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外部リンク追加 [よしなしごと]

サイドバーに、長崎大学学術研究成果リポジトリに掲載された、長崎大学教育学部による疑似科学とのつきあいかた 〜教師を目指す皆さんへ〜のリンクを追加(こっちはPDFファイルへ直リンク。約2MB)。

ニセ科学に関わる問題に関する文系アカデミアのコミットメントの薄さ、とりわけ(「水からの伝言」をはじめとするニセ科学言説の教育現場への導入が共有された問題意識の主要素であったにも関わらず)教育学関係者のプレゼンスの小ささについての懸念は、ぼくも何度か、何か所かで表明したことがあったと思う。
その意味でこの小冊子の発行は画期的で、意義あるものだ、と考える。
タグ:ニセ科学
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共通テーマ:日記・雑感

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kazu

 初めて投稿させて頂きます。本ページの愛読者の年寄りサラリーマンです。よろしくお願い致します。

 良い資料を紹介頂き、ありがとうございます。しかし、このような資料今になってが作られる礎は、poohさんを初めとする論者の方々によるネット上での粘り強い言論が築いていると思います。皆さんに大変頭がさがる思いです。

 人間って、未来にしか生きらないけどそれが予測できないもんだから未来をなんとか自分の思いの通りにできれば・・・と夢見るんでしょうね~。水伝とがホメオパシーとかの言ってることを見ると、図々しくも個人の未来を担保するようなことを撒き散らかしているように思えるのです。そんなこと出来るはず無いのに。だけど、科学は「あんたの未来」を担保することは決してしないと思うんですよね。だって、そんなこと分からないんですから。自己矛盾していると思うのです。

 そういう訳で、小中高学校の教師に擬似科学が入りこんでいるというのは相当まずい(長年に渡って、皆さんが主張していることですね)。このブックレットがアップされたことをとても嬉しく思っています(私も、友人達に一読を勧めます)。
by kazu (2010-04-03 19:28) 

pooh

> kazuさん

いらっしゃいませ。

編者の筆頭にあがっている長島先生は、以前よりニセ科学に対する問題意識を高くお持ちの方です。こう云うかたちでアウトプットされたことは、とても意義深いことだと思います。

> 未来をなんとか自分の思いの通りに

こんなふうに思っちゃうのは、もう人間のこころの中にビルトインされたしくみなので、ある意味どうしようもないんですよ。で、そのどうしようもないところをどう捉えるか、と云うことだと思うんです。そこに詐術を紛れ込ませる罪深さ、と云うのをどう考えるのか、みたいな部分ですよね。

親や教師が江本勝系のニセ科学言説に頼ってしまう背景についてはいくつも重要な考察があって、でもそこはぜったいに許容してはいけないラインだと思っています。その意味で、このブックレットにはおおきな意味があり、また役割があるのだと思っています。
by pooh (2010-04-04 07:33) 

 nb,mnkmnnh

表紙の問題ですが、科学的思考力というより論理的思考力なんですが…
既にダメすぎる
by nb,mnkmnnh (2010-05-07 04:08) 

pooh

> nb,mnkmnnhさん

いらっしゃいませ。

もとのテキストの文脈では、ここで問われるべきは科学的思考力であり論理的思考力だと思うので(と云うか後者は前者の基礎にあるもので、後者なしに前者は成立しえないですよね)、だからだめだ、と云う理路はぼくには理解できないです。
by pooh (2010-05-07 07:32) 

ちがやまる

何でダメなのか確かめに行っちゃいましたが、poohさん同様私も理解できませんでした。
ただ、トランプは薄いですから、「片方」「反対側」と言うより「片面」「裏側」と言う方がよかったかもしれません。
そのレベルでいうなら、最後のページの解説にある「それでは検証にならない」という表現もどうかなという感じがしました。eや2を選ぶのでは確かに検証にならない。そこにあるもので検証として役立つものをひろい上げればAと7があるよ、ということでしょうから、問題文を「仮説を確認できるカードを『すべて』選んでください」にする必要があったのではないかと思いました。
by ちがやまる (2010-05-07 10:47) 

pooh

> ちがやまるさん

そのあたりの部分は、前のエントリで内田麻理香さんの著書に触れて書いたような、対象読者層を想定したうえでの「ゆるさ」の水準の選択、と云うような話なのではないか、みたいにも思います。
by pooh (2010-05-07 23:26) 

nb,mnkmnnh

他にも違うタイプの問題がいくつもあればいいのですが、これでは論理的であること=科学的であることみたいじゃないですか?
by nb,mnkmnnh (2010-05-08 00:06) 

nb,mnkmnnh

バランスの問題です。科学的思考力を問う問題の中で、論理的思考力を問う問題が程よく含まれているのならば、妥当です。しかし、論理的思考力を問う問題だけしか出さないのであれば、「科学的思考力のテスト」と表するのではなく、「論理的思考力のテスト」と言うのが自然ではないでしょうか。なぜ、このようなことを問題視しているかと言えば、「論理的思考力は科学的思考力の一部でしかない」と既に理解している読者を想定した文章のようには見えないからです。
by nb,mnkmnnh (2010-05-08 00:18) 

pooh

> nb,mnkmnnhさん

> これでは論理的であること=科学的であることみたいじゃないですか?

この文書の文脈で、そう捉えられたからと云って大きな問題があるようにはぼくには思えません。また(一般的にそう認識されているかどうかは別として)ぼく個人は、ニセ科学の問題は科学リテラシーの問題ではなく、むしろ論理的思考力の問題だと把握していますし、その角度からのアプローチを継続的におこなっています。

> 「論理的思考力は科学的思考力の一部でしかない」

この認識そのものがあまりよく理解できません。用語の定義レベルの問題なのかもしれませんが。
by pooh (2010-05-08 05:27) 

ちがやまる

話でいえば、場をなごませて話に引き込もうという枕にあたる所ですからねえ。もとの資料もそこで「科学的思考力」とは何か、を考えたり、説明したりしようとしているわけではないように思います。

ただ、実験系のものごとの進め方考え方に慣れている人は、二分法に追い込んで結論を得ていくやり方が相当大きい部分を占めていることを実感しているのではないかという気がします。一部で「しかない」という感覚とはちょっと違うのではないかしらしらり。
by ちがやまる (2010-05-08 08:51) 

pooh

> ちがやまるさん

ちがやまるさんなんかは先刻ご承知のことなんでちょっと恐縮なんですけど、どの場所からの視点で、なにを目的に書くか、で書かれる内容と精度は変わってきてあたりまえなんですよね(だから例えばぼくとちがやまるさんではわりと日常的に意見が対立したりもしますし(^^;、それはそうであるべきものでもあって)。複数の視点からの見解を鑑みて、最終的に妥当と思われるポイントを模索する、と云う方法を否定するのでないかぎりにおいては。
どんなものも特定の視点においては「○○でしかない」ものであって、それゆえにそのものがその場での目的と照らし合わせて意義がない、と判断するのはちょっと過剰な思考とか視野の節約のように思えます。

って、この話、最近のサイエンスコミュニケーションの議論にもつながってくるような。
by pooh (2010-05-08 09:11) 

ちがやまる

よくわからないままに想像してるのですが、nb,mnkmnnhさんは論理学のほうにお詳しくて、そちらから見ると、こんな文脈で「科学的」なんて言うな、という感覚があるのかもしれません。

poohさんは、もつれてる現象に立ってみて、そこから物事がどう見えるか、というところに興味を持っておられるようだ、と私は思ってます。他にも対立(?)する要因はあるのかもしれませんが、ぎりぎり問いつめる必要なんてなくて、いずれ必要に応じてご自分から語られるのだろうと思ってます。そのためにブログを運営なさってるのでしょうし。

サイエンスコミュニケーションの方(ほう)は皆さんのお話を伺っているだけなのですが、着実な手続きが何かぬけているような危うさというか、目的がよく見えない感じというか、そういうのを感じます。お前こそ本を読まないでいい加減を言うな!と言われればそれは確かにそうなんです。
by ちがやまる (2010-05-08 14:44) 

pooh

> ちがやまるさん

> 論理学のほうにお詳しくて、そちらから見ると、こんな文脈で「科学的」なんて言うな、という感覚があるのかも

どうなんでしょう。
この場におけるかりそめのものでも、言葉の定義が共有できないと話の進めようがないような。

> もつれてる現象に立ってみて、そこから物事がどう見えるか、というところに興味を持っておられる

と云うか、ぼくは地べたからの視点に固執しているので、なにか言葉にする意義があるとすればそこだろう、と思うんですよね。
ご存知のとおり、ぼくは議論のなかで当座の結論さえ出さずに、仮説的な認識のまま話を進めていくことがけっこうあります。考え中モードと云うか。そう云うときにはいろんなかた(もちろんちがやまるさん含め)からの意義ある示唆をいただいて、ゆっくり進む。そのうち、地べたに座ったままで見晴らせる部分も見つけられたりして。
で、ぼくが見つけられれば、それは原則例えば強固な「科学リテラシー」がなくても見えるもののはずだ、って云う感覚ですかね。

> 目的がよく見えない感じ

これはあるんですよね。と云うか「どうあるべきか」と云う共有化された認識、みたいなものが。仲立ちをすべき職業なので、社会と科学アカデミアのどちらからも独立した場所に立つことが望ましいんだろう、と思うのですが、それがどこなのかが突き詰めると曖昧なのかもしれません。
by pooh (2010-05-09 06:13) 

TAKESAN

今日は。

nb,mnkmnnhさんが言っていることはよく理解(共感や賛同の意味は含まない)出来ますので、ちょっと書いてみます。

・論理的である事は科学的である事の十分条件では無い(科学である条件には他に、実験や観察等によって得られたデータによる裏付け、がある)。

・リンク先では、科学的思考力判断テストと称して4枚カード問題を紹介している。

・4枚カード問題は、問題を論理学的に正確に認識して答えを導けるかどうか、を確かめるものである。

・従って、4枚カード問題を解けても、論理的な思考が出来た事しか言えず、科学的思考の仕方がチェック出来たとは言えない。

・だからあのテストはダメダメである。

といった所でしょうか。

実際は、4枚カード問題というのは、日常的な認識の仕方に引きずられて論理的に正確な回答が出来ない場合がある事を示唆する実験の部分である訳です(その対比として。問題そのものを日常的シチュエーションと同型にすれば回答割合が高まる)。
で、科学的な思考には、日常的直感を相対化して論理的整合的に思考する事が必要です。その意味で、直感があてにならない事も含めて解らせるには良い出題と言えるでしょう。あれをテストとして出す事にさほど問題は無いでしょう。
「これが出来れば科学的な思考が充分出来(てい)る」と言っているのならともかく。

それから、科学とは、という具体的な所については本文で説明されている訳ですね。と言うよりむしろ、本文全体が、科学とはどういうものかを説明している、とも見る事が出来ます。なぜこれが疑似科学なのか、という説明は、どうしてそれが科学で無いのか、の説明をする事でもあるので。
by TAKESAN (2010-05-09 13:09) 

pooh

> TAKESANさん

あぁ、ご説明ありがとうございます。なるほど。

ぼくはぼくでひょっとすると個人的なバイアスがあって。それは論理的思考、と云うものがつねに科学的思考に先立つものであるので、最初にそれがまず必要とされる、と云う(ぼくの)理解と、基本的には理系的・文系的という範疇を離れた論理的思考で多くの場合は「まかなえる」はずではないか、と云う考え方(と云うか主張)であったりするんですよね。
科学的思考は論理的思考の各論的な(あるいは実務上の)延長線上にあるものなので、後者の手法につねに前者が先立つ以上、まずは前者を強調するのは自然なのではないか、と云うことでした。
by pooh (2010-05-09 17:41) 

Cere

> ・従って、4枚カード問題を解けても、論理的な思考が出来た事しか言えず、科学的思考の仕方がチェック出来たとは言えない。

逆に、4枚カード問題が解けなかった場合は、論理的な思考が出来なかった→科学的思考が出来なかった、が言えるんですよね。

冒頭にこの問題が置かれている意図は、この問題を間違えるような人に気付きを与えることでしょうから、「科学的思考力判断テスト」で全然構わないと思うわけです。
by Cere (2010-05-09 23:47) 

pooh

> Cereさん

ぼくなんかからすると、これは何を目的に、だれに対して、どんな順番で語るか、と云う問題のように思えるんですよね。とは云えまぁ、これはある程度感覚的な問題なのであんまりはっきりとは云えなくて、と云うあたりがサイエンスコミュニケーションの議論とつながってくるのかも、みたいな感じです。
by pooh (2010-05-10 07:29) 

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