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周回の意義 [よしなしごと]

NOVTANさんの何周遅れだろうともと云うエントリを読んだ。
周回遅れ、と云う比喩はニセ科学に関する議論でもときおり出てくる。まぁ、ニセ科学に関係する議論は先頭を走っていれば偉い、とか云う性格のものではまったくないので、NOVTANさんがお書きの主旨には直接あてはまらない部分も多かったりはするけれど。

少なくとも、ちょっとでも先にスタートできた自分の有利さを自覚して、あとに入ってきた人を暖かく迎えてあげるのが良いんじゃないかと思うことしきり。
でもまぁこれをやっていると「またいつまでもおんなじ話をしてやがる」とか「安全な場所からばかりものを云っている」とか云う反応が返ってくる、ってのもあったりして。でもやるんだけど。やってるうちに見えてくるものもあったりとか、ケース・スタディにしかならなくてもなんらかの小さな貢献につながったりとか、そう云う部分を期待しながら。
ついでに云うと「安全な場所」に見えるのはそれだけ議論が積み重ねられてきた、と云うことで、そう云う言説そのものが、重ねられた周回が顧慮してもらえない、と云うことでもあったり。
もっとも、ハナから否定するために入ってきた人を説得するのはまっさらな人より面倒かも知れんけど。
こう云うひとが極端に多いのも、ちょっと特殊な部分だったり。そう云う意味では、議論、と云う云い方に馴染まない部分もけっこうあるのかな。
実際のところ、ニセ科学についての議論で周回遅れと形容されるのは、そのひとが議論に対峙するにあたっての立ち位置が周回遅れになっていてはいけないような場合か、周回遅れの状況ではなしえないような主張をしている場合か、おおむねどちらかだと思う(で、多分この話は、lets_skepticさんが求められているのは当たり前の誠実さではないだろうかと云うエントリでお書きの内容ともつながってくる。いや、lets_skepticさんがお書きのことは、そのままぼくなんかの喉元にも刃先が向けられているのだけれど)。
今北産業でもいいからきちんとダイジェストを用意してあげるのも、何周も先にいっている人の役目なのかもね。
このへん、ニセ科学批判まとめとか、ここのサイドバーからもリンクされているいくつかの成果がいろんなひとの尽力ですでに存在しているんだけど、教えてあげても読まないまま主張を続けるひととかけっこうたくさんいるからなぁ。まぁぼくあたりにできるのは、めげずに何度も云う、と云うことぐらいしかないのだけれどね。
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技術開発者

皆様、新年おめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

>実際のところ、ニセ科学についての議論で周回遅れと形容されるのは、そのひとが議論に対峙するにあたっての立ち位置が周回遅れになっていてはいけないような場合か、周回遅れの状況ではなしえないような主張をしている場合か、おおむねどちらかだと思う

せとさんの所で教えて貰ったのだけど、ひえたろうさんが面白い記事を書いているのでご紹介しますね
http://taizo3.net/hietaro/2008/02/post_169.php

なんていうか「周回遅れ」という言葉を「知識の足り無さを非難している」としか取れないのも、或る意味で「想像力の欠如」なのね。大学の先生なんかは、自分よりも知識では劣る人の教育をするのが商売だし、私みたいに「教育」が本分でなくとも、なにか困り事を抱えて私の専門分野の話を聞きに来る人の相手をするときに「知識の不足」を怒っていたら商売に成らないわけです、というか知識に差があるからこその教育であり相談である訳ですからね(笑)。そこに思いが至るなら、「周回遅れ」は「知識の足り無さ」に対する非難ではなくて、「知識の足り無さなんぞは歯牙にもかけない思い上がった態度」に対する非難ではないかという事は容易に想像出来ることのように思えるんですね。

王陽明が論語の「中人以下もって語るべからず(あるレベル以下の人には話をしても仕方ないよ)」の解釈として「これは能力の差を指して言った言葉ではなく、学ぼうとする態度の差を指して言った言葉だ」なんて言っているのだけどね。なんていうか「傲慢さ」は学ぶと言うことにおいて最大の敵なのね。受け取れるはずの知識すら傲慢さがあると受け取ることができないからね。

変な話になるけど、昨日NHKで小林先生と益川先生が中学生(高校生?)の問いに答えるなんて番組をしていて、ある子が「私はUFOを見たんですが、益川先生は信じますか?」みたいな質問をしたのね。益川先生は「僕も人工衛星とは違う動きをする光るものは見たことがあるよ。でも、僕はそれをUFOとは思わない。学者というのは『肯定のための否定』というのをするんだ。自分が正しいと思うことが本当に正しいと証明するために、正しくないという仮説を立ててはそれを自分で潰すのが『肯定のための否定』なんだ。」なんて説明されていたのね。或る意味で専門家の強さというのは、「自分が正しいと思うことを証明するために、誤りである可能性を自分の手で立てては潰す」という事ができるということであり、それをどれ程やったかで専門家の強さはきまる訳です。そこにも「傲慢さ」は大きな敵だよね。

ニセ科学批判で周回の先頭付近を走るということも或る意味似ていると思うんですね。私はきくちさんたちが先を走ってくれたからずいぶん楽なんだけどね。それでも何度も何度も「ニセ科学批判は良いことなのだろうか」とか「このやり方で良いのだろうか」とかはあるし、そのたびにいろいろと「肯定のための否定」をやってきた面はあるわけですね。もちろん、その過程では修正もしたし、今でも修正はしている。その部分の差を理解しなくなるのが「傲慢さ」なんだと思うんですね。

by 技術開発者 (2009-01-06 17:47) 

pooh

> 技術開発者さん

今年もよろしくお願いします。

hietaroさんのエントリは読んでました。
感覚的には同意するんですが、そのことを表明するのに躊躇する、と云う状態でした。

> 「知識の足り無さなんぞは歯牙にもかけない思い上がった態度」に対する非難

ここであるのは、知識そのものをどれだけ重んじるか、と云うことについてのスタンスでもあって。知識を重んじない、と云うスタイルについては複数の異なった背景があって、それぞれの背景をしょってるような論者もいらっしゃるんですが、そのあたり気をつけて突っ込まないとこちらの気力が続かなかったり。

> 受け取れるはずの知識すら傲慢さがあると受け取ることができない

そうだと思うんですよ。でも例えば「知識にもとづいて発言することの傲慢さ」と云うのを感じるひともいる(それが具体的にどう云うことなのか訊ねても、まず教えていただけないんですが)。そのあたり、ぼくが特定の知識のバックボーンに頼らない言説を行っている理由でもあるんですけどね(知識がないからと云って、ぼくのわかることがわからない、と云うのは原則とおらないはずだ、と思っています。現にぼく自身、「議論のなかで学んだ」知識しかない)。

> 誤りである可能性を自分の手で立てては潰す

これ、やってかないといけないんですよね。しんどいですけど。

> 私はきくちさんたちが先を走ってくれたからずいぶん楽なんだけどね。

そのきくちさんがどれだけ悩んできたのかも(いまも悩んでいるのかも)ぼくたちは知ってますから。
by pooh (2009-01-06 22:08) 

技術開発者

こんにちは、poohさん。「肩書きを否む」の方に書こうかとおもったりもしたんだけど、こちらに書きますね。

>そうだと思うんですよ。でも例えば「知識にもとづいて発言することの傲慢さ」と云うのを感じるひともいる

なんていうか、我々というか、我々の社会というのは「自分ができないことでもできる奴にやらせて、成果はみんなで分ける」をやってきたという現実の認識が欠如して居るんだと思うんですよ。

kikulogに書いたけど、古墳時代くらいに水稲の栽培面積を広げるために灌漑水路を掘ったりしている。土地よりも流れている川は1mほど下にあるなら、そのままじゃ水田にはならない。上流で水を分けて、川よりも緩い勾配で水路を引いたら水田になる。どのくらい上流で、どのくらいの勾配で水路を掘るかなんて、全員が考えられた訳じゃない。たぶん、ほんの一握りの「できる奴」に考えさせて、後はみんなで堀り、そしてできた水田の実りは皆で食べたという事なんですよ。それが気に入ろうと気に入るまいと、我々は、そういう風にやってきたし、今の社会でもそういう風にやっている。

もちろん、その時代でも「そんなに上流から水路掘らなくてもいいじゃないか、距離が長いと掘るのが大変だ」なんていう人は、たぶんいた。でも、多くは、「できる奴」の言うことを聞いた、理由は簡単です。短い水路を掘るのは長いより楽だけど、それで水が土地の高さまで流れくれなかったら、堀った労力は「ただの無駄」だから・・・。

「できる奴の言うことを聞くなんて業腹だ」ならそれはそれで構わない。自分の気にいる短い水路を掘ればよい。でも、それは「自分だけでやれ、人を巻き込むな」なんですよ。人を巻き込むと、無駄なことを人にさせるからね。

by 技術開発者 (2009-01-07 13:00) 

pooh

> 技術開発者さん

これですね、あんまりうかつなことは云えないんですけど、なんか一時期極端な自己責任論が横溢したのとも関係があるようにも感じます(「気分」レベルの話として)。
自己責任論がいちがいに間違っている、とは云わないし云えないと思うんですが、ある集団のなかでそれを重要な原則として、なおかつその集団を機能させるためには、その自己責任を果たすにあたってのなんらかの規律が必要になるんですよ。企業だったら企業文化だったり評価システムだったり、共同体だったら宗教だったり共有された道徳観だったり。もちろんそのバランスは難しいし、両方ありさえすればうまくいく、と云うものでもないんですけど、でも少なくとも自己責任原則だけではうまくいかない(このあたり、一時期外資系企業に勤めていたころの記憶と実感から語っている部分もあります)。

横道ですけど、水田の例では個人的にバリ島の用水システムを連想します。
バリは三毛作くらい可能な、その意味では非常に豊かな土地なんですけれど、じつは灌漑用の用水はけして豊富とは云えないんですね。で、その状況で公平な水分配を行うための非常に巧緻な用水システムを持っていて、それを運用するための、なんと云うか非常にストリクトな規律を持った共同体がある(聞き書きですけど、バリでは目的の違う3種類くらいの共同体がレイヤーをなして社会が構成されています)。この状況では、旱魃時に用水に細工をして、自分のたんぼにより多くの水を導いて収量を上げる、なんて云うのは個人の才覚でもなんでもなくて、単純な反則行為にしかなりません。
もちろんこう云う話はその社会特有の背景と切り離しては語れないんですけど、なにかしらのルール、規律みたいなものの根源を考えると、こう云う話もあるのかな、とか思います。こういった社会的な制約と個人の行動範囲の許容みたいな部分は現実問題なかなか理想的にバランスしないものなわけですけど。
by pooh (2009-01-07 22:10) 

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