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ノンフィクションと「ファクト」 [よしなしごと]

doleさん(とお呼びすればいいのか、sapporokoyaさんとお呼びすべきか)の一種の知的活動ではあるのだが、どうもサイエンスとは異質の作業であるらしいと云うエントリを読んでちょっと感じたこと。前のエントリで書いたことともちょっと関わってくるのだけど。

フィクションとノンフィクションの違い、と云うことについてはいろんな切り口で論じることができるんだろうけど、そのひとつは、ノンフィクションとは事実について記述したもの、と云うことだと思う。その意味で、ノンフィクションは原理的にサイエンスの側に立っているはずのもの。そして、フィクションはその原理を持たないがゆえに、時に「真実」へのアプローチが可能になる。

ともかく、トンデモやニセ科学とは違う、でも現場の多くの科学者とは決定的な通訳不可能性のある、自然科学のようで自然科学でないような曖昧な分野、しかしなぜか人文科学者や文化人からは人気がある分野って、実際あるんだよね。

で、人文分野としてそんな思想があっても全然よいのだけど、なぜかこーゆーのに限って、世間では自然科学(理科)として扱われがちなのは、理科教育の面から見て困ったもんだと思う。

まぁ例えばぼくは福岡伸一氏の著書については未読で、a-geminiさんがお書きの評でしか知らなかったりするんだけど。

上に書いたように、それがノンフィクションである(あるいは消極的に「フィクションではない」)と云うスタンスを標榜しているものは、自然科学系だろうと人文科学系だろうと原理としては広義のサイエンスにのっとったものでないとまずい(し、不誠実)だと思う。
で、それを意図的(法的用語で云うところの「悪意」)に混同する、あるいは心裡留保するような言説は、やはりニセ科学にとても近い性格を持つもの、として捉えるべきではないかなぁ。
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sapporokoya


トラックバックありがとうございます。

「広義のサイエンス」という言葉の意味がよくわからないのですが、サイエンスの中でも通訳不可能性が存在する分野というのはあると思うのです。たとえば心理学や教育学の論文を読んでいると、自然科学をやっている人間からみてそれはおかしいだろうと感じる物もたまにあるのですが、だからといってそれなりに歴史のある学問体系を「不誠実」だといいきるのは、ちょっとどうかなと思ったりもします。プレートテクトニクスの件では、確かに日本地質学会の態度は科学者として不合理でしたが、それでもやはりサイエンスであって、ニセ科学とはちがうのではないでしょうか。

(一応断っておきますと、私は相対主義的な考えは大嫌いで、その立場から所謂ニセ科学を擁護する気はまったくありません)

ニセ科学と科学との区別は、考え始めるときりがないですね。
 


by sapporokoya (2009-02-16 01:35) 

pooh

> sapporokoyaさん

いらっしゃいませ。

すいません。ぼくの書き方が雑すぎて、またエントリにお書きの主旨を自分の議論にひきつけすぎた部分があって、ちょっと不適切な内容になったかもしれません。

「不誠実」と云う言い方をしたのは、おっしゃるような「通訳不可能性」の部分について茂木健一郎なんかがとっているスタンスについての謂でした。ぼくも文系の人間ですし、自然科学側から見てそのまま体系として呑み込めないからと云って、人文科学や社会科学が全体として不誠実、と云うことを云っているわけではありません(同様に、「間違った自然科学」も、少なくとも不誠実なものではないでしょう)。

ただ、例えば茂木氏が脳科学者の看板を背負って人文科学的・社会科学的事象について言説を行うときに、その接続の仕方はあきらかにフィクションだと思うわけです。その部分を、彼は心裡留保的に黙っている。これは不誠実な態度だよなぁ、みたいに思っていたりします。
by pooh (2009-02-16 07:52) 

技術開発者

こんにちは、 pooh さん。

「社会の健常な保守性」なんて考えていたら、「ガンコ村のオッチョコチョイ宿」というおとぎ話ができてしまったので、紹介します。

昔、あるところに「ガンコ村」という村がありました。村人はとにかくガンコで新しいものをひたすら嫌がります、「今のままで良いじゃないか」と・・・。とはいうものの、どの村にもオッチョコチョイな村人というのは生まれてくるものです。村人はガンコに食べられると分かっているものしかたべませんが、オッチョコチョイな奴は「この茸も食えるんじゃないかな」と食べたがります。そこで、村人は「オッチョコチョイ宿」というのをこしらえて、そこにオッチョコチョイたちを集めました。オッチョコチョイたちは「食えるかも知れない」と思うものをいろいろ試します。腹痛を起こしたり、下痢したり、時には泡を吹いて死ぬ者もいますが、それでも時々「これはおいしいよ」というものも見つけて悦んで食べています。ガンコ村の人たちは、オッチョコチョイ宿を時々訪ねて、「食べても大丈夫でおいしいもの」とわかったものだけを教えて貰って食べ始めました。こうしてガンコ村もすこしずつ食べ物の種類を増やして行きました。

ガンコ村とオッチョコチョイ宿では、ものごとの考え方が違ってきました。ガンコ村全体は「今のままで良い、新しいものなんて、どんな危険があるか分からない」なのですが、オッチョコチョイ宿の中では「試して見ずにダメというのはよそう」という意識が普通になりました。こうやってガンコ村のオッチョコチョイ宿は村全体の「毒味役」としてうまく機能していました。

時代が過ぎると、まずオッチョコチョイ宿に進歩がありました。なんでも試すことは変わらないのですが試し方がうまく成りました。茸を試すときも、少量のスープからはじめて、ひとかけら味わって、やがてまるまる一本食べてみるとか、えぐい茸を灰汁で煮てえぐみをとるとか、いろいろな探索手段を身につけました。そのことにより、オッチョコチョイ宿がガンコ村に教えることのできる「大丈夫でおいしい食べ物」は飛躍的に増えました。年に何種類もの「大丈夫でおいしい食べ物」を教えて貰えるようになつたガンコ村にも変化がおきてきました。「オッチョコチョイ宿が見つけ出すものは素晴らしい」と思うようになり、「新しいおいしい食べ物が手に入るのは良いことだ」と今までの「ガンコさ」を嫌う風潮が出てきた訳です。そして、オッチョコチョイ宿の中で言われいた「試して見ずにダメというのはよそう」は村のあちこちで聞かれる様になりました。

ある時、村の周りで美味しそうに見える猛毒の茸が大量発生しました。「試して見ずにダメというのはよそう」という意識になってしまったガンコ村の村人は「よし食べてみよう」と最初からたらふく食べて皆死んでしまいました。オッチョコチョイ宿のオッチョコチョイたちは、少量のスープを味わった日に多少身体がしびれたのですが、「これは食えないな」と食べなかったので生き残りましたとさ、メデタシメデタシ(どこが!)。

なんてね。理解して欲しいんですね。学会というのは、或る意味で社会のオッチョコチョイ宿の役割だったんですよ。

by 技術開発者 (2009-02-17 09:30) 

pooh

> 技術開発者さん

この「宿」は「しゅく」と読むのでしょうか。あぁ、いやどうでもいいですが。

このたとえ話、ヴォネガットの「坑内カナリア理論」を連想させますね。ヴォネガットがなぞらえたのは作家ですが、おそらくあらゆる分野の「おっちょこちょい」の役割について適用可能、なのでしょう。

ただ、多くのカナリアは坑内では相対的にしあわせではない(当人の認識はまたべつとして)運命に向かいます。そのことの意義、かも。
by pooh (2009-02-17 21:45) 

技術開発者

こんにちは、pooh さん。

>この「宿」は「しゅく」と読むのでしょうか。あぁ、いやどうでもいいですが。

どうでも良いと言えばそうですが、私は若衆宿などの連想で「やど」というつもりで書きました。なんていうか、昔の村落で若い男ばかりを集団生活させる風習もあったのです(明治以降、だんだんと村の青年団などになつていつた部分ですね)。若い男の子というのはバラバラで村落にいるといろいろと問題を起こしやすいので、一カ所に集めて、年長の若者がそれを統率することで問題を減らす訳ですが、同時に若衆宿として合致した意見は村もきちんと尊重するみたいな風習です。

オッチョコチョイと書きましたが、「新規な挑戦をしたい」という意識の強い個体というのは人間集団の中では、一面「和を乱す」者でもあります。そいつらに「学者」という立場を与え、「学会」というまとまりの中でのみ新規さを検証させるという形が私には若衆宿を連想させた訳です。

by 技術開発者 (2009-02-18 08:43) 

pooh

> 技術開発者さん

すみません。つまらないことを訊いちゃいました。

社会のなかでの機能、と云うことを考えたときに、やっぱり全体最適を目指したいわけで。で、社会のしくみと云うのは紆余曲折しながらそこを目指して振り子のごとくゆれているもの、なわけですよね。

いまどちらに触れているのか、そこが最適な場所からどちらに、どんなふうに離れているのか、と云うお話かと思います。
by pooh (2009-02-18 21:54) 

黒猫亭

>poohさん

>>で、社会のしくみと云うのは紆余曲折しながらそこを目指して振り子のごとくゆれているもの、なわけですよね。

ちょっと気の利いた比喩を弄すると、社会の中心軸の在り方って、電車の床を転がっている空き缶のような動き方をしますよね(笑)。
by 黒猫亭 (2009-02-19 04:31) 

pooh

> 黒猫亭さん

比喩に比喩を重ねるとちょっとややこしくなってきますが(^^;。

外的な条件で動いてしまう、一方向に動き出すと簡単には止まらない、しかも電車は動き続ける、みたいな感じですかね。
by pooh (2009-02-19 07:40) 

黒猫亭

>poohさん

>>比喩に比喩を重ねるとちょっとややこしくなってきますが(^^;。

すいません、脊髄反射で書き込みました(笑)。

>>外的な条件で動いてしまう、一方向に動き出すと簡単には止まらない、しかも電車は動き続ける、みたいな感じですかね。

社会的な状況の変化を電車に喩えると、空き缶が社会通念の中心軸で、加速すると後退し減速すると前進する、巡航状態では安定的、と謂うところですかねぇ。社会状況の変化と社会通念の変遷は勿論連動しているんだけれど、ガッチリ連結されているわけではなく相互運動をしている、みたいなイメージですかね。
by 黒猫亭 (2009-02-20 06:56) 

pooh

> 黒猫亭さん

> ガッチリ連結されているわけではなく相互運動をしている、みたいなイメージ

あぁ、わかります。
なかなか最適な場所には落ち着かない。慣性もありますしね。
嫌な慣性が働いている状況が、なにより怖い。
by pooh (2009-02-20 07:44) 

技術開発者

こんにちは、黒猫亭さん、pooh さん。

>社会状況の変化と社会通念の変遷は勿論連動しているんだけれど、ガッチリ連結されているわけではなく相互運動をしている、みたいなイメージですかね。

私のイメージでは「慣性による遅れ」みたいなイメージがあります。つまり社会意識の移動に社会状況が10年から20年遅れでおいつく感じですかね。

例えば、日本の家電なんかの品質の良さに関して日本の社会の貧しさを指摘する学者は多いですね。つまり所得に比べて家電製品の値段が高かった訳です。だから、倹約生活をしてやっとこさTVとかオートバイを手に入れる訳ですね。そうやって手に入れる宝物だから、「壊れる」なんてのは許し難い訳で、メーカーを選ぶにしても慎重であるわけです。本田宗一郎の「壊れたメカを持ち込むお客さんは心も壊れている。メカニックはお客の心も治せ」なんていうのはその事を良く表している言葉だと思います。メーカーはそれに答えて「壊れないように作ろう」と努力し品質が高くなるわけです。そういうTVやオートバイが、日本ほど所得に対して家電やオートバイが高価とは言えない国に輸出されると「安くて品質がよい」となるわけです。

ところが所得があがり相対的に家電やオートバイ自動車などの価格が下がってもメーカーの品質追求は簡単に止まりませんし、顧客の「日本製は壊れない」という意識も薄れない。でも現実の社会状況としては家電や自動車が「宝物」ではなくなっているわけです。でもって、宝物ではない状態が数十年してから、品質が低下し始める訳ですね。

こんな形の「慣性による遅れ」がいろんな所で現れている気がします。

by 技術開発者 (2009-02-20 08:44) 

pooh

> 技術開発者さん

非常にあたりまえのお返事になってしまうのですが、慣性によって遅れが生じる部分も、止まらずにつっぱしる部分もあるんだと思います。で、たぶん総体として、ではなくて、それぞれのエレメントごとに(もちろん電車の動きはあまねくすべてに影響を及ぼすわけですが、個々の事象ごとに影響の範囲や強さは違う)。

オッチョコチョイ系の心性を抱くことは、本来とてもリスキーなことでした。でも、そのリスクも(そしてその見積もり方も)電車の動きによって違ってくるわけです。オッチョコチョイでいることがたいしたリスクではない、と云う心性がある程度一般的になってくると、その「使い方」もそんなに留意が必要なものではない、みたいな感覚になってきたりして。で、そちら方向に慣性が向き出すと、その動きが電車と別の方向に向かっていても止まらない、みたいなケースもあるかと思います。
by pooh (2009-02-20 22:10) 

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