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個人的な文脈 [近所・仙台]

いま時分は仙台の街がその真価であるわざとらしいほどの麗しさを随所に見せつけるシーズンなのだけれど、どうもはっきりしない天気のせいでそのあたりのけばけばしさに抑制が効いていて、まぁすこし落ち着いた雰囲気。そのなかをほてほてと歩いて、晩翠通りと西公園通りのあいだを南北に抜ける通り(通称はあるのだろうか)を通って春日町(と云うか北材木町)を抜けてせんだいメディアテークまで藤田嗣治の展覧会を観に行った。

藤田嗣治、と云う画家の絵を初めて見たのがいつだったか、と云うのを、ぼくははっきりと記憶している。1985年に宮城県美術館で開催された「エコール・ド・パリ展」(と云う具体的な年度まで覚えていたわけではないのだけど、ちょっと調べればいながらにして記録にアクセスできるあたりやっぱり便利な時代だ)。たぶん展示されていたものは1枚だけだったように思うけれど、その1枚(1920年代の彼の典型的な画風で描かれた裸婦像だった)が印象につよく残っている。

「エコール・ド・パリ展」そのものは、むしろそれを観た直後にはぼくをユトリロの「壁」への興味にひきずっていったのだけれど、その1枚だけ(だったかどうかもちろん記憶は怪しい)の藤田の絵は、ほかに展示されていた数々の画家のどの絵ともまるきり違う印象をぼくのなかに残した。
アートにまるきり造詣のない、もう素人ならではの蛮勇でしか書けないようなことを書くと、そのときぼくのなかでは、たぶん80年代のはじめくらいまで(ミスタードーナツのパッケージをパステル画で飾るようになるまえ)のペーター佐藤のイラストレーションなんかとひとつらなりのものとして受け止められたのだ、と思う。
時代背景と、そのなかでの、その時点でのぼく自身の立ち位置からしか説明不能な、ひどく個人的な文脈。でも、ぼくにとって藤田嗣治と云う画家は、自分のなかでそう云う存在でありつづけている。

ぼくはどんなジャンルの芸術にしても、体系的に学んだことはない。だから、ある芸術家の存在がそのジャンル全体においてどんなプレゼンスを持っているのか、と云うことについては極端に理解が浅い。個々の芸術家をそのジャンル全体のパースペクティヴのなかで位置づけて理解する、と云う能力をいっさい欠いているので、なんと云うか好きな芸術家ばかり全景に飛び出してくるような、たぶんほかのひとからみるとそうとうに妙てけれんな遠近のなかでいろんなアートに接している。
で、そう云うわけで藤田と云う画家はぼくのなかにある(なぜか晩年よりだいぶ前のペーターとか、あるいはいっそ手塚治虫なんかにつながる)へんにポップな文脈のなかでそれなりに重要な画家だったりするのだけど、それは個人的なものなので、もっと一般的な文脈のなかでどんなふうに評価されているのかはさっぱりわからない。素人として手を出す気になれる範囲の価格で入手できるタッシェンのニュー・ベーシック・シリーズや新潮芸術文庫にも収録がないので、手元にある藤田の画集、と云うかそれに近いものは「芸術新潮」の2006年04月号だけだ。で、ぼくに把握できる彼の画家としての全容は、そこに掲載されている図版に負ったものだけ。

で、今回の展覧会には、その充実ぶりに比して、藤田の日本在留中の仕事が極端に手薄になっている。まぁ、なんと云うかそのほうが個人的にも観ていてしあわせな気分になりやすいので、よかった、とも云えるのかもしれないけれど(彼の戦争画はぼくの見たことのあるものに関して云えばさっぱり大政翼賛的と云うか戦争賛美的には見えないのだけれど、一般的な評価はどうなんだろう)。逆に戦後・帰化後の仕事についてはノートルダム・ド・ラ・ペ礼拝堂を中心に結構な重点が置かれていて、その時代については実物に触れた経験がこれまでになかっただけに興味深く観ることができた。でも、この興味の方向も、たぶんだれとも共有できない、個人的な文脈にのっとったものなので、いまは詳述はしないことにするけれど。

ところで最初に書いたけれど、今回の展覧会の会場は宮城県美術館じゃなくてせんだいメディアテーク。メディアテークでは地元の造形学校の卒業制作展みたいなものしか観たことがなかったので、なんと云うかこれくらい充実した展覧会を開けるくらいの会場であったことをはじめて認識したと同時に、今回展覧されていた画家のキャラクターと、メディアテークの建築物としての特殊性のあいだに奇妙な符合のようなものを感じたりもしたのだった。いやこれもやっぱり、だれとも共有できなくてもしかたのない個人的な文脈のなかで、だけどね。
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zorori

こんにちは、

唐突ですが、心理学が扱う心理は一般人の心理であって、心理学を勉強した人にしか適用できない心理でないのはあたりまえです。ところが、芸術の分野では芸術の勉強をしないと鑑賞もできないような雰囲気がないとも言えないところがありますよね。もちろん、心理学の勉強と同様に芸術の勉強には意味がありますけど、それは芸術の専門家としての話ですよね。

そんなものだから、芸術の印象は個人的文脈にきまっているのに、わざわざそれを断らなければならないような面倒臭いところがありますよね。

それで本題ですが、poohさんの印象は全くの個人的文脈とも言い切れなくて、結構多くの人と共通しているような気がします。少なくとも私の印象と似ていると感じました。言葉で表すと達者でポピュラーな印象程度にしか表現できませんが。



by zorori (2009-05-06 15:13) 

pooh

> zororiさん

まぁこのエントリの場合、その当の個人的文脈にも主眼があったりするので。仙台、の話だったりもしますし。書く、と云うことはその個人的な文脈をだれかに伝わるようにする試みでもありますしね。

> 達者でポピュラーな印象

晩年、と云うか最後の仕事となった礼拝堂関係の展示がけっこう充実していて。でもこの仕事もまた、フジタの個人的な文脈を踏まえないとうっかりするとパロディすれすれにみえるようなもので(ぼくは非常に感銘を受けましたけど)。そう云うこともまた、なんか非常にパーソナルな部分に共鳴するところがあったりもしました。
by pooh (2009-05-06 17:20) 

zorori

pooh さん、

>フジタの個人的な文脈を踏まえないとうっかりすると

あ、そっちの方は私の考えから抜け落ちていました。
こういうことは勉強が必要でそれによって鑑賞がより豊穣になるというのはありますね。
by zorori (2009-05-06 18:24) 

pooh

> zororiさん

このあたり、美術史の知識がぼくにすこしでもあればちゃんと説明もできるのかもしれないんですけど。
なんかですね、思いつくかぎりの形式を詰め込んだ、みたいな感じだったんですよ。ステンドグラスもフレスコ画もあって、でもって15世紀の宗教画にありそうな構図の油絵も飾られてて(左右のフジタ夫妻を中央上方のマリアが祝福していて、背景には自分の家とか自分の村とかが描かれてる、みたいな)。そのあたりがみんなフジタのフィルターを通って、独特の清澄さみたいなのを伴っていて。

で、異国にエキゾティシズムを持ち込んでの成功 → 終戦後の糾弾による自国からの排斥 → 帰化と改宗、みたいな流れを踏まえてないと、このへんをフジタのまっすぐな気持ちから生まれたものとはなかなか捉えられないのではないか(でもぼくはそう捉えた)、と云うことでした。
by pooh (2009-05-06 19:00) 

mohariza

久しぶりに投稿させていただきます。

藤田嗣治(レオナールド・フジタ)は、全容の絵画を観た訳でないので、断言出来ませんが、個人的には、美しい絵とは思いますが、「薄い印象」です。これは、個人的な好みなので、仕様がありません。
(個人的には、ゴッホ、ゴーギャン、ルオー、ゴヤ等が好きです。)

ところで、pooh さんが、「一般的な文脈のなかでどんなふうに評価されているのか…」とこだわっておられるようなので…。

私は、作品は、作家の人生と切り離されて、<作品自体>を直視(鑑賞)すべきで、
その作家の人生の解説・作品の評論を見る(読む)ことは、作家の作品を純粋に見ることの妨げになるように思っています。

よって、「一般的な文脈のなかで…」と云う囚われ方は、その作家の<作品自体>を鑑賞する妨げになるような気がします。

あくまでも、<個人的文脈>で鑑賞して良いのでは?と思っています。
作品は、評論で観る訳では無いと感じます。
<個人的文脈>は、多くの人と共有する必要は無いと思います。

作家の背景も、作品の鑑賞を深める<ヒント>にはなると思いますが、
<作品>と<背景>も別のものとして、切り離す必要があると思っています。

by mohariza (2009-05-06 21:23) 

zorori

mohariza さん、おはようございます。

>私は、作品は、作家の人生と切り離されて、<作品自体>を直視(鑑賞)すべきで、
その作家の人生の解説・作品の評論を見る(読む)ことは、作家の作品を純粋に見ることの妨げになるように思っています。

個人の鑑賞の仕方はそれぞれでよいと思っていますので、反論ということではなくて、私がいま思っていることを書いてみます。

私も、以前(ずいぶん昔ですが)mohariza さんと同じように考えていました。しかし、例えば具象画について考えてみると、作品だけみるというのは不可能なことが分かります。ヨーロッパの宗教画を見た印象は文化背景の知識の違う日本人と欧米人ではずいぶん違うように思います。人物の服装や什器類も見慣れたものと、見たこともないものでは印象がまるで違うのではないかと。そうすると、作品だけを鑑賞できるのは純粋な抽象画ぐらいしか無理かもしれません。

もちろん、日本人もキリスト教の宗教画を鑑賞できますし、欧米人も浮世絵に感動したわけで、予備知識はあってもなくても良いと思います。しかし、その印象は多分、違うだろうなと思います。そして、一旦、予備知識を得てしまうと、予備知識がない場合の印象を得ることはもうできないのかもしれません。そういう意味でまずは予備知識は出来るだけ少ない状態で鑑賞したほうが良いのかもしれませんが、全く予備知識がないということはあり得ないのですから、あまり気にしても仕方ないとも思います。それよりも、いろいろと情報を得ることで、印象が変化することを楽しむ方がお得ではないかと今は思っています。

by zorori (2009-05-07 06:53) 

pooh

> moharizaさん

いや、第一義的には、おっしゃることに同意です。あと、一般的評価、と云うのにとりたててこだわっているわけではありません。

ただ、「語る」と云う行為まで視野に入れると、単純にそこにとどまることも難しい、と云う話でした。題材は違いますが、少し前の菊地成孔さんの著書に関するエントリもいっしょにお読みいただければ、と思います。
by pooh (2009-05-07 07:35) 

pooh

> zororiさん

このへん微妙かなぁ、と思うのは、特定の文脈内においてのみ評価可能な芸術的営為、と云うのがおそらくありうる、と云うことかも、みたいに思います。
こう、こんなふうに云い切っていいものなのかどうかわからないですけど、例えばアンドレ・ブルトンの業績なんかはそう云う種類のもの、みたいに感じたり(いや無茶云ってるのはわかってるんですが)。
by pooh (2009-05-07 07:38) 

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