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問題の軸 [世間]

はてな匿名ダイアリーの水からの伝言 虫唾が走ると云うエントリを読んだ(どうでもいいけどなんかURLが不思議)。

印象だけで云うと、学校で教師が「水からの伝言」関連の言説を題材に道徳を説く、と云うパターンは、減ってはいるかもしれないけどなくなってはいないように思う(またもぐら叩きとか云われちゃうから、ぼくも都度都度取り上げたりはしていないけど)。
問題なのは、「うざい、だるい」という言葉を使ってはいけない理由が「自分に返ってくるから」になること。この時、私と母は「じゃあ、ありがとうって言葉を使うと、ありがとうが帰ってくるということかな?」と対応しました。偏った価値観を持ってほしくないという思いからのものです。
偏った価値観、と云うか、結局のところ江本勝氏関連の言説に関連してぼくが危惧する部分のひとつは、それがことばと云うものの持つコミュニケーションツールとしての重要な機能を否定することにつながる点で。だれかに向けてことばを放つのは、そのだれかに伝えたいなにかがあるからのはずで、そのことばを放つことで自分がなにか得をするから、では本来ないはずで。

これはここだけ切り出すと、「水からの伝言」がニセ科学である、と云う側面とは独立した問題点ではある。あるんだけどじつは同根で、要するにことばだろうが科学だろうが道徳だろうが、それらが本来どのようなものであるか、と云う部分を手前勝手にねじ曲げて(云ってしまえば侮蔑して)自分に都合よく使う、と云う一貫したスタンスがその中心にある。
そしてその話の後に「水からの伝言」が弟から話されるのでした。私はつい熱くなってしまい「そんなこと嘘に決まってるだろう、科学的にありえないことなんだよ」といった悪態をついてしまいました。今はとても反省しています。
科学的にありえないことである、と云う指摘に対する反論は基本的に定型化していて(挙げていってもいいけどやめる。いずれにせよ最後は「信じるか否か」の議論になる)、結局その指摘だけではあまり有効でないケースが多い。ぼくとしては「そんなうそをつくと云うのはどう云うことか、どんな意図があるのか」と云う角度から問題点を伝えようと試みてきたりはしたけれど、周知のとおりそれもそれであんまり簡単にはいかない。
弟に「誰がそれを確かめたの?本当にそうなの?」と聞くと弟は「だって見たもん、学校で見せてもらったもん」と言います。子供にとって先生は正しい存在なんですよ。だから、その先生が話したことは正しいことになるんです。
ここが、まずニセ科学の問題の典型として「水からの伝言」が取り上げられた理由で。教育に権威は必要だけれど、その権威は(当然ながら)用いかたによっては大きな問題につながるわけで。

話は変わるけれど(でもってこれもまた印象になるけど)。権威、と云う意味では、水伝の授業をする教師と同様に、効果の見込めない代替医療に親和性の高い歯科医、と云うのも今後問題になってくるような気もする(いや、見てるとホメオパシーだのレイキだのを治療メニューに加えている歯科医がけっこういるっぽいんですよ。ネット上のリソースだけで云ってるけどね)。
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YJS

こんにちは、poohさん。YJSです。

既にご存知かもしれませんが…明日(2010年5月16日)は菊池誠さんのニコ生出演があります。水伝も取り上げられるかもしれませんね。
URLは以下の通りです。

http://live.nicovideo.jp/gate/lv17001565

私は、本当はセミナーに参加したかったのですが…諸般の事情で果たせず、ニコ生頼みです。
by YJS (2010-05-15 18:47) 

pooh

> YJSさん

あぁ、ご教示ありがとうございます。
いちおう知ってはいましたが、見られるかなぁ。
by pooh (2010-05-16 06:18) 

pooh

見ました。
床屋行け。あとマイナスイオンの話になったとたんに大先生を召還しようとしたのは誰だ。
by pooh (2010-05-16 17:02) 

YJS

こんにちは、poohさん。YJSです。

> 床屋行け。

あははっ!いやぁ、私はスティーブン・ピンカーやジェフリー・ミラーみたいでイイなぁ、と。思いまスた。
by YJS (2010-05-17 12:53) 

pooh

> YJSさん

前者は確認できたけど後者は確認できませんでした。

なんか30年くらい前からあんな髪型で。ひげ剃ってただけましなのかも。彼は髪が短い方がいい男に見えると思うんですが(彼がいい男に見えてもぼくにはなんにもいいことないのでどうでもいいんですけどね)。
by pooh (2010-05-17 21:39) 

Jem

ううむ。
「きれいにひげを剃り、髪を短くカットしてしちさんにじゅういちに分けた」ら、しゃべってくれるまで見分けがつくかどうか・・・

(嘘です、話を面白くするための誇張です。)


by Jem (2010-05-22 14:28) 

pooh

> Jemさん

そりゃぼくらにはそう云う問題もあるかもしれないけど、大事なのは残りの6,000人くらいのひとたちでござんすよ。

しかしここ30年くらい、あれだけ見た目に変化の少ないひとも珍しい部類だと思う。
by pooh (2010-05-22 16:25) 

黒猫亭

ご無沙汰しております。

水伝の話題が上がっているのは、やっぱりどらねこさんのところのお話の展開とリンクしているのかな、と思いつつ、何かコメントしたいと思っていたままになっていました。

どらねこさんのところでも申し上げましたが、水伝の倫理的な問題と謂うのは、オレの中では一回転して、児童教育の問題と謂うより寧ろ大人の俗流道徳観に対する悪影響の問題かな、と謂うふうに思うようになっています。

或る種、児童教育と謂う観点で水伝を教材として考えた場合、地下猫さんも仰っていたように、問題なのは「水伝が教材として筋が悪い」と謂うテクニカルな問題に収斂するように思います。義務教育に高校までを加えたカリキュラムにおける道徳教育の全体像を考える場合、水伝授業の道徳的な問題点については、全体的なカリキュラムの中でアップデートされる可能性は高いと思うのですね。で、問題として残るのは自然科学的な世界認識のほうだと思うので、これはアップデートされる保証がない。

オレの観点では、どらねこさんの「ラマルク的な何か」のエントリで提起されている問題とはそこにウェイトがあるのではないかと思います。ただ、一方で大の大人が水伝に倫理を学ぶとなると、それこそ現在までに指摘されている諸問題がそのまま表面化するわけで、大人が対象であれば「対象の理解力の範囲内における合目的的な説明」と謂う名分が立ちませんから、突き詰めて考えない大人は水伝が教える表層的で浅薄な道徳観を鵜呑みにする危険性があります。

つまり、教師と謂うプロがカリキュラムと謂うセオリーに則って施している児童教育よりも、誰も監督者がいない状況で俗流に知識を学ぶ大人のほうがよほど危険なのではないか、そんなふうに考えます。

子供よりも大人が接するほうがよっぽど危険だなんてのは如何にも情けない話ですが(笑)、だからこそ水伝は見掛け上の間抜けさや素朴さに騙されてはいけない悪質な言説なんですよね。
by 黒猫亭 (2010-05-23 13:07) 

pooh

> 黒猫亭さん

ああぁ、もう大丈夫なんですか?
くれぐれも(いまだけでも)お身体をいたわってくださいな。

> どらねこさんの「ラマルク的な何か」のエントリで提起されている問題

個々の人間は学ぶわけで、こどものほうが以降学ぶ機会は多いことを考えると、じつは一部のニセ科学批判批判であったような「どうせいつかは気づく」的な部分を期待するのは完全なまとはずれではないとは思うんです。ただ逆に、「アップデート」の機会がなかったケースも多々あるし、おとなになってから逆にまずい方向に上書きされてしまうケースもむしろ頻繁に見受けられたりするわけで。

ある意味、例えば水伝は構造的にきわめて強靭な言説なんです。それはまず、根幹に呪術としての合理性を保持していることからくるのだと思っています。呪術として合理的だ、と云うことは、つまるところひとがそれを「信じる」ための根拠が準備されている、と云うことなので。
by pooh (2010-05-23 18:34) 

TAKA

ネット上での対話は、楽しい。自分の書いた言葉が、理解してもらえた時はうれしい。賛否は別としても、自分の考え方が相手に届いたことがうれしいのだ。
しかし、自分と全く違う考えの持ち主に言いたいことを的確に伝えることは、難しい。

そこで、私は閃いた。「一見するとニセ科学言説と似たような論理展開を見せるが、実は空気を読むのが得意な策士の理系サイエンスコミュニケーター」を志せば良いのだ。

という訳で、poohさん。これから私は、「自分が発する言葉の意味を深く考えなずに勢いだけで投稿する人」になります。
次からは、私を遠慮なくdisってください。ヘイトしてください。「ありがとう。ばかやろう。この、うざい科学相対主義者めが。」
by TAKA (2010-05-24 19:56) 

pooh

> TAKAさん

TAKAさんの場合、多少わかりづらくても真意のありどころの検討がついてしまうので、disるのはかえって難しかったり(^^;。

いや、プロのサイエンスコミュニケーターのかたがたの悩ましい部分はわかるんですよ。わかるんですけど、ね。
by pooh (2010-05-24 21:49) 

技術開発者

こんにちは、poohさん。ご紹介の

>問題なのは、「うざい、だるい」という言葉を使ってはいけない理由が「自分に返ってくるから」になること。

この部分って、結構難しいんですね。というのは倫理そのものが基本としては社会の相互利害に端を発するものだからなんですね。

「なんで人を殺してはいけないのか?」「社会が人を殺すことに寛容になれば、自分や自分の家族も殺されるかもしれないから」
「なんで人の物を盗んではいけないのか?」「社会が盗みに対して寛容になれば、自分や自分の家族のものも盗まれるかもしれないから」

みたいに、殺しとか盗みという事に対する倫理的禁忌も「自分に返ってくる」という部分を根底において成立している面がある訳です。

問題は、これらの倫理的禁忌が「社会が**に対して寛容となれば」といった形で、間接的な利害関係を前提としているということなんですね。つまり、出会う人全てに出合うたびに「私はあなたを殺したり、あなたのものを盗んだりしませんから、あなたも私を殺したり私のものを盗んだりしないでいてくれますね」と約束することをもちかけ、そのたびに約束を成立させて過ごすという手間を省くために、社会に倫理的禁忌として成立させているものであるということなんですね。

なんていうか、水伝の問題というのは、まず、この社会的な倫理的秩序を維持することによって、「自分に返ってくる」部分が分からなくなっているという問題がある訳です。きちんとした社会人なら多くの倫理的禁忌に関して、この相互利害論が説明出来なくてはならないはずなのですが、多くの社会人が「それが決まり事だから」みたいな権威性によりかからないと説明出来なくなっているという倫理的理解力の荒廃がある訳ですね。そのために、「良い言葉を使うと自分の身体を校正する水が綺麗になる」みたいな直接的な利害しかせつめいできなくなっているということなのだろうと思うんです。

「自分に返ってくる」の否定はこの直接的利害に関しては意味があるのですが、間接的な社会の倫理的秩序の維持により自らが利益を受けるとする「自分に返ってくる」もまた否定しかねない問題を孕んでいる気がします。

by 技術開発者 (2010-05-25 08:29) 

pooh

> 技術開発者さん

> 倫理そのものが基本としては社会の相互利害に端を発するもの

たしかにこれはあるんですよね。
ただ(倫理そのものについて語るにはぼくはちょっと心許ない部分があるんですが)、ゲーム理論的な意味合いでの相互利害の場所にいるあいだは、それは「倫理」とはまだ違ったものなのではないか、みたいに思ったりもします。倫理、と呼ばれるものについては、なにかそこに普遍性(汎用性でもいいかも)を獲得するためのジャンプがあるような。もちろんそれは事前に設計されたものではなくて、なんと云うか、歴史的な経緯から蒸留されてきたもの、なんでしょうけど。

うむむ。このへん、勉強不足を感じます。
by pooh (2010-05-25 21:47) 

技術開発者

こんにちは、poohさん。

>ゲーム理論的な意味合いでの相互利害の場所にいるあいだは、それは「倫理」とはまだ違ったものなのではないか、みたいに思ったりもします。

別な所でも書いた「公式の利用」みたいな部分だろうと思うんです。poohさんも例えば半径の分かった円の面積が求めたく成ったときに、いちいち円の面積の公式の元になる円弧の並べ替えをして、長方形を近似的に作ったりされずに、「3.14×半径の二乗」を使われると思うんですね。それと同じで社会の秩序維持のための倫理という場合に、いちいちゲーム理論的な相互利害の解析などは使われない訳です。

なんていうか、数学の公式以上に倫理という社会の公式は「公式としての利用」が重要なんですね。つまり、「証明など忘れても公式だけは忘れず公式に従う」として貰わないと社会が成り立たない訳です。そのため、証明に立ち戻り納得する事よりも、倫理という公式に反する事を禁忌とする事を幼い内から「刷り込む」という事になるわけです。こうして、倫理というものには「相互利害に思いを致して従う」よりも「刷り込まれた禁忌感より従う」という側面が強くなります。

by 技術開発者 (2010-05-26 08:02) 

pooh

> 術開発者さん

うむむ。これって微妙な話ですよねぇ。
公式が時を経て洗練されればされるほど、それが直観的なリアリティを失っていくのはなんだか必然のようにも思えてくるし。そこは想像力で補って、と云うことにもなるんでしょうけど、そう唱えたからと云ってなにがどうなるわけでもないようにも思えますしね。
by pooh (2010-05-26 21:48) 

技術開発者

こんにちは、poohさん。

>うむむ。これって微妙な話ですよねぇ。

はい、微妙な部分です。というか、もともとに人間が不合理な部分を沢山持っている生き物であるという前提からはじまるんです。倫理というのはある水準以上に守られないと社会が成立出来なくなります。そのため、論理的な納得よりも「破ることの禁忌感の刷り込み」を優先する形で文化が発達したのです。つまり「公式の使用」が優先で、「公式の証明と納得」は後回しにしないとならなかったのです。この「公式の使用の優先」そのものが、ある意味で人間の不合理さを端的に示しているのだろうと思います。

ニセ科学批判などをしていますと、「合理性が尊重されない」からニセ科学の蔓延などが起こっているのではなく、むしろ「合理性を尊重しよう」として「刷り込み型」の倫理が軽視され、そのことにより返って不合理なニセ科学が流行るということが起こっている様にも見えるのですね。

例えば、「汚い言葉を使うな」なんて倫理にしても、もともとに社会生活を円滑に行うための一つの公式として「刷り込まれる」形のものだったのだろうと思います。そしてその正しい証明としては「自分が汚い言葉を投げつけられるのは嫌だから、自分も人にはやらない」という相互利害である訳です。でもって、現代においては刷り込み型の「公式の使用」というのが「なんとなく合理的でない」という意識があるわけです。子供たちに理由を説明せずに「とにかく使うな、それは悪いことだ」と教育するのは良くない意識があるわけです。では、正しい証明である相互利害論で子供たちを納得させられるかというと、結構教える側の力量が必要なのかもしれません。そこで、安直な水伝のような「嘘の証明で納得させようとする」が起こっているのではないかと考えています。

by 技術開発者 (2010-05-27 08:48) 

pooh

> 技術開発者さん

> 「合理性が尊重されない」からニセ科学の蔓延などが起こっているのではなく、むしろ「合理性を尊重しよう」として「刷り込み型」の倫理が軽視され、そのことにより返って不合理なニセ科学が流行るということが起こっている

この部分はどうなんでしょうね。ちょっと簡単に賛同しかねるのは、その「『刷り込み型』の倫理」と云うものをどう捉えるべきか、と云う部分で認識が違っているから、なのかもしれません。
…とか云いつつも「そうじゃなくてぼくはこう考えるんですけど」的な話もちょっと自分のなかではっきりしていない。すいません。

> 正しい証明である相互利害論で子供たちを納得させられるかというと、結構教える側の力量が必要なのかもしれません。

このことはありそうな気もします。と云うかその部分を虚偽なく、寓意なく教えようとすると、だいぶ多角的な角度での見方をまるごと呑み込ませないといけなくなっちゃうでしょうからね。
by pooh (2010-05-27 22:03) 

たくそん

教師の場合は、自ら(教師)に権威がないからこそ、「子供ウケ」に走って、その結果が「道徳授業で水伝」という傾向があるのではないでしょうか。
ところが、理科には「教科書という権威」があるので、その危険性が低い。
歯科医師は、(権威というより)金儲けの側面が強いような気がします。
by たくそん (2010-06-21 22:40) 

pooh

> たくそんさん

いらっしゃいませ。

「子供ウケ」ですか。そう云う部分があるんでしょうかね。それこそ「子供だまし」のような。

> 歯科医師は、(権威というより)金儲けの側面が強いような気がします。

ここはわからないです。そう云うひともいるでしょうけど。
ただ、歯科医師のなかに、医療の科学的な側面を多少「ゆるく」捉えているひとがいるんじゃないかな、みたいに感じることはあります。
by pooh (2010-06-21 22:57) 

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