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脳とバブル(の話ではない) [よしなしごと]

a-geminiさんの脳科学が世界を救う(2)と云うエントリ経由で、茂木健一郎のリクナビNEXTの「プロ論」への寄稿を読んだ(去年の11月17日付けの文章なんでちょっと古いといえば古いかも)。表題は「生き残りたかったら、バブルを起こせばいいんです」。
茂木さんのこのへんに関係する発言に関しては、日経ビジネスオンラインにおける2009年混沌の先 バブルはひらめき、脳科学で読み解く経済危機と云うインタビュー記事に関連して、TAKESANさんの「対談」と云うエントリのコメント欄でも少しあれこれお話しさせていただいたんだけど、そのへんについてちょっと書いてみる。

先にちょっといさぎよくないエクスキューズ。これからぼくが書くことは経済学についての専門的な知見にもとづいたものなんかじゃもちろんない。あくまで(かつて近い業界で仕事をしていたふつうのサラリーマンとしての)常識レベルの説明、とぼくが考える水準。明白な誤りがあればご指摘ください(こんぐらいならいいか、と云うあたりはお目こぼしください)。まぁひどく単純化して書いているので、学術的な間違いなんてのが生じうるところまでは踏み込んでいないと思うけど。
それでもなんか、ちょっとでも学術っぽいニュアンスのあることをぼくがここで書くのには違和感がある(議論のなかから派生した場合は別にして)。ぼくに違和感があるくらいなんでお読みの方にはもっと違和感をお感じになる方がきっといるはず。そう云うわけで、長ったらしい前置きをすっとばしたい方はこちら

バブルってなにかって云うと、資産価値の実体経済から乖離した上昇、と云うことになるかと思う。あるものに本来の価値を上回る値付けがされて高騰する状況。
で、高い値付けをされた資産は、信用の源泉としての価値も上がる。その資産を担保にして創造される信用も大きくなる(たくさんお金が借りられる)。資本もそこを目指して流入してくる(背景として金利水準が低いと流入が起きやすい。ただ漫然とお金を安定的な金利商品に差し向けていても儲からないから)。信用がどんどん膨れる。お金が廻りだす。

この話で、よくわからない部分がある。じゃあ、実体経済に即した資産価値ってどれくらい? と云うこと。
この場合の値付けってのは、その資産にどれだけの価値を感じているか、と云うことで決まってくるわけじゃない。そこに資本を注ぎ込むことによって将来的にどれだけ儲かるか、と云うことで決まってくる。
で、ここで資本を注ぎ込む側の読みと云うか判断が入ってくるのだけど、これってあくまで相対的なものでしかない、と云うのがポイント。「この資産の価値が今後高く評価される」と云うことを見極めて、先行して投資を行わないと儲けることはできないわけで(いちばん高いところで投資しちゃったら旨味ゼロ)。
どこが妥当な落ち着き先だかわからない状態で資産の値付けが上下を繰り返すのが市場の通常の姿なので、事実上「最終的な落ち着き先」と云うのはない。それでもある一定の条件(外的条件は常時変動してます)のなかでは一定水準に収束していく、と云うのが市場のメカニズム、と云うことになっているので、ちゃんと市場が機能している状態だと通常はものの値段が毎日激しく上下動を繰り返す、と云うことはない。でもこの場合、「この資産に資本を注入すると儲かる(とみんなが思っている)」と云うことと、「この資産は値段が上がっているので担保としての価値が高い(から信用が高い、いっぱいお金が貸せる)」と云うのが一方向に向かって相乗的に動いていて、みんながそう思っているあいだは止まらない。
投資の現場にいるひとにとっては、投資で儲けるのが自分に出資してくれているひとたちに対する義務なので、ひとりひとりが「これってへんだぞ」とか思っても儲かっているうちは止められない。あきらかにおかしな状況になっていても、「現に儲かってるのにそこへの投資を止めること」を説明して、出資者の理解を求めるのは難しいので(今後はここにお金をつぎ込んでも儲からない、だから止める、こっちのほうが儲かる、と云う説明でないと出資者は納得しない。逆に云うとそのへんを読みきって、そのうえで出資者を納得させて行動できれば大儲けできる)。

でも実際、どんなに珍しくてすてきな花を咲かせるチューリップの球根だって、愛好家が支払えるお金は無限じゃない。そのうえほっとくと腐る(投資したお金も溶ける)。土地の価格は結局「その土地で作物を作ったり商売をしたり住宅を建売したりした場合にどれだけ儲かるか」なので、住宅を建てても商売をしても取り戻せないくらいの値段になったら買い手・借り手がいなくなっちゃう(塩漬けになれば、もちろん1円のお金も生まない。銀座の一等地を100円パーキングにしても回収できるお金は知れたもの)。
これが結局「実体経済との乖離」と云うことで。でも結局それも複数のファクターで決まってくる、相対的なものでしかない、と云う側面はどうしても残る、と云うのはわかってもらえると思う。なんらかの要因(金利の引き上げとか)によって「乖離している」とみんなが思って資金回収をはじめるまでバブルは崩壊しないし、崩壊しない限りそれは単なる高止まりでバブルじゃない。

前置き終了。ぜっんぜん面白くもない、単純化しすぎで正確でもないことをながながと書いてきたけれど、これだけの前置きでじつは書きたいことはひとつ。
バブル(に限らず経済的な現象)は、ひとひとりのなかではなく、ひととひとのあいだで起きることだ、と云うこと。個人の脳のなかで起きる現象についてあてはめるのは、だから本質的に不適切だし、そこになんらかのアナロジーを見出すのだったら、そこをちゃんと説明しないと意味がないばかりか、無用な誤解を招く行為だ。
ひらめきも、脳の仕組みからいうとまさにバブルなんです。どういうことかというと、0.1秒くらいの間、神経細胞の活動が一気に上がるんです。そして下がる。ちょうどバブルにおける株価の上昇のようなもの。
ぜんぜん違うよ。だれが値付けしてるの? 自分ひとりで自分のなかのものを値付けしてるんだったら、それはバブルじゃないよね。上がって下がる、ってのが似てるだけじゃん。
「クオリア(私たちの感覚を構成する独特の質感のこと)」の概念に気づいたときには、脳の中にひらめきのバブルが起きました。僕は当時、32歳でしたが、このときの盛り上がりはすごかった。「ついにやった。こいつはすごい。これがわかったら、今までの科学なんて目じゃないぞ」と、それはもう、とてつもない高揚だったわけです。そして14年経った今でも、このときの情熱は残っている。
じゃあまだそのバブルは崩壊してない、ってことですね。崩壊しないようならそれはバブルではなくて、単なる資産価値の上昇です。高い価値のものを見つけた、って云うふつうに喜ばしいことで。それとも、実体との乖離がこれから判明して、そのひらめきのバブルが崩壊する、というふうにご自分でお考えになってるのかな。
金融バブルは困るけど、脳の中のバブルは誰も困りませんからね。
そう云うことを云うんだったら、そもそも「バブル」って比喩を使う意味ないじゃん。読むほうが誤解するから避けるべきじゃないかな。茂木さんがこう云う書き方をするとそれをご宣託として受け止めて「そう云うものなんだ」とか理解しちゃう層が世間にはたくさんいるんだから。
脳科学についての誤解を広めるのは茂木さんと茂木さんの言説を放置している脳科学者のみなさんの責任だからまぁいいとしても(よくないけど)、バブルと云うものについての誤解を広めるのはよそに迷惑をかける行為だと思う。

で、残りの部分への、ここまでの話とはあんまり関係ないツッコミ(関係ないのはぼくのせいじゃなくて、茂木さんがつながってない話をしているからなんだけど)。
タイガー・ジェット・シンというのは、僕が子どものころに活躍した悪役レスラーです。トレード・マークは頭に巻いたターバンとサーベルで、会場に現れるなり、いきなりサーベルを振り下ろし暴れ出します。レフリーの紹介を待たずに、対戦相手に襲いかかるわけです。予告なしの乱闘によって、場内は大いに盛り上がります。

今、ビジネスの世界で求められている手法はこれなんです。天気の話など、仕事とは関係ない話をダラダラしてから本題に入るのは、もう古い。いきなり核心をついていかないと、これだけのスピード社会、流動化の時代に、チャンスをつかむことはできないんです。自分の中に起きたバブルを一瞬のうちにすばやく察知し、行動に移していかないとダメだということですね。
これじゃまるでタイガー・ジェット・シンの行動がバブル的でなおかつ直感的だ、と云わんばかりだ。こんな云い方じゃ、観客はともかくシンがレフェリーや対戦相手にも事前の諒解なしで唐突な行動を取ってるみたいじゃないか。シンに失礼(いやべつにファンじゃないけど)。
私も『プロフェッショナル 仕事の流儀』のキャスターの話をもらったときはそうでした。もちろんキャスターの経験なんかありませんよ。でも、プロデューサーから話をもらって、2秒で決めました。直感です。

いわゆる「できる人」は、大抵こうやっているんです。例えば、ユーチューブを買収したグーグルのCEOエリック・シュミットは、ユーチューブが抱えていた著作権の問題よりも、このサービスを面白いと思った自分のひらめきを優先しました。「まず買収して、それから手段を考える」ことにしたのです。
茂木さんやシュミットがいわゆる「できる人」であるかどうかの議論は措くとして(いや、そりゃできるひとだとは思いますが。できるの定義にもよるけど)、ことこの例に限定して云えばそのシュミットの行動がはたして正しかったのかどうか、いまの時点ではまだまだ評価できないと思うんだけど。
「これからのビジネスマンは直感を信じて、ひらめきに従って行動すべき」と云う見解はまぁありうるけど、でもそのことについてこんな説明のしかたをすることはない。

正直このひとの、こんな口からでまかせに近い言説がなぜこれだけ受け入れるんだろう、と云う辺りが、ぼくなんかの立ち位置からは議論のポイントになってくるんだろうとか思うんだけど。この記事も、肩書きにはきっちりと「(脳科学者)」と明記してあるからなぁ。
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技術開発者

こんにちは、poohさん。

便乗して「科学技術のイメージバブル」の話をさせてください。私が仕事に就いた頃に、ある材料の「イメージバブル」があったんですね。「とてもスゴイ可能性を秘めている材料だよ」なんてね。まあ、そのおかげで私は今の仕事にありついたようなものなんだけどね。でも、その頃のその材料の可能性イメージって実体の材料進歩に比べたら確実にバブルだったんですね。今にも自動車のエンジンとか火力発電所のガスタービンの多くの部品がその材料に取って代わられる様なイメージね(デモのために自動車のエンジンを作って走らせた会社もあったなぁ~・・・遠い目:笑)。

なんていうかな、エンジン材料の様な構造材料の進歩なんておそろしくのんびりしたものなんですね。価格で既存材料にたちうちできるための大量合成技術からはじまって、プロセス技術、そしてあらゆる力学特性や耐食特性、いろんな事をクリアしないと「使い物」にならないんですよ。

なんていうか、そのバブルがはじけて、「結局、使い物に成らなかったね」なんて言われるのが哀しくて仕方ないのね。そうじゃないんだ、確実に進歩はしているんだ、って言いたくなって仕方ないの。私がその材料の世界に飛び込んだ時には、その材料について何一つ分かって居なかったに等しいのね。不純物の影響一つ知りたくても、まず不純物の測り方から作り出さなきゃならない状態だったんだからね。私たちが分析法をつくって分析結果を出し、材料屋さんが「この不純物はこんな悪さをするのか、あっ、こんな良いこともするみたいだ」なんてね。そんなとろくさい事を続けることで、色んな事が分かっては来たのね。でも、バブルで社会に描かれたイメージとはまだ遠いのね。だから、「結局、使い物に・・・」って言われちゃう。「いつまで、そんな使い物にならない材料にこだわっている」みたいな言われ方もされる(実際、私はこの数年は別な材料の分析法開発に走ったりもしているのだけどね:笑)。

なんていうかな、都心のパーキングだって、借金しないで資産にして、きちんと管理すれば、それなりの収益は上げられる優良な投資対象でしょ。それを借金して購入しては値をつり上げて転売を繰り返すということをすると、収益が利払いに追いつかない「不良資産」となってしまう。そして「破産処理物件」として「困りもの」扱いされる訳です。その土地に何の罪があろうか、なんて事も言いたくなってしまう訳ですよ(笑)。

by 技術開発者 (2009-01-14 08:28) 

黒猫亭

お疲れ様です。わかりやすくよく纏まったご説明だと思います。もやっと考えていたことが整理出来て有り難いです。

今はとくにこんな経済状況だと謂うこともあって、持続可能性の観点で経済と謂うファクターをどう考えていくかがかなり重要だと思いますから、経済のいろはもわからない輩が適当な放言を繰り返すのは、文化人云々以前に社会人として許し難い不誠実だと思います。

TAKESAN さんのところやこちらの別エントリでも申しましたが、オレはもう茂木健一郎と謂うヒトはニセ科学言説の発信者と見做して構わないんじゃないかと考えています。バブル云々なんてのは、「脳科学は経済にも効きます」と万能性を謳うニセ科学そのものじゃないですか。

もうすでに、「科学者には言えないはずのことを言っている」ことが問題だと謂う次元を超えて、「いい加減な話を科学者の肩書きや屁理屈で強弁している」ことが問題なのだと謂う段階に踏み込んでいると思います。
by 黒猫亭 (2009-01-14 08:32) 

newKamer

 エントリとは関係が薄いのですが、現時点で「クオリア」は脳科学者の守備範囲にない気がしてなりません。。
by newKamer (2009-01-14 09:13) 

ROCKY 江藤

茂木先生の評価のバブルはまだ崩壊していないようですが、いつかは・・・・
by ROCKY 江藤 (2009-01-14 15:51) 

pooh

> 技術開発者さん

> バブルで社会に描かれたイメージとはまだ遠いのね。

技術開発がお金になるまでのスピード感と、資本投下が収益に結びつくまでのスピード感のギャップ、と云ってもいいのかもしれませんね。
いや、この話、けっこう本質的なんです。金利は時系列で発生するので。
ただ、そのあたり(資本回転に要求されるスピード)が加速しているような印象があるのはなぜか、と云うのもあるんですけど。

> その土地に何の罪があろうか、なんて事も言いたくなってしまう訳ですよ(笑)。

土地は土地、なんですけどね。ひとの営みがそこにどんな意味(と価値)を付与するか、と云うことなんでしょうけれども。
by pooh (2009-01-14 21:09) 

pooh

> 黒猫亭さん

いや、お恥ずかしいです。日頃のここのスタンスとはあまりに違う(^^;。
ただ、おおざっぱにでも話の枠組みを記載しないと、以降の議論の土台が不明なままになってしまうじゃないですか。「おれはじつは知ってるんだぞ」的な「ほのめかしメソッド」に堕してしまう惧れもあったので、「これぐらいわかってる=これぐらいしかわかってない」と云うのを書かざるを得なかった、と云う次第です。

> 文化人云々以前に社会人として許し難い不誠実だと思います。

ただまぁこのあたり、明解に「この解釈が正しい」と云うのはなくて。アカデミズム的にも複数の説が並列で存在している部分、だと思うんですよ(詳しくはわかりませんが)。ただ、茂木さんはその水準でさえない、と云うのだけは云えるのかな、とか思います。

> オレはもう茂木健一郎と謂うヒトはニセ科学言説の発信者と見做して構わないんじゃないかと考えています。

ぼくはまだ、そうは考えたくない部分があるんですけどね。
あきらかになんらかの戦略はある、はずなんです。そこが見えない(あるいは見えているものが本質だとは考えたくないだけかも)。
by pooh (2009-01-14 21:09) 

pooh

> newKamerさん

きくちさんのおっしゃるような「問題設定としてのクオリア」と云う角度から考えると、クオリアは(中心的ではないかもしれませんが)脳科学上の問題たりうるし、脳科学からのアプローチもその問題解決に寄与しうる、とは思います。その意味では、メインの守備範囲でなくとも、守備範囲外ではない、みたいに考えます。
ただしそれは、茂木さんの用いる意味での「クオリア」ではないし、その「クオリア」には「脳科学者としての」茂木さんはアプローチしえない、と思います。で、その部分で茂木さんはミスティフィカシオンを意図的に利用して行動しているとしか考えられない部分がある、と感じています。
by pooh (2009-01-14 21:10) 

pooh

> ROCKY 江藤さん

いらっしゃいませ。

本文中に書いたとおり、バブルの実体との乖離は、はじけるまでわからないわけです(茂木先生にはおわかりなのかもしれませんが。本人ですから)。
で、世間の評価と云うのはマスメディアによる特権的なコントロールがなされた、充分に機能していない市場、であるわけです。まぁいまはネットがあって、マスメディアによる一方的なマーケットコントロールもしづらくなっているようなので、今後はわかりませんが。
by pooh (2009-01-14 21:11) 

技術開発者

こんにちは、poohさん。

せとさんの所にも書いたんだけど、もし現代人が江戸時代の若者と話をしたら「少年よ大志を抱け」と叱りたくなるかも知れない、なんてね。別に、そんなに上昇志向があると思っていない人でも、現代人で有ることによって現代という時代のもつ基本的な成長の善悪観が江戸時代とは違っているのだろうなんて思うんですね。でもって、そう言われた江戸の若者は「なんで、大志なんて抱かにゃならんの?」とポカンとする(笑)。

>ただ、そのあたり(資本回転に要求されるスピード)が加速しているような印象があるのはなぜか、と云うのもあるんですけど。

実体経済は確実に「安定低成長への適応」をしなくてはならない方向にあると考えています。或る意味で江戸時代に似た形を取りたがっている様に見えるんですね。しかし、それを成し遂げるには、様々なシステムを「安定低成長型」に切り替えなくては成らないのだけど、それが容易に行かないのは、上で書いた「基本的な成長の善悪観」が成長期のまま容易に変化しない事だと考えます。なんて言うか、身体は成長期を終えたのに、頭が「自分はもっと食えるはずだ」と食い物を詰め込みたがる感じですね。その状態では、どうしても現在の実体成長に不満が生じるため、最も扱いやすい「資本回転のスピード」の部分に「もっと回せ」という動きが生じているように見えます。

>世間の評価と云うのはマスメディアによる特権的なコントロールがなされた、充分に機能していない市場

マスコミが茂木さんのような「確かそうで面白い話をしてくれる人材」を発掘しては使い潰していく流れにも、この成長期意識の名残のようなものを感じたりします。

by 技術開発者 (2009-01-15 09:32) 

PseuDoctor

こんばんは。

まず余談から(笑)
これまで私は、仮想上の効率的市場と現実の市場との違いは、専ら「情報の非対称性が存在するか否か」であると思ってきました。しかし
http://seisin-isiki-karada.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-98e8.html
のコメント欄でのお話とかを伺って、そんな単純なものではないという事に気付きました。例えば政策上の配慮等の「外力」もそうですね。
ただ、私が最も感銘を受けたのは「他の参加者よりもリスクを取りに行かないと勝てない」という部分です。つまり現実の市場では情報が不均一であるだけでなく、同一の情報に対して下される判断も不均一である、それが非常に大きな要素であると感じました。
勿論これでも単純化し過ぎなのだとは思いますが。

本題に関してもちょっと書いておきます(つまり茂木さんの発言へのツッコミ)。

>金融バブルは困るけど、脳の中のバブルは誰も困りませんからね。
この文は二重に間違っています。まず金融バブルも、それだけでは誰も困りません。困るのは崩壊するからですよね。ですから、著しく困難ではあるけれども安定したソフトランディングが出来るのであれば、それはそれで良いのではないでしょうか。
それから「脳内バブルは誰も困らない」と仰るけれど、茂木さんの脳内に生じたバブルの所為で迷惑している人は結構な数に上る様な気がします。

シンの話もPoohさんの仰る通りで、単純に喩えとして不適切ですね。

>ユーチューブを買収したグーグルのCEOエリック・シュミットは、ユーチューブが抱えていた著作権の問題よりも、このサービスを面白いと思った自分のひらめきを優先しました。
そうですかねえ。「著作権問題のファクターを考慮に入れてもなお、ビジネスとして成り立つと判断した」んじゃないんですかねえ。

ところでPoohさんの
>こんな口からでまかせに近い言説がなぜこれだけ受け入れるんだろう
という部分ですが、私は「無責任だから」という仮説を立てています。自分でも責任を負わない代わりに、読み手にも責任を追及しない。つまり読み手も厳密な学問の話ではない事は何となく感じていて、それでいて「脳科学」であると。そういう「お手軽に味わえる高尚さ」みたいなものが受けているのではないかという気もします。
このあたり「いわゆるスピリチュアリズム」が提供してくれる「安易な自己肯定」と通じるものがある様にも思えます。
by PseuDoctor (2009-01-15 22:14) 

pooh

> 技術開発者さん

> 実体経済は確実に「安定低成長への適応」をしなくてはならない方向にあると考えています。

この方向転換って、ひょっとすると数百年ぶりですよね。江戸時代の日本は、幸か不幸かまだ巻き込まれてなかったわけですけど(周縁部と云うか辺境にも混ぜてもらえてなかった。いやこれ幸運なんだろうと思うんですが)。

> 最も扱いやすい「資本回転のスピード」の部分に「もっと回せ」という動きが生じているように見えます。

金融で扱う範囲での資本は、回転速度が加速させやすいんですよね。で、チューリップの頃はともかく、昨今は小さなバブルが簡単に生じたり崩壊したりする、みたいな。まぁそもそも「廻すことで儲ける」と云う性格のものなので、いろいろな条件の変化で(少なくともアントワープでフッガー家ががんばっていた頃よりははるかに)廻しやすくなってるはずですし。
by pooh (2009-01-15 22:15) 

pooh

ちょっと不正確だったのでレスの書き直し。

> PseuDoctorさん

情報の非対称性は、ある判断と行動に伴うリスクの差異を生みます。なので、PseuDoctorさんの理解に相違がある、と云うことはまったくないです。
ただ、結局は情報をベースにした分析力と判断力(およびそれらのスピード)が、プレイヤーの技倆、と云う話になってくるわけです。ただ、いずれにせよ、それは「よりリスクの高い行動にプレイヤーを差し向ける」ことには違いがない。そう云う力学があるわけです。
このへん金融のいちばん尖った辺りを書いた小説では、川端さんの「リスクテイカー」が面白いです。別の角度からですけど、ここでも触れたことがあります。

http://schutsengel.blog.so-net.ne.jp/2007-11-18-1

> 茂木さんの脳内に生じたバブルの所為で迷惑している人は結構な数に上る様な気がします。

間接的な迷惑まで含めると、相当数にのぼるだろうな、とかも思います。

> 「著作権問題のファクターを考慮に入れてもなお、ビジネスとして成り立つと判断した」んじゃないんですかねえ。

そこもあるでしょう。もう少し先物買い的な部分(YouTubeひとつくらい儲からなくてもGoogleは潰れないので、手を出しておかないことがリスクになりうる)と云うのもあったかと。いずれにせよ、非常に冷徹な判断の結果だろうと思います。
あのとき金曜に噂が流れて、月曜にはYouTubeはGoogleのものでした。ひらめき、なんかで可能にできるオペレーションじゃないはずです。

> 「無責任だから」という仮説を立てています。自分でも責任を負わない代わりに、読み手にも責任を追及しない。

これ、ニセ科学を支持する言説や、ニセ科学批判批判の言説なんかに普遍的に観られるもののように思います。「だれもまじめに互いの話聞いてないだろ、聞かないまま互いに空気だけで認めあってるだろ」みたいにぼくなんかからは見えるんですけどね。

このへん、Narrさんの「ホラーとコメディのミックスジュース」を連想したりもします。
http://www.h7.dion.ne.jp/~beta-rev/download_files/mixjuice.html
by pooh (2009-01-15 22:47) 

PseuDoctor

ありがとうございます。

「リスクテイカー」、以前こちらで拝見した時にも面白そうだな、と思ったのですが、結局未読のままです。今度読んでみますね。

>この方向転換って、ひょっとすると数百年ぶりですよね。
非常に不謹慎だとは思いますし、実際笑い事ではないのですが、何と言いますか、歴史の転換点に立ち会っているのかもしれないと思うと、ある意味ゾクゾクする様な感覚もあります。
by PseuDoctor (2009-01-16 00:31) 

pooh

> PseuDoctorさん

これぐらいの話になると自分の理解の正当性にあんまり自信が持てないのですが、このまま「世界経済のなかで周縁部が加速度的に消失していく状況」が続くとどんな世界が訪れるのか」と云うのはとても興味深いです。いや、興味深い、なんて云い方をすると黒猫亭さんなんかに叱られてしまうかもしれませんけど。

本文中でリンクした日経ビジネスオンラインの茂木さんのインタビューに、スケールフリー・ネットワークと云う言葉が出てきます。茂木さんの理解の角度と深度では実際の社会にあてはめるのは無理だよなぁ、とは思いますが、それでもキーワードとしてはけっこう重要かも、とか思ったりします。
by pooh (2009-01-16 07:40) 

技術開発者

こんにちは、poohさん。

>この方向転換って、ひょっとすると数百年ぶりですよね。江戸時代の日本は、幸か不幸かまだ巻き込まれてなかったわけですけど

そう、経済の大きな動きは数百年の単位で見る必要があります。江戸時代というのは、それなりの生産性を持った日本という一地域が「鎖国」ということを行い、秩序の安定のために「イノベーションの抑制政策」をとった事で、「安定低成長のモデルケース」といえる社会が生じている訳です。グローバル経済は政策的に鎖国する必要はないんですね。なぜなら地球という単位で既に孤立していますからね。問題は政策的に「イノベーションの抑制」を行う必要があるかどうかなのです。実のところ、早くやるか、将来にやるかの違いにすぎないと考えています。早くやるほど「安定低成長システム」は早く完成します。将来にのばすほどその間の不安定状態に苦しむ期間が長くなるに過ぎないわけです。

江戸時代の紀伊国屋文左衛門を例にして「歴史のif」をしてみましょう。文左衛門は材木の効率的輸送と、江戸の大火が重なったために急速に成り上がった訳です。その利益を次の事業の投資に回すことができると、材木商を次々と買収して材木業界を独占したり、米穀商である札差業に手を伸ばしたり、銀行および証券会社である両替商に手を伸ばしたかも知れません。現実には、その当時の日本は藩により経済圏が分轄され、直轄地・藩ともに「株仲間」と言われる許認可型の統制が行われていたので、彼はその収益を事業拡大に当てることができずに、「お大尽遊び」という消費循環につぎ込むことしかできなかった訳ですね。「歴史のif」として「鎖国」は存在しながら「株仲間」という統制が存在しない状況を想定すると、文左衛門とは言いませんが誰かが「経済の独占」を引き起こした可能性があるわけです。問題はもし文左衛門が「鎖国」下の日本で「経済の独占」を起こしても、いずれは「利益の投資対象が無い」状態に陥り、消費循環に利益回すしか無くなると言うことです。普通に考えると、「経済の独占」に至る前に、いろんな社会問題を引き起こして、暴動で倒れるか何かでまた分轄されたとは思うのですけどね。

クルーグマンではありませんが、国際貿易では1企業の規模が拡大して企業数が減る傾向が顕著に表れています。独占禁止法の「分轄命令」などが及ぶのは国内に限られますからね。そういう意味では、閉鎖系である地球の経済もまたいずれは、地球規模で独占禁止法を強化した形の統制下に置かなくてはならなくなるだろうと思うわけです。これが「早いか遅いかの違い」という理由です。

>歴史の転換点に立ち会っているのかもしれないと思うと、ある意味ゾクゾクする様な感覚もあります。

残念な事に、この変化もたぶん、50年100年スケールの動きなので、見る目を持たないと「何が起こっているのか見えない」と思いますし、私もPseuDoctorさんも、生きて完了した状態を見ることはできないと思いますよ。

by 技術開発者 (2009-01-16 09:44) 

pooh

> 技術開発者さん

紀伊国屋の話は面白いですね。なるほど。
いやしかしこの話、つっこんでくと「国家とはなにか」みたいな議論にまでつながってしまいそうな。

> グローバル経済は政策的に鎖国する必要はないんですね。なぜなら地球という単位で既に孤立していますからね。

これが、これまで続いてきた数百年との相違ですね。There's no new frontier、って感じですかね。

> 問題は政策的に「イノベーションの抑制」を行う必要があるかどうかなのです。実のところ、早くやるか、将来にやるかの違いにすぎないと考えています。

これはちょっと、現時点のぼくには同意も不同意もちゃんとはできないです。ただ、同じようなことを感じてはいます。ただこの「イノベーションの抑制」と云うのが、現時点でのロハスみたいな文脈ではないのは間違いない。

> そういう意味では、閉鎖系である地球の経済もまたいずれは、地球規模で独占禁止法を強化した形の統制下に置かなくてはならなくなるだろうと思うわけです。

この統制がポリティカルな意味合いでもたらされるのか、それともなんらかのべつのかたちを取って訪れるのか、と云うお話もあるかと思います。いやもちろん、そう云う意味でここ数百年で未曾有の状況ではあると思うので、わからないですけど。
by pooh (2009-01-16 21:37) 

mohariza

投稿コメントも読み、各方の意見、なるほど、と思いました。
私のブログでも一部引用させていただき、下記のコメントを載せました。
・・・・・・
この頃、科学者が社会(事情)のことを述べる(口を挟む)ことがあるが、
どうも、世間一般の人は、「科学者だから、理論的で、深く考えている。」と、思い、
専門以外のことを述べても、「さも、ありえる。」と、簡単に納得しているように思える。
一つの分野に造詣が深い人は、他の分野においても、鋭い見方をするとは、思う。
しかし、その専門分野から外れた分野においては、あくまでも素人の域を出ず、
必ずしも真まで行かず、(ほとんど、的外れの)<例え>でしか無い!と云うことを、わきまえて、その言説を、
私達は見守る必要があると思う。
by mohariza (2009-01-18 01:38) 

黒猫亭

>poohさん、PseuDoctorさん

この辺のお話は、poohさんが何度かお書きになった「グローバリズムと想像力の限界」の話と関わってくるのかな、と思います。われわれが地球の裏側の人々と何を介して繋がっているのかと謂えば、それはたとえばモノの形を借りてはいるけれど、より本質的には経済を通じて繋がっているのだろうと思います。

たとえば仮に貨幣経済の始原のようなものを想像すると、経済と謂うのは発生段階ではフェアなものであったはずなんですが、経済のかなり本質的な原理の中に、アンフェアを生み出す、もしくはアンフェアに立脚して偏りを生み出すような仕組みがあるように思います。

「安定低成長」のお話なんですが、オレがこの種の言説に最初に触れたのは、一〇年くらい前に「市民のための環境学ガイド」で安井先生が「二一世紀はゼロ成長の時代になる」と謂うお話をされていたのを目にしたのが最初だったかと思います。

拡大・成長の限界と謂うのは、ローマクラブの「成長の限界」辺りからもういろんな観点で言われ始めていて、資源の観点からも周縁部の消失の観点からも、もうすでに成長・拡大し続けることで廻していける経済は限界だろうと謂う指摘があった。

しかし、それからもう一〇年経っていると謂うのに、その間に小泉改革があったりして、社会はまったく逆の方向に反撥したわけで、「何をやっているのかな」と強い失望を感じたと謂うのが正直なところです。この期に及んでも、やっぱり「モノの生産を拡大して市場を拡張するには」みたいな方向で社会が動いていたわけですね。

多分、poohさんやPseuDoctorさんが仰るように、今や経済は古今未曾有の事態に直面しているわけですが、人間と謂うものは既存の仕組みを延命させることにまず注力するわけで、その反撥と謂うのは案外強固だぞ、と謂うのがこの一〇年でオレが学んだことですね。

これは要するに、相当危機的な状況にならないと誰もそんな事態に正面から対峙して真剣に考えようとしないと謂うことで、だとすれば必ず何らかの大きなカタストロフがあると謂うことなんじゃないかな、なんてオレは危惧するわけですね。
by 黒猫亭 (2009-01-18 06:07) 

pooh

> moharizaさん

ある学術分野に別の分野の知見が導入されて、それがブレイクスルーにつながることは、もちろんあり得ることだし、現に起きていることなんですけどね。

ただ、おっしゃるとおり、特定の学術分野における能力は、ほかの分野に直接あてはめられるわけではない、と云うことはあると思います。
by pooh (2009-01-18 06:49) 

pooh

> 黒猫亭さん

> 経済のかなり本質的な原理の中に、アンフェアを生み出す、もしくはアンフェアに立脚して偏りを生み出すような仕組みがある

そもそも資本主義ってルールの平等を徹底して結果の不平等を容認するのが原則じゃないですか。だから資本主義原則だけでは絶対にすべてのひとが幸せにはならないし、それをそのまま放っておくんだったら今日的な意味での国家の意義はないわけですよね。
で、この資本主義経済のもともとの性向が、金融技術の発達による効率の上昇でより加速されている、と云うのがぼくの把握だったりします。

金融は経済を抽象化します。それはもともとそう云う機能を持つものなんですが、例えば金融技術の発達はこの機能を強化する。そうすると、ときおり冗談のような、まともに考えると発生しないような状況も発生するわけです。端的に例示すると、短期金利が上昇して長期金利を上回るような場面ってけっこう頻繁にあるんですけど、これって変ですよね。変だけど現実に起きてしまう。

で(このへんからぼくの云うことには眉につばをつけて読んでほしいんですが)、小泉改革はこう云う変さ加減までそのまま持ち込んだものだった、みたいに思います。あんな発想でいいんだったら政府いらないじゃん、とか思ったり。

> 今や経済は古今未曾有の事態に直面している

ちなみにぼくの頭のなかのタイムスケールは、アントワープに毛織物市場が集積されはじめて以来、新大陸から銀が流入しはじめて以来、と云うような非常に大風呂敷なものだったりします。やっぱりその辺スケールが大きすぎてちょっと眉唾かも、とか自分では思いますが。

> 必ず何らかの大きなカタストロフがある

結局バブルって小さなスケールでのカタストロフで、だからバブルですんだり国単位での破滅で収まったりしてるうちはまだ問題は小さい、みたいに捉えることもできるのかなぁ、とか思います。
上で書いたように、もうNew Frontierがない以上、同じしくみは多分延命できない。だったらどう変わるんだろう、って感じです。
by pooh (2009-01-18 07:11) 

黒猫亭

>poohさん

>>で、この資本主義経済のもともとの性向が、金融技術の発達による効率の上昇でより加速されている、と云うのがぼくの把握だったりします。

仰る通り、資本主義経済と謂うのは、ルールにおける平等を保証する代わりに結果としての不平等を是認する建前の思想ですよね。で、この条件において、すでに富を集積した者にとっては「結果としての不平等」は好ましいけれど、「ルールにおける平等」と謂うのはあまり好ましい要素ではないわけで、不平等を固定する方向に働き掛けるわけですね。

そして、よく考えてみれば、市場経済においては、より大きな資本を持つ者がより大きなリスクをとれるわけで、より大きなリスクをとった者がより大きなリターンをとれるわけですから、全体的な不平等をドライブする方向で資本主義経済は動いていく、とも謂えると思うんです。エスタブリッシュメントの確立みたいな形で、その不平等は固定されていくと謂うことでしょう。

新自由主義に基づいた小泉改革がもたらした状況と謂うのは、格差社会を固定する方向に推移したわけですが、これはハナからわかりきった結末だったわけで、自由主義経済においてルールにおける平等を徹底するなら、市場原理に任せるだけではなく政策的に強者の優位を抑制し弱者の不利を下支えする必要があるわけで、まったく同一のルールを適用するなら、エスタブリッシュメントが圧倒的に有利なのは当たり前なわけで、その意味ではまったく平等なルールではないと謂うことになるわけですね。

結局小泉改革と謂うのは、結果としての不平等がルールとしての不平等に直結するような形で既存の構造を単純化しただけと謂うのが妥当じゃないかと思います。結局新自由主義経済において、新規参入のニューヒーローとして台頭したのが、ホリエモンや村上世彰みたいな脱法的プレイヤーだけ、と謂うのが象徴的ですが、結局出発点として弱者である者がこの枠組みの中で躍進するには脱法的手段を駆使するしかないわけですね。
by 黒猫亭 (2009-01-18 17:16) 

黒猫亭

それから、タイムスケールの話ですが、これは本当に大風呂敷な歴史観になるんだろうと思います。金融の歴史性と謂うよりは、産業乃至交易の歴史性に関係してくるだろうし、そうなると本当に古今未曾有と謂うスケールの話になるんじゃないかな、と。つまり、殖産興行や交易と謂うのは常に外部を必要とするわけで、従来の人類史では一つの小世界には必ず外部が存在したわけですね。

で、富と謂うのは外部からもたらされる部分があったわけです。内部で自給自足している限りでは、富と謂うのは限界が決まっているわけで、減ることはあってもそれ以上増えることはない。外部に存在する潜在的な富を取り込むから富が増えるわけで、内部で循環しているだけなのに富が一方的に増え続けるなんて不合理なことは起こり得ないわけですね。

農業などの第一次産業に関しても、未開地の開拓と謂う形で外部へ拡張していくから富が増えるわけで、有限の範囲の中で無限に何かが増え続けていくと謂うのは、当たり前に考えて起こり得ないわけです。寧ろ、凶作などの形でカタストロフが起こると謂う引き算のリスクしか存在しない。つまり、閉鎖系の中では富の一方的増殖と謂う事態は起こり得ない。

技術開発者さんが引き合いに出された紀文や奈良茂の話と謂うのは、オレもちょっと考えていて、江戸時代の日本のような閉鎖系の中では、富の集積と謂ってもかなり範囲が限られてきて、数えるほどの豪商の間でしかそう謂う特異な事態は起こらないわけですね。幕府や雄藩の中でも内証の逼迫と謂う事態が頻繁に起こっていたわけで、限定された枠組みの中で循環的に富が廻っている以上、極端な集積にも限度があるわけですね。

集積された富を何処かで放出して消費に廻さないと、そこで富の循環がストップしてしまい、経済構造そのものが崩壊してしまうおそれがある。技術開発者さんが仰ったように、そこに外部が存在していたら、拡大・成長と謂う戦略に転換する余地が生まれるわけで、富が富を生むと謂う金融の運動性に繋がったと思います。

紀文や奈良茂は、或いは蔵前の札差しなどの豪商は、狭い閉鎖系において富が循環する過程で富が集中的に停頓する結節点みたいなところにいたわけで、基本的には循環的に富が廻っていかないと閉鎖系は安定的に廻っていかないわけですね。ですから、豪商たちのところに集積された富と謂っても、閉鎖系内で流通している富の総量の中ではそれほど大きな割合ではなかっただろうし、集積された富を豪遊と謂う形ですぐに流通に還元しないと経済が立ちゆかなかったんだろうと思います。

で、これは皆さんの間で共有されている認識だろうと思うのですが、今は外部そのものが存在しなくなりつつある。地球と謂うのがギリギリの限界で、そこから先に外部はないわけですね。その先の外部、と謂うとこれはもうSFの世界になってしまうわけで、さまざまな虚構の宇宙史と謂うのは、そう謂う連続上にある発想ですよね。

宇宙を舞台にするSFは、すべて「その先の外部」と謂うものを未来の発展の根幹に据えています。しかし、現実的に考えると、たとえば月にどれだけ資源が眠っていようとも、その輸送コストが一回当たり何千億ドルと謂うのでは、最初から話にならないわけです。多分、原理的に考えれば、月程度の距離の外部から妥当な輸送コストで富を取り込む仕組みは構築可能なんでしょうけれど、地球と謂う閉鎖系の中ではその初期投資を賄いきれない、と謂うのが現状じゃないかと思います。
by 黒猫亭 (2009-01-18 17:18) 

黒猫亭

最後にカタストロフの話ですが、バブルが小規模のカタストロフだと謂うのは仰る通りだと思います。ですから、経済の行き詰まりがもたらすカタストロフがどんなものかと謂うのはバブルを視ると或る程度予想可能で、オレが想定しているのは「どうにもならないとわかっていても、物凄い悲惨な状況が起こらない限り誰も動かない」と謂う状況なのかな、と謂うことです。

従来的な仕組みでは延命出来ないと謂うことは、もうすでに大勢の人が認識していると思うんですが、何とかなっているうちは誰もその仕組みから降りられないんではないかと謂うことなんですね。バブルについてpoohさんが仰ったように、バブルが崩壊すると必ず大勢の人が悲惨な目に遭うわけですが、それが起こってしまうまでリスクを大きくとり続けるしかない、つまり安全な時点で降りられないですよね。だからバブルの崩壊にはソフトランディングが在り得ないわけです。

たとえば今後経済の仕組みがゼロ成長で安定的に循環する方向に向かうとしたら、それで確実に損をする人が出て来るわけで、その人々の視点で謂えば、絶対に立ちゆかないと謂う確証が得られない限り、自身に有利な仕組みを変えることに同意するわけがないですよね。そして、「絶対に立ちゆかないと謂う確証」と謂うのは、究極的には実際に立ちゆかなくなること、つまりそのリスクが実現することでしかないわけですから、何らかの形でカタストロフが実現しない限り、抜本的な仕組みは変わらないと謂うことだと思うんです。

で、考えてみれば今現在の経済状況って、国民視点では十分カタストロフですよね。失業率がこれだけえらいことになっていて、国民の大きな割合が貧困に喘いでいて、自殺者が鰻登りに増加していて、労働現場でも環境が劣悪化しています。しかし、これは労働者層に限った話で、資本家や政治家クラスだと、どの時点で自身の立場におけるカタストロフと認識されるのか、つまり、どこまで大きなリスクをとれるのかがまだわからない。他人の苦痛なんてのは幾らでも無視出来るわけです。

暴言を吐いてしまえば、たとえば経団連の御手洗富士夫とか奥田碩なんてのは相当な莫迦で、先見性や社会的責任意識なんか欠片もないですよね。奥田なんて、株主に向かって「クルマは五年で買い換えるんだから五年保てば好い」とか説明してコストダウンを断行して、クレームを四十倍だかにしちゃった人ですから、相当の莫迦です。

この不見識な人たちレベルの階層が、無視出来ない割合で「このままでは自分たちも危ない」と感じない限り、従来の仕組みなんて変わらないわけで、これはもう政変レベルのことでも起こらない限り、貧乏人が何万人死んでも何も変わらないんじゃないかと危惧する次第です。
by 黒猫亭 (2009-01-18 17:19) 

pooh

> 黒猫亭さん

このあたりのお話(とくに政治に関わってくる部分)については見識の不足もあってあんまりちゃんとしたことは云えなかったりして、申し訳ないのですが。

> まったく同一のルールを適用するなら、エスタブリッシュメントが圧倒的に有利なのは当たり前なわけで、その意味ではまったく平等なルールではない

プレイヤーはすべての条件を利用して、自分に有利な「結果の不平等」を目指すわけです。なので、本当に市場原理を有効に機能させるためには、前提の不平等をなんとかしてそろえなければいけない。その部分、どうだったのか、と云う話かと思います。

> 今は外部そのものが存在しなくなりつつある。

成長、と云うものをどう認識するか、と云う話だと思います。
ただ、現時点での成長と云う概念がどのような文化的・社会的要素の集積のうえに成り立っているのか、と云うことから、たぶん考えなければいけない。で、その部分からの変化が、たぶん必要なんです。
ちょっとこうなると風呂敷が大きすぎて手に余る感が生じますけど。

> 何とかなっているうちは誰もその仕組みから降りられない

これは実際にあるんだろうなぁ、と思います。「自分が」なんとかなっているうち、と云うことですよね。
ただ、経済循環の主体があくまでも企業で、どうしても企業は自分の身の回りの微視的な視点しか持ち得ない、と云う現実がある限り難しい。
そうすると、もうひとつ外側から、その現実をほんとうに許容していいのか、と云うところがでてくるのかと。

> 経団連の御手洗富士夫とか奥田碩なんてのは相当な莫迦で、先見性や社会的責任意識なんか欠片もないですよね。

ぼくはトヨタが「エコ換え」だのって言い出したときに、いくらなんでもそりゃないだろ、とか思いました。微視的にもほどがある。CSRもなにもなくて、このスケールの日本を代表する企業がこんな詐欺みたいなことを平気で云うんだ、それが許されるんだ、みたいに感じたりしました。
by pooh (2009-01-19 07:55) 

技術開発者

こんにちは、皆さん。

>ただ、経済循環の主体があくまでも企業で、どうしても企業は自分の身の回りの微視的な視点しか持ち得ない、と云う現実がある限り難しい。

なんて言いますか、成長が鈍化した時点で、余剰を開発投資に回すという事ができなくなるんです。私が良く言うたとえ話として「4人家族、部屋が5部屋、6台目のTVはいくら安く作ってもなかなか買ってくれない」なんてのがありますが、社会の所得階層の或る程度上しかTVを持たなかった時代(街頭TVの力道山の空手チョップを皆が立ってみていた時代ですね)に、余剰利益をTV工場の増産に回すことでTVの価格は下がります、その投資は例えば工場の建物や機械をつくる会社に流れ、やがて、その会社の社員のボーナスにも成っていく、その結果として、それらの社員が「今度のボーナスで安くなってきたTVを買おう」と増産したTVは売れた訳です。その時代に「利益の幾らかは常に事業の拡大に回すのが正しい」という概念は強く固定化した訳です。

実は「需要の飽和」による「金余り」は日本の場合1980年代に顕著に表れている訳です。今まで、事業の拡張に回していた内部留保資金により、事業を拡大しても、国内にはその拡大によって生じた製品を消費するだけの市場が存在しなくなっていた訳です。その結果として金が余った訳です。しかし、「利益の幾らかは投資に回さなくては成らない」という固定化した概念は簡単に変わることは無いので、土地や証券に流れ込み、バブルを引き起こす訳です。

話を変えて江戸時代の話をしますと、あの時代、「金持ちは自分のための費えは値切らない」というマナーが育ちました。紀伊国屋文左衛門も材木の仕入れなどでは厳しい交渉をする訳ですが、自分が吉原で遊んだりする時の宴会費用は店の言い値で払い、さらには常識外のチップをばらまく訳です。それらの消費循環に流れ込んだ費用は、遊興の店が新たな不審をする費用として大工に流れたりとかして、庶民の生活を支える循環となっていた訳です。

寛政の時代に棄捐令というのが出ます。豪勢な遊びを行っていた札差がご家人相手に持っていた債権のほとんどを棒引きにするという政策です。その結果として、札差の豪勢な遊びは止まる訳ですが、その結果として江戸の消費循環も止まり、未曾有の不景気となる訳ですね。

by 技術開発者 (2009-01-19 08:45) 

pooh

> 技術開発者さん

> 「金持ちは自分のための費えは値切らない」

ここなんですよねぇ。矜持、と云うか。
いま、金持ち、と云うのは企業なので。CSRとか、そう云う矜持に基づく部分が求められてしかるべきなんだろうなぁ、とか思うんですよ。

少し前にトヨタの偉いひとが「若い奴に車が売れない。なぜだ」とか発言して失笑を買っていたかと記憶しています。こう云う微視的な視点しか持ち得ない存在が、顔のない(と云うことは面子もない、矜持も責任感もない)まま経済の一方の主体になっている。どうなんでしょうね。
by pooh (2009-01-19 21:37) 

技術開発者

こんにちは、 pooh さん。

>> 「金持ちは自分のための費えは値切らない」
>ここなんですよねぇ。矜持、と云うか。
>いま、金持ち、と云うのは企業なので。CSRとか、そう云う矜持に基づく部分が求められてしかるべきなんだろうなぁ、とか思うんですよ。

このあたり、単に個性というよりも文化の違いを感じるんですね。なんていうかな、或る程度以上のホテルに泊まるならフロントでベルボーイがやってきたら、自分で簡単に運べる荷物でも部屋に運ばせてチップを出さなくてはならなかったり、タクシーを呼ぶのもドアボーイにやらせてチップを出さなくてはならなかったり、なんてね、そういう「社会全体の消費循環に日常的に触れる文化」というのがあって、はじめて身に付くものがあると思うんですね。日本にもそういう文化はあって、江戸時代の大店の店主は何処に行くにも駕籠を使わなきゃ成らなくて、だから、大店の店主が使う料亭には駕籠かきたちが待つための部屋まできちんとある訳ですよ。

それが、いつの間にか、「あの人は偉くなったのにベルボーイを使わずに自分で運ぶ、謙虚な人だ」なんてね、価値観が逆転したような文化も出てくる(笑)。そういう貧しさを根底においたような文化の中で、偉くなったら「消費循環」と言うことが分からなくて当然なんですね。

私は「人文学的な文化の発達不足」なんて事を言います。言葉にすると「人生哲学」なんて言い方をしてしまって、なにやら厳かで難しい感じになってしまうんですが、別にそんなに難しい事じゃなくて「稼ぐために生きる」のか「生きるために稼ぐのか」のどちらに重きをなすかなんてのもこのうちに入る訳です。生きるために稼ぐのであれば、必要以上の稼ぎは消費循環を良くするために使ったって構わない訳だからね。

by 技術開発者 (2009-01-20 09:11) 

pooh

> 技術開発者さん

> 価値観が逆転したような文化

これって、「建国230年ちょっとだけど経済を含む複数の面において国際的に支配的地位を占める某超大国」の文化、って読みこなしていいんでしょうかね?
でもかの国には、大金持ちは慈善をすべき(そうしない大金持ちは尊敬を得られない)、と云うようなノーブレス・オブリージュ的文化もいちおうあるかと。それで充分か、と云う議論は措いておいていただくとして。この文化って、なんで輸入されてないんだろう。

> 「人文学的な文化の発達不足」

これっていずれかのレイヤーでかならずあると思います。って、このへんの話をすると、なんでぼくが基本的に文化相対主義的か、と云う話にもつながってくるんですけどね。適切なバランスは難しい部分だとは思うんですけれど。
by pooh (2009-01-20 21:44) 

pooh

サブプライム問題についてのharry_gさんのエントリがすごくわかりやすかったので貼ります。ここで書いているようなことについての原理が、すごく読みやすいかたちで書かれています。
http://wallstny.exblog.jp/9439267/

(こうやって頭のいいひとの論考を引用するほうが、なんかぼくらしくて気が楽だ)
by pooh (2009-01-20 21:45) 

技術開発者

こんにちは、pooh さん。

>ここで書いているようなことについての原理が、すごく読みやすいかたちで書かれています。
http://wallstny.exblog.jp/9439267/

ニセ科学の蔓延問題で、私は良く「人間の基本仕様と取り扱いマニアルとしての文化」という話をしますよね。文化のの中で人間の行動に大きく影響を与えるものとして「規範」があります。そして多くの規範が「長期的視点・広域的視点」に基づく合理性を有している訳です。ニセ科学の蔓延問題では良く「嘘を言う事は良くない」という規範を取り上げたりしますが、嘘によって短期的には楽しい思いをしたり利益を上げたりすることもありますし、狭い仲間内ではそれにより大きな不利益が帰ってきたりしないこともある訳です。ただ、長期的あるいは広域的には、たいていの場合大きな不利益が帰ってきてしまう訳ですね。そのため、短期的なあるいは狭い視点で「このくらい良いじゃないか」としてしまい易い仕様を持っている人間を「とにかく嘘をつくのは良くないぞ」と文化としての規範が押さえ込む構造ができていた訳です。

この文化による仕様の押さえ込みがうまく機能しなくなっているという事なんです。それは、何故か、というのが実は一番解析したい所なんですね。

by 技術開発者 (2009-01-21 08:15) 

pooh

> 技術開発者さん

> 文化による仕様の押さえ込みがうまく機能しなくなっているという事なんです。それは、何故か

いちおういまの時点でのぼくの理解では、「マネーによる抽象化」と云うことになります。こちらで書いたようなことです。
http://schutsengel.blog.so-net.ne.jp/2007-11-18-1
抽象化そのものは、金融工学の発展と電子化の進展で加速状態にあると思っています。

飢えている人の手元にあるわずかなトウモロコシを奪い取って、そこからアルコールをつくって、自分の車のタンクに入れて楽しくバカンスに出かける、と云うようなことをできるひとはたぶんあんまりいません。でも、経済のシステムのなかで、抽象化されたマネーの循環による分業体制をとると、同じ行為ができてしまうわけです。想像力の限界もあって、その行為そのもののなんと云うか、生臭さ、のようなものが脱臭されてしまう。スケールの違いはありますが、同様のことはぼくらの日常におそらく大量にある。

楽観的に考えれば、マネーの流通の効率化とともに情報流通も加速すれば、世界の広さに対して相対的に想像力の到達範囲も広がって、みたいな部分を期待したいところです。ただまぁそれはそれで困ってしまうステークホルダーが(それも世界の命運を握ってしまうようなポジションに)たくさんいるでしょうから、難しいかもしれませんけど。
by pooh (2009-01-21 21:58) 

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