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操作的でないとおもしろい授業はできないのか [世間]

教職についていらっしゃるらしいhaseyuki2001さんの真実でないと教育で扱えないのか と云うエントリを読んだ。

水の結晶、EM菌などの実践は、科学的に?であり、そういうのを教育の現場で扱うのはおかしいのだそうです。私にはどうも、どうでもいいのではないのかなって思ってしまいます。
単に科学的に?だからおかしい、と云うだけではなくて、それが科学的に正しいとか、実験に基づいた事実だ、と云うふうに教えるのがおかしい、と云う話なんだと思うのだけど。それは端的にうそで、教育の現場でうそを教えるのを抵抗なくどうでもいいと思う感覚は、そもそもどうだろう。
科学的な根拠だの実証性だのたしかに重要でしょう。ただ、私はこの手の議論を聞いていると昔を思い出します。附属にいた頃です。附属には、教科の本質ということの好きな先生がたくさんいました。子どもたちに教えるのは、本質を突いたものでなくてはならないと。でも、本質を突いたものを扱った授業はつまらなかったです。そこには、子どもが動くとか意欲的に取り組むという考えが欠落していたのです。
まず「うそを教えない」と云うのは教育の本質、以前に基本的な社会のルールではないかな。で、そのルールに基づく、と云うことと「つまらない授業をする」ことのあいだには、とくに相関関係も因果関係もないように思うのだけれど。
そんなつまらない授業ならば、つまらない内容で子どもたちが熱中する授業の方がベターだと。
それは誰にとってベターなのですか?
でも、ある意図をもって扱う授業として、あってもいいかなと思います。どんなに科学的な内容でも、つまらない授業ならばどうかなって思います。そこの折り合いのつけ方が、教師の哲学に関わります。
それはどのような意図なのだろう。

うそも方便、と云う言葉はわりと便利に使われる。それはまぁ確かに、ある場で他者をコントロールするためにうそが用いられることはおとなの社会でもあるだろう。でも、それは無条件で肯定されるべきことではない、と思う。いくつかの条件を前提において、やむをえない、と判断されることはあるだろうと思うけれど。
そして、おとなの社会とは違って、教師と生徒の関係はけして対等ではない。教師が生徒に対して操作的にふるまうときに、生徒の側にその操作に抗うための選択肢はほとんどない。そのような職に就いている方が、事実を教える、と云ういわば教育の本質とも云うべきことがらよりも自らの意図を優先するような哲学を持ち、それを積極的に肯定するのは、非常に危険なことに思える。
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コメント 17

黒猫亭

こう謂う感じ方の人、どの程度いるんでしょうね。

>>水の結晶、EM菌などの実践は、科学的に?であり、そういうのを教育の現場で扱うのはおかしいのだそうです。私にはどうも、どうでもいいのではないのかなって思ってしまいます。

まさしく「嘘事」ではないですか。
by 黒猫亭 (2009-04-19 14:55) 

うさぎ林檎

こんにちは。

>でも、ある意図をもって扱う授業として、あってもいいかなと思います。

それは教育ではなくて、洗脳と呼ぶべきなのでは?
by うさぎ林檎 (2009-04-19 15:10) 

pooh

> 黒猫亭さん

そう思います。これって、個人の哲学に優先する規範に抵触すると思います。
by pooh (2009-04-19 16:05) 

pooh

> うさぎ林檎さん

そこのあいだの線を、なにをもって引くか、と云う話にもなるのかもしれませんね。
by pooh (2009-04-19 16:06) 

たかぎF

言及先の記事を読もうとしたら,さっそく見えなくなっていました orz
…まぁなんか,ある意味一貫した態度なのかも.
by たかぎF (2009-04-19 17:42) 

pooh

> たかぎFさん

なんかですね、すぐ消しちゃったみたい。
まぁ、それが「哲学」なんでしょうかね。
by pooh (2009-04-19 20:54) 

技術開発者

こんにちは、皆さん。

何度も書いている話ですが、「消防署の方から来ました」と火災報知器を売りつける訪問販売が出たときに、消防署が「消防署が訪問販売することはありません」というのは、別に消防署の業務説明をしたいのではなく、人を騙して火災報知器を売りつけるという悪徳商法が社会にとって困ったものだという認識を持つからであるわけです。

社会において、「消防署の職員でも、その業務でも無いのに、あたかもそのように偽って報知器を売りつける」というのは「悪である」という認識があるからこそ成り立つ訳です。ところが、事、これが科学的となると、「科学的でないのに科学的な事柄と偽って人を騙す」は「悪とは思えない」という社会認識となっている訳です。

上の話しでも、「消防署の職員でも、その業務でも無いのに、あたかもそのように偽って報知器を売りつける」というのは「悪とは思えない」となると、「消防職員が業務説明をしている」という認識となるのかも知れませんね。「消防職員が出しゃばって自分の業務を説明している過ぎないのだから、そんな出しゃばりは自分にとって意味がない、黙らせてしまえ」となる訳です。

なんていうか、日本人個々が「日本の社会を構成している」という意識は無くなっているのじゃないかという気がします。教師は教育をするだけであって日本の社会を構成していないとお考えだからこそ、日本の社会にどんな影響が起こっても「自分には関係ない」としか思えない訳です。つまり、自分の教えるべき職能以外の社会のことなど考える気は全くない教師が、子供たちに「社会なんて関係ないんだよ」と教えているのが今の現実ではないかと思います。

by 技術開発者 (2009-04-20 11:44) 

pooh

> 技術開発者さん

> 自分の教えるべき職能以外の社会のことなど考える気は全くない教師が、子供たちに「社会なんて関係ないんだよ」と教えているのが今の現実

まぁもちろん、一般的にそうだ、と云うことではないんでしょうけど、なんと云うかそのあたり倒錯した感覚を「哲学」としてお持ちの方もいらっしゃる、と云う実例ではあるんだろうと思います。
by pooh (2009-04-20 21:39) 

田部勝也

>黒猫亭さん「まさしく「嘘事」ではないですか」

このとてつもない敗北感は一体何だろう……(別所でのやり取りを引きずった発言で、意味不明の方はごめんなさい)。

なんというか、教員としてのレーゾンデートルとかパターナリズムとか「上から目線」とか、そういったものを一切拒否して、ただ、子どもを楽しませるとか、心地良い時間を提供するとか、教員とはそういった職業だという哲学を持つインセンティブが、いまの現実の教育現場にない――とは、確かに言い切れないよなぁ……。ある意味では、お客様仕事としてのサービス業のプロに徹した姿勢と言えるかも知れませんね。
たぶん、そういった哲学のもとでの教育現場は、子どもは楽しく生き生きしているだろうし、教員も子どもたちから嫌われる事も対立する事もないだろうし、結果として誰も少しも苦しまないし、誰も傷つけ傷つく事もないだろうなぁ……。

別のところで、エデンの園の住人にリンゴを食べさせる話をされたのですけど、確かにリンゴを食べさせる人っていうのは損な役回りなのかも知れません。私はそんなふうにはちっとも思わないですけど。
by 田部勝也 (2009-04-20 23:35) 

黒猫亭

>田部さん

いや、教員と謂ってもいろいろですから、「こう謂う考え方をする人もいる」と謂うだけのことだろうと思うんですが、結局は「その割合はどれだけなのか」と謂う実勢の問題になるのかもしれませんね。

ただちょっと「哲学」と謂う確信的な響きに驚きは覚えました。「しょうがない」とかじゃないんですね、こう謂う人にとっては。まあ、他の方同様、「哲学」が瞬間削除されたことにはもっと驚きましたが(笑)。
by 黒猫亭 (2009-04-21 00:55) 

pooh

> 田部勝也さん、黒猫亭さん

まぁ、この方は一例であって、なので一般化してなにか語れる、と云うわけではないのですけれど。ただ、こう云う考え方に向かう理路と云うのはありえて、でどうしてそれがまずいのか、と云うお話はやっぱりあるんだろうな、と。

哲学、と云うより、たぶん処世術と云ったほうが傍目にはわかりやすいかも、とか思ったりもします。それはいちがいに貶める意味合いだけではないし、この方ご本人がけして志の低い方ではないんだろうな、とも思いますし。
by pooh (2009-04-21 07:27) 

きくち

やはり、これは敗北主義ではないかなあ。
「本質を突いた授業はつまらない」という決めつけがそもそも間違いでしょう。
教師の工夫は「本質をはずさずに、いかに子供に興味を持たせるか」であって、「子供が興味を持ちさえすれば、内容は嘘でもいい」となると、本末転倒です。

せっかく、意欲がある先生なんだから、「嘘をつかずに、興味を持たせる」方向で努力していただきたいです

by きくち (2009-04-26 12:49) 

pooh

> きくちさん

こう、なんと云うか、シニシズムに陥ってこう云う結論にたどりついた、と云う感じではないのが、非常に微妙な感慨を抱かせる部分だったり。
by pooh (2009-04-26 16:31) 

ちがやまる

朝礼に水伝を使った校長先生も同じ感覚を持った方だった可能性もありますね。「上手な処し方」については別のシチュエーションでも出会うことがあるもののように思います。本質はどうでもよくて、「すみません」と頭を下げてさっと身を引く。うまくいけば追求側に対するやじ馬(参観者、上司等の評価者含)の印象を、しつこく言い募る悪者というふうにすることができるかもしれない。自分の本質について理解する機会を逸する欠点はあるかもしれないけれども(クレバーな人は本質を理解しなくても陥ったらマズイ状況として把握するかもしれませんが)、話を長引かせて上記やじ馬の自分への印象を下げなくてすむかもしれない。こういうのに気質が関係してるのか文化が絡んでるのかは解りませんが。
by ちがやまる (2009-04-27 11:12) 

pooh

> ちがやまるさん

このへん悩ましいのは、こう云うあたり、かならずしも処世術として割り切っていたり、必要悪として認識していたり、と云うような状況ではない、と云うことです。
善意からも、情熱からも、こう云う(間違った「結果オーライ」的)認識は生じうる。「地獄への道は善意で敷き詰められている」と云う状況にとなりあわせになりうるわけです。
by pooh (2009-04-27 21:57) 

ちがやまる

リソースが間に合わなくて、とりあえず形式だけ整えて、ということはあるかもしれませんが、状況が許す限り本質を押さえる方が全体としての効率は上がることが多いのではないでしょうか。

他人に真心をつくすのは善からだけではない、だけど邪心から真心を尽くすのでは効率が悪いから、はじめから真心で行け、みたいな。
by ちがやまる (2009-04-28 12:16) 

pooh

> ちがやまるさん

> 状況が許す限り本質を押さえる方が全体としての効率は上がることが多いのではないでしょうか。

なんのための効率か、と云うところまで視野に入れると、おっしゃるとおりだと思います。

> はじめから真心で行け、みたいな。

じっさいのところ、それ以上の近道が存在しないことがら、と云うのはあって。教育も、そう云うことがらのひとつなのではないですかね。
by pooh (2009-04-28 21:49) 

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