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用語 [よしなしごと]

apjさんの「ニセ科学批判」はワイルドカード入りだし、「ニセ科学(蔓延防止)対策」の1つの手段であると云うエントリを読んでちょっと考えた。apjさんがこちらのエントリでお書きの内容には、おおむね同感。
その時は、単に、個別のニセ科学に対する議論を一括りにはできないから「ニセ科学批判」という単語で括ってもあまり意味が無いんじゃないかと考えていた。今でもこれは変わっていない。その後、あちこちで「ニセ科学批判」という言葉が使われて、「ニセ科学批判批判」という言葉が派生し、すっかり定着してしまった。
考えてみると、ニセ科学に対してなにか言及する段階で「ニセ科学批判」と云う用語を使う必要はなくて。ちゃんと確認したわけではないけれど、そう云うスタンスでなにかしら書くときには「ニセ科学」と云う用語は使っても「ニセ科学批判」と云う用語はぼく自身使っていないと思う(コメント欄の議論なんかは別として)。たぶんこの用語を使うのはおおむね、「ニセ科学批判に対する批判」についてなにかしら書くとき、だと思う。
で、やっぱりこのへんは混乱しやすくて(読む側だけじゃなくて、論じる側も)。例えば「ニセ科学批判と疑似科学批判は違う」みたいなことをぼくなんかも主張する(じっさいに主張したことがあるかどうかはともかくとして)けれど、これは「ニセ科学」と云う言葉と「疑似科学」と云う言葉が指し示す範囲が、議論の場において異なっている、と云うことで。で、批判的に言及したり問題視したりする場合に用語として使われる「ニセ科学」と云う言葉の示す範疇については、継続的にこの問題にコミットしている論者のあいだではapjさんのニセ科学の定義と判定について考えるに書かれているような内容でおおむね合意が取れていて、さらに精度を共有すべくひきつづき考察中、と云うところなのだけれど、「疑似科学」と云う用語についてはそう云う状況にはなくて、だから結果的に「ニセ科学批判」と「疑似科学批判」は違う、と云う話になる。
結局、やりたいこと(やらなくちゃいけないこと?)は「ニセ科学を批判すること」ではなくて「ニセ科学が世の中に蔓延するのを防ぐこと」である。つまり「ニセ科学蔓延防止対策」、短縮するなら「ニセ科学対策」。
もうこの点についてはもろ手をあげて同意。そもそも批判が目的、なんて云うひとはぼくを含めてたぶんいない。だから「ニセ科学を批判すること」はあっても「ニセ科学批判をすること」は本来ない。話の流れでそう云う書き方になることはあるかもしれないけれど、それは実態と違う。違うんだけどなんとなくそこの部分についての意識が薄かった、と云うのはあるのかも。
「ニセ科学批判を理解する」というのは、結局のところメタな部分での話になるので、分かる人にだけ分かる状態でも何も問題が無い。
ここの部分にも異論はないのだけれど、個人的にはちょっと微妙な部分も。「ニセ科学批判」に対する一般的な理解を求めるのはそもそも無理があるなぁ、とは以前から考えていたのだけれど(それでも「ニセ科学批判」と云う用語に思考がひきずられてそのあたりあいまいなままだったようにも思うけれど)、「ニセ科学」と云う概念とそれに対して批判すると云う行為(apjさんの列挙するうちの(1)個別の言説のどこがウソかを指摘して、みんなが読める状態にする。と云う部分)に対しての理解は求めたい、と云うのはあったり。

そう考えると、ニセ科学批判、と云う用語(と、例えばぼくなんかに見られるその用語に思考をひきずられるような現象)がまずいのかも。

こう、なんとなく似たような経緯で、ぼくはある時点から「ニセ科学批判者」と云う用語を使うことをやめにした(もともと自分でそう名乗ったことはないと思う。別の経緯で「論客」と云う言葉も使わなくなったり)。ぼく個人としては、ひょっとすると「ニセ科学批判」と云う用語をそのまま使うこと自体を再考すべきタイミングなのかなぁ、みたいな気がする。
なんかそれはそれでちょっと難しいことのような気もするし、すぐにうまい方法(と云うか、単に言い換え、に留まるのかもしれないけど)が見つかるかどうかはわからないけれど。
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TAKA

「ニセ科学」の定義は、私にも分かりやすい。しかし「ニセ科学批判」となると、幅広いようですねえ。
「その主張、ここが間違い。ハイ、終了。」という人。「ニセ科学の欺瞞を社会に広く訴え、より多くの市民に正しい科学を知ってもらいたい。住み良い街づくりの第一歩なのです。」という人。様々な想いがありますね。

ちなみに私の場合、ニセ科学の概念を知った当初は、「インチキ商品で儲ける業者は、許しませんよ!」という気持ちで、きくちさんや小波さんらを応援しておりました。
最近は、騙す者と騙される者の心の動きにも関心があります。壁にぶつかった若者たちが叫ぶところの、「結局これが、時代の閉塞感なんだよっ!」という心の奥底ですね。

私は今、自問しております。「科学技術が発達した社会に生きる、己の立ち位置はいずこ?」
そうか、「社会学」がその答えを出してくれるのか!というわけで、poohさんの思索を辿っている現在です(^^。
by TAKA (2009-04-20 23:38) 

apj

poohさん、
 当方でのトラックバックの件では失礼しました。スクリプトのバージョンを変えてから、別blogから打ってみて言及リンクがあれば通ることを確認したんですが……。

>(1)個別の言説のどこがウソかを指摘して、みんなが読める状態にする。と云う部分)に対しての理解は求めたい、と云うのはあったり。

 ただ、これは別に「ニセ科学批判への理解を求める」というカテゴリーでやる必要が無いんですよ。多分、技術開発者さんの方が上手な説明をしてくださるんじゃないかと思うんですけどね。

 ウソを指摘することに対する理解というのは、

・ウソをついてはいけない。
・はっきりしないことを確かなことであるかのように言いふらしてはいけない。
・そういうことをしたら、指摘されても仕方がない。

という社会規範をきっちり維持するということに他ならないんですよ。最近は、確かにインチキ宣伝やら無節操な儲け主義によってこの規範は相当揺らいではいるんだけど、この規範が大事だよと言われて「違う」という人は、普通の人には少ないだろうと思うんです。ここで「いや、金儲けが正義だ」などと堂々と言う人は、既に悪徳商法に手を染めていたりしそうです。ただ、「固いこというなよ」「こまごまうるさいこと言わずに気楽にやろうよ」といった反論なら普通にありそうです。これは、言ってる人達にさほど悪気が無いから困るんですよねぇ。
 いずれにしても、ニセ科学への批判という範囲での話じゃなくて、もっと一般的に、どういう社会であってほしいかという部分から立ち上げなければいけない話なんです。これは、別途、みんなで意識的にやらなければならない。


 これまでの「科学」「非科学」の扱いに対する融通がきかないっぽいイメージが既にあるから、ニセ科学の話をするときには「科学の話が出てきてもそうそう身構えないでくださいね。私達が普通に信頼しあってこの社会で生きていくために必要な規範の話なんですよ」ということを意識して入れていく、といったことは必要だと思います。
by apj (2009-04-21 00:02) 

黒猫亭

自分のところで書いたこととも繋がってくるのですが、最も大本にある問題とは「それがニセ科学だと謂うことがわかっても悪いとは思わない」と謂う一般的な感じ方なのかな、と思います。

「科学を装う」と謂う形の嘘を吐いても、一般的にそれがそれほど悪いことだと謂う共通認識がない、その辺が最大の問題なのではないかと思います。それが悪いことであると世間的に認知されることで、かなり状況は改善されるのではないかと謂うことでもあります。

別のエントリへのコメントで「科学の基礎的素養が普及することはそれほど重要ではないのではないか」と書いたのも、そう謂う認識が根底にあります。勿論、科学教育が充実するに越したことはないのですが、それよりも「科学を騙る嘘の悪質さ」が周知されることのほうが合目的的なのではないかと思います。

ただ、多分それだと物足りないと謂う感じ方もあるのかな、と謂う気もしています。個々人の言論の動機に関係してくる問題ですが、ニセ科学問題に関して、一種の非合理批判と共通する動機を持っている論者も少なくないかもしれませんので、ニセ科学問題が「科学を騙る嘘」に対する具体的な対策と謂う形で限定されると、その射程では日常的な非合理は撃てないと謂うことにもなりますし。
by 黒猫亭 (2009-04-21 02:06) 

pooh

> TAKAさん

だれもが、そのひとなりのアプローチがあって。
で、それぞれの意義があるんですよ。問題が錯綜していて、多くの要素を含んでいるわけですから。
by pooh (2009-04-21 07:35) 

pooh

> apjさん

なんかトラックバックは以前から通らないんですよねぇ。相性ですね。

> これは別に「ニセ科学批判への理解を求める」というカテゴリーでやる必要が無いんですよ。

そんなふうに思えてきています。
と云うかぼくのアプローチはご存知のとおりいつも「対抗言論」で。だから「理解を求める」と云うより、考え方を提示する、と云う角度になるんですけど。カテゴリーとして「理解を求める」と云うことが成立するような状況には、ぼくも違和感が残ります。

> もっと一般的に、どういう社会であってほしいかという部分から立ち上げなければいけない話なんです。

これは、そう思っています。
いや、なんかそのへん、ぼくはお題を提出しているだけ、になるのかもしれないですけど。
by pooh (2009-04-21 07:40) 

pooh

> 黒猫亭さん

> 最も大本にある問題とは「それがニセ科学だと謂うことがわかっても悪いとは思わない」と謂う一般的な感じ方

ここについては、ぼくと黒猫亭さんのあいだでは認識がけっこう共有されているかと思います。ただ、すべてのかたの認識の重点がそこにあるわけではないですし、それはそれでいい、とも思っていますが。

> ニセ科学問題が「科学を騙る嘘」に対する具体的な対策と謂う形で限定されると、その射程では日常的な非合理は撃てないと謂うことにもなりますし。

いやこれ、アプローチに当たっての切り口、と云うような話でもあるよなぁ、とか思うんですね。
このへんのお話は漠然とほかの機会にしたことがあるような記憶もあるんですが、ぼくはご存知のとおり基本的に非合理の擁護者なので、むしろ「いかにして非合理を生き延びさせるか」と云うことを考えている部分もあります。そこを考えるのに、どの切り口を選ぶか、と云う話でもあるかと。
by pooh (2009-04-21 07:46) 

技術開発者

こんにちは、TAKAさん。

>私は今、自問しております。「科学技術が発達した社会に生きる、己の立ち位置はいずこ?」

なんていうかな、私に言わせると、社会で生きると言うことは、科学技術が発達しようとすまいとあまり大きな違いはないんですね。要はできるだけ、楽に生きられる社会を目指せば良いだけだからね。

私は良く「1/5の労力で4/5を楽に生きる」なんて言うんですよ。この1/5と4/5って何かというと、人生の内、仕事を通じて人のために何かをなす時間が1/5で、人から労力とか労力の成果物を提供して貰って生きる時間が4/5なんですね。まあ多少は人に依って違うかも知れないけど、仕事に就くまでの子供の時代の時間、仕事しながらでも生活する時間、そしてリタイヤしてから死ぬまでの時間と、仕事をしている時間をザクッと考えるとこんなものかなと思うんですね。そこにお金が媒介するからちょつとわかりにくいかも知れないけど、お金があったって周りの社会が無くなったら、何でもかんでも一人でやらなきゃ成らないことを考えたら分かる訳ね。まあ、科学技術が発達することで昔は2/5と3/5だったものが1/5と4/5になったのかも知れないけど、何らかの比率で「楽にいきるためのもの」が社会だからね。

でもって、社会規範ってなにかというと、この比率の正当性皆で守っている様な面があるのね。人生の1/5を不真面目にやってお金を稼いでも、その結果として社会が不真面目になったら、それはそのお金を使う4/5の部分に跳ね返ってくるだけだからね。私は、八百屋の親父が傷んだ野菜を「わかりゃしないから」と売るのが当たり前になったら、八百屋の女将さんが親父に食わせる魚を買いに行っても「傷んだ魚」に注意しなきゃならないなんて話をするけどね。

私は時々、とんでもないたとえ話を作るんだけどね。例えば、健康食品を「ガンも治る」って売ってお金を稼いだ男がガンになってね、治療薬を求めたら、どの製薬会社も「お客が健康食品にたよって売り上げが減って、新薬開発に回す金が無くてできてません」と言われる話とかね(笑)。

なんていうかな、社会学というよりも「社会の成り立ち」という事は実のところ昔からあまり変わっていないのね。ところが、「科学技術が進んだから社会の成り立ちも変わっているのだろう」なんて意識に成ってしまうことの方が問題なきがするんですね。



by 技術開発者 (2009-04-21 12:40) 

技術開発者

こんにちは、apjさん。

>多分、技術開発者さんの方が上手な説明をしてくださるんじゃないかと思うんですけどね。
>どういう社会であってほしいかという部分から立ち上げなければいけない話なんです

ということで、上におなじみかもしれない「1/5と4/5論」なんて書いてみました。悪徳商法を批判していた頃からずっと感じている事として、「社会の成り立ち」みたいな事が意識されなくなっている感じを受けている訳ですよ。悪徳商法批判では「隣の部屋のゴキブリ養殖」なんて話も書いたけど、我々は否応なしに社会という共同アパートの住人の面があって、一人一人の自由は尊重しなきゃならないけど、隣の部屋がゴミ部屋となってそこでゴキブリが増えるなら、そのゴキブリは自分の部屋にも出てくる訳だからね。とはいえ、そうそう隣の部屋に押し入ってゴミ掃除をするという訳にもいかないから、「嫌う」「嫌われる」みたいな弱い抑止力で社会的な秩序は維持する必要があるんですね。

なんていうかな、たかだか批判して「嫌う」ということは、腕力で無理矢理言うことをきかせるのよりずっと弱い強制力だということを忘れて居るんじゃないかと思う面もあるんですね。ゴミ屋敷なんかも周りの住民の健康に問題がある所まで酷くなれば裁判所の命令で強制執行はできるんだけど、それまでに「周りの批判」で片づいたら、たぶんその方がお互いに良いんじゃないかなと思うんだけどね。

by 技術開発者 (2009-04-21 13:04) 

黒猫亭

>poohさん

>>いやこれ、アプローチに当たっての切り口、と云うような話でもあるよなぁ、とか思うんですね。

この辺のことは、これまでの対話を通じて共通認識のある部分だろうと思います。「科学を騙る嘘」は悪いことだと謂う認識があって、何故悪いのかを具体的に説明する為に、呪術に関する考察や心の内側と外側の弁別の問題などを語る、それは要するに人の世界には科学が領する領域と呪術が領する領域があるのが自然であって、それが一種の合理であると謂う認識にも繋がります。そこから経済や環境の問題に繋がってくる道筋も出てきます。

一方ではまた別のアプローチが在り得るわけで、たとえばID理論の問題とかマクロビオティックとか輸血拒否の問題など、思想・宗教と科学の汽水域の問題を考える場合、科学の領域に踏み込まれた場合にのみ迎撃すると謂う対処と、積極的に宗教の領域に攻め込んでいくドーキンスみたいな対処もあるわけですね。

これらの別種のアプローチを対照させる為に、ちょっと用語を整理しますと、たとえばオレやpoohさんが認めている「非合理」と謂うのは科学とは別種の合理の謂いだと思うのですね。心的な事象に関する事柄には必ずしも科学的な合理のみが適用されるわけではない、そう謂うことだと思いますから、たとえば宗教や呪術と謂うのはその観点で謂えば一種の合理ではあります。元々の「合理」の意味から謂っても、宗教は非合理とは呼べないわけですね。

この観点では、心的な事象に適用さるべき合理が科学の領域を侵犯すること、この越境が非合理と謂うことになりますし、水伝と謂うのは端的にその典型かと思います。そのような境界の侵犯や混乱を忌避する感じ方と謂うのも当然あるだろうし、在るべきものが在るべきところに納まっていると謂う秩序を志向する動機と謂うのも当然あるんだろうと思います。

その場合、多分「嘘に対処する」と謂う限定では満足が得られない方もおられるのだろうな、と謂うのが前回申し上げたことで、オレ個人としては、そう謂う混乱が存在すること、そのような意味における非合理が存在することもまた仕方ないのではないか、と感じますが、そこまでを考察の射程に収めておられる方もいらっしゃるのだろうな、と。

これはたとえば、ニセ科学の信奉者に対する対処の姿勢にも関係してくることで、オレ個人としては、ニセ科学を信奉するに至る純然たる非合理と謂うのは多分人間心理に一般的に遍在するのだろうから、それを糾弾することは普遍的な人間性の一部を糾弾することになって、あまり意味はないと考えています。

一方、非合理を排して秩序を志向する動機を持つ場合、粘り強く説得すると謂う対処が主流になると思うのですが、ニセ科学を信奉する心性それ自体を糾弾すると謂う姿勢も在り得ます。そこまで先鋭化するとオレとは相容れない姿勢だと謂うことになりますし、言論を通じた糾弾活動と謂うのはそれ自体人間的な非合理を内包し自己矛盾を抱えることになると思いますので、これまでの「ニセ科学批判」の言論を「科学を騙る嘘」への対策と捉え直すことも有効だろうと思います。

「嘘だから社会悪なのだ」と謂う捉え直しは「非合理だから社会悪なのだ」と謂う感じ方とはひとまず一線を引くことが出来るでしょうし、そこでニセ科学を巡る問題の本質を強調することが出来ると思います。
by 黒猫亭 (2009-04-21 15:26) 

技術開発者

こんにちは、黒猫亭さん。

>オレ個人としては、ニセ科学を信奉するに至る純然たる非合理と謂うのは多分人間心理に一般的に遍在するのだろうから、それを糾弾することは普遍的な人間性の一部を糾弾することになって、あまり意味はないと考えています。

なんていうかな、実のところ、皆さんが「人間の持つ不合理性を出さないようにする」ことで、社会に不合理性が出されてきた部分も感じるんですね。というのは、人間は不合理性を持つ訳だけど、その不合理性が社会にでると「生きにくく」成る面があるから「出さないようにする」文化をつくる訳ね。ところがね、その文化を守らせるために人間の持つ不合理性を利用するという事もやってきた面があると思うのね。でもって、その利用されている人間の不合理性というのは必ずしも格好良いものでもないわけです。でもって、現代人は昔の人よりもそういう不合理に敏感になっていて、「あっ、自分は今、こんな不合理を出している、止めよう」とか言って止める訳ね。そうすると、その不合理性を利用して文化を守っていた力がゆるむわけね。文化がゆるむことで、それによって社会に出ることを留められていた人間の不合理性が社会に出てくるなんて状態ね。

つまりね、人間の不合理性を社会に出さないための文化を守らせるために人間は人間の不合理性を利用してきたという「入れ子構造」の部分を理解しないと成らないんじゃないかと思ったりする訳です。

なんていうかな、例えばどこか別の所の議論で「本人の知らないところで悪口言うのは良くない」なんて話があったのね。でもって私が「昔から言う『世間様が嗤う』みたいなのは面と向かって嗤うという事だけなのかな」なんて変なことを書いたんだけどね。これなんて不合理ですよ。でも人間は陰口をたたくのは大好きですよね。そんなのは皆自分の持っている性質だから分かる訳ね。でもって面と向かって悪口言われるのも嫌だけど、陰で言われるのも面白くはない。でも、面と向かってならともかくかげて言われるなんてのは実のところ反駁もできないし止めようも無いよね。だからこそ、道徳的な違反に対して、陰口が出るという前提で「そんなことをすると世間様に嗤われるよ」なんて言い方があったのかも知れないと思う訳ね。この不合理が嫌で「陰口は言うべきではない」と押しとどめ、「陰で言われても機にする必要はない」という考え方を推し進めると合理的な考え方に成るわけです。でもそうすると、「世間様に嗤われる」みたいな感じで守られていた道徳規範は当然弱くなるよね。まあ、一例だけどね。

by 技術開発者 (2009-04-21 17:43) 

黒猫亭

>技術開発者さん

煎じ詰めると、人間の社会や文化と謂うのは非合理を織り込んで廻っているわけで。社会状況も昔とはどんどん変わっているので、新しい状況においてどのような社会原理があるべきなのかと謂う問題とも関わってくるわけですが、現今の様々な問題が、近代的な個人意識の確立と密接な関連を持っているとは言えそうです。

それ自体は前近代の課題への答えではあるので、そのような状況を織り込んだ新たな社会原理の確立と謂うのが問題になってくるのだろうな、と。少なくとも、非合理を糾弾して排除すると謂う方向性ではダメなんだろうと思います。
by 黒猫亭 (2009-04-21 18:22) 

zorori

>技術開発者さん

徹底的に合理的にふるまう社会というのも理屈のうえではありうると思うんです。でも現実の人間にはそれをできるだけの能力がないだけじゃないかという気がします。人間以外の猫や犬が人間並に合理的にふるまうのは無理だし、もしそんなことをしてもうまくいかないということは容易に想像できます。そして、人間と猫のどちらがうまくやっているかはわからないですしね。

人間は他の生き物に比べれば合理的にふるまった方が良いようにできていると思いますが、あくまで比べればという程度のことだろうなとか思ったりします。
by zorori (2009-04-21 20:57) 

pooh

> 技術開発者さん

なんと云うか旗印っぽい意味での「正義」ではないんですよね。功利主義的、と云うのか。

このあたり、以前に飯田泰之さんに、厚生経済学的方面からの考察の可能性を示唆していただいたりしたんですが、ぼく自身はそこからまったく進んでいません(^^;。
by pooh (2009-04-21 21:43) 

pooh

> 黒猫亭さん

> オレやpoohさんが認めている「非合理」と謂うのは科学とは別種の合理の謂い

そうですそうです。まさにそのとおり。

非合理の科学への侵犯、と云うのは、裏返すと非合理の持つ内的秩序に向けられたそれこそ「科学の濫用」につながってしまう。そうすると、なんと云うか「適切な不合理」を弱体化させる、その存続と有効な活用に対して非常にネガティヴな働きをもたらすのではないか、と云う懸念が強くあるのですよ。
で、ひとまわり視点を拡げると、「科学」も「非合理」も現状人間に必要なものなので、それらが社会の枠組みのなかで有効に仕事をするために必要な認識はどのあたりか、と云う話にもなってくるんだろうな、とか思っています。
by pooh (2009-04-21 21:44) 

pooh

> zororiさん

合理的にふるまうことのベネフィット、と云うものはあると思います。
で、たぶんそれがすべてではない(得られうるベネフィットのすべてではないし、それだけで充分と云うことでもない)と云うお話かも。
by pooh (2009-04-21 21:46) 

apj

 言及リンクがないのでトラックバックできそうにないから、直接リンクを置いておきます。
http://www.cml-office.org/archive/?logid=338
「被害発生が予見できる場合に対策が必要ということなのか」

 考え方としては、社会の基準からみて具体的な被害が発生した場合には、宗教だろうが科学だろうが迎撃(というか対処)が必要なんだけど、そのうち、科学を騙っているものについてはニセ科学蔓延対策として行う、といった感じです。


by apj (2009-04-21 22:27) 

pooh

> apjさん

当面のまとめ、としては、お書きのことと基本的に共通した認識を持っています(みたいな歯切れの悪い書き方をするのは、自分のなかでまだ充分にこなれてないからですけど)。

準拠すると、ぼくの指向性としては権利侵害性を持つもの(そのなかでとりわけ公共侵害性の高いもの)を問題視している、と云うことにもなるのかな。
by pooh (2009-04-22 07:37) 

技術開発者

こんにちは、zororiさん。

>徹底的に合理的にふるまう社会というのも理屈のうえではありうると思うんです。でも現実の人間にはそれをできるだけの能力がないだけじゃないかという気がします。

実はこれは経営学では既に経験済みなんですね。私は「テーラーイズム過適用問題」と呼んだりしてますけどね。テーラーというのは合理的経営管理の提唱者でして、彼以前の「どんぶり勘定経営」から見たときに彼の言う合理的経営には革新的価値があった訳です。例えば彼は「経営者は平均的労働者が単位時間にこなせる作業量を把握しなくてはならない」なんて今では当たり前になっていることを言う訳ですが、彼以前の経営ではそれすらも行われていない訳です(労働者をサボらない様に監視して働かせて、できた製品だけを数えている感じですね)。この考えがないとフォードのベルトコンベア方式は生まれない訳です。ところが、じゃあ、何でもかんでも合理的に考えてシステムを組むとうまく行くかというと行かないのが「テーラーイズム過適応」なんです。作業を小単位に分けて平均時間をもとに厳密に流れを決めると、人間の不合理性でおきたわずかな混乱が全体の混乱に波及する訳です。全体に波及させないようにすると、わずかな混乱を誤魔化す形で不良な作業が発生する事になります。1970年代から1980年代にかけて米国で起こった「品質低下型の不況」のもとが、このテーラーイズム過適用と言われています。

by 技術開発者 (2009-04-22 08:06) 

技術開発者

こんにちは、皆さん。無駄話みたいなものです。

なんとなく、歴史とかを受験のために勉強すると「松平定信がやったのが寛政の改革」なんて覚えるので、あたかも松平定信が「これから寛政の改革をやるぞよ」と名前を付けてやっていたような錯覚におちいるのかも知れないという気がするんですね。松平定信がなんと呼んでいたかは記憶していませんが、こんな名前なんてのは、後から歴史家が付けたんじゃないでしょうかね。なんて話を考えていたら、相変わらずの歴史知識を披露する様なお話ができたので書いてみますね。

 俺はそのころ、瑯邪郡は海曲県に住んでいた不良少年だったよ。別に真面目に働くのが嫌って訳じゃないんだけど、何でも国の上の方で漢じゃなくて新って国に改まったとかで、俺の周りはグチャグチャなんだよね。土地は突然お国のものだって取り上げられるし、お金だって「今までのはもう使えない、今度はコレだ」なんてね、働くのが嫌になることばかりで若いときから酒ばかり飲むようになって喧嘩三昧さね。
 でもってね、それまで因業に酒代を取り立ててた呂ばあさんが最近、「ツケで良いよ」なんて優しくなりやがるの、何でも一人息子を県令に殺されたんで、若い奴が可愛くなったとかでね。なんか嘘くさいけど、まあ酒は酒だから飲んじまえばこっちの物と飲んだよ。ツケがだいぶん溜まった頃に呂ばあさんが店から弓と刀を出して来てね、「息子の敵を討ってくれ」なんて言うわけさ、そん時も飲んでたしね、「おう、まかせとけ」なんて言ってしまったのさ。他に俺みたいなのが一杯居るから引っ込みもつかなくて、結局、県令をみんなで襲って殺したよ。そうなったら、もうただの不良じゃすまないよね、お尋ね者さね。
 仕方ないから、山に逃げ込んで山賊でもやろうと思ったよ、呂ばあさんから貰った刀もあったからね。そうしたら山に一杯いるんだよね、俺たちみたいな山賊希望がさ。みんなで金の有りそうな役所とか襲って生きたよ。あんまり仲間が多いんで顔なんて覚えらりゃしないから同士討ちもしょっちゅうあったね、だって、役所守っている方も無理矢理徴兵された若者だから、服装だってそんなに違わないんだもの。そのうち、「目印つけよう」って話になって、赤いペンキを眉の上に塗ることにしたのさ、結構怖そうな顔になったぜ。
 その後はいろいろな所に行ったね、緑林山の山賊は豊かだというから、仲間に加えて貰ったりもしたね。山賊の大将(と俺たちは思っていたけど漢のおうぞくだったそうだ)もいろいろあったけど食わせてくれるところを求めて動きまわったのさ。
 へぇ、皆は、「呂母の乱」なんて呼ぶのかい、あの婆さんに無理矢理仕立て上げられたあの敵討ち集団をねぇ・・・、で、「赤眉の乱」なんてうまい名前をつけるね。俺たちはそんな風に言った事は無いけどね。

とまあ、書いてみました。

by 技術開発者 (2009-04-22 09:53) 

zorori

技術開発者さん、こんばんは、

ていらーいずむの失敗の話で、「社会的ジレンマ」(山岸俊夫著)という新書本で紹介されていた実験を思い出しました。

ジョルジオ・コリセリ、ケビン・マッケーブ、バーノン・スミスという実験経済学者が行った実験です。ゲーム理論について専門的な知識を持っている経済学の教官と普通の学生が被験者となり、「信頼ゲーム」というゲームを行います。教授たちはこのゲームでどのように行動すべきか理解していて、「合理的」に行動したのに対して、学生たちは直感的に行動したというものです。結果は自分の利益を追求して「合理的に」行動した教授よりも、学生の方が利益を得たというものです。

囚人のジレンマとか、信頼とかに係る話だったですね。
by zorori (2009-04-22 21:02) 

apj

 用語についての考察をさらに進めてみました。

http://www.cml-office.org/archive/?logid=341
「ニセ科学」と「ニセ科学批判」の違い

 物理法則だと、現象を記述する方程式とか保存則とかが出てくるから、そういうものに固有名詞が付いていても違和感が無いし、混乱もしないんですけどね。また、無意味な名前を付けたって普及しませんしね。

 「ニセ科学」というのは人工的な定義をしてるから、観察して見つかった自然の法則を○○と呼ぶ、というのとは違うんですね。中身があるかどうかを常に問題にしていないといけない種類のものなんですよ。「ニセ科学」は、今のところ、非合理の一部分を拾い上げる内容になっていて、既存の用語がカバーしているものとも違うから、この用語と概念について考察し続けることに意味があるんですよね。
 しかし、「ニセ科学批判」についていくら考えても、「ニセ科学」を批判すること、という同語反復以上のものが何も含まれていないように見えるんですよ。ですから、「ニセ科学批判」という括りは、実は意味がないし、むしろ余分なものだったんじゃないでしょうかねぇ。
by apj (2009-04-22 21:57) 

pooh

> 技術開発者さん

> 俺たちはそんな風に言った事は無いけどね。

あはは。そう云うお話ですよね。
by pooh (2009-04-22 22:40) 

pooh

> 技術開発者さん、zororiさん

テーラーイズムに関するお話は以前にもうかがったことがあるように思いますが、この「過適用」のお話って、「合理性の追求が不合理な結果に結びつく」サンプルですよね。zororiさんのもそうですね。
いや、たんなる策定時のパラメータ不足、と云う解釈も可能なのかもしれませんが、そんな話をすれば実用になるだけのパラメータは永遠に集まらないのじゃないか、みたいにも感じます。

あと、このへんで行動経済学も絡んでくるかも。かも、ばかりですが。
by pooh (2009-04-22 22:41) 

pooh

> apjさん

どうなんでしょうねぇ。なにかしら括りが必要なのかどうか、と云う話になると、ちょっときっちり判断しづらいところがあります。あったほうがいいのかもしれないし、邪魔なのかもしれないし。

ただ、ひとつあるのは、ある種コピーライティング的な意味合いを込めて(その危うさにも配慮しながら)使われてきた「ニセ科学」と云う用語に較べて、なんと云うか「ニセ科学批判」と云う用語は非常にrawなんですよね。なので、もし使うとすれば、同じぐらいの議論の蓄積がこれから必要なのかも(そうでないといまいち使えないかも)みたいな気がします。
by pooh (2009-04-22 22:48) 

zorori

テイラーイズムや信頼ゲームの話は、ある期間内で最大の利益を上げるという明確な目的の場合でも、「合理的」方法というのは簡単ではないという話かなと思います。「合理的方法」とはある「目的」を達成するもっとも効率的な方法というような意味ですが。

ところが、実験と違って現実は期間の取り方がいろいろあって、「目的」が確定しませんね。短期目標と長期目標は違ったりします。当然「合理的方法」も確定しないということになります。直感的には出来るだけ長い長期的視点で考えればよいだろうと思えます。そして、非常に長期の期間を考えると生き物としての生存が目的というところまで行き着きます。しかし、そこまで行くと、生物学の領域に入ってしまい、目的は霧散してしまいます。進化論的には、生存するために生き物は努力しているわけではなくて、生存しやすいものが生存していると言っているだけですから。

話が飛びすぎましたが、「目的」は人類共通に確定できないから「合理的」も確定できないのだろうというようなことかなあと。
by zorori (2009-04-23 07:22) 

pooh

> zororiさん

期間、と云うのは重要な要素だと思います。と云うか、包括的に見れば本来区切れないものを、都合である意味恣意的に区切らないと、かりそめでも方法がつくれないし検証もできない。

ただそれって、単に都合のよしあし、でもあるんですよね。
このあたりから技術開発者さんの「共同体と機能体」論にもつながってくるかと。
by pooh (2009-04-23 08:59) 

zorori

「非合理」について具体的な話をすると、台風の時に大きな波や風があるので、サーフィンやウインドサーフィンをして遭難するという事故が時々有ります。そうすると無謀ではた迷惑な行為であるとしてメディアはけちょんけちょんに批判します。でも、私はこういう「非合理」が好きです。確かに海は山と違って、遭難すると海保が無償で救助活動しないといけないので、金銭的にも非常にはた迷惑です。でもそれを言い出したら、危険を伴う行為は全部できませんしね。ある程度歴史のある分野ではこのような挑戦に世間も寛容ですが、新しい分野では無謀な不良との区別がしにくいので世間の目が厳しいです。もちろんエキスパートに限られることですが、エキスパートを目指すと言うことが「非合理」ですよね。タイガーウッズを目指すのは宝くじに当選するようなもので、期待値を考えたら「非合理」としかいえません。世のため人のためになるエキスパートを目指すのも「非合理」です。そういえば、弓の名人をみんなでおだてあげるみたいなことを技術開発者さんがおっしゃっていましたね。
by zorori (2009-04-23 20:53) 

pooh

> zororiさん

結局、価値観や道徳をいちがいに科学を含めた合理性に立脚させてはいけない、と云うのはそう云うことだと思うんですよ。不合理ゆえに、例えば世界の誰かが不当な環境に置かれている、と云うときには、そう云う不合理性への愛着を離れた(非人間的な)合理性に基づいた判断が必要になることもあります。でも、それがすべてではない。
そのあたり、きくちさんの云う「折り合いをつけること」が重要になってくるのかな、とか思います(この、折り合いをつける、と云う行為も、じっさいには字面ほど安易ではないですが)。

いやぼく、じっさいのところ人間としては「無謀な不良」で、あからさまに非合理性に片足を置いている種類のアートに心を引きずられっぱなしの人間で。でも、だから合理性の意義を軽視できないんですよね。
by pooh (2009-04-23 21:46) 

apj

 「非合理」にまで話を広げると、最近では、研究者を目指す事自体がそもそも非合理ですよ。何せ、博士号をとった後が屍累々ですし、運良く研究者になれても、進学に要した費用&その間働いていれば得られた筈の機会費用を取り返せる可能性は非常に小さいですから。

by apj (2009-04-24 00:48) 

TAKESAN

今晩は。

そこで、「合目的的合理性/合法則的合理性」ですよ⇒http://seisin-isiki-karada.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-e34a.html

------

ここから、「ニセ科学」の語の話ですが。

「科学」というのは、「制度」も含んでいますよね。本質的には、一般的な法則的な部分を、観測によって追究する営みだけれども、人間の可謬性や意図的な改竄などの性質を考慮して、それを篩い落とすシステムあるいは制度を構成している。で、「篩いに掛けられた」かどうかも含め、「科学」かどうか、が評価される訳ですね。
だから、合理/不合理 という軸では「科学」か否か、を判断は出来ず、必ず制度と絡んだ見方をしなくちゃいけない。そう私は考えています。

私がよく「疑似科学」とニセ科学は区別した方がいい、と言うのは、ここら辺を踏まえているからなんですね。疑似科学という語を用いると、どうしても、科学哲学的な話を引きずってしまうので、ちょっとややこしくなる、と。もちろん、全く独立、してはいないので、その観点自体は重要なのだけれど、初めからごっちゃにしては話にならない訳で。

私がここら辺を強調するのは、自分が、先に科学哲学などを齧ったから、だったりします。似たような語で何かが説明される場合、元々持っている、その言葉と関わっている知識の枠組みに基づいて解釈してしまうのは、ある意味当然なので。

ニセ科学を調べ始めたのは、もう4年近く前だと思うのですが、色々調べて「驚いた」と言うか、へえ、と思ったのは、あ、科学哲学そのまんまの話じゃ無いんだな、という所でした。で、勘違いをする人も多いだろうな、と。
by TAKESAN (2009-04-24 02:06) 

apj

TAKESANさん、

 私が囓っているのは科学哲学じゃなくて法律学だったりします。なので、「ニセ科学」の定義が含んでいる社会規範には結構敏感なのだと自分では思っています。
 「ニセ科学」について考えようとすると、科学的な客観性や合理性についての考察も必要だけど(こちらは少しは科学哲学にひかかってそうですけど)、それとは拠って立つものも枠組みもまるで違う客観性や合理性(法律学的な客観性とか合理性に近い物でしょう)を同時に考えないといけないのではないかと。擬似科学と似てそうだから必要なのは科学哲学の知識だ、などと思って議論しにきた人達は、軒並み間違えることになるかもです。

 それで、
http://www.cml-office.org/archive/?logid=338
「被害発生が予見できる場合に対策が必要ということなのか」
や、
http://www.cml-office.org/archive/?logid=343
「社会規範の部分でひっかかっただけでは」
といったものを書いてみました。

 私には、「ニセ科学」が引きずっているのは、科学哲学ではなくて、法哲学か法社会学の一部ではないかと思えるんですよ。
by apj (2009-04-24 03:17) 

pooh

> TAKESANさん

リンクいただいたエントリに関連する議論のときにもおぼろげながらちょっと触れた記憶があるのですが、ここで要注意なのは、「合目的的」「合法則的」と云うのは単体でなんらかの基準で判別できるものではなくて、条件づけによって入れ替わる(特定の前提では合目的的なことがらが前提を変えることによって合法則的とも云いえる)と云う部分だと思うんですよ。なので、

> 合理/不合理 という軸では「科学」か否か、を判断は出来ず、必ず制度と絡んだ見方をしなくちゃいけない。

ここに同意します。
by pooh (2009-04-24 07:28) 

pooh

> apjさん

> 拠って立つものも枠組みもまるで違う客観性や合理性(法律学的な客観性とか合理性に近い物でしょう)を同時に考えないといけない

そう思いますです。
特定の場・特定のことがらへの切り口が表面的にどんなものであれ、そう云う部分は通奏低音的に存在すると思います。
by pooh (2009-04-24 07:36) 

技術開発者

こんにちは、皆さん、そしてzororiさん。

>進化論的には、生存するために生き物は努力しているわけではなくて、生存しやすいものが生存していると言っているだけですから。

生物学的な生物種間の進化論はその通りなんですが、社会学的な人間の間の文化の進化(発展というべきかな)は違ってくる面があるんですね。なんて言うか、経験とか概念が伝承したり伝搬したりできる訳ですからね。私は良く「文化侵略」なんて事を話すんですね。「定住農耕」を発達させた部族が周りの狩猟民族を侵略して奴隷化し農耕地を広げて行くわけですが、奴隷化されることによってでも狩猟時代より生活が安定して子供を飢え死にさせなくて済むと、反乱もそんなに起こらずに農耕部族に組み込まれていくと考えられる訳です。やがてその群れが大きくなると、最初の農耕民は貴族階級となり、奴隷たちはその農耕国家の平民と成っていく訳です。つまり、これは侵略という形はとっているけど、農耕という文化の伝搬でもあるわけですね。人間というのは「生存しやすさ」のために社会のあり方を変えることもできるから、発展してきた訳です。

apjさんが言及されている「社会規範」というのもそうやって経験の中で培われ、伝承され伝搬されてきた文化である訳です。その文化の合理性というのは、人文学的にきちんと考えなくてはならないと思っています。

by 技術開発者 (2009-04-24 08:53) 

pooh

> 技術開発者さん

こう、こう云う話で難しくなるのは、文化や道徳や社会規範の話になると、実在論的な意味での「事実」と云うのを議論の背景に置きづらくなる、と云うことかと思います。
結局、自然科学と人文科学・社会科学の大きな相違、と云うのはそこに生じるのかも。いや、それでもその相違は本質的なものじゃない、と思いますけどね。
by pooh (2009-04-24 22:05) 

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