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石と玉とをよりわける [よしなしごと]

スピリチュアル探求中でいらっしゃるらしいGlass Ageさんの現代医学とスピリチュアル・ヒーリング~父の思い出とともにと云うエントリを読んだ。いや、お書きの内容には同意できる部分も多いのだけれど(挙げられている通常医療の問題点は結局だれの責任なのか、と云う部分はまぁ措いて)。

補完代替医療の世界は、当然のことながら玉石混交です。それはある程度やむを得ないかなと思います。
いや、いちばんの問題点はそこにあるのではないか、みたいに思うのだけどね。

通常の医療も、まぁ医師によって玉石混交である側面は残る。ただ、そこにはとをよりわけ、判別するための共有可能な方法が存在するわけで。それがEBMであり、自然科学を背景とした医療、と云うことになるのだけれど。

基本的に、医療行為が玉石混交であるのはそれ自体まずいことで。もちろん通常の医療も万能ではないし、現在行われている療法にもは混じっているだろう(施療者の技倆に負う部分も含め)。それを共有可能な基準でよりわけるために、EBMが語られているわけで。

現状、代替医療に関しては、すべての施療者がみずからのメソッドをだと主張するなかで、その療法を選択するものが自力でを見分けなければいけない状況にある。自己責任で。通常医療の医師に問える責任が、多くの場合代替医療の施療者には問えないケースが、少なからずあるのだろうな、と思う。

現代科学でわかっていないことは確かにまだまだあるのだけれど、現代科学でわかることのできることもあるのであって。多くの代替医療が「現代科学の不備」を言挙げするけれど、こっちで書いたみたいにまずはみずから検証に臨まない姿勢を見せているような代替医療のメソッドについては、である可能性が高い、と考えてもいいのかもしれない、とか思う。
もちろん、治るべき人は治るが、治るべきでない人は治らないと云うメソッドを信じて、その結果治らなくても納得できる、と云うのだったら、まぁ構わないのだろうけれど。
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Glass Age

poohさんはじめまして。
私のブログにトラックバックをしていただき光栄です。
上でおっしゃっていることに、私はほとんど違和感なく共感できます。

私とpoohさんの違いは、内在的批判か外在的批判かという立場の違いからくる表現の違いではないかと思いました。
by Glass Age (2010-06-02 22:47) 

pooh

> Glass Ageさん

いらっしゃいませ。

スピリチュアルにも代替医療にも、社会的に求められる機能や意義が存在する(し得る)、と思っています。
ただ、それを発揮するために、どのような運用をするのが適切なのか、と云う問題はあるよなぁ、みたいに考えています。
by pooh (2010-06-03 07:33) 

newKamer

 Glass Ageさんのエントリを読みました。

 Glass Ageさんのお父さんに必要だった(又は、Glass Ageさんが欲しかったもの)というのは、QOLを高めるという話なのではないかな?と思いました。「ホスピスでは足りない」と感じられたのかもしれませんが、どんな方法でも限界はあります。
 どうにもならない閉塞感にとらわれている、本人や身内の方ならなおさらでしょう。愛があればこそ、何をしても「何か足りないような感覚」はどこまでも付いてくると思います。

 私は、代替医療がQOLをいくらか高めるという意見には反対しません。代替医療がQOLを高める原因はふたつあると考えています。ひとつは代替医療の医者は一般的に「よく話を聞いてくれる」「共感してくれる」というところにあると思います。もうひとつは代替医療がよく主張する「嘘(根拠なく治ると主張したりすること)」にあると考えています。

 あれこれ考えると、ひとつ目の点については、医者に求めるべきものではないと考えています(もちろん、お医者さんの中にはこの点を特に重要視される方もいますので、あくまで私の個人的意見です)。カウンセラーというか、そういった専門家が専念して取り組まなければいけない問題だと思います。
 ふたつ目についていえば、嘘・おおげさ・まぎらわしい、マインドコントロール・洗脳等の手段を使えば代替医療よりも効率よくQOLの向上ができるでしょう。ただ、私はQOLの問題を不誠実さで解決しようとすることには、強く抵抗感を感じます。

 どちらも代替医療をプラス評価する要素ではないと思うのです。
by newKamer (2010-06-03 09:33) 

黒猫亭

リンク先の記事を読ませて戴きました。

一つ意見があるとすれば、別段スピリチュアル・ヒーリングは科学的な検証を受けて立つ必要はないのではないか、と謂うことですね。

エントリを拝読する限り、Glass Age さんがスピリチュアル・ヒーリングに傾斜されたきっかけがお父上の病死にあるとすれば、それはつまり通常医療が求められる最低限の機能、つまり「治療可能な疾病・症状を治療する」機能は果たすけれど、それ以上のことを何もしてくれなかったこと、具体的に謂えば精神的なケアを何もしてくれなかったことに対して疑問を感じられたと謂うことではないかと思います。

勿論、筋から謂えば、現在の通常医療にそれ以上のものを要求するのは無理があると謂うか、医療機関の置かれているシビアな現状を考えればそれ以上のことは出来ないとも謂えるでしょう。しかし、通常医療が「治せない」と規定している疾病の患者にしてみれば、じゃあ医療は自分に何も出来ないのか、だったらそんなものに何の意味があるのか、と謂う不満を覚えるのも自然なことで。

で、「治るべき人は治るが、治るべきでない人は治らない」と謂うのは、字義通りに考えれば、通常医療だろうがスピリチュアル・ヒーリングだろうが医療否定だろうが同じことなんですが、謂わんとするところは「医療の力を借りなくても精神力や体力次第で治る病人もいる」と謂うことなんだと思うんですね。それはたしかに事実ですから、精神的なケア次第で一般に「奇跡」と目されているような事例があってもさほど不思議ではないわけで、通常医療に「治せない」のであれば、そこから先は個人の心の問題だよ、と謂うのも一理あると思うんですね。

そして、Glass Age さんは通常医療を否定しておられるわけではなく、通常医療とスピリチュアル・ヒーリングとの有効な共存を望んでおられるわけですから、これはつまり通常医療が求められる最低限の機能を確実に果たした後に、患者の精神的ケアとして霊的なヒーリングが治療上有用だと謂うことを仰っているわけで、これにはpoohさんも大筋では異論のないところだと思います。

ただし、一般にスピリチュアル・ヒーリングの類の代替医療は、通常医療が担っている科学的で確実な治療機能を中途半端に簒奪しようと謂う側面があるわけで、それはGlass Age さんも望むところではないでしょうが、この種の代替医療が批判されるのは、そう謂う性格が主要な部分を成しているからだろうと思います。

で、「科学的検証を受けて立つ」と謂う姿勢は、結局のところこの種の代替医療が通常医療の範疇の事柄についても有用なのだと謂う主張に繋がりかねないわけで、オレの個人的見解では、別段スピリチュアル・ヒーリングに実効的な医療効果などさらさらなく、精神的慰藉以外の何物をももたらさないとしても、それで誰も(Glass Age さんご本人も)困らないのではないかと思います。

そもそもGlass Age さんの出発点は、現在の通常医療が抱える限界として患者に対する精神的慰藉の欠如を疑問視しておられたはずですから、スピリチュアル・ヒーリングが多くの病人に対して有益な精神的慰藉を与える効果を持つのであれば、それがたとえば末期癌を確実に治療する効果など一切持っていなくても、それはそれで問題ないはずですよね。
by 黒猫亭 (2010-06-03 10:12) 

うさぎ林檎

こんにちは。

批判されている「代替医療」は、かっては「代替医療」と呼ぶ事が可能であったものも多いですね。でもそれは祈祷が医療行為であったり錬金術が科学であった時代の話です。そもそも今となっては通常医療の代替にならない。それを「代替医療」と呼び慣わすのが混乱の元かもしれない。阪大のきくちさん風に謂えば「医療でないのに医療を装うもの」→「ニセ医療」とでもした方がわかりやすいかも?と思います、医療を名乗るのならね。

スピリチュアル・ヒーリングが人によってはcareの方法として有効な例は当然あるでしょう。しかしcureを提供する力があるでしょうか?そこを(敢えて)混同する表現を提供者側が(善意であれ)積極的に行っていけないという事だけだと思います。ましてやcureを求める人にcareを提供するのは(それが医療従事者であれば一層)不誠実な事です。

それに”玉石混淆”であればなおのこと”石”は”石”であると誰かが指摘する事は必要じゃないでしょうか。それは代替医療に限った話じゃないですね。
by うさぎ林檎 (2010-06-03 12:00) 

pooh

> newKamerさん

> ひとつ目の点については、医者に求めるべきものではないと考えています

ひとえに個々の医師になべて求められるべきものではない、と云う意味合いでなら、同意します。
まぁ医師にもいろんな方がいらっしゃるでしょうけど、すべての医師にそれをミッションとして求めるとすれば、現実問題いろんな意味でのリソースの追加投入を考える必要があるでしょうし。

> カウンセラーというか、そういった専門家が専念して取り組まなければいけない問題

ここは安易に同意していいものか迷いますねぇ。それが期待できれば、そう云う問題として把握したいところですが、ちょっとわかりません。そのあたりの専門家の社会的な立ち位置が現在どうなっているのか、を把握していないので。

> QOLの問題を不誠実さで解決しようとすることには、強く抵抗感を感じます。

ぼくもそうです。
いや、最終的には「方便」みたいな部分に結論が至ることもあるでしょうけど、最初から前提にされるのはまずいですよね。
by pooh (2010-06-03 21:59) 

pooh

> 黒猫亭さん

上で書いたように、Glass Ageさんの基本的なスタンスには異論があるわけではないんですよ。
ただ、「代替医療が玉石混交である」と云う状況は看過し得ないものだ、とぼくは思っている、と云う話で(逆にぼくはスピリチュアルも現状玉石混交だと思っていて、これも望ましからぬ状況だと認識しています)。

> 一般にスピリチュアル・ヒーリングの類の代替医療は、通常医療が担っている科学的で確実な治療機能を中途半端に簒奪しようと謂う側面がある

おっしゃるとおり、そこの部分が最大の問題点なんですよね(もちろん、経済面を含めほかにも問題点はありますが)。一般のニセ科学にまつわる問題点と、その部分に関しては若干重心の相違がある。直接ひとの生死や公衆衛生に関わってきますからね。

> スピリチュアル・ヒーリングが多くの病人に対して有益な精神的慰藉を与える効果を持つのであれば、それがたとえば末期癌を確実に治療する効果など一切持っていなくても、それはそれで問題ないはず

ある意味それは正しくて、また穏健な宗教にはそう云う機能を保有しているものもある、と思います。ただ、上でnewKamerさんが指摘されているように、それがうそを内包していると、その機能に宿命的な脆弱性を抱え込むことにもなるわけで(で、こうなるとここでぼくが云う「うそ」ってなんだ、と云う話にもなるわけですが、それはここを含めたいくつかの場所で数年にわたる議論の過程にある、みたいな状況なので、その話はここまでにします)。

ところで先日ディスカバリーチャンネルで見たんですが、ルルドの泉での治癒例についてヴァティカンが「奇跡」として認めたのは、現時点で67例しかないそうです(まぁもちろん教会としてはそう簡単に奇跡認定はできないわけですけど)。これはたいていの病気の自然治癒率より低いようなので、けっこう割に合わない賭けみたいですねぇ。
by pooh (2010-06-03 22:01) 

pooh

> うさぎ林檎さん

> そもそも今となっては通常医療の代替にならない。

こう、非常に単純な話なんですけど、「代替にならない」「補完できない」と判断されるものが批判されているんですよね。ときおり反論として「代替にはならないがこんな機能がある」みたいな声もあがりますが、それは(つねに無視し去っていいとは限らなくとも)本来は筋を違えた議論になる。

> そこを(敢えて)混同する表現を提供者側が(善意であれ)積極的に行っていけないという事だけ

ここはある意味、ニセ科学の問題一般に共通する問題点だと思います。比喩と学術用語を混同するとか、その他の手法でレイヤーの混同をはかるようなふるまいですね。ただ、医療の場合プラシーボ効果と云うのが厳然としてあるので、感覚的に切り分けるのは難しい。

> ”石”は”石”であると誰かが指摘する事は必要じゃないでしょうか。

まぁよくある反論としては「自分は"玉"だと信じているんだから口を出すな」みたいなのがありますけどね。いや、それはそれでもよくて、ただほかのひとに向かって"石"を"玉"だと喧伝するのはやめてね、と云う話ではあるんですけど。
by pooh (2010-06-03 22:03) 

技術開発者

こんにちは、poohさん。

なんていうか、良く分からないんだけど、日本で「宗教」というのが軽視されていることと関係が大きい気がするんですよ。欧米のQOL事例を見ると、その患者さんや家族が通っていた教会の牧師さんなんがもっと気楽に出入りして、患者さんや家族に「癒し」を与えていたりする感じを受けている訳ですね。

日本の場合、病院に坊主が出入りしたら「縁起でもないから、どこかにいけ」とか言われそう(笑)。というか、患者も家族もそういう意味で「宗教」に「癒し」をもとから期待していないから、癒しが必要になったときに、宗教の出番が全くなくて「お手軽な癒し」を求める感じかな。

ふと、田舎で念仏三昧に暮らしている母親の事を思ったりしてね。もうすでに「法名」も貰っている在家なんだけどね。まだ先の事だけど、最期になったら、「良いところにいくからね」なんて安らかに言いそうな気がするのね。で、たぶん、私も「うんうん、良いところにおいきなさい」と言ってあげられそうな気が今はしている。

by 技術開発者 (2010-06-04 16:43) 

pooh

> 技術開発者さん

そもそもQOLって云うのが、若干取り扱い注意な側面を持つ概念なのかな、と云う気もしています。一般的な把握と判断はできますけれど、最終的には個人の主観に準拠せざるを得ない。

歴史のある宗教はLifeに関わる事柄を長年追求してきているものなので、適切な運用がされれば、ある意味医療と同様に(効果についてはひとによってはより以上に)QOLの向上を提供することができるものだと思うんですよね。で、いまの日本で宗教がそう云う機能を果たすケースがあまり見られないのは事実のように思います。
まぁ、「適切な運用」と云うのが相応に難しいのも同じなんですけどね。
by pooh (2010-06-04 21:59) 

Glass Age

みなさん、こんばんは。
私のマイナーなブログにトラックバックしていただいたおかげで、アクセスが数倍に跳ね上がってうれしい限りです(笑)。

私の記事は、主にスピリチュアルの同志(?)向けに書いたものですが、ここはそういう場ではないようですので、それを前提に書きます。

私が「補完代替医療の世界は、当然のことながら玉石混交です。それはある程度やむを得ないかなと思います」と書いたのは、「公的な資格や規制がない状況下では仕方がない」という趣旨です。

個々の補完代替医療従事者やそれを求める患者(信奉者)の姿勢などを批判してもあまり意味がないのではないか、いや多少の意味はありますが、キリがないし解決にはならないと思います。

もし、医師法や医療法などの規制が全面的に撤廃されたら、通常医療の医師たちも、上で補完代替医療について問題があると指摘されたのと同様のふるまいをするであろうことは、容易に想像できます。

玉と石を振り分けるためには、科学的な検証、公的な資格制度や法的規制が不可欠だと思います。

これに対して、補完代替医療批判派の立場からは、そんなことの対象にする価値もない(すべて石に決まっている)という意見があるかもしれません。しかし、それはフェアな態度とは思えません。

黒猫亭さんのおっしゃるような通常医療と補完代替医療の棲み分けはひとつの考え方でしょうが、それはきちんと補完代替医療を検証した上で、プラシーボ効果しか認められないとなってから選び取るべき立場だと思います。

逆に、(うさぎ林檎さんの用語法にならって)careしかできないと推測していた補完代替医療の中のある種の療法にはcureする力があると判明したならば、きちんと制度化し、保険適用もすべきだと思います。

一方、補完代替医療推進派の側も、私たちのやっていることはそういうものではないとかいろんな立場があって、検証に消極的かもしれません。

私がかかわるスピリチュアリズムの場合で言うと、スピリチュアリズムとは宗教であり、思想であり、科学であるというような言い方がされるときがあります。

私は、仮にほんの一部であっても、科学であるというのなら、その部分は科学の流儀にしたがった検証を受けるべきだと思います。医療行為に相当する部分も同様です。

かつて近代スピリチュアリズム勃興期の欧米の科学者たちは、心霊現象を真剣に検証しました。彼らは、正統派科学者からもスピリチュアリストからも批判されましたが、とても真摯ですばらしい姿勢だったと思います。(以前それに関する記事も書きました)
http://glass-age.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-9cc1.html

私は、補完代替医療推進側は、単なる医療行為ではなく、いろんなものが統合されている、ホリスティックだなどと言って、検証を逃れるべきではないと思います。

私の父が闘病中は、がんに効くというキノコエキスの新聞広告を見ない日はないという状況でした。その後、いくつか判決も出て、最近は見なくなりました。厚生労働省が、がんの補完代替医療に関する報告書を出したとのニュースも聞きました。現政権も補完代替医療についての検証の指示を出したと聞きます。

私はこうした動きを歓迎します。
長々と失礼いたしました。
by Glass Age (2010-06-04 22:18) 

pooh

> Glass Ageさん

ここでは一般に「長々と」が非難されることはないので、お気になさらず。

すべてを公的な規制で対処すべし、と云うのは、いくつかの意味で賛同できません。ぼくは(愚行権を認める)自由民主主義を支持しますし、規制にともなう必要リソースやコストの問題もある。
やはり望ましいのは、個々が常識に従った分別ができること、だと思うんですね。それがどれくらい現実的なのか、と云うお話もありましょうけど。

ただ、その場合によりどころとできるのは、やはり自然科学なんですよね。自然科学には、人間の事情なんて顧慮しない、と云う性格がありますから。

で、自然科学の大原則として、「新しい意見の証明はその意見を発したものが行う」と云うのがあります。科学的だ、と云うことを主張するには、それを証明するコストは主張した本人が負担しなければいけないんですね。科学をよそおう品質の低いスピリチュアリズムは、この原則をおおむね無視するか、曲解します。

> 補完代替医療批判派の立場からは、そんなことの対象にする価値もない(すべて石に決まっている)という意見があるかもしれません。

補完代替医療とひとくちに云っても当然多くの種類があるので、十把一絡げに否定する、と云うのはそもそも間違っていますよね。継続的に批判的なスタンスに立っているひとには、あまりそう云うひとはいないと思いますが。
例えば、漢方薬については、包括的にメカニズムを検証しようと云う動きがあります。
http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1190130520

上のリンク先でも書かれているように、「科学的に効果が証明された」と云うことを述べるためにはメカニズムの解明はかならずしも必要ではないんですけど、もちろん意義のあることであって。
で、結果的に効果が証明された補完代替医療は、それはもはや「補完代替医療」ではなくて、通常の医療のメソッドになります。

で、逆に、「補完代替医療推進派」は、世の補完代替医療と呼ばれるものを十把一絡げにみんな認めさせよう、と云うスタンスのひとが多いように見受けられます。効くものも効かないものもあるはずなのに、どれもこれも「現代医学が未熟なせいで効果が証明できないもの」にしてしまう、みたいな。
安易な俗流スピリチュアリズムが、その根本的な哲学の垣根をお手軽に超えて、すぐに習合してしまうのと似ていますね。

> 通常医療と補完代替医療の棲み分けはひとつの考え方でしょうが、それはきちんと補完代替医療を検証した上で、プラシーボ効果しか認められないとなってから選び取るべき立場だと思います。

ホメオパシーをはじめ、現時点で「プラシーボ効果しか認められない」と云うことが判明している補完代替医療は多々あります。そのうえで、それらは(実際の医療上の効果以外にも)意味をもちうるのではないか、と云う議論なんですよ。
今年翻訳されて話題になったサイモン・シンの「代替医療のトリック」は、そのあたりの検証を中心とした書物です。非常におもしろい本なので、もし未読でしたら、ご一読をおすすめします。

> 補完代替医療推進側は、単なる医療行為ではなく、いろんなものが統合されている、ホリスティックだなどと言って、検証を逃れるべきではないと思います。

求められるのは、「自ら科学的検証をおこない、共有可能なかたちで結果を提示する」姿勢だと思います。証明のコストを、否定する側に押し付けるのは筋違いなので。
by pooh (2010-06-05 07:27) 

黒猫亭

>Glass Age さん

大筋の理路はpoohさんが説明しておられますので、オレのほうからはオレの意見固有の部分について補足を。

>>通常医療と補完代替医療の棲み分けはひとつの考え方でしょうが、それはきちんと補完代替医療を検証した上で、プラシーボ効果しか認められないとなってから選び取るべき立場だと思います。

これは原理的に不可能です。

まず「プラシーボ効果しか認められない」とはどう謂うことでしょうか? これをザックリ謂うと、その薬剤なり治療法それ自体には「まったく効果がない」、つまり「効くと謂う思い込み」による影響しか認められないと謂うことですね。

これは逆に謂うと「効かないと謂うことが証明された」と謂うこととほぼ同義です。で、プラシーボ効果が「効くと謂う思い込み」以外に何も拠り所がない以上、「効かないと謂うことが証明された」治療法は、名実共に疾病・症状の改善に対する好ましい影響力を失います。ですから、棲み分けも何も、単にその治療法が完全に無効化して排除されると謂うだけの話になります。

たとえばスピリチュアル・ヒーリングなら、それを主張する側が説く作用機序自体が非科学的であろうが矛盾があろうが、それ自体はどうでも好いんです。効くか効かないかと謂う事実と、説明原理が正しいか正しくないかと謂う理論面の正誤はあんまり関係がないですから、説明原理が間違っていても効く薬剤や治療法はあり得ます。

治療法なり薬剤なりが「効く」と謂うのは事実認定の問題で、それは相当な確度で確認可能ですから、説明原理と謂うのは「効くと謂う事実」を前提にしてその事実を破綻なく包括的に説明出来る言説が求められるわけで、説明原理が先にあって「効く」わけではありません。

しかし、プラシーボ効果しかないと証明されてしまったら、それは要するに説明原理も非科学的だし事実として効果もないと謂うことになるわけですから、何の意味もない妄言になります。スピリチュアル・ヒーリングが患者に対して何らかの好影響を与えるとしたら、説明原理が科学的でなくても、「科学以外の何らかのことわり」の力によって「効く」と謂う患者の思い込み…思い込みと謂う言葉が悪ければ、信仰なり信念なりに基づく信頼があるからでしょう。

ところが、プラシーボ効果しかないと証明されると謂うことは、この世で一番確度の高い方法で調べた結果、「何の効果もないと謂う事実」が判明すると謂うことですから、その瞬間にその治療法は患者にとってただの「嘘」になります。嘘であることが判明した嘘は、嘘が果たしていた機能を失うのは当たり前のことですね。

これがpoohさんがオレへのレスで仰った、

>>うそを内包していると、その機能に宿命的な脆弱性を抱え込むことにもなる

…と謂うご意見の意味で、嘘が嘘であることが判明した瞬間にその治療法は失効する、それが宿命的な脆弱性であると謂うことです。嘘に騙されることそれ自体以外に効果を保証する根拠がないわけですね。

これはホメオパシーなんかの議論でも頻出する論点なんですが、それ自体には何の治療効果もない治療法が、「効く」と謂う思い込みに依拠して一定の好ましい効果を及ぼす場合、それが「思い込み」による心理的な影響でしかないことが広く周知された瞬間にその治療法は効果を失うわけです。

ですから、たとえば現在のホメオパシーにカウンセリングや診察手順の観点から一定の評価を与える意見もあるにはあるのですが、問題となるのは、そのカウンセリングが及ぼす効果の根拠となっているのは、やっぱり「ホメオパシーは効く」と謂う思い込みであることに変わりはないと謂うことなんですね。

果たして「ホメオパシーそれ自体には何の効果もない」と謂うことが周知されても、ホメオパシーの診察セオリーが一定の好ましい効果を持つかと謂えば、それははなはだ疑問なわけで、もしもその上で効果を与えられるとしたら、それはどんな「事実」を突き附けられても「ホメオパシーは効くんだ」と謂う頑迷な確信を維持出来るような狂信的メンタリティの人々だけではないかとオレは思います。

ですから、もしもスピリチュアル・ヒーリングがホメオパシー同様に「プラシーボ効果しかない」と証明されてしまったら、「通常医療と補完代替医療の棲み分け」ではなく、「事実に依拠して判断するメンタリティの人々」とその種の「狂信的なメンタリティの人々」の棲み分けが可能になるだけなのではないかと思います。

オレが「科学的検証を受けて立つ必要はない」と申し上げたのは、人の心の領域の事柄において、上述のような「科学以外の何らかのことわり」を自然科学の側が否定する権利も必要性もないと謂う理由に基づくもので、心の力を重視するなら、心以外の部分についての現実的な影響力になど拘る必要はないのだと謂う意見です。

ただ、それにはpoohさんが指摘されたような「嘘」の抱える機能的脆弱性と、それが及ぼす危険性の問題があるわけで、そこが最重要な論点だと考えますので、この問題について科学的な検証の観点で考慮しても意味はないと考えます。
by 黒猫亭 (2010-06-05 08:35) 

黒猫亭

念の為に申し添えておきますと、poohさんが仰っている「うそ」と謂うのは、説明原理それ自体ではなく、「効くと謂う主張」のことだと思います。「効く」と主張する為には主張する側がまず「効くと謂う事実」を証明する義務があって、その義務を果たしていないのに「効く」と主張することは明確な「うそ」になります。殊に、医療の領域では、一見些細な疾病に見えても最終的に人命に関わる場合が少なくないですから、この手続は厳格に行われる必要があります。

そして、代替医療一般の具える特徴として、説明原理は様々でもその手続を怠っていながら「効く」と主張し、その主張が「効くと謂う思い込み」を与えることで患者にプラシーボ効果をもたらしている側面は「必ず」あります。そして、その「思い込み」を取り払った後に本当に「事実として効く」のであれば、それは「代替」医療ではなく普通の意味で「医療」になる、こう謂う筋道でしょう。

つまり、「効くと謂う事実」が確認されていないのに「効く」と主張して現に診療類似行為を行う治療セオリーは、本質的に「嘘」でしかないと謂うことです。そして、代替医療一般の抱える問題性もそこにあって、「嘘」に依拠して現に診療類似行為を行い、それが「割の良いビジネス」として成立している、さらに通常医療が引き受けているような「患者の肉体に対する責任とリスク」も曖昧に回避している、その欺罔性が社会通念上大きな問題なのだと思います。
by 黒猫亭 (2010-06-05 09:31) 

うさぎ林檎

おはようございます。

私は20代半ば頃まで死と接する事がほとんど無い時を過ごしていました。親戚の死はありましたが、生活を共にした人の死を迎えた事は無かったのです。

学生時代に寄宿した祖父母の住む家は古い家でした。祖父は駐在を勤め上げた人でしたが元々は農業を営む家であり、屋根裏に蚕部屋があったり敷地内に農具小屋と共に牛馬がいた小屋が残っているようなありふれた農家でした。
その頃ずっと不思議に思っている物がありました。それは土間にある炊事場の納戸にしまわれていた幾つもの大きな鍋釜の存在です。今であれば昔は冠婚葬祭が自宅で行われたのだろうと想像が付いたと思いますが、その当時は判りませんでした。そしてその使い道を私が本当に理解できたのは、祖母が亡くなった時でした。

おろおろしている家族を尻目に、ご近所のご婦人達が集まり親族の指示を仰ぐ事もなく納戸から鍋釜を出し、五目寿司と汁物を手際よく準備されました。年配の方は差配されるわけでなく、でもお寺さんへの連絡やご近所への対応など地域の習慣について折々に気遣って下さいました。男衆もお通夜、葬儀と見えられ長居するではなく祖父と故人や地域のお話しをされて帰って行かれました。

鍋釜ぐらいで大袈裟かもしれませんが日常の中に死が同居している。そして表現が悪いのですが死が習慣で処理されていく。私は死を寛容する生活を経験したように思っています。
5年間生活を共にした祖父母を見送った事で、死は私にとって”何だか分からない物”ではなくなりました。死後の世界を信じているわけではありませんが、祖父母が先に行っているところなら”それほど恐いところではない”そんな風に死を感じるようになりました。
by うさぎ林檎 (2010-06-05 09:33) 

ちがやまる

感動。よかったねえ、うさぎ林檎さん。
by ちがやまる (2010-06-05 09:50) 

pooh

> 黒猫亭さん

こう、黒猫亭さんにあらためてお伝えすることではないのですけど、充分に洗練された合理的な呪術は「効く」んですよね。それをプラシーボ効果と同一視してもいいものなのかと云うとちょっと安易には判断できないにしても(そしてGlass Ageさんのお考えになるスピリチュアリズムを呪術とおなじ括りに入れていいのかどうかわからないにしても)。
で、それは自然科学とはことなった、かつ矛盾せず両立しうる、それなりに強固な原理を背景にしたもので(そこには「思い込み」をコントロールする技術も含まれます)。なので、ここでは(ぼくの云う意味では)「うそ」ではないわけです。
ただもちろん、そこには物理的存在としての人間になんらかの効用を及ぼす力はない。

> 「効く」と主張し、その主張が「効くと謂う思い込み」を与えることで患者にプラシーボ効果をもたらしている側面は「必ず」あります。

これは、実運用上はある程度通常医療にも存在しますよね。
このあたりについての見解は現にさまざま、と云うような状況だと思います。論者のなかでぼくは相対的にその部分に寛容ですが、自然科学を背景とした(つまりは共有可能な基準にもとづいた)責任を持った診断が下されていること、と云うのが外せない前提になります。
そして、ぼくの知る限りスピリチュアリズムにもとづいた代替医療はおおむねその水準に至っていない(ついでに云うとそれだけの志もない)と云うのが現時点での認識です。
by pooh (2010-06-05 10:31) 

pooh

> うさぎ林檎さん

グリーフワークを(へんな云い方ですが)合理的に効率よくおこなうためのしくみを提供する、と云う一点だけでも、信仰や習俗には意義があるのだ、みたいに思います。

うむむ。でもこれ、コミュニティ論にも接続するなぁ。ぐるっとまわって一周、みたいな感じ。
by pooh (2010-06-05 10:36) 

pooh

> ちがやまるさん

なんと云うか、風土、と云うものもあるように思います。

母方の祖父がなくなったときに、長崎の親族の悲嘆のしかたがみごとに乾いて澄み切っているのにちょっとした感銘をおぼえたことがあります。そう云う土地でそう云うひとたちだ、と云うのは知ってはいたつもりだったんですけど。
by pooh (2010-06-05 10:39) 

うさぎ林檎

>poohさん

私が住んだのは”お接待”が根付いた土地柄でした。今でこそお遍路さんが通ったりする事はありませんが、父の幼い頃はお遍路さんを見かければ大人に”お接待しなさい”と謂われてお米を一掴み差し上げたりしたそうです。
まぁご多分に漏れず、アレもコレも廃れつつある話ではありますが。
by うさぎ林檎 (2010-06-05 21:21) 

Glass Age

poohさん、みなさん、ありがとうございます。
とても活発で刺激的な議論に感心しています。

私は補完代替医療関係者がどんな主張を展開しているのか、実はそれほど詳しくは知りません。したがって、補完代替医療関係者への批判に応答する知識がありません。(個々のご意見にレスしない言い訳です(笑))

また、私自身は、スピリチュアリズムを自分が納得できる人生観、世界観、つまり宗教や思想として選び取っているのであって、スピリチュアル・ヒーリングはあくまでもその補強材料として体験させてもらっているにすぎません。(そういう意味では、黒猫亭さんのおっしゃるように、私個人に関しては、今のままで何の実害もないのかもしれません。)

もし補完代替医療を支持する全ての人たちが、そういうスタンスなら、あまり問題はないと思います。

しかし実際には、補完代替医療にすがる人たちというのは、万策尽きてわらをもすがるような思いで、という場合が多いのではないでしょうか。

poohさんのおっしゃる、証明のコスト(立証責任と言い換えてもいいでしょう)はだれが負うべきかというのは、なるほど大切な論点だと思います。

ここで話題になっているらしい「ニセ科学」については、「ニセ科学」ではなく正しい科学だと主張する側が立証責任を負うべき、ということでいいように思います。

しかし、補完代替医療については、一方が補完代替医療側に立証責任があると言い、他方が通常医療と同じ土俵で立証する気はないと言っている間に、背に腹は代えられないと思いつめた膨大な数の人たちに被害が広がっていくような気がします。

私がスピリチュアルとか補完代替医療の世界を覗いたときに、一番驚いたのは、玉石混交、いや圧倒的多数の「石」ときわめて少数の「玉」という状況でした。(そういう意味で、上でいろんな批判がされているのもまあ仕方ないよなとも思います。ただ繰り返しになりますが、私は個々の行為者の問題ではなく制度・システムの問題だと思います。個々の行為者は今ある環境のもとで合理的に行動しているにすぎません。)

補完代替医療が一部のマニアックな人たちの嗜好の世界ならともかく、かなりの広がりを見せている以上、やはり私は何らかの公的な立場からの検証や規制が必要だと思います。(もちろん医療行為にかかわる部分のみです。)

実際、今、厚生労働省もそういう問題意識を持っているようなので、私はその動きに賛成です。
by Glass Age (2010-06-05 23:05) 

pooh

> うさぎ林檎さん

あぁ、なんとなく納得です。
そしてそこにも、智恵はあるんですよね。

> アレもコレも廃れつつある話ではありますが。

こう、ここからは展開させられないんですが、このへんがコミュニティ論や、技術開発者さんなんかのおっしゃる「社会の健全な保守性」論にも接続していくように思います。
by pooh (2010-06-06 05:35) 

pooh

> Glass Ageさん

前に書きましたが、「補完代替医療」と一括するのは、やっぱり若干の無理があるんですよね。これはニセ科学についての議論でも同様のことが云えるのですが、結局のところは個別のメソッドそれぞれについて論ぜざるをえないわけで。
代替医療を定義すれば、その効果が検証されていない治療のメソッド、とすることが可能かと思います。先にも書いたように、一定水準の効果が検証されたものは、代替医療ではなく通常の医療の範疇に入ることになるので。

で、そのなかには単に検証が充分になされていないだけのものから、ちゃんと考えればおよそ効果が見込めないことがわかるもの、すでに効果がないことがわかっているのに効果を主張し続けているものなど、いろいろあるわけです。
先の定義で行けばグレイゾーンはつねにある(これはまぁ、通常医療が採用しているメソッドにもあるんですが)。でも、そのなかにはすごく黒いものもすごく白いものもありますよね。

で、おっしゃるとおり、それらを検証していくことには意義があります。先のレスで挙げたような、漢方薬のメカニズムを検証していく作業なんかはとても意義深いと思います。
一方で、すごく黒い場所にある代替医療までを含めて、ひとしなみに公的な予算を費やして検証すべき、だとは思いません。通常医療の提供そのものにリソース的な問題が生じている現状で、たとえばあらためてホメオパシーの効果検証にかける予算を優先するほど、ぼくたちの暮らす世界は余裕があるわけではない。
例えば、ぼくはスピリチュアル・ヒーリングに類するものを否定はしませんが、その検証に国が予算を組むのは反対です。そこに(物理的実態としての)人間の治癒につながるものは見いだせないでしょうから。

じゃあ、どの代替医療のメソッドになら予算を費やしていいのか。そこで現在準拠しうる客観的な考え方は、やはり自然科学しかないのだろうな、と考えています。ひとの思惑を超えた結論を提供しうるものが、ほかにない以上。

個人の選択、と云うレイヤーでは、あやしい代替医療を信じて健康を害したり、経済的な損失を被ったりすることは、自由だと思うんですよ。痛ましいけど、非難されるべきようなことではない。
ただこれを社会、と云うレイヤーで考えると、ひとにその種のものを勧めたり、提唱して広めたりするような行為は、その目的がなんであれ(また動機がなんであれ)自由だ、とは云えないと考えています。「コストはだれが負担すべきか」と云うことについてのぼくの意見は、このあたりの認識をベースにおいています。
by pooh (2010-06-06 06:02) 

黒猫亭

>poohさん

>>個人の選択、と云うレイヤーでは、あやしい代替医療を信じて健康を害したり、経済的な損失を被ったりすることは、自由だと思うんですよ。痛ましいけど、非難されるべきようなことではない。

この問題は以前も少しpoohさんとお話をさせてもらったと思いますが、これは所謂「愚行権」の問題と謂うことですよね。で、自然科学の登場以降に出来した新たな問題性として、個人の信仰が或るレイヤーで切り取ると「愚行」と規定され得ると謂う問題が出てきて、さらにそこに信仰や宗教が本然的に持つ「世代を超えて受け継がれる概念規範」としての性格が絡んでくると思います。

簡単に言えば、たとえば当人が特定の宗教や信仰にハマって不利益を蒙る分には当人の自由だけれど、その子供は親の思想の影響下に育つわけで、親が自由意志で選択した信仰を、その子供は選択の余地なく引き継がざるを得ない立場に立たされたりします。

これは個人と謂う存在が、成長の過程において当人が置かれた特定の文化的環境や社会的通念から完全に独立して育つわけにはいかないし、その最も直接的な影響を与えるのは親の思想である、と謂う動かし難い事情があるわけですから、親となる個人が何処まで自由意志として「愚行」を行い得るのか、と謂う問題にも繋がると思うんですね。

これは、自然科学が登場して客観的に万人が共有可能な「確からしさ」が確立される以前は、どんな宗教や信仰を選択したとしても、それは本質的に「愚行」ではあり得なかったわけで、基本的にすべての宗教は世界認識のセオリーとして原理的には並列だったわけですから、たとえ尖鋭で常識離れした過激な新宗教を選択したとしても、それは「愚行」ではなかったわけです。

「愚行」と謂うのは、それが愚かな選択であることを万人が判断可能な客観的な拠り所があって初めて「愚行」と判断し得るわけですから、その拠り所が宗教哲学と不可分で曖昧だった時代と現代では事情が異なります。

そして、以前のお話でも結局この問題に結論らしい結論を出すのは困難だと謂うことになったと思うんですが、やはりこの辺の事柄は難しい問題だろうと思います。
by 黒猫亭 (2010-06-06 11:07) 

pooh

> 黒猫亭さん

結局この話って、どこまでが私の、どこまでが公の領分に属するのか、と云う議論と、最終的には不可分なんですよね。
で、それって、結局ぼくらが現時点で住んでいるこの社会で妥当とされる規範(もしくは望ましいと判断できる規範)に準拠するしかないので、それらに制約された常識の届きうる範囲でしか論じられない。論じられない、と云うのはいちがいにネガティヴな意味合いだけじゃなくて、そこは論じつつ理解が共有可能な範囲を探っていくことに、たぶん意味があって。

でまぁ、そこを探るにあたって、自然科学と云うのはおそろしく有効なメソッドであるわけです。単にメソッドでしかないんですが、現時点では代替物がない。
科学がすべてではもちろんないんですが、それを装うことの罪深さ、と云うのは、このあたりから生じてくるんですよね。科学を装う代替医療もしかり、で。
by pooh (2010-06-06 21:20) 

Glass Age

poohさんをはじめとするみなさん、本当に刺激になり、勉強になりました。

poohさんのおっしゃるコストという観点は確かに重要で、今回とても勉強になった点です。検証が大事と言えば、あらゆる事象に対してそうであるに違いありません。おっしゃるとおり資源は無限にあるわけではないのですから、優先順位、費用対効果が問われますね。

私は、補完代替医療を検証することについて、費用対効果が高い(=放置しておく方が社会的コストが高くなる)という状況になってきているような気がします。あくまでも感覚的意見ですので、特にレスを求めるものではありません(何度言ったらわかるんだと怒られそうですもんね(笑))。

あと、うさぎ林檎さんが提供してくださった話題にもいろいろと感じるところがありました(あえてこれまでコメントしませんでしたが)。

私は、両親や何人もの友人をすでに見送りました。何度も親戚が集っての法事に、「遺された人はこうやって癒されていくのだな」と漠然と感じました。ただ、私はそういった習俗的行為と原始仏教の教義とのあまりの乖離や、霊やあの世の存在など信じてもいないのに、それがあるかのようにすすめられていく儀式に納得がいきませんでした。あるスピリチュアリストは、仏教者が信じてもいない世界を前提に戒名や供養で多額のお金を取るのは「霊感商法」と同じではないかと批判していましたが、一理あると思いました。

今回のやり取りで気づいたことは、私は、「伝統的宗教や習俗には、その内容に意味や根拠があるかどうかにかかわらず、こういう機能や効果があるよね」というような社会学者的分析、成熟した大人的見方に、がまんができない青二才的な性格なのだなということです。そして、スピリチュアリズムとは、霊があるのか、あの世があるのかという部分に徹底的にこだわる、ある意味で非常に青臭い立場なのだということを改めて思いました。

このように言うと、私がここで補完代替医療の検証にもこだわりを見せた理由が見えてきますね(笑)。

いろいろと学ばせていただき感謝します。これ以上、書き込み続けると、毎晩眠れなくなりそうですので、このあたりで一旦、失礼いたします。

また、機会があれば参加させてください。
by Glass Age (2010-06-06 23:09) 

pooh

> Glass Ageさん

いや、ここで今回議論されたようなことは、もっと大きな場所での議論とも連動していて。ぼくはぼくなりの(そしてコメントをお寄せくださったかたがたも)把握と理解を深めていく過程にある、と云う状況でした。

> 補完代替医療を検証することについて、費用対効果が高い(=放置しておく方が社会的コストが高くなる)という状況になってきているような気がします。

この感覚、理解はできるんですよ。
ただ、すこし前に政府の云い出した代替医療への取り組みは、その主眼がコスト削減にある、と云うことを考え合わせると、優先順位の問題は熟考が必要な部分かとは考えています。最終的にどうするのがもっとも有効なリソースの活用になるのか。

> 社会学者的分析、成熟した大人的見方に、がまんができない青二才的な性格なのだな

どちらが大人とか青二才とか云う話ではなく、どちらかと云うとぼくが現在の社会の中でスピリチュアル的なものに共有可能なかたちでの意義を見出したい、みたいなスタンスなので、そう云うアプローチになってしまうんですけどね。
ここはぼくのブログのコメント欄なのでどうしてもぼくの論調をみなさんが尊重される流れになりがちですが、かならずしもこれは一般的なスタンスではないです。

> また、機会があれば参加させてください。

いつでもいらっしゃいませ。
議論に参加する義務みたいなものはないので、眺めていていただくだけでもいいのかな、とも思います。
by pooh (2010-06-07 07:40) 

技術開発者

こんにちは、Glass Ageさん。

>ただ、私はそういった習俗的行為と原始仏教の教義とのあまりの乖離や、霊やあの世の存在など信じてもいないのに、それがあるかのようにすすめられていく儀式に納得がいきませんでした。

まあ、日本の場合には「儀式のみを求める信者」に合わせて「儀式のみを提供する宗教」となっている面は否定できないのでね。ただね、私みたいに青春時代にいろんな宗教を彷徨したものにとっては、全ての宗教の根元のところに、Glass Ageさんが今スピリチュアルに感じているのと同じ部分があると思っています。

なんていうかな、今、既存の宗教となっているものも、最初は新興宗教だった時代があってね。その時代には「霊やあの世の存在」にずいぶんこだわっているものなんですね(笑)。じゃあ「時代とともに、そういうこだわりが薄れていくのは、なぜだろう」なんて考えるとね。そういうこだわりが「癒し」にとって必ずしも必要じゃなかったからじゃないかな(笑)。

by 技術開発者 (2010-06-07 17:22) 

pooh

> 技術開発者さん

なんとなくですね、最終的にたどり着くべき場所として「解脱」と云うのを置く心理、みたいなのに思いを馳せてしまいました。
by pooh (2010-06-07 22:29) 

技術開発者

こんにちは、 pooh さん。

>なんとなくですね、最終的にたどり着くべき場所として「解脱」と云うのを置く心理、みたいなのに思いを馳せてしまいました。

このあたり、日本の仏教というのはすごく「癒し」の方向に特化しているのかも知れないんですね。前にも書いたけど浄土真宗なんかは「仏の大慈悲により必ず救われるんだ」とおいて、「救われると言うことを一途に信ずることで心が平静でいられるでしょ。その境地こそがだいじなんですよ」なんてね。禅宗でも「日常の行為全てが修行であり、修行により悟るのではなく、修行する状態そのものが悟りなのだ」とかね。

「霊やあの世の存在」を前提においては居るんだけど、そんなものを詳しく説明する必要性が無いのね。だって救われるとか、悟れるということの方が大事なんだからね。

なんていうかな、私は時々、「惜しい」気がするんですね。日本の仏教の教義の本質の所には、非常に洗練された「癒し」があると思うんですね。そんな宗教に囲まれながら、そこには目を向けずに、「玉石混淆」のものにのみ目を向けてる気がしてね。

by 技術開発者 (2010-06-08 12:41) 

zorori

>その時代には「霊やあの世の存在」にずいぶんこだわっているものなんですね(笑)。じゃあ「時代とともに、そういうこだわりが薄れていくのは、なぜだろう」なんて考えるとね。そういうこだわりが「癒し」にとって必ずしも必要じゃなかったからじゃないかな(笑)。

宗派によって,霊やあの世のイメージは随分違いますね。科学的真実のようなものとしてあの世の存在を考えると,正しい宗教はただ一つで,他はみんな間違いであるか,すべてまちがいであることになってしまいます。そこで、神の存在の証明が重要な議論として延々続いたりするのかなと思ったりします。でも幸いなことに仏教では,あまりそのようなこだわりがないようです。いい加減と言えばいい加減ですけどね。
輪廻転生,来世は仏教に必須かと思ったら,wikipediaには次のような記述も有りました。
「日蓮の教えでは、(転生があるにしても)、今の自分(小我)に執着するあまり、いたずらに死を恐れ、死後の世界ばかりを意識し期待するより、むしろ自分の小我を越えた正しい事(大我)のために今の自分の生命を精一杯活かし切ることで最高の幸福が得られるのだ、とされている(『生死一大事血脈抄』)。
また真言宗などの密教でも、大我を重要視して即身成仏を説き、天台宗も本覚思想から、「ここがこの世のお浄土」と捉え、来世について日蓮と同様の捉え方がなされる場合がある。」

あの世なんか気にするなって感じですね。

by zorori (2010-06-08 21:24) 

pooh

> 技術開発者さん

> 日本の仏教というのはすごく「癒し」の方向に特化している

あぁ、そう云う発展のしかたをしているようには思えます。
「葬式仏教」みたいに悪口で云われますけど、なんと云うか、平安を提供する機能が発達している感じはしますね。

仏教をベースに置いた新興宗教とかスピリチュアリズムってけっこうあるように思いますけど、千年以上この国の風土に洗われて発展してきた日本の仏教も(いちがいには云えないにしろ)捨てたもんじゃないようにも思います。
by pooh (2010-06-08 22:26) 

Glass Age

技術開発者さん、こんばんは。
それからみなさん、こんばんは。

話題が私の関心領域により近づいて来ましたので、議論したい誘惑にかられます(笑)。ただ、書き始めると、とうてい短くは収まらないと思いますので、私の安らかな睡眠時間のために、我慢します(笑)。

最小限のコメントをしますと、私は、仏教的な「解脱」や「悟り」というものに対してきわめて懐疑的です。それからスピリチュアリズムは「霊やあの世の実在」を前提にしますが、何よりも「この世での生き方」にこだわる思想です。あの世や来世でいいところに生まれたいという思想では決してありません。少なくとも良質と思われるものにおいては・・・。

仏教的なものとスピリチュアリズムについては、これまで私のブログでいくつか記事を書いてきました。

こんな記事があります。
「阿弥陀仏」「ブッダとスピリチュアリズム」「幼稚園では存分におもちゃで遊ぼう!~悟りあるいは解脱について」「ベトナムの禅僧 ティク・ナット・ハン」「般若心経について」

もし関心のある方はそちらを読んでいただければ、私の宗教観・スピリチュアリズム観みたいなものは感じとっていただけると思います。

それでは、また議論に参加させてください。立場は異なっても、気持ちよく議論できる場を提供いただき、改めて感謝します。
by Glass Age (2010-06-08 22:27) 

pooh

> zororiさん

本来の仏教では(って、どれが本来なんだかもはや定義の問題になるんですけど、すくなくともお釈迦さまの唱えた仏教では)輪廻転生って云う概念は実態を持ったものではないんですよね。輪廻転生も解脱も、概念だけヒンドゥー教から借りてきて、一種の比喩として用いられているものだったと思います。

> あの世なんか気にするなって感じですね。

仏教は土地土地でいろんな発展をしていますが(あの世もあったりなかったり)、そう云う感じの発想は共通して根本にあるように思います。
by pooh (2010-06-08 22:32) 

pooh

> Glass Ageさん

> 仏教的な「解脱」や「悟り」というものに対してきわめて懐疑的です。

このへん、先にも書きましたが、実際の用いられかたとしては比喩であり、(ことばの本来の意味での)方便なんだろうな、とぼくは理解しています。

> スピリチュアリズムは「霊やあの世の実在」を前提にしますが、何よりも「この世での生き方」にこだわる思想です。

あるべき姿だと思います。
ただ、昨今の俗流スピリチュアリズムは、あまりにも現世利益を訴求することが多いように思います。継続的にニセ科学の問題に言及する論者のなかでは、ぼくは相対的には極端にスピリチュアリズムに寛容なほうだと思っていますが、だからこそそう云う俗流スピリチュアリズムは(とくにスピリチュアリズム内部から)厳しく批判されるべきだ、みたいに考えています。

> また議論に参加させてください。

ご自分のペースでどうぞ。ぼくも伺うかもしれません。
ここのコメント欄にお越しのかたはそう云うかたが多いので、ありがたく感じています。
by pooh (2010-06-08 22:45) 

技術開発者

こんにちは、皆さん。少し変な話をしますね。

kikulogの方で「幸福の定量化」という厚生経済学の話なんかもしている関係で、イギリスの環境保護団体が出している「地球幸福度指数」なのてのも書いてみようかと思って、まあ、話が発散しちゃうのでやめたんだけどね。まあ、それぞれの国の人がどのくらい「幸福」を感じているかの順位付けの話ね。

実の所、経済力とはあまり関係の無い結果が得られているのね。1位がデンマークとかで「北欧の福祉国家だから」みたいな見方があるんだけど、じゃあ2位はというとコスタリカとかコロンビアとか中米の国がはいっていたりね(笑)。でもって、こういうのを解析すると、実は「周りに同じ宗教の人が固まっている」っていうのが結構大きく幸福に寄与していたりするのね。

なんていうかな、それはプロテスタントでもカソリックでも構わないんだけどね。なんていうか、コミニティーの基盤の所の共通性を同じ宗教で固めることで、人間の感ずる幸福ってかなり違ってくる面があってね。

もともと、日本の仏教、例えば浄土真宗なんかも、コミニティーの基盤の所の共通性を固めるという部分で人に「幸福感」を与えていた面があってね。或る意味で、日本はそういう宗教を無視していく事で不幸になっているのかも知れませんね。

by 技術開発者 (2010-06-09 15:29) 

pooh

> 技術開発者さん

> 或る意味で、日本はそういう宗教を無視していく事で不幸になっているのかも知れませんね。

そう云う側面は、たしかにあるかも、とか思います。
ただ、ううむ。「幸福感が感じられればいいのか」と云う部分も、たぶんあるだろうな。
by pooh (2010-06-09 21:08) 

Glass Age

こんばんは、poohさん、それから技術開発者さん。

少しご無沙汰しています(笑)。

技術開発者さんが、上で「霊やあの世の存在」へのこだわりについてコメントされていたのに触発されまして、自分のブログで、そのタイトルもずばり「霊やあの世はそんなに大事か」という記事を書いてみました。

内容はあくまでもスピリチュアリズムの解説ですので、ここのみなさんにコメントを求めるようなものではありませんが、礼儀として(?)お知らせすべきかなと思いまして、書かせていただきました。
by Glass Age (2010-06-15 23:47) 

pooh

> Glass Ageさん

そう云う場合はまぁ、トラックバックをいただければ。

このへんは論者それぞれのスタンスにもよるんですが、ぼく自身はニセ科学の問題を考えるにあたって「非合理のありかた」みたいな部分は重要だと思っているので、ご提示の論考は意義があるものだと思います。
by pooh (2010-06-16 07:39) 

技術開発者

こんにちは、Glass Ageさん。

 まあ、コメントを求められている訳でも無いのだけどね。私に言わせるとスピリチュアリズムというのも新興宗教の一つに過ぎないのね。人類は様々な新興宗教を作り上げてきた訳です。でもって、必ず新興宗教には「カルト性」があって、大小はあるけど社会との軋轢を生ずるのね。そのなかで「カルト性」をそぎ落としていく過程が「聖俗の分離」なのね。そしてカルト性をそぎ落とす事に成功すると長持ちして既存宗教という形に納まる。カルト性がそぎ落とせないでいると、たいていは消えていく。そういう流れが歴史の中にある訳ですよ。ただ、必ず新興宗教は生まれるのね。それは人間が「カルト性」に魅力を感じるからなのです。この新興宗教が起こっては消えていくなかで、カルト性をそぎ落としたものだけが残っていくという繰り返しが人間の宗教史なのかも知れません。

by 技術開発者 (2010-06-16 10:30) 

pooh

> 技術開発者さん

お使いの「カルト性」と云う用語も、ちょっと要注意な感じはあるんですけどね。本来の「カルト」と云う用語にはネガティヴな意味はないので、そこにそう云う意味合いを含ませる場合、その含意がなんなのか、と云うことには多少注意深くある必要があるのかも、です。
新興宗教に限らず信仰の根底にはかならず非合理性があるのでその面でカルトかどうかを弁別することはできないし、「社会との軋轢」に軸足を置いて定義するなら、それは「社会とのかかわりかた」みたいな角度で判断する必要がでてくる。
いや、おっしゃりたい意味合いがわからないわけではないんですけどね。なので、

> そのなかで「カルト性」をそぎ落としていく過程が「聖俗の分離」

ここについてはちょっと微妙かな、と思います。って、このへんは結構前にイスラムに関する話題でお話したことがあるような。

> 私に言わせるとスピリチュアリズムというのも新興宗教の一つに過ぎないのね。

根底にある不合理を「信じること」と云う面では通底するので、その意味合いでは類似の部分はあるだろうな、と思います。いやこれ、逆に「宗教」の定義で変わってきたりもしてややこしいですけど。

> カルト性をそぎ落とす事に成功すると長持ちして既存宗教という形に納まる

ここまで書いたようなことがあるので、ちょっとこれにはストレートには賛同できません。と云うか、社会との軋轢を微調整していく機能をその歴史の中でビルトインできて、同時に有用で魅力的な哲学を持つことができた宗教が長持ちしていくのかな、みたいに漠然と思っています。で、このへんの事情についてはスピリチュアリズムでも同様、と云ってもいいのかもしれない、とか考えます。漠然とシュタイナーなんかを念頭に置いていますが(いや、詳細な知識があるわけではないんですけどね)。
by pooh (2010-06-16 22:11) 

技術開発者

こんにちは、pooh さん。

>お使いの「カルト性」と云う用語も、ちょっと要注意な感じはあるんですけどね。

そうですね。実はまだ考え中でうまく表現出来ないんですけどね。なんていうか「インパクト」みたいなものを考えている面があります。教義とか教義が示す世界観みたいなものの「インパクト」が強いほど強い信仰の動機付けは与えられるし、強い信仰を持った集団には強い連帯感が生まれる。しかし、同時にそういう集団と社会の間には軋轢が生じやすくなる。その軋轢を社会との抗争に発展させないためには、「インパクト」を弱め、信仰集団の連帯感もまた弱めなくてはならなくなる。みたいな事を考えています。

Glass Ageさんの書き込みをみていると、スピリチュアリズムの世界観そのものと、スピリチュアリズムの世界観を共有するお仲間との連帯感みたいなものの両方が大きな動機付けになっているのを感じるんですね。そういう意味で、「新興宗教だな」という見方に成るわけです。

by 技術開発者 (2010-06-17 08:34) 

pooh

レスするエントリを間違えてしまった。すみません。

> 技術開発者さん

> 教義とか教義が示す世界観みたいなものの「インパクト」が強いほど強い信仰の動機付けは与えられるし、強い信仰を持った集団には強い連帯感が生まれる。しかし、同時にそういう集団と社会の間には軋轢が生じやすくなる。

論じられるほど詳細な知識があるわけではないんですが、やっぱりひとを惹き付ける思想って云うのはたぶんあって、このへん例えばグノーシスなんかを連想したりします。グノーシス的な教理ってストリクトに運用すると信者が絶滅しちゃう、みたいな代物だと思うんですが、宗教史上いろんなタイミングでくりかえし顔を出す(わりと最近の、集団自殺とかしちゃうようなカルトも、根底に類似のものを持っているケースがけっこうあるんじゃないか、みたいに感じたりもします)。
なんども登場する、と云うことは、要はその思想が人間にとって魅力的だ、と云うことなんだと思うんですよね。逆に、その教えが支配的なスケールになって教団が一定期間生き延びた例がない、と云うことは、やっぱり社会のなかで実用とするには欠陥があるんだろうな、とか思ったり。

> その軋轢を社会との抗争に発展させないためには、「インパクト」を弱め、信仰集団の連帯感もまた弱めなくてはならなくなる

こう云う部分はありそうですよね(魅力は減っちゃいますけど)。少数派の連帯感は尖鋭化に行き着くことも多いように思えますし。
by pooh (2010-06-18 06:10) 

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