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レイヤー [よしなしごと]

p__o__nさんの非科学の価値と云うエントリを読んだ。

疑似科学は「科学を標榜している」と言う一点においては批判されるべきですが、

だからといって無価値にはなりません。

疑似科学をどう定義するか、価値をなににもとづいて判断するか、と云うやっかいな問題はつねにあるのだけれど、この部分はまぁおっしゃるとおりかと思う。でも、
信奉者が存在しているその事自体がその価値を示しています。
これはどうだろう。いや、それは信奉者にとってはなんらかの価値(と云うか「使用価値」かな)があるには違いないんだろうけど、そう云うことをおっしゃっているんだろうか。
まぁこの言明自体は間違っていない。「シャブ中が存在しているその事自体が覚醒剤の価値を示している」とか「ペドフィリアがいる以上児童ポルノには価値がある」みたいなレイヤーで云うならね。
いやこれは、疑似科学が覚醒剤や児童ポルノと全面的に等価だ、と云う価値判断の話じゃもちろんない。じゃあ、どこが違うのか。そして、どこが同じなのか。

明文的な経典を持たない"道徳"なので、

「なぜ人を殺してはいけないのか」みたいな

簡単な質問に答えることにも四苦八苦せざるをえないわけですが、

例えば水からの伝言はこういった問題に解決の手口を与えてくれるわけです。

その手口がそもそも筋が悪いだろう、と云うのが、ニセ科学を問題視するたいていの論者のスタンスなんだけどな。

科学でも宗教でもない"道徳"の授業に、

科学でも宗教でも無い疑似科学が入り込むのはごくごく自然な話ですね。

ごくごく自然な話とまで云っていいのかはわからないけれどまぁ少なくとも不自然ではない。だからと云って問題はない、対策もない、と結論していい話なのかどうかはまた別。
日本特有の問題が根底に有ります。
と云う前置きをされて、ここからさまざまな個別事例を挙げられている。それぞれの事例の共通点は、どうやら宗教にも科学にも根拠を持たないあやしいもの、と云うところにあるようだ(ぼくの誤読の可能性あり、ただしそうじゃないとぼくには判読不能、と云うことになる)。で、この段落の結語が、
疑似科学はこうしたものの一つです。
となっている。

上でも書いたように、あるレイヤーにおいてはこれも正しい言明だと思う。思うけど、上と同様に、それは問題や対策の不在を意味しない。挙げられている事例はそれぞれ問題だけれど(そして優先順位についてはそれぞれの捉え方があると思うけれど)、同水準の問題がある事柄が仮にあるとして、それは特定の事柄をその固有の性格から問題視するアプローチを無用のものとするわけではない。

上に上げたものの中で、疑似科学は科学の立ち位置から批判できる唯一の方法論です。

何しろ「科学を標榜している」というこれ以上無い正当な大義名分が有りますから。

いやこれは話の順番がばらばらではないかな。不当に「科学を標榜している」ことを科学の立ち位置から批判するのはふつうに正当なので、べつだんそこに本来大義名分云々を持ち出す必要はないんじゃないか、と思うけどどうか。あえて「強い相対主義」的にレイヤーを揃えて云えば、キリスト教異端を問題視するのはキリスト教会の仕事で、それはべつだん教会に大義名分があるからではないよね。そして、社会全体から見て異端審問がどうか、と云うのはまた別のレイヤー。
いや、p__o__nさんがこう云う倒錯した記述をするに至る理路は見当がつかないわけでもなくて(残念ながらちょっと見慣れてもいるし)、それは現時点で、ニセ科学の問題がひとえに科学のみにかかわる問題ではない、と云う立ち位置の論者が比較的多く見られる、と云うことと関連して得られた認識から来るのだと思う。ニセ科学がどうとか云って、科学の部分だけ取り上げてあげつらってるわけじゃないじゃん、科学の権威を背景にニセ科学だけを取りざたするのはへんだよ、みたいな感じなんじゃないかな。だから(日本には宗教が根づいていないから)例えばキリスト教会による異端審問への非難なんかはできなくて、なのでそう云うことをやりたい連中が大義名分のあるニセ科学への批判をやってるんだろう、みたいな。

しかし、そこまでです。

先に言ったように、科学はそれ自体で他の方法論を批判する論拠を持ちません。

それ自体と云うことを前提にすれば、これもまた間違っていない。
ただ、科学が現実の社会で権威として一定の役割を果たしていること、科学アカデミアもまた社会の中にある存在であること、を考え合わせれば、これは議論を単純化しすぎていることになる。
何度か書いたけれど権威にはその存在意義がある。権威はぼくらの思考と判断のコストを下げる。下げるけれどそのコストをけちりすぎると盲信になっちゃうのでまずい、と云うこともあるし、この文脈でより重要なのは、権威の詐称はその権威の果たしうる機能そのものを毀損する行為である、と云うこと。
ついでに云うと自然科学はその方法によって、特定のだれかに属することのない、ゆえに万人に共有可能な基準を社会に対して提供する重要な機能を、いまの社会では担っている。その意味で、自然科学の権威とその機能は、いまのぼくたちの社会の基盤のひとつになっている。このへんはぼくが拙筆を重ねるより(毎度持ち出して申し訳なく感じたりするけど)tikani_nemuru_Mさんの体験によらない知識の重要さについて言っておくと云うエントリで有意義な議論が展開されている。

そもそも科学の立場から疑似科学を批判する人は何を求めているのでしょうか?

科学以外の方法論を排除して一党独裁の状態にすること?

違うと思うよ、って云うのは上に書いたようなことがあるからで。で、例えばp__o__nさんからはぼくなんかみたいに科学の立場以外からニセ科学の問題を取りざたする人間は何を求めているように見えるのだろう(いや、訊かない。どんな答えが帰ってくるのか、悪いけどありありと目に浮かぶ)。

この事を念頭に、もし科学が信奉者を増やすことを目指すならば

科学を発展させてより多くの人間を救済できるようにする事。

もしって仮定されてるけど、それってだれの話?

もしホメオパシーのような社会にとって都合の悪い方法論を廃絶することを目指すなら、

他のより"良い"非科学の方法論の価値を認め、より寛容になるべきです。

他のより"良い"非科学の方法論の価値を認めって、それはどれのことで、どうやってその価値を判断するのか、って話になると思う。
通常本業の科学者を含め、おしなべてニセ科学についてコミットしている論者は、科学的でない事柄の価値について通り一遍に否定する、と云うことはしない(菊池誠の「科学と神秘のあいだ」のご一読をお薦めしたい)。ここで残念なのは、非科学の方法論の価値を認めるための判断基準は、p__o__nさんの議論の延長上にはないように思えること。それはもっと幅広いレイヤーにまたがった、それぞれのレイヤーにおいて慎重な判断をおこないながら進めるしかない議論なので。
そうでなければ我々は再びオウムを生み出すことになるでしょう。
なんで?
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コメント 28

pon

えっと、とりあえず私のことはponでいいですよ。
いちいちアンダーバー入れるのめんどくさいでしょうし。
by pon (2010-06-12 01:28) 

pooh

> ponさん

いらっしゃいませ。了解しました。
by pooh (2010-06-12 05:15) 

田部勝也

poohさんの直前のエントリ記事「侮蔑」(↓)
http://schutsengel.blog.so-net.ne.jp/2010-06-09-1
で紹介された鈴木淳平とかいう人間と、自分のWebサイトでこんな恥ずかしい文章(↓)
http://homepage2.nifty.com/k-tabe/ijime.htm
を公開するような田部勝也という人間(私ですけど)がいるわけですよ。

「疑似科学」を崇拝する鈴木淳平は、善悪の判断も創作能力も人のこころから奪い去り、すべて水に委ね渡し、水による画一的・決定的・絶対的な判断を他者に強要し、価値観の多様性を完全拒否しています。
それに対して、「疑似科学」を非難する私は、自分の間違いを知って恥じたり、意図せず友人を悲しませてしまったり、現実の前に打ちひしがれたり、悩み苦しみ傷つき傷つけながら、人の善悪の判断や創作能力は育てられるのではないかと主張し、水などに人の尊厳や矜持を委ね渡す事に強い嫌悪感を表明しています。

雪の結晶が何なのかも知らない鈴木淳平は、科学に対して興味も関心も知識もまったくない、科学への興味は経済的・物質的利益の源泉としてだけ、科学の知識についてはまともな小学生にも劣る事が明らかな、ある種の典型的「自称文系」「自称非理系」人間です。
一方、物理学科を卒業し中学校や高校で理科教員をしていた私は、宇宙飛行士選抜試験に応募するために辞職したり、種子島にロケット打ち上げを観に行ったり、こんなWebページ(↓)
http://homepage2.nifty.com/k-tabe/lab/phy-sf.htm
を作ってしまうくらい、科学大好き人間です。

で、ponさんは、この場合「疑似科学」を非難している私のほうを非難したいわけですよね。ponさんの文章を読むと良く分かります。
要するに、自分たちで悩んで苦しんで衝突しながら善悪を判断したり、その場その場の行動指針を自分たちの責任で考えたりする事(「道徳」とか「倫理」とかそういったあやふやな事)が大嫌いで、宗教でも疑似科学でも科学でも何でも良いから、絶対的な「答え」を教えてくれるモノに従っていれば良い、そんな何も考えずに生きられるような社会を心から欲しているという事ですよね。そう思う気持ちはとても良く分かるつもりです。私だってそう思ってしまうこころの弱い部分に負けてしまう事もたぶんあります。

あ、もしかして、ここには誤解があるかも。ponさんは善悪や行動指針を考える事が嫌いなんじゃなくて、(自分は違うけど多くの人間は)そもそもそんな事はできないと考えているのかもしれませんね。だから(自分には必要ないけど多くの人間には)宗教でも疑似科学でも科学でも何でも適当に無害そうなモノを与えておけば良いと主張しているのかも知れません。その事にいちいち野暮な口出しするな、と。そう主張する「疑似科学」信奉者・「疑似科学」擁護者はとてもとても多いですから、ponさんもそういった人たちと同じなのかも知れません。
私は、そういった人たちの性根に対して生理的に強い嫌悪感を覚える人間でして、そういった人たちを非難しているのですよ。
by 田部勝也 (2010-06-13 01:44) 

pooh

> 田部勝也さん

うぅ、ponさんとpoohって字面が似ていて空目を誘発する(^^;。

結局のところ、ある事柄について理解を共有する、認識を共有する、ということをどれくらい重要なものだと考えているか、と云うことじゃないかと思うんですよ。社会の基盤として。
で、その基盤を宗教においている社会は現にあるし、それなりに廻ってもいる、と。だからそんな部分で自然科学なんかに信を置く必要なんかないんじゃない? みたいな感じなのかな、とか思います。
それはそれで、その状況でもコミュニティ間の問題は(いまこの瞬間にも)生じてるんじゃないか、みたいにも思うんですけどね。
ponさんご自身がどのようにお考えなのかわからないですけど(まぁ多分、田部勝也さんがおっしゃるように「いまここで、自分の暮らす社会に現存する問題」だとは考えていないんじゃないかと思うんですが)、そう云う認識であれば「自然科学の社会における役割」みたいなものは捨象してしまえるんだろうな、と云う気がします。

> (自分は違うけど多くの人間は)そもそもそんな事はできない

いや、難しいんです。だれにとっても。
じゃあどうすべきか、と云うところで、考え方が違うんでしょうね。ここのところもやっぱり、リアリティのありどころで違ってくる部分なのかな、とか思ったりします。
by pooh (2010-06-13 06:36) 

ハブハン

こんばんは。

 (poohさんではなく)ponさんがお書きになっている、

>明文的な経典を持たない"道徳"なので、
>「なぜ人を殺してはいけないのか」みたいな
>簡単な質問に答えることにも四苦八苦せざるをえないわけですが、
>例えば水からの伝言はこういった問題に解決の手口を与えてくれるわけです。

 ここの文章にちょっと驚きました。「なぜ人を殺してはいけないのか」って、いつから「簡単な質問」になったんでしょうねえ。この質問に対する回答に四苦八苦するのって、すっごく当たり前じゃん。
 と言うかそもそも、相手がどんな意図でその質問をしたかを考慮せずに「正解」なんて出せないコトだと思うんですが。

 とりあえず、この質問に対して「水伝」が答えを与えてくれる世界って、殺人がより少ない世界、ではないような気がします。
by ハブハン (2010-06-13 23:01) 

黒猫亭

こう謂う言説に接したときにまず疑問に思うのは、たとえばこの方は「悪い波動を与えることで水の結晶が醜くなる」と謂う「水からの伝言」の主張が「事実無根の嘘」だと謂うことをご存じなのかな、と謂うことで。

嘘でも好いなら幾らでも自説に都合の好い喩え話を語ることが出来ますが、それが他人に何某かの影響を与えるのであれば、それは単に相手を「騙す」ことになるんですが。
by 黒猫亭 (2010-06-14 00:06) 

pooh

> ハブハンさん

> 。「なぜ人を殺してはいけないのか」って、いつから「簡単な質問」になったんでしょうねえ。

と云うかむしろこの部分は、この質問に対して悩むことなく簡単に答えが準備できることが望ましい、と云うponさんのお考えを反映しているんだと思います。
いや、ちょっと違うか。ご本人が望んでらっしゃるかどうかは別ですね。ただ、簡単に答えが準備できない問に対して、いかにすれば共有可能な回答を得ることができるか、と云う部分を社会全体として考えていくことには、あまり価値を見出してはいらっしゃらないようです。
by pooh (2010-06-14 07:31) 

pooh

> 黒猫亭さん

どうなんでしょうね。うそだ、と云うことはごぞんじのうえで、その部分まで相対化されている、と云うことなんでしょうか。
by pooh (2010-06-14 07:35) 

黒猫亭

>poohさん

そうだと仮定すると、

>>簡単な質問に答えることにも四苦八苦せざるをえないわけですが、
>>例えば水からの伝言はこういった問題に解決の手口を与えてくれるわけです。

…と謂うくだりについては、「質問に答える」ことが目的化されていて、その答え自体は嘘でも好いと謂うことなんでしょうか。繰り返しになりますが、嘘でも好いならたしかにこんな質問に答えることは「簡単」なんですが、それにマトモに答える為に「四苦八苦」するほうがよっぽど誠実で有用だと思いますね。

自分の信じる正しさを主張する為に平気で嘘を吐く人間なんて、この世に掃いて捨てるほどいるわけですが、そんな言葉が人々の役に立ったためしなんかないと思いますよ。
by 黒猫亭 (2010-06-14 07:53) 

pooh

> 黒猫亭さん

> 「質問に答える」ことが目的化されていて、その答え自体は嘘でも好いと謂うこと

そう云うことになるんだと思います。方便、と云うことなんでしょうね。そうではない、とするとなると、そうではないことの根拠が必要になる。ある意味ponさんはそこから否定しているので、じゃあなにに依って立ってそのあたりの価値判断をおこなうんだろう、と云う部分がちょっと難しくなっています。強い相対主義的な考え方がそこに行き着くのは、わりと見た光景、とも云えますけど。

> マトモに答える為に「四苦八苦」するほうがよっぽど誠実で有用

事実上ponさんはそのことを否定している、と云う云い方が強すぎるならそのことに疑問を呈していることになるんだと思いますよ。そのあたり(ご本人の意図がどこらへんにあるかはわかりませんが)ponさんの主張は意外とスコープが広い、と云うことになります。
先方のコメント欄での議論を見ても、そのあたりご本人の意図がちゃんと掴めないので、ちょっとあれですけどね。
by pooh (2010-06-14 08:22) 

技術開発者

こんにちは、poohさん。少し前に考えた「モラル命題」を思い出しました。

その命題というのは、街で「ポンポコビルはどこですか?」の道を尋ねられ、「なんとかポコというビルが東にあったな」と東の方に行く道を教えた訳ですね。でもって、後で東にあるのは「ヘッポコビル」で「ポンポコビル」は西にあることに気が付いたとします。その時「悪いことをしちゃったな」と思うべきかどうかなんですね。

実はこの話を仲間内でしていましたら、「国によって違うんじゃないかな?」という人がいたんですね。その人は米国生活の経験があるのですが、「米国人の親切というのは、そう言うときに『自分ができる限りのことを教える』のが正しい訳で、『なんとかポコ』であっても逡巡するよりは教える事が親切と考える」なんていう訳ですね。でもって、「日本だと『正しいと確信できないなら教えない方が親切』という感覚は確かにあるね」なんてね。

おそらく、このあたりの感覚は、「間違った道を教えられた方」にも繁栄されるのだろうと思います。つまり米国人なら東に行って「ヘッポコビル」と気が付いて、遠回りして「ポンポコビル」にたどり着いても、「あの人は自分にできる限り親切にしてくれたのだ」の感謝するし、日本人なら「間違った道は教えないで欲しいな、むしろ『分からない』と言ってくれた方が親切だった」と思うのかも知れません。

by 技術開発者 (2010-06-14 16:54) 

pooh

> 技術開発者さん

モラルとか、道徳とか、倫理とか、結局のところ共有されることで一定の機能を果たすわけですよね。
共有の基礎になるのが宗教である、と云う場合も多いでしょう。そのほかにも文化とか、環境的な条件とか、そのコミュニティの歴史的経緯とか。

で、このへんはいくらでも相対化できる。どのコミュニティの道徳が優れていて、どのコミュニティのそれが劣っている、みたいなことは基本的に云えないわけです。どれも合理的で、そのコミュニティの中で運営されている意義はあるわけですから。
ただ、それでまかなえないケースがでてくる。多様性は望ましいことだ、と云う認識に立ったとしても、異文化は異文化、風習は風習、とすべてを措いていられるほど、いまや世界は広くない。
この場合に、なにが基準にできるか。

自然科学は直接的に価値判断を招くことはありません。ただし、少なくともその基盤とできる現状認識を、ひとの価値観を離れた場所で共有可能なかたちで提供する機能を担うことができます。そこにどんな意義を見出すのか、と云う話でもあるかと。
by pooh (2010-06-14 22:07) 

田部勝也

一般に、「疑似科学」を非難する人ほど「社会に対して害のないマシな方法論に対しては《寛容》な態度」をとる傾向が強く、「疑似科学」を擁護する人ほど「社会に対して害のないマシな方法論に対しても《非寛容》な態度」をとる傾向が強いように感じてなりません。

自分の善悪判断・価値観・感受性こそが絶対的な正しいモノであると信じたいのは人間として当然の感情だとは思います。でも、必ずしも自然科学的現実やコミュニティの歴史的・宗教的現実がその感情を支持・肯定してくれるとは限りません。たぶんそんなときに、ponさんが言うように「科学でサポートできない部分に色々なものが入り込みます」。
そのなかでも特に「疑似科学」は独特のように、私には思われます。「疑似科学」は自分の善悪判断・価値観・感受性こそが絶対的な正しいモノであると認めてくれます(どんな善悪判断・価値観・感受性であれ、それを認めてくれるような「疑似科学」が大抵揃っていると言ったほうが良いでしょうか)。それだけなら、ponさんが挙げた宗教を始めとする「色々なもの」と同じです。しかし、科学的知見は厳然たる「事実」としてあまりにも強力なので、自分の認めがたい善悪判断・価値観・感受性を非難し排斥したいと願う人たちにとって、「疑似科学」はとても魅力的に映るだろうなぁ……と、私は感じています。ルイセンコ学説を支持したスターリンがその最たる例でしょうか。

だから、ponさんが「だから社会に対して害のないマシな方法論に対しては寛容な態度をとりましょう」と主張するのならば、まっさきに非難すべきは「疑似科学」を擁護する人たちだと、私は思うのです。
by 田部勝也 (2010-06-15 03:30) 

田部勝也

話を少し戻しましょう。

自分の善悪判断・価値観・感受性こそが絶対的な正しいモノであると信じたいのは人間として当然の感情だとは思います。でも、必ずしも自然科学的現実やコミュニティの歴史的・宗教的現実がその感情を支持・肯定してくれるとは限りません。
科学に対して興味・関心・知識を持つ人は、この葛藤において、自分の善悪判断・価値観・感受性の正しさの根拠をなんとしてでも探し求めるよりも、まずは自分の善悪判断・価値観・感受性のほうに懐疑的になる機会が、そうでない人に比べて多いと考えられます。

だから、自分の善悪判断・価値観・感受性と、自然科学的現実やコミュニティの歴史的・宗教的現実との間に葛藤が生じた場合、(「一生懸命に」だったり「それなりに」だったりするでしょうが、それはともかく)悩み苦しみ傷つき傷つけながら、より良い答えを探そうとする機会が多くなる事が期待できるように、私には思えるのです。
しかも、「正しい科学的知見」を基盤に考えるのですから、より良い答えが見つかる可能性も高まると期待しても不当ではないでしょう。私は、lets_skepticさんの表明している「信仰が有っても無くても人は道徳的たりえる。最低限の社会的規範以外は自由に行動できるのが好ましい。自由のためには正しい知識を持っていた方が好ましい」という立場(↓)
http://d.hatena.ne.jp/lets_skeptic/20081126/p1
と同じ立場にあります。

だから、ponさんが「だから社会に対して害のないマシな方法論に対しては寛容な態度をとりましょう」と主張するのならば、まっさきに擁護すべきは「疑似科学」を非難する人たちだと、私は思うのです。
by 田部勝也 (2010-06-15 03:32) 

田部勝也

最後に、ponさんは「元々自然科学は人間の情緒や感情に関わる問題を解決することには向きません」「本来はこういった科学の弱点をサポートするのが宗教であり」と書いていますが、本来はこういった科学の弱点をサポートするのは、人間自身のこころのはずです。人間の情緒や感情に関わる問題を解決するのが、人間の情緒や感情以外にあるというのは、随分と人間の尊厳や矜持を貶める事のようにさえ感じます。
たぶん、社会のなかに生きる人たちがそれぞれ自分たちの人生を通して、様々な価値観・感受性・利害を持った人たちとの関わり合いのなかで(「一生懸命に」だったり「それなりに」だったりするでしょうが、それはともかく)悩み苦しみ傷つき傷つけながら、より良い答えを探さなければならないでしょう。

その答えとして「宗教」に辿り着いたコミュニティがあります。「道徳」に辿り着いたコミュニティもあります。でも、実際は未だに模索しているコミュニティが一番多いのでしょう。それは良い事だと、私は思います。
ただ、日常生活を生きていくなかで、場面場面ごとにいちいち悩み苦しみ傷つき傷つけながら、より良い答えを探して自分のその場での行動を決めていくのは、(とても大切な事だとは思いますけど)端的に不経済です。「先人たちの多くの試行錯誤、苦悩などの上に成り立っている(であろう)“宗教”なり“道徳”なりに、差し当たり従っておこう・従っておくべきだ」という判断は、それなりに合理的であろうと思います。

そのためには、その「宗教」なり「道徳」なりが、本当に「先人たちの多くの試行錯誤、苦悩などの上に成り立っている」と保証されている事が求められるでしょう。
「なぜ人を殺してはいけないのか」みたいな簡単な質問に答えることにも四苦八苦した経験もないような「宗教」なり「道徳」なりというのは、(そんなものがあるのかどうかは知りませんけど)ちょっとあまりにも頼りない気がします。
by 田部勝也 (2010-06-15 03:39) 

pooh

> 田部勝也さん

> 科学的知見は厳然たる「事実」としてあまりにも強力なので、自分の認めがたい善悪判断・価値観・感受性を非難し排斥したいと願う人たちにとって、「疑似科学」はとても魅力的に映るだろうなぁ……

このことはぼくもあるように感じますし、歴史的にもこのことが大規模な災厄の原因となった事柄がいくつか見いだせるようにも思います。基本的に、ぼくがニセ科学を問題視する根本には、このあたりのことがあったりします。
おっしゃるようなファクターを除外したうえで「擬似科学」を捉えようとするのは、ぼくには過度の相対化のように思えます。

> 悩み苦しみ傷つき傷つけながら、より良い答えを探そうとする機会が多くなる

このことの意義をどれだけ認めるか、と云うことでもあるんでしょう。
だれしも心の平安はほしいものですし。

> 実際は未だに模索しているコミュニティが一番多いのでしょう。

いったん特定の教義なり倫理なりにたどりついて、それを共有することができても、継続的なメンテナンスは必要になってくるんですよね。社会はうつろうものですし、ある面ではそれが加速している部分もあると思うので。
たとえば歴史のなかで鍛え上げられてきた既存の宗教は、そう云う機能を一定水準で内包していると思います。それでも、相互に違った宗教をバックボーンにしたコミュニティ同士のあいだでは、どうしても軋轢が生じてしまう。このときに、どうやって相互の価値観の相違の調整を図るか、と云うところまで、問題のスコープは広がっているのだと思います。

> 「なぜ人を殺してはいけないのか」みたいな簡単な質問に答えることにも四苦八苦した経験もないような「宗教」なり「道徳」なりというのは、(そんなものがあるのかどうかは知りませんけど)ちょっとあまりにも頼りない気がします。

ぼくもそう感じます。
by pooh (2010-06-15 08:03) 

zorori

ponさんの意見の要旨は次のようなものです。

「科学や宗教は問題解決の方法論であるが,守備範囲が異なる。ところが,日本では宗教に不寛容で根付いていないため,宗教の守備範囲にまで科学を装ったニセ科学(水伝が典型)が跋扈している。」

さらに,宗教に不寛容なために出現する怪しげな自己啓発セミナーなどの信頼できそうもないものを例示されていますので,当然,

「守備範囲外を扱うニセ科学などは信頼出来ないので,宗教に寛容であるべきだ」

となるかと思いきや,

「ニセ科学にも寛容であるべきだ」

となるんですね。この唐突な論理は全く理解出来ません。
ニセ科学とそれ以外の怪しげなものとの違いは明確に示されていませんが,水伝やホメオパシーなどは害がないので,寛容であるべきだとお考えのように伺えます。事実誤認ですね。

また,ニセ科学批判は,宗教や他の方法論に非寛容であると仰る。これも事実誤認によるわら人形批判ですね。

コメント欄の応答は相対主義的、衒学的で訳がわかりませんが、本文は、単に、ニセ科学に害はないと誤認されているだけと感じました。

by zorori (2010-06-15 22:04) 

pooh

> zororiさん

いや、あるレイヤーにおいて、かつて宗教が担っていた機能を社会の中で科学が担っている部分はあるんです。地下猫さんのすこしまえのエントリで、そのあたりは論じられていました。
http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20100225/1267084999

で、本来宗教が担っていた機能をすべて担いきれるわけではない、と云うのも事実であって。そして、日本の社会で一般に共有化された宗教意識がないので、いろんな有象無象が(その質はともかく)そこを代替しようと生じてくる、と云うようなことも、まぁあるんだと思います。

問題があるとすれば、このあたりの問題がまたがっている広範な層をいっしょくたに論じている、と云う部分かと思います。なので、

> この唐突な論理は全く理解出来ません。

どのレイヤーで問題が生じていて、それはどのレイヤーで論じられるべきなのか、と云う部分を切り分けていない部分が、そう云う論理展開につながるんだろう、と思うんです。いや、問題のレイヤー、と云うことそのものまで相対化して論じている、と云うことなのかもしれませんが。

ある事柄にまつわる問題認識について、違ったレイヤーからの切り口を試みる、と云うのはもちろん無益とは限らなくて。でもそこで、いま現在の視点がどこか、と云うことが用心深く意識されていないと、いろいろとむずかしいことも起きるのかな、みたいに感じます。
by pooh (2010-06-16 07:36) 

zorori

poohさん、

ええ、私もponさんの仰っていること自体をどうのこうのいうつもりはあまりないのですよ。それこそ、レイヤー次第では「ニセ科学にも価値がある」ということだってありうるとは思います。しかし、その場合はちゃんとそのレイヤーを説明してもらわないと、何とでもいえる話に過ぎません。そういう説明が無いし、文章の論理構成もむしろ結論と逆のことを主張するかのようになっているという、説明して分かってもらおうという意思が感じられないということです。いやむしろ、けむに巻きたいだけじゃないかとさえ思えます。

コメント欄で、「一番初めの前提を共有出来て無いからかと。」と書いてありましたが、自分はその前提を説明していないわけですよ。

相対主義的な考えをする人に共通していると思いますが、議論の条件、前提、適用範囲(poohさん風にいえばレイヤー)を不明確にして、反論があれば「いや、枠組みが違えばこうも言える」と無節操に話を広げて収拾をつかなくすることがあると思います。犯罪捜査の話をしているときに「いや、その証拠は本当に実在していると言えるのか」などと哲学論議を始めるような感じです。

by zorori (2010-06-16 22:39) 

田部勝也

本論に直接関係のない「批判の仕方批判」なんですけど、誰にともなく……。

ponさんは「ニセ科学」や「ニセ科学批判」という言葉は使っていませんし(コメント欄で1度使っていますけど、これは明らかに他者のコメントに引き摺られただけのものでしょう)、いわゆる「ニセ科学批判」について何も知らないのはその文章から明らかですので、「ニセ科学」という言葉や「ニセ科学批判」という問題意識を前面に出して相手をするのはちょっとスジが悪いような気もします。
もちろん、「ニセ科学批判」の問題意識のなかに包含されるような内容ではありますけど、「ニセ科学批判」という立場を完全に無視したとしても、ponさんの当該エントリはどうしようもなく稚拙で浅薄ですので、わざわざ「ニセ科学批判」のレベルまで視点を引き上げたり固定したりしなくても、ponさんの言葉でponさんの土俵で批判してあげれば十分かと。

これは、ponさんに限らず、多くのいわゆる「ニセ科学批判批判」での教訓でもあるのですけど……。

――なんだか、中学校で習う力学も分かっていない人が科学的知見について問題発言したのを、相対性理論を持ち出して問題点を指摘するような滑稽さを感じてしまうなぁ……というのは言い過ぎでしょうか。
確かに相対論は中学校の力学も包含していますけど、この人の問題は相対論を知らない事にあるのではないので、本人やギャラリーに対して「呼ばれてもいないのに“相対論擁護者”が現れ、くどくど持論を弁護して見苦しい」「“相対論擁護者”の自己保身欲求は凄まじい」などと感じさせてしまう危惧はないかなぁ……とか。

中学校力学レベルの問題点を上手く取り上げ掬い取り、さらに相対論のレベルまで(できればこちらの言葉を押し付ける事なく相手の言葉で)話題を引き上げる事ができれば理想なんですけどね。
その点、poohさんのエントリ記事はとても上手く書かれているなぁ……と本当に感心します。

【補記】この文章は、ponさんの当該エントリでのtyさんのコメント(↓)
http://d.hatena.ne.jp/p__o__n/20100610/1276189983#c1276347448
や、ここでのzororiさんのコメント(2010-06-15 22:04)の「ニセ科学批判は,宗教や他の方法論に非寛容であると仰る」という一文を読んで書く気になったものです。ponさんは「“ニセ科学批判”は,宗教や他の方法論に非寛容である」などとは仰ってないので、ちょっと過敏かな……と。
zororiさんのコメントについてはこの一文以外はとても好感を持てただけに、少し気になったもので……。
by 田部勝也 (2010-06-17 02:11) 

pooh

> zororiさん

> 何とでもいえる話に過ぎません。

その、なんとでも云える話、みたいなのをしたい方、と云うのもまぁいらっしゃるわけなので。ponさんがそうなのかどうかはわからないですけど。

> 議論の条件、前提、適用範囲(poohさん風にいえばレイヤー)を不明確にして、反論があれば「いや、枠組みが違えばこうも言える」と無節操に話を広げて収拾をつかなくすることがある

いや、収拾がつかなくてもいい、と云うひともいるでしょう。議論のなかの自分、と云うのにリアリティがなければ、べつだんそのあたりに留意はしないでしょうし。
そう云う場合、その議論が続けられるとすれば別の論者が枠組みを整える必要があったりもしますが。まぁ議論としては「云いたいのはそんなことじゃない」から前にはあまり進みませんね。
by pooh (2010-06-17 07:31) 

pooh

> 田部勝也さん

積み上げられた議論はすでに一定量存在していて、そのなかの論考にはいろいろと果実があるわけですよね。で、議論を先に進めてより多くの果実を共有しようとすれば、すでにある果実を踏まえたほうがもちろん効率がいい。

ただまぁ、既存の果実はこれまでのところ、当然万人が共有するところとはなっていないわけです。
もちろん論じるなら踏まえろ、と云うのは見識ですし、論に加わろうとするならそこを踏まえようとするのは最低限必要とされる態度だ、と云うのも間違ってはいない。それさえしない論者の意見が、議論を進めるうえで画期的な切り口を提供する、みたいなことは、あまり期待はできないわけです。

結局まぁ、そこでどう論を進めるか、と云う話なんだと思うんですが。ぼくは脇の隅っこのほうにいる論者なので、ぼく自身としてはわりと最初のほうにさかのぼって始めてもいい立ち位置なのかなぁ、みたいに思っている、と云うだけのお話のようにも思います。論者はそれぞれ居場所が違うので。
by pooh (2010-06-17 07:41) 

zorori

> 田部勝也さん

ご指摘の通りでした。また,「ニセ科学にも寛容であるべきだ」とも,仰っていませんでした。
どうも,思い込みで,幻を見てしまったようです。

結局,
「非科学に非寛容であると,害のある非科学が入り込むので,害のない非科学には寛容であるべきだ」
という,どうと言うこともない意見みたいですね。文字通り読めば。
だとすると、害のある非科学と害のない非科学を明確にしない限り,あまり意味がない意見だと思うのですが,あちらのコメント欄での田部勝也さんへの回答を見ると,具体的にお考えではなかったようですね。回答によると,(追記)の3.で害のない非科学を「奇々怪々な方法論」と否定的に表現したことになるんですけどね。

by zorori (2010-06-17 21:58) 

pooh

> zororiさん

> 具体的にお考えではなかったようですね。

こう云うかたはけっこういらっしゃいます。
で、そのへんを具体的に考えた考察、と云うのはけっこう既存であって、そのへんを踏まえればそこそこ効率よく考えを深めることができるんですけど、まぁそもそもそれだけのモチベーションをお持ちのわけではなかったり。
by pooh (2010-06-17 23:38) 

Seagul-X

田部勝也さんが私が思ったことを全部書いてくれたので、ちょっと反応を期待していたのですが、あっさり p__o__n さんが議論を投げて終了。結局、たいしたことが云えないニセ科学批判批判の実例がまたひとつ積み上がっただけですねぇ。

by Seagul-X (2010-06-20 10:59) 

pooh

> Seagul-Xさん

なんかねぇ、ちょっとがっかりですね。
粘り強くいっしょに考えてくれるニセ科学批判批判者、ってのはいないんでしょうか。
by pooh (2010-06-20 11:33) 

TAKA

そもそもponさんは、自称中立の立場から疑似科学を批判する人に何を求めていたのでしょうか?

おそらくponさんは、次のようなことが言いたかったのだと思います。
「はあ?ニセ科学?小学生でも分かるインチキに、君たちは悩んでいるのか?ご苦労なことだ。」
「そんなことよりも、早く私が問題と考えている対象を批判するのじゃ。この私は、もっと大きな巨悪と戦っておるのじゃからな。さあ、ワシの弟子となって、世の害悪を撲滅する戦いに挑むのじゃ。」
「ちなみに、ワシは監督の立場じゃ。安心せい。最前線で戦っている君たちの後ろで、ちゃんと控えておるからな」

・・・あるいは、次のようなことが言いたかったのでしょう。「社会に対して害の少ないと思われるインチキなんて、どうでも良いです。いちいち考えるのも面倒くさいです。」「ええ?何を基準に、社会に対して害の多い少ないを決めるかって?…それを考えるのも面倒くさいです」

実は、こう言いたかっただけなのでしょうか?「私が、道徳だ。」

・・・今のponさんが何をしたいのか、これからponさんが何をするつもりかは分かりません。ただし、「我々に有益な示唆を与えてくれないニセ科学批判批判者」だったとしても、寛容な態度でponさんを見守るべきです。

特定の視点に拘らず、常に視野を広く持ち、その辺のニセ科学批判者など足元にも及ばない大望をお持ちになるponさんは、poohさんの五十歩百歩先を見据えているのですから。

昨日までは納得できない事を述べていても、明日には眼の覚めるような御言葉をponさんは必ず披露してくれます。その時こそ、反省して感涙した我々はponさんをニセ科学問題を解決してくれる救世主として、拝み奉ることができるのです。うれしいですね(^-^)。
by TAKA (2010-06-23 02:14) 

pooh

> TAKAさん

誰かの行動からその動機を正確に推測するのは難しいし、安易な憶測もあまりすべきではないんですよね。逆に、その部分を論点にしないためには、ある程度自分の動機を自分で示していく必要があったり。

ponさんのところでの田部勝也さんとの対話を見ていても、まぁ、そのあたりはよくわからないです。わからないです、で投げていいのか、と云う話もありますけど、あまりに高度化したコミュニケーションは、ぼく程度だと傍目で見ているだけでなにか云えるほど理解できなかったり(Judgementさんのところのコメント欄なんかもそうですけどね)。
by pooh (2010-06-23 07:39) 

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