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世界の見えかたと、視界の限界 (「虐殺器官」伊藤計劃) [ひと/本]

文庫に落ちていたので、やっと読んだ。

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

  • 作者: 伊藤計劃
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2010/02/10
  • メディア: 文庫
なんとなくぼくは、SFと云うものを「実在論にもとづく小説のジャンル」だと把握している部分がある。
小説を書くときに語りの視点をどこに置くか、と云うのは基本的で重要な技法に属する部分で、それは結局その視点の届く範囲の外にあるものについては直接には語り得ない、と云うことになるからで。
でも、語り口において語り得ないものが存在しても、それはその小説世界の中に存在しない、と云うことにはならない。具体的な「舞台」を設定している小説には、例えば原則その舞台に存在するものはすべてその小説世界の裡に存在している、と云う暗黙の前提を置くことになる。
SFの舞台は、このぼくらが暮らしている実在論的な意味での世界、そのものだ、と云うこと。なにが云いたいのかと云うと、その描かれる世界は本来、ぼくらの暮らすこの世界と同様、実際に存在する膨大なディテールの集積で成り立っている(と、読むぼくらが認識している)、と云うことだ。現実世界と同様、そのすべてを認識することができなくても、存在する、はず。

この小説を読みはじめてしばらくして、その不思議な、読みやすさ、と云うのが気になり始めた。
一人称の小説なので、主人公の認識と云うフィルターを経由した情報が、小説内の世界についてぼくらが与えられるもののすべてだ。そしてそれが整然と、混乱なく伝わってくる。それは単純に作者の技量、と云うことではなく。クラヴィスはとても素直な、明解な理解力をもって、その置かれた世界を認識し、そこにある悲惨を認識して、曖昧さのない口調で読み手にあるぼくたちに伝える。不思議なほど不純物の混じらない、クリアな情報を。

そのことそのものが、いちばん大きな仕掛けなのかもしれない、と気づいたのは、もうだいぶ読み進めてから、だった。クラヴィスの視点にあるその明晰さ、そのものが、本来は異常なのだ。
もちろんその異常さについての設定はある。ときおり差し挟まれるクラヴィスの感情的な混乱は、それが制御のくびきを離れたときの、通常の状態にあるときの彼の素直な世界認識を伝えてくる。そこにある(もしくはあるはずの)ギャップ。

ぼくたちの、いままさに暮らしているこの現実の世界に対する認識は、歪んでいる。歪みをもたらす要素はいくつもあって、ぼくたちはそれぞれが個人的な、環境的なバイアスのかけられた情報を集めて、その集合体を世界だと認識している。
世界はひとつで、いまやその世界を情報が凄まじい速度で、大量に飛び回る。ぼくたちの手にすることのできる情報はひとむかし前よりもはるかに多く、世界について知ることのできる機会も圧倒的に増えている。でも、実際にぼくたちがそれらの情報を浴びたうえで脳裏に描き出す世界のヴィジョンは、何十年か前に比較すれば格段に精緻ではあるにしても、それは世界そのもの、ではない。そこには、ぼくたち自身の限界がある。認識の限界、処理の限界、想像力の限界が。ぼくたちの認識には、クラヴィスのような外的な処理がほどこされているわけではないにもかかわらず。

虐殺器官とはなんなのか、それがどう云う原理で、どのように働くものなのか。ぼくらはこの小説を読み終えても、それを理解することはない。ジョン・ポールもそのことについては深くは語らないし、クラヴィスも綿密な理解をぼくたちに伝えてはくれない。ただ、それは用いられる。

この世界にあるものに対して、ぼくたちは現実にそのような理解のしかたで把握をし、用いることができる。自分自身に対しても、他者に対しても。最初に書いたようにそこにはそもそも限界があるし、この限界はいくらでもエクスキューズとして用いることができる。
たぶん問われるのは、そのことを自己に対して容認するのかどうか、と云う部分でもあるのだろう。
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コメント 6

mohariza

<SFの舞台は、このぼくらが暮らしている実在論的な意味での世界、そのものだ、と云うこと。その描かれる世界は本来、ぼくらの暮らすこの世界と同様、実際に存在する膨大なディテールの集積で成り立っている>との言、納得します。
私は、SF(小説)は、非現実世界を構築しているが、そのSFの世界では、現実のもので、仮想現実世界での約束事の集積と思っています。
現実世界は、現在の人間の約束事(:認識)の集積でしか無く、<認識の限界、処理の限界、想像力の限界>が横たわっている気がします。
結局、現実世界は、<実際にぼくたちがそれらの情報を浴びたうえで脳裏に描き出す世界のヴィジョンは、・・・「世界そのもの」ではない>と云う、「人間の認識の限界」から、脱し得ない世界だと思います。
だからこそ、SFで、(全てでは無いにしても、)現実世界の<限界>を超えた世界を味わうことで、「現実世界の限界」を悟れる(感じる)のだと思います。
by mohariza (2010-03-21 21:37) 

pooh

> moharizaさん

ここで重要なのは、この限界が「ぼくたちの限界」である、と云うことだと思うんですよ。世界の限界、ではなく。その意味でこの小説は(SFと云う手法によって乗り越えようとする対象がなにか、と云う意味で)ニュー・ウェイヴSFでもある、とも云えるのかも。
興味をお持ちいただけたのなら、ご一読をお勧めします。
by pooh (2010-03-22 05:30) 

mohariza

poohさんへ
今日、「虐殺器官」買ってみました。
感想は、読完後にでも・・・。

by mohariza (2010-03-23 22:15) 

pooh

> moharizaさん

あぁ、お待ちしています。
「ぼくらになにが見えているのか」についての小説だと、ぼくは感じています。
by pooh (2010-03-23 22:35) 

mohariza

「虐殺器官」を読み終えました。

虐殺の魔術師 ジョン・ポールの言葉へのぼくの印象:<言葉にとって意味がすべてではない、というより、意味などその一部にすぎない。音楽としての言葉、リズムとしての言葉、そこでやり取りされる、ぼくらには明確に意識も把握しようもない、呪いのような層の存在を語っているのだ。>(p225)が、この小説の基層と思いました。
そして、<痛みを知ることはできるが、感じることができない脳>(p321)・・・これが、この小説の底流に流れている近未来の諦観のように思いました。
作者自身が「死」を目前の現実としながら、その小説には、「死」は描かれても、「死の生臭さ」が無く、言葉の中に、「死」を客体化し、昇華した小説と思いました。
by mohariza (2010-04-06 23:36) 

pooh

> moharizaさん

あぁ、伊藤計劃自身の状況と照らし合わせる視点は、ぼくにはなかったです。

> 言葉の中に、「死」を客体化

これは物語上での、SFとしてのしかけでもあるわけじゃないですか。
で、ここはぼくらの置かれた現状、ぼくら自身がいま持っている視界と、直接に接続するようなことがらなんじゃないかな、と思ったりしたわけですね。
by pooh (2010-04-07 07:29) 

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