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選びえぬとき [よしなしごと]

どらねこさんの一連のマクロビオティック関連のエントリがいったん結びとなったようで、マクロビ関連エントリまとめと云うエントリでまとめられている。最終的にQ&Aと云うかたちで集約された講習会でこんな話し聞いてきたのだけど(前編)(後編)の2つのエントリは労作だと思う。少し前に言及したOSATOさんによる「水からの伝言」の読み解きしかり、こう云うていねいなテクストをアクセス可能にしてもらえるのはほんとうにありがたい。

うちから街の中心部までのあいだに、ヴェジタリアンフードやマクロビオティックを標榜する食べ物屋さんがふたつほどある。どちらも入店したことはないのだけれど、そう云うお店があること自体はいいことなんだろうな、と思っている(片方はおいしそうなので、いちど食事をしてみたいと思ったりもする。もう片方はストリクトなマクロビオティックを実践しているようなので、休日の食事にはどうかなぁ、とか思ったりするけど)。そういうものが食べたいときに、ぼくたちはそう云うものを選ぶことができる、と云うことなので(蕎麦屋のざるや、おにぎり屋の唐揚げ定食や、中華料理屋の坦坦麺のかわりに)。

で、ぼくがこう云うことを云えるのは、「選ぶことができる」から。食べたいものが食べられるし、食べたくないものは食べなくてもいいから。美食に走るのも、健康に配慮するのも自由だから(いや、財布の中身とかつれあいの選ぶ献立とかもあるので、いっさい自由と云うわけではないですが)。

2年ほど前に書いたエントリで、ぼくはマクロビオティックを実践する家庭で育った方のエントリに触れた。ひさしぶりに、この自分のエントリからりほさんのブログをのぞいてみる。
最近は更新のペースもすこしゆっくりにされているようだけど、ここには「選べない」状況でマクロビオティックの実践者となったこどもがどんなふうに育ったか、の一例が示されている(このようなテキストを書くことができるりほさんの克己心と、視点のバランスを維持しようとする努力には改めて敬服する)。

りほさんは、選ぶことができなかった。将来の葛藤を避けるすべを、こどものころのりほさんは持っていなかった。
そして、そのことをりほさんに強いたひとたちには、悪意などかけらもなかった。そこにあったのはりほさんへの思いやりと、善意。
このことを、どう捉えるか。

りほさんが選ぶことができなかったのは、こどもだったから。
でも、選ぶことのできない状況は、いくつも考えることができる。想像することができる。

実際には、ぼくの貧弱な想像力は届いていないのかもしれないけれど。それでも、知っている。
いくら感謝をささげようと、飲用になる水が手に入らない状況にあるひとがいることを。
「自然な出産」では健康に生まれてこないこどもがいることを。
予防接種を拒んだひとから、感染症をうつされるひとがいることを。

「ニセ科学を信じるのは自由だし、そこに余人がなにか云うべきではない」と云うような言説にときおり触れる。いまも。
その言説を、もっともだと感じる部分はある。でも、それに同意できない理由も、またあったりするのだ。
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YJS

こんにちは。

poohさん:
> 「ニセ科学を信じるのは自由だし、そこに余人がなにか
> 云うべきではない」と云うような言説にときおり触れる。

最後の部分だけに反応した形になるのですが。
アラバマ大学で倫理学の教鞭をとっていた(2003年に亡くなっている)ジェームズ・レイチェルズ教授の著書「現実を見つめる道徳哲学」の第2章に「文化的相対主義の挑戦」というのがあり、そこでちょうどpoohさんの問題意識に近い(ピッタリな?)領域を取り扱っているように思います。
もしよろしければ読んでみて下さい。

で、私の力量では適切な要約など到底できないのですが、取り上げられている例のひとつを紹介します。
それは、現在もなお西アフリカの一部で実施されている、「女子割礼」というおそろしく婉曲的な表現の風習です。私はどんな施術かを調べて震え上がってしまいました!
私の感覚からすると、精一杯控えめに言っても「おそろしく野蛮な風習」です。
その地方に住む人は、1)この地方における伝統的な風習だ、2)だから放っておいてくれ、とまぁそんな主張だとします。

文化的相対主義を受け入れる人は「彼ら・彼女らがその風習の価値を信じるのは自由だ、我々が何か言うべきではない。」と言うかもしれません。

レイチェルズ教授は、この章(第2章)において文化的相対主義をいくつもの角度から精密に分析して、結論としては文化的相対主義は殆どダメ、良い点はふたつだけ、そして女子割礼については傍から(外から?)「野蛮だから止せ」と言って良いし、言うべきだ、と結論づけています。

ダメだとされる多くの根拠のうちのひとつは、道徳的進歩という概念が疑わしくなってしまう、ということです。
社会的に認められ普及している制度はそれだけで良いことになってしまう、そんなことないだろう、奴隷制度だってかつては社会的に正当化され普及していたが、それらを無くそうとしたのは正しかったし、その努力と成果は誇るべきものだ、と。

良いとされている(たった)二つの点は、自分たちの側の好みがある絶対的な合理的基準に基づくと仮定することの危険性を警告してくれること、寛容で開かれた心を持ち続けることの重要性を示してくれること、です。

私自身は、この本をとても重宝していて、文化的相対主義に限らずフェミニズムや宗教などを考えたい人は読んでみると良いと思います。

by YJS (2009-07-30 00:09) 

pooh

> YJSさん

エントリの主題は、最後の部分にあるわけです。

> そこでちょうどpoohさんの問題意識に近い(ピッタリな?)領域を取り扱っているように思います。
> もしよろしければ読んでみて下さい。

あぁ、機会をつくりたいと思います。図書館にあるかな(図書館に行けるかな)。

ごめんなさい。ちょっと雑なことを書きます。ぼく自身にも定まった考えがあるわけではない部分になります。
(ご存知かとは思いますが)ぼくは文化相対主義的傾向を強く持った人間なんですよ。そう云う部分もあって、おっしゃる理路はそのまま呑み込むのが難しい。

ある特定の文化そのものは、そもそもは合理的な根拠に発端していると考えます(その合理性が、呪術的合理性であっても)。あくまで特定の時点での、その社会の心性における合理性、ですが。なので一概に棄却されるべきものだとはじつは思わない。
ただ、ある慣習の運用が、未来永劫に合理的である、と云うこともまたなくて。そのときの社会の状況において、捨て去られるべき慣習、と云うのもあるんだろうな、と思っています。その意味で、すべての慣習が文化相対主義の名の下に守られるべき、とも思わない。
道徳的進歩、と云う考え方も、その意味では取り扱い注意かな、みたいに思います(もちろん否定するわけではないです)。

女子割礼、と云うような慣習を継続することが、文化相対主義的観点から許容される、とはまったく思いません。ただ、それを否定する理路が道徳的進歩と云う概念に依拠するとすれば、それもそれで危うく感じます(いや、いただいたコメントで要約していただいた内容のみから書いているので、レイチェルズ教授の主張はもっと綿密なものなんだろうな、とは思いますが)。選択肢が奪われた状態にあるものが、そのために本来持ちうる可能性を奪われること、については、また別の理路によって否定されるべき、と云うように考えます。

ううむ。
ごめんなさい、ほんとうに雑だ。「思う」ばかりになってしまった。
by pooh (2009-07-30 07:51) 

技術開発者

こんにちは、poohさん。

>「ニセ科学を信じるのは自由だし、そこに余人がなにか云うべきではない」と云うような言説にときおり触れる。いまも。
>その言説を、もっともだと感じる部分はある。でも、それに同意できない理由も、またあったりするのだ。

私は、「原始の村シリーズ」とでも名前を付けたい、「原始の村で」から始まる一連のたとえ話をこさえたりする訳ですが、人間がコミニケーションのために発達させた言語というものを時間的に水平なコミニケーションから、時間を超えたコミニケーションへと適用させることで、文化というものが生まれたのだろうと考えたりするんですね。「敗北は勝利よりも学ぶことが多い」と言ったのは前のJリーグの監督でして、彼が就任した最初の国際試合の時に、どこかの新聞だったか「負ける気満々」という見出しを出したのを覚えています。 サッカーの試合なら敗北しても死ぬわけでは無く、敗北が教える教訓は個々の選手の中で生き続ける(もちろん、全体としてとの教訓の整理があるに越したことは無いわけですが)けど、大自然を相手に生存を賭けて戦っていた原始の村では敗北は時として村の壊滅を意味する訳ですね。

まあ、全滅してしまえば教訓は伝わらないけど、共食いをしてでも生き延びた一人二人が、別の村に受け入れられた時に、「自分たちの村はこうして滅びた」という教訓が言語を通じて伝搬出来た訳です。そういう命がけの試行錯誤の教訓の取得が、「人間の文化」を生んで来たのだろうと思うわけです。「原始の村の冬越し」なんてたとえ話で「春が早く来る」というデマゴーグに皆で踊り、蓄えを食い尽くして滅びる村の話を書いて、「こうやって、『いい加減な事を言いふらすな』という規範は生まれたのかもしれない」なんて書いたんですけどね。

なんていうかな、私に言わせるとたかだか1億人千万人かの日本人程度なら、「デマゴーグを信じるも信じないも人のかって」とデマゴーグの発生を押さえると言う文化を捨て、その結果として滅びたとしても、人類全体からすれば、「なるほど、社会というのは『人のかって』を重く見過ぎては行けないのだな」という教訓を与える程度のものであろうと思います。できるだけ、きちんとそういう教訓を諸外国に伝える形で「デマゴーグに踊り」ながら衰退して欲しいものだと思います。

by 技術開発者 (2009-07-30 08:19) 

黒猫亭

>YJSさん、poohさん

本文の論旨自体にも少し感じるところがあったのですが、それに絡めてYJS さんが女子割礼の問題を提起されたので、ウチで採り上げている問題ともちょっと繋がってくるのかな、と。いや、つまり児童ポルノ問題のことなんですが(笑)。

ご存じの通り女子割礼に関しては国連ユニセフも廃絶を呼び掛けているわけですが、そのバックボーンにあるのは、超国家的人道主義に基づく児童の人権保護の理念だと思います。つまり、或る種児童の人権の問題と謂うのは、突き詰めて考えていくと特定の国家の枠組みや特定の文化の構造を超越して考えなければ公正とは謂えない部分が必ず出てくるわけですね。

特定国家の成人の国民は、原理的には国家や文化を選ぶ本質的な自由があります。勿論法律で十全な人権を保証されていない国家の国民には実質的には選択の自由なんかないとも謂えますが、たとえばそのような国家の国民が困難を冒して他国に亡命したとするなら、人道的な観点からこれを受け容れると謂う国家も在り得るわけです。

その意味では、実質的な選択の自由が許されていない場合でも、近代の世界構造を生きるすべての人々には原理的な選択の自由があるとは謂えるわけで、たとえば独裁国家における人権問題とは、このような万民に在って然るべき権利が国家によって保証されていないことに対する批判が骨子となっているわけです。

ただこれは、poohさんが本文で仰っているように、児童には完全に保証されてはいない自由なんですね。児童と謂うのは成人の保護後見の下に養育され、成年に達して初めて国民として十全な人格や権利が認められるわけですから、「たまたま」生まれついた国家や文化の在り方に常に依存しているわけです。

で、この問題の難しさと謂うのは、成人と児童と謂うのは年齢以外では何処も違う存在ではないと謂うことで、どんな成人も必ず児童だった時代があるわけで、その頃に受けた国家的・文化的な概念の教育に基づいて成人としての思考の枠組みが出来上がっているわけです。児童が成人の受け容れている概念構造とは無関係に独りでに育つものではない以上、その種の国家・文化固有の概念から完全に自由であるわけにはいかないわけですね。

それでも大人になれば多様な価値観に触れることが出来るし、その中から自身の信じるところを受け容れ、多様な国家や文化を自発的意志で選び取ることが出来ます。文化相対主義と謂うのは、選択の自由とセットでなければ、近代的な意味で公正な考え方とは謂えないでしょう。ただし、これは成人の保護後見に依存している児童にはそもそも適用不能な考え方であるわけです。

世界中の子供たちは、国家や文化の固有性の犠牲となる危険性が高く、国家や文化の固有性を選び取る自由がないにもかかわらず、成人後に更めて撤回することが不可能な不可逆的打撃を蒙ることも多いわけで、女子割礼はその最たるものです。

女子割礼が行われる文化を忌避し、他の文化を選び取ることが出来るのは成人後であって、そのときにはすでに女子割礼を受けているわけですね。より正確に謂うと、女子割礼を受けることが通過儀礼になるわけですから、成人女性はすべて女子割礼を受けているわけで、成人後にはすでにこれを拒絶する自由なんかないわけです。

これが不可逆的な肉体の損壊であると謂う非人道性は勿論、伝統的な方法で行うことで生命の危険さえある上に、何とか死ななくても周期的に苦痛を伴う処置が繰り返され、日常生活の上でも絶えざる苦痛を強いられるわけで、これを選択の余地なく強制することは、如何なる国家や文化にも許されないでしょう。

そして、これが通過儀礼である以上、必ず児童に対してこの処置が行われるわけで、これは公正な児童の扱いとは到底謂えないだろう、こう謂う考え方が超国家的人道主義に基づく児童の人権保護のバックボーンにあると思うんですよ。ですから、この種の超国家的人道主義は、国家や文化の固有性を超越した普遍的な人道上の不正義と戦うのが本義であって、個別の文化の固有性それ自体にはノータッチで尊重すると謂うのが建前ではないかと思うんですね。

本文の論旨に立ち返るなら、現代社会を生きるわれわれは、国家や文化を超えてすべての人々に本質的な自由が与えられているべきだと考えていると思います。国家や文化の固有性は、選択の自由があってこそ初めて認められるものであって、選択の自由が与えられていないにもかかわらず非人道的な強制が横行することは、超国家的不正義であると考えていると思います。

たとえばYJS さんが例示されたような文化相対主義の主張ですが、

>>「彼ら・彼女らがその風習の価値を信じるのは自由だ、我々が何か言うべきではない。」

その「彼ら・彼女ら」には、女子割礼を強制される「すべての」女性が数に入っているのかと謂う問題がありますね。「たった一人でも」拒絶する者があるなら、それを許す許容度がその文化にはあるのかと謂う話になります。そして、他者の自由意志を蹂躙して非道を強制する権利はこの地球上の誰にもない、そう謂う理念をわれわれが信じ受け容れていると謂うことなのだと思います。

さらに謂えば、女性の性を残酷な方法でコントロールすることで安定している社会構造の在り方をわれわれは許容出来るのか・許容すべきなのか、と謂う問題があるのだと思います。法律や律法による強制がないとしても、社会的・文化的な圧力があって心ならずもそれに従わねばその社会で生きていけないのだとすれば、そのような差別的な社会の存在は許容可能なのか、これは大きな問題だと思います。

少なくとも近代的な概念においては、自発意志に基づいて受け容れるのでなければ、このような生命の危険や甚大な苦痛を伴う非道を強制する権利は誰にもないはずです。たしかに本人が自発的に受け容れているのであれば、それに他人が文句を附けるのは難しいですが、女子割礼と謂うのは、原理的に謂って完全な自発意志を認められていない児童に対して行われる処置ですから、この理屈は成り立たないわけです。

ですから、世界中のすべての児童に対しては、文化相対主義は通用しないはずです。これはたとえば児童ポルノなんかも同様な考え方であって、性的同意年齢に達していない児童に性行為を行わせ、それを記録して衆目に曝すことは文化の固有性を超えた人権侵害である、このような考え方に基づいて児童ポルノに関する選択議定書の内容が規定されているわけです。文化の固有性を根拠にしても許し得ない人権侵害が規定されているわけで、これは文化の固有性の在り方それ自体に対しては介入していないわけですね。

児童のヌードを含むエロス表現としての児童エロチカについては、締約国家の固有の文化性に依存する、と謂うふうに註釈されているわけです。日本の児童ポルノ法については、この文化依存の部分の突き詰め不足が重大な問題をもたらしているわけですが、これは逸脱になりますから詳しくは触れません。

本文でpoohさんが触れておられるマクロビ家庭の問題などは、この国家と謂う枠組みが一般家庭にダウングレードしているわけですが、本質的には同様の原理が働いている問題だと思うんですね。成人がマクロビを受け容れるのはたしかに自由ですが、ではその成人に保護後見されている児童はどうなのかと謂えばそうではない。これはたとえば、おそらくpoohさんも念頭に置いておられるでしょうが、オウムチャイルドの問題などもそうですね。また、輸血拒否問題なども同じ根っこを共有しています。

突き詰めて謂えばマクロビも一種の宗教的性格を持っているわけですが、宗教と謂うものを本然を考えていくと、どうしてもこの種の問題に衝き当たります。本来宗教と謂うのは心的世界のフレームワークですから、一代限りのものではなく親から子に受け継いでいくものだからですね。キリスト教や仏教なんかの伝統宗教でなくても、宗教が宗教たり得るのは、世代を重ねて受け継がれていくからですね。

親が子供を育てるときにまず拠り所とすべきものとして宗教は機能するわけですから、当然マクロビを受け容れた親は子供にマクロビを教え込むのだし、オウムの教義を受け容れた親はやはり子供にそれを教え込みます。そして、子供にはそれを拒絶する自由はありません。ここをどうするのか、と謂う部分で、たとえばオレやpoohさんのように心的な合理の有用性を認める立ち位置の人間が考えていかなければならない問題なんだと思います。

そして、それを考えると謂うことは、或る種公平な権利と責任を保証された成人同士の営みとして在る現代社会の中で、公平な自由意志の行使に基づいて成立している社会構造とは物凄く折り合いの悪い存在である児童をどのように位置附けていくのかと謂う、かなり大きな問題に繋がっているわけで、正直言って少し手に余ると謂う感触を感じています。
by 黒猫亭 (2009-07-30 10:14) 

うさぎ林檎

こんにちは。

その根拠は宗教の信条であっても、独特な文化生活を送る事で有名な存在にアーミッシュがありますね。彼らは16歳の時にアーミッシュとして生きるか、世俗に戻るかを選択するために俗世の生活を一定の期間送るそうです。詳細は
Tokyo MXTV「松嶋×町山 未公開映画を観るTV」
6/28、7/5「DEVIL'S PLAYGROUND」
の回で紹介されています(アレで見られます)。15、6歳で文化の選択を迫られるのは大変な事ですが、一応その権利は保障されています(後々戻る事も可能のようですね)。

>文化相対主義と謂うのは、選択の自由とセットでなければ、近代的な意味で公正な考え方とは謂えないでしょう。

他者の文化に非寛容であっても、文化の選択自由は保障する。最低限このエクスキューズが成立しない場合、その文化は形骸化の道を歩んでいると私も考えます。

女子割礼・・・ですか、陰鬱な話題です。この文化が未だに横行している国は、概ね貧困で、人権に対する意識や教育程度が低く、また衛生面でも問題を抱えることが多く、それが一層悲惨な問題にしていますね。慣習自体が緊急の事例ですが、それを許容する周辺の事情に変化が見られない限り、人権の問題としてコミットするしか手がないでしょう。

ただたとえ児童への女子割礼を制限する事が可能になっても、成人する時に拒否する事が出来るかどうかは疑問に思います。その慣習がイニシエーションである以上、その集団の一員として生きていく事が不可能であるからです。前述のアーミッシュの様に、それまで所属してた全てのものと引き替えにしなければならない自由。
この2つの例に限って言えば、文化相対主義で贖うにはあまりに非対称に思えてなりません。

by うさぎ林檎 (2009-07-30 13:38) 

YJS

こんにちは、poohさん、みなさん。
もしかしたらヘンな方向にヘンな燃料を投下してしまったかもしれない…と危惧しているYJSです。

私は、本文でpoohさんがマクロビを取り上げた時、その線で(あくまでもマクロビの線で)考えるのに限界事例が(もしかしたら)参考になるかもしれない、と思ったのでした。
ちょっと軽率だったかもしれません。

私がこのエントリを読んで最初に考えたのは、普遍性と多様性、ということでした。
子ども・子どもの養育⇔イニシエーション・成人化⇔文化風習・社会慣習、という中で、一番左側の「子供」の方には「ヒト本性または普遍性」というのが強く効き、一番右側の「文化」の方には「ミームまたは多様性」というのが強く効くのかなぁ、と。

私自身について言えば、もちろん文化の多様性は大事ですが、文化もヒト本性に支えられてのものだろうと感じていまして、その意味で普遍性の方を重要視する立場に立っているようです。(つまり、文化的相対主義の支持の度合いは私はpoohさんよりかなり低いかも!)
したがって、黒猫亭さんの議論は実によく染みてきます。特に子どもの養育については、親と社会のどちらに多く負わせる(任せる)べきかということより、普遍性を大事にする方針とし、それに従うようにするのが良いと思っているわけです。

そうなると、なんと言いますか、自文化なのか他文化なのかはどうでも良くって、その対象や関連情報を十分に知っていると感じるか、その上で普遍性に照らしてどうか、という感じ。
たまたま他文化だと情報を持ってないと感じることが多く、口をつぐむことも多いわけですが、それは自文化に属すると言われることでも知らないことは批評できなということで、同じなんです。
マクロビについても、同様の態度になるだろうと思います。
by YJS (2009-07-30 14:22) 

pooh

> 技術開発者さん

歴史的な視点では、おっしゃるとおりだなぁ、と思います。ただまぁ、いま、ここで生きているぼくたちとしては、教訓を体現できる可能性があるのでもって瞑して滅ぶべし、と云うわけにはもちろんなかなかいかないわけですよね(^^;。まずは既存の、教訓としうるものからいかに学ぶか、と云う部分を優先すべきわけで。
原典にあたらずにYJSさんがご紹介くださった部分だけにもとづいて話してしまいますが、そう云った意味合いで「道徳的進歩という概念」は意味を持つ、とは思うんですよ。歴史から共通して学びえる、文化の相違を超越して共有しうる規範の獲得、と云う意味で。で、この「進歩した道徳」は機能として個別の文化を抑圧しうるし、そう云う機能を持ってくれないと困るわけですが、それがストレートにその文化の本質または独自性を抑圧することに直結するとそれはそれでやっぱり困ると思うんです。なんと云うか、多様性のひとつ上のレイヤー、みたいな場所に君臨してくれるんじゃないと都合が悪い。

ぼくが不勉強なだけで、こう云う概念についての思考も追及ももちろんなされているんだろうし、YJSさんのご紹介くださったレイチェルズ教授の論考をはじめとして、有益な果実ももちろん存在するはずだよなぁ、とは思うんですけどね。
by pooh (2009-07-30 20:45) 

pooh

> 黒猫亭さん

おっしゃるようにこの議論は、論考を展開しておられた児童ポルノに関連する議論や、べつの場所で活発な議論がおこなわれていた「表現の自由と陵辱ゲーム」の問題にも接続しているものだと思います(自分がプレイヤーとして貢献できる部分がちゃんとイメージできなかったので、どちらの議論にしても上を向いて果実が降ってくるのを待っているスタンスにありますが)。

個々人が特定の文化を「選ぶ」自由は、かならず保証されるべき、だと思います(愚行権の概念も含め)。もうこれは、云ってしまえばマクロビオティックであろうと、女子割礼であろうと、みずから選び取る自由はあるはずで。そして、そのレイヤーに限って云えば、優劣は存在しない、と云ってもいい、と云うふうにぼくは考えます。

ただし、文化はかならずしも選び取れるものではない。この世界にすむすべてのひとたちにとって、選択可能なものではない。文化は社会を構成する要素のひとつとして、かならず社会のなかで他者への影響力を生じます。
また、個々人が「選択する」と云う営為においても、その判断の背景にはかならず文化が存在します。一般論として云えるだろうと思いますが、特定の宗教が支配的な社会環境に育てば、その宗教のフレームワークから完全に自由な思考を獲得することはむずかしい(その宗教を受け入れるにしても拒絶するにしても、フレームワークに影響されない思考はたぶん不可能です)。

また、それぞれの文化はその基点に(呪術的にせよ)相応の合理性を持っているはずで。本来合理的だったものがいま(これはあるアスペクトからは、おっしゃる「超国家的人道主義」を成立させうるような時点)の視点からは不合理だ、と云うことは往々にしてあるにせよ、すべてがそうだ、と云うわけではない。技術開発者さんがお書きのコメントにある歴史的な視点も、ここでは除外できません。

その意味で文化的相対主義も、YJSさんがお書きの「道徳的進歩」も、いずれも同時に有意義であり、同様に取り扱い注意の考え方だと感じます。理想論かもしれませんが、個別の文化の多様性とその多様な展開(および個々人のその文化に従う自由)を確保したうえで、その上層に位置するレイヤーとして、その時点でもっとも合理的な価値判断に裏打ちされた「超国家的人道主義」に君臨してほしいし、そうでないと困る。

「道徳的進歩」にせよ「超国家的人道主義」にせよ、ぼくがその概念を前にしてひるむのは、それがある種絶対的なものであり、抑圧的なものであるからです(そう云うものである必要がある)。それは不断の努力によって獲得され、維持されなければいけないものですが、そこに向き合うぼくたちにはさまざまな要因に起因する不可避のバイアスがかならず存在する。そこを念頭に置いた場合に、ぼくたちはどのように向き合うべきか。なにを留保し、どの局面で果断であるべきか。

こう、ながながと書いたわりには結論にたどり着かないんですが(^^;、これがぼくたちすべての目の前にいまある問題である、と云う認識は必要だろうな、と思っています。
by pooh (2009-07-30 20:48) 

pooh

> うさぎ林檎さん

> 俗世の生活を一定の期間送る

アーミッシュ・コミュニティって、その成立の経緯からしても自分たちの信仰と慣習を守ることが最優先にされるんだろうな、と思うんですよ。異文化、と云ってもいいぐらいに文化の相違するコミュニティが隣接して共存している(しかも相互に高密度の文化的・経済的トラフィックが存在する)アメリカと云う国家の中で、ほかのコミュニティとの緩衝を設けて自分たちの文化を守るために、その慣習は重要な役割を果たしているんだろうな、と思います。
あとにお書きのことを含め、この距離の問題(物理的な距離ではなくて、相違するコミュニティ間でのトラフィックの密度)と云うのが、ひょっとするとひとつの鍵なのかも。
> 他者の文化に非寛容であっても、文化の選択自由は保障する。最低限このエクスキューズが成立しない場合、その文化は形骸化の道を歩んでいる

この部分、保留なしに同意はできないんです。ただ、文化の相違するコミュニティ間での文化的・経済的トラフィックが歴史上存在しないくらいに密になっている(しかも今後もより密になることが想定される)社会においては、その選択の自由を認めないほどに異文化を排除するようなコミュニティは存続が危うい、と思います。隣国にアメリカがあれば、イスラム原理主義コミュニティはおそらく維持できない。

女子割礼の問題にしても、その慣習が残っているコミュニティと、それが許されざるべき人権の問題であると把握するコミュニティ(ぼくらもおおむねこちらに所属していると云っていいと思います)のあいだに充分なトラフィックがあれば、そのままのかたちでの存続は困難になると思うんですよ。ただ、人権意識を共有する、それを個別の文化に優先するものとしてその抑圧を受け入れる(受け入れさせる)と云った場合に、どんな水準でどんな内容を共有するか、と云うことには充分な注意を払わないといけない。それは文化の相違を超越すべく設定されるものである以上、特定の文化によるバイアスは許容されない。

YJSさんがお書きの内容を引用させていただくと、「自分たちの側の好みがある絶対的な合理的基準に基づくと仮定することの危険性」はぼくらのなかにつねにかならず存在しています。そのバイアスから逃れることは不可能ではないかもしれませんが、とてもとても難しい。
でもそこをクリアしないと、「超国家的人道主義」は成立しないんです。と云うか、そこに特定の文化と価値観を抑圧する(人道的な側面に限らず、です)メカニズムが恒常的に残ってしまう。
たぶんこの部分は、ぼくたちひとりひとりが自分の目前にある問題として、慎重に粘り強く考えていかなければいけないんです。文化相対主義の名の下に、あきらめるわけにもいかないわけですし。
by pooh (2009-07-30 20:49) 

pooh

> YJSさん
> ヘンな方向にヘンな燃料を投下

いや、まったくそんなことはないです。
むしろ不可避な方向で。ただ、えぇと、ぼく自身ちゃんと論じられるだけの準備があるかと云うとそうとう怪しい(^^;。

> 文化的相対主義の支持の度合いは私はpoohさんよりかなり低い

たぶんこれは正しくて、このことはむしろぼくの側に一般的な意識からの乖離が存在するんだと認識しています。だから、ぼくの認識が正しくてYJSさんのおっしゃることが違っている、と主張するつもりはまったくないです。と云うか出発点の認識は共有していて、そこからどんな部分に重みづけするか、と云うような程度の話かと。
えぇと、なので逆にぼくの位置から見るとYJSさんのほうにバイアスが見えるわけです。ここがおっしゃる「普遍性」を共有するためにつねに生じる問題ですよね。ぼくとYJSさんのあいだにある相違は、それでも言語と国家(とそれに規定された文化)を共有したうえでのものなので、相違の認識(とそこを乗り越えた理解)にそれほど苦労しない。ただ、両者がもっと隔絶した文化を持つコミュニティに所属していると、まずこれがはるかに困難になるわけで。

で、ぼくやYJSさんと、こどもにストリクトなマクロビオティックを強いる親たちとのあいだにある距離は、もっと遠いわけです。で、自分の娘に割礼を強いる親たちとの距離は、さらに遠い。ちょっと雑駁で恐縮ですけれども、そこにあるのは質的な問題と云うより、まずは量的な距離の問題だと思うんです(いや、このふたつを切り分けられる、と主張しているわけではなくて、基点としては)。

なので、大枠で所属コミュニティを共有していると云う前提を置ける、わが国のマクロビ実践者に対する批判をおこなうにあたっては、現実的にはそこまで考える必要はなくて、共有していると想定できる文化的な文脈にのっとって考えていけばいいんだろうな、とは思うんです。ただ、「普遍性」と云うものを想定するにあたって、その根本にこのような性格を持った困難さが存在する、と云うことは意識しておくべきかな、みたいに思います。
by pooh (2009-07-30 20:51) 

黒猫亭

>poohさん

仰っているような事柄を、オレも問題意識として共有しております。オレ自身、おそらくニセ科学問題にコミットしている他の方々の水準から比べればかなり相対主義的な物の考え方をするほうだと自覚しておりますし、文化の多様性は尊重されるべきであると考えています。

そう謂うスタンスに立つからこそ、寧ろメタ的なレイヤーで相対化されてしまうものを論じることには関心がないわけで、そこは個人が自由選択する領域だろうと考えるわけですね。某所の陵辱ゲームを巡る議論には実は剰り期待していないんですが、それは哲学を根幹に据えた議論だからでして、哲学と謂うのはまさに文化相対主義で相対化される個人に収斂する価値観だと思うんですよ。

そうすると、オレが児童ポルノについて考えているような問題性は、ひとまずこの方向からはヒントが得られないのではないかと考えています。関心を持った論点もあったのですが、やはりそこは正面突破が難しいらしくて、ちょっと脇筋に行ってしまったように思います。

オレが考えているのは、自分のところで少し語ったような「気持ち悪い他者と共存する為の社会規範」のようなものですね。マクロビ信奉者も、そうでない者から視ると気持ち悪い存在ですが、本質的にはマクロビを信奉する自由は個人に保証されて然るべきものではあるのですね。

ただし、現状でマクロビを信奉することは「個人の埒内で閉じた営み」ではなくなってしまう、つまり、他者性が気持ち悪いと謂うだけではなく一種の共存不能性を具えているわけで、その部分の「何故まずいのか」と謂う理路を解き明かしていかねば、無前提にマクロビに接する人々にとってフェアではない、そう謂うことかなと思います。

>>ただし、文化はかならずしも選び取れるものではない。この世界にすむすべてのひとたちにとって、選択可能なものではない。文化は社会を構成する要素のひとつとして、かならず社会のなかで他者への影響力を生じます。
>>また、個々人が「選択する」と云う営為においても、その判断の背景にはかならず文化が存在します。

>>また、それぞれの文化はその基点に(呪術的にせよ)相応の合理性を持っているはずで。

まさにこの種の問題は、文化の固有性と超国家的合理を劃然と分けて考えることが事実上不可能であると謂う課題を抱えていると思います。

児童ポルノを例に採って考えていくと、たとえば「児童」とはどのような年齢を指示するのか、と謂う部分に国毎の振れ幅があることに気附きます。前回書いたように、児童ポルノに関する選択議定書を受け容れている国家では概ねこれを性的同意年齢を基準に規定しているのですが、この年齢が世界的には九〜二〇歳まで広い幅があるわけです。

まあ、九歳と謂うのはイスラム社会の場合で、これは特殊な例です。嘗てムハンマドが九歳の妻を娶ったと謂うハディースに基づいて決定されていますが、そもそもイスラム社会では婚外交渉は死罪に値すると古典イスラム法に定められていますから、非イスラム教圏とは性的な問題性の水準が違います。

先進諸国間においても、性的同意年齢には二、三歳の振れ幅があって、一六歳の国もあれば一八歳の国もあります。日本に至っては「一三歳」なのですが、これは明治期くらいにはその程度の年齢の児童と結婚する例が少なくなかったから、慣習的に決めただけで、現在では剰り意味のある規定ではありません。

現代の日本の場合は性的同意年齢とは別に一八歳未満を「児童」と定めることになっています。これとは別に結婚可能な年齢が女性の場合一六歳とされていますから、日本の場合はかなりややこしい事情があるのですが、これはどうやら男女一律に一八歳にしようと謂う動きがあるようですね。

つまり、或る国家では児童ポルノであるものが別の国家では児童ポルノではない場合が幾らでもあるわけで、この辺の事情を有耶無耶にして「先進諸国のレベルに倣え」と論じてきたのが現行法の問題点の一つであろうかと思いますが、とりあえず「児童を性的虐待から護る」と謂う観点では一致していても、具体的に視ていけば児童ポルノの観点において対象を規定する要件に文化毎の振れ幅があるわけです。

おそらく、超国家的な合理性と文化の固有性の関係と謂うのは、そう謂うものだろうと思うんですね。性的同意年齢、つまり「何歳から性行為が許されるか」と謂う年齢は法秩序を持つ共同体ではほぼ確実に決定されているわけですが、そのような年齢に達しない児童に性行為を強要してその姿態を記録することは児童の人権侵害だろう、と謂う考え方それ自体は文化の固有性を超えて議論することが可能です。「或る年齢以下の児童には性行為を許さない」と謂う法的規範が、如何なる国家においても概ね共有されているからですね。

しかし、保護の対象となる「児童」をどのように規定するかについては文化毎に振れ幅があるわけで、そこには超国家的な規範が立ち入ることは出来ないわけです。つまり、一口に「児童ポルノ」と謂っても、そこには文化依存性の高い部分が相当含まれているわけですし、超国家的人道主義はその多様性を十分に尊重する必要がある。

ここで国内の児童ポルノ問題に目を転じると、日本エクパットと日本ユニセフ協会が推進する「子どもポルノ」キャンペーンには、国連ユニセフの超国家的人道主義とは異質な不寛容性が紛れ込んでいることに気附かされます。散々論じてきた三号規定の問題ですが、この適用範囲を拡大しようとする「子どもポルノ」の概念には、超国家的人道主義と捉えるのが不可能な尖鋭性があるわけで、日本の固有の文化性ともまた違う、何処から出てきたのかわからない狭量な矯風の思想性があるわけですね。

事実関係を調べていくと、それはエクパットと謂う団体それ自体がキリスト教的人道主義の団体であることと関係してくるわけで、日本エクパットも代表の宮本潤子氏が日本キリスト教婦人矯風会の幹部だと謂うことがわかってきます。その思想的バックボーンにキリスト教と謂う特定の宗教的道徳が明確にある以上、エクパットの主張は超国家的人道主義の主張では在り得ないわけですね。キリスト教と謂う多数者の宗教の個別の規範が強力に影響しているわけですから、これは相対化可能な範疇の概念規範です。

国連ユニセフと謂う超国家的組織が、国家や文化の枠組みを超えて児童の人権の保護を訴える児童ポルノの問題において、ユニセフの組織が特定国家の国内委員会レベルにダウングレードした途端に特定宗教の価値観が介入してきて、要するに特定の性道徳規範の強要にすり替わってしまったわけです。

これはつまり、「児童を性的虐待から防衛する」と謂う人道的理念そのものは超国家的な概念だとしても、「児童を性的な『商品』として扱うすべての表現物を許さない」と謂う特定団体の主張は、文化相対主義の観点で女子割礼を強要する文化の圧力と原理的には何ら変わりのない主張になってしまっているわけですね。

仰る通り、女子割礼を強要する文化にも、その文化の埒内における合理性が必ず存在するものです。女性の性をコントロールする文化とは、その根源に父系の血統を重視する父権的で性差別的な社会構造が内在すると謂うことでしょうし、女性に対して抑圧的な社会構造であると謂えますが、それは、キリスト教的性道徳と何ら事情としては変わらないわけであって、周知の通りキリスト教にも女性に対して抑圧的な父権的性格が強固に存在するわけです。この二者の間には、何ら優劣は存在しない、仰る通りです。

そして、さらにややこしいのは、超国家的人道主義と謂うのは、その母体にやはりキリスト教的博愛主義があるわけですし、人権概念自体が一種の西欧的な法的合理であることは間違いないと謂う事情です。その意味で、超国家的な規範といえども文化の固有性から完全にフリーでは在り得ません。

ただ、やはり人間一般に普遍的に適用可能な最低限のルールと謂うのは存在する必要があるのだし、それは可能な限り文化の固有性に偏しない普遍を目指す志が必要です。その意味では、超国家的人道主義と謂うのは、深みを持たない薄っぺらな概念であり単純な規範である必要があるわけで、そこを深耕し複雑化していくと必ず固有の文化性を生み出してしまうわけですね。

ですから、ユニセフが提唱する児童ポルノ撲滅運動なんてのは、薄っぺらな呼び掛けで構わないんです。「性行為が許されていない児童に性行為を強要するな」と謂う、物凄く薄っぺらな主張で構わない。

児童ポルノの判定基準なんて、猥褻性なんてデリケートでダイナミックなもの(猥褻性とはその時々の社会風潮を考慮して判定されるもので、裁判官が決定するものであると謂う判例が存在します)を基準に採るべきではなく、性行為や類似行為それ自体を具体的な判定基準として採用すべきでしょう。そこにいろんな「深みのある」ものをくっつけてはいけないわけですね、多様性の保持された社会において最低限多くの人々が合意可能な決め事を探っているわけですから。

そして、その薄っぺらな超国家的合理の根底にあるのは「公平さ」と謂う概念ではないかと思います。つまり、文化相対主義的な観点で、女性に対して抑圧的且つ差別的な父権的社会構造を許容するとしても、最低限それを自由意志に基づいて拒絶する権利が確保されていなければ公平ではない、不公平を受け容れる自由があるとしたら、その一方では拒絶する自由がなければ公平ではない、そう謂うことなのかな、と思います。

だとすれば、女子割礼の問題を突き詰めて謂えば、その残酷さが問題と謂うよりも、残酷な処遇を選択の余地なく強要されることのほうが本質的な問題なのかもしれません。そして、そこから一歩踏み込むとすれば、多くの女性が女子割礼を受け容れることや、自由意志に基づいて他者に女子割礼を勧めることが、個人の自由意志に対してどのような影響を与えるのか、つまりそれが社会的な圧力として個人の自由意志をどの程度圧迫するのか、と謂う問題なのですが、どうもこの部分は簡単に結論が出るものでもありませんね。それを論じ始めると、特定の社会の中で生きると謂うことはどう謂うことなのかと謂う、かなり大きな問題を考える必要があります。
by 黒猫亭 (2009-07-31 00:19) 

pooh

> 黒猫亭さん

文化と云うのは、コミュニティの成員に対して抑圧的に機能する、と云う側面をかならず持つわけですよね。で、根本には合理性がある。ただ、それはその文化の基点においての合理性であって、合理性そのものの依って立つ状況が変化すると、それは通用しなくなる。通用しないのに、慣性のような働きでいったん成立してしまった文化がそのままコミュニティ内に残るために、結果としてそれが不合理な抑圧として機能してしまう、と云うメカニズムがまずあるかと思います。
で、おっしゃる超国家的合理、と云うものにも、同種の性格が内在している。そもそも抑圧を目的とするものなので、より純粋かもしれません。なので、

> 物凄く薄っぺらな主張で構わない

と云うか、適切な「ゆるさ」のようなものが必要なんだと思うわけです。寛容さ、と云うと適切な語法ではないのかもしれませんが、合意を得ることができて必要な機能が果たせるぎりぎりの線まで削り落とされたものであることがのぞましい。
…みたいに書くと簡単ですがもちろん、そう云うものを獲得し共有するのは容易ではなくて。そうするとその獲得の過程でどれくらい慎重であるべきか、同時にどれくらい積極的であるべきか、と云うのはそうとう難しい。
いずれにせよ云えると思うのは、それが知らない誰かの問題ではない、と云うことかなぁ、みたいに思います。

> 残酷な処遇を選択の余地なく強要されることのほうが本質的な問題

目の前に存在する残酷さを解決するのは、火急の問題として考えるべきだと思うんです。ただし、それがどのようにして解決されるべきか(どのような考え方に基づくことによってそのことは解決しうるか)と云う部分は、本質的に重要かと思います。

ぼくの場所からはここにさらに「文化的な調整よりも経済的な覇権がはるかに高速に世界を駆け回る実情」と云う論点が見えてくるんですが、さすがにそこまでは安易に論じられない(^^;。
by pooh (2009-07-31 07:48) 

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