念なことになるのに。
by うさぎ林檎 (2010-08-16 20:48) 

pooh

> うさぎ林檎さん

自分の生産物への(ちょっと変わった角度からの)愛情表現ですよねぇ。買った側も菊を愛でながら生産者のおじさんの演歌をうたう姿を連想して、ちょっと笑顔にでもなれれば、それは充分付加価値で。

ただ、ですね。
この世界では、値段のつかない付加価値は付加価値じゃない、んです。
by pooh (2010-08-16 20:58) 

うさぎ林檎

>poohさん

豊かになる事に異議を唱えるつもりはないんですヨ。
でもネ、方法論が歪んだ瞬間に全てが無価値になることがあるのも現実だと思うんです。
それに気付けた方が楽に生きていける、と思うんです……とは謂っても私自身はまだまだ生臭いんですけどね。
by うさぎ林檎 (2010-08-16 21:28) 

pooh

> うさぎ林檎さん

> 方法論が歪んだ瞬間に全てが無価値になることがある

これは事実だと思うんです。で、本来こう云うお話の流れで世間知じみたことを云うのは本来ぼくの任じゃないし似つかわしくない、とか自分でも思うんですけど。

どうでしょう。結局は、どう値付けするか、でもあって、例えばそれは価値観を抱き合わせで販売する、と云う遣り口でもあったりするんですよね。「自然」とか「エコ」とか(シュタイナーとか)。そう云うのが当面はまだ有効な手法として通用している、と云う現実もあったりして。
小汚い話ですけど、そこを踏まえないとなかなか議論もできなかったりするんですよね。
by pooh (2010-08-16 22:16) 

satomi

こんにちは。
 
好事家愛好のオカルトである分にはいいんですけど、魔術なんてものは日の当たるところに出ちゃったら(出しちゃったら)オシマイだと思うんですよね。
有機農法の部分だけ取り出して眺めればバイオダイナミクスもまっとうなもの(オカルトではないという意味で)なんでしょうけど、そもそもシュタイナーが生きた時代は、そういう有機な農業がごく普通だったわけだし、そこ(=有機)がバイオダイナミクスのキモではないですもんね。

それにしてもシュタイナーは神秘思想家であって実践家ではなかったからこそ、教育やら医療やら農業、建築と、あれだけあらゆる分野を網羅できたんでしょうね。農業やったことない人間の唱える農法なんて、なんだか全然興味わかないけど。それに魔術によって「自然本来の力を引き出す」なんて、自然に対して不遜だなあと思います。
 
雨乞い太鼓はげんかつぎであって、「音の神秘のエネルギーが水に働きかけてうんたらかんたら」なんて説明を信じる人は(たぶん)いないですよね。バイオダイナミクスの場合はどうなんでしょう。おまじないなのか、それとも施術によって実際に自然のコントロールが可能だと信じてやっているのか….? 外側から見ればどちらも魔術でしょうけど、後者は、やってる人にとっては確立された農業技術のひとつという認識なのではないかなあ。で、そこんとこの文脈に乗っかった取材をマスメディアが行って「エコな農法」としてもてはやし始めちゃったりしたらイカンと思います。
 
農業にしても医療にしても、遠い昔から今現在にまで連なる無数の先人達が、試行錯誤しながらよりよいものに更新して来たものの積み重ねですよね。人間の尊い営為。
とある時代にとある特定の個人がひらめいた思想や理論を、「○○(シュタイナー/ハーネマン/etc.)はこう言ったから」と、【実践の場】において金科玉条のように踏襲していく、なんてのは、人間という存在をバカにした態度なんじゃないかと思えてならないんですよね。(思想としてたしなむのは別にいいけど)

すいません、長くなってしまいました。
んじゃ、ちょっと田んぼで雨乞い太鼓を打ち鳴らして来ます。(笑)
うちの米はうまいですよ。

by satomi (2010-08-17 13:33) 

pooh

> satomiさん

> シュタイナーは神秘思想家であって実践家ではなかったからこそ、教育やら医療やら農業、建築と、あれだけあらゆる分野を網羅できたんでしょうね。

ここ、けっこう重要な部分だと思います。
おっしゃるような側面はあるでしょうし、じゃ彼の語った農業がほんとうに実践としての農業なのか、それともじつは比喩としての「農業」なのか、と云うところをまず見極めないといけない。
いや、見極めたうえでの(商業的にちゃんと採算を計算したうえでの)実践はある意味かまわない、とか思いますけど。

> そこんとこの文脈に乗っかった取材をマスメディアが行って「エコな農法」としてもてはやし始めちゃったりしたらイカンと思います。

って云うか、どうせならそこまでわかって報道してくれ、みたいには思いますけどね。ってえかニューエイジ的なエコの文脈とシュタイナーってふつうに親和できるものなんだろうか。

> 【実践の場】において金科玉条のように踏襲していく、なんてのは、人間という存在をバカにした態度なんじゃないか

結局、そう云うことを知らずに、我々は暮らせるわけですよ。だからそれが実際に、積み重ねられた営為を無にするようなおこないであることを理解できない(他人事じゃなく、ぼくなんかもすぐに忘れがちです)。だれかの積み上げてくれた営為のうえでしか生きていけないにもかかわらず。
こう、この種のちぐはくさが、ぼくらの日常のなかにはけっこうおおきく口をあけています。

> んじゃ、ちょっと田んぼで雨乞い太鼓を打ち鳴らして来ます。(笑)

おいしいお米になるよう、お祈りしてあげてください。
その祈りが、おおくの民俗芸術の源流ですから。
by pooh (2010-08-17 17:17) 

satomi

こんばんは
 
バイオダイナミクスはホメオパシーの農業版みたいなものではないでしょうかね。どちらも物質がなんたらかんたらして○×の作用を及ぼす、という一見もっともらしい因果関係の解説がなされて、ユーザーはそこの部分を信じて(信頼して)活用するわけでしょう。呪術とは別モノじゃないかと思うんです。(文化人類学的にカテゴライズすれば呪術ということになるのだとしても)
 
前に奈良の春日大社でお田植え神事の松葉をもらったことがあって、教えられたとおり田んぼの水口に飾って「これで豊作だ!」と喜んでたんです。おまじないの力を信じての「うきうき」では全然ないんですけどね。民俗的文化——人びとが紡いできた「ものがたり」に連なることの面白さというか。
あれがもし、「松葉には宇宙のエネルギーを呼ぶ力があってそれを大地に伝えてうんたらかんたら」みたいな作用機序もどきの説明付きだったとしたら、興ざめどころじゃあありません。呪術に解説はそぐわないですもん。
 
民俗的文化としての呪術もどこかに必ずルーツがあるんでしょうが、でも、いつどうやってなぜどこから生まれ出て来たのか、そういうことはもはや薄れてしまって、長い時間かけて醸されてきた「ものがたり」の共有だけが受け継がれていく。呪術とは、そういうもんじゃないかなあと思うんですよね。
特定の個人が創出して確立した思想や理論は呪術には成り得ないし(本人もそのつもりはなかっただろうし)、だから伝えて行くには饒舌な解説が必要だし、解説はやがてドグマ化していくことから逃れられないんじゃないか…と、そんなことを考えます。
 
> ニューエイジ的なエコの文脈とシュタイナーってふつうに親和できるものなんだろうか。
 
うーん、どうでしょう。アントロポロジーやってる人でニューエイジャーな人には会ったことはないかも…。印象論にすぎませんが。
 
by satomi (2010-08-18 00:43) 

pooh

> satomiさん

> 人びとが紡いできた「ものがたり」に連なることの面白さ

これなんですけど、うむむ。
うまく云えないんですけど、このあたりの抽象度って、なんか線が引けるようなものじゃなくて、どこか地続きのものなんじゃないか、とも思うんですよね(って、なんだかわからないな)。

> 特定の個人が創出して確立した思想や理論は呪術には成り得ない

いや、その意味では、完全に独創的な呪術と云うのは本来ないんだと思います。新しいオカルトも、それを支える人間のなかの要素がおなじものである以上、伝統的な呪術の延長上にあって。
ただ、それがその基盤との連続性を否定して、独自性を主張し始めると、おっしゃるようなことも生じてくるのかな、みたいに思います。
by pooh (2010-08-18 07:43) 

黒猫亭

>satomiさん

寧ろ呪術ってのは、言葉による説明の説得力だけで世界を動かしているかのように振る舞う仕組みですから、仰っていることは逆のような。おそらく、現役の呪術ってのは、泥臭くて生臭いもので、徹頭徹尾説明的で現世利益的なものだろうと思います。

「民俗的文化としての呪術」と謂うのは、多分「人が住んでいない文化財としての古民家」みたいなもので、現役の呪術じゃないんですよ、きっと。たとえばsatomiさんが仰っている「人びとが紡いできた「ものがたり」に連なることの面白さ」と謂うのは、一種の骨董的価値のようなものなのかな、と思います。呪術が現役のものでなくなり物語化したことによって発生した普遍的文化性とでも謂うか。
by 黒猫亭 (2010-08-18 12:28) 

pooh

> 黒猫亭さん

> 現役の呪術ってのは、泥臭くて生臭いもので、徹頭徹尾説明的で現世利益的なもの

いや、ぼくなんかはそこにそのまま(そのニュアンスを保ったまま)での洗練も生じうる、みたいに思いますけどね。生きたままでも、現役のままでも、世代を追うことで枯れることができる、みたいな。
ぼくの念頭にはバリ・ヒンドゥーがあるんですが(^^;。
by pooh (2010-08-18 21:27) 

黒猫亭

>poohさん

>>そこにそのまま(そのニュアンスを保ったまま)での洗練も生じうる

>>ぼくの念頭にはバリ・ヒンドゥーがあるんですが(^^;。

まあ、厳密な術語を規定して論じているような議論でもないので、ニュアンスが微妙なところはありますね。バリ・ヒンドゥーを例に引いて呪術の「洗練」を語る場合、「洗練」のニュアンスには「制度化」とかそれに連動する「不可視化」と謂う性格もあるでしょうし、文化混淆のアマルガム性みたいな部分で、土俗的な宗教儀礼と征服者の宗教教義の合理的な摺り合わせが起こるダイナミズムの性格もあるでしょうし、何だか複雑な話になりそうです。

以前こちらのエントリで、バリの日常の在り方について書かれたものがあったように思いますが、うろ覚えの記憶で謂うと、呪術が制度化し不可視化していくことで、ちょっと重点が別の方向にシフトしていくんじゃないかみたいな感触を覚えた記憶があります。また、ちょっと自分で調べて範囲でも、教義と土俗の二重性みたいな部分もあって、何と謂うか「洗練」と謂うニュアンスで一括りに論じるのもちょっと難しいな、と。
by 黒猫亭 (2010-08-18 23:16) 

satomi

こんばんは
 
> 線が引けるようなものじゃなくて、どこか地続きのものなんじゃないか、
> 新しいオカルトも、それを支える人間のなかの要素がおなじものである以上、伝統的な呪術の延長上にあって。
 
ええ、そこは私もそう思うんです。
 
が、たとえば近所の農家のお年寄りを見てると、とっても信心深いんだけど、でも仕事の現場(田畑)では、すごく合理的です。仕事の現場に呪術の入る余地なんてなさそうです。ハレとケの別がはっきりついてる、というか。
 
「人びとが紡いできた「ものがたり」に連なることの面白さ」の「面白さ」は、もっと厳密に言うと「ヨロコビ」かなあ。じゃあ、この自分の「ヨロコビ」の正体は何なのだろう…と考えるんですよね。「雨太鼓を鳴らす→雨が降るという効果が出る」を信じているわけではないし。単なる民俗学的興味だけでもないし。
 
なんていうか、呪術というのは本来、人の心に呼びかけるものなのかな、と思うんですよね。雨を降らせてくれるカミを信じているからといって、田畑の日照り対策を怠る人は誰ひとりいないわけで。

人があれこれ技術を磨いて努力してきたことに、「それは無駄じゃない。きっと報われるよ」と、ポンと肩を叩いてねぎらったり、勇気づけてくれたりするもの。報われなかったとしても、「お天道様のことは仕方がないな」と諦めさせてくれて、次のステップへと背中を押してくれるもの。それが呪術というものの存在意味なんじゃないか、と思ったんですよね。私の感じたヨロコビは、そういう人びとの「願い」や「思い」に連なるヨロコビなのかな、と思ったわけです。
 
かたや、バイオダイナミクスとかホメオパシーとかああいうものは、基本的に「○×の機序によって物質や現象や機能(土壌/作物/身体/気象/精神/etc.)に対して作用を及ぼす」という「理論」なわけですよね。たとえ根本の部分では伝統的な呪術的世界と「地続き」だとしても、全然別モノだと思えてなりません。
 
なんだか抽象的な事をこねくり回しているだけみたいですが、「都会から移住して農的暮らし」みたいなことをやっていると、マクロビとかホメオパシーとかスピリチュアリズムだとかいう世界がとても身近なところにあるんですよね。

こういうものへの違和感と、お年寄りたちの信心へのシンパシーとが、自分の中では矛盾無く同居しているんですが、ではそれはなぜなんだろうということを考えたいんです。これは、「自然」や「人間」というものをどう見るか、につながることで、自分にとってはけっこう大きなテーマなんですよね...。
去年だったかに別のエントリーに、アマゾンの呪術師の長老のことを少しコメントさせてもらいましたが、長老との出会いの後、ますますそういうことが大きなテーマになりました。

by satomi (2010-08-19 01:26) 

pooh

> 黒猫亭さん

すいません。ここ、わりと雑な議論をしています(^^;。

> 呪術が制度化し不可視化していくことで、ちょっと重点が別の方向にシフトしていくんじゃないか

それを「洗練」と云う形容でかたづけてしまうのは、ひどく粗っぽいですよね。なんと云うのかな。抽象化、とか、あるいはいっそ脱臭、とか。

ただ、それを作りだし、運用してきた側と同じ心性、おなじメカニズムが、現時点でそれを受け継いでいる側にも現存していて、稼働しているわけで。で、その紐帯は失われたわけではない、みたいな感覚でしょうか。
by pooh (2010-08-19 07:30) 

pooh

> satomiさん

> 呪術というのは本来、人の心に呼びかけるものなのかな、と思うんですよね。

そう思います。ひとの心から生まれて、ひとの心にアプローチするもの。
それに対して農業技術を含む「科学」は、ひとの心から切り離され、外部に置かれることによって汎用性を獲得したもの、です。
で、これらふたつの存在は本来、矛盾するものなのでしょうかね?

> バイオダイナミクスとかホメオパシーとかああいうものは、基本的に「○×の機序によって物質や現象や機能(土壌/作物/身体/気象/精神/etc.)に対して作用を及ぼす」という「理論」なわけですよね。

「理論」ですが、魔術です。「科学」ではありません。
ここのところを認識していれば、わりと整理がつくような。ちょっと安直ですかね。
by pooh (2010-08-19 07:35) 

satomi

こんにちは
 
> で、これらふたつの存在は本来、矛盾するものなのでしょうかね?
 
全然矛盾しないんじゃないですかね。
そもそも、ソレとコレは居る場所が違うものだと思っています。
 
> 「理論」ですが、魔術です。「科学」ではありません。
 
外側から見れば魔術だけど、その論の創設者にとっては科学であったり宇宙の真理の解明であったりしたわけですよね。信奉者にしても魔術のつもりではないんでは。でなければ「科学ではまだ解明されていないことがある」なんて、真贋にこだわるようなセリフは出て来ないんじゃないかと思います。
 
本来の呪術(て呼び方が適切なのかどうかわかりませんが)は、ソレとコレとの切り分けを行うものだと思うんですが、たとえばホメオパシーなんかは、ソレとコレとを二項対立にさせる(そのくせ都合に合わせて立場を切り替える)ところが似非呪術であり似非科学じゃないかと思います。
 
バイオダイナミクスはその点、限りなく魔術なんでしょうけど、魔術をケの場所に持って来たところが、なんともヘンなかんじなんですよねぇ。作る方も買う方も好事家の域の外に出る事はたぶんないだろうから、まあいいんだけど。
 
近所の農家の人たちが「そんなにいいなら試してみっぺ」とか言い出すことは絶対にないだろうなーと思うと、技術開発者さんがいつもおっしゃる「健全な保守性」てことの意味がよくわかる気がします。

by satomi (2010-08-20 11:36) 

pooh

> satomiさん

> そもそも、ソレとコレは居る場所が違うものだと思っています。

ぼくはニセ科学の問題について言及し始めてから数年になるんですが、このことばかりを繰り返し云って来たように思います。

> ホメオパシーなんかは、ソレとコレとを二項対立にさせる(そのくせ都合に合わせて立場を切り替える)ところが似非呪術であり似非科学じゃないかと思います。

これは、「出自が科学だった」ところに原因があるのかな、とか思います。200年経って、その場所はいまは科学じゃないよ、と云う状況になっても、そこにしがみついて離れない。

> 魔術をケの場所に持って来たところが、なんともヘンなかんじなんですよねぇ。

シュタイナーはケの場所に顔をだしがちですよね。モダンな魔術である、と云うことも関係しているのかもしれませんが。

> 技術開発者さんがいつもおっしゃる「健全な保守性」

保守性と、ある意味身も蓋もない合理性、ですよね。本来これは背骨として農業が持っているものなんだろう、と云うふうにも思えます。
by pooh (2010-08-20 21:53) 

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