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神秘を感じる [よしなしごと]

亀@渋研Xさんの「科学者にも怖いものはある」最終回と云うエントリ経由で、菊池誠のwebちくまにおける連載「科学者にも怖いものはある」の最終回、最後は折り合いをつけるが掲載されたことを知る(なんかリンクテキストが錯綜していて読みづらいなこの一文)。この連載についてはサイドバーにもリンクを常駐させているくらいで、もちろん読んでいたのだけれど、昨今馬鹿多忙なせいで読み逃していたのだった。

上掲のエントリで亀@渋研Xさんのおっしゃる、
自分がどうあって欲しいと考えているかとか、何かについてこれまでどういうものだと願って来たかということと、実のところはどういうものかということとは、当たり前だけど関係がない。きくちくんの言葉を借りれば「身もふたもない」ことに。その折り合いが、なかなかつかないよねとか、うまくつけようねとか、そういう話。やっかいな生き物だよね、ニンゲンって。
と云うような部分は、ぼくを含む非専門家としてニセ科学批判にコミットしている論者の多くに主要な論点として共有されている部分だと思う(いや、専門家のスタンスで関わっているひとたちにその部分への目配りがない、と云う話ではもちろんない)。
結局のところ科学でわからない部分はわからないのだし、それは科学と云うものの瑕疵ではない。また、科学でわからない事柄だからと云って、じゃあその事柄に価値がないか、劣るか、と云うとそんなことはないのもまた、当然であって。
科学は進歩しているし、科学でわかることも日々増えている。だからと云ってもちろん科学のものさしでその価値を測るべきではないことはあるわけで。逆に、ある事柄の価値が科学的な根拠を得た、と云うことがあっても、それがぼくらが感じる価値の高低に直接つながることはない。

このあたり、こちらのエントリのコメント欄でアーティストでいらっしゃるcorvoさんとお話ししたようなこととも関わってくる。ひとの心にアプローチする、と云う作業の多くの部分は技術面を中心に一種科学的でロジカルな要素で構成されているもので、それは多くの積み重ねとそのなかから抽出された合理性を踏まえておこなわれる。それでも、生み出されたものについては、けして合理性のみで語り得ないような効果をひとの心にもたらすわけだ。

今回の連載の最後のページで、菊池誠はこんなふうに書いている。
ロックには神秘がある。ピンク・フロイドのアルバム・タイトルという意味じゃなくてね。もちろん、クラシックでもジャズでも、あるいは演歌でもパフュームでも、神秘とか奇跡とかが起きる瞬間はあるんだと思う。音楽だけじゃなくて、美術でも映画でも小説でも、神秘はいろいろなところに見つけられる。下手の横好きとはいっても、演奏をしていると、何かが「来る」と感じる瞬間はあるものだ。そういう瞬間を感じたくて、また演奏するわけだよね。だから、科学者だって神秘を感じるのだし、それはオカルト的でも非科学的でもない。神秘は人間の心が生み出すものだから。
だから、感じ取れるものとしての神秘を科学の文脈で解き明かそうとする必要はない。それはその神秘をつくりだそうとするもの、理解しようとするものにとってはアプローチのいち角度として価値がある営為ではあるけれど、すくなくともそれを受け止める、感じ取るにあたってはそれほど重要なことじゃない。逆に云うと、科学的な文脈にもたれかかって神秘的なものの価値をあきらかにしようとする行為は、そもそもまずその神秘的な事柄に対して(そしてそれを感じ取るひとの心に対して)ひどく敬意を欠いた、侮蔑的な発想から生じるものだと思う。
ちょうどどこぞの「脳科学者」がマスコミなんかで露出しておこなっている行為のように(だから、ぼくは彼の行動はひどく罪深いものだと思っている)。
 それでも中には「ああ、1/fだから心地いいのか」なんて納得しちゃう人もいるのかもしれないけど、その納得のしかたは間違ってると思う。もしかしたら、将来さらに説明が進んで、「1/fゆらぎを含む音を聞くと、脳の聴覚野のどこそこがどう反応して、これこれという脳内物質の分泌が促進されて、その結果として心地よい気分になる」くらいの詳細なメカニズムがわかってしまうかもしれない。もしそうなったとしたら、「この音楽はそういう理由で心地よいのか」なんてみんなが納得しちゃうんだろうか。詳しいメカニズムが明らかになったとしても、それは音楽が持つ神秘を本当には説明しないのじゃないだろうか。メカニズムを解明するところまでは科学だけど、音楽を「感じる」のは科学じゃないのだと思う。
 結局、神秘は人の心の中にあるんだというのが結論で、だから科学的で客観的なものの見かたと神秘とは決して両立しないものじゃないんだと、つまりはそういうことが言いたいわけです。
このくだりに、ぼくはつよく同意します。
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mohariza

<感じ取れるものとしての神秘を科学の文脈で解き明かそうとする必要はない。>
・・・同感です。
感動する心(神秘として感じる心)は、科学では究明出来ないと思います。
究明したと説明し、人に「なるほど!」と一瞬、思わせても、それは「仮説」でしか無と思います。
<神秘は人の心の中にあるんだというのが結論で、だから科学的で客観的なものの見かたと神秘とは決して両立しないものじゃない>
・・・私も強く同意します。
心の仕組み(神秘)を科学の名を借り、説明する<輩(やから)>が増え、それを露出させ、人を煽るマスコミにも困ったものです。
by mohariza (2009-03-29 10:51) 

pooh

> moharizaさん

たぶんそう云う部分についても、科学で解明できることはあるんですよ。で、そう云ったアプローチに意味がない、価値がないと云うことでもないと思っています。
ただ、それは本質ではないんです。そこを取り違えたり混同したりするのは非常にまずいことだと思うし、その根底にあるとおぼしきなんと云うか、安易な心性、とも云うべきものが広がっているように見えるのが、もっとまずいことだと思っています。
by pooh (2009-03-29 12:58) 

亀@渋研X

こんにちは。
ニセ科学だとかオカルトだとか、事実の指摘は批判じゃないとか言う時に、かなり大きな部分で「言葉と価値の混乱」みたいなことが関わっていると思っていまして。poohさんの以下の部分なんかは「そだそだ」というのと「それだけじゃなくて」が、瞬時に渦巻いてしまいます。

> 結局のところ科学でわからない部分はわからないのだし、それは科学と云うものの瑕疵ではない。また、科学でわからない事柄だからと云って、じゃあその事柄に価値がないか、劣るか、と云うとそんなことはないのもまた、当然であって。

たとえば「○○の限界」とかいう表現に触れると、それはイコール「○○の瑕疵」なんだ、つまり「○○には価値がない」あるいは「○○は価値が低い」というような受け止め方をしてしまうような混乱は、現代人ならきっと誰にでもありますよね。限界があるか、どこにあるかということと、それになにかの価値があるか、どういう価値があるかということとは、多分、軸が違う話なんだけど、どうもぼくらはそういうふうに考えない、区別しないときがある。

まだちゃんと考えることができていないんだけど、ぼくはものの好みが少数派だったせいか、そこを区別することで自分と自分の嗜好を守って来たようなところが子どもの頃からある。

だけど、これも雑なくくり方なのだけれども、どうも、ニセ科学的なものやオカルト的なものに親和性が高い人や、ニセ科学批判を漫然と批判する人や、オーツキ教授といった方々は、しばしばそこを区別せずに語っているように見える。ていうか、むしろふつうの多数派の人って、そんなこと区別してくれない。たとえば「ポピュラリティが低い=価値が低い」みたいなことを簡単に言ってくれちゃう。それってぼくは隘路だと思っているんです。ものすごく閉鎖的な思考方法で、実状と離れて行くし、それだけではなく、いろいろな多様性、可能性、希望をつぶして行く。

書く時にも読む時にも考える時にも生じることなので、すごく言及しにくいのですが、そんなことをこのところずーっと考えています。
by 亀@渋研X (2009-03-29 16:24) 

pooh

> 亀@渋研Xさん

正直、おっしゃるようなことをどれだけわかっているのか、怪しくはあるのですが。

ぼくと亀@渋研Xさんのあいだである程度造詣と云う意味で共有できる芸術ジャンルはたぶんまず音楽だと思うんですけど(きくまこもそうか)、例えばそのジャンルのなかで理解を深めていこうとすると、その深さに途方に暮れることなんかはありますよね。でも、それができないと、自分なりの価値判断の基準を獲得するに至らない。

で、やはりなんらかの権威づけを道しるべとして利用することはあるわけです。で、それはそれなりに有用なんだと思います。ぼくはぼくでいまはガムランばっかり聴いているみたいですが、音楽と云うものの自分なりの判断のしかたを身につけるにあたっては(ロックを入り口とした)アメリカ黒人音楽の系譜、みたいなものを辿った経験なんかがあるんだと思うんですね。

そこには、既存の価値観なりポピュラリティなりへの依存がそもそもはあったんだろうと思うんです。でも興味の深さから、そんなところには留まることができなかった。そう云う話かとも思います。

ぼくは日常で、例えば会社のひとたちなんかとほとんど音楽の話はしません。それは、大半のひとたちが隘路のなかで居心地よく暮らしているからです。
実際のところぼくは自分のこう云う志向をかなり若い頃からもてあまし気味ではあるのですけど、まぁそれはそれでしょうがないかな、とか感じます。ただ、例えばぼくはここで言説をなすにあたって「語りやすいものを語りやすいかたちでは語らない」と云うことを(ゆるく、ではありますが)自分に課してはいます。そう云うことの意義を理解しないだろうな、と見受けられるような方々は、基本的に語り合う価値は(ぼくのほうからは)それほどないんだろうな、みたいなことを感じたりもすることが、どうしてもあったりはするのでした。
by pooh (2009-03-29 18:12) 

pooh

あ、この話って、ここで書いたようなこととつながってくるのかも。

http://schutsengel.blog.so-net.ne.jp/2008-10-16
by pooh (2009-03-29 18:17) 

zorori

音楽の素晴らしさを人間がなぜ感じるかという生物学的な説明を理解したからと言って、音楽の素晴らしさを感じたことにはならないということかと思います。これは全く別物ですから。

「美」や「神秘」という高尚なものではなく、「味覚」や「満腹感」という俗な感覚でも同じかと思います。「味覚」も生存上の機能で説明でき人間とは違う味覚を持つ宇宙人にも理解できるはずですが、人間が「味覚」から感じる満足感や幸せの感覚は人間しか分からないものだと思います。逆に味覚の理論を知らなくてもおいしいものはおいしく感じるわけです。

キリコの晩年の絵が自分自身の若いころの説明図になってしまって、あの独特の感覚が失われたことを連想しました。

by zorori (2009-03-30 21:33) 

pooh

> zororiさん

> 満足感や幸せの感覚は人間しか分からないものだと思います。

これには同感します。
ただ、それはやっぱりどうしてもあやふやさの残るものであって。なんらかのうらづけが欲しくなる、と云う感覚は、まぁわからなくもないです。でもそこには、いちばん大事なものはない。

> キリコの晩年の絵が自分自身の若いころの説明図になってしまって、あの独特の感覚が失われた

これ、ほんとうに愕然としますよね。
おんなじひとがおんなじ主題で描いているはずなのに、いちばん大事なものがそこからそっくり抜け落ちている。どうしてあんなことになってしまったんでしょうね。
by pooh (2009-03-30 22:06) 

YJS

こんにちは。

zororiさん writes:
> 音楽の素晴らしさを人間がなぜ感じるかという
> 生物学的な説明を理解したからと言って、音楽
> の素晴らしさを感じたことにはならない…

別のエントリ「科学教…」での経緯と関係するかもしれないんですが、zororiさんが指摘している上記引用の部分、最後の「感じた」を「減じた」とは思う人がいるのかもしれない、と。
つまり、「素晴らしいと感じる心の動きを生物学的(あるいは物理学的あるいは化学的あるいは…)に理解できるようになれば、音楽の素晴らしさは消え失せてしまう!」と考える事、あるのではないでしょうか?

もしそう考えるなら、「そおっとしておいてくれ」あるいは「侵略してこないでくれ」あるいは「本当はこうなんだよって私に教えないでくれ」、という態度につながるのではないでしょうか。要するに「知りたくないんだ!分からないまま、神秘的なままにしておいてくれっ!!」という。
場合によっては、つまり自分にとっての「未知なるが故のロマンが解体されようとしている」と感じる場合には、実施に科学者がそうしているかどうかに関係なく(それを知るには科学的な素養がそれなりに必要で、たまたまそれがなかったりした場合に)、科学者は傲慢・科学者は不遜・ニセ科学批判はカルト・云々を口走る人も出てくるということではないか、と。

で、私はどうかと言うと。
どうやら(どちらかと言えば)、「いずれ素晴らしいと感じる心の動きを生物学的(あるいは物理学的あるいは…)に理解できるようになるだろう」の方なんですね。ここはpoohさんと明確に違う点なんだと思います。
後段、「理解できたら素晴らしさが消え失せてしまう」については、よくわからないんです。消えたりしない気もするし、消えてしまう気もするし。

東京の池袋には、トランペットを吹くトヨタのロボットがあるのです。
例えば、ですね。人間の感動のメカニズムが全てではないにせよかなり判明したとして、そしてロボットの技術も進歩して、池袋のロボットの演奏で並の人間の演奏家より(いつでも)ず~っと感動するとしたら…と。
たぶん、あまり良くない筋の問いなのだろう、とは思ってますが。
by YJS (2009-04-02 17:58) 

pooh

> YJSさん

> 「いずれ素晴らしいと感じる心の動きを生物学的(あるいは物理学的あるいは…)に理解できるようになるだろう」の方なんですね。ここはpoohさんと明確に違う点なんだと思います。

いや、ぼくも「理解できるかもしれない」とは思いますよ。科学的な観点からでなくても、つくり手側からするとアートと云う営為はそもそもそう云うものであるわけですし。
理解できたらつまらない、とも思いません。そこが明確になると、ある「素晴しいもの」についてコミュニケーションするにあたっての共有できるヴォキャブラリーを増やすことができるわけですから。

ただ、そのことは、素晴しさを受け取るぼくたちの裡のこころの動きの、ぼくたち自身にとっての価値を定めることとはなりませんよね。「その感動は科学的には浅いはずのものだ」とか云われても、余計なお世話なわけで。
by pooh (2009-04-02 22:08) 

きくち

僕は将来的には「素晴らしいと感じる心の動きを生物学的(あるいは物理学的あるいは…)に理解できるようになるだろう」と考えています。
ポイントは、それがどれほど詳細にわかったとしても、神秘は失われないということです。科学による「理解」は、メカニズムを明らかにしてくれはするものの、感動そのものを与えるわけではないですから。
1/fについて書いたくだりは、そういう意味です。



by きくち (2009-04-03 00:49) 

YJS

こんにちは、poohさん、きくちさん、みなさん。

まずお詫びから。
> > …理解できるようになるだろう」の方なんですね。
> > ここはpoohさんと明確に違う点…
> いや、ぼくも「理解できるかもしれない」とは思いますよ。

これは私の勘違いでした。たいへん失礼致しました。なんと言いますか、私のコメントにもあるように、私も同意見なので更に意見が一致しているということではあるのですが。

poohさんの「理解できたらつまらない、とも思いません。」と、きくちさんの「詳細にわかったとしても、神秘は失われない」についてですが、先の私のコメントにもあるように、私はよくわからない、という状態ですかね。
神秘が失われない(=つまらなくならない)という気もするし、神秘が失われる(=つまらなくなる)ような気もする。
しかし(先のコメントで書こうと思って抜けていたのですが)、実は、その神秘が失われた(=つまらなくなった)としても別に構わないんじゃない?(その時はまた別の神秘があるんじゃない?)、という気持ちも私の中にはあるようなんですね。
まぁ、傲慢な考え方、なのかもしれません。

ただ、失われる物があると感じる人は不快感を持つのだろう、とは理解できます。多くの人のロマンティックなものに惹かれる態度はそのあたりに起因するのかなぁ、とか。だからクリスマスに「サンタぁ?いねんぢゃねっ!」と口走る場合は時と相手を選ぼう、とか。

ただ、なんと言いますか「強い態度」で「触ってくれるな」と主張する人については、むしろ「科学は非常に有効」であって、しかも「科学はパワーである」と感じているような節があるのかな、と。
科学者なる人たちがあることを理解することで、科学者の力が増し、未だに神秘に感じる自分の力が相対的に失われる、それが許せない、やつら(=科学者)は政治的な勢力なんだ、…のような経路を辿るのかなぁ、と。

私の妄想であれば良いのですが。
by YJS (2009-04-03 07:29) 

pooh

> きくちさん

> それがどれほど詳細にわかったとしても、神秘は失われないということです。

神秘はそれを感じるひとの裡にある、とまで云ってしまうと、別の方向の議論になってしまうかもしれませんが。
by pooh (2009-04-03 07:52) 

pooh

> YJSさん

そんな、お詫びなんて。ぼくもなにかはっきりした確信があるわけではないです。

> 科学者なる人たちがあることを理解することで、科学者の力が増し、未だに神秘に感じる自分の力が相対的に失われる

この部分逆に、そう感じさせるような言動を行わないように、科学者の側が留意すべき、なのかもしれません。
by pooh (2009-04-03 07:55) 

TAKA

ちなみに私の場合です。
「音楽に感動する心。完全に解明されたとき、人類は新たな感動を知る。」
登山なら、こんな感じですね。
「霧が晴れてきた。谷の向こうに、もっと高い山が見えた。あの天辺の眺めを、僕は知りたい。明日は、あの山に挑戦だ。」

> YJSさん
>科学者なる人たちがあることを理解することで、科学者の力が増し
>未だに神秘に感じる自分の力が相対的に失われる

林業に例えるなら、こんな感じですね。
「高性能機械であるプロセッサ」の仕事振りを、初めて見た新入りの若者たち:
「絶望した! 僕のチェンソーと違って、あっという間に造材するので、絶望した!」「これでは、アタクシたちの仕事がありませんわ!」

私:「フッフッフ、若者たちよ。そう慌てるな。君たちの活躍の場は、無限に広がっている。まずは、あの崖っぷちに向かいたまえ。安全帯を忘れるな。」

私:「え?この私は、どうするのかって?…私は、監督だよ♪ここで、のんびりコーヒーでも飲みながら、君たちの仕事振りを見ていてあげるね♪」

つまり、「いつまでもガッカリしていないで、とりあえず自分の技術を高めよう。行動した後には、美味いビールが待っている。」という、お話なのでした。

・・・・・以下、完全に予断な余談・・・・・・・・
なぜか急に、呪文のようなコメントを作りたくなりました。きっと、poohさんも感動するはずです?

『おジャ魔女的なマジカルステージをコメント欄で試みた』
赤見習い:「論理がピリ辛、ホボROM、テンプレト!」
橙見習い:「代替抗~弁、空~論、Who~?」
青見習い:「あまねく、乖離、何より、抜群!」
紫見習い:「も~ちろん矛盾、噛み噛みファ~♪」
黄見習い:「パターンきっと、破綻の~、論!」
妹見習い:「ビビット、プリント、また自論~、飽きたよと!」
花見習い:「ボロ論、憂さ論、はなはだし~!」
皆見習い:「せ~の!」「ガッカリな主張が全部、まともにな~れ!」

・・・もう少し、改良が必要かも。(-_-;ウ~ム。
by TAKA (2009-04-03 20:37) 

pooh

> TAKAさん

> 「音楽に感動する心。完全に解明されたとき、人類は新たな感動を知る。」

これ、あるかもしれませんね。ほんとに。

> きっと、poohさんも感動するはずです?

あががが。
by pooh (2009-04-03 22:07) 

zorori

YJSさん、こんばんは、

>zororiさんが指摘している上記引用の部分、最後の「感じた」を「減じた」とは思う人がいるのかもしれない、と。

そういう人は多いと思います。それは、「感動」と「感動の説明」を混同しているからじゃないかと書いたのですが、もう一つの勘違いは「真理の追究」と「インチキの暴露」を混同しているという気もします。信頼していた教祖様が詐欺師だったと暴かれるのを不快に感じる心理のようなものかと。詐欺師の暴露は「感動」の根拠を否定するものですから、感動を減じます。ところが、そうではない場合も、勝手に否定されたように勘違いする人も多いと思います。例えば、恋愛感情を生殖の視点から説明されると、侮辱されたように感じるとか。それから、マジックの種明かしをするとがっかりしたり怒り出すような人ですね。これらの人は生殖やマジックのタネに偏見を抱いているのだと思います。私は、それらにも「感動」を覚えますが、それは「恋愛の感動」や「マジック鑑賞の感動」とは全く別のものだとおもうのですけどね。

マジックのタネを知ってがっかりする人は、マジックの現象に感動しているのではなくて、タネに勝手な幻想を抱いてそれに感動しているのだと思います。現実のタネが自分の幻想とはあまりに違うものだからガッカリするんじゃないかと。でも、現象は現象として感動できるし、タネはタネとして感動できます。そして重要なのは、幻想のタネよりも現実のタネの方が感動的だと思えるかどうかだと。
by zorori (2009-04-03 22:52) 

pooh

> zororiさん

ちょっと乱暴ですけど、暴かれて減る感動ならその程度のもの、とか思ったり。
by pooh (2009-04-03 23:07) 

YJS

poohさん、takaさん、zororiさん、そしてみなさん。こんにちは。

知識が(この文脈では科学的な知識が)増えることによって、すくなくとも私の場合はモノの考え方だけでなく、ある種の感じ方(科学的にモノを考えるという事の認知的な近接領域にあるだろう感じ方)も変わっているように思います。
科学的な知識が増えた事で、変な話かもしれませんが文学的な感性まで変化しているような自覚がある、と。
そしてそれは、私に取ってはプラスの変化、照れる言い方になりますが「より豊かになった変化」なんです。

もちろん、オヂさんの年齢まで生きている私ですから、人間関係やら世間やらというものに関する知識も増えています。そういったものに関する知識が文学的な感性に影響を与えていることは確かですし、これはそれなりに常識的なもの世間的に理解されていると言えるでしょう。
しかし、科学的な知識でも文学的な感性が変わるってことになると、1)そんなことはなさそう、2)あったとしても良くない変わり方をしてる、3)むしろ文学的感性が摩滅したんぢゃないの?、というような言われ方(私に言わせれば迷信!?)もかなりある気がするんです。

それが例えば、zororiさんのご指摘の「恋愛感情を生殖の視点から説明されると、侮辱されたように感じる」に典型的に現れているのではないでしょうか。
そして、私の先のコメントにもありますし、またtakaさんの「感動する心。完全に解明されたとき、人類は新たな感動を知る。」については、全く同感、でして。
まぁ私は楽観的なんでしょうね。

by YJS (2009-04-04 12:48) 

pooh

> YJSさん

おっしゃること、危惧されているようなこともわかるんですよ。

> むしろ文学的感性が摩滅したんぢゃないの?

経験上、そう云う言い方をするひとご本人は文学的におおむね(略)

繰り返しっぽいですけど、芸術って営為は合理性の追求、と云う側面を強く持っています。音楽でも楽器なんて、よりよい音色と操作性を獲得できるよう非常にメカニカルに進歩してきた歴史を持っているし、演奏する側もそうですよね。
それは音楽の感動を説明するひとつの要素ですけど、もちろんそれで生み出された音楽のすべてが説明できるわけではないわけです。
by pooh (2009-04-04 17:13) 

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