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あらためて知る、考える [よしなしごと]

KumicitさんがFinancial Timesがニセ科学との戦いの必要性を主張すると云うエントリでFinancial Timesのエディトリアルを翻訳されている。

でも、ひとたび広まってしまったニセ科学を根絶することは無理かもしれない。

だからこそ、Financial Timesは指摘する。短期的には、迅速かつ断固たる態度で意見を述べる多くの科学者が、そして長期的には科学リテラシーを持つ多くの人々が必要なのだと。
このへん、dlitさんがニセ科学批判はニセ科学の根絶を目指している?と云うエントリでお書きのこととも関わってくる、と思う。

科学リテラシー、と云う言葉を使うのをぼくがあんまり好きじゃないのは、たぶんぼくがそう云うものをあまり持ち合わせていないから。そりゃあったほうがいいんだろうけど、残念ながらそう云う方面の思考能力はとても弱い。科学、については、だれか頭のいいひとがぼくの代わりに考えてくれたほうがありがたい、そんでもってわかるように教えてもらいたい、と云うのが本音(ぼくに欠けているのは科学的な思考能力だけじゃないけどね)。

で、こう云うスタンスでいる以上、必要になるのは信用できる「だれか頭のいいひとによる言説」を見分ける能力、と云うことになる。科学について云えば専門家である科学者による見解ですね。
もちろんこれは属人的な信頼だけじゃだめで(このひとの云うことなら正しい、みたいな)、その見解の信頼性、と云うものを都度見分ける、と云うことになる。著名な科学者がポピュラーな媒体で受け手の誤解を(めいっぱい好意的に見て)心裡留保的に許容する言説を行うことがある実例については、a-geminiさんが丹念に批判されているとおり。

で、それは科学リテラシー(どうもこの言葉、具体的な定義がよくわからない部分もあるんだけど)がそんなに高くなくても、それほど難しいことじゃないんじゃないか、みたいに思う。と云うか、このブログでニセ科学に言及したエントリに価値があるとすれば、それは2割くらいは「知ってなくても、知ること、そして少し考えることで、ニセ科学でリアルな被害に遭うことはおおむね回避できるんじゃないか」と云うことについての、演習みたいなものとしての側面にあるんじゃないか、とか考えたりする(残りの8割はコメント欄にお越しくださるみなさんによる示唆、ですね。もちろん)。

必要なものがあるとすれば、科学的な思考と自分の感覚(まぁ感性みたいなもんですね)を混同させないこと。前にも引用した、tikani_nemuru_Mさんが体験によらない知識の重要さについて言っておくと云うエントリでお書きになっている、つまり、カガクの方法論というのは万人にとって異物であり他者であるのですにゃ。そしてそれゆえに普遍性をもち、人類にとって特別な地位をえているわけにゃんね。と云う言い回しで表現されているようなことを、念頭に置いて考えること。それは面倒であっても、難しいことじゃない。

とまぁ、このエントリはここまでほとんど他の方の考え方の援用。ぼくなんかの程度の知れた頭でも、こう云ういろんな方の見解を知り、すこし考えることで、たぶん多くの場合ニセ科学の被害は回避できるんじゃないか、と云う演習でした。

それはそれとして上で引用したkumicitさんの言葉にある迅速かつ断固たる態度で意見を述べる多くの科学者については、もっともっとたくさん登場してくれないと、考える材料にも困るよなぁ、みたいに思う部分もあるのだった。
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技術開発者

こんにちは、pooh さん。少しピンボケになるかも・・・。

実は、昨日「労働安全研修」というのを受けさせられた訳ね。「必ず受けろ」なんて言われるのでね。ヒューマンエラー(ヒューマンファクター)に関する講義を聴いて、指差呼称の実技までやりました(笑)。

私は良く「人間の基本仕様と取り扱いマニアルとしての文化」論なんてやるけど、実のところその根底に、ヒューマンファクターの解析による事故対策としての「指差呼称」なんかも入っている訳です。そういう意味で私なんかは研修受けても、「目新しく」は無いけど、さほど退屈もしないんですね。仕事場の安全衛生委員でもあるし、安全衛生系の資格ももっているし、さらにいうと労組の役員としての担当業務にも「労働安全衛生」があったりするのでね(笑)。

なんていうかな、毎朝朝礼をやり、そこで安全関係の確認をやり、実際現場で確認部分の指差呼称をやるなんてのは、割と東洋的文化で、欧米では人気の無いやりかたなんです(うちは研究所なのでそういうやり方は取り入れていないのだけどね)。でもって、現場も「やれと言うからやる」的な雰囲気は結構ありそうです。でもね、私の知っている統計解析でも昨日聞いた講義(私の知識よりもずいぶん新しい統計が使われていました)でも、実際問題として労働災害を減らす効果はあるんですよ。だから、多くの現場が取り入れている。心理学的なメカニズム論でも動作や発声を伴う確認の方が効果を発揮する事は説明出来てしまう訳です。

私は、「ニセ科学問題」ではなくて「ニセ科学の蔓延問題」って言い方をしますよね。これって実は、ヒューマンファクター論とかなり類似するんですね。ニセ科学の発生そのものはヒューマンファクターと強く結びついていて根絶なんてできないんです。ただ、それが広がらない様にする文化を構築する事はできると考える訳です。そして、その中には労災を減らすための「指差呼称」みたいに、あまり当事者が喜んで受け入れない様な部分もあるとは思うんですね。文化というのは或る意味で人に何かを強制する面はもちますからね。

by 技術開発者 (2009-01-21 11:51) 

pooh

> 技術開発者さん

> ニセ科学の発生そのものはヒューマンファクターと強く結びついていて根絶なんてできない

同意です。
で、このことについては、本文中で引用したdlitさんのエントリにつけられたはてなブックマーク
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/dlit/20090119/1232353319
での玄倉川(id:kurokuragawa)さんのコメントが端的に示しているとおりかと思います。

ヒューマンファクターにはある局面においてネガティヴな働きをする「仕様」が含まれていますが、だからと云って例えばヒューマンファクター全般を否定するのは間違っている(し、意味がない)。そこは適切なツールを使って補ってやればいいわけですよね。それはある局面では科学でもあろうし、また技術開発者さんがここでおっしゃっている意味での「文化」でもあろうかと思います。
by pooh (2009-01-21 22:00) 

dlit

こんにちは。

「もぐら叩き」の比喩はちょっとまずったかな、と思うところもありまして。
それは「叩き」の部分から、批判・対抗・戦い・撲滅、のようなイメージを喚起されやすいんじゃないかな、という点です。個人的には、上で挙げてくださったブクマにcomplex_catさんがお書きになったように、「護身術」という位置付けを考えています。
そして、護身が目的ならば、ここでpoohさんがお書きのように、科学リテラシーの高いレベルでの徹底が(唯一の)目標・方法でなくともいいと思うんですよね。

何らかの専門家は(アカデミシャンに限らず)もっと積極的に何らかの活動にコミットできるし、しても良いんじゃないかと思いますが、これも最近黒影さんがまとめていたように、全員が戦え、という必要は無く、批判活動に賛同の意を表明する、のようなものでも多くの人が関わるってこと重要なんじゃないかと。
ありきたりなところですが、多くの人による「やれる人がやれることを少しずつ」の積み重ねって辺りが一番個々の負担が少なくて良いんじゃないか、と考えています。そうすると、じゃあ具体的に誰がどんなことをすればいいのか、ってのには万能の回答は無いわけで、その点ではしんどいのかもしれません。
by dlit (2009-01-22 16:47) 

pooh

> dlitさん

> 護身が目的ならば、ここでpoohさんがお書きのように、科学リテラシーの高いレベルでの徹底が(唯一の)目標・方法でなくともいい

ちょっと考えることで、必要な判断はできるはずだ、と云うのが、ご存知のとおり以前からのぼくの主張です。
で、ぼくは例えばここでは「ちょっと考える」以上のことはしていないつもりです。へんな話、そんなぼくでも「この程度ならわかる」。わからないことはだらだら考えたりして、教えてもらったり(そう、「教えてもらう」こともできるんです!)。もちろんそれでも素人にニセ科学をぜんぶ見抜けるわけではないですが、無防備で突っ込んでいってしまうことはなくなる、はず。

> 批判活動に賛同の意を表明する、のようなものでも多くの人が関わるってこと重要なんじゃないか

このエントリでは多少意図的にそうしたのですが、例えばkumicitさん、dlitさん、a-geminiさん、tikani_nemuru_Mさんの言説にリンクを張って言及してますよね。これは、サイト持ち・ブログ持ちがある程度手軽に行える賛意の示し方のパターンのひとつですよね。それらのリンクをクリックしてくれてリンク先を読んでくれるひともいるし、サーチエンジンに対しても(微力ながら)それは賛意と認めてもらえる。
ぼくの場合はそれでも文意優先なのですが、黒影さんのおっしゃっているのは、このようなことでもあると考えています。
by pooh (2009-01-22 22:01) 

せとともこ

poohさん。
こんにちは。
先日、茂木さんの著書についてエントリーを挙げたのですが、
http://ts.way-nifty.com/makura/2009/01/post-9bec.html
その時、あなたやa-geminiさんやblupyさんをチラリと紹介させていただきました。
相変わらずトラックバックをお送りすることができなくて残念無念。
事後承諾になっていますが、もしお時間がありましたら、またご覧くださいね!!!

さて、
今日は、このエントリーにコメントを入れたのは、実は私もこの間のアレコレのやり取りを見て、考えさせられています。

「必要になるのは信用できる「だれか頭のいいひとによる言説」を見分ける能力、と云うことになる。科学について云えば専門家である科学者による見解ですね。」と言われるpoohさん。

私も全くそうだと思います。
いつも開発者さんからご教示を頂いている私は、その折にふれ「見極める力量」について考えさせられています。

そして、
だからこそ、
そうだからこそ、
ネットでの討論や議論は相手への敬意とか配慮が必要なのでしょうね。
どんなに「正しい」とされる事でも、それを受け入れるか否かはまた別のことなのでしょうね。
いきなり「間違っていまっせ」と言われたら、誰でもムカつくものですよね。
相手に対して丁寧さを欠くと、ムチャクチャ、ワヤになるのでしょうか???

私はこの頃思うのですが「ニセ科学批判」と言う言葉そのものから与えられるイメージが、
討論する前に、既に相手に警戒を呼び起こすのかと思ったりしています。
本来なら話し合える相手にさえ警戒を起こさせ、話が決裂するのは如何にも勿体ない。
こうした効率の悪い愚を犯さないために、如何にあるべきか???
考えますね、、、
ウウウウ====ン(考え中)

いずれにしても、
私たちがすべきことは一つ一つの事例の「批判」と言うよりは、
そもそもの根本というか、確信犯とも言える提唱者たちへの告発の急を感じるものです、、、


では、、、またね!!!
by せとともこ (2009-01-23 16:00) 

せとともこ

長くなるので、別にまた書かせていただきます。
(連投、宜しくお願いいたします)

「モグラ叩き」について話題にもなっていますが、
私も開発者さんが dlitさんのブログに書かれているような趣旨では「モグラ叩き」は賛成です。
つまり「悪意あるモグラ」については、その都度、丁寧に叩いていく労を惜しんではいけないのでしょうね、、、
そして、それをなさっているのが開発者さんや菊池さん、天羽さんなどなどの方々なのでしょうね。
本当に心強く思います。

さて、
私自身のテーマは「批判方法」であることは以前にも述べました。
悪意はなく、お気軽にノホホンと信じてしまう人に、
どう伝えていくことがいいのか、、、と考えてます。
そうした折り、開発者さんから頂いたコメントに「当事者を問題にするのではなく、その討論ややり取りを見ている人たちの誰か一人でも贋物に気がつけば、その討論は成功だ」と教えていただいたことがあります。

本当にそうなんでしょうね。

なんだか、まとまりないコメントですが、
上の開発者さんの「ニセ科学の蔓延問題」」という呼称に敬意を表して。

では、、、またね!!!
by せとともこ (2009-01-23 16:27) 

dlit

そうですね、僕はたまにしかニセ科学問題には言及しませんが、僕のところに(特に)ニセ科学以外の動機で来てくれた方なんかにも興味を持ってもらったり、リンク先を読んでもらえたらなあ、と思いながらいつもエントリ書いてます。

ニセ科学に対して、とりあえず立ち止まって考えてみる、回避する、どこが間違っているか指摘する、批判する、撲滅する、のような対応の仕方のレベルの違いを区別して考えるのは重要ですよね。それぞれで必要とされる技術や知識も違ってくるわけですし。
by dlit (2009-01-23 18:36) 

pooh

> せとともこさん

エントリは拝読していました。
正直、茂木さんの言説にある仕掛けなんかは、見抜くのに科学リテラシーが必要な水準じゃない、と思っています。

> > ネットでの討論や議論は相手への敬意とか配慮が必要なのでしょうね。
> どんなに「正しい」とされる事でも、それを受け入れるか否かはまた別のことなのでしょうね。
> いきなり「間違っていまっせ」と言われたら、誰でもムカつくものですよね。

まぁ正直ぼくはそれをやって、相手をむかつかせている人間なんですけども。

敬意、と云うのをどう捉えるか、と云うのもそんなに簡単な問題ではなくて。
このへんうまく書けないんですが、おとなの論者をおとなとして扱わない、と云うのもある意味敬意を欠いた扱いだとぼくなんかは考えます。おとなの論者は論と自分の人格を切り離して考えられるはずだし(だから批判されても感情的にはならないはずだし)、意見を表明すれば批判がありうるのを当然だと考えられるはずだし、誤りがあれば素直に認められるはずなんですから。それを前提としないのは、いっそ失礼でもありますよね。こども扱い、と云うことになる。
いや、ぼくも以前と較べると攻撃的なものいいはしなくなっていますが、やはり議論においては主張の強さとの兼ね合いになりますね。不要に優しいものいいは、自分に対して言い訳を準備する事にもなりえますから。

> 私はこの頃思うのですが「ニセ科学批判」と言う言葉そのものから与えられるイメージが、
> 討論する前に、既に相手に警戒を呼び起こすのかと思ったりしています。

どうなんでしょうね。
ぼくはニセ科学と云う用語を使うし、ニセ科学の批判を行いますが、「ニセ科学批判者」とは自己規定していません。その意味でニセ科学批判者には原則的に類型は存在しないし、批判を行う人間はおなじ旗印のもとに集まった同志、ではありません。
ただし、そこでの議論には果実が存在します。当然ながら果実を享受し、共有し、論理を強化しようとする営みは存在しますし、そこにはコミットします。原則それ以上のものではありません。
なので「ニセ科学批判者」についての批判や言及は、poohに対するそれではないと認識します(poohを批判したいときは、名指しで批判してくれればよろしいかと)。ただし、「ニセ科学批判」にはコミットしていますので、そこに対する批判には対抗言論を発することはあります。そう云うことです。

> そもそもの根本というか、確信犯とも言える提唱者たちへの告発の急を感じるものです、、、

そこにももちろん意義はあると思いますが、上で書いたように原理的にニセ科学は根絶が難しいものです(ニセ科学の温床となるような「人間の基本仕様」を、ぼくはまたこよなく愛するものでもあります)。ぼくの関心は「どうすれば回避できるか、蔓延させずにすむか」と云う方向に向けられています。

> つまり「悪意あるモグラ」については、その都度、丁寧に叩いていく労を惜しんではいけないのでしょうね、、、
> そして、それをなさっているのが開発者さんや菊池さん、天羽さんなどなどの方々なのでしょうね。

まぁ、善意・悪意に棹さして判断すると、ちょっと危ういとは思いますけどね。
科学の現場にいる方のニセ科学批判へのコミットメントは、やはりなにより重要だと思っています。
by pooh (2009-01-23 22:12) 

pooh

> dlitさん

例えばぼくは、科学と云うものについての理解はきくちさんやapjさん、黒影さんやNATROM先生やほかのいろんな方々にかなわないわけです。もう絶対にかなわない。別の分野では、dlitさんや朴斎先生やcorvoさんにはやっぱり絶対かなわない。お名前の羅列はしませんが、かなわない方だらけなわけです。そのあたりのことは、やっぱりそれぞれの方の言説に直接触れてもらったほうがいい。
でも、じゃあなにもできないか、自分でしたいことはないのか、となると話は別なわけですよね。
できる範囲で、したい範囲で、と云うことです。そのあいだにアンマッチがあれば、まぁそこには努力の余地も、みたいな話になってくるかと思います。
by pooh (2009-01-23 22:13) 

No.4560

こんばんは、No.4560です。
ここ1年はネットに繋がない日も多かったので的外れな意見かもしれませんが。

>不要に優しいものいいは、自分に対して言い訳を準備する事にもなりえますから。

今は動けてないんですけど、動いていた頃の僕は「不要に優しいものいい」ばかりでしたね。自分に対する言い訳も準備してたように思います。

ただ、う~んとどう書けばいいんだろう?なんかpoohさんの書いておられる意味とはずれるかもしれませんが、
「不要に優しいものいい」を避けることと「不要に厳しいものいい」を避けることは両立できますよね。

そして、少なくともpoohさんが

>まぁ正直ぼくはそれをやって、相手をむかつかせている人間なんですけども。

と書いているほどには「不要に厳しいものいい」はしてないように思います。
少なくともせとともこさんが書かれているような(ちょっと引用します)、

>誰でもムカつくものですよね。
>相手に対して丁寧さを欠くと、ムチャクチャ、ワヤになるのでしょうか???

のような書き方は僕が見たかぎりではないように思います。

そして、せとともこさんの書かれていることは、直前の引用文のような「不要に厳しいものいい」についての意見に見えました。


ROMの方に色々と考えてもらうためには最低でも読んでもらわないといけません。

ただ、例えばkikulogのナノイー関連の記事を、正直僕はある程度以上、読む気になれませんでした。
対話相手の問題がもちろん大きいんですけど、レスする側の一部の嫌味やら人格否定的な書き込みを見ると、ROMの人にとってはどうなんだろう?と思ったりします。
まあ、これは極端な例なんでしょうが、小規模な議論がなされている所を見ていても、たまに気になったりします。

下手すると「悪貨が良貨を駆逐する」(一般的な意味で)みたいなことが起こってないのかな、と思うときもあって、そういう意味では「不要に優しいものいい」を避けながら「不要に厳しいものいい」も避ける、という発言が大事なのかな、と思いました。

後、こども扱いかどうかについてですが、僕自身に関しては、正直結構していました。失礼かなと思うこともあるんですが、実際問題、伝えたい相手に伝えたいんですよね。
(こちらは失礼だと実際に言われたことがありますが、ROMの人に向けた文章でも。)

実際、こちらの(礼を失するという)気持ちも重要なんですが、失礼かどうかは相手に決めてもらう、というのも、何か矛盾した表現になりますが、一種の「おとな扱い」にはならないでしょうか?

すみません。なんかうまく書けなかったので、意味不明かもしれません。(これも多分自分に対する言い訳。)
by No.4560 (2009-01-23 23:57) 

田部勝也

いつも思うのですけど、相手によって態度を変える事が当たり前にできて良いと思うのですよ。それは別に不誠実な態度というわけでは決してない。むしろどんな相手に対しても同じ態度で接するほうが、相手の事を考えるのを拒否する不誠実で怠惰な姿勢だと考えます。

たとえば私のWebサイト(↓)
http://homepage2.nifty.com/k-tabe/
には、『いじめ問題と「水からの伝言」について。』と『相対論擁護者への切実なお願い』の2つのコンテンツがあります。
『いじめ問題と「水からの伝言」について。』のほうは意識的に「ニセ科学」という言葉は使っていませんし、ほのめかしてさえいません。そして、批判対象(現場の教員や子どもを育てる立場の人たち)に最大限敬意を払った書き方をしたつもりです。それは幻影随想さんのブログのこのエントリ記事(↓)
http://blackshadow.seesaa.net/article/106671451.html
へのコメント(#16と#30以下)もそうです。
一方、『相対論擁護者への切実なお願い』のほうはタイトルに明記してある通り、相対論擁護者に向けて書かれたものですので、最初から批判対象(反相対論者)を貶めた書き方になっています。相対論擁護者が反相対論者を批判する勇気を与える、背中を押してあげる――でも批判方法について注意を促す――書き方を心がけたつもりです。ここでは批判対象(反相対論者)に対する配慮は一切考えていませんし、そもそも存在しない反相対論者への敬意を装うような事はまったくしていません。

さらに言わせてもらえば、ここを読んでいる方ならば、私がかつてこのエントリ記事(↓)
http://schutsengel.blog.so-net.ne.jp/2008-06-13
のコメント欄でどのような批判方法を採用したかご存知でしょう。

批判方法を論じるのは大変有意義だとは思うのですけど、目的を見失ってはただの「ケンカをやめて」になってしまいます(↓)。
http://www39.atwiki.jp/cactus2/pages/13.html#id_28b2ee43
無垢で傷つきやすい純真な子どもを優しく丁寧に導いてあげるような事は私には不適だと思っていますので、それは適任の方にお任せして、私は「無垢で傷つきやすい純真な子ども」と見なす必要のない(見なす事がかえって失礼に当たる)方々を相手にしたいと思っていますし、しているつもりです。
by 田部勝也 (2009-01-24 00:59) 

No.4560

上の僕の文章は、やっぱり矛盾がひど過ぎですね。読むのも手間だと思われたら、無視してください。
この手のコミュニケーションの問題はもう考えてるだけで頭が痛くなりそうなので、その一種の足掻き程度の内容でした。
by No.4560 (2009-01-24 01:13) 

pooh

> No.4560さん

いや、むかしのエントリを見ると、ぼくは相当きつい書き方をデフォルトで採用しています。この頃は「自分に発言に当たってのエクスキューズをどう許さないか」と云うことに目がいっていて、なんと云うか、背水の陣、みたいな言論姿勢をとっていて。

でも、「必要なものを必要なだけ届かせる」と云うのはどう云うことなのか、をある時から考えたりしたんですね。ここには、ビリーバートの直接対話を重ねて来られたnewKamerさんの示唆もありました。

それでも、必要と思っただけの書き方はします。それは自分のためでもあるし、ROMのためでもあります。
自分の意見にネガティヴな反応があった、と云うことに拘泥するあまり、論者として完全にだめになってしまうひと、と云うのはいますよね(ナノイーイオンの例の方を典型に)。痛ましいなぁ、と思いますし、そう云うひとを生み出したくはない。でもそうなってしまったらそれはもうご本人の問題だと思いますし、残念ながらぼくはそのひとの救いや理解よりも、その言説の否定を優先します。

礼、云々については、これはもう単純にぼくの感じ方です。裏にあるのは「議論の場にでてくるんだったら相応の覚悟を準備してこい」みたいな感覚でもあります。
by pooh (2009-01-24 06:28) 

pooh

> 田部勝也さん

> 相手によって態度を変える事が当たり前にできて良いと思うのですよ。それは別に不誠実な態度というわけでは決してない。

同意します。この同意そのものがなんとなく言い訳めいていてなんなんだかなぁ、ではあるんですが。
大事なのは、届けたい相手に届ける事です(ぼくにとっては)。届けたい相手が必ずしも対話の相手とは限りません。

> 無垢で傷つきやすい純真な子どもを優しく丁寧に導いてあげるような事は私には不適だと思っています

これは、基本的にはぼくもそうですね。
そう云う場合にはできるだけ対話はしません。そもそも「無垢で傷つきやすい純真な子ども」なんて云う恐ろしいものには近づきたくないくらいです。
by pooh (2009-01-24 06:32) 

田部勝也

>poohさん。

上で紹介した黒影さんのブログへのコメント(↓)
http://blackshadow.seesaa.net/article/106671451.html#comment20080918010846
にも書かせていただきましたけど、乳幼児から児童までの養育・教育に関わる/関わってきた方々には本当に心から敬意と畏怖の念を持ちます。いま現実にこの社会に生きている多くの人たちが実はそんな凄い仕事を成し遂げてきた――という事実に、驚きと少しの劣等感を覚えたりもします。

なんで、そんな偉大な仕事を成し遂げている人たちが、ちょっと他人から間違いを指摘されたくらいで人格否定の危機を感じなければならないのか、実は少し不思議だったりもします。
昔の肝っ玉母さんじゃないけど、男女問わず育児の経験って、ちょっとやそっとの事じゃあ動じなくなる精神を鍛えるくらいのパラダイムシフトかつセンス・オブ・ワンダーな経験だと思うんだけどなぁ……独身男性の幻想なのかなぁ。
by 田部勝也 (2009-01-26 00:26) 

pooh

> 田部勝也さん

ちょっとあてずっぽうの見解で申し訳ないんですけどね。

なんかその両者、じつは違うレイヤーにある気がします。へんな云い方ですけど、鍛えられる部分が違う、と云うか。感覚的には、田部さんのおっしゃる感じはすごくよくわかるし、同じような感慨はぼくも抱いてるんですけど。
by pooh (2009-01-26 07:48) 

黒猫亭

>田部勝也さん、poohさん

poohさんが仰るように、「無垢で傷つきやすい純真な子ども」みたいなものに大人としての責任において何かの影響を与えると謂うのは、けっこう怖いことだと思うんですよ。

昨年の一連の議論を通じて、教師の方にはカリキュラムへの信頼と謂う一本の芯があって、そこを拠り所にして自身の行為に対する責任を引き受けていると謂うようなことがわかりました。多分、世の親御さんに欠けているのは、この場合のカリキュラムに相当するような、信頼し得る方法論なんだと思うんです。

今はもう、巷に育児論が溢れていますし、お姑さんとか育児の先輩とか人によって全然言うことが違うじゃないですか。で、傍目に視たらどう考えても失敗した子育てみたいな実例がゴロゴロしているわけですね。そう謂う状況の中で、自分はどうやって子供を育てていくのか、と謂う部分で、やはりカリキュラムに相当するような何かを理も非もなく信じざるを得ないと謂うこともあるのかな、と思います。

それがたとえば七田式だったりするわけですが、信頼し得る方法論の不在と謂うことで考えると、自身の誤りを指摘されることに対して、それが一足飛びに育児に向かう自身の姿勢の全否定に直結して、そうでない立場よりも強固な反撥があると謂うことなのかな、と思います。

つまり、目の前に存在する我が子をとにかく育てなければならないと謂う退っ引きならない状況において、仮に誤った信念なり間違った知識なりを支えとして信じて育ててきた場合、その誤りを指摘されるのは耐え難いことだろうと思うんですよ。それは、「おまえの子供は間違った育て方をされてきたのだ」と言われるのと同じことですから。
by 黒猫亭 (2009-01-26 20:52) 

pooh

> 黒猫亭さん
> カリキュラムに相当するような何かを理も非もなく信じざるを得ないと謂うこともあるのかな

これはあるんだろう、と思います。とても怖い作業のはずですから。
ぼくはこどもがいないので、あんまり云えた筋合いではないんですけど。
by pooh (2009-01-26 22:13) 

田部勝也

>poohさん。

「ニセ科学」な人 → レイヤーの違いを認識できず、疑似相関もメタもベタも一緒くたに論じたりする事に(たとえ指摘されても)決して疑問も違和感も抱かない人。
「ニセ科学批判」な人 → レイヤーの違いをしっかりと認識したり、その点を考慮した思索ができる人。

――このような分類がもし仮にできるとしたら、私は完璧に「ニセ科学」な人のはずなんですよねー。さらに言えば、属人的な考え方は大好きだし、「人間を信じる」とか平気で口にできる偽善者だし(苦笑)。
なんで、自分が現実に「ニセ科学」の側にいないのか、いまでも本当に不思議で仕方がない。いったい、なぜ自分はここでこんなコメントを書いているのか、自分でもまったく理解できないんですよ。
正直な話、このへんの自己分析が少しでもまともにできれば、信奉者との対話も少しはマシにできるんだろうなぁーとか思うんですけどね。誰か分析してみません?(笑)
by 田部勝也 (2009-01-28 00:49) 

田部勝也

>黒猫亭さん「カリキュラムに相当するような何かを理も非もなく信じざるを得ないと謂うこともあるのかな」

「カリキュラムに相当するような何かを信じざるを得ない」という点については同意します。
ただし、亀@渋研Xさんのところにコメントしたように(↓)
http://shibuken.seesaa.net/article/110477065.html
そのカリキュラムは、教員や教育関係者の間で厳しい相互批判に晒されているという信頼感を、おそらく多くの教員は持っているだろうという事は指摘しておきたいと思います。
多くの教員は自分の専門分野については他者の多くのカリキュラムを常日頃からかなり批判的に検討していますから(30年前ならともかく現在の日本で教科書をそのまま読んでいるだけのような授業をしている教員は少ないはず。同じ教科の教員が集まる同人サークル的な研究会・勉強会も全国に数多くありますし)、自分の専門外のカリキュラムでも同様の相互批判が行われていると(意識的にせよ無意識的にせよ)信じている――というのは、充分ありそうな事に思えます。

「理も非もなく信じざるを得ない」という点については現段階では同意しかねます。
「水からの伝言」を授業で使った教員も、多くの人は自分なりに「大丈夫か?」という事は検討したはずです。たとえば、亀@渋研Xさんの記事参照(↓)
http://kameo.jp/mizuden/faq3.html#ronten25
http://shibuken.seesaa.net/article/110476486.html
もちろんこの点について、黒猫亭さんが以前「教員とそれ以外の人(例えば主婦や会社員や警察官など)とでは求められるリテラシーの水準が異なる」「検討して“否”と判断できないような人間が教育現場にいる事は深刻な問題だ」といった主張をされていたと思いますが、その点の問題意識は黒猫亭さんと私とで共有されていると思います。
ただ、私は問題の教員たちが「検討さえせずに飛びついた」とは考えませんでしたし、今でもそうです。「検討してさえ飛びついてしまった」というのが私の問題認識であって、その意味では、黒猫亭さんよりも遥かに深刻に現状に危機感を抱いていると言えるかも知れません(検討せずに理も非もなく飛びついてしまったのならば、「今後は慎重にね」で概ね終わっていたかも知れないと思ったりもします)。
by 田部勝也 (2009-01-28 00:53) 

黒猫亭

>田部勝也さん

>>「理も非もなく信じざるを得ない」という点については現段階では同意しかねます。

そこはちょっとこちらの意図したところとは主語が違いますので、少し追加説明を。

オレが申し上げているのは、子育てに関しては教育におけるカリキュラムに相当するものが欠落しているので、親御さんは何かそれに相当するような芯になるものを「理も非もなく信じざるを得ない」と謂うことで、今回の話は教師についての話ではないです。

「理も非もなく」と謂うのは、信頼し得る子育ての方法論が欠落しているからなんですね。教育者の場合なら、カリキュラムについて相互批判したり知識を共有したり蓄積したりと謂うことが出来ますし、その信頼性を客観的に検証したり、高めていくことも出来ますよね。ですが、子供の親御さんの場合、特定の子供を特定の時期だけ育てるわけですから、かなり一回性が強いわけです。

誰もが自分の子育て経験に基づいて子育て一般を語るけれど、それが他の子供の場合に適用可能かどうかはよくわからないわけで、そう謂う意味で子育ての実践的な知恵って意外と共有・蓄積されにくかったり、一般化されにくいものだと思うんですよ。

しかし、そうは謂っても子供が生まれてしまったら待ったなしで育てていかねばならないわけで、初めて尽くしの状況の中で自分の採用した信念なり教育論なりを実体験に照らして検討する余裕なんかないわけですから、結果論で謂えば、大概の親御さんがその信念や教育論を採用したのは「たまたま」にすぎないと謂う言い方も出来るわけですね。

これは、教師を続ける限り常に毎年複数の児童に接して試行錯誤出来て、それを将来の実践にフィードバックし得る教師の方とは全然条件が違うわけです。特定の子供の特定の時期の子育てについて一義的に責任を持つ立場ですから、その「たまたま」採用した信念や教育論を否定されると、自身の子育てそのものを否定されたような気持ちになるのだろう、と謂う話をさせて戴きました。
by 黒猫亭 (2009-01-28 01:27) 

pooh

> 田部勝也さん

自分で何度か書いていますが、ぼくは基本的にたぶんニセ科学側にいる人間です。厳密に云うと、ニセ科学を生み出す原理の方に与する人間、と云うことになります。
ただ、その原理(≒人間の基本仕様)が生み出す、もっとも安易で質の低いものがニセ科学だ、みたいにも強く感じているわけです。そう云うわけで、ニセ科学批判は自分にとって重要なものを守る、と云う意味合いを帯びています。

あと、黒猫亭さんのご指摘のとおり、黒猫亭さんがお書きのことへのコメントは若干の誤読があるのかと思いますよ。
お書きのように、教員の方々のカリキュラムへの信頼は、一種科学がそのしくみによって獲得している信頼と類似したしくみに裏付けられているようですね。
by pooh (2009-01-28 07:50) 

pooh

> 黒猫亭さん

お書きのように、蓄積・デバッグのしくみを持つものは、一定水準の信頼性を確保できる、と云うのはあると思います。
ただ、あぁ、どうして子育てについてはそのしくみが機能しないのか、実体としてどれぐらい機能していてどれぐらい不十分なのか、と云う点に関しては寡聞にしてなんとも云えない部分はありますけど。
by pooh (2009-01-28 07:54) 

田部勝也

>黒猫亭さん、poohさん。

おっしゃる事と私の誤読についてはたぶん理解できたと思います。おっしゃる通りだと思います。反論はありません。

子育てについては、家族(特に子育て経験のある祖父母などの家族)や地域社会との関わり(地域社会の子育て経験の共有など)が言及される事は多いようですね。
本来は、家族や地域のなかで、それぞれ蓄積・デバッグがはたらいていくシステムになっていたんだろうなぁ……とか想像はするわけですけど、私には想像する以上の事はできるわけでもなく、現実がより良い環境になっていく事を祈るばかりです。
by 田部勝也 (2009-01-28 23:12) 

pooh

> 田部勝也さん

なんとなく、ですね。ここから技術開発者さんのおっしゃる「共同体」と「機能体」論につながっていくような気もするんですよ。本来共同体が包括的に蓄積していく機能を持っていた諸々のことがらが、世間が機能体に分割されて機能体単位でドライヴされていくようになるに従って漏れるようになってきた、と云うような変容ですよね。

しかし子育てについては、ぼくと田部勝也さんと黒猫亭さんで3人揃って、なんと云うか想像力の限界のようなものにぶつかってしまいますね。
by pooh (2009-01-29 07:42) 

技術開発者

こんにちは、poohさん。

>なんとなく、ですね。ここから技術開発者さんのおっしゃる「共同体」と「機能体」論につながっていくような気もするんですよ。本来共同体が包括的に蓄積していく機能を持っていた諸々のことがらが、世間が機能体に分割されて機能体単位でドライヴされていくようになるに従って漏れるようになってきた

最近、共同体規範とか共同体規範への服従ということを考えてみたんですね。それに対するものとして機能体規範とそれに対する服従の違いみたいなものですね。なんていうか、ニセ科学批判批判というのが権威に対する反発みたいなものが根底にあると思うのでね。原始共産制についていうと、狩りの獲物が村にもたらされた時に「さあ、みんなで分け隔て無く食べよう」なんて規範は、権威というのと無関係にある気がするのね。なんか自然にそうなっていくみたいなね。それに対して例えば狩りのチームの中で「サボるな」なんてのはやはり権威とつながっていそうな規範なのね。

なんていうか、ニセ科学批判というのは共同体規範の「嘘を言うなよ」が根底にあって、本来、とても自然なものであると思うんだけど、それが、なにやら権威から発せられる規範のようにとらえられてしまうことに、とても違和感があるんですね。

by 技術開発者 (2009-02-02 18:10) 

pooh

> 技術開発者さん

> ニセ科学批判批判というのが権威に対する反発みたいなものが根底にあると思う

そう思います。

ただ思うのは、その反発が権威、と云うものに対するひどく浅い理解から発してるんじゃないか、ってことです。従うべきものとしての権威がなぜ存在するのか、その権威をうらづけるものがどこから生まれてくるのか、と云うことを考えないで、それが権威であるから、と云うだけで反発している。要するに、自分が反発しているものがなんなのか、まじめに考えていないわけです。
そして多くの場合、権威に反発する自分自身の視点、と云うのにひどく無自覚だったりする。そのあたりよくわからないまま(わかるべきだ、と云う自覚もないまま)反発しているからそのうち主張が自家中毒しだす。気付いたら「おれを説得できないからだめだ」とか云い出して、しかもその主張がじつは「自分自身と云うものの無自覚かつ無根拠な権威化」に堕していることに気付けない。

権威が否定されるべきなのは、間違った場所、間違った時間にそれが置かれたときです。そうでないときは、それは本来社会を効率よく廻すためのメカニズムとして作用する。そのために生まれたしくみなのですから。

いや、例えばもともとぼくなんかパンクスですからデフォルトでは「権威」と云うものに対してはFxxk Offなんですよ。きくちさんなんかもロックンローラーですから根は同じ。ニセ科学批判にコミットしている論者で、既成の権利に従順な考え方をする人間は少ないと思います。
by pooh (2009-02-02 22:06) 

PseuDoctor

こんばんは。

>ニセ科学批判批判というのが権威に対する反発みたいなものが根底にあると思う
私も(何で科学を権威と感じるのか?は置いといても)これを強く感じます。そのうえで
>気付いたら「おれを説得できないからだめだ」とか云い出して、しかもその主張がじつは「自分自身と云うものの無自覚かつ無根拠な権威化」に堕していることに気付けない。
というのも、実感として感じましたね。

さて「どうして権威に対して反発するのか」を考えてみますと、2つほど要素がある様に思います。

1つは、月並みですが「未熟だから」です。誰でも乳児~幼児期には自らの欲求は全て直ちに叶えられるという体験に基づく「全能感」を持ちます。当然この感覚は成長に伴い損なわれますが、健全に自我が発達すれば「思い通りにならない事」に対する耐性も養われる筈です。しかし、何らかの原因でこの「全能感」を部分的にでも保ったまま成長してしまうと、思い通りにならないのが我慢できない人間になってしまいます。まあ「ワガママ」って事ですね。
ただ難しいのは、単に厳しく躾ければ良いのかというと、そうでもない。自我が充分に発達するまでは、逆境に出会った時にきちんと自己肯定感を与えてあげないと挫けてしまい、自尊感情が養われません。結果、自尊心が傷付き易くなってしまい、ちょっと馬鹿にされるとすぐに怒り出したりします。私が「プライドが低過ぎる」というのはこういう状態の事です。
まあ、子育てに関しては私も色々言える立場では無いのでこの位にしておきます。

2つめは「自分でコントロールできる事柄が少ない」という要素です。但し、本当に少ないのか、少ないと思い込んでいるだけなのかは解りません。理屈を言えば、どの様な状況に置かれたとしても、自らがそれに対してどの様に振舞うか、という点だけは自分のコントロール下にある筈なのです。
ともあれ「権威に対する反発」とは「自分が権威をふるいたいという欲求」と同じベクトルにある様に思います。ですから「自分が権威をふるう対象」が少ないほど、権威に対する反発が強いのではないでしょうか。
ここで「権威をふるう対象」とは「必ずしも自分より下位にあるとは限らない」点にも注意が必要です。
by PseuDoctor (2009-02-04 22:47) 

TAKA

私は最近、「ニセ科学批判批判も、何か参考になるのかも?」と思って幾つか眺めておりました。結局、納得するものに出会えずorz。

>科学は権威かよ!

私も時々、感情的に反発したくなる時があります。しかし、何とか思いとどまっております。
耳元で、「トンチンカンな反論を繰り返している場合か?その前に己を磨けっつーの!(怒)」と、頭の上で妖精さんが叱咤するからです。

「今回もまた、ニセ科学批判者を論破してしまいました。ミーの完全勝利ね♪」と誇ったところで、周りの人たちに、「お疲れさま。いつまでも小さなプライドに拘り、論者として成長できない姿を世間に晒し続けるあなたの若さに対して、お疲れさま。」といった具合に、冷めた目で見られて終了です。
まあ、簡単に言えば、「僕の無知は痛いよ!」ですね。

今は、こんな思いを強くしています。「偉い人でも間違うことがある。それでも偉い人は、素直に反省できる。」
「だからこその偉い人なのだ。そしてまた、その姿に感心するからこそ、他人から信頼されているのだ。」
「いつの日か私も、そうなりたい。瓦礫の丘の上に笑う悪魔の怠惰に、なびくことなく。」
短く言えば、「はやくマトモな論者になりた~い!」です。(参考は妖怪人間ベムです)
by TAKA (2009-02-05 02:34) 

pooh

> PseuDoctorさん

権威と云うのは社会的なしくみです。なので個人、と云った視野では不快なものでもありうる。当然だと思います。ぼくもよくそう云う感情を抱きます。でも、なんでそのしくみが存在するのか、と云うことを視野の外に置くと、そもそも意味のある議論は成り立たない。
ちなみに権威が否定されるべきなのは、その権威がhypeだったとき、になりますよね。だとすると、その部分に対する考察を欠いた権威の否定は空疎であり、そこに立脚した議論は空論、と云うことになります。
by pooh (2009-02-05 07:39) 

pooh

> TAKAさん

それでもやっぱり、批判をもらうことは重要だし、必要なんですよ。できれば正鵠を得た批判を。

> 結局、納得するものに出会えずorz。

ここがつらいところなんです。的外れな批判についてはそこから得るものはないし、反論せざるを得ない。「なんだかわからないけどだめだと感じるからだめだ」レベルの批判に対しては、「そんなんじゃこっちもわからないからだめじゃない例を見せてくれ」としか云いようがなかったりするんですよね。
by pooh (2009-02-05 07:43) 

技術開発者

 こんにちは、poohさん。

>権威と云うのは社会的なしくみです。なので個人、と云った視野では不快なものでもありうる。当然だと思います。

 その時々の社会で「これは当然」と考えられているものは全て権威性を持っているとは言えるわけです。でもって「権威への反発となる考え方」というのは常に革新かというと、実はもっと古い概念であって、今、権威と思われている考え方が革新であった時代に打ち破った古い権威である場合だってありえる訳です。
 さらに別なことを考えると「権威への反発は格好がよい」という概念が権威化して「自分は権威に反発しているから格好良いんだ」という概念の権威にひれ伏している可能性だって有るわけです。

 笑い話を書くと「マルチ商法は今までの販売方法を変える革新的販売方法だ」なんて言う人に「中世の免罪符の販売方法が革新的ですか?」と言った事もある(笑)。まあ、マルチ商法の発祥を免罪符の販売方法に求めるのは少数派だし、私もそう信じている訳じゃ無いのですけどね。ただ似てはいるんですよ、「免罪符を勝った者は罪があがなわれるが、沢山の人に売った者の罪もあがなわれる。沢山の人に売るものに売らせた者の罪もやはりあがなわれる」なんてね(笑)。

 いろいろとネットで書き込んでいると、いわゆるプチ右翼の人ともやりとりする事はあるんだけど、なんていうか、社会が「右翼は嫌い」という時に右翼的言動をすることで「おれは権威に反発したぞ」的自己満足に陥っている感じの人も居るのね。そういう人は社会がファッショ化したら、全然、反発にならなく成っちゃう訳だけど、そうならないと思うから安心して「権威への反発ごっこ」をしていたりする訳ね。でもって、成ってしまったら、本当は「権威への反発」で今度はファッショ批判をしなくてはならないハズなんだけど、それは、たぶんできないのね。右翼が嫌われる社会で右翼的言動をしても、まあ、多少嫌われる程度で済むけど、ファシズムの中で反発すると身が危険だからね。

by 技術開発者 (2009-02-05 17:21) 

pooh

> 技術開発者さん

正しい場所と正しい時間に置かれた権威と、そうじゃないものがたぶんあって。前者には合理的な機能があるけど、後者はそうじゃない、と思っています。
で、場所と時間が入れ替わるので、等質の権威でも意味合いが変わるし、機能が変わる。そこまで踏まえないと権威への反発は意味がないですよね。もちろん、だから反発すべきじゃない、みたいに思ってるわけでは全然なくて、むしろ逆なんですが。

> 「おれは権威に反発したぞ」的自己満足

なんと云うか、暴走族的自己満足、ですよね。
(あ、これ、ぼくにブーメランでかえってくる形容だな)
by pooh (2009-02-05 22:00) 

技術開発者

こんにちは、 pooh さん。

>正しい場所と正しい時間に置かれた権威と、そうじゃないものがたぶんあって。前者には合理的な機能があるけど、後者はそうじゃない、と思っています。

なんていうか、常識というのも権威化で機能しているぶぶんがあるんです。「そんなの常識だろ」と言われ、社会の多くが「うん常識だ」なんてことは、従わないと「非常識だ」言われてしまう(笑)。

でもって、昔、この「常識」というのを巡って、ホーガンの「未来の二つの顔」なんてSF小説を紹介したこともあるんですね。人工知能に常識を持たせるという事を書いた小説なんだけどね。でもって、常識というのを突き詰めると、基本的に人工知能と人間の間をきちんとした共通項が必要になり、最も重大な共通項として「生存本能」を人工知能が持たないと常識を持たせる事もできないとなり、人工知能に「生存本能に基づく常識」を持たせる実験が始まるなんてね。

なんていうか、「正しい場所と正しい時間に置かれた権威」を判別するために、人間の共通項をきちんと認識しないと成らないわけです。私は色々考えた末に、ニセ科学批判で「リアリティ」という事を言い始めた訳ですね。自分が「楽に生きたい」という意識を持っている事に基づいて、「こういう事が常識であることは、それにどう結びついているか」につながらないと、判別が難しいのかも知れません。

by 技術開発者 (2009-02-06 08:41) 

pooh

> 技術開発者さん

ホーガンは高校生のころに「星を継ぐもの」三部作を読んだっきり、でした。
それだけで云うのもなんですが、お書きのような筋立ての話はいかにも書きそう。

どうもぼくは、権威と云うものをなんと云うかその「経済性」みたいなものの側面で捉えがちなようです。一から十まで自分で評価を下すことに対して、権威に一定の信頼を置くことによるコストの引き下げ、と云うか。正常に機能している権威は社会全体のコストを引き下げるはず。

> 色々考えた末に、ニセ科学批判で「リアリティ」という事を言い始めた訳ですね。

リアリティと、付け加えるならそのリアリティの源泉となる「想像力」ですね。

ニセ科学にまつわるある種の議論に触れて、感じることですが。
ある一定のロジックを追う目的で想像力の到達範囲を制限することは、手段として合目的的です。でも、ある種の論者は非常に素朴なかたちで手段と目的を取り違えているように感じたりします。それでは元も子もない。
by pooh (2009-02-06 22:14) 

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