「特別な言葉」 [世間]
江本勝氏近辺の言説に触れていてどうしても気になっていた部分があって、それをHitomi-MaZendaさんの言霊の国 ・ 日本 ♪と云うエントリを読んで思い出した。
まぁこの辺はだいたい江本氏の主張を肯定的に受け止めるかたに一般的に見られる(と云うか判で押したように異口同音に表明する)内容で。「ポエムでファンタジー」と本人が云っている「水の結晶実験」の結果を事実であると受け止めたうえで、「かたちの整ったものは美しいものである」と云う美意識を一般化し、そのまま「美しいものは善きものである」と云う方向に敷衍してなんらかの言説の根拠に用いよう、と云う発想は、それこそ紋切型としておなじみのものではあるのだけれど。
で、よく見られるパターンでは、お水様にありがとうと云うと美人になれるとか癒されるとか現金がざんざか儲かるとかそう云う個人的な現世利益に結びつくのだ、と云う方向に展開するわけだけれども、これが「日本まじすげぇ」みたいな方面に誘導される場合がある。
あと例えば「感謝」って言葉なんか、
このへんの角度から江本氏の「波動」言説を読むとどんなものが読み取れるのか、みたいなことについてはちょっとこちらでも触れたけれど。例えば江本氏と近接している船井幸雄氏を軸にして、その人脈につらなるひとたちがどのような主張をしているか、と云うことを考え合わせると、「水からの伝言」系の言説がどのような方向にその受容者を誘導しうるか、どんな利用方法があるのか、と云うことについて、ちょっと危機感めいたものが生じてくるのだった。
水を入れたボトルに「ありがとう」という文字を貼っておくと、その(フォント指定系のタグを除去して整形しています。以下の引用部分も同様)
水は美しい結晶になるのに、「ばかやろう」「ムカつく」などの汚い
マイナスの言葉を書いて貼っておくと、結晶が跡形もなく消えて、
見るも無残になります。
これを見た人は、「人間の体の6割は水でできているんだから、プラス
の言葉、美しい言葉を話そう」と誰もが感じると思います。
まぁこの辺はだいたい江本氏の主張を肯定的に受け止めるかたに一般的に見られる(と云うか判で押したように異口同音に表明する)内容で。「ポエムでファンタジー」と本人が云っている「水の結晶実験」の結果を事実であると受け止めたうえで、「かたちの整ったものは美しいものである」と云う美意識を一般化し、そのまま「美しいものは善きものである」と云う方向に敷衍してなんらかの言説の根拠に用いよう、と云う発想は、それこそ紋切型としておなじみのものではあるのだけれど。
で、よく見られるパターンでは、お水様にありがとうと云うと美人になれるとか癒されるとか現金がざんざか儲かるとかそう云う個人的な現世利益に結びつくのだ、と云う方向に展開するわけだけれども、これが「日本まじすげぇ」みたいな方面に誘導される場合がある。
もちろんわたしもそれを感じましたが、でも実は、わたしにとってそれ江本氏が写真集に掲載する「水の結晶」の写真が江本氏のセレクトにもとづくものである以上(これは本人がそう表明している)、
以上の驚きというか、不思議なことがありました。
江本先生の別の写真集に、「ありがとう」という意味の各国の言葉
(日本語・英語・ドイツ語・フランス語・イタリア語・韓国語)を
貼った時の結晶が出ていたのですが…
どう見ても、日本語の「ありがとう」の結晶が最も美しいんですよ♪
日本語の「ありがとう」の結晶が
最も美しいと云うことは、つまりHitomi-MaZendaさんのような感受性をお持ちのかたにとって
最も美しいと感じられるようなものを
日本語の「ありがとう」の結晶として選んでいる、と云うことなのだけれど、その演出の意図は那辺にあるのか。
わたしの仮説ですが…
おそらく、日本語の言霊のエネルギーが、他の言語に比べてものすごく
大きいのではないか。
言霊のエネルギーと云うものがどんなものなのかよくわからないけれど、比喩として捉えれば、現世利益に結びつく力、と云うあたりになるのではないか、と思う。「愛」とか「感謝」とか「ありがとう」に込められた気持ちがめぐりめぐって幸運と利益に結びつく、と云うロジックならどこの言葉で伝えても同じはずで(と云うかどこの言葉で伝えても問題とされるのはそこに込められた気持ち、と云うことになるはずで)、ここであえて日本語の優位を読者が意識するよう誘導する真意はどこにあるのだろう。
地球上のほとんどの民族は、その歴史の中で、他民族の支配を受けるべつに言葉の音韻が変化するのは他民族による支配だけが理由じゃないし、
ことで母国語が奪われたり、母国語の音(おん)が自然に変化したり
して、神代の時代とは違う音を発声していますよね。
でも日本は、その特異な地理的環境や歴史の恩恵で、奇跡的に神代の
時代と同じ音を語り継いできました。
神代の時代と云うのがいつごろのことを指すのかわからないけれど、ここ2千年程度のスケールで考えてもそうとう日本語の音韻は変化していると思うけどな。あと、もともと同じ音の同じ言葉が示していた意味も変化してるよね、みたいなことは以前こちらのおちゃらけエントリで書いたけど。
あと例えば「感謝」って言葉なんか、
神代の時代までさかのぼるような把握をすれば、日本語じゃなくて中国語じゃないの? とかも思ったり(と云うか日頃意識してないけど、そう云う意味合いで云えばぼくらの使っている日本語は相当部分がじつは中国語)。
おそらく、ある民族の文化って、国そのもの(土地)がなくなったとここの部分もなにを伝えたい文章なのかいまひとつ判然としない、と云うか、まじめに読解するとけっこう危ない主張になってしまっているように思えるので避ける。
しても滅びない、もし文化が滅びるとしたら、それは母国語を失った
時だと思います(イスラエル建国で国を失ったユダヤ人が、今でも
世界経済を牛耳って いるのがその証拠だと思います)。
だから、日本語というエナルギーの高い言霊を受け取った私たち日本人のでてきた結論はなんかノーブレス・オブリージュ、って感じなんだけれど。この
責任は、ものすごく大きいと思うし、皆さんに言霊のことをもっともっと
考えてほしいです。
日本人の責任と云う言葉が、だれに対するどのような責任、と云う意味で使われているのか(そして具体的にはどのような行動を惹起するものとして解釈されうるのか、この種の民族意識が歴史上どんな行動に結びついてきたのか)、と云うのを考えるとなんとなく怖くなってくる。
このへんの角度から江本氏の「波動」言説を読むとどんなものが読み取れるのか、みたいなことについてはちょっとこちらでも触れたけれど。例えば江本氏と近接している船井幸雄氏を軸にして、その人脈につらなるひとたちがどのような主張をしているか、と云うことを考え合わせると、「水からの伝言」系の言説がどのような方向にその受容者を誘導しうるか、どんな利用方法があるのか、と云うことについて、ちょっと危機感めいたものが生じてくるのだった。
>>ここ2千年程度のスケールで考えてもそうとう日本語の音韻は変化していると思うけどな。
神代の頃の日本語なんて、多分現代人が聞いてもまったく通じないと思いますよ。昔「ジパング」と謂うかなりアレな映画がありましたが、本編中にちょこっとだけ古代日本語が出てきまして、古文の語法から類推すると意味は何となくわかりますが音がかなり違いました。
二〇〇〇年どころかここ数十年くらいで視ても、たとえば「図画用紙」なんてオレの親くらいの世代だと「ずぐゎようし」って発音していましたから、随分変わっています。多少の訛りはあっても、日本全国何処に行っても大体同じ発音になるのは、ラジオやTVの普及以降の話ですね。
だいたいこの方は、何処の言葉を以て「日本語」と見做しておられるんでしょうか。標準語なんてのはここ一〇〇年くらいで人工的に決めた言葉ですから、それ以前は地方によってかなり語彙や音が違っていて、殆ど意味が通じないから標準語が出来たわけで、その辺の混乱を扱った井上ひさしの「國語元年」なんてドラマもありました。
by 黒猫亭 (2009-10-09 04:59)
> 黒猫亭さん
「ジパング」は実は好きな映画です(うがった意味ではなく)。
あの映画のユキオヤマトの台詞って、前半は聞き取りではほとんど理解できないんですよね。後半では使われている語彙が変化するので、だいぶわかるようになりますが。
神代の昔、なんて大仰なスケールで見なくても、言語と云うのが変化するものだ、と云うのは感覚的につかめるもので。でもそれを「ないこと」にしないと、江本氏の言説は成立しない。
逆に云うと、そう云う常識レベルのことがらを思考の埒外に追いやってしまえるひとたちに向けられたものである、と云うこともできる。理由がなんであれ、そう云うひとたちが一定数いるのは狭い観測範囲からも明白です。その意味からは、けしてこのかたが特別なわけではない。
「水からの伝言」系の言説の(経済的収益、と云う面からだけではない)単体でのビジネスモデル、と云うのはどうも不明瞭な部分があります。ひょっとするとこれは船井幸雄人脈と云う「マーケットを共有するひとたち」全体のなかでなんらかの位置づけと役割があるのではないか、と云う、まぁちょっと陰謀論めいた仮説でもあったり。
by pooh (2009-10-09 07:44)
こんにちは、皆さん。
>でも日本は、その特異な地理的環境や歴史の恩恵で、奇跡的に神代の
>時代と同じ音を語り継いできました。
酷いデマゴーグですね。私は古代音を残した地域の隣接地で育ちましたので、その気になるとかなり古代音で話せますが、私が古代音で話したら、多くの人が意味が取れないと思います。
代表的なのは、古代音では「H」音はありません。全て「PH」か「F」音です。「母には二度会いたれども父には一度も会わず」なんて平安時代のなぞなぞがありますが、答えは「上下のくちびる」なんですね、「PHAPHA」と発音すると上下の唇は2度くっつきますが「TITI」あるいは「CHICHI」と発音しても唇はくっきませんからね。私の故郷の隣接地域では「おふぃさまがふぃがしからぷぃかぷぃかふぃかりながらのぼる」という訳です(笑)。
余談ですが、その地域に中国から漢字が伝わり「海」という漢字は「 HAI」だと教わったわけですが、HAが発音出来無いわけです。そこでHAと同じように唇をタテにおおきくあける発音である「KA」を使って「KAI」と発音した訳ですね。漢字の音読みで「K」音で始まっているものの半分くらいが、中国語や韓国語では「H」音ではじまる読みなんですね「漢(HAN)」とか「汗(HAN)」とか「夏(HSA)」とかね(笑)。
ついで言うと「綺麗に整った物が美しい」という考え方は「わびさび」の否定でもあり、日本の文化を軽蔑している人だろうと思います。茶道具の焼き物などでは、わざと形をゆがめたり(魯山人などはこの形を崩す名人だと思います)、あるいは、炉のなかで自然に歪んだ姿を珍重したりするわけです。もともと室町の「綺麗に整った作法」の中で「心のふれあい」がないがしろにされることに対する抵抗から茶の湯が起こった訳です。粗末な方丈の茶室を亭主は精一杯に掃除し、その茶室に相応しい「形の崩れた」花生けに野の花を飾り、「形が崩れたり欠けた部分もある粗末な茶碗」一つで客を迎え入れ、その一つの茶碗で互いに茶を喫する事で、「もてなす亭主」と「もてなされる客」の間の作法による壁を取り払い、「心の交流」を楽しむのが茶であり、日本の優れた文化である訳です。「形の整っていないものは醜い」というのは、その日本の文化を軽蔑する西洋かぶれの馬鹿者の言うことであると言えます。
by 技術開発者 (2009-10-09 08:18)
>poohさん
>>「ジパング」は実は好きな映画です(うがった意味ではなく)。
ああ、勇気があるなぁ(笑)。オレも実は林海象の作品の中では唯一嫌いではない作品なんですが、林海象に対する嫌悪感がそれ以上に強いのであんまりそう言いたくないと謂う事情がありまして。
>>あの映画のユキオヤマトの台詞って、前半は聞き取りではほとんど理解できないんですよね。
あ、ユキオ・ヤマトは服部半蔵役なので、「ふぉお〜っ!」とか謂う合図の雄叫び以外に意味あるセリフは一言も喋りません。おそらくそれは古代人の男を演じた修健のことだと思いますが、この人は北京出身の中国人なので、古代語なら中国訛りの片言でも誤魔化せるだろうと謂うことで古代人役にキャストされたんだと思います。
なので、修健の古代語は訛り隠しのアヤシゲなものですが、平幹二郎が演じるスサノオがミイラ状態から復活する際に、長々と古代語でジパングの来歴を語るところがありますよね、あそこの古代語は考証や監修も附いているでしょうし、舞台俳優が演じているわけですから或る程度リアルなんじゃないでしょうか。
手許に映像も資料もないのでうろ覚えなんですが、たとえば「ジパングと知りぬべし」と謂うのが「ぢぷゎくとつぃりんぬべすぃ」みたいな感じの発音ではなかったかと記憶しております。技術開発者さんが指摘しておられるように、H音は随分後代になって出てきた音ですから、ハ行の音は全部ファフィフフェフォとプァプィププェプォのどちらか或いは中間くらいの発音だったように思います。
本筋の論点に触れるなら、言葉が力を持つと謂う思想は、やはり容易に「どの言葉が優れているのか」と謂う論点にスライドしますし、それはまた容易に民族主義的な思想にスライドしていきますよね。そうすると、現時点での言葉に力があるのだと謂う「事実」に基づくなら必然的に歴史の歪曲に繋がるわけで、これは民族主義的な思想一般によくあるダイナミズムだと思います。
これと似たようなロジックにマクロビオティックなんかもあるわけですし、もっと謂えば素朴な天皇崇拝なんかも、高々明治期になってからでっち上げられた近代天皇制のシステムが神代の昔から連綿と続いていると謂うような歴史の歪曲を行うわけです。
われわれが今目にしている近代天皇制の「伝統」なんてのは、近代になってから尤もらしく創作されたわけですから、一〇〇年ちょっとくらいの歴史しかないわけですが、天皇制自体は一応二〇〇〇年ちょっと続いているわけで、二〇〇〇年もの長い歴史的時間の中ではいろいろな変遷があったわけですが、その辺がまるっと近代天皇制に重ね合わせられて「神代の昔から」みたいな話になる。
まあ、アリガチと謂えばアリガチな話ではあるのですが、この種の民族主義的なダイナミズムが、歴史の歪曲の原因なのか結果なのかは視ていく必要があるでしょうね。
by 黒猫亭 (2009-10-09 16:58)
> 技術開発者さん
上で黒猫亭さんとお話ししている当該映画の登場人物は、古代日本(に似たパラレルワールド)から来た、と云う設定なんですね。映画冒頭では語彙も発音も古代日本語なので、映画のほかの登場人物(徳川家康もでてくる映画なので、だいたい時代設定はそのあたり)と言葉が通じない、と云う描写があります。ただこれ、黒猫亭さんのご指摘にあるようにもともと日本語がおぼつかない役者さんだった、と云うこともあるようです(知らなかった。ただ、台詞は現代日本語ではない書かれ方をしています)。
古代語の発音についてはおっしゃるような話が有名ですね。あと、接続につかう「を」や「へ」が表記どおり発音されていた時代もある、と云う話も頻繁に聴きます。
沖縄県の方言では、母音の発音が本土と違うケースがけっこうありますよね。これも昔の日本語の特徴が残っている、と云う説がよく云われているようです。
> 漢字の音読みで「K」音で始まっているものの半分くらいが、中国語や韓国語では「H」音ではじまる読みなんですね
あぁ、これは面白いなぁ。ありそうです。
本文にも書きましたが、ぼくらが日常話し言葉や書き言葉で使っている語彙って、ほんとうに昔にさかのぼって考えれば、もともと日本語じゃないものが大量にあるんですよね。音読みの語彙は基本的にみんなそう。
> 「綺麗に整った物が美しい」という考え方は「わびさび」の否定
これはやや微妙かな、とも思うんですよ。美術の評価にはある程度共有された文脈があり、またそれを受け止める個々人の感受性にもそれが涵養された経緯や文脈があるものなので。ぼく自身、意識して美術に触れるようになったころあいにシュルレアリスムやエコール・ド・パリやラファエル前派を入口にしてしまったので、一般に共有されている文脈に対する理解はそれなりにあると思っていますが、個人としてマジョリティに属する感受性を持っているとは云えないと思っていますし。
室町時代の「わび・さび」もそれまでの美意識の文脈を踏まえて登場したわけで(閉塞感の打破とか多少のアイロニーみたいな意味合いもあったんでしょうが)、その感受性を共有できない個人がいるのはそんなに不思議でもないと思います。そう云うひとは美術に触れてもあんまり面白くないかもなぁ(とりあえずぼくはそう云うひとと美術について会話したくないなぁ)、みたいには思いますが。
by pooh (2009-10-09 21:38)
> 黒猫亭さん
> ああ、勇気があるなぁ(笑)。
あの小象のはりぼてを何人ものオペレータを使って必死に動かす、と云う部分に象徴されるような、スケールの大きなくだらなさに満ちているあたりが好きです。
役者については完全に勘違いしてました。ご教示ありがとうございます。
> 「ジパングと知りぬべし」と謂うのが「ぢぷゎくとつぃりんぬべすぃ」みたいな感じの発音
そうでしたそうでした。だれだかわからないような特殊メイクで。
> 言葉が力を持つと謂う思想は、やはり容易に「どの言葉が優れているのか」と謂う論点にスライドしますし、それはまた容易に民族主義的な思想にスライドしていきますよね。
そうです。そこが怖い。
どう云う意図なんだか、そう云う方面に読み手をリードしていこうとするような気配が見受けられるのが不気味なんです。
> その辺がまるっと近代天皇制に重ね合わせられて「神代の昔から」みたいな話になる。
よしあしは別として、例えばこの種の詐術と云うべきものは、明治維新のときにも大規模に用いられたわけですよね。
> この種の民族主義的なダイナミズムが、歴史の歪曲の原因なのか結果なのかは視ていく必要があるでしょうね。
そしてまた、いまこの時点でもそのダイナミズムのなかにぼくたちは暮らしているわけですからね。
by pooh (2009-10-09 21:39)
技術開発者さん
>「形の整っていないものは醜い」というのは、その日本の文化を軽蔑する西洋かぶれの馬鹿者の言うことであると言えます。
主題からずれますけど、西洋かぶれとは、西洋も誤解しているわけですね。西洋にもマニエリスムとかバロックとか普通にあるわけですし。
私の子供の頃はどちらかといえば、「形を整えるな」と教育されたような。「写真みたいな絵はダメ。もっと、形にはまらずに、自由に」と、型にはまった自由のないことばかり言われてうんざりしていました。
by zorori (2009-10-09 21:43)
> zororiさん
あ、ぼくもそう云う教育を受けました。
ぼくは指の動きの精度の段階から絵心がないので、なにを云われてもおんなじでしたけれど。
by pooh (2009-10-09 21:50)
poohさん、
>沖縄県の方言では、母音の発音が本土と違うケースがけっこうありますよね。
いわゆる具志堅用高の「チョッチュネー」ですね。「アシテビチ」は「アシティビティ」
沖縄に居た時に、カラオケで沖縄民謡に挑戦したら、「違う、違う」と発音指導を受けました。
by zorori (2009-10-09 21:54)
> zororiさん
そうですそうです。
あと「こころ」が「くくる」になるとか、「米」が「くみ」になるとか。
# このへんあんまり詳しくないので、いいかげんなことを書いていると某しまんちゅの言語学者さんに怒られそうな気もしますけど。
by pooh (2009-10-09 22:05)
>zororiさん
随分前に話したことですが、ウチの猫の名前の「まやぐゎー」と謂うのは沖縄語(方言と独立言語の両見解があるので、沖縄弁でも沖縄語でも好いらしいです)で「猫ちゃん」を意味する一般名詞から採っているんですが、ネイティブが口にしているのを一度も聞いたことがないので、正確に発音出来ません(笑)。
沖縄民謡に「まやぐゎー節」と謂うのがあるそうですが、これも大して有名な曲でもないので一度も聞いたことがありません。そう謂う次第で、実はオレは自分の猫の名前を正確に発音出来ないのです。まあこれも一つの呪術ですが(笑)。
>poohさん
>>その感受性を共有できない個人がいるのはそんなに不思議でもないと思います。
落語に時々出てくる用法で謂うと、一般に「茶人」と謂えば「変わり者」を指す意味のようですね。たとえば普通誰も鼻も引っかけないような不細工な女を褒めると、「おまえ、茶人やな」と謂う具合に使うわけです。そう謂う意味では、やはり茶道文化の文脈の外から視た場合、侘び・寂びの美意識と謂うのは相当天の邪鬼なものに見えていたと謂うことだと思います。
>>あと「こころ」が「くくる」になるとか、「米」が「くみ」になるとか。
沖縄語が母音から変わると謂えば、一番驚いたのは「サーターアンダーギー」が「砂糖油揚げ」から来ていると謂うことでした。「サーター」が「砂糖」で「アギー」が「揚げ」だと謂うのはまだわかるんですが、「アンダ」が「あぶら」だと謂うのは子音まで変わっているわけですからちょっと意外でした。何となくわからなくもないんですが。
by 黒猫亭 (2009-10-09 22:59)
今週の危機感:「我々人類が創設した『インチキハドウ防衛団』の言霊エネルギーは、まだまだだ。」「しかし、懐疑の思考を取り入れたならば、『インチキハドウ宇宙同盟団』に対抗できるはずだ。」
というわけで、CMソングの、「転職できない」電車くん編(三幸興業)の替え歌を、作りました。
「僕は、喋るよ。理論、信じて。支持を、叫ぶよ。異説、擁護さ。」「ハドウ論、語りまーす。」
「でも…。」「検証、できない。検証、できない。検証、できない。」「言われた通りに、ずっと喋るだけ。」
『懐疑主義なら検証できるよ』
・・・・・・・・・・・・・
もう一つ、作りました。CMソングの、「転職できない」パワーロボ編の、替え歌です。
「感謝の言葉で、善を呼ぶ。祈りが実る、それがハドウだ。」「僕らが信者!」「ハドウ論!」
「語れ!ハドウ体験!」「でも…。」「検証できない、検証できない、検証できない。」「ずっと、おあつらえ!続ける!」
『懐疑主義なら検証できるよ』
・・・・・・・・・・・・・
インチキな波動の影響で失なった我々人類のプラスエネルギーも、この替え歌の言霊で再び装填なのだ。
by TAKA (2009-10-09 23:18)
> 黒猫亭さん
摩耶嬢の名前はそんな由来があったんですか。お釈迦さまのかあちゃんじゃなかったんですね。
潮流としての美的感覚って、先鋭化と揺り戻しの繰り返しだと思うんですよ(まぁ、いろんなものがそうですけど)。ただその先鋭化の過程で画期的なコンセプトと云うのは生まれてくるもので、例えば利休の提示したものはそのひとつだと思うし、なので長い命脈を保っていろんな発展の基礎になる、と云うことにもなったんだろうと思います。
サーターアンダギーについては、この一連の発音のどこかに音便化された助詞が埋もれてるように思えてしょうがないんですが、正直わかりません(^^;。
by pooh (2009-10-09 23:19)
> TAKAさん
とりあえずいんちきな波動は、発言する前にちょっと考えてみるために必要なエネルギーを奪ってしまうようですね。
by pooh (2009-10-09 23:25)
こんばんは。
すみません、半ば無理やりに違う話題を振ります。
ちょっと違う角度から思考実験をしてみました。
それは、一切「言葉」を使わずに子育て出来るだろうか、というものです。
これ、考えてみると、そんなに無茶な事とも思えないんですよね。
しかる時は怖い顔をしたり大きな音を立てたりすればいいし、褒める時は満面の笑顔で抱きしめれば良い。勿論そんな事をすれば言葉を使えない子供に育つだろうし、知能の発達と言う点では大いに問題がありそうですけれど、少なくとも情緒面での発達は順調に行けそうです。
つまり、充分に「愛」「感謝」「思いやり」といったものを備えた人間になれそうに感じます。
そこに言霊の入る余地など無くても構わない、というお話でした。
もう一つ「言霊の呪術的機能」との絡みで思い付いたのは「名付けの力」との関連です。古来「そのものの真の名を呼ぶ事によって支配力を得る」という思想は、洋の東西を問わずあちこちで見受けられますが、これは言霊思想の類似型である様にも思えます。
そこにあるのは「名前が本質を現わす」という考え方です。それだけ「名付け」が重要だという事であり、その事をを全く違う表現で言うなら「レッテル貼りが全て」という言い方も出来ます。
何が言いたいかというと「様々な事象や概念に対し、ある程度自分が納得出来る名称を付与する事さえ出来れば、そこで殆ど思考停止してしまう」様な思考形態(Poohさんの仰る「紋切型思考」も、これに近いものがある様に感じます)には、言霊思想を強く持っていればいる程、陥り易いのではないか、という事です。
そう考えると「水伝」と「ニセ科学」とは、実はとても親和性が高いのかもしれない。
見かけよりも複雑な問題であるが故に、決して「ニセ科学」への取っ掛かりとしては適切とは言い難いのが「水伝」ですけれども、この問題にアプローチし続ける事で「ニセ科学を信じてしまう心性」への理解が深まる様な気もしているのです。
by PseuDoctor (2009-10-09 23:28)
> PseuDoctorさん
> 一切「言葉」を使わずに子育て出来るだろうか
感覚的には同意なんですけど、これ、わからないです。
ただ、賢く育てた犬は4歳児くらいの知能とわきまえは持てるようですしね。
> 名付けの力
名前をつける、と云うことの機能は、思考の経路のなかでそもそもおっしゃるような意味合いを持っているものだと思います。ショートカットをつくってより思考を経済的にする、みたいな。
ときおりその機能に対する感覚的な理解が逆転して、言霊思想のようなものが生じるんでしょうね。
> この問題にアプローチし続ける事で「ニセ科学を信じてしまう心性」への理解が深まる
このあたりいちがいに同意はできない(と云うかわからない)部分はあるんですが、まちがいなく云えると思うのは、包含されている要素が非常に多岐にわたるので、検討の素材としては重要なんだろうな、と云うことです。人文系・社会系の要素がこれだけ多いので、ぼくなんかの場所からも思考の対象にすべき部分がどっさり出てきますし。
by pooh (2009-10-10 05:23)
古代の音韻という話だと、橋本進吉のものが青空文庫で読めますね。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000061/card510.html
あと、「ジパング」って昔観ましたけど、やっぱりイマイチな感じだったような記憶が……。
by a-gemini (2009-10-10 09:05)
「言霊」なんてことを本気で言う人が江本謀の言説を支持するのはむなべるかななのですが、なんというか、科学リテラシということが少し前の貴ブログでも話題になっていましたが、この人、あまりにも歴史リテラシがなさすぎます。
>おそらく、ある民族の文化って、国そのもの(土地)がな>くなったとしても滅びない、もし文化が滅びるとしたら、>それは母国語を失った時だと思います(イスラエル建国で>国を失ったユダヤ人が、今でも世界経済を牛耳って いる>のがその証拠だと思います)。
おいおい、イスラエル建国で国を失ったのは、ユダヤ人でなく、パレスチナ人だろう。
上の文書はあまりにもむちゃくちゃすぎますが、仮にユダヤ人は国を失っても言葉は失わなかったから二千年後にイスラエルを建国できたのだという意味に解釈しても、ユダヤ人のアイデンティティを保ってきたのは言語ではなくユダヤ教という宗教です。ヘブライ語はイスラエル建国後に人工的に復活させられてのであって、それまでのユダヤ人は住んでいる国の言語をしゃべっていたのです。
by Johanness-Chrysostomos (2009-10-10 10:18)
> a-geminiさん
ありがとうございます。
これは面白い。講演録なので、ぼくみたいな素人にもとっつきやすい。
ちなみに世間一般での「ジパング」の評価は知っております。
ぼくがここでめったに映画評みたいなのを書かないのは、自分に映画に対する充分な鑑識眼がないのを自覚してるからです(^^;。
by pooh (2009-10-10 11:32)
> Johanness-Chrysostomosさん
いまの口語ヘブライ語がなかば人工言語みたいなものだ、と云うことを知っていれば、そもそもこの文脈でユダヤ人を持ち出すこと自体がおかしい、と云うことに気付くはずなんですよね。
トンデモは互いに親和する、みたいな現象がときおり語られますが(ぼくを含めその部分についてはそれほど突っ込んだ考察はされてきてないんですけど)、共通するのはこう云う「事実と照らし合わせた場合の言説の精度の低さ」なんですよね。
by pooh (2009-10-10 11:37)