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スピリチュアリティと科学(の、とるべき距離) [世間]

彩木めいさんのサラスワティの祭日と云うエントリを読んだ。

少し前のエントリで文化相対主義みたいなものにちょっと言及して、それから少し、バリ島の文化と云うものについて考えていた。いや、何度も書いているけれどぼくは日本国内で入手可能なCDを中心にした家庭内バリ音楽愛好家で、バリの社会や文化そのものにそれほど造詣が深いわけじゃないのだけれど。
ただ、1931年にパリで開かれた万国博覧会でグヌン・サリが演奏したことがフランス(を含むヨーロッパ)とバリそれぞれの文化にどんな意味を持ったか、と云うことについては、永渕康之さんのバリ島をはじめとする数冊の書籍などによって、すこしは理解している。この出来事は、異文化との接触が共同体の文化と経済にどんな変化を生むのか、についての(一般的ではないにせよ)重要なサンプルだと思う。
このことと、共同体の似姿としての(ある意味演奏者個々に対してきわめて抑圧的な)バリ音楽の構造とを併せてエントリを書こうと思ったんだけれど、まだまとまっていない。もう少ししたら書くかもしれない。

彩木めいさんはバリ舞踏とスピリチュアリティ探求をお仕事にされているようだ。
私は最近ピアノを習いはじめたのですが、譜面の読み方を学ぶうちに、リズムと数学がいかに緊密につながっているか、理解することができました。感性の趣くまま自在に生み出されたように聞こえる音楽が、実は数学の論理性に支えられている、言い方を変えると、自己の芸術的な感性が捉えたものを表現するために、論理的な数学が必要とされているのです。
数学、と捉えてしまうと少し狭くなるようにも思うけれど(ピアノは西洋音楽的な発想に基づく楽器性能探求の究極、とも云える楽器だから、そこまで抽象化が可能な部分もあるのかも)、表現、と云う行為がその過程においてとてもロジカルなものである、と云う点には同意できる。と云うかこの点については現役の画家であるcorvoさんにここのコメント欄で何度も示唆をいただいているし、こちらで書いたようなことにも関連してくる、と思う。と云うかそもそも、バリ芸能における音楽そのものが、演奏者間で共有化された演奏のロジックが存在しないと演奏そのものができないような構造を持つものだし。
一方科学の分野を覗いてみると、さまざまな新しい発見や進歩が、アーティスティックな感性によって引き起こされたものであると、認めることができます。
このことも、あるんだろうな、と思う。

ただ、忘れてはいけないのは。
それが過程においてアーティスティックな感性によって引き起こされた発見や進歩であっても、そこで生まれたものがひとのうちにある感性から切り離されないかぎり、それは科学ではない。なんらかの有効なメソッドとして機能することもない。

このあたりは地下に眠るMさんの論考にある示唆をお借りして、こちらで触れた。万人にとって異物であり他者であるために、科学は重要な思考のメソッドとして意味を持つ。特定の美意識・特定の道徳・特定の感性がその結論に反映された「科学」は科学ではなく、したがって「科学としての」意義は持ち得ない。
例えば、肯定的・否定的な言葉や音楽が水の分子にいかなる影響を与えるか、という研究で世界的に知られる江本勝氏。一昔前なら「科学的ではない」と一笑されかねなかった発見が、現代ではもっとも大切な発見の一つとして注目されています。
少なくともアカデミシャンからは、もっとも大切な発見の一つとして注目されたりはしていない(こんなふうな言説の流布が放置されている点については、むしろ一般の科学者の注目度が足りないくらいだ)。それは過程と結論において、江本氏の主張があきらかに科学ではないから。人格改造セミナー的自己啓発や陰謀論をお仕事にしているひとたちによる注目度はずいぶん高いようではあるけれど。
「論理で計りきれない、物質で証明することの不可能な神聖な叡智」を「科学的に実証する」アプローチが進んでいます。
科学的に実証することができたら、その時点でその神聖な叡智はにせものだ、と思うのだけれど、どうだろうか(これはこちらで書いたようなことでもある)。このことは、スピリチュアリティに携わるものが、まず前提として認識しておくべきことのように思えるのだけれど。
いちばん大事な部分は、どこなのか。

彩木めいさんが主催されているワークショップの内容がどのようなものか、は存じ上げないのだけれど。
真実を見出すメソッドとしてのスピリチュアリティ、と云うものの価値に疑念を呈するつもりはなくて。でも(こちらで阿部敏郎さんのエントリに言及して書いたように)そこで「水からの伝言」のようなニセ科学に裏打ちを求めることは、その営為そのものの価値を貶めることになる、と思う。以前田口ランディの小説をねたに書いたような「消費財としてのスピリチュアル」として捉えられないためにも、そのあたりは注意深くあったほうがいいんじゃないかなぁ(よけいなお世話ですが)。

そう云えばこの本が積ん読だった。読まなきゃなぁ。

魔女ランダ考―演劇的知とはなにか (岩波現代文庫)

魔女ランダ考―演劇的知とはなにか (岩波現代文庫)

  • 作者: 中村 雄二郎
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2001/12
  • メディア: 文庫
物質の構造に影響するからことばづらだけでもとりつくろいましょう、と云うような善悪観のもとでは、チャロナランが成立しなくなってランダが困ってしまうと思うんだけど、どうだろう。
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コメント 2

技術開発者

こんにちは、Poohさん。

>さまざまな新しい発見や進歩が、アーティスティックな感性によって引き起こされたものであると、認めることができます。

卑小な話だけど、ここ数年、ある今まで誰もできなかった分析をできるようにする開発に取り組んできたんですね。でもって、今はなかなか研究費が貰えなくてね。数年前に「3年以内にできるようにする」と大見得を切って研究費を獲得したんですね。その時に手元にあった研究成果というのは、とても大見得が切れる様なものではなくて、失敗の連続記録でしてね。内実がよく分かっている人が「もしできなかったらどうするつもりだ」なんていうから、「俺が屋上から飛べば済むんじゃないか」と真顔で言ったのね。まあ、ジョークではあるけど、半分は本気ね。そのくらい「入れ込んでいた」開発ネタではあったわけです(単に私が入れ込んでいただけで、産業の端の方を多少良くする程度の開発だよ:笑)。

まあ、飛ばずに済んでいることから分かるみたいに、その2年後にはなんとか基本の方法は開発したんだけどね。この前、その頃の話になって、「どうして、そこまで『できる』と確信が持てたんだ」と言われて、困ってしまってね。「根拠の無い確信を精神医学で妄想という。単に妄想だよ。ただ俺が心中してもかまわない気になる妄想だったんだな」なんてね(笑)。

まあ、或る意味で私も内部に相当アーティスティックな部分を持つ事は否定しないけどね。ただ、その妄想と心中するくらいの意識でアーティスティックにならない奴の妄想なんぞ相手にする気にはならない訳です。

なんていうか、開発にのめり込むとき、私は自分の中に「狂気」を感じますよ、たぶんだけど、corvoさんが絵を描くときにも何らかの「狂気」は感じて居るんじゃないかと思うんですね。その狂気と或る意味で真剣勝負をして、その狂気を押さえたり解き放ったりして何か形有るものにするというのは、生半可な事では無いと思うんですね。その凄味を無視して語って欲しくない部分では有りますね。

by 技術開発者 (2009-08-05 17:03) 

pooh

> 技術開発者さん

以前、corvoさんとお話ししていたときに思ったことなんですが。
アーティスティックな部分と云うか、クリエイティブな部分と云うのは、それを発揮する個人のなかではものすごくロジカルな処理がなされているんじゃないか、みたいに思うんですよ。ただ、それは個人の内側だけで完結してしまうし、その個人の内側でもけして意識的にロジックをたどる、と云う処理がなされるわけではないので、結果ブラックボックス化しちゃう、みたいな。
このあたり、暗黙知とか形式知とか云う概念のもとに整理された知見があるんだろうとは思うんですが、ただそれはいちがいに、例えば科学と云う手法によって完全に共有化可能なものでもないのかな、みたいな。
ちなみによくできたオカルトと云うのは、このあたりへの(科学とはことなった体系による)アプローチが可能なものなんじゃないか、とか個人的には思ったり。

> その狂気を押さえたり解き放ったりして何か形有るものにするというのは、生半可な事では無いと思うんですね。

ぼくも「つくる」仕事に従事しているので、感覚的にいくらかわかる部分もある気がしています。研鑽と追求なしにセレンディピティは発現しない、みたいな話とつながるのかも。
by pooh (2009-08-05 21:34) 

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