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それはたぶん別の話 [世間]

疑似科学と戦うと云うエントリを読んだ(プロフィールがない。mouth_of_madnessさんとお呼びすればいいのかな)。ある意味、典型的かつ根本的な誤解が見られるので言及してみる。

叩く方は科学的論拠で説明してくれればいつでも信じるという。しかしこれは嘘である。いや不可能だと僕は思う。
そんなことはない。科学的根拠を備えた説明があれば(そしてそれが認められれば)あっさりと科学のほうが更新されて終わり、になる。そのへん科学はけっこうはっきりしたもので。
世界感が違う者同士が話ているのだ。基本前提が違う者のルールでいくら説明されても納得いく答えなど出る訳が無いのだ。
ここのところ、構造についての大きな誤解があると思う(そして多くのひとが議論において同様の誤解をしているのではないか、とも思うけれど)。
ニセ科学を信じているひとは、そのひとの意識のなかでは「科学」を信じている。その「科学」がニセであることを認めていないだけで(ニセであることを知らないケースもあれば、現在の科学がニセであって信奉しているニセ科学のほうがほんものだ、と考えているケースもある)。いや、訊ねてみるとそのへん理解が混乱していて、「信じたいものを信じてなにが悪い。感性の問題だから筋なんか通ってなくてもいいんだ」みたいに開き直られるパターンもあるけど。
実際のところ、科学を信じずに日常生活を送るのはとても難しい(そのへんはこっちとかで書いた)。科学を信じる、と云うのは好むと好まざるとに関わらずふつうに暮らすうえでのデフォルトのポジションなので。もちろんそれに疑義をはさむこと自体は問題ないけれど、多くの場合それは自分の立ち位置を把握しないままの空論になる。
こうやって考えると、
また一度それを認めると今まで優位に立ち上から目線で蔑み光線の流し目を送っていた自分の足下は壊れ落ち自分が上から目線でビビッと見下されるという事に我慢出来ないのである。そんな怖い状況に陥る位なら頑なに今の状況にしがみついた方が良いと思うのが人間だろう。
と云うあたりが意味不明になる。ニセ科学を批判する側も信じる側もそもそも同じ場所に立っているわけだから(どちらもまぁ「科学を信じて」いるわけだし)、壊れ落ちたところで目線の移動はないわけで。
今の状況では疑似科学を信じるより、叩く方が確実に安全なのだから。まぁあんまり叩きすぎると血液型とか占いを信じる人に嫌われるとは思うけど。
いやまぁあんまり安全ではないすけど。あと血液型とか占いを信じる人に嫌われるのはそれなりに重大な問題です(ぼくだけかも)。
あらゆるモノの意味、価値なんてモノは根拠の無いモノの上に成り立っている可能性が有るのに現状の価値を維持しようと戦っているのである。
まぁふつう、その可能性については10代のどこかで気付いて、そのあとは現状の価値を維持しようと戦うことの意味とかその意義なんかを考えるようになると思うんだけど、どうかな。
物理法則が新発見で壊れたとしても教科書の内容と新製品が出る位で世界が滅びる訳では無いのだ。
これは誤解じゃないかと。あとぼくなんかが云うと口幅ったいけど、
まぁ後々の教科書等で昔は○○と信じられていた。と未来の子供に笑われる可能性は有るけど。
ニュートンは笑われてませんよ? 子供にも、物理学者にも。
全体の流れの世界観は色々と変わっているけどね。しかし意外とその事に気が付いていない。流れに身を任せているから見えていないだけなのよ。
ここで、「どんなふうに変わってるんですか?」とか「なにが見えてるんですか?」とか訊ねても、教えてはいただけないんだろうなぁ(経験上)。こう云う言い方をする以上、ご本人には見えてる、と云うことなんだろうけど。

いや、わかるような気はするんですよ。この方はたぶん、こんなことを云いたいんじゃない。要するに、ご自分のおっしゃりたいことに疑似科学だのを持ち出すのが的外れだ、ってだけ。で、多くの「ニセ科学批判」批判って、こう云うものだよなぁ、とか思う。
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田部勝也

>poohさん「まぁふつう、その可能性については10代のどこかで気付いて、そのあとは現状の価値を維持しようと戦うことの意味とかその意義なんかを考えるようになると思うんだけど、どうかな」

私がご紹介の文章を一読した後の印象も、同じようなモノでした。若くて青いなぁ……と。決して悪い意味ではなく、人が必ず通る道をこの人はいま通っているんだなぁ……と。そこを通り抜けて、いつか私などが達し得ない素敵な場所から、私たちを優しく教え諭し導いてくれる存在になってくれる事を願います。

とりあえず、いまこの人が、
>上から目線でビビッと見下されるという事に我慢出来ないのである。
――という段階である事は分かりました。この段階にある人がこの社会には戦慄を覚えるほど多いという事が分かったのが、自分がいわゆる「ニセ科学」に関わっての一番の収穫かも知れません。

――こんな事を書くのが、「上から目線」なんだろうなぁ……とか思いつつ。
by 田部勝也 (2008-12-08 23:37) 

Narr

>プロフィール
たぶん間違い無いと思います。lovelogは、エントリ末尾の[Posted by]以下が、個々のエントリの投稿者名です。

見た感じ、オーディオカルトのほうに注目しておられるんじゃないかと想像しましたが。
http://blogs.dion.ne.jp/mouth_of_madness/archives/3345049.html

『疑似科学と戦う』は、私には芸なのか本気なのか判断がつきませんでした。(ニセ科学批判批判のリストに入れていいか迷ってます)
by Narr (2008-12-09 02:03) 

黒猫亭

>田部勝也さん

>>この段階にある人がこの社会には戦慄を覚えるほど多いという事が分かったのが、自分がいわゆる「ニセ科学」に関わっての一番の収穫かも知れません。

いつの頃からか、この社会は非常に若い社会になってしまったと謂うふうに感じます。二十台の若者が、そう謂う尖鋭なプライドを持て余していると謂うのは理解出来るんですよ。それこそ「いつか来た道」ですから。

普通の凡人が人並みの分別を身に着けて、社会参加する為に必要な知恵をそれなりに獲得する為には、どうしても一定の時間がかかり、経験が必要となります。普通は三十台後半くらいで漸く満足な分別や知恵が附いてくるもの、と謂うか、どうしたってそのくらいの時間はかかるものだと思うんですが、人間の自己愛やプライドと謂うのは、それ以前の二十代くらいでピークを迎えるんだと思うんですね。そこが噛み合っていない。

だから、若者は自分を特別だと思いたがるのだし、特別な自分でなければ自分を愛せないからそう思いたがるわけですが、そこから一〇年も社会で揉まれれば、自分が特別でなくても何となく自分を許せてしまうのだし、そう謂う自分を愛せるようにもなってくる。自分が獲得した平凡な知恵とそれを獲得する為に払った労力に対して、それなりの誇りを持てるようになってくる。

それこそ、他人から「上から目線」で何かを言われたとしても、その不快をやり過ごして自らの肥やしに出来るだけの余裕が出来てきます。まあ、一応そう謂う人格的成長のプロセスが存在した時代が、嘗てはあったんだと思うんですね。だから、オレ自身も至らない人間ではありますが、歳だけは中年の域に来ていますので、若い人の至らなさには寛容であるべきなのだし、指導的に接するべき責任があるんだと思います。

でも、その「若さ」と謂うのは、年齢で区切らないとやっぱりキリがないものだと思います。二十代の人間が若さ故の過ちを許容されるのは、生まれてから二十数年しか経っていないと謂う事実それ自体の故なのですし、四十数年間生きてしまったのであれば、四十路の人間に求められる思慮分別を一通り獲得しているべき責任がある。

どうもですね、そう謂うふうに実年齢によって振る舞いをシビアに値踏みされてしまうのが当たり前の常識だと謂う感覚が、どんどん薄れてきているんではないかと思うんですよ。いつまでも若くあることが許される、むしろ若くあることこそが良いことだ、と思っている人が、今の世の中には多すぎるんではないですかね。
by 黒猫亭 (2008-12-09 02:13) 

apj

トンデモは愛でるものなので、紹介されているエントリーは初っぱなから勘違いで始まっている気が。
by apj (2008-12-09 02:28) 

pooh

> 田部勝也さん

それが一概に若さから来るものなのか、と云うともちろんわからないわけですけどね。でも、相手の事情を充分に斟酌できない(想像できない)と云うのは、やっぱりそう云う雰囲気を感じ取らせる部分はあります。

あと正直、ぼくは「上から目線」云々はよくわからない部分があって(^^;。
見下されたり見くびられたりするのが、どっちかと云うと好きなほうなので。
by pooh (2008-12-09 07:35) 

pooh

> Narrさん

ストレートに「ニセ科学批判批判」になるのかどうかはわからないですけど、背景となるある種の認識に共通する部分があって、それがわかりやすく表面に出ているな、と思ったのが言及した理由でした。
by pooh (2008-12-09 07:37) 

pooh

> 黒猫亭さん

若さの価値、成熟の価値と云うのはたぶんそれぞれあって。
でも、人間は一本道で成熟に向かうんですよね。成熟の仕方はそれぞれですけど。なので本来、「上から目線」に抗うためには自分がさらにその上に向かう、と云うのが本道なんでしょう。
でもあんまり、「上から目線」と云うのを取り沙汰したがる向きには、そう云う発想はないようにも思えます。
by pooh (2008-12-09 07:40) 

pooh

> apjさん

これって、なんと云うか典型的かつ根本的で、非常にしばしば見られる種類の勘違いのような気がしています。
by pooh (2008-12-09 07:42) 

Narr

 こんばんは。
 ええと、mouth_of_madnessさんに意図など質問して、回答がもらえましたので…mouth_of_madnessさんのエントリのほうに。
by Narr (2008-12-09 20:59) 

mouth_of_madness(隼5郎)

どうもです!! 此方からのアクセス沢山ありビックリしています。

疑似科学信仰者、疑似科学否定派ともにネット等での議論等を見ると個人的印象で寛容では無いという部分がそもそもの始まりです。

どちらか一方を批判しようという気はありません。

>Poohさん
笑われるというのはニュートンとかの事をいっているのではなく、極論でいうと昔病気は御札で治してたとか、亀の背中に世界が有ると信じられていたとかの民間レベルの事で書きました。

また世界観が変わるというのも疑似科学だけに言及して書いたのではありません。家族のあり方、モンスターペアレントといわれる様な状況、携帯電話等により関係性の変化、アナログからCDそしてネット配信等の媒体の変化による音楽の価値等の変化、コンビニによる生活の変化で世界観は変わっていると思うのですが。それにより自分の感覚も変化しているのだろうけど何処がどう変わったのか理解は出来ていない状況です。

>apjさん
トンデモはめでるものとありますがそのめでるという部分になんか違和感を感じもします。自分は何を知っているのか?問うた場合に殆ど知らない様な気がするので・・・まぁ自分のブログでの断定していたりする内容を見ると矛盾しているというツッコミが入りそうですが。

>黒猫亭さん
僕は人が出来ていないので上から目線はカチンと来ます。納得がいく説明が有る場合は大丈夫ですけど。とりあえず俺の言う事に間違いはないから聞けとかいうのにはカチンときます。

劣等感はかなり強いです。出来ない事多いですから。

単なる自分の経験だけですが。才能ある人は上から目線がないんですよ。才能無い者が上から目線をしたがる印象があります。まぁ此処で僕の方にも心の余裕が有れば流せるのでしょうけど・・・・・流せません。

まぁその受け流せない自分の度量の狭さと平行線をたどる論がオーバーラップする分も有ってもっと寛容になろうよという気持ちになってしまうのです。自分に向けての文でも有るのです。

全部に答えきれていませんし、的はずれかもしれませんがこんな感じです。
by mouth_of_madness(隼5郎) (2008-12-09 21:18) 

pooh

> Narrさん

拝読しました。
えぇと…ご本人がお越しなので、そちらに応答しますね。
by pooh (2008-12-09 22:08) 

pooh

> 隼5郎さん(とお呼びするのがいいのかな?)

いらっしゃいませ。ここの管理人のpoohです。
できるだけ手短にお返事してみますね。

まず、寛容、と云うことについて。
ある問題意識を持っているひと(たち)がいて、その問題意識に抵触する事柄があった場合に、そのことについて誠実に提議するのは、不寛容と云うこととは違いますよね?
それを外側からみて、それぞれの主張を検討することなく単にふたつの主張の相反する陣営がある、とだけ捉えるのは、極端な相対主義、と云うことになります。その立場を取るとき、そのひとは意識のうえではその議論の外に出てしまいます。つまり、そこで交わされている議論から、なにも受け取ることができなくなる、と云うことです。
その場所から、議論についてものもうすことは控えたほうがいいかも、とか思います。

お札で病気を治したことも、亀の背中に宇宙が乗っていると云う世界観も、科学の立場から笑われることはありません。そう考えることがもっとも科学的で、合理的だった時代が実際にあったからです。もちろん、いまそう考えると、現代のぼくたちの生活は成り立たないわけなので、現時点でそう云う主張をすると笑われることもあります。
じゃあ、これからの時代の変化のなかで現在の科学で正しいと思われることがじつは間違っていた、と云うことがわかって、いまの知識が笑われるものとなる可能性はないのか、と云うと、当然あり得ます。ただ、現時点で確からしい、と思われているものに準拠して考えるのと、すでに正しいとは思われていないものに依って考えるのとは、もちろん違いますよね?
この部分を混同してはいけません。

また、時代はつねに変化しています。挙げていただいた変化などは、産業革命前の世界と現代を比較して見て取れる変化と比較すれば誤差の範囲です。そしてそれは、人間の積み上げてきた科学の(学問の、と云っても同じ意味です)体系に顕著な変化を強いるほどのものではないと思います。

あと、言説の場所で目線の上下を取り沙汰するのは、あまり意味のないことです。上から目線が不快でも論旨で圧倒してやればすむことですし、そう云う論者は足を掬ってやればいいだけです。もちろん、そのためには議論と誠実に向き合うことが必要になりますけど。
by pooh (2008-12-09 22:35) 

田部勝也

>poohさん「あと正直、ぼくは「上から目線」云々はよくわからない部分があって(^^;」

私もまったく同感です。
ずっと不思議で仕方なかったのですけど、ほとんどの場合「上から目線」とは「私の知りたくない/納得したくない事を私に向かって言う事」という意味なのではないか――という仮説を、しばらく前から密かに検証中です。反証例はまだほとんど見つかっていません。

――どうでもいいんですけど、思い切り「上から目線」と私には見えるみのもんたや江原啓之やベンジャミン・フルフォードや……が、「上から目線」とか「とりあえず俺の言う事に間違いはないから聞けとかいうのにはカチンときます」とか非難される事がほとんどないように感じるのは、私のアンテナが錆びてるからなのでしょうか。
by 田部勝也 (2008-12-09 23:29) 

mouth_of_madness(隼5郎)

上から目線というのと寛容でないという部分ですがこれに関してはpoohさんの言葉を借りますと不誠実な議論をしている状態とお考え下さい。

誠実な議論で平行線をたどるのは仕方のない事だとは思うのですがネット等での議論で相手を物がわからない者として扱う者がいるのが気になるのです。馬鹿に何を話しても意味無しという感じが嫌いなのです。

また既に正しいと思われていないものと有りますがそれに反している論を出している人をどう判断して良いのかという部分に僕は悩みます。

あと僕の知っている科学的なものは殆どが本での知識です。それも大した知識はありません。そしてそれは自分で実験等をして実感、体験した知識では有りません。その為概ねは教科書的知識を基準するのですがそれは本当なのだろうか?という不安感が伴うのです。否定するだけの自分の答えが無いのです。借り物知識ですから。

たしかに観た事、体験した事が正しいという保証は有りません。ただ実感をともなう分だけ自分の中の基準にはなるとは思います。

また僕も科学体系が大幅な変化をするとは思っていないです。元々の文章は枕に疑似科学を使っただけなのです。

個人思う世界観(ある種の常識)、価値観というのは変化していくものという考えの元にその世界観を守ろうとするというのはどういう事か?という事が気になるのです。

なんか混乱させる文章ですかね?

by mouth_of_madness(隼5郎) (2008-12-09 23:34) 

apj

poohさん、ちょっとここお借りしますね。

mouth_of_madnessさん、

>トンデモはめでるものとありますがそのめでるという部分になんか違和感を感じもします。自分は何を知っているのか?問うた場合に殆ど知らない様な気がするので・・・まぁ自分のブログでの断定していたりする内容を見ると矛盾しているというツッコミが入りそうですが。

 ニセ科学批判とトンデモを愛でる行為はかなり別なので……。
 と学会本にも2回ほど書きましたが、どちらも鑑賞する方向で書いてます。批判じゃない。珍しいものを見つけて面白い、という感じで。だから、単なるニセ科学じゃトンデモにならないんです。楽しめる切り口が無いと。

 たとえば、とあるホメオパシー本を取り上げた場合。
 ニセ科学批判に載っけると、科学的根拠が無いとか証拠が無いとか社会的弊害といったことについて真面目に議論することになります。
 トンデモ鑑賞の立場で眺めると、治療法を紹介する筈が、治療の結果恋人と仲直りしたとか結婚相手が見つかったとかいう効果が列挙されていて、既に普通の「治療」の域を超えて開運グッズと化している様を面白がる。また、レメディ一覧がぶっちゃけ毒薬一覧という物騒なリストになっていることを取り上げて、薄めるのが基本だけどうっかり「濃い方が効く」などと勘違いする人が出たらエラいことになりそう、とツッコミを入れたりする。

 磁気活水器の宣伝を取り上げる場合。
 ニセ科学批判でいくときは、科学的説明が間違っていることをきちんと論じる。
 トンデモ鑑賞でいくときは、宣伝で風呂敷を広げまくった挙げ句SDI計画の核兵器破壊用レーザーまで登場するという話スケールの大きさを笑う。ついでに、磁気活水器ってそんなに物騒なものだったっけ?という落差も楽しむ。
by apj (2008-12-10 02:35) 

pooh

> 田部勝也さん

「上から目線が不快」と云う云い方には「ほんとうはたいして『上』でもないくせに」と云う含意があるような。「そんなやつの云うことに納得なんかしないぞ」みたいな。わかりませんが。
by pooh (2008-12-10 07:40) 

pooh

> mouth_of_madness(隼5郎)さん

相手を見下した状態で不誠実な議論をする論者と云うのは確かにいると思います。でもまぁ、そう云うときにはこちらが誠実な姿勢を崩さない、と云うだけでだいたい問題は解決します。そう云うときにこちらの投げかけをまっすぐに受け止めなかったり、「ネタにマジレス」とかいいだしたら、要するにその目線は下駄を履いているだけ、と云うことになるので。で、本人はどう考えていても、そう云うのはROMには伝わるものですよね。

> 元々の文章は枕に疑似科学を使っただけ

ここは、注意していただいたほうがいいかな、と思います。
ぼくを含めそのあたりには問題意識を持っている論者が複数いて、それこそ対等な目線で「マジレス」をしますので。ここのサイドバーにリンクがある「ニセ科学批判まとめ」をご一読いただけるとうれしいです。

社会の変化に対する保守性、と云う話になると、ちょっと話題は変わってきますので、ちょっとここでは深くは論じません。ただ、そう云う部分はある種社会(≠個人)の自己防衛機能的な部分があるのかな、とか思います。
by pooh (2008-12-10 07:49) 

pooh

> apjさん

公的な場で「愛でる」と云うスタンスをとらない(とは云えそちらの種類の感受性はたぶん保有している)ぼくからすると、そのあたり場と文脈によってスタンスを選択できない論者や、スタンスを理解できない受け手が存在する、と云うあたりにギャップがあるのかも、とか思ったり。
by pooh (2008-12-10 07:52) 

田部勝也

>黒猫亭さん「いつの頃からか、この社会は非常に若い社会になってしまったと謂うふうに感じます」

この件について、私には個人的な印象論以上の事は書けないんですけど、昔も今もその点についてはあまり変わらないのではないかと感じています。
私なんかは今でもよく、後になって思い出すと顔から火が吹き出そうな恥ずかしい言動をしでかしますけど、そういうのは、リアル社会やリアル人間関係においては、たいてい、会話の流れとか場の雰囲気とかでスルーされて、そのままうやむやに無かった事になるわけですよ。大人の対応ですね。
でも、そういうのを同じ感覚でブログとかに書いちゃうと言動が残りますから、たとえスルーしても無かった事にできませんからね。後からいくらでも読み直したり検討したり発掘されたりして、面倒な事が起きてしまう――という感じかなぁ。
運良く、うまい具合に良い経験が積めて、ネット上に文章を書き残す事はどういう事なのか(もっと一般的に他者に影響力を行使するという事はどういう事なのか)を学べていけると良いのですけど、いつまでも居酒屋談義のつもりでいる人たちは、いろいろと揉める事も起きるでしょうね。そういう人たちは、スルーしないでわざわざいちゃもん付けてくる人たちのほうこそ「大人の対応ができない子ども」だと感じるかも知れません。

>黒猫亭さん「どうもですね、そう謂うふうに実年齢によって振る舞いをシビアに値踏みされてしまうのが当たり前の常識だと謂う感覚が、どんどん薄れてきているんではないかと思うんですよ」

同じ印象を私も持つ事が多いです。
部活の指導をしていると、先輩-後輩関係の問題が必ず出てきます。いろいろな考え方はあるでしょうけど、私の場合は、後輩には「1年前の自分と今の自分を比べてごらん。どれだけの事を経験して、どれだけ成長した? 先輩たちは君たちより1年分いろいろな経験をしてその分成長しているんだから、まずは先輩を敬うべきだ。その上で、疑問のある事や納得できない事があったら話し合えば良い」と言い、逆に先輩には「この1年間を、後輩が敬うに値する経験と成長をする1年間にしなければならない。それができなければ“先輩”とは言わせない」と言ってました。
でも最近は、先輩-後輩関係などは忌避される印象が強いですね。もちろん程度問題というかバランス感覚が大事なのですけど、ちょっと行き過ぎているのかも知れない……と思う事も少なくないです。専門家を軽視・蔑視する傾向も似たような現象なのかなぁ……。
by 田部勝也 (2008-12-10 23:30) 

田部勝也

>mouth_of_madness(隼5郎)さん。

おっしゃる事はおおむね正論だと思います。

ただ一方で、有名なSF作家シオドア・スタージョンの言葉に「あらゆるものの90%はクズである」というのがあります。疑似科学を信じる方も叩く方も、mouth_of_madness(隼5郎)さんの提起された問題意識にまったく無頓着な人もいれば、その問題意識を真剣に思い悩んでいる人もいれば、すでにその問題意識に答えを出した人もいるわけです。
mouth_of_madness(隼5郎)さんの問題のエントリ記事では、「“疑似科学を信じる方も叩く方も”みんながみんな、その問題意識に無頓着に過ぎる」――と読まれても文句が言えない書き方になってはいないでしょうか。
そのために、すでにその問題意識に答えを出した(と私には思われる)poohさんのような人が、「いや、ニセ科学を批判している人たちは、その問題意識をとうに共有しているよ」と言わなければならなくなった――という状況のように、私には見えるんですね。

で、mouth_of_madness(隼5郎)さんがお持ちになった問題意識は、いわゆるニセ科学批判者たちも共有しているわけですから、その問題意識をさらに深めたり答えを模索したりするために、mouth_of_madness(隼5郎)さんには、これからも自身の思索や経験などを投げかけて欲しいと思います。そうする事でより有意義な議論ができるかも知れませんし、私はそれを期待しています。

――ただ、1点だけ。

>mouth_of_madness(隼5郎)さん「疑似科学信仰者、疑似科学否定派ともにネット等での議論等を見ると個人的印象で寛容では無いという部分がそもそもの始まりです」

この点については、『ニセ科学批判まとめ %作成中』(↓)
http://www39.atwiki.jp/cactus2/
というサイト内の「ケンカをやめて or 弱い者いじめはよくない」(↓)
http://www39.atwiki.jp/cactus2/pages/13.html#id_28b2ee43
や「何故ニセ科学を批判するのか」(↓)
http://www39.atwiki.jp/cactus2/pages/15.html
が何か参考になるかも知れません。ならないかも知れませんけど……。
――「寛容」という点については、本当に非常に悩ましい問題だと思います。「許せない事」「放置・黙認できない事」っていうのも、確かにありますからね。
by 田部勝也 (2008-12-10 23:38) 

pooh

> 田部勝也さん

まぁ、ニセ科学を批判する論者も、ぼくみたいな有象無象を含めてたくさんいるわけです。それをみんな把握してからものを云え、みたいなのはそもそも無茶な部分があるわけで。

ただ逆に、例えば「寛容ではない批判者」みたいな云い方をするときは、それがだれなのか、を示してほしいな、みたいに思ったりもします(それはもちろん、例えばぼくのことだったりもするかもしれません。そうすると、反省したりもできるわけですよね)。
by pooh (2008-12-11 07:40) 

黒猫亭

>隼5郎さん

>>劣等感はかなり強いです。出来ない事多いですから。

隼5郎さんだけではなくて、人間と謂うのはだいたい出来ることより出来ないことのほうが圧倒的に多いものだと思いますが、若いうちはそれが気になるものですよね。そうでないと、出来ることを地道に増やしていこうと謂うモチベーションが生まれませんから、人生の上で過剰な劣等感に悩むと謂うプロセスは必要なことなんだと思います。

オレはけっこういい歳ですが、したいと思いながら出来ないことが未だにたくさんありますし、劣等感だって人並みにありますよ。就中、楽器が弾けないとか絵が描けないと謂うのは今でも物凄く残念ですし、出来るヒトをみると物凄く羨ましく妬ましく感じますね。それ以外でも、社会的な能力で欠けている部分は多いですから、日々劣等感を意識する場面は多いですね。

人並みの神経の持ち主であれば、誰でも劣等感の一つや二つはあるんではないでしょうか。多分、劣等感と謂うのは歳をとっても消えてなくなったりしないものではないかと思います。ずっと引きずってはいるんですけど、在るのが気にならなくなるとか、劣等感との附き合い方を覚えると謂う感じじゃないでしょうか。歳を取って附く知恵と謂うものの大きな部分として、自分と上手く附き合えるようになると謂うことがあると思います。

ただ、他の方も仰っていますが、そう謂う自信のなさの故に他人の「上から目線」の物謂いに腹が立つと謂うのは自然な感情でも、だからと謂ってそう謂う物謂いをする相手を批判しても何の意味もないと思います。ネットで謂われる「上から目線」と謂うのは、大部分がその発言をする者の姿勢と謂うよりも、それを読む人間の感じ方の問題である場合が殆どだと思いますので。

で、これって突き詰めて考えると、単にその物謂いを個人的に不愉快に感じると謂う以上の話ではないはずなんですね。不愉快な物謂いをする人間は嫌われると謂うだけの話で、そう謂う物謂いを見掛けたら内心で嫌っておけば済む話ではないかと思いますし、オレだって偉ぶった書き方をする論者は正直言って不愉快に感じます。

それは、他の方だって同じだと思うんですが、それは飽くまで対人的な感情面の問題ですね。或る人物との語らいが楽しいか楽しくないかの問題だと謂っても好いでしょう。

でも、それとその文章で語られている内容は関係ないですよね。不愉快な言い方だから、言っていることも間違っていると謂う話には決してならないはずです。好もしい言い方だろうが、不愉快な言い方だろうが、言っている内容が妥当か不当かとはまったく関係ないです。

そして、ネットの言論と謂うのは、基本的に友人同士の楽しい語らいとはまったく別のものですし、物謂いが不愉快であるか好もしいものであるかと謂うのは基本的に言論の価値や意義とは関係ありません。

非常に有意義で良いことを言うんだけど、態度が偉そうで鼻に附くと謂うヒトもいれば、腰が低くて愛想は好いんだけど、言っていることがくだらないとか有害だと謂うヒトも幾らでもいるわけです。

その場合、たとえば偉そうなヒトに「あんた偉そうだよ」と批判しても、その方と自分は友達同士でも何でもないのだから、その批判には意味なんかないと思います。また、腰が低くて愛想が好くても、言っていることが間違っているとか有害だと感じたら、それを批判することには大きな意味があります。

隼5郎さんにとっても、ネットで目にするテクストで重要なのは、そのテクストを読んで楽しい気分になるか不愉快な気分になるかではないはずですよね。勿論、娯楽的な読み物については楽しいに越したことはないですし、ネット上の友人との楽しい語らいがあることも否定しませんが、社会的な問題を論じている言論で、楽しいか不愉快かを基準に価値判断しても意味はないでしょう。
by 黒猫亭 (2008-12-11 10:30) 

黒猫亭

>田部勝也さん

>>この件について、私には個人的な印象論以上の事は書けないんですけど、昔も今もその点についてはあまり変わらないのではないかと感じています。

なるほど、ログが残るから、と謂うのはたしかにありますね。ただ、こちらも自分の感じ方以上のことは謂えませんが、大人の健全な保守性と謂うものが薄れてきているのではないか、とは思います。大人と呼ばれるべき年代の人でも、感覚が若いと謂うのか、剰り若者と言うことが変わらないなあと思うことが増えてきているようには感じます。

オレの親くらいの世代の人の感覚で謂えば、人間は加齢と共に成長すべきだと謂う社会的圧力が今よりも強かったですから、自分も若い頃に考えていたようなことを若者が口にしたら、理解は出来ても大人として保守的に圧迫する立ち位置に立つと思うんですね。新奇と急進を好む若者たちの前に大人が健全な保守性の壁として立ちはだかる、そう謂う形の綱引きでバランスが取れて安定していた社会だったと思うんです。

今はそう謂う若さに対しても理解を示すべきだと謂う考え方が支配的で、それには相応の理由があるわけで、「大筋では」それも良いことなんだと思うのですが、では健全な保守性のような部分を誰が担うのかと謂うことが曖昧になっているのではないか、新しい状況においてどう謂う形で社会が安定的に機能していくのかと謂うシステムがまだ未整理なのでは、と謂う気がします。

>>でも最近は、先輩-後輩関係などは忌避される印象が強いですね。もちろん程度問題というかバランス感覚が大事なのですけど、ちょっと行き過ぎているのかも知れない……と思う事も少なくないです。専門家を軽視・蔑視する傾向も似たような現象なのかなぁ……。

こう謂うところに繋がってくる話なのかもしれないですね。「先輩を作るのは後輩だ」と謂う言葉もありますが、これはつまり強力な責任関係のシステムになっているわけですよね。上級生が下級生に対して絶対的な責任を負い、その代わり下級生は上級生に絶対服従を強いられる。先達が後進に対して責任を負う、その為には後進を指導するに足るだけの成長を果たさなければならない、と謂うシステムになっているわけです。ベタな言い方をすれば、これは社会の縮図みたいなものですよね。

勿論、先輩−後輩関係が行き過ぎると、「先輩の命令には絶対服従」みたいなシステムは容易く堕落する可能性があるわけで、「かわいがり」や理不尽な体罰と謂った昔の体育会系組織のような問題点も出てくるわけですから、そこが開かれてきて各構成員の自由意志が尊重されるのは「大筋では」良いことなんですよね。

しかし、では「先輩の命令には絶対服従」みたいな前近代的支配と責任関係を前提とした教導システムを排除するとして、その後にどう謂うふうに個人の成長と後進に対する世代的責任の自覚を促す共同体システムを再構築していくのか、みたいなところがまだまだ未整理なのではないかと感じます。

これを大きく言ってしまうと、将来世代に対する現在世代の責任みたいなものを意識しない限り、なんで歳を経るに従って待ったなしで成長して行かなければならないのか、自分には大して得があるとも思えないのに成熟した大人として社会にコミットする必要があるのか、と謂うことが理解されにくいのではないかと思います。
by 黒猫亭 (2008-12-11 11:56) 

かも ひろやす

本題とは関係ないけど、部活で先輩・後輩関係が忌避される理由として、先輩より長い経歴を持つ後輩にうまく対応できない問題があるからというのが考えられます。マイナースポーツでは、そういうことが普通にあるんですよ。高校に入って初めてストーンに触ったまだ1年ほどの経験しかもたない二年生ばかりのカーリング部に、5歳のときからストーンを投げ続けている10年選手の一年生が入部してくるなんてことです。

スポーツ以外、たとえば、囲碁・将棋などの頭脳競技系とか合唱や管弦楽など音楽系とか、電子工作・プログラミングなど技術系とかだと、学年と経歴の長さの相関関係はもっと弱いです。既存部員よりも長い経験をもつ新入部員が入ってくることを気にかけなくてすむのは、野球とかサッカーとかの一部のメジャースポーツだけでしょう。


by かも ひろやす (2008-12-11 12:29) 

pooh

> 黒猫亭さん

なんか上で書いたことと被りますけど。
ぼくもたいがいいいおっさんですが、「上から目線」の応対をされるのってけっこう好きです。
上から、である以上教えを請えばぼくなんかの思いも及ばないような知見を与えてくれるはずだし、それができなければ傍から見てるひとたちにはそのひとのhypeさ加減がむき出しになるわけで(ネット上で対話したひとたちにも、そう云う方が何人かいらっしゃいました)。
だいたい劣等感にこだわっていたらこんなところの運営はできませんもん。コメント欄にどんな方々がいらっしゃってるか。

ちょっと話を飛躍させると、田部さんと黒猫亭さんがおっしゃっているような世の趨勢と云うのは、まぁあるんだろうな、とは思います。それは例えば、暗黙知を形式知に、みたいな少し前に流行ったスローガンとも関わってくるようなかたちで。
ただ、技術開発者さんなんかのお考えのような視点からみると、たぶんこれって機能体の発想で、包括性を持った共同体の発想ではないんですよ。おそらくそこには、外側から見たときにはかならずこぼれおちているものがあるんだろうな、みたいにも思います。
by pooh (2008-12-11 22:49) 

pooh

> かも ひろやすさん

一概に年齢とある事柄に対する習熟度(と云うと変ですけど)がリニアではない、と云うのはふつうのことではありますよね。ただ、平均すると世の中に長い間いる人間、あることを長い間やっている人間の方が習熟度が高い、と云うのも改めて云うほどのこともない一般論で。
この辺、ひどくくそ生意気な子供だった頃の自分の記憶がある分、ぼくなんかはちょっと身に沁みて感じることができたり。
by pooh (2008-12-11 22:50) 

田部勝也

>かも ひろやすさん。

程度問題かも知れませんけど、メジャースポーツでも似た状況はありますよね。先輩たちより遥かに能力・技術に優れた後輩が入ってくるなんていうのは、どのレベルのどの部活でも普通にある事で。
上手な顧問だと、競技の能力・技術だけでなく、ローカルルール(練習場の使用法とか他部活・教員・他校などとの折衝法とか)の精通度や人間関係トラブルの対処などの経験・能力のほうから、後輩より競技能力で劣る先輩の、先輩としての成長のモチベーションを維持させたりするような事もしているようですね。

私は中学で卓球の指導をしていたのですけど、新入部員はほとんど初心者という部活でしたので、先輩たちより遥かに能力・技術に優れた後輩が入ってくるというのは、毎年必ず起きました。そうすると、まったくの初心者の状態から頑張ってきてようやくレギュラーになれる……というところで、いきなりあっさり新入部員にレギュラーを奪われる子が出てくるという事態が毎年起きるわけです。中学生くらいだと、人間関係トラブルに発展する事態なのですけど、3年生にもなると(毎年の事なので)だいたい自分たちでなんとか無難に収める事ができるようになります。
レギュラーを奪われた子は、それでもチームに必要とされる存在として誰もに認められながらチームのために自分の役割を(密かにレギュラー奪取の気持ちも持ちつつ)頑張れるような、レギュラーを奪った子も、自分が強くなれるのは自分だけでなくチームのみんなが頑張っているからだと感謝しながら頑張れるような、そんなチームを作れる「先輩」は、たとえ卓球は弱くても、後輩から尊敬される存在にはなれますよね。
――いや、もちろん、部員みんなにそう思わせるように密かに顧問がフォロー・演出するわけですけど。

いわゆる体育会系と言われる一部のメジャースポーツの部活では、顧問や周囲の人間が、そういったスポーツの技術以外の経験・能力を「先輩の貫禄」として後輩たちにうまく演出するノウハウが(良くも悪くも)蓄積されているので、そうでない部活よりも、既存部員よりも長い経験をもつ新入部員が入ってくることを気にかけなくてすむのではないのかなぁ……という印象を、私は持っていますけど、どうかなぁ。

ただ、しつこいようですけど、そういった「先輩-後輩関係」という制度・慣習が、本当に良いモノなのかどうか――本当のあるべき姿とはどういうものか――という点は、私の中では結論の出ない問題です。
by 田部勝也 (2008-12-11 23:50) 

mouth_of_madness(隼5郎)

先輩、後輩等の上下関係がおかしくなっている部分は少子化と塾等に行く様になった事が原因では無いかと僕は考えています。

僕が子供の頃は弟を連れて来る者や、町内で遊ぶとある程度の年齢の幅で遊んでいました。其処で年長者の責任等を勉強したと思います。小学生の頃だと1歳違うとかなり違いました。

塾等により遊ぶ単位が横並びなるというのがそれらの機会を失わせている様に思います。

この上下関係により上から押さえつけられるという事と能力的に負けた感等を学ぶ事になり、自分の万能感が潰されます。これが良かったのではないかという気がします。親もよく考えると理不尽な事を言っているのかもしれないですけど怖い壁として存在しました。

少子化等により親にも甘やかされた子供は、家でも外でも壁が無くミーイズムを増殖させる事になっているのではないかと思います。

その者達がネット等で万能感まま書き込みをすれば誠意のない書き込みなるのではないでしょうか。またその万能感を維持する為に負ける訳にはいかないのです。

何度も負けていると負けてもそんなに劇的に何かが変わる事がないという事がわかっているのしょうけど負けてないからそれがわからず恐怖感が強いと僕は考えます。

また実体験でのサンプル数は3人しかいないのですが。過剰に褒められると人は傲慢になります。凄く万能感を持つ様になります。不思議な事に自分がやっていない仕事の分に関しても口出す様になります。

>黒猫亭さん
理屈がこれこういう理屈でおかしいと言われる事も、議論でぶつかる事もそんなに不愉快とは思いません。むしろぶつかるのは面白いと思う口です。

しかし議論が本編の内容から外れ「馬鹿に無にいっても無駄」という状態に陥りまともに話を聞こうとしない状態になるのが嫌なのです。議論の顛末がどうなるかと期待し、新しい知識等を得る事が出来るかもと期待しているのに最後がそうだとそれまでの議論が無駄になっている感じがして凹むのです。

また話は脱線しますが。

疑似科学は有害なのか?確かに懐にやさしくなかったりしますし、健康を害する可能性もあります。そういう意味では有害です。しかし間違った科学知識を持つ事が本当に有害かというと少し疑問があります。(ここでそんな事を言うと問題なのでしょうけど)

間違った知識がある事により、遠回りをする事は無駄かもしれません。教育時間にも影響は出ます。しかしおかしな知識としてもそういう考え方をする人がいるというのが思考の幅を広げる為には必要では無いのかとも思います。また世の中には間違った知識等があるという部分がある事も訓練的には必要では無いのかと思います。論理的思考をする為にも非論理的思考を見る事が大事なのではないか。と思うのです。疑似科学のおかしい所を否定する為に正しい知識を勉強する事になるのでは無いでしょうか。キッカケとしては良いモノだと思います。


by mouth_of_madness(隼5郎) (2008-12-12 00:30) 

田部勝也

>mouth_of_madness(隼5郎)さん。

多くのいわゆる「ニセ科学批判者」は、「ニセ科学」の「蔓延」を問題視されているのだと思います。「ニセ科学」を完全に撲滅しようという気持ちの「ニセ科学批判者」は、あまりいないんじゃないのかなぁ……。

「ゲームをしたりテレビを見たりすると脳が壊れる」という(間違った)知識を持つ人が社会の中の数人だけならば、おっしゃるような反面教師にもなるでしょう。
でも、そういう間違った知識を振りかざしたり子どもたちに教え込んだりするような人が大多数を占めるような社会では、そんな事も言っていられないのでは……と危惧しているんじゃないでしょうか、たぶん。

きっと、mouth_of_madness(隼5郎)さんがおっしゃったような立ち位置で、間違った知識・非論理的思考をウォッチングしているのが「と学会」のスタンスなのでしょう。
一方、現状のいわゆる「ニセ科学」は、反面教師として放置・黙認できるレベルを超えて蔓延してしまっているように、私には思えます。

あと、余談ですけど、いわゆる「ニセ科学批判者」は、単に「間違った知識」や「非論理的思考」を非難したり糾弾したりする事はあまりないと思います。そのへんの事情については、面倒でも『ニセ科学批判まとめ %作成中』の「ニセ科学の定義」(↓)
http://www39.atwiki.jp/cactus2/pages/14.html
あたりを読んでもらえたらなぁ……と思います。

ちなみに、全然関係ないですけど、私の座右の銘は「天国への道を知る最良の方法は地獄への道を探究することである(マキアヴェッリ)」です。
by 田部勝也 (2008-12-12 01:38) 

TAKESAN

今晩は。

こういう場合には、具体的な事例を出した方が、ごく一般論をやり取りするより良いのではないか、と思います。

たとえば、先日、ゲーム脳を授業で用いる予定の小学校の先生がおられました。
その先生は、授業案を変えたとの事ですが、どういう風になったかは不明です。

mouth_of_madness(隼5郎)さんに伺ってみたいのは、たとえばゲーム脳が授業で用いられたり、主唱者の講演が教育機関で行われる事を、
▼▼▼引用▼▼▼
しかしおかしな知識としてもそういう考え方をする人がいるというのが思考の幅を広げる為には必要では無いのかとも思います。
▲▲引用終了▲▲
こういう論理をもって正当化、あるいは許容出来るのか、という所です。

ニセ科学というのは結局、ウソもしくは間違いな訳です。(その基準は、現在スタンダードである科学の方法です。)

ニセ科学を肯定的に使うというのはつまり、ウソや誤りを用いて教育なり商売なりに利用しようとする事なので、それ自体が批判を受けても仕方の無い部分です。もちろん、実際に批判されるかは、それぞれの論者のウエイト付けによりますが。

ところで、こちらにいらっしゃる皆さんは、ニセ科学を批判されている方々ですが、mouth_of_madness(隼5郎)さんが感じておられたような蔑みや上から目線的な態度を採ってはおられないと思いますが、いかがでしょうか?

もちろん、時には攻撃的な態度を採る場合もあります。
たとえばゲーム脳などは、他に原因があるかも知れないのに、ゲームに問題行動なりの原因を押し付ける説なのですから、それは結局、状況の改善を阻害する訳です。医療に関わるニセ科学には、一般にそういう性質があるので、説を吹聴している人間は、強く非難されても仕方が無い、と私は思います。
by TAKESAN (2008-12-12 02:34) 

TAKESAN

もう少し書きます。

まず、私達は、意識して「ニセ科学」という語を用います。意味については、菊池誠教授が書かれたもの等をご覧下さい。田部さんが紹介されているwikiも良いでしょう。
※これは、物凄く重要な部分です。

で、ニセ科学=非論理的 ではありません。

ニセ科学とは、ある知識に、「科学の方法によって確認されている事とは異なる」ラベルを貼り付けて流布させたものです。しかもそれは、「科学印」のラベルです。

ですから、実際確認されている事とのズレなどが重要なのであって、ニセ科学だからと言ってそれが即ち「非論理的」とはなりません。

さらに、科学的とは、どういった現象を分析するか、どういう研究方法を用いるか、という部分と関わっている、つまり「手続き」などの文脈が重要なので、それを即「論理」性によって評価する事は出来ません。
つまり、「論理的」=「科学的」ではありません。

------

仮に、ニセ科学を、科学的で無いものと科学的なもの(論理的なものと非論理的なもの、ではありません)を比較して勉強するために用いる事は出来るか、と考えてみると、それは可能でしょう。ですが、ニセ科学というのが、「事実であると誤認させる」性質を持っているのを忘れてはなりません。

たとえば、SFなどで用いられる世界観なんかを見て、これが実際の科学とどう違うか、と見ていくのはありでしょうね。そういう意味では、フィクションを教材として使うのは良いと思います。
ちなみに、菊池教授(と、菊池教授の論に賛同する人々)はそういう場合に、「ニセ科学」では無く「疑似科学」という語を用いておられます。
by TAKESAN (2008-12-12 02:50) 

pooh

> 田部勝也さん

これ、たぶん部活動と云うものを勝つための機能体としてみるか、それとも小さなスケールの共同体としてみるのか、と云うような話のようにも思います。

ぼくはどうしてスポーツ(体育、ではなく)が「教育の一環」として捉えられるのかよく把握していない文化部系のこどもだったので、ちょっと偏見入ってるかも。
by pooh (2008-12-12 07:41) 

pooh

> mouth_of_madness(隼5郎)さん

> 論理的思考をする為にも非論理的思考を見る事が大事なのではないか

一理あるとは思いますが、そこから出られなくなることがままあるんですよねぇ。
ひとの「論理」は、意外と歪んだままでいたりするんですよ。
by pooh (2008-12-12 07:45) 

pooh

> TAKESANさん

その事例、どの事例なんでしょ? いや、べつにいいんですが、最近その話題に入れなくて(^^;

> ニセ科学だからと言ってそれが即ち「非論理的」とはなりません。

> 「論理的」=「科学的」ではありません。

ここですよね。

なんと云うか、人間の内側で(そこだけで)整合する論理と云うのは、整合していても「間違いうる」んです。そうするとそれは論理的であっても共有し得ないものになるわけで。
by pooh (2008-12-12 07:51) 

かも ひろやす

mouth_of_madness(隼5郎)さんが若い人だということがよくわかります。時間を浪費することのコストが視野に入っていらっしゃらないようです。若い人は、時間を低コストな資源だと錯覚しがちなんですよ。

月並みな錯覚でも、錯覚は錯覚です。時間は、特に若い時期の時間は、ものすごく貴重な資源です。失うと取り戻すことはできません。

いったん誤った主張にはまりそこから脱出することは、ものすごいコストのかかる作業です。それによって失った時間は、一生かけても取り戻せません。脱出に成功する確率そのものの低さによるリスクもあるのですが、それを別にしても、時間を浪費することのコストは、人生にとって最大のダメージです。

困ったことに、たいていの人は若くなくなってからそのことに気づくんですね。で、気づいたときには手遅れになっているのです。


by かも ひろやす (2008-12-12 15:52) 

pooh

> かも ひろやすさん

mouth_of_madness(隼5郎)さんが実際においくつぐらいの方なのかはわかりませんが、ぼくもお若い方なんだろうな、と云う気はしてきています。

> 時間を浪費することのコストは、人生にとって最大のダメージです。

もちろんそのコストは必要な場合もあるんでしょうけど。
ただ、強い相対主義や誤った理路での考察は非常に長い迂回路を約束するようなものなので、掛け金としては高くつきますよね。
by pooh (2008-12-12 21:59) 

田部勝也

>poohさん「これ、たぶん部活動と云うものを勝つための機能体としてみるか、それとも小さなスケールの共同体としてみるのか、と云うような話のようにも思います」

おっしゃる通りで、いわゆる体育会系の部活の場合、「もっともチームの勝利に結びつく部活内体制」を考えると、私が上で書いたような「先輩-後輩関係」というのに行き着く事が多いんですよね。自然にそうなってしまうんですよ。
子どもは練習した分だけ上手くなりますから、当然「もっと上手くなりたい」「試合にも出てみたい」「試合に勝ちたい」と思うようになるわけです(っていうか、そういう気持ちにさせないで、ただ楽しく仲良く活動させるだけの指導者がいたら、そのノウハウをとっても知りたいです。皮肉ではなく)。そういうふうに部員たちに各自それぞれのレベルや思いの強さで目標・目的意識が芽生えると、部員間でいろんな問題や衝突が起きて、顧問絶対主義体制を敷くのでなければ、子どもたちの人間関係対処能力に応じて、いろんな部活内体制が生じるわけです(私の経験では、強い一部の子による専制体制とか、学年ごとや仲良しグループごとの完全バラバラ体制とか、完全平等民主主義体制とか)。でも、やっぱり経験上、上に書いたような「先輩-後輩関係」体制が一番チームとして上手くいくし、戦績も圧倒的に良いんですよね。で、一度そういった「先輩-後輩」体制が築かれると、その先輩を見てきた後輩たちによって、翌年以降もそれが「伝統」として受け継がれ洗練(ないし堕落・腐敗)されていく――という感じでしょうか。
たぶん、あちこちの部活で(運動部に限らず、吹奏楽部や演劇部などで全国大会を目指すような文化部でも)、そういう事が独立に再発見されていったのではないでしょうか。
……まぁ、あくまで経験上の話でしかないのですけど、それ以外の体制でうまくいったという話は、私はほとんど聞いた事がないです。そういう意味も含めて上のコメントでは「いわゆる体育会系と言われる一部のメジャースポーツの部活では、(中略)ノウハウが(良くも悪くも)蓄積されているので」と書きました。

――で、poohさんが指摘されているように、それを「小さなスケールの共同体」として見た場合、子どもたちにとって、これから巣立っていく事になるスケールの共同体における望ましい構成員たる訓練・教育になっているのかどうか――という点については、さまざまな批判・非難は当然あると思います。

このような「先輩-後輩関係」が子どもたちの人間としての成長にある程度の寄与を果たしているはずだ――という気持ちは、そういう指導に関わった当事者として当然あるわけですけど、やっぱり繰り返しになりますけど、本当のあるべき姿とはどういうものか――というのは、私の中では結論の出ない問題です。「答えは出た」として思考停止に陥ったりしてはならない問題だと思っています……まぁ、私はすでに教育現場からは離れているので、直接寄与できる事はあまりないのですけど。
by 田部勝也 (2008-12-13 01:08) 

田部勝也

……そんなわけで、言わずもがなの事だとは思いますけど、一応念のため。

>poohさん「ぼくはどうしてスポーツ(体育、ではなく)が「教育の一環」として捉えられるのかよく把握していない文化部系のこどもだったので、ちょっと偏見入ってるかも」

スポーツの指導者でも、スポーツ自体(たとえば、正しいフォアドライブの打ち方を身につけるとか、より強烈な回転のサーブを出せるようになるとか)だけを「教育の一環」と捉えている人は少ないと思います。
by 田部勝也 (2008-12-13 01:17) 

mouth_of_madness(隼5郎)

加齢臭出てくる年頃のオッサンですよ。まぁ青臭いですけどね。

僕は間違ったルートを通り浪費する事が無駄に思えません。其処から何も得なければ確かに無駄かもしれませんが。大概の経験は何かを得ると僕は思うのです。

人生はこの時間で此処まで行かないと駄目というようなモノでも無いと思いますし。自分で何処まで行きたいのかは自分で決めていいのですから、途中下車もOKだし。他人と比べる様なモノでもないでしょう。

更に誤った理路が迂回ルートになるとも限りません。

生活の為の労働という最大の浪費に比べれば間違った知識での迂回など大した事ではないと僕は思います。


by mouth_of_madness(隼5郎) (2008-12-13 01:27) 

TAKESAN

mouth_of_madness(隼5郎)さんは、具体的な所を見ておられませんね。

何事も解釈次第では学習の機会になる、というのは一般論として正しく、そして、ただ一般論として正しいだけです。

間違った知識によって強く傷付く人がいたり、あるいは命に関わる大事になったりする、という所に想像はいきませんか?
by TAKESAN (2008-12-13 02:29) 

mouth_of_madness(隼5郎)

>TAKESANさん

以前に書いた文で健康被害の事とか懐にやさしくない(詐欺的な意味で書いたつもりです)有害な面があるという事は認識していると表明しいるつもりですが。それでは駄目ですか?伝わらなかったのならばスミマセン。

危険性があるからといってそれを排除するという考えは行き過ぎるとそれこそが危険であると僕は考えます。

危険性だけいったら疑似科学よりテレビ報道等、ネットの方が余程有害です。疑似科学の思考汚染はテレビやネットによる思想汚染の方が遥かに危険性が高いと思うのですが?どうでしょうか。

論点のすり替えみたいになってしまいましたが。


by mouth_of_madness(隼5郎) (2008-12-13 03:04) 

田部勝也

言いたい事はTAKESANさんと(たぶん)同じなんですけど……。

>mouth_of_madness(隼5郎)さん「人生はこの時間で此処まで行かないと駄目というようなモノでも無いと思いますし。自分で何処まで行きたいのかは自分で決めていいのですから、途中下車もOKだし。他人と比べる様なモノでもないでしょう」

誰もが社会の中で生きているという事に、もう少し想像を巡らせてもらっても良いと思うのですよ。
「何処まで行きたいのか」を決められるのは確かに本人だけですけど、行き先が「ゲーム脳」や「ホメオパシー」や「EM菌」では、社会全体が(これから生まれてくるすべての人たちも含めて)本当に困るんです。
「人生はこの時間で此処まで行かないと駄目」というのを押しつける事はできませんけど、成人しても「七田式」や「水からの伝言」や「血液型性格判断」から一歩も踏み出せないようでは、社会全体が(これから生まれてくるすべての人たちも含めて)大変な尻ぬぐいをさせられるはめになるんです。

何度もリンクを張っていますけど、『ニセ科学批判まとめ %作成中』の「ありがちな不毛な議論-ほっておけばいいじゃん」(↓)
http://www39.atwiki.jp/cactus2/pages/13.html#id_e462cb8e
から、リンクを張るだけでは読んでくれないようなので、以下引用。
--------------------
他人に対して一切何の影響力も持たない人がいたとしたら,その人が何を信じようがその人の勝手で放っておけばいいだろう.しかし「他人に対して一切何の影響力も持たない人」なんているだろうか?
--------------------

>mouth_of_madness(隼5郎)さん「生活の為の労働という最大の浪費に比べれば間違った知識での迂回など大した事ではないと僕は思います」

間違った知識での迂回をしてしまった本人がそう思うのは勝手ですし、むしろ現実から目を背けてそのまま間違った道を突き進まれるよりは、そのように迂回した事を前向きに捉えて成長の糧とするのは、とても素晴らしい事だと思います。
思いますけど、一方で、そのような迂回をする事を奨励したり肯定したりする事で、そのような迂回をする人が実際に出るかも知れない事、さらに、そのような迂回をする人が周りの人たちや社会にどれだけ迷惑・不利益を被らせる事になるのかに思いを馳せても、バチは当たらないと思うのですよ。
by 田部勝也 (2008-12-13 03:21) 

田部勝也

>mouth_of_madness(隼5郎)さん「危険性があるからといってそれを排除するという考えは行き過ぎるとそれこそが危険であると僕は考えます」

いわゆる「ニセ科学批判」はその点について非常に慎重で、だからこそ、自ら「ニセ科学=科学でないのに科学を装っているモノ」だけを批判対象としているわけです。その事で「危険性がある(と私が判断した)モノは問答無用で断固排除する」という「善意で敷き詰められた地獄への道」を辿らないように自己規制しているわけですね。
『ニセ科学批判まとめ %作成中』の「相対主義の悪用・誤用」(↓)
http://www39.atwiki.jp/cactus2/pages/13.html#id_7fe26bf5
および、『ニセ科学批判まとめ %作成中』の「悩ましい問題-善意でニセ科学を広める人」(↓)参照。
http://www39.atwiki.jp/cactus2/pages/20.html

>mouth_of_madness(隼5郎)さん「疑似科学の思考汚染はテレビやネットによる思想汚染の方が遥かに危険性が高いと思うのですが?」

自らおっしゃる通り論点のすり替えです。
『ニセ科学批判まとめ %作成中』の「そんなやり方じゃダメだよ…"批判の仕方"批判-もっと他に大事なことがある」(↓)参照。
http://www39.atwiki.jp/cactus2/pages/13.html#id_346a758f
by 田部勝也 (2008-12-13 03:45) 

TAKA

「見下されると我慢出来ない人」になって、考えてみました。

黙って観察していた賢者の主張その一:
「相手が全く話を聞こうとしない未熟者の馬鹿だからといって、途中で対話を放棄しては成らない。新しい知識を得たいと思って議論を見守る聴衆の期待を、裏切る行為である。」

見下されたと感じてムッとする私:
「世界観が違う者同士の議論に、何を期待しているのか?『それまでの議論が無駄になるから残念』と思う者は、議論に直接参加して相手を納得させよ」

賢者の主張その二:
「一概に、疑似科学は有害とは言えない。間違った主張をする者を観察することにより、己の論理的思考を効率的に訓練することも出来る。」

やはり見下されたと感じて反論する私:
「それはある程度、経験を積んだ隠居の戯言である。賢者修行中の若者の場合、単なる時間の無駄使いとなる。特にガッカリな思考の私の場合、浮かれた足取りでトンチンカンな脇道に突き進んで終了」

我慢して対話を続ける賢者:
「賢者修行中の若者たちは、疑似科学を否定したいために正しい科学を学んでいるのだ。学問の入り口として最適である。」
若干飽きてきた私:
「そもそも、あなたとは世界観が違う。思考形態が違う者のルールでいくら説明されても『はぁ?聞こえませんなぁ』の私には、到底納得できない」

導こうとする賢者:
「あなたも一度、誰かを批判してみてはどうか。具体的な行動こそ、賢者への第一歩である。今の状況にしがみつき、己の脳内に住む仮想相手を叩いていても、時間を浪費するだけだ。更なる成長は望めない。」

理解を怖がる私:
「それは出来ない。具体的に行動すれば、直ちに批判が跳ね返る。それより『後からどうにでも解釈できる自分勝手な印象論』を語る事で、私は優越感を得たい。賢者の修行を放棄した私にとって、この『上から目線』こそが、残り少ない人生の灯火なのである。」

賢者:
「絶望した。世の中には私の知らない思考形態があることを新発見したけれど、対話を試みた結果徒労感しか残らないことに対して、絶望した。この上は、再び修行の旅に出掛ける事を、私は潔しとしよう。」(完)

未来の子供に笑われる可能性は有るけれど、私にも出来そうな気がしますね。安全地帯からの、中身の無いお気楽な論評ならば。
____________
>poohさん
>ニュートンは笑われてませんよ? 子供にも、物理学者にも

これに関して私は、こう考えています。
昔の賢者たちは、「その時点で得られる最大の知見」で世界の把握に努めていたのだと。
「大地が亀の甲羅で出来ている?己の尻尾を飲み込む宇宙規模の蛇が居た?ははは、幼稚な世界観ですこと?(^-^」
などと呑気に私がコメントしていたら、現代のお子様たちから早速冷静なツッコミを貰うことでしょう。
科学史に詳しい現代っ子たち:
「お疲れさま。過去の科学を現代科学の立場から安易に笑う認識不足をネット上に披露するお気楽振りをブログの読者にわざわざ示したことに対して、お疲れさま。」

怠惰な思考の私が数千年前に生まれていたとしたら、今に名を残す賢者のような思索の世界を築くどころでは無かったと、想像する次第です。
by TAKA (2008-12-13 05:18) 

pooh

> 田部勝也さん

いやまぁぼくは幼少時の体験から若干の体育会系への偏見があるんですけどね。

たぶん規定の目的に向かって最大の効果を発揮する機能体、と云うのはそのとるべき様態は似て来るのでしょうし、そうするとまぁ部活動と(多くの場合長幼を機軸にヒエラルキーを形成してきた)伝統的な共同体がプラクティスを共有する結果になるのは自然なんでしょう。

で、教育の目的をそのプラクティスの適用と再生産、と捉えた場合には、まぁ合致するだろうな、と云う気はします。
by pooh (2008-12-13 08:30) 

pooh

> mouth_of_madness(隼5郎)さん

> 大概の経験は何かを得ると僕は思うのです。

いつかは、得られるかもしれません。その前に、いろいろなかたちでの破滅が訪れることがあるかもしれませんが。そして、ぼくは(mouth_of_madness(隼5郎)さんを含め)そう云うことになるひとが少なければ少ないほうがいいと思います。

既存の理路、と云うのは、さまざまな体験をした先人が積み重ねたものです。それが目の前に、利用可能な状態で転がっている。それを活用しないで同じところにまでたどり着けるほど、例えばぼくみたいな凡人は長大な寿命を持っていません。そう云う話です。

> 危険性だけいったら疑似科学よりテレビ報道等、ネットの方が余程有害です。

自覚はおありのようですが、これはほんとうに論点のすりかえです。で、論点のすりかえは真摯に議論してくる相手に対して失礼な行為です。
by pooh (2008-12-13 08:37) 

pooh

> TAKESANさん

レイヤーの混同、と云うのは避けがたいですよね。ぼくも自覚を新たにします。
by pooh (2008-12-13 08:39) 

pooh

> 田部勝也さん

ありゃ、上のmouth_of_madness(隼5郎)さんへのコメント、田部さんと被っちゃった。
by pooh (2008-12-13 08:41) 

pooh

> TAKAさん

それでもつねに真摯な対話は、それに向き合うものの姿勢が維持されれば、おおむねは有意義なものであって。

> 昔の賢者たちは、「その時点で得られる最大の知見」で世界の把握に努めていたのだと。

このことには同意です。で、「いまの賢者」もそうです。最大の知見、と云うのは固定したものではなく、いまも探し続けられているわけですから。
by pooh (2008-12-13 08:45) 

技術開発者

こんにちは、皆さん。

なんていうか、最近、若い人と社会情勢について議論しましてね。なんていうか、すごく「知る」という事から「動く」という事までの距離を短く認識されている感じを受けたんですね。というか「動く」という事を非常に能動的にイメージして、そのしんどさを考えることで「知る」ことすら拒絶して仕舞う感じですかね。まあ、私の方としては社会情勢を理論的に解析した結果を話しているのは「とりあえず、どう動くかは先の話にしておいて良いから、少しだけ広い視点で社会を見てくれないか」というつもりで情勢解析を話しているだけなんですが、なんか受け取る方が「そんな知識を持ったら、自分も色々活動しなくてはならなくなるから、話さないでくれ」みたいな感じなんですね。

なんていうかな、ニセ科学批判を聞いたからと言って、あちこちでニセ科学の話題が出る度に「それはニセだ」なんて言ってくれる事なんて期待はしちゃあ居ないわけです。もちろんそういう人が出てきてくれる方が嬉しいけど、「やってくれ」なんて言えるものじゃないでしょ。ニセ科学批判を聞いた人が、ニセ科学の話題で盛り上がる雑談に加わらないで居てくれる程度でかまわない訳です。それだって「知る」という事からおこる「行動」なんですね。それまでは「血液型がこうだから、性格がこうで」と盛り上がるときに自分も「僕は何々型だからこうで」と一緒に盛り上がっていたのが、自分がそれを言わなく成るだけでも充分に知識が行動と結びついている訳です。

なんて言うかな、若い人に社会情勢の解析をお話したかったのだって、何も短急に「今の社会をぶっつぶせ」なんてやらせようというほど恐ろしい話をする気はなくて、皆が最近しょっちゅう言っている「この情勢なら仕方ないよね」を少しでも減らしてくれれば良いなんて意識で説明しようとしてたんだけどね。

前に「特急列車のレイプ事件」で「周りの人が見て見ぬふりをしたのが許せない」と怒っておられる主婦の方に「あなたはご長男さんに『お前は止めに入るんだぞ』って教育できますか?」なんてとても意地悪な質問を投げかけて悩ましてしまった話をしたけど、それとつながっている話のような気もするのね。「止めに入れ」なんてとてもじゃないけど私だって子供に教えられないし、自分だって止めに入れるかどうか疑問です。でもね、やはり「そう言うときに止めに入る人は偉いよね」みたいな雰囲気を作っていくことくらいなら、誰でもできるのね。そういう雰囲気が社会にあれば、止めに入る人間も出てくる訳です。

by 技術開発者 (2008-12-15 11:47) 

pooh

> 技術開発者さん

こう、基本は「考え方」のレベルの話だと思うんですね。どこまで考えるか、実際にどこまで行動するか、と云うのは個人個人の動機にもよるわけで、もちろん誰にも強要なんてできませんし。

結局ぼくもネットの上で言説を放流することしかしてないし、非才非力の身としてはそれだけでそれなりにあっぷあっぷでせいいっぱいだったりするわけで。それでも、それが届くこともあるし、届いていれば例えば直接的にニセ科学に対して行動を起こさざるを得ない状況に追い込まれたりした場合に(具体例は挙げませんが何度も書いてきました)いくらかでも役に立つ「考え方」を提示できればもっけの幸い、と云うくらいのもので。

ただ、「聞いておいて損はないよ」と云う程度のことでも、自分の動機として意義を認めている、と云うようなことだったりします。
by pooh (2008-12-15 22:04) 

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