科学と常識 [よしなしごと]
いや、この「宮城の新聞」と云うのはSix Apartのプロジェクトに基づき設置・運営されているものらしく、運営母体も不明なんだけど、なんか結構充実した内容みたい。そのうち余裕があるときにちゃんと読んでみる。
こう云うことを書くのはいくつかの意味で気恥ずかしいのだけど、ぼくの小学校3年生くらいまでの将来の夢は天文学者で。これは明石の天文科学館まで数駅、と云う場所に育ったことにもだいぶ影響されているんだろうと思う(で、たぶん当時のぼくは天文学と云うものに対して多大な誤解をしていたと思う)。で、そのあと夢も変わったりしたので、中学時分には西公園(広瀬側の東岸)にあった仙台の天文台にはそれほど足を運ばなかった。
で、この仙台市天文台が錦が丘と云う郊外の住宅地に移ったのが去年。近くを通ったことはなんどもあるけれど、まだ入館したことはない。時間をつくって、行かなきゃ、とは思っているけれど。
で、この記事は天文台長のインタビュー。ただ、この記事は科学って、そもそもなんだろう?と云うカテゴリのなかの記事(このカテゴリがずいぶん充実している。そのうちちゃんと読む)なので、そう云う角度からのインタビューになっている。全体に興味深い話題なんだけど、ニセ科学についてもちょっと。
(引用に当たって、インタビュアの質問の部分をイタリックにしました)
—科学と非科学を見分ける上で、わたしたちに必要なスタンスとは?
それはなかなか難しいことですよね。
まずは科学以前に、常識を養うことでしょう。
普通の生活をしていて、起こりそうにないことは、起こらない。
何もしないで物質をつくったり消したりすることは、有り得ないことです。
占いなどで病気を治すことはもちろん有難いことだけど、
普通、何もしなければ、それは起こらないことですね。
日常生活で、実際の現実に触れながら生活をして、
そういう常識を養う、っちゅうことなのかな。
その延長線上に、科学もあるわけです。
けれども、子どもがゲームマシーンの中で、非現実的な世界を考えていると、
常識、つまり実際の世界を超えてしまうのですね。
そういう感覚でいると、エセ科学にひっかかりやすいのでは。
落ち込んでいるときや、ストレスや不満があるときとか、
そういうものに騙されやすい時期があるかもしれませんけどね。
普通に自然のなかで生活していて、あまり特別なことを期待しないというかな。
あまりうまい話にはのらない、とかね。
そもそも科学には、うまい話はないです。
研究する上で、いろいろな実験や観測をして、データを集め、
いろいろな発見があって、はじめて世の中に理解されるわけですね。
つまり日常生活を通して、感覚や常識を養うことが一番。
現実世界の中で、冬は寒いし夏は暑い、とかね。
単純に言うと、そういうことなのですけど。
今は、人工的に環境を変えたりして、ちょっと非現実的な世界なのかもしれません。
典型的なのはゲームマシーンの中で遊ぶことなのだけど。
生の自然に触れる機会は少ないよね。
最近「素人にはニセ科学は見抜けない」的な論調を目にする。で、「そんなことはないはずだ」と云うのを、ぼくは(素人のひとりとして)主張してきた。土佐誠さん(と云う呼称はなんか落ち着きがわるいのだけど仕方がない)がここでおっしゃっていることは、ぼくが云ってきたようなことをよりきっちりとご説明くださっている。ゲームマシーンの功罪を強調する論調には異論もあるけれども、インタビューの内容に沿って考えれば包括的に捉えた場合の一因として挙げられるものであるのはまぁ確かだし、個人的な意見なんだろうからそれはそれでありなのかな、とは思う(ゲーム脳の話をしているわけじゃないし)。でもニセ科学にだまされるのはゲームに接しているこども(とおとな)だけじゃないよ、とは云いたくなるけど。
まぁ、これを日常生活のなかで過剰な負担なしにどうやって実践していくのか、と云う部分になるとまたいろいろ出てくるわけで。で、あぁでもないこうでもない、と考え続けることにもなる。ぼくはここで、その過程を晒している。
でまぁ、こんなようなことを云っているのはもちろんぼくだけ、あるいはニセ科学批判に素人のスタンスでコミットしている人間だけ、と云うわけじゃなくて。実際のところは菊池誠を典型としておおむねの「科学の玄人」も、ニセ科学に言及するにあたって云い続けてきたことではあるのだった。
一方で、「相対性理論は常識に反するから間違っている」なんて主張しちゃう人もいます。その種の人は自分の狭い体験を常識と誤認しているのであって、健全な常識が養われていないことは違いありません。でも、そうならないためには、常識を養おうと思うだけではダメです。常識を養うことも精神論ではダメで、そのための方法論というものがあります。あっちに行っちゃった人も自分では常識を働かせているつもりですから。
ちなみに、私は「集合論はマチガッテル」な人にからまれたことはあります。というか、今もからまれています。下手に刺激すると面倒が拡大しそうなので、放置していますけど。
by かも ひろやす (2009-03-02 23:28)
今晩は。
私がコメントする蓋然性が極めて高いとpoohさんが予測している蓋然性が極めて高い、と思っていますが、敢えて書こうと思いました。
「ゲームマシーン」を引き合いに出したのは、明らかに、「狭い観測範囲に基づいた不用意な主張」だと感じました。もっと辛辣に書くと、「乱暴な物言い」となりますけれども。
と、こちらにこういう感想を書いてもpoohさんが困るだけかな、という気も。ごめんなさい。
私は、かも ひろやすさんが仰る事がご尤もだと思います。
何と言うか、「常識として科学の知識と考え方を積極的に取り込む」、とでも表現出来ましょうか。常識というのは、アップデートされていくべきだし、また、それを意識する事自体を常識として弁えるのが大切かな、と。
by TAKESAN (2009-03-02 23:52)
> かも ひろやすさん
なんと云うか、ですねぇ。
ぼくもわりあいと無造作に「常識」と云う言葉を使うんですけど、じっさいのところはこれって要注意な語彙でもあるんですよね。
それはわかっているんですが、なんかほかに適切な言葉がなくて。いちおう「専門的とはされない知識」ぐらいのゆるい定義ぐらいしかできないんですけど。
で、お書きのコメントのなかでの「常識を『働かせる』」と云う考え方が、けっこう重要なのかな、とか思ったりしてます。
by pooh (2009-03-03 07:42)
> TAKESANさん
いや、この部分はあきらかに乱暴な物言いだと思います。
じっさいにはゲームをあげつらってその功罪を訴える、と云う文脈ではないので、主張の背景をかたちづくる(土佐さんご本人が考える)ひとつの典型例として挙げた、と云うことなんでしょうが、ことさらにゲームを強調するのは適切ではない。
ただ、そこを掘り下げると、インタビューの主旨からはずれてしまう。インタビューの現場でなにが語られ、なにが取捨選択されたのかはわからないわけですけど、実際にはもっと不穏当な発言だった可能性もありますし、そうしたらこう云う取り上げ方はできなかったかも。
> 常識というのは、アップデートされていくべきだし、また、それを意識する事自体を常識として弁えるのが大切
この部分につよく同意します。
by pooh (2009-03-03 07:48)
常識をもっと重要視することに関するエントリをあげようと思ってたときに、先を越された感じです…。そのうち私も書きます。
by lets_skeptic (2009-03-03 13:38)
> lets_skepticさん
いや、先とかなんとかじゃなくて。地理的に近い部分でこう云うリソースをみつけたので、慌てて扱った感じでした。
このあたり、lets_skepticさんとぼくで主題的に以前からちょっと重なる部分ですよね。
> そのうち私も書きます。
お待ち申し上げます。
by pooh (2009-03-03 22:02)
こんにちは、皆さん。
社会的にできあがっている常識として「自然科学の成果は自分たちが今まで常識でできないと思っていた事をできる様にしてくれる」があるから、「科学的に事実です」と嘘を付くことで人を騙すことができるわけです。ニセ科学というのが、社会に現れる嘘の中でも他の「常識に反する嘘」に比べて受け入れ易くなっているのはこのためなんですね。
或る意味で、私の様な技術開発者がおまんまいただいて、研究費いただいて研究できるのは、社会がそういう「今まで常識でできないと思っている事をできるようにしてくれるのが自然科学の研究というものだ」と思ってくれるからでして、「自然科学でアレなんであれ、できないものはできないだろう」なんて思われたら、私は別の仕事を探さないとならない訳ですね。
そういう意味では、この常識は守らないと成らない立場にあるわけです。問題は、こういう常識がある限り、ニセ科学が受け入れられやすい土壌というのはあるという事なんですね。というジレンマがあるから、ニセ科学を個別撃破するくらいしか、なかなか方策が無いわけです。
by 技術開発者 (2009-03-04 09:28)
勤務先が数年前にとあるイベントに参加することになった際、理学部の宣伝文句案として、「できなかったことができるようになる」との主旨のフレーズがあがってきたことがあります。それに対して、「原理的に無理なことをしようとする人を『原理的に無理だ』といって止めるのもわれわれの役割だ」という反論があり、関係者からある程度の共感を得たため、その方向で宣伝文句が修正されました。
できないことをできないと明言することも自然科学者の使命だと思い実践している人々もいるということで。
by かも ひろやす (2009-03-04 12:05)
適用範囲の問題のような気がします。
相対性理論は日常生活とはかけ離れた世界についても述べているので、そこでは常識が通じないのは当たり前といえば当たり前かと。相対性理論を適用して厳密に計算したからと言って、日常生活で非常識なことが起こるわけでもないですし。
しかし、明日の朝、西から日が昇ると言われたら常識で判断して問題ないですよね。ニセ科学といわれるものの多くは、正確にはニセ技術、ニセ工学で、宇宙やミクロの世界を扱っているわけではなく、省燃費グッズだったり、健康関係です。そういうものは十分常識で判断できると思います。
by zorori (2009-03-04 20:30)
> 技術開発者さん
> 常識として「自然科学の成果は自分たちが今まで常識でできないと思っていた事をできる様にしてくれる」があるから、「科学的に事実です」と嘘を付くことで人を騙すことができる
じつはこの部分、エントリを書いていて気になっていた部分でした。
これ、技術開発者さんのおっしゃる「社会の健全な保守性」と云うのにも関わってくる部分ですよね。
このへんなんですけどね。最近、tikani_nemuru_Mさんが「科学に対する批判的な視点」と云う観点から、エントリを挙げてらっしゃいます。
http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20090224/1235431578
このあたりを考慮に入れると、なんと云うか姿勢を整理できるのかな、とか考えたりもしています。
by pooh (2009-03-04 22:08)
> かも ひろやすさん
> できないことをできないと明言する
端的に云って、これって「受けのわるい」行動ですよね。
でもそれは誠実さの顕れであり、場合によっては信頼の基準、ともできるのかも。
by pooh (2009-03-04 22:09)
> zororiさん
結局、その適用範囲をどう把握するか、と云う問題のようにも思えます。
省燃費グッズや健康商品に量子力学がでてきたら要注意、と云う程度の判断ならふつうにできそうですけどね。
by pooh (2009-03-04 22:09)
こんにちは。
科学って、もう鉄板並みにガチガチの固さを持つ部分と、雲のようにフワフワな部分と、連続的につながってますよね。フワフワ部分はプロの科学者に任せれば良いのでしょうが、普通の人のガチガチ部分に対する態度が問題なんでしょうね。
普通の人が普通の生活をすることで養われる常識は、科学のガチガチ鉄板部分と重なる部分もあるけど、五感の及ぶ範囲ですら(近頃の行動経済学の知見で指摘されているようないろんなバイアスのせいで)鉄板部分と重ならない部分もある。そして五感が及ばない範囲となると全くのお手上げ。
で、適用範囲を限ればガチガチの鉄板部分は、おおむね初等・中等教育の教科書に書かれている部分だろうと思いますし、現代の知見ではガチガチの範囲内なのに直観がうまく働かない部分(=すぐには納得できない部分=相当程度に非常識に感じる部分)については、これまで蓄積された圧倒的な証拠があると授業の中で示される必要がある。
普通の人にしてみれば、ガチガチ部分がどれだけかということと、ガチガチ部分が拡大し続けてきたということ、このふたつを通常の初等・中等教育でマスターできれば良いのかなぁ、と。
だから、私なんかにとって常識は二種類あるんですね。
鴨さんのおっしゃる「原理的に無理なことは原理的に無理だと主張する」はガチガチ鉄板部分の範囲に関する常識、技術開発者さんのおっしゃる「科学は今まで常識でできないと思っていたことをできるようにしてくれる」はガチガチ部分の範囲が拡大し続けてきた歴史に関する常識。
ニセ科学という文脈に関して言えば、おやっと思う部分について普通にガチガチ鉄板部分を少し学んでみる、というのが一番簡単な回答だと思うのですが…そこのところが難しいんでしょうか。
by YJS (2009-03-05 00:00)
> YJSさん
お書きのことには全般に同感なのですが、たぶんもうひとつあるのは、ガチガチとフワフワがグラデーションのごとくその程度の点でつながっている、と云うことですかね。で、フワフワはガチガチを礎にして、そのうえにのっかっている。
そうすると、フワフワはもう完全にわからない、と云うものではたぶんないんです。ある程度初等・中等教育を踏まえれば、わからないながらもある程度はそこをベースに、なんと云うかそのフワフワさ加減、みたいなのを類推する道筋を見通す試みはたぶんできる。
とは云えもちろん、もう完全にフワフワなあたりは常識では理解不能なわけです。そうすると逆に、完全にフワフワな話をしているはずなのになんとなく納得ができる、呑み込める、と云う言説は疑ってかかる、と云うスタンスも選択できるわけで。
例えばぼくはもちろん量子力学の「り」の字もわからないわけです。なので、量子力学をベースにした議論なんかぜったいわからないはず。となると、量子力学に基づいていることを標榜しながらなんとなく理解できるように思える種類の言説、となると、すでに「常識的に怪しい」みたいに考えてもそれほど間違いではないのかも、みたいに思ったりします。
by pooh (2009-03-05 07:42)
こんにちは、poohさん、そして皆さん。
>じつはこの部分、エントリを書いていて気になっていた部分でした。
>これ、技術開発者さんのおっしゃる「社会の健全な保守性」と云うのにも関わってくる部分ですよね。
前に、「ガンコ村とオッチョコチョイ宿」なんてたとえ話をこさえました。
http://schutsengel.blog.so-net.ne.jp/2009-02-15-1
実のところ、ガンコ村がオッチョコチョイ宿を作った目的というのは、「新しい食い物を見つけてこい」とも違うんだろうと思うんですね。保守的な秩序の中で新規性に大きな価値をおく者というのは異端者であり、そんな異端者が村の中でバラバラにいると秩序のさまたげなので、一カ所に集めて隔離しておくという方の意味が大きいわけです。変なイメージなんですが、社会における「学会」というのも、元にそんな役割が有ったような気がするんですよ。社会の中で「新規な仮説」を振り回されてもややこしいだけで、秩序の混乱の元だから、そういう事のやりたい奴は「学会」というところでやり合っていろ、なんてね(笑)。私がこのたとえ話を封建時代の村落の若衆宿のイメージを借用して書いたのもそのためです。若衆宿というのは保守的な村の秩序維持の役目が大きいのです。
なんていうか、若衆宿でも若者の意見が一致した村の改革案なんかは、村として尊重せざる得なかった歴史があります。つまり、基本は保守的秩序の維持を目的として隔離しながら、「良い改革案をつくる」という付帯的な目的もまた存在はしたわけですね。
>このへんなんですけどね。最近、tikani_nemuru_Mさんが「科学に対する批判的な視点」と云う観点から、エントリを挙げてらっしゃいます。
>http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20090224/1235431578
なんていうかな、私は別の所でも書いた「負け戦」論者だから、当然のこととして「勝ち馬に乗りたがる心理」に突き動かされた批判を貰うのは自分たちだという意識があるのね。それは、前提条件から発生する事だから、自分たちにはどうしようもない面があると思っています。
by 技術開発者 (2009-03-05 08:43)
こんにちは。
> フワフワはガチガチを礎にして、そのうえに
> のっかっている。
> そうすると、フワフワはもう完全にわからな
> い、と云うものではたぶんないんです。
はい。その通りだと思います。
私の書き方が良くなかったようです。素人が無関係と言うつもりはなかったのです。
ガチガチとかフワフワと言った時、だれにとってのものと考えていたかというと、「賢い人も十分に多く含む現代社会全体にとって」ということでした。
なので、私がイメージしていたフワフワの部分とは、たぶん人類にとってのフワフワな領域という感じで、政府が機能しているなら科研費などを配分してプロの科学者に(必然的に)任せるべき範囲、と。
したがって、ガチガチの範囲も「現代の社会にとっての範囲」をイメージしていました。これはすなわち、殆どの個人にとって(プロの科学者にとっても)広大無辺と言って良いのではないかと。生きている間にガチガチの範囲を全部知る事が難しいほどに広い。
ですから、poohさんのご指摘の通り、「社会にとってはガチガチの範囲」で「それなりの知識がある人にとってもガチガチの範囲」でも、ある個人にとってはフワフワだったりということはあると思います。poohさんご自身の例で言えば量子力学が云々の部分。この意味で「フワフワが素人に無関係ということはない」と私も同意します。
私が「初等・中等教育で…」と言った時、ほとんどの個人にとって「ガチガチ部分は十分に広くなっている」という認識を持つ事が重要なんだろうという感じです。
それさえあれば「あまりうまい話は転がってない」という態度(いわゆる保守的な態度)が殆どの場合で正しいと判るでしょうし、既に確立された分野を自分で少し学んでみるだけで妖しげな物を一蹴できるのではないかなぁ。
でも、それが難しいのでしょうか、と。
by YJS (2009-03-05 12:00)
> 技術開発者さん
> なんていうか、若衆宿でも若者の意見が一致した村の改革案なんかは、村として尊重せざる得なかった歴史があります。
この場合宿のなかの議論でその成否を徹底的に確かめるしくみも備わっているので、よけいになんと云うか使い勝手がいい、わけですよね。
> 「勝ち馬に乗りたがる心理」に突き動かされた批判を貰うのは自分たちだという意識がある
まぁそりゃそうです。ぼくもこう云う人間なので、このブログでなくても、ニセ科学批判でなくても、そう云う状況はままあるわけです。
でもそりゃまずいだろ、と云う部分のほうが、動機としては大きい。で、どうやったら伝えられるのか、と云う訓練でもあったり。
by pooh (2009-03-05 21:57)
> YJSさん
あぁ、いや、YJSさんの書き漏れとかそう云う話じゃなくて、ぼくが重要だと思ったのであらためて書いた、と云うだけでした。
手元にあるガチガチの部分から、フワフワの部分に対するある程度の評価を導き出す能力、と云うか、なんかそんなものを使うことをかも ひろやすさんのおっしゃる「常識を働かせる」と云う意味合いで捉えられないかな、それって能力とかよりアティテュードの部分なんじゃないかな、と云う感じですかね、ぼくの云いたかったことは。
> ほとんどの個人にとって「ガチガチ部分は十分に広くなっている」という認識を持つ事が重要なんだろう
これは基礎認識としてあったほうがいいのかも、です。このあたりTAKESANさんがよくおっしゃることに近いかも。
by pooh (2009-03-05 21:57)
こんにちは。
> 手元にあるガチガチの部分から、フワフワの部分
> に対するある程度の評価を導き出す能力、と云う
> か、なんかそんなものを使うこと
これについては、少なくとも私は全面的に同意します。
鴨さんは相対性理論と集合論を例に挙げていましたよね。
例えば相対性理論は「個人の持つ常識的な感覚に反する」などという程度では全く揺るがないほどに圧倒的多数かつ独立の実験で支持されているわけです。その事実を知ればいいだけ。
集合論の場合は、物理において実験に頼るようなこととは少し違ってくるわけですが、たとえば選択公理ひとつ取っても、これに依存しているものはすごく多い。数学のプロとはほど遠い私ですが、確率論を勉強していると普通に出てくる測度論の語彙、これを選択公理なしとなると…概収束とか使えなくなるし、大数の強法則とか証明できなくなるし、そしたら確率過程の定式化が難しくなって金融工学がオプションが…とか感じるわけです。
何度か言及している、既に確立されてるガチガチ部分の強固なことと言ったら、もう。
私のような素人がちょっと勉強しただけでも、既存の体系がすごく巧みに構成されているって感じますし、ごく小さな一部分だけに注目して(ものすごく大量の思弁的な議論をくり広げて)「…を捨てろ」と言われても、困惑するばかりなんですよね。
つまりは、興味あること・知らなくてはならないことがあって、もしそれが自分にとってフワフワなんだったら、普通に教科書を手にとって学べば良いんじゃないかなぁ。普通にアップデートしてく。陳腐な言い方ですけど。
by YJS (2009-03-05 23:55)
> YJSさん
ここでやっぱり、おっしゃるような部分に対する理解、と云うか認識のさまたげになるのが、人間の思考のしくみのなかにある呪術性、と云うか「人間の基本仕様」なんだと思うんですよ。
http://schutsengel.blog.so-net.ne.jp/2008-04-22
ぼくはそう云うものを大事だと思うし、なんと云うか人間の呪術性を擁護しながらニセ科学を批判する、と云うようなちょっと妙なスタンスなんですが、そう云う仕様が人間のなかに存在する、と云うことを認識するのも、けっこう大事なんじゃないかなぁ、みたいに思ったりします。
by pooh (2009-03-06 07:39)
相対論どころか、ニュートン力学ですら、すでに、ヒトの直観を超えているんですよ。技術開発者さんをまねた言い方をすると、「人間の基本仕様」はニュートン力学にすら対応できていません。だから、常識を身につけるのに中等教育が大切、精神論では身に付かないという話になります。
このことは、素人に流鏑馬をさせてみればよくわかります。まあ、そもそも素人だと落馬しないことすら無理だから、走行中の乗用車の後部座席で窓を開けてクロスボウを真横に発射させることで代用するとして、ほとんどの人は発射のタイミングが遅れます。これは、ヒトの直観が速度の加法性に対応できていなくて、かわりに「物体に力を加えるとその向きに動く」になっているので、的が見えたタイミングで発射してしまって、結果として発射のタイミングが遅れます。
by かも ひろやす (2009-03-06 12:59)
> かも ひろやすさん
> 素人に流鏑馬をさせてみればよくわかります。
馬上で弓を構えることができる時点で素人ではないような(すいません、つまらない突っ込みです)。
> 常識を身につけるのに中等教育が大切、精神論では身に付かない
そう、「身につける」必要があるものなんですよね。もう構造的に、直観では永遠にわからない。
受け入れる、受け入れない以前に厳然としてそう云うものなので。
by pooh (2009-03-06 22:19)
こんにちは。
私だけではないかもしれない、他の人の意見を訊いてみたい、ということで書くのですが…。
> ニュートン力学ですら、すでに、ヒトの直観
> を超えているんですよ。
鴨さんのご指摘についてです。
私は小さい頃、飛行機というものが射出された勢いの惰性で飛んでいると思っていました。
そしてプロペラというものについてもかな〜り勘違いしていて、後ろに送り込む風が壁かなにかに当って初めて力が発生する、と考えていた時期があります。
たぶん、ヘリコプターみたいなものを考えていたのでしょう。地面に向かって空気をぶつけないといけない、というような。
あるいは、棒で壁を押して反動を受けている自分、というような。この場合は棒=空気で、壁=地面、みたいな。
空気の流れをぶつけるる地面などなくても、空気の運動量が変化させるだけで推力が発生するということ…じんわり驚いた気がします。そして、頭にしっかりとしみ込んできたのって…恥ずかしながら申しますと、大学に入ってからですね。
by YJS (2009-03-09 17:21)
> YJSさん
飛行機については、わりと早い段階(小学生の前半ぐらい)で、そのあたりは納得していたように思います。たぶん学研の「ひみつシリーズ」から得た知識もあったり、うちの父親が例えば「タケコプターはほんとうは飛べない、それはなぜか」と云うことを教えてくれるようなひとであったり、なんてあたりが理由かと。
ただ、ぼくも告白すると、ロケットの原理が感覚のうえではいまだに腑に落ちていません。
by pooh (2009-03-09 22:21)
だいぶ遅いコメントですが、「できないことをできないと明言する」件。
僕は例としてよく「熱力学第二法則」をとりあげます。これは「永久機関」ができない理由なのですが、これを「できないから残念」と思うのではなくて、「目標」と捉えることもできます。というのは、結局の所「熱力学第二法則」の限界まで効率の高い装置なんか、世の中にはないわけですよ。つまり、「原理的にはどこまで効率を上げることができるか」を示していると考えてもいいわけね。
ニセ科学の人たちは「熱力学第二法則」を絶望ととるのでしょうが、これを希望ととる視点もあるのだと思うのだよね。
by きくち (2009-03-12 23:33)
> きくちさん
それなりに「ひとのなしたこと」は(専門家でないと掌握できない部分が生じているくらいには)つみあがっていますが、もう「なせること」の余地がない、と云うわけではまったくないのですよね。もちろん「なにをなすか」については外的要因で遷移していくものではあるにしても。
全体としてはそこに短期間での長足の進歩はないし、これまでのつみあげのうえでしか次のつみあげの芽はないわけで。でも、「なしうること」はまだあるわけですよね。
by pooh (2009-03-13 07:40)