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日差しとまなざし (「ぼくのキャノン」池上 永一) [ひと/本]

池永永一が読みたくなって、読んだ。

ぼくのキャノン (文春文庫)

ぼくのキャノン (文春文庫)

  • 作者: 池上 永一
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2006/12
  • メディア: 文庫
いやべつにファンじゃなくて、読んだことがあるのはバガージマヌパナス―わが島のはなしだけだったんだけどね。

カバーの紹介文に、「マジックリアリズムの傑作」と書いてある。
マジックリアリズムと云う用語がどんな意味を持つのか、じつはぼくにはちゃんと把握できたことがない。ただ、ぼくはこの用語でカテゴライズされる小説を好む、ようだ。そしてそこに、共通する読中の感覚があるのも感じている。

すべての輪郭をはっきりと示し、くっきりとした影をつくる、フラットでつよい日差しに照らし出された視界。そこには日なたも暗がりも、快楽も苦痛も愛も憎悪もあるけれど、それはそれとして明晰に認識できて、知覚を混乱させるような薄暮はない。そんな世界。その小説のなかで描写される世界の、ある意味地理的な条件が関与しているようにも思えるけれど、もちろんそんなことに確証はない。
ただ、一度だけ訪れた沖縄で、ぼくはそんな視界を得たような記憶を持つ。特別なものではなくて、ほかの土地でも夏場にはありふれた、ハレーションに満ちた光景、には違いないのだけれど。

書き割り的とも云える、明解な人物造形と、荒唐無稽と形容するひとも多いだろうと思える物語の展開。そして、舞台としてのちょっと不思議な村。それが、所与のものとして設定されていれば、この物語にはファンタスィと云う呼称がふさわしい、と云うことになるのだろう。
違うのは、舞台となる村を(つまりは物語世界を)つくりだした3人の老人の存在。

彼らは歴史に巻き込まれ、その流れのなかで自分たちの意志にもとづいて、村を創造した。そのやり方と、現出した世界としての村は、たしかにどこか魔術的な誇張とほころびをはらむ。でも逆に、そこにはぼくたち自身の日々の営為のなかに、おなじような意味合いを、性格を持つものがちいさなスケールで存在しているのではないか、と思わせる現実世界との紐帯、あえて使えば「リアリティ」がある。
存在するものは存在し、意味を持つものは現にその意味を持つ、と云った、ある意味身も蓋もないニュアンスで。

戦争の残滓、旧日本軍の置き土産としてのカノン砲が、村の守り神として神格化される。そこに至った歴史的な経緯は(なかば以上その歴史をつくりあげた)3人の老人の胸の裡には現に存在しているけれど、主人公である3人のこどもたちに共有できるのは、いま現在そのカノン砲が村にとって果たしている役割と、いまここにおける意味だけ。
それを、伝わっていない、と捉えることもできるだろうし、変容はあっても充分に受け継がれている、と把握することもできるだろう。どちらが望ましい、みたいに簡単に判断できることがらではないし、現実のぼくたちの世界では後者しか望めない場合も多い。
そして、それを多として受容するのも、まぁいちがいに後ろ向きな姿勢と云うわけでもないのかもしれないなぁ、みたいに、ちょっと感じた。
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