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「薬」と「毒」 [よしなしごと]

病理医のPseuDoctorさんがこちらのエントリに寄せてくださったコメントが非常に示唆に富むと感じたので、ご本人の承諾を得て独立したエントリとして立てさせていただく(ニセ科学蔓延に対する対策、と云う部分についての考察は割愛させていただいて)。
「薬は毒を薄めたもの」と云う言い回しはポピュラーに使われるけれど、それはこう云うことなのであって。

では本題です。

語源的な部分はちょっと不勉強ですが、歴史的に見てもおそらく「毒」という概念が先にあって、そこから「薬」が分化してきたものと推測されます。逆に言いますと、この場合の「毒」は「薬」を含んでいますから「心身に影響を及ぼすものの総称」とでも言える概念なのですね。
医療の黎明期から残されている伝説を見ますと、東洋でも西洋でも、自らを実験台として薬を発見した聖人ないし半神の話が出てきます。他の多くの伝説と同様に、この話にもいくばくかの真実が含まれていると考えられますので、人類は試行錯誤の末に「毒」の中から「薬」を選り分けていったと解釈するのが自然でしょう。
言わば薬とは「自然を(部分的に)飼い馴らすのに成功した例」という言い方も出来ます。人間の都合で分けているという点からすれば、まさしく私も「腐敗と発酵」との類似を考えていたところです。

以上より、成り立ちからして「全ての薬は毒である」と言える訳ですが、薬理学的に見てもその通りなのです。薬が心身に何らかの作用を及ぼすものである以上、その作用が強くなり過ぎる事は好ましくありません。多くの薬の作用は投与量に依存しますので、一般的に「使い方を間違えると有害な結果を引き起こす」と言えます。
一方で、アレルギー反応の様に量に依存し難いものもありますが、いずれにしても「副作用の無い薬は無い」「有害事象を全く生じない薬は無い」と言い切って良いと思います。
この事は日常的な概念からでもある程度は類推出来ます。人体とは想像を絶する複雑さと精妙さを持った構造ですから、そこに変化を加える以上、意図しない効果が生じる危険性が常に存在するのは当たり前です。例えるなら、高度にチューニングされたエンジンでも楽器でも良いですが、そこに何らかの操作を加える場合「一方的にやればやるほど良くなる操作」などというものがあるのでしょうか。ネジ一本にしても最適な締め加減というものがあって、締めれば締めるほど(あるいは、緩めれば緩めるほど)性能が上がる、などと言う事は無い筈です。増してや、人体の場合は推して知るべし、です。

以上をまとめると、以下の様になります。
狭義の毒 + 薬 = 広義の毒
ここで「狭義の毒」とは害しかもたらさないもの、「薬」とは益と害の両方をもたらすものです。従って「広義の毒」とは「何らかの影響を及ぼすもの」となる訳です。
注意すべきは「益のみをもたらすものは無い」という点です。「有害無益」はあっても「有益無害」は有り得ないのです。

しかしながら、こういう考え方はどうも受けが悪い様です。どうしても人は「ウマい話」を求めてしまうのですね。曰く「副作用が皆無の理想的な治療法」「元手なしで安全確実に大儲け」「○○する『だけ』でみるみる改善」「あなただけに教えます」・・・
これらは全て「都合の良い話」を求める心理につけ込んだものです。ですから「ウマい話など存在しない」と言い続けるのも大事なのですが、どうもそれだけでは充分ではない。何故なら「本当はあるのに隠してるんだろう」と思われたら終りだからです。
その場合には、理屈だけでなく感性にも訴えていく必要がある。例えば、肥後守は切れ味が鈍いけれども怪我もし難いとか、電気カミソリは深剃り出来ないけど顔も切らないとかの、納得し易い経験から類推してもらうのです。
但し、この方法は切れ味の良い刃物を使い、かつ、それで怪我をした経験が無い相手に対しては、効果が薄いでしょう。その意味で、進歩した現代社会に住む我々は「痛い目を見る」機会が少な過ぎるのかもしれません。

タグ:医療
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黒猫亭

>poohさん

>>「薬は毒を薄めたもの」と云う言い回しはポピュラーに使われるけれど、それはこう云うことなのであって。

そうですね、薬の効能が量に依存するものである以上、すべての薬は「希釈した毒」であると謂うことになります。ですから、半数致死量以上に摂取された薬はすでに「毒」として扱われるべき、と謂うことになりますよね。それで有害な症状が出なかった場合でも、「毒が効かなかった」と謂うことであって、薬としてどうこうと謂う話ではないんだと思います。

ですから、「毒物を希釈すれば有益な効能が得られる」、さらに一歩踏み込んで「すべての毒物は希釈することで薬にすることが出来る」と謂う発想自体は、十分な理論の蓄積がなく検証手段もなかった自然科学の黎明期には、演繹的な推論として必ず現れるのが当然だと謂う言い方も出来るわけで、自然科学が進歩する為には必ず一度潰しておかねばならない(つまり、確認したら間違っていたとチェックしておく必要がある)理論的可能性の一つだったと謂う言い方も出来るわけですね。

まあこれは、某特定問題についていつも論じられている基本的意見ではありますが。
by 黒猫亭 (2010-03-20 11:05) 

pooh

> 黒猫亭さん

> 十分な理論の蓄積がなく検証手段もなかった自然科学の黎明期には、演繹的な推論として必ず現れるのが当然

なんかまさに「途中」って感じですよね。不徹底、と云うか。
それでもそこには中間点的な意義があった、と云う議論については、地下猫さんのこのエントリがあります。
http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20090525/1243196897

> 必ず一度潰しておかねばならない

いっけん物騒な書きようにも見えますけど、この「きっちり潰す」と云うのがまさに科学の手順、と云うことですもんね。と云うか、その意味ではすでに潰されているはずではあるんですが。
by pooh (2010-03-21 05:24) 

mimon

本筋からは、外れますが、
> 肥後守は切れ味が鈍いけれども怪我もし難いとか、
ですけれども、少なくとも、私の使っている肥後守は、よく切れます。
一応、「定駒」ですし、しっかり研ぎあげていますから。
私の考えでは、切れ味のいい刃物ほど、怪我をしにくいと思っています。
彫刻をする場合などをイメージしていただければわかりやすいのですが、切れの悪い刃物では、無駄に力を入れなければいけなくて、手元が狂ったときにその力を制御しにくいのです。力を入れなくてもサクサク切れる刃物ですと、手が滑っても、そこで止められますから、怪我をする可能性が低いと思います。

同じ病気を治す薬に同じような効能のものが複数ありますが、やはり、その切れ味には違いがあって、やさしく効いてじんわり治す物や、作用も副作用も強いものなどがあります。その辺をお医者さんは、上手に使い分けているわけですね。
私が患者になった場合の好みで言うと、後者の方が好きです。というか、経験的に、私の体質は、薬が効きにくいみたいで、「ちょっと強めの薬だけれど、・・・」と処方されたので、ちょうど良いくらいだったりします。

後半は、このエントリーのテーマに無理やりこじつけただけですから、あまり気にしなくてもかまいません。
by mimon (2010-03-21 17:12) 

pooh

> mimonさん

定駒はぼくも持ってます(入手困難なものではないので自慢にはならないか)。利器材なので本来は切れるんですよね、ってトリビアはともかくとして。
道具としては使い手、と云う要素は外せないような。

> その辺をお医者さんは、上手に使い分けている

もちろん完全に標準化できているわけでもないでしょうから、そこにはまだ医師と患者の相性、って云うものが生じる余地が残っている、と云うことでもあるんでしょうけどね。
by pooh (2010-03-22 05:26) 

技術開発者

こんにちは、poohさん。

>その意味で、進歩した現代社会に住む我々は「痛い目を見る」機会が少な過ぎるのかもしれません。

なんていうか、人類は充分に「痛い目」を見ていて、その痛い目の回避策として「文化」を作ってきてはいるのだろうと思うんですね。問題は、その文化が経験とのつながりを忘れられる事によって、軽んじられてしまうと言うことなんだろうと思います。

前に、「原始人の冬越しのたとえ話」なんて書いたけど、食い物と薪を節約しながら冬越しをしている原始人の群れで、いつかしら「今年は春が早く来る」という話がひろまり、つい蓄えの消費を早めて尽きる頃に春先の寒波に襲われる、なんてね。そんな経験から、「いい加減な話を言い広めてはいけない」という文化が生まれてきたんじゃないかなんてね。

なんていうか、文化の中の規範というものを考えていると、我々はそういう規範を失いつつある様な気がして仕方ないんですね。

by 技術開発者 (2010-03-23 08:23) 

pooh

> 技術開発者さん

じつはPseuDoctorさんのお書きになったこのあたりの部分についてあまりはっきりしたことを書かなかったのは、おっしゃるような「既存の積み重ね」があるからで。手短に云うと、「ホモ・サピエンスになってから数えても数十万年、ぼくらは充分に痛い目を見てきているし、死体もたくさん積み上がってるはずなのになぁ」と云う感じがあるんですよね。
それを規範と呼び、規範意識の希薄化が要因にある、と認識することについてはかならずしも同意するものではないんですけど、喉元過ぎれば熱さ忘れる、みたいな感じでいちいち「痛い目の再発見」をしなければいけないはずはないんですよね。個人的な感覚としてリアリティがなくても(その部分は本来想像力で補うべき部分なんだろうと思うんですが)じっさいに接することのできるかたちで積み重ねは存在するわけですから。
by pooh (2010-03-23 22:03) 

PseuDoctor

こんばんは。

>mimonさん
>少なくとも、私の使っている肥後守は、よく切れます。
これは失礼しました。私が抱いている肥後守のイメージは、街の文房具屋で売っている安いものです。切れ味の良いものを触った事が無いので、認識不足と言われればその通りです。

>切れ味のいい刃物ほど、怪我をしにくい
こちらも、私の文が舌足らずでしたね。私としては
怪我の被害 = 怪我をする確率 × 怪我をした場合の重傷度
で評価しようとしたつもりです。ただ、怪我をする確率というのは技倆にも影響されますから、一定以上の技術レベルの扱い手であれば仰る事はご尤もだと思いますが、それを全体に敷衍するのには躊躇いもあります。
一方で、重傷度は切れ味と有意に相関するでしょう。

以上の点を踏まえて当該部分を書き直せば、以下の様になります。
(訂正前)「肥後守は切れ味が鈍いけれども怪我もし難い」
(訂正後)「安い肥後守は切れ味が鈍いけれども怪我をした時に重傷になり難い」
ちょっと文がくどいですが、こんなところで御容赦ください。

>技術開発者さん、Poohさん
仰る様な論点に関しても意識していたつもりではあるのですが、ちょっと書ききれませんでした。敢えて言うのなら「経験に学ぶ」というところに、個人だけではなく社会全体という意味も込めたつもりでした。社会全体が経験に学んだ(それには「歴史に学ぶ」という側面もあろうかと思いますが)その結果として「文化」がある、と。
そういう「社会全体の経験知」をうまく個人に落とし込めないでいるのが大きな問題なのでしょうね。
by PseuDoctor (2010-03-26 00:04) 

mimon

PseuDoctorさん、

いや、私は、よく切れる肥後守を使っている事を自慢したかっただけですので、それほど真面目にご対応いただくと、逆に恐縮してしまいます。
自慢ついでに、我が家の一番下の子が使っている肥後守も「定駒」でして、小学校入学当初から使わせています。そんな贅沢をさせるにいたった経緯は、少々ややこしいので割愛します。
その子に買い与えて、まもなく、その肥後守で怪我をした事があります。物を切ろうとして怪我したわけではなく、使い終わって、折りたたもうとしたときに刃の方を触ってしまったのです。
以来、当分(2年くらいだったかな)、折りたたみ禁止措置が採られまして、ボール紙で作った鞘にしまわせていました。

このエントリーのテーマから、どんどん外れていくのを無理やり戻しますと、副作用の強い薬でも、適切に投薬を管理していれば、直接の事故につながることは少ないが、「不慮の事故」の発生は、強い薬の方が発生しやすいといったところでしょうか。
いえ、単なるこじつけですから、お気になさらないでください。
by mimon (2010-03-26 01:25) 

pooh

> PseuDoctorさん

肥後守は切れる、と云う意味では高性能で、コストパフォーマンスの高い刃物です。まぁ「切れる」こと自体は、刃物に要求される性能の一部でしかない、とも云えるんですが。

> 仰る様な論点

ここは、ぼくと技術開発者さんでストレートな合意がなかなかでない部分です。ぼくの社会、と云うものに対する認識と云うか理解が浅い、と云うのもあるようには思いますが。

> 「社会全体の経験知」をうまく個人に落とし込めない

いろいろなことがここに集約されるのかな、みたいにも感じています。
経験知そのものへの理解でなくても、そこからの自分自身の距離、みたいなものの認識さえ共有できれば、問題は大きく後退するはずだ、みたいにも感じるんですけどね。
by pooh (2010-03-26 07:44) 

pooh

> mimonさん

いやまぁ肥後守もぴんきり、定駒もぴんきり(切れ味面ではなく)ではあるんですけどね。

> 適切に投薬を管理

ここに、投薬する立場にいるものの責任が発生するわけですよね。で、その責任の源泉をどこに求めるか、と云う話でもあるかと思います。
by pooh (2010-03-26 07:47) 

技術開発者

こんにちは、皆さん。

>> 「社会全体の経験知」をうまく個人に落とし込めない
>いろいろなことがここに集約されるのかな、みたいにも感じています。

なんていうかな、人類は最初の経験の時しか「落とし込めていない」んじゃないかなんて考えて居るんですよね。後は惰性でなんとか「社会の経験知」を使っているだけ、みたいな、少し寂しい考え方ですかね。

なんていうか、公式の証明と利用みたいな話もするけど、証明が失われても公式だけ生き残っていれば、とりあえず欲しい計算結果はでるみたいな感じで使ってきたんじゃないかなと思ったりします。



by 技術開発者 (2010-03-26 15:44) 

pooh

> 技術開発者さん

> 証明が失われても公式だけ生き残っていれば、とりあえず欲しい計算結果はでる

こう云う云い方もどうかと自分で思いますが、そのあたりでなんと云うか「知性の空洞化」みたいなのが生じてるような気もしてきます。
もちろんすべてを知ることなんて、できないわけではありますけれど。
by pooh (2010-03-26 22:27) 

うさぎ林檎

こんばんは

>力を入れなくてもサクサク切れる刃物ですと、手が滑っても、そこで止められますから、怪我をする可能性が低いと思います。

あー、最近手に入れた簡易式の包丁研ぎの案配が良くてですね。新玉ねぎと一緒にサクサク~と人差し指の第一関節辺りをちょびっと削ぎ落としてしまいました。傷口を見て痛いよりも吃驚しました。切り傷と違って肉が上がってくるまで時間が掛かってまた吃驚と謂うより大変でしたよ。
と、ヨタ話はさておき。

>ここで「狭義の毒」とは害しかもたらさないもの、「薬」とは益と害の両方をもたらすものです。従って「広義の毒」とは「何らかの影響を及ぼすもの」となる訳です。

ホメは何処に入るんでしょう?
利用者の心の充足は”益”にカウントするべきなんでしょうか。すみません、後段でPseuDoctorさんが仰有っている事は踏まえて、今更ながら子供じみた質問をします。

私は茶色いモジャモジャと生活を共にしています。その関係で見つけた犬種特定の本(いわゆる)ペット本に1/4程のページを割いて”バッチフラワーレメディ”の説明と利用法が載っているのを見ました。また、ベネッセの”いぬのきもち”で難病(変成性脊髄症)のペットをケアしている飼い主さんの記事を読みました。

ここから→
かかりつけの病院では、自家血段階療法を併用した「ホモトキシコロジー」という自然療法を始めました。(略)動けないイライラや不安感を和らげるために「ホメオパシー」療法も取り入れ、鍼灸も開始。後ろ足の反応がよくなるのを実感しています。
←ここまで
注:「ホモトキシコロジー」は現代のホメオパシーだそうです。

正直謂って、軽くへこんでいます。哀しすぎて(久しぶりに覗いたBlogの方の自信に溢れた、余りにも軽率なホメオパシーへの記事を読んでしまったせいもあるかもしれません)。
by うさぎ林檎 (2010-03-26 22:51) 

pooh

> うさぎ林檎さん

刃物の削ぎ傷って、痛みがくるまで一瞬の間があったりしますよね。

> ホメは何処に入るんでしょう?

薬でも毒でもなくて呪術ですってば。なので原理は全く別です。
医療類似行為の範疇には入るので、その方向からは同様に比較できますが、レメディは薬品ではないので、薬(毒)の理路からは論じられません。
ホメオパスのみなさんもおっしゃってることではありますけどね。
by pooh (2010-03-27 06:06) 

技術開発者

こんにちは、 pooh さん。

>こう云う云い方もどうかと自分で思いますが、そのあたりでなんと云うか「知性の空洞化」みたいなのが生じてるような気もしてきます。

なんていうか、「証明の忘れられた公式」ってのは或る意味で怖いんですね。なんていうか、例えば3.14という定数の意味を誰もが忘れていると、「あれは、実は4なんだよ」という嘘を言われても、誰もわからないからね。人類はそういう失敗もしてきたとは思うのね。そういう意味で「証明に立ち返れ」という経験的な公式も存在するのね。

>もちろんすべてを知ることなんて、できないわけではありますけれど。

問題はこの部分と「証明に立ち返れ」というやはり経験的な公式とのバランスの問題なんです。

なんていうかな、例えば戦前に「非国民」の言葉が一人歩きして、反戦的な考え方を庶民レベルで弾圧したなんてのは、「反社会的な事は庶民レベルでも抑止する」といった経験的公式に「非国民」みたいな誤った定数を紛れ込ませた経験で、そこから「話の是非をきちんと考えようよ、むやみに抑止するのは止めようよ」という、「証明に立ち返れ」に近い概念が生まれるよね。でも、そうすると今度は「いい加減な事を言いふらすのは良くないから皆で無視したり嫌ったりして止めさせようよ」という抑止システムも弱ってしまって、社会全体でヨタ話に振り回される様になってきている。

by 技術開発者 (2010-03-30 11:36) 

pooh

> 技術開発者さん

> 問題はこの部分と「証明に立ち返れ」というやはり経験的な公式とのバランス

同意します。
精神論的なニュアンスではなく、基本的にこれは姿勢の問題、と云う気がします。社会は専門家の集団で成り立っていて、いろんなことを互いに委嘱しあいながら社会が廻っている。そのことで、社会に効率そのものは総体としては大きく向上してきました。ただしくみの効率化と裏腹に、委嘱していると云う部分への意識、委嘱することそのものの意義、と云うものに対する意識や理解は薄れていっているのかもしれません。
単純に社会意識が全体として立ち戻るべきだ、と云う話ではなく。ケースに応じて、おっしゃるような「証明に立ち返る」ことの意義を思い出す、と云う意識が共有されれば、だいぶ状況も変わってくるのかな、とも思います。
by pooh (2010-03-30 21:50) 

うさぎ林檎

こんにちは。

やっぱり駄目ですか、kikulogで呟いてみたプラセボ効果の二の舞みたいでしたね。でも何と言うか、私は今在る制約の中で使えるものはないのかと考えているんです。
TVでは大手飲料会社やフィルム会社等が、繰り返し様々なサプリメントの宣伝をしていますよね。隅っこに小っちゃく”個人の感想です”と出しておけば、「治った、効いた、良くなった」を連呼しても良いんでしょうか。こんな倫理観がまかり通る世の中で、どうしたら騙される人を減らす事が出来るのでしょうか。

いや、いつもお菓子やパンの材料を買うネットショップに”これからマクロビの材料も紹介していきます”とか書かれていて、またもへこんでます。大体、お菓子やパンの材料が主力の店なんですよ、砂糖は勿論乳製品もてんこ盛りに扱っている店でマクロビて………orz

ロハスメディカル 2010年3月30日
「薬害肝炎検討会終わる 最終回に「薬害」の定義で百家争鳴」
http://lohasmedical.jp/news/2010/03/30193236.php
>国、総合機構、地方自治体や医師、薬剤師、歯科医師等の医療関係者の薬害再発防止のための責務等を明確にすることは不可欠であり、薬事法に明記する

この記述のために最後の最後でもめたそうです。
のっけで「薬害の定義に関しては放ったらかしたまま2年やってきてしまったが、薬事法に薬害を書き込むというのなら」なんて発言があったりして、薬害と謂う言葉はあっても、薬害の条文に薬害の定義って無かったんですね。
by うさぎ林檎 (2010-03-31 11:08) 

pooh

> うさぎ林檎さん

ご存知かと思うんですが、ぼくはホメオパシーのメソッドで提供しうるカウンセリング的な部分については、どちらかと云えば容認する考え方なんですよ。ここはたぶんNATROM先生の主張に影響を受けている部分です。ホメオパシーに対して批判的になるのはそれが通常の医療が施される可能性を下げる側面、通常の医療の価値を毀損する側面に対して、です。ここでPseuDoctorさんからいただいた示唆を適用してホメオパシーを批判するのなら、薬と云うものが本質的に毒である、と云う点を根拠にホメオパシー支持者がレメディの優位性を主張している場合とか、ぼくの場合はそう云う場合になります。

> こんな倫理観がまかり通る世の中で、どうしたら騙される人を減らす事が出来るのでしょうか。

どこかのブログのコメント欄なんかを読んでいると、どうやらこれは「だまされること」の定義から始めて、それがなぜわるいのか、と云うことを論じてからでないと、問題視してはいけないことのようです(そこは捨象しても、本来議論はできることがらだと思うんですが)。理解できなくもないんですけど、少なくとも文脈の整理は必要なようですね。

> 薬害と謂う言葉はあっても、薬害の条文に薬害の定義って無かった

いずれにせよ条文に書かれると云うことは責任を問うにあたっての明解な根拠とされる、と云うことですから、どちらにしても再度の議論・再度の定義は必要な状況だったのではないかと思います。
by pooh (2010-03-31 21:15) 

技術開発者

こんにちは、 pooh さん。

>ぼくはホメオパシーのメソッドで提供しうるカウンセリング的な部分については、どちらかと云えば容認する考え方なんですよ。ここはたぶんNATROM先生の主張に影響を受けている部分です。ホメオパシーに対して批判的になるのはそれが通常の医療が施される可能性を下げる側面、通常の医療の価値を毀損する側面に対して、です。

さきほど人と雑談をしていまして、金融機関における本人確認の話になりましてね。そういう法律ができているという話をしましたら、「何でだ」と言われ、マネーロンダリングなんかの防止を目的にできたことなんかを説明した訳ですね。書くのなら、少し調べて分かり易い例えとかを作って説明出来るのだけど、なにせ会話でやるとなかなかうまくは説明出来ない。それでもとりあえずは、「悪いことをする奴が居て、それを防ごうとすることで、多くのまともな者も面倒なことをしなくてはならなくなる」くらいのところに話はおちついた訳です。

なんていうかな、こういう話で私は2つの側面を考えてしまうんですね。
一つは、うさぎ林檎さんが言われるような「今在る制約の中で使えるものはないのか」というのは、もっと真剣に考えて欲しいということ、もう一つは「それでも防げないときは面倒をがまんしても防がなくてはならない」という事です。

両方とも感じるんですね。今の法でも少しがんばれば防げるかもしれないのに「法律に不備がある」と直ぐにドンピシャに防ぐ法律を求めてしまう風潮もまた感じるんです。法は一律のものだから、「あなたはまじめだから良いよ」とはならなくて、まじめな部分にも面倒なしわ寄せはくるという意識なしに法を求めて欲しくないのね。

ただ逆に今の法でがんばっても防げなかったらまじめな部分にくる面倒なしわ寄せは我慢してもらわなくてはならないのね。

by 技術開発者 (2010-04-01 13:59) 

pooh

> 技術開発者さん

うむむむ。難しい。まとはずれかもしれませんが。

まずは、ある意味経済学的な意味合いでの効率と云うか合理性の部分。なんでもストリクトな法律に基づいて白黒つける、みたいな社会って(その法律を準備する、と云うステップだけでも)非常に高コストですよね。

あと(もう何年も繰り返してますけど)紋切型の発想にある問題点、ですよね。ことさらにものごとをわかりやすく、手っ取り早く捉えようとするスタンスが、結局のところ社会のほうにコストを押し付ける考え方につながってくる、みたいな。
by pooh (2010-04-01 21:28) 

うさぎ林檎

おはようございます。

>>ぼくはホメオパシーのメソッドで提供しうるカウンセリング的な部分については、どちらかと云えば容認する考え方なんですよ。

kikulogでも紹介したNZに住んでいる日本人の方のBlogなんですが。
http://clubmonaka.blog9.fc2.com/blog-entry-1072.html
http://clubmonaka.blog9.fc2.com/blog-entry-1115.html

これが成立している社会なら大丈夫かもしれませんね。ただしメソッドの施療者は少なくとも通常医療を学んだ人にだけ許可して貰いたい。それでも事件が起きるのを防ぐコトは不可能だと思いますが、そこはリスクとベネフィットの兼ね合いだと思うしかないんでしょうね。でもホメオパスの資格しか持っていない人が行う事は、私には絶対に認められません。

>>ただ逆に今の法でがんばっても防げなかったらまじめな部分にくる面倒なしわ寄せは我慢してもらわなくてはならないのね。

コンピュータソフトがこれですね。不正コピーが防げないから、その分を価格に上乗せする理由にする。その上、ちゃんとお金を払って買ったのに「キミ、本当にお金払ったのぉ?」と謂わんばかりに疑われ、七面倒くさい登録作業をしなきゃいけません(最近は少し楽になりましたが)。
正規ユーザが不正利用者のツケを払わされています。腹立たしくはありますが、そこもコストとして我慢せざるを得ない。
by うさぎ林檎 (2010-04-02 09:43) 

pooh

> うさぎ林檎さん

> メソッドの施療者は少なくとも通常医療を学んだ人にだけ許可して貰いたい。

望ましいのは、そう云う形態だと思います。そして、施療者は通常医療をほどこした場合とおなじ基準に準拠して責任を負う。メソッドではなくて、運用の部分になるかとも思いますが。
ただ、現在ホメオパシーの名称で展開されているビジネスは、たぶんそれでは成立しないんですよね。日本ホメオパシー医学会に所属するお医者さんたちは、どこからレメディを仕入れてるんだろう。

> 腹立たしくはありますが、そこもコストとして我慢せざるを得ない。

総体としてのコストを最適化する、と云うのが、たぶん本来の社会の機能で。なんとなくこの部分、囚人のジレンマめいた構造が存在しているように思います。
by pooh (2010-04-02 21:56) 

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